小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

荒木又右衛門の謎  完

2006-12-31 18:14:32 | 小説
 一般に頓死とされているが、毒殺説もある。偶然だが、さきほど観ていたTVドラマ(時代劇アンコール「天下騒乱~徳川三代の陰謀」)では村上弘明扮する荒木又右衛門は、なんと自ら切腹していた。彼にそれとなく自裁を慫慂したのは、鳥取藩家老の荒尾修理ということになっていた。
 荒尾修理が荒木の頓死を演出したと書くのは、三田村鳶魚であった。「伝説では、荒尾修理が郡山への対応によって、荒木を引留めておけない。それでも鳥取侯がいたく惜しまれるので、頓死として郡山との交渉を打切ったのだという」
 つまり荒木を死んだことにでもしなければ、郡山藩からの申し出を断わりきれなくなったという説だ。
 荒木は寛永20年まで生きていて、その没年は1643年9月24日という説が、だからある。
 鳥取に到着後半月足らずで頓死というのは、いかにも不自然であって、私も生存説派である。仇討の連鎖のような毒殺説にはとりわけ反対である。荒木は助太刀であって、狙うなら渡辺数馬でなければならない。数馬も短命ではあるが、寛永19年の12月までは生きていたのである。ちなみに彼は病死だった。
 もしも、その後の荒木又右衛門を小説にするならば、私は荒木を剣豪などではなく、忍びの者とする。その出世からして、彼にはその匂いがあるのだ。だからこそ、荒木は自分が死んだことになっても、生きられるのである。通常の武士であるならば、詐術のような人生に嫌悪を感じたのではないかと思う。
 素性を隠せることで、都合のよい仕事もあった。隠れキリシタンの探索である。そんな想像をめぐらしているが、大晦日の今日、この稿も終りにしておきたい。

荒木又右衛門の謎  11

2006-12-30 20:16:32 | 小説
 それにしても、この事件に関し幕府が決断に要した年月の長さは異常である。
 池田家ひいては大名対旗本衆抗争の再燃の火種になりうる事件だから、うかつな判断はたしかに下せない。だから先延ばしにしているうちに、事件そのものが忘れられようとしたのか。それとも、この間にはたとえば島原の乱などがあって、幕府の決済事項としては、後回しの案件だったからか。
 たぶん、いずれも要因をなしていると思われる。
 だが旗本衆にとっては風化した事件ではなかった。旗本衆が伊賀上野に荒木・数馬らの刺客を放ったという噂は絶えなかった。旗本衆にすれば、いったんは庇護すると天下に公表した又五郎を討たれ、そのうえ荒木・数馬らにやすやすと帰藩されては面目丸つぶれと意識したのであろう。
 藤堂藩としては、荒木・数馬らの警護に気をつかいにつかったのである。
 紆余曲折はあるが、結局は渡辺数馬と荒木又右衛門は鳥取の池田家に移ることになる。
 数馬の場合は、岡山から鳥取に変わったといえ、帰参である。荒木の場合は微妙である。荒木の引き取りを望んだ郡山藩としても面白くない。
 ともあれ、奇妙なことが起きる。荒木又右衛門は8月の11日に鳥取に到着するのだが、28日には死ぬのである。到着後わずか17日目の急死。
 さて、なにがあったのか。
 

荒木又右衛門の謎  10

2006-12-27 15:12:30 | 小説
 河合又五郎は奈良を出て江戸に行こうとしていた。江戸払いになっているのに、なぜという疑問が生じるが、要するに大名と旗本衆の抗争回避の一時的措置の「江戸払い」であって、もうほとぼりはさめたと判断したのであろう。旗本衆からの支援は続いていたのである。
 又五郎が奈良にいたことは渡辺数馬は察知していたが、彼を奈良で討つのは得策でない、と思っていたらしい。奈良町奉行が旗本のひとりだったからである。襲撃するなら大名の領分でと決めていたらしい。
 その又五郎が奈良を動いてくれて、藤堂藩の領分を通過しようとしたのである。
 寛永11年11月7日、そして又五郎は討たれた。叔父の河合甚左衛門と妹婿の桜井半兵衛の護衛も結果的には役に立たなかった。
 さてここで、悩ましい立場に立たされたのが藤堂藩である。弟の仇討だから古法には合わない。しかし、又五郎の首を墓前にそなえろと言った先の藩主の遺言を実行したのであるから忠臣とも言える。結局、幕府の裁断が下るまで荒木・数馬らを預かることになった。その期間が長すぎた。なんと幕府の正式な処断は寛永15年2月になった。3年有余が経過している。荒木・数馬を藤堂大学頭高次に付与するというものであった。
 ここで鳥取藩と郡山藩が動く。岡山から鳥取に国替えになった池田家は数馬を、郡山藩は又右衛門をそれぞれ貰い受けたいと申し出るのであった。
 話は次第にややこしくなってくるのだ。

荒木又右衛門の謎  9

2006-12-24 17:15:28 | 小説
 伊賀上野の鍵屋の辻の決闘について、私なりに描写しようと思ったけれど、なぜだか興がのらない。しばらく時をおけば熟してくるものがあるのではと待ってみたが、テンションは下がる一方。自問自答してみるに、五時間にも及ぶという決闘の時間に納得がいっていないのである。そんなに長い時間、死闘をくりひろげられるものかという懐疑心が邪魔をしている。だからこそ36人斬りなどという俗説が生れたのではないかとも思う。
 この決闘での死傷者の数は次のようなものだ。
 荒木・渡辺数馬側は死者1名、負傷者3名。
 河合又五郎側は本人を含めて死者4名、負傷者3名。
 つまり実質4人対7人の戦いなのだ。河合側の小者で逃亡した者がいるらしいが、荒木らが鍵屋の辻で待ち伏せして、奇襲した又五郎一行の人数は20名に満たなかったのだった。
 決闘の様子は長谷川伸『荒木又右衛門』に詳しい。昭和10年代の新聞小説であるが、筑摩書房の『日本国民文学全集』の『長谷川伸集』で、このほどはじめて読んだ。解説を平野謙が書いていることにちょっと驚いた。さらに平野氏によれば、この小説を伊藤整氏がほめてていたとあって、これまた驚いた。平野謙も伊藤整も懐かしいお名前である。本名で講談社の『群像』の新人文学賞の評論部門に応募したときの、お二人とも選者だった。あと中村光夫と大岡昇平で選者は4人。大岡昇平と伊藤整の選評にはげまされて私は20代の一時期、文芸批評に精を出していた。平野氏は岩波新書の『昭和文学の可能性』の最終章あたりで、私の評論に言及して下さった。「懐かしいお名前」と書いたゆえんである。ものを書くということへの執着がいまも続いているのは、あのときの4人の方の選評に起因していると自覚している。
 テンションは下がっても、ともかく先へ進もう。
 

荒木又右衛門の謎  8

2006-12-14 21:17:40 | 小説
 幕府は池田忠雄を毒殺(と断定する)し、池田家を鳥取に国替えさせた。むろん抗争の相手である旗本衆にも処置を下した。安藤四郎右衛門ら旗本衆に百日の寺入りを命じたのだった。河合又五郎は江戸払いとし、旗本衆らに「同人をかくまうべからず」とした。
 これが寛永9年6月のことである。
 父の半左衛門はというと、蜂須賀家への預け替えである。蜂須賀家では、半左衛門を受け取って大坂から徳島へ送る船中で、彼を殺した。
 大名と旗本の抗争の火種になるものは、ひとつずつ消していこうというような意思が働いている。
 さて、江戸払いとなった河合又五郎は、いったんは広島に潜伏し、そしてほどなく叔父の河合甚左衛門を頼った。郡山藩で荒木と同僚の甚左衛門は3百石の禄高を捨てて退身し、奈良の浪宅にいたのである。
 河合甚左衛門はいずれ荒木と衝突するだろうと予想し、退身したと思われる。いずれにせよ彼が郡山藩に留まっていたら、事態は別の展開をしたはずだ。
 さて、荒木又右衛門も寛永10年3月、郡山藩を退身する。義弟の渡辺数馬から、正式に仇討助成の要請があったからである。
 経緯はさほど単純ではないけれど、大急ぎで記述すれば、こんな具合になる。
 又五郎が奈良にいることがわかり、荒木らは仇討の機会を狙うことになった。そして、あの鍵屋の辻の決闘へとなだれこむ。

荒木又右衛門の謎  7

2006-12-13 18:21:30 | 小説
 荒木はしかし岡山藩士ではなく、郡山藩士である。ところが、なんという偶然だろう、その郡山藩の剣術指南に河合甚左衛門がいる。又五郎の叔父なのであった。
 さて、池田家対安藤家あるいは大名対旗本衆の抗争に話をもどす。
 又五郎を差し出せという池田家の要請に、安藤四郎右衛門は、では父の半左衛門と交換しようと条件を出した。池田忠雄の使者は安藤邸に国許から護送されてきた半左衛門を同道、父親を渡して子の又五郎を受け取とろうとしたが、それができなかった。はかられたのである。半左衛門の過去のいきさつがあるから、彼は高崎のほうに渡すので代わりにはならぬというのが安藤の言い分だった。ちなみに当日の安藤邸には旗本連中が列座していて、その中には大久保彦左衛門もいた。
 池田家の使者は役目をはたせず藩邸には帰れない。菩提所に行って腹十文字に切って死んだ。
 火に油を注いだようになって、池田忠雄は怒った。彼は本気になって旗本衆と一戦交える覚悟を決めた。困ったのは幕閣である。江戸城下で大名と旗本の戦が勃発すれば、幕府そのものの権威が疑われ、治安維持能力のなさを見せつけることになる。幕閣たちは調停にはたらきかけるが、池田忠雄の怒りはおさまらない。なにせ権現様の外孫であるから、鼻息もあらいのである。しかし、これが彼の命取りになった。
 寛永9年3月の末頃、池田忠雄は疱瘡を患う。幕府から典医が遣わされた。その医者の薬を服用したら、にわかに容態が変わった。4月2日、死んだのである。誰しも感じたはずだ。毒殺だと。
 河合父子の所業は、ついに幕府に権現様の外孫毒殺を決意するところまで、波紋をひろげたのである。

荒木又右衛門の謎  6

2006-12-11 20:08:00 | 小説
 寛永7年(1630年)7月21日の盆踊りの夜、岡山城下で藩主池田忠雄の児小姓で寵童とされる渡辺源太夫(17才)が殺された。殺害者は近所に住む河合又五郎(19才)。原因は男色関係のもつれということになっている。
 その又五郎は江戸に逃れて、旗本の安藤四郎右衛門の屋敷にかくまわれることになった。岡山藩は又五郎の身柄を引き渡すよう要求するが、安藤家は拒否する。大名対旗本の意地の張り合いとなるのだが、なにせ因縁があったのだ。むしろ池田家対安藤家の対立とみなしたほうがいい。
 もともと両家の確執の原因をつくっていたのは又五郎の父、河合半左衛門であった。河合父子二代にわたる因縁が背景にある。
 河合半佐衛門はもと高崎城主安藤右京進重長の家来であった。ある雨の日、傘が触れ合ったなどというささいなことで喧嘩をし、朋輩の伊能某を斬って逃げた。藩の人々に追われて、池田候の行列に飛び込んだ。池田候は窮鳥懐に入らずんば、とばかりに半左衛門を助けてしまうのである。そして岡山藩の家臣としたのだ。そのとき面目をつぶされた旧高崎候の弟が旗本の安藤四郎右衛門なのだ。こんどは立場が逆である。安藤家は池田家への面当てに、又五郎を渡さないのであった。
 人をくだらない理由で殺害して、自害もせずに逃げ回る河合父子が結局のところ話をややこしくしてしまったのだった。
 ともあれ荒木又右衛門は渡辺家の娘を妻にしていた。つまり殺された源太夫、そして仇討の当人数馬の姉を娶っていたのだ。

荒木又右衛門の謎  5

2006-12-10 20:25:33 | 小説
「荒木の前に荒木なく、荒木の後に荒木なし」とうたわれた剣豪ぶりは、私など東映チャンバラ劇で育った世代には、身にしみた言葉だった。プロレスの揺籃期、力道山と木村の対決を固唾をのんで見守った子供の頃、「木村の前に木村なく木村の後に木村なし」という柔道家出身の木村の善戦を信じて疑わなかった。なんと世紀の対決はあっけなく木村が敗退した。力道山の空手チョップに一瞬にして崩れおちのだ。私は当時通っていた町道場の柔道をやめたものだ。そのとき、なぜだか荒木なんて剣豪だって実態は知れたものではないと子供心に思ったものだ。
 案の定、しかも鍵屋の辻の36人斬りは嘘っぱちで、実際は荒木又右衛門は二人しか斬っていなかった。なぜ、これが日本三大仇討のひとつなのか。
 もっと言えば荒木又右衛門は助太刀であって、仇討の主人公は義弟の渡辺数馬である。それなのになぜ荒木がヒーローなのか。なお言えばこの仇討、そもそも仇討の定義から外れているのだ。渡辺数馬の討った相手は、数馬の弟を殺した人物だった。武士の作法からいけば、弟を殺した人物に復讐するのは仇討にならない。敵が兄とか父とか尊属を殺した相手なら仇討であるが、卑属を殺した相手を討つのは、たんなる意趣返しである。
 それなのに、なぜ三大仇討なのか。ここにも荒木又右衛門の謎がある。
 いちばんの謎は、荒木又右衛門その人の死である。没年がおかしい。定説の没年とすると、不自然すぎるのだ。だから定説の没年以上に生きていたという説がある。
 私たちはたぶん仇討そのものの経緯を見直す必要がある。
 

荒木又右衛門の謎  4

2006-12-03 17:28:30 | 小説
 鍵屋の辻の決闘には、荒木の不覚の一場面がある。
 荒木が槍の名手とされた桜井半兵衛(当時24才)と対峙したさい、半兵衛の小者市蔵に背後から木刀(一説に天秤棒)で腰骨を撲られていたのである。刀を持っていなかったから小者のゆえんであるが、もし市蔵の得物が真剣であったら、荒木の命運はどうなっていたかわからない。それはともかく、荒木はとっさに刀を横に払うのだが、その刀をふたたび市蔵が撃った。そのとたんに荒木の刀は折れたのである。刀の銘は伊賀守金道。
 決闘後、荒木らの身柄を預かった藤堂藩の剣の指南役に戸波又兵衛という人物がいた。荒木の刀の銘を聞いて、手厳しい批評を下した。伊賀守金道は新刀(最近の刀という意味)である。折れやすい新刀を使って大事な場面に臨むとは不心得であろう。刀の鑑定もできぬのか、あるいは刀の鑑定のできる助言者もいなかったのか、と評したのであった。
 このことを人づてに聞いた荒木は、義弟の渡辺数馬とともに戸波の門を叩いている。ご高説もっともと入門したのである。入門に際して誓詞を書いた。寛永12年10月24日付けの自筆のその誓詞が現存している。
 その戸波又兵衛は、のちに戸波流を起こすが、流儀は新陰流であった。もう言わんとするところはおわかりいただけると思う。荒木又右衛門が柳生新陰流の極意を得た剣豪であったならば、こんな真似はするはずがない。
 戸波に入門した一件については、三田村鳶魚などは荒木をべた褒めである。一流を極めた身が謙虚に学びなおすところがすばらしいというわけだ。剣士には剣士のプライドというものがあるだろう。同門の人間にここまで虚心坦懐にはなれぬと私は思う。荒木はここではじめて新陰流に接したのではないのか。

荒木又右衛門の謎  3

2006-12-02 21:25:54 | 小説
 荒木は柳生宗矩に剣を学んだのではない、柳生十兵衛に師事したと書くのは『柳荒美談』である。彼が15才の時だという。
 さて柳生十兵衛は1607年生れである。荒木が1599年生れであることは前に確認した。年号でいえば、荒木は慶長4年生れ、柳生十兵衛は慶長12年生れ、つまり十兵衛は荒木より8才年下なのである。すると、荒木はまだ7才の子供にすぎなかった十兵衛の弟子になったことになる。そんな馬鹿な話はないだろう。
 荒木は、というより服部巳之助は養父から中条流、叔父の山田某から神道流の剣を学んだという伝説がある。(あるいは最初に宝蔵院流の槍術を学んだという説もある)彼がもしも剣豪という名声を確立したとしていても、柳生新陰流の剣士としてではないはずだ。「柳生新陰流の剣豪」というのは後世のでっち上げのように思われる。
 もしも彼が柳生十兵衛から剣を学ぶ機会があるとすれば、十兵衛が大和柳生谷に暮らし始めた寛永3年以降ということになる。これは心ある史家の指摘するところである。これなら十兵衛は20才、荒木28才となって師弟関係が生じてもおかしくはない。
 しかし寛永の年号の前の元和年間にすでに荒木は郡山藩の剣術指南役になっているというのだから、「柳生新陰流の剣豪」ぶりを買われたわけではないし、彼自身「荒木流」を名乗っていたともいわれている。
 荒木又右衛門が柳生新陰流の極意を会得した剣豪ではありえない、ということを如実に物語るようなエピソードは、鍵屋の辻の決闘後にある。