小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

芭蕉の男色説

2004-12-17 23:28:29 | 小説
最後に芭蕉の男色説について書いておかねばならない。男色であったという説の根底にあるのは、芭蕉が妻帯しなかったという思い込みがたぶんにあるからだ。しかし、たとえば根っからのゲイで生涯妻を娶らず同性を愛した平賀源内などとは、芭蕉は違うのである。そもそも芭蕉には妻がいたという立場をとる私としては、芭蕉の男色説は無視したいところであるが、そうもいかない。中山義秀に『芭蕉庵桃青』という作品があって、そこで芭蕉の男色が肯定されているからである。男色の相手は弟子の杜国。芭蕉が彼に出会ったのは41歳のときだ。
 ところで江戸時代の男色を現代のゲイの概念でとらえようとすると、妙な具合になる。江戸のとりわけ武士階級では、男色は特別視されるものではなく、むしろありふれたものだった。武士は別の意味で両刀使いが多かったのである。その風潮は明治の初めまで続き、かの板垣退助などは公然たる男色家であったが、政治家としての汚点になってはいない
 芭蕉は自ら「われもむかしは衆道ずき」と書いており、これを証拠に芭蕉は男色だったといっても、あまり意味がない。そう書いているのは『貝おほひ』といういわば処女作の中であって、芭蕉29歳のときである。なぜ、「むかしは」という語句に注目しないのであろうか。いまは違う、つまりいまは女性のほうがよいと芭蕉は言外にいっているではないか。
 41歳で知り合った杜国は、特別に目をかけた愛弟子という以外に、なにもなかったと私は思う。
 それにつけても、芭蕉に妻がいたということを、もうすこし世間に認知させる必要がありそうだ。

蛇を狩る芭蕉

2004-12-14 23:10:18 | 小説
 芭蕉の句の中に「忍者」としての素性をほのめかす、あるいは自ずと素性を露呈した句はないだろうか、そんな不純な動機を抱いて、芭蕉全句を折にふれては読み返している。
 気になる句があった。
 元禄3年4月16日、芭蕉は滋賀県大津の幻住庵にいた。そこから、浜田酒堂あてに手紙を書いている。世上の小理には誰だってくたびれる、といった文言のあとで、自分も先頃、こんな句を作ったとして紹介している二句だ。

  夏艸(くさ)に富貴を餝(かざ)れ 蛇の衣(きぬ)

  夏艸や 我先達ちて蛇狩らん

 この二句については「二句の境、愚意に落ち申さざる儘、外へ御語りご無用に候」と念を押している。要するに他人には内緒の句だよというわけだ。
 それにしても、異様な句ではないか。これらの句に、国文学でいうところのワビ、サビがあるなどという人がいたら、つくづく顔を見てみたい。
 不正な手段で「富貴」を得た輩よ、その富貴は脱け殻か。脱皮して夏草に隠れたつもりか。私は率先して、蛇狩りをしてやるぞ。
 私には、この二つの句がそんなふうに読める。
 陰暦4月に大津の山里では、実際に蛇がいたのかもしれないが、これらのの句は、私には寓意に満ちた句のように感じられるのだ。
 さらに深読みをすれば、「夏艸」の「くさ」。「くさ」は「忍びのもの」の意味がある。忍びのものが先だちて、蛇(に仮託したもの)を狩るぞというメッセージなのかも知れない。
 芭蕉全句、まだまだつぶさに検証しなければならない。

芙蓉の白い花

2004-12-12 21:49:17 | 小説
 まだこのブログを始めていなかった頃、別のところで「芭蕉の妻」という短文を書いた。http://kondokou.ld.infoseek.co.jp/page014011.htmlをご覧いただければ、その記事はむしろ、こちらのブログに移すべき内容だとお分かりいただけると思う。
 私が焦点を合わせたいのは、芭蕉そのひとではなく、妻の寿貞尼のほうである。彼女の訃報にせっしたとき、芭蕉は「寿貞無仕合せもの・・・」と慟哭した。
 その、彼女の仕合せと不仕合せを見きわめたいのである。
 彼女の本名はよくわからない。けれども藤堂藩士中尾家ゆかりの人物であることは確からしく思われる。芭蕉の身辺近くにいた女性なのに、多くの謎につつまれて後世の研究者を惑わせるのも、彼女自身が芭蕉と同じく諜報活動に従事するものだったからだ、と私は考えた。すべては、推理と想像をめぐらせるしかない。芭蕉の死が毒殺ではなかったのか、という疑念を抱く人もいる。今現在は、私の思考範囲からはみだしている疑念であるが、案外、小説を書き始めたら、芭蕉毒殺説にひきずりこまれるかもしれない。こういう、漠然とした予感は、私に、早く書き始めよと何かが促している徴なのであろう。
 寿貞のイメージは、白い芙蓉の花である。これだけは、書き始める前からはっきりとしている。
   数ならぬ身とな思ひそ玉祭り  芭蕉

閑話休題 お七火事について

2004-12-11 20:45:14 | 小説
 天和2年12月28日、芭蕉庵を灰にした大火は、江戸時代後期には「お七火事」つまり、八百屋お七の放火による火事というのが定説になっていた。井原西鶴作とされる「好色五人女」のヒロインの一人は、お七である。小説ばかりではない、浄瑠璃、歌舞伎のヒロインに採りあげられ、お七は有名になった。お七が有名になるにつれ、天和2年12月の火事の真相は曖昧になるという奇妙な現象が生まれたのだ。
 お七に起因する火事が、いつの火事をさすのか、実は特定されていない。
「天和笑委集」という書によれば、お七の放火は天和3年3月2日のことであった、とされている。
 お七は天和2年12月28日の火事の、むしろ羅災者だったのだ。家を焼失し、ある寺に仮住まいしていたとき、その寺の美少年と恋に落ちた。新居ができ、彼と離れ離れになるのが辛くて、もう一度火事になれば寺で彼と一緒にいられるという思いから放火にいたるというストーリー。
 お七火事は、お七も羅災者であり、お七が放火した火事ではなかったことになる。
 お七のことは調べれば調べるほどわからなくなるというのが、これまでの研究者が一様に洩らす嘆きである。深い謎があるといわれる。おそらく、江戸の火事そのものに謎があるのだ。幕府によって隠されたり、抹消されたことがらが江戸の大火にはまとわりついている。隠蔽作業の闇の中で、お七のことも埋もれてしまったのあろう。

忍者芭蕉の妻(仮題)のために  7  

2004-12-08 00:09:42 | 小説
 駒込大円寺の庵室から火が出たのは、12月28日午前11時過ぎとされている。そして火勢の衰えたのが、あくる日の29日午前5時頃という。この大火で大名屋敷73、旗本屋敷166、寺社95が羅災した。焼死者は湯島天神、柳原土手、鎌倉河岸、深川の各所で830人。しかし、武家屋敷の死者は公表されていない。だから死者の実数はこの数をはるかに上回るはずだが、不明だ。
 芭蕉は川のなかで冷水に身を浸しながら、夜明けをむかえたというけれど、すでに昼前から大騒ぎになっているのだから、なぜもっと早く避難していなかったのだろうか。急火だったというのが腑に落ちない。駒込からの延焼というより、多発的な火事だったのではないか。そう考えれば、芭蕉の油断も納得がいくのではないか。この火事、お七の放火とだけ決めつけられない謎がありすぎる。
 明けて天和3年正月8日の町触に、こんな項目がある。
「放火した者があったら訴え出よ。たとえ一味であってもその罪を許し、褒美を与える。訴えた者に悪党仲間が仕返しをせぬよう保護すること」
 当時、すでにお七などではない、社会的不満分子による放火説があった。財政難に陥っていた幕府は、たとえば町奉行所の同心80名、船手組の役人50名をリストラし、旗本の本俸を救済するなどの措置をとっていた。そのリストラ組の中に放火犯がいるのではないかというような噂があった。私は真実はこの噂の方にあると思う。
 芭蕉庵は意図的に狙われたのである。この火事は火元がひとつではない、便乗多発的というか、複数箇所で放火があったとみた方がよい。そう、私は思っている。

忍者芭蕉の妻(仮題)のために  6

2004-12-06 20:29:15 | 小説
 ところで、深川芭蕉庵が川番所と接していることから、ふと頭をかすめた思いがあった。番所があるのなら、なにも芭蕉が見張り役にならなくてもよさそうなものだがという疑念だ。しかし、これは少し調べれば納得のいくことだった。芭蕉がこの地に来たとき、すでに正規の川番所は移転して、ここには無かったのである。しかし、ここが水路の要衝であることに変りはない。だから、裏番所が必要だったのである。すなわち、芭蕉の出番だった。
 深川川番所は小名木川をさかのぼり中川と合流する北岸に移っていた。番役は旗本である。むろん、旗本自身は詰めないが、家臣が勤番し、通船する人や物資を検閲していたのである。川番所あるいは船番所は、いわば水路の関所であったのだ。
「入鉄砲に出女」と俗にいうけれど、鉄砲や武具の通関にはなにかと制約があったし、女性の通行は許されていなかった。そういう時代のことである。ちなみに、中川船番所は明治の初期まであったもののようだ。
 それはともかく、この深川芭蕉庵は天和2年(1682年)12月28日、猛火に包まれた。炎に囲まれた芭蕉は前の川に飛び込み、辛うじて焼死を免れたらしい。
 さて、私はこの火事に不自然さを感じている。俗に八百屋お七の火事と呼ばれる大火だが、そうであるならば火元は本郷駒込の大円寺である。なにか、おかしくはないか。 

 

忍者芭蕉の妻(仮題)のために  5

2004-12-04 17:49:12 | 小説
 深川芭蕉庵は、小名木川が隅田川に合流する、ちょうど角地に当たる岸辺にあった。その小名木川は行徳(千葉県市川市)で産する塩を運ぶために家康の命によって開削された運河であった。芭蕉庵はその水路の要衝を見張るにうってつけの場所にあり、まさしく川番所のすぐ隣に位置していたのだ。
 私事になるが、私は海上保安庁に「海守」会員としてリストアップされている。私の住まい近くに、クルーザーや浚渫船の停泊場所があり、不審な船舶などを見つけたりしたら、通報の義務を負っている。芭蕉庵跡にたたずんだとき、私はとっさにここは不審船の出入りを見張るには恰好の場所だと思った。
 さて、文京区にはいわゆる関口芭蕉庵があった。神田上水端である。深川芭蕉庵が万年橋の北詰のあったように、駒塚橋の北詰にあって、上水を監視するに恰好の場所にあった。芭蕉庵がいつも「見張り」に適した場所にあったというのは、このことである。芭蕉がかって、神田上水に関わる仕事を請け負っていたのは、知られているとおりである。
 門人許六が書き残している。「小石川の水道を修め、4年にして成る。速やかに功を捨て、深川の芭蕉庵に入って出家す」

忍者芭蕉の妻(仮題)のために  4

2004-12-02 22:08:47 | 小説
 江戸における芭蕉のスポンサーは、よく知られているように杉山杉風(さんぷう)であった。蕉門十哲にも入っている杉風は、俳句の上では芭蕉の門弟であったけれども、経済的には芭蕉の庇護者であった、と誰もが言う。それだけの関係だろうか。幕府の隠密仕事の芭蕉へのつなぎ役、それが杉風ではなかったのか。
 杉風は不思議な人物である。深川周辺に幾つか土地を私有していたらしく、藤左衛門と称し、曽良の手紙の中では「左衛門」と呼ばれることもある。通称は鯉屋市兵衛。幕府御用達の魚問屋であった。「幕府御用達」、つまり、ただの魚問屋とは違うのである。たとえば、幕府御用達の呉服店大丸は公儀隠密の着替え所であり、隠密は大丸で旅費を受け取り、ここから諸国に旅立った。隠密のシンジケートには幕府御用達の菓子屋もあった。(なぜ菓子屋がと問うなかれ。本題からはずれてしまう)魚問屋が諜報機関の一端を担っていてもおかしくはないのである。
 余談になるが、女優の山口智子さん(俳優の唐沢寿明夫人)は杉風の末裔筋にあたるらしい。
 杉風の屋号の「鯉屋」から、魚商のイメージをこじんまりと語る人がいるが、大間違いであって、鮭を仕入れたり大掛かりである。魚を介した流通と情報のネットワークを持った人物だったと思われる。
 さて、深川万年橋のたもとの、いわゆる芭蕉庵は杉風の提供によるもので「生け簀の番小屋」であったといわれている。ごく最近、その芭蕉庵跡に行ってみた。現地に行って、初めてわかることがある。
 そこは、なるほど番小屋に最適の場所だった。魚の生け簀、のではない。もっと見張るべきものがあったのだ。
芭蕉の住まいは、いつも極めて重要なポイントにある。たまたま移り住んだというようなものではなかった。

忍者芭蕉の妻(仮題)のために  3  

2004-12-01 00:54:14 | 小説
曽良が伊勢長島藩士であったとき、藩主は松平良尚であった。調べてみるものである。その松平良尚は慶安2年に下野那須より入封していた。日光関係の諸役を務めていた元那須藩主が曽良の主人だったのだ。そのことを知ったとき、私はひとりで納得していた。ああ、そうか、「おくの細道」紀行の意味はそれだったのか。
 なぜ、芭蕉と曽良は奥の細道を歩かなければならなかったのか、その謎を解くキーワードは「日光」だった。
 当時、群発地震があった。家康を祀る日光東照宮と家光の霊廟大猷院が激しく破損、その改修を幕府は伊達藩に命じた。命じただけで、費用は出さない。伊達藩とすれば、莫大な経済的負担を強いられるわけだ。(記録によれば実際、全藩士の給与を3割以上カットするなどの措置が2,3年続いている)だから、当初、伊達藩は日光工事を渋るような態度を見せ、幕府の心証を悪くしている。
 押し付け工事にたいする伊達藩の実際の反応はいかがなものか、不平不満が蔓延し、最悪、幕府と緊張関係の生じるおそれはないのか、幕府としては当然気になる。東北の伊達藩の実情を、それとなく探る必要があった。
 日光ー松平良尚ー曽良ー芭蕉のラインがつながるのに、さほどの時間は要していないはずだ。