小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

清河八郎暗殺前後 6

2014-02-27 18:00:35 | 小説
 清河八郎暗殺の前日に、目付となにやら切迫した深刻な話をしている3人の人物の中に、高橋泥舟がいるということは、私には大きな驚きだった。
 よく知られているように、八郎は暗殺される当日の朝、高橋泥舟の家に立ち寄っている。その朝の様子は、ふたたび大川周明の筆を借りると次のようなものである。
「高橋は八郎の顔色すぐれないのを見て、何うかしたかと訊ねた。八郎は頭痛がして気分が悪いけれど、約束があるから出かけねばならぬと言ふ。高橋は是非思いひ止まるやうにと言って、登上(城)の時刻が来たので八郎を残して出ていった。」
 まるで、ふだんと変わらぬ日常会話が交わされているだけだ。おかしくはないか。高橋泥舟は前日の目付との切迫した話を、なぜ話題にしなかったのか。
 八郎は泥舟に、朽葉や神戸らに書かせた血判口上書の件で幕府から答弁させるように迫っていた。小栗上野介が事実、浪士組をおとしめるために策を弄したかどうか、という一点である。この弁解には閣老も窮していたが、泥舟もまた、八郎に煽られて、おだやかではなかったのである。
 この日も八郎は、泥舟にはっぱをかけるために寄ったのではないかと思われる。日常会話で終始したわけはないのである。
 ここで注意をしておかなければいけないのは、八郎の暗殺当日の様子は、すべて高橋泥舟ファミリーの証言しかないということである。その朝の八郎と泥舟の会話だって、事実は、それこそ切迫したものであっても、隠されればそれまでである。なお、そのファミリーの中には、むろん泥舟の妹と結婚した石坂周造も入っている。八郎暗殺後にいち早く駆けつけたのは石坂であった。
 さて、目付杉浦は八郎暗殺に、どう関わっていたか。
 実は杉浦目付は、八郎の暗殺者たち佐々木只三郎ら6人の「再勤の儀」を若年寄りなどに申し上げたと、事件後2か月経った6月26日の日記に記録している。これで、たとえば佐々木は富士見御宝蔵番として役職復帰するのである。刺客としての役目は果たしたからだ。目付杉浦は、八郎暗殺の、ある意味では黒幕のひとりである。
 くどいようだが、もう一度書いておく。この目付と、暗殺の前日に高橋泥舟は話しこんでいた、と。(続く)

清河八郎暗殺前後 5

2014-02-25 17:22:34 | 小説
 浪士組の帰府は3月28日だった。浪士掛でもあった目付杉浦は、これより1日早い27日に江戸に到着していた。大坂から軍艦に乗って品川経由で江戸入りしたのであった。陸路を歩いた浪士組を追い抜くようにしての到着だ。
 さて浪士組の帰府から、清河八郎の暗殺される4月13日まで、目付杉浦の日記には浪士組に関する記述(といってもメモ書きのような短いものばかりだが)11件ある。
 その11件を以下に転記する。


 4月3日 浪士、札差 江 切迫一條起ル

 4月4日 晴れ 浪士御手当、壱ヶ年三十六両御下知済

 4月6日 雨  △治部右衛門、格式上リ之旨河内守殿 江 申上ル
         △高橋・中條引込、浪士一件甚六ケ敷し

 注記しておくと、治部右衛門とは浪士取締役の窪田治部右衛門のことであり、河内守とは井上老中のことである。
 高橋とあるのは浪士取扱の高橋泥舟のことであり、中條とは同じく浪士取扱の中條金之助のことである。「引込」の意味もよくわからないし、「はなはだ難しくなってきた浪士一件」が具体的に何を指すのか記述されてはいない。困難な浪士問題打開のために、あるいは高橋と中條を親密な配下として引き込んだということであろうか。

 4月7日 雨 松岡萬・高橋見込四ケ條申立て
 
 松岡と高橋がどんなことを申立てか、ここでも詳細は不明である。

 4月8日 曇 △山岡来ル
        △高橋見込之趣、昨日松岡申聞候ケ條
          ○破格 ○爵録 ○御用ヘヤ入 ○屋敷
        △高橋其外暴論応接

 この日、山岡鉄太郎が来ている。高橋と一緒になったらしい。暴論を吐いた「高橋そのほか」に山岡もふくまれているだろう。むろん「暴論」の中身は明らかにされていない。


 4月9日 雨 浪士屋敷評議

 4月10日 △昨夜中、両国天誅  神戸六郎 朽葉新吉

 考えてみれば、無頼の徒であるはずの両人の名を目付がわざわざ記すのも異常である。

 4月12日 高橋・萬、金一條尤切迫

 目付の杉浦日記の中で注目すべきは、この12日の記述である。なにしろ八郎暗殺前日のことである。高橋泥舟と松岡萬と中條金之助の3人が目付となにやら切迫した話をしているらしい。
 そして暗殺当日の13日、杉浦は清河八郎のことは無視である。なにも書かない。
 神戸や朽葉の天誅は記述したくせに、八郎にはまるで無関心なこの不自然さを、なんと解釈するか。

  

清河八郎暗殺前後 4

2014-02-24 14:36:38 | 小説
 その証言者とは、ほかならぬ石坂周造である。
 大川周明が、神戸六郎の首を斬った当事者として名をあげた石坂周造である。虎尾の会いらいの八郎の同志の、あの石坂である。
 石坂の口述を筆記した『石坂翁小伝』(明治33年刊)で、彼はこう述べているのである。
「……自分の部下の奴で、府下の良民を脅迫して金銭を貪った神戸六郎、口葉新吉と云ふものがありました、夫れを仲間の者が捕らへて首を斬って両国米沢町へ梟しました」
 口葉新吉とはむろん朽葉新吉のことだが、この石坂の回顧談では、大川周明の記述とは逆で、石坂が朽葉の首を斬り、村上俊五郎が神戸六郎の首を斬ったことになっている。
 その違いはともかく、重要なのは石坂が、朽葉と神戸を自分の部下だと言っていることだ。
 となると、偽浪士ではなく、本物の浪士組の構成員ということになるではないか。
 では、一同を外出禁止にして、偽浪士の出現をあぶりだしたという、あの話はなんだったのか。しかも梟首の高札の「報国有志」の「名儀を飾る」という文言から漂う「偽浪士組」のニュアンスはどうなるのか。
 疑わしいのは、むしろ石坂の証言である。
 不始末をした部下の首を晒すということは、天下に監督不行き届きと、規律の乱れをさらすようなものではないか。なぜ石坂はこんな証言をするのか。
 さらに不可解なのは、町方の吉原の町名主までが知っていた小栗上野助介の陰謀話にはいっさい言及していない。小栗のおの字も出てこない。逆に言えば、小栗の陰謀話を隠ぺいするには、朽葉、神戸は自分の部下だったという必要があったように思われる。
 さて、この時期の幕府の目付の日記というかメモ(注)のようなものが残されている。たいへんに興味深いものだが、その目付とは杉浦誠(通称正一郎)である。号は梅潭。文久2年8月から文久3年7月まで目付で、のち長崎奉行、そして最後の箱館奉行だった人物だ。
 浪士組に濃厚に関わっているが、彼の日記には、なぜか清河八郎の名はまったく出てこない。
 さて、梟首のことは以下のように短くメモられているが、衝撃をうけているようである。ことさら書きつけているのである。

  十日 晴 昨夜中、両国天誅  神戸六郎 朽葉新吉

 杉浦の日記を検証してみよう。(続く)

(注)『杉浦梅潭目付日記』

清河八郎暗殺前後 3

2014-02-21 13:19:13 | 小説
 吉原町名主の山口庄兵衛の文久3年4月8日付け書面に記録されている風説の概要は次のようなものである。(注:1)

 4月6日に偽浪士の岡田周蔵(朽葉新吉)が配下2人とともに久喜万の仮宅において無銭遊興したあげく、遊女・新造・禿など8、9人ほど連れ出し、伝馬船に乗せて両国の象見物に召し連れ、小屋主から金銭を強請って、途中の料理屋青柳で酒食した。
 さらに新吉原へ繰り出そうと船に乗るところを、通りかかった浪士組の松岡万と草野剛三ら7人に見つけられ、三笠町の浪人屋敷の土蔵に投獄された。
 また玉屋山三郎方へ参った浪人屋敷の食客神戸六郎も偽浪士をはたらいたことが露見し、浪人屋敷の土蔵に投獄された。
 取調べによれば、駿河台の勝手方勘定奉行の小栗上野介忠順が浪士組の評判を落とすため、ことさら神戸らに乱暴させていることが判明したという。

 幕府側というか、小栗の陰謀は、なんだか公然と語られているのだが、こういう情報をリークするのは浪士組のほかにはありえない。
 偽浪士たちの乱暴狼藉に迷惑しているのは、こっちのほうで、元凶は小栗だと町方の者に知らしているのである。
 神戸と朽葉の首が4月9日に両国広小路に晒されたのは事実で、江戸の画工田吹亭斎が、その様子を絵にしている。その絵をさらに鹿島則孝(鹿島神宮の神官)が模写したものを写真にあげておいた。(注:2)
 高札の文言は大川周明が引用したものとは違って、もっと簡潔である。ただし「報国有志」の「名儀を飾り」とあるから、偽浪士というニュアンスは伝えている。
 ところで、ほんとに偽浪士と言い切れるのかどうか。迷うような妙な証言がある。(続く)


(注:1)日野市立新選組のふるさと歴史館叢書第十輯「巡回特別展 新選組」15頁コラム③参照
(注:2)和本「あすか川」(「桜斎随筆」所収)より

清河八郎暗殺前後 2

2014-02-20 17:23:21 | 小説
 大川周明の偽浪士に関する論述は、典拠とした史料が明らかにされていないが、真偽の検証もふくめて叩き台とするため、長くなるけれど以下に引用しておく。

〈幕府は如何にしても浪士組を抑圧しやうと苦心した。此時閣老に向って苦肉の策を献じたのは小栗上野介である。彼は閣老と図り、市中無頼の徒を雇ひ、三笠町浪士の名を騙って乱暴狼藉を働かしめ之によって浪士の名を傷け、抑圧の口実を造らんと試みた。そのために市中の町家から、毎日のやうに町奉行に三笠町浪士狼藉の訴があったので、町奉行は閣老の詭計とも知らず、浪士取扱に向って下のやうな照会をした――
『近頃市中に於て、浪士体の者、商家に金銭を強請し、剰へ吉原等に出入りし、無銭遊興を為す趣、毎々訴へ出づ。右は尽忠報国の勇士に於て、決してあるまじき筋とは被存候へども、尚ほ厳重に取締候様被致度候』
 右の照会に接したる浪士等は、不面目なる嫌疑をかけられたことを憤慨し、其の冤罪なるを立証するため、先づ五日間厳重に一同を禁足し、一歩も門外に去ることを許さず、五日の後に取締山岡鉄舟をして、其間の様子を町奉行に問合はさせたが、浪士乱行の訴は少しも止まぬとのことであった。甚しきは当時両国広小路に興行中の象の見世物小屋に押かけ、象の鼻を斬らせよと難題を言ひ、金銭をゆすり取って吉原に遊興に出かけたと云ふやうなことさへあった。そこで浪士等は、其等の狼藉者を自分等の手で捕へたいと申込んだ。閣老と町奉行との間に、何の打合せも無かったので、町奉行は直ちに之を許可した。(略)
 浪士組は色々な計画を回らして、遂に浮浪の巨魁神戸六郎を初め、朽葉新吉以下三十六名を捕へ、三笠町屋敷の土蔵内で峻厳なる訊問を行ひ、小栗上野介の苦肉策に出たことを知り得た。一同は激しく激昂し、神戸朽葉以下三十六名の者から、小栗上野介に使嗾された旨の血判口上書を取り、山岡と同じく取締の一人なりし高橋泥舟をして、厳重に幕府に詰問させた。幕府は此の詰問に非常に狼狽し、事を有耶無耶の間に葬るべく、逆に先づ至急三十六名の引渡を要求した。
 四月九日の夕方である。八郎は奇遇して居た山岡鉄舟の座敷に座って居ると、下城したばかりの高橋泥舟が、肩衣を着たまゝ庭先に出て、垣根越しに山岡に向ひ、幕府から三十六名の引渡し要求があったことを告げた。之を聴いた八郎は、直ちに馬喰町に駈けつけ石坂周造、村上俊五郎の両人を伴ひ、三笠町屋敷にに急行して、神戸朽葉の両人を引出し邸内に斬首せしめた。神戸の首は石坂が長船長光の刀を以って、朽葉の首は村上が仙台国包の刀を以って、物の見事に斬落したのである。而して屍体は両国橋から河中に投じ、首は両国広小路に晒し、左の高札を晒首の側に立てた――
 其方共儀、報国志士の名義を偽り、市中を騒がせ、無銭飲食、剰へ金銭を貪り取候段、不届き至極に付、天誅を行なふ者也
(略)其後八郎は、手厳しく高橋を鞭撻し、毎日のやうに例の血判口上書に対する幕府の答弁を要求させた。この弁解には閣老も非常に窮したらしい。(略)一日も早く八郎を除かうと決心したのであらう。四月十三日夜には、藤本昇が稲熊力之助以下数名の部下を率ひて、神田駿河台なる小栗上野介邸に夜襲を試み、小栗を生擒する計画まで立てゝ居たが其夕八郎の遭難ありしため万事齟齬して了った。〉(大川周明全集第4巻『清河八郎』より)

 さて、これとよく似た話が吉原でもささやかれていた。(続く)


清河八郎暗殺前後 1

2014-02-19 16:01:27 | 小説
 上洛した清河八郎ら浪士組に、関白から江戸に帰れという命令が下ったのは、文久3年3月3日のことだった。
 この東下の命令は浪人奉行鵜殿鳩翁と同取締役山岡鉄太郎宛になっていた。
 生麦事件の処理が難航し、横浜にイギリスの軍艦が渡来しているから、いつイギリスと「兵端を開くやも計り難く」浪士は「速に東下して粉骨砕身可励忠誠候也」というものだった。
 だから清河八郎らは3月28日には江戸に帰った。(この命令に反して京都に残留した者たちが、のちに新選組となるのは言わずもがなである)
 江戸には浪士組が上洛したあとで、応募してきた100人を越える浪士たちがいて、窪田治部右衛門、中条金之助(この人物名を記憶しておいてほしい)などが取扱に任命されていたが、帰府浪士と合併して、本所三笠町の旗本小笠原加賀守の空屋敷を屯所とすることになった。
 もっとも清河八郎は山岡鉄太郎の家に寄寓し、同志の石坂周造と村上俊五郎は馬喰町の大松屋にいることにした。
 さて、幕府は学習院国事掛から直接に攘夷の朝旨を賜っている浪士組の存在は、うとましくなっていた。
 尽忠報国の思想集団としての浪士組の実体を骨抜きにする必要があった。つまり浪士組を抑圧する口実が必要だった。
 大川周明は八郎暗殺の原因のひとつに「偽浪士問題」をあげているが、その大川周明の論述を叩き台にして、暗殺側の動きを探ってみることにする。
 あらためて問いを発してみよう。
 八郎はなぜ暗殺されねばならなかったのか、なぜ暗殺日はあの日でなければいけなかったのか。(続く)

お知らせ

2014-02-11 09:17:24 | 小説
【お知らせ】
 荘内日報の連載小説『お蓮』は、2014年2月6日付けの240回を最終回として終了しました。もっとも5ヶ月遅れでスタートした長野日報には連載中です。
 長野日報の連載終了後、早い時期に文庫本になればいいなと思っています。
 ブログの更新を怠っておりましたが、近く「清河八郎暗殺前後」と題して書き始めます。書きかけの「琳瑞暗殺の謎」に決着をつけるためにも、取り上げておかねばならぬテーマであります。