小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

ダンディズムの和語の語源

2006-09-26 17:04:32 | 小説
 ダンディズムは日本語では「伊達」にあたる。偶然だが語感もちょっと似ている。例えば『新潮現代国語辞典』で「だて(伊達)」の項を見ると「派手な振舞いをして、殊更に人目をひこうとすること。意気・侠気を競うこと」とある。

 文禄元年3月、肥前名護屋をめざして京都を出発した伊達政宗の軍勢3000人は、街路にあふれた群集たちにどよめきの声を上げさせた。まさにきらびやかで派手だったのである。
 各足軽の具足は黒塗りで前後に金星をつけ、刀、脇差の鞘は銀と朱に塗り、笠は三尺に及ぶ金のとがり笠。馬上侍の母衣(ほろ)も黒色で金の半月印をつけ、黄金色の太刀小刀を帯び、馬にはそれぞれ豹、虎、熊の皮、孔雀の尾などの馬鎧がかけられていた。
 朝鮮出兵のための出陣で、一番手に前田利家、二番手に徳川家康の軍勢が行進した。都のひとびとがあっと息をおんで、それから歓声をあげたのは三番手の伊達の軍勢を目にしてからであった。『伊達治家記録』は書いている。
「京の町衆たちは(略)伊達勢を見ると、声々に褒美賛嘆して、人の言語も聞得ざる体なり。京童の諺に、伊達者と云ひ習はし、これよりして、伊達をすると云ふ詞(ことば)は始まれりと云ふ」
 さて、言語学者はこの語源説を否定している。しかし、この言葉がダンディズムのニュアンスではやり始めたのが、この文禄年間からとすれば語源として誤りと決めつけることもないような気がする。
 ダンディズムをつらぬいたのが伊達政宗であり、伊達者だったのである。

独眼龍の歌  完

2006-09-25 22:23:43 | 小説
『徳川実記』は幕府の正史であるが、政宗の死んだ二日後の記事で、彼は武勇の士であったと同時に、風雅な武士であったとその死を悼み、政宗のある漢詩を紹介している。編纂者はよほど気にいったとみえて、たいへん優れた詩である、と付け加えている。「馬上少年過」で始まる詩だ。

 馬上の少年は過ぐ
 世は平らかにして白髪多し
 残躯天の赦すところ
 楽しまずして是れ如何にせん

 詩の中の「少年」とニュアンスは異なるけれど、白髪の老年になってなお政宗は少年のような心を持っていたように思われる。
 それにしても「残躯天の赦すところ」とは、なんという自負だろう。残躯を天に恥じるような生き方しかできない凡人には、いささか羨ましい言葉だ。
 政宗の遺骸は江戸桜田藩邸から仙台まで運ばれたが、霊柩が通過するすべての場所の藩主が弔意を表している。驚くべきは幕府のとった措置である。江戸では七日間、京では三日間、それぞれ魚鳥を捕えることと音曲を奏でることが禁止されたのであった。
 
 諸人は薄花染めのきぬぎぬとうらみ顔にや帰るかりがね

 北国に帰る雁のように、死せる独眼龍政宗は母の眠る仙台まで帰っていった。


独眼龍の歌  6

2006-09-24 15:52:33 | 小説
 伊達政宗は食道噴門癌による癌性腹膜炎で死んだとみなされている。症状が記録に残されているところからの現代の専門家の診断である。食後むせびがちだったとか、食事が喉を通らなくなって痩せ衰えたなどの症状の進行が伝えられているのだ。政宗自身、死期の迫ったことを悟って身辺を整理し、従容として死に臨んだのであった。
 その政宗の辞世の歌と、かって母の訃報に接したときに詠んだ歌をあらためて並べてみよう。

 立ち去りて浮世の闇を遁れなば心の月やなほも曇らじ

 曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照らしてぞ行く

 この二つの歌に13年の歳月の隔たりががあるのが不思議と思えるほどだ。「浮世の闇」と「心の月」、キーワードはまったく同じなのである。
 母と同じように「浮世の闇」の俗界におさらばすれば、悲しみに心が暗くなることもないだろうに、と母の死を嘆いたのが最初の歌。「心の月」は曇りがちだったのである。ところが辞世の歌では「曇りなき心の月」となっている。なぜか。やっと、亡き母のもとに行けるからである。政宗は死の前月、工なった母の菩提寺に詣でている。そしてホトトギスを聞きに近くの山道を歩き、経ヶ峰に到って、ここを自分の墓所にせよ、と指示している。母の菩提寺の近くに自らの墓所を探していたのであろう。
 政宗の辞世の歌は母への慕情の歌でもあったのだ。

独眼龍の歌  5

2006-09-23 19:37:41 | 小説
 母を追悼した政宗の歌はほかにもある。

 1)たち去りて浮世の闇を遁(のが)れなば心の月や なほも曇らじ
 2)わたつみに分入りしより垂乳女の仏となれぬ法の花かも
 3)先だつも残るも同じ道ながらもろき柞(ははそ)のなげき数かず

 3の歌の「柞」はコナラやクヌギの雑木のことであるが、「柞葉」は「母」の枕詞である。政宗の和歌に関する造詣の深さのうかがい知れる言葉使いだ。
 1の歌は訃報に接したときに詠んだ歌。2は母の弔いとして法華八軸をおくられた西洞院宰相への返歌。3も哀悼の歌への返歌である。
 私にはむしろ母に溺愛されていたのは、弟ではなく政宗ではなかったのかと思われる。疱瘡で片目を失ったわが子をうとんじる母性のあるはずはない。不憫で、いっそ溺愛するのがふつうではないのか。政宗の歌には、いわゆるマザコン的な匂いすらするのが、なによりの証拠ではないだろうか。奥羽の覇者で高名な武将が、よくなんのてらいももなくこんな歌が詠めるものだと思ってしまうのである。
 とりわけ注目すべきは1の歌である。このときから13年後に、この歌と呼応するかのような歌を政宗は詠んでいる。

  曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照らしてぞ行く

 この歌、政宗の辞世の歌であった。

独眼龍の歌  4

2006-09-22 13:49:51 | 小説
 弟のことがあったのち、実は母は4年以上も政宗のもとにいたという史料(虎哉宗乙の手紙)が発見されている。その日のうちに逃げたというのは誤りなのだ。その4年の間には、政宗の朝鮮出兵参加があった。母は政宗に衣類その他を送ったり、政宗は政宗で留守中の母の健康を気遣う手紙を残している。母子の情愛になんのかげりもないのである。毒殺をはかったのが母ならば、こうはいかないだろう。
 弟を溺愛し、政宗をうとんじたという義姫の鬼母的イメージは作り物のように思われる。
 母の保春院義姫は 元和9年(1623年)7月に死んだ。ちなみに徳川家光が将軍になった月である。77才の長寿をまっとうしたのだが、京で訃報を聞いた政宗はこんな歌を詠んだ。
  鳴く虫の声を争ふ悲しみも涙の露ぞ袖にひまなき
 政宗は泣いたのである。涙をぬぐう袖の乾くひまもなく泣いた、と詠ったのである。
 かって年老いた母の屋敷を新築したおりに詠んだ政宗の歌がある。「年月久しうへだたりける母にあひて」と添え書きのある歌だ。
  あひあひて心のほどや たらちねの
          ゆくすゑひさし千とせふるとも 
 千年でも生きて欲しいと願った母なのであった。母の返歌もある。
  双葉よりうゑし小松のこだかくも
          枝をかさねていく千世のやど
 母と子の絆はしっかりと情愛に結ばれているではないか。

独眼龍の歌  3

2006-09-21 22:17:51 | 小説
 通説では、政宗は疱瘡を患ってからは母からも疎まれ、とりわけ弟が誕生してからは、母の愛はもっぱら弟に注がれた、ということになっている。
 さらに政宗が24才のとき、母は彼を毒殺しようとした、と一般に信じられている。久しぶりに母の饗応に招かれて、膳に箸をつけたら、激しい腹痛に襲われ、解毒剤を飲んで一命を取り留めたという話。あるいは供の者が毒味をしたら吐血して絶息しという話。いずれにせよ、母の用意したご馳走に毒の盛られていたことが発覚したのは事実であろう。弟を溺愛した母の保春院(義姫)が、政宗を殺害して弟の擁立をはかろうとした、というのがこれまでの通説である。政宗はまだ元服して2年しか経っていない幼い弟を、自ら斬殺したのであった。
 おそらく通説は弟を斬殺したことから逆向きに類推したデッチ上げのように思われる。
 毒殺を企図した人物は母の兄の最上義光であろう。政宗を排除し、幼い甥の方を擁立して実権を握ろうとしたはずだ。この時期、政宗は秀吉の怒りに触れていたから、政宗殺害はむしろ伊達家安泰のためやむをえないと考える家臣たちもいた。だからこそ、政宗は伊達家がふたつに割れるのを懸念し、はやばやと、あえて弟を斬ったのである。
 弟を斬った日、母は兄の義光を頼って山形に逃れた、やっぱり、というのがこれまでの説。
 ところが事実は違っている。母は逃げてはいなかった。逃げる必要がなかった、というのが本当の話だ。

独眼龍の歌  2

2006-09-19 22:20:43 | 小説
 たぶん梵天丸が10才前後のことである。この陰鬱な少年が珍しく荒れた。
 脇差を抜いて、近臣たちに迫ったのである。
「誰ぞ」と梵天丸は叫んだ「余のこの眼玉を刺しつぶせ」
 若殿の顔に刃物を向けることなど誰もできるはずはなかった。ただうろたえる近臣たちの中に、悲しげな目でひたと梵天丸を見つめる近侍がいた。小十郎という梵天丸より10才年長の小姓だった。
「なぜに、若殿」
 小十郎の目はすでに潤んでいたが、その目を梵天丸の片目がとらえた。
「余の眼玉は龍のものじゃ。こんなうつろな眼玉はあるほうがおかしい」
 白く飛び出た眼球の醜さが、梵天丸の劣等感の全てだった。
「つぶしてくれい」
 梵天丸の言葉は悲鳴に近かった。
 小十郎はつつと膝を進めた。
「若殿、ごめん」
 梵天丸を横抱きにして、頭を腕で巻くようにし、一瞬のうちに小刀で、その右目を衝いた。そしてえぐりとった。
 それから、ひしと抱き合うようにして、この主従はともに体を震わせて泣いたのであった。
 すさまじいのは、小十郎の覚悟のほどである。そして、彼が潰したのは、眼球だけではなかった。梵天丸の劣等意識を潰したのである。龍はあるいは小十郎のことであったかもしれない。
 片倉小十郎景綱、米沢八幡宮の神職の子で、もとは梵天丸の父の小姓であったが、その性格を見込まれて若殿の近侍となっていた。これ以後、ぴたりと政宗に寄り添い伊達家重臣となる。「天下の陪臣」と称されるのもむべなるかなである。

独眼龍の歌  1

2006-09-18 21:10:42 | 小説
 黒沼に棲む魚は片目だとささやかれていた。隻眼の上人満海が黒沼のほとりで修行し、垢離(こり)をとったからであろうと伝えられている。その満海の生まれかわりとされた子供がいた。なぜなら、その子も隻眼であったからである。しかし、彼が片目になったのは5才のときであるから、その誕生時点において満海の生まれかわりとささやかれたわけはないだろう。(注)
 永禄10年(1567年)に武門の子として生れた彼の右目は、5才のときに疱瘡(天然痘)によって視力を失った。むなしく飛び出た眼球、おそらく痘瘡のために顔面にあばたも生じ、容貌は一変した。羞らいがちな暗い子供であったといわれるが、この少年の屈折した心理は想像にかたくない。
「将器にあらず」と嘆く家臣もいたらしいが、この隻眼の少年が智謀の武将に成育し、奥羽の覇者となるのだった。伊達政宗である。
 正宗の幼名を梵天丸という。6才のとき、今日的にいえば家庭教師がついた。臨済宗の傑僧、虎哉宗乙(こさいそういつ)禅師である。
「若殿の片目は」と禅師が言った。「龍が雲を呼び、天に持っていったのでござる。龍は若殿が強い大将になられるよう、天上から見守っているのでござりまする」

(注)政宗が生れたとき左手に満海という字を握っていたという伝説がある。

曽我兄弟の仇討 完

2006-09-14 11:07:17 | 小説
 頼朝は兄弟の夢をよく見たという伝承がある。ときの権力者も兄弟の瞋恚執心には悩まされたものとみえる。悩まされたのは頼朝ばかりではない。仇討の現場となった冨士の裾野に兄弟の亡霊が出るという噂が立った。
 亡霊は、あるときは「十郎祐成」となのり、あるときは「五郎時致」となのった。ひと気のないはずの野原に昼間、あるいは夜、戦う音がきこえることがあった。そこにたまたま行き合わせた者は死ぬか気が狂うかした。
 噂を耳にした頼朝は「ようぎゃう」という上人から、兄弟を神としてまつり、怨念をしずめろとアドバイスをうける。現存する神社、静岡県吉原市今泉の曽我神社、あるいは富士市の曽我八幡宮はともに頼朝の命をうけて創建されたと伝えられているらしい。
 ところで上人の「ようぎゃう」という人物のことがよくわからない。固有名詞ではなく、「遊行」僧のことかもしれない。「ゆぎょう」と「ようぎゃう」は音がよく似ている。
 曽我物語の語り部は、遊行の者たちであったということは前にも記した。十郎の死後、尼になって各地を巡った遊女虎は西国にまで足を伸ばしていた。四国の土佐の片田舎にまで曽我神社のあるのは、彼女たちの影響であろう。
 晩年の虎も十郎の幻を見た。夕暮れだった。御堂の大門に立ってぼんやりしていたら、そこに十郎があらわれた。ああ、と心のうちで叫びながら駆け寄ったのだが、十郎は消えた。十郎と見えたのは斜めに下がった桜の小枝だった。虎は幻にしがみつこうとして倒れ、それがもとで死んだ。
『曽我物語』は十郎の恋人、虎の死で終るのである。

曽我兄弟の仇討 19

2006-09-12 16:18:05 | 小説
 さてところで曽我兄弟には弟がいた。御房(おんぼう)という。父の喪中に生れて、叔父の伊東九郎が引き取って養育したので、十郎や五郎と一緒に育ったわけではない。越後の国の国上寺で法師となって、伊東禅師と称し18才だった。この末弟に頼朝の手がのびた。使いをやって鎌倉に呼びつけたのである。仇討の翌月の6月のことである。
 すると伊東禅師は、刀を脇腹に突きさして自害をはかるのあった。寺の不名誉になってはいけないとの思いからである。僧房の同輩たちに取り押さえられ命はとりとめたが、そのまま鎌倉に運ばれてしまう。
 彼と対面した頼朝はいう。
「なんじが眼差しをみるに、頼朝に意趣ありと見えるが」
 禅師は頼朝をにらみつけながら言い放つ。
「われらが先祖の敵、または兄弟の敵にて候」
 頼朝はふと話題を変えて、
「その傷でも助かると思うか、そう思うなら助けてやるが」
 禅師はからからと笑う。
「とても生きられますまい。急ぎ首を召され候」
 この男もまた頼朝にこびへつらうことはしないのであった。頼朝は「剛なる者の孫は剛である」と感じ入るが、結局は禅師の首をはねた。
 兄弟とはいえ他人同様の身になっている弟、しかも出家しているものを詮議の対象としたのは、仇討の背景にあるものを探ろうとした頼朝の猜疑心にほかならない。けれども頼朝は兄弟たちの血の怨念以上のものをひだすことができなかった。それどころか、ひとりとして見苦しい振る舞いのなかった兄弟三人を「勇士」と頼朝は称えざるをえなかった。
 頼朝の猜疑心というフィルターをすりぬけているから、私は兄弟の仇討は純粋に兄弟の行動の所産として、そこに陰謀のにおいを感じないのである。ほかの事件と絡めたくないのである。

曽我兄弟の仇討 18

2006-09-09 16:31:39 | 小説
 仇討のあとで生け捕りになった五郎と、彼を訊問した頼朝とのやりとりがある。
「祐経は敵なれば仕方ないとして、なぜに罪もない頼朝の多くの家来を切らねばならなかったのか」
 と頼朝は訊く。五郎の答えはこうだ。
「他の者を誰も殺そうと思ってはおりませんでした。ただ、追いざまに切りつけたのみで、致命傷をうけたものは少ないはずです。お調べになればわかるはずです」
 実際に調べてみると五郎のいうとおりだった。意訳しているが、『曽我物語』に記されているやりとりだ。先の死傷者の数とおおいに矛盾する話ではないか。おそらく、こちらのほうが事実に近いのである。あれほどの死傷者を出せば五郎の訊問がただですむわけはない。
 頼朝は「頼朝を敵と思うか」とも五郎に訊いている。兄弟の祖父の一件があるからだ。「もとより」と答えて、五郎は臆するところがなかった。祖父を自殺に追いやったのは頼朝であり、伊藤家の没落によって兄弟は不遇をかこったのだから、怨まないわけがありましょうか、と五郎はいったのである。この悪びれない五郎の態度に頼朝はむしろ感じ入った。敵に捕らわれても、こびへつらわないこのような者こそ家来にしたいとまで洩らすのであった。ともあれ頼朝は兄弟の背景に黒幕の存在などまったく感じとっていないのである。
 たしかに、奇妙な暗合はあった。兄弟の仇討の直後の8月、頼朝の実弟範頼が突然謀反の嫌疑で伊豆に流され、護送途中に祐経の弟らによって殺されている。その数日後には相模の御家人大庭景義、岡崎義実がこれも突然出家している。自発的ではなく、どうやら鎌倉追放という意味合いの「出家」であったらしい。
 仇討と軌を一にして、なにやら不穏な動きのあったことは確かである。

曽我兄弟の仇討 17

2006-09-04 22:02:03 | 小説
 あの討入りの雨の夜、兄弟は50余人を切り、380余人を負傷させたと『曽我物語』は書く。死傷者の数に謎が残るが、ともあれ兄弟の奮戦ぶりは壮絶だった。兄の十郎は血と汗でぬるぬるになった手で刀を握っていたが、ついに新田四郎との斬り合いで力尽きた。膝とひじを切られ、犬のように四つ這いになって、「五郎、どこだ」と弟を呼び、「死出の山で待っているぞ」と言って絶命した。
 この十郎の相手の新田四郎は北条時政の親衛隊のひとりであった。であるから十郎は時政の宿所に突っ込んでいったのでは、と推理したのが作家の永井路子氏である。兄弟は自分たちを臣下扱いする時政に「激しい不満」を抱いていたからだというのである。しかし、時政はかりにも五郎の烏帽子親である。親の敵を討ちに行って、烏帽子親をも討っては、おかしな話になりはしないか。
 ただし、兄弟の敵討ちに便乗するようにして、別の事件が起きていた可能性を指摘する論者は永井氏ばかりではない。反北条、あるいは反頼朝のクーデターがあった、という史家もいる。なるほど、兄弟ふたりが負わせたにしては、死傷者の数は多すぎる。別の者たちが闇に紛れて動いていたかもしれない。しかし、それはクーデターというほどの大げさなものではないだろう。
 すくなくとも『曽我物語』からは、クーデターの企てをあぶりだすようなことはできない。死傷者の数も、物語的な誇張であると私は見なしている。

曽我兄弟の仇討 16

2006-09-03 12:29:53 | 小説
 頼朝が死に臨んで、畠山重忠に子孫守護のことを頼んだという話がある。主従の信頼関係を強調する話であるが、この通説はすこぶるあやしい。重忠は頼朝の子孫を守らなかった。あるいは守れなかったからだ。
 頼朝の子、源頼家が修善寺に幽閉されたとき、重忠は何をしたのか。何もしなかった。というより、頼家の舅の比企能員と一族の討伐に率先して功績のあったのは、ほかならぬ重忠であった。もしもほんとうに重忠が頼朝から「息子たちを頼む」と遺言されていたら、彼の性格からして、こんな真似はしなかったはずだ。それこそ身命を賭して頼家を守ったであろう。
 ところで重忠は、妻の父である北条時政によって、やはり「謀反人」として討たれた。武蔵の国二俣川で北条軍数万騎に襲われるのである。対する重忠軍130騎。ほとんど戦にならない戦力差があるのに、激闘4時間余。なんという戦だろう。勝った北条軍の指揮者のほうが、むしろ泣いた。重忠の謀反が無実であるということは、130騎という軍勢の少なさで、最初から分かってもいたのだった。
 重忠のことに寄り道して、曽我兄弟のことを忘れたわけではない。重忠が北条時政に討たれたということを明記して、時政と曽我兄弟の関係に話を移そう。
 実はあの仇討の夜、曽我兄弟は北条時政の宿舎をも狙ったのではないかという説がある。曽我五郎時致の「時」は時政の「時」にちなみ、時政は五郎の元服時の烏帽子親だった。その北条時政を、なぜ兄弟は狙うのか。