最後に芭蕉の男色説について書いておかねばならない。男色であったという説の根底にあるのは、芭蕉が妻帯しなかったという思い込みがたぶんにあるからだ。しかし、たとえば根っからのゲイで生涯妻を娶らず同性を愛した平賀源内などとは、芭蕉は違うのである。そもそも芭蕉には妻がいたという立場をとる私としては、芭蕉の男色説は無視したいところであるが、そうもいかない。中山義秀に『芭蕉庵桃青』という作品があって、そこで芭蕉の男色が肯定されているからである。男色の相手は弟子の杜国。芭蕉が彼に出会ったのは41歳のときだ。
ところで江戸時代の男色を現代のゲイの概念でとらえようとすると、妙な具合になる。江戸のとりわけ武士階級では、男色は特別視されるものではなく、むしろありふれたものだった。武士は別の意味で両刀使いが多かったのである。その風潮は明治の初めまで続き、かの板垣退助などは公然たる男色家であったが、政治家としての汚点になってはいない
芭蕉は自ら「われもむかしは衆道ずき」と書いており、これを証拠に芭蕉は男色だったといっても、あまり意味がない。そう書いているのは『貝おほひ』といういわば処女作の中であって、芭蕉29歳のときである。なぜ、「むかしは」という語句に注目しないのであろうか。いまは違う、つまりいまは女性のほうがよいと芭蕉は言外にいっているではないか。
41歳で知り合った杜国は、特別に目をかけた愛弟子という以外に、なにもなかったと私は思う。
それにつけても、芭蕉に妻がいたということを、もうすこし世間に認知させる必要がありそうだ。
ところで江戸時代の男色を現代のゲイの概念でとらえようとすると、妙な具合になる。江戸のとりわけ武士階級では、男色は特別視されるものではなく、むしろありふれたものだった。武士は別の意味で両刀使いが多かったのである。その風潮は明治の初めまで続き、かの板垣退助などは公然たる男色家であったが、政治家としての汚点になってはいない
芭蕉は自ら「われもむかしは衆道ずき」と書いており、これを証拠に芭蕉は男色だったといっても、あまり意味がない。そう書いているのは『貝おほひ』といういわば処女作の中であって、芭蕉29歳のときである。なぜ、「むかしは」という語句に注目しないのであろうか。いまは違う、つまりいまは女性のほうがよいと芭蕉は言外にいっているではないか。
41歳で知り合った杜国は、特別に目をかけた愛弟子という以外に、なにもなかったと私は思う。
それにつけても、芭蕉に妻がいたということを、もうすこし世間に認知させる必要がありそうだ。