小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

「天誅組」の悲劇  12

2008-01-31 21:52:43 | 小説
 天誅組の尊攘思想には「討幕」という含意(コノタシオン)があった。前に紹介した那須信吾の郷里に宛てた手紙に具体的に語られているとおりである。武力討幕をめざしていたのである。
 吉村の語る言葉に耳を傾けてみよう。文久2年5月、いわゆる伏見挙兵に挫折して、捕縛されて京から土佐に強制送還される船の船牢の中で述べた言葉がある。(船中書取)
「何分干戈を以て動かずば、天下一新致さず、然りと雖ども干戈の手初めは、諸侯方決し難し、即ち基を開く者は浪士の任也」
 武器を動かすというのは、要するに一度戦争しなければ天下一新はできないと言っているのである。けれども諸侯つまり大名たちが戦端を開くわけにもいかないだろうから、それは自分たち浪士がやると言っているのだ。この決意・心情がそのまま天誅組挙兵につながっている。
 ところで、どこかでこれと似たセリフを聞きはしなかったか。
「一度干戈を動かし」て「天下の耳目を一新」することが必要だと、天誅組壊滅後4年目に、まるで吉村をパクったようなセリフを吐くのは西郷隆盛である。(岩倉具視宛書簡)
 西郷の場合は藩として行動できた。吉村らは草莽決起であった。
 ところで昨今の幕末史研究では武力倒幕派をなぜか鳥羽伏見戦争直前まで存在しなかったように論じたがる傾向がある。これでは天誅組が視野から欠落するのである。
 たとえば家近良樹『孝明天皇と『一会桑』」(文春新書)の結語部分で著者は言う。「私は武力倒幕派なる言葉を使って幕末史を説明する必要はないと考える」
 この著書に「孝明天皇が攘夷にあそこまでこだわらなかったら、日本の幕末史はまったく違ったものになったと考えられる」とあるから、さぞかし大和行幸と天誅組に言及しているだろうと期待してはいけない。天誅組のテの字も出てこない。
 天誅組に深入りしては、所論がくずれるからである。あれもこれもすべては公武合体論で説明可能といえなくなるからである。
 あの幕末の混沌(カオス)を歴史学者はまるごとうまく叙述したためしがない。
 かって保田與重郎が『南山踏雲録』の校註に書いた言葉を思い出す。
「あれもよし、これもよし、会津も理あり、天忠組は更にその心よしといふのでは、今日から過去のことを云ひくるめ得ても、天誅組の志と精神をうけついで御一新を翼賛完遂した志は、さういふあれもよしこれもよしの曲学阿世の歴史観からは生れぬのである」

「天誅組」の悲劇  11

2008-01-30 16:38:59 | 小説
 菊池寛に『天誅組罷通る』という作品がある。昭和16年1月5日から同年6月3日まで東京日日新聞と大阪毎日新聞両紙の夕刊に連載された。
 連載中、菊池寛は幾人かに「今あなたがお書きになっている新選組は…」と声をかけられ、いささか憤慨している。
 組といえば新選組しかないのか、明治維新の邪魔をした新選組のほうが天誅組より人気があるとは、なにごとぞと嘆いているのだ。単行本にしたとき「序」に菊池寛は書いている。
「維新史を読んで、一番遺憾に思ふことは、尊王攘夷論の先駆者であり、時代の指導者であった人々が、殆んど中道にして斃れてゐる事である。彼らが純真なればなるほど、止むに止まれぬ情熱に身を燃やして、危険の中に身を投じてゐることである。(略)
 天誅組なども、その時代に於ける最も純真な、最も忠誠な、誠に立派な人物を集めてゐるやうな気がするのである。どの一人を考へても、維新まで生きてゐたならば、国家の功臣になり得たやうな気がするのである。
 彼らは、最も尊い明治維新の捨石なのである。(略)
 然るに天誅組の名は、新選組の百分の一も知られてゐない。近藤勇の名は、万人に知られてゐても、吉村寅太郎の名を知っている大衆は一人もゐないであらう。(略)
 この一篇は、天誅組の人々を少しでも顕彰したいつもりで書いたのである」
 大衆の事情は今も変わらないかもしれないが、見られるとおり菊池寛は天誅組を明治維新の「捨石」と評価した。
 さて、森銑三は昭和18年10月、伝記『松本奎堂』を刊行した。森は「緒言」に書いている。
 文中、奎堂とあるのを天誅組と読みかえてよい。
「武力的にも、経済的にも、何等特別の背景を有せざる奎堂等が僅々数十人の同志を以てして、二百数十年間続いた徳川幕府を倒さうとする。なほ押し拡げていはば、七百年に亙れる武家政治を覆へさうとする。無謀これより甚だしきはない。然も奮然起ってこの無謀の擧をあへてして、天下の勤王の魁をなしたる点に奎堂の奎堂たる所以のものがある。成敗利鈍の如きはもとより問ふべきではない」
 いや問うべきではないだろうか。天誅組が、つまり彼らの行動が、当時の人々の胸にともした尊攘思想の火明かりの行方をだ。
 保田與重郎も引用しているけれど、影山正治のいうように天誅組の運動は実質的に政治運動というより思想運動だったと捉えることが可能だからである。

「天誅組」の悲劇  10

2008-01-29 17:24:06 | 小説
 山中をさまよいながら北上した天誅組本隊は、9月24日夕刻、吉野郡鷲家口に姿をあらわす。前日の深夜、傷病兵12名を伯母谷に残しているから、本隊とはいえ、たかがしれた人数である。
 鷲谷口には彦根兵が、鷲家には和歌山兵が待ち構えていた。津藩の軍勢もいた。ここが天誅組終焉の地となるのだった。
 那須信吾ら7人が敵陣に突入、銃弾に倒れた。しかしその間に中山忠光と側近を脱出させた。
 翌25日の山狩りで松本奎堂が和歌山兵に射殺され、藤本鉄石は和歌山方の脇本陣に斬り込んで闘死した。
 吉村虎太郎は負傷していたから、農民に駕籠でかつがれて鷲家口に向かっていたが、砲声におびえた駕籠かきに逃げられて、途中で放棄されていた。歩行不能の吉村がなぜか鷲家口で発見されるのは27日早朝である。猪小屋に潜伏していたらしい。藤堂兵らに包囲され銃撃されて死んだ。
『土佐勤王史』は、吉村は辞世を高吟したあと躍り出て雨下する弾丸に当って「残念」の一語を残して死んだと記するけれども、これは少しあやしい。歌など高吟するいとまはなかったはずである。
 ともあれ吉村の辞世の歌は、よく知られている。

 吉野山風にみだるゝもみじ葉はわがうつ太刀の血煙りと見よ

 吉村には実はこれとよく似た歌がもう一首ある。

 秋なれば濃き紅葉をも散らすなりわがうつ太刀の血煙りを見よ

 陣中での作らしく、保田與重郎はむしろ後者の歌を激賞している。
 辞世といえば、松本奎堂の歌のしらべもいい。

 君がため命死にきと世の人に語りつぎてよ峰の松風

 松本奎堂34才、藤本鉄石48才、そして吉村虎太郎27才だった。 

「天誅組」の悲劇  9

2008-01-28 16:05:28 | 小説
 陰暦9月、おりしも吉野の山中は紅葉の季節だった。追われる天誅組義軍は脱出路を求めて右往左往するけれども、血路はひらけない。
 9月11日に河内勢が戦線から離脱、15日になると十津川郷士たちが天誅組との決別を通告、さらに郷内からの退去を求めた。十津川の民は、追討軍によって高野口、熊野口を制圧されたため食塩の搬入が途絶え、困窮していた。彼らにすれば天誅組と運命を共にする義理はなく、彼らは彼らで生きてゆかねばならなかったのである。
 十津川郷士の離反に天誅組の中には激高するものもいたが、やむをえないのであった。藤本鉄石などは憎しみをこめて、こんな歌を詠んでいた。

 十津川のはらわた黒き鮎の子は落ちていかなる瀬にや立つらむ

 しかし吉村は、この日、静かな諦観のうちに死を覚悟する歌を詠んでいた。

 曇なき月を見るにも思ふかな明日は屍の上に照るやと

 苦しい立場に立たされたのは、郷士の徴募に積極的に動いた十津川郷士野崎主計だった。彼は24日、川津村狸尾の山中で割腹自殺した。遺詠二首がある。

 大君につかへぞまつるその日よりわが身ありとは思はざりけり
 うつ人もうたるる人も心せよおなじ御国の御民なりせば

 追討軍も天誅組義軍も同じ日本人ではないかという野崎の声は、しかしどこにも届かない。
 大岡昇平は、天誅組と十津川郷士の決別という悲劇の細部にあえて踏み込まなかった。長編『天誅組』の最後は次のような文章で結ばれている。
「計画はその結果としてしか現れない。そして『天誅組』四十日の戦いはこの計画の崩壊の過程である。彼らの大部分は郷士庄屋層で常々農民に接して、その思想感情をよく知っているつもりであった。彼らがその幸福のために戦っている、と信じていた農民が、既存権力の暴力に接した時どう反応するか、彼ら自身の内部がどう変わるかをつぶさに経験することになる。
 しかしこれはまた別の物語である」
「別の物語」ではないように思われるけれど、そう突き放すことによって、大岡昇平はそのことを書かなかった。あるいは書きたくなかった。
 ともあれ天誅組は僅かな人数になって紅葉の山中にいる。四方は3万2千余にふくれあがった追討軍に包囲されている。あたかも勢子に追われる孤独な獣のように、手負いの吉村がいる。

「天誅組」の悲劇  8

2008-01-26 20:53:27 | 小説
 伴林光平の「よく人を愛し」という吉村評で、ふと思いついたことがある。高取城野襲に関してである。
 高取城といえば、関ヶ原の戦い前夜に毛利利輝率いる大軍相手に持ちこたえた城である。難攻不落で聞こえていた。日本三大山城のひとつとされている。
 そんな城にわずか20数名で夜討ちをかけるというのは、あまりに無謀にすぎるではないか。吉村、もしかしたら死に急いでいたのかという感慨を以前はもっていた。 
 だが、吉村の目的に気づいたのである。
 吉村の高取城野襲という行動は一般に緒戦の劣勢挽回のためというふうに語られてきた。大岡昇平もこう書いている。
「彼は緒戦の敗北が、一軍の志気を沮喪せしむるのを恐れ、ただちに二十四名の決死隊を募り、抜駆けの夜襲を企画した」(「吉村虎太郎」1963年『世界』12月号初出)
 劣性挽回という意味もそれはあったであろう。しかし実は吉村は捕虜奪回のためのゲリラ的行動を起こそうとした。それが動機というか主目的であったと考えてよいと思う。
 この日の朝の敗北で、十津川兵ら50人(あるいは58人)が生捕りされ、捕虜となっていたのである。吉村は自分と同じ出自の農民である十津川の兵士たち、それもにわかな天誅組の徴募兵である彼らを、そう言ってよければ「愛して」いた。もしかしたら、責任のようなものも感じていたかもしれない。なんとしても救出したかったのではないだろうか。
 だからこそ城に侵入したかったのであって、そのゲリラ的行為は、無謀というような批判を受けつけないものであった。
 結果的には十津川兵らの救出は失敗で、しかも味方の十津川兵の銃で被弾した。
 吉村が没後、すぐさま地元で「神」となる契機のいったんは案外こんなところにもあるのではないだろうか。敬慕とある種の贖罪が生んだ神格化。
 余談だが、かって高取城を領民は、「土佐の城」と呼んでいたと知って驚いた。奇妙な暗合である。高取の旧名は「土佐」であった。

「天誅組」の悲劇  7

2008-01-24 19:02:07 | 小説
 吉村虎太郎は御所(ごぜ)方面で兵糧を徴発していて、その帰路に本隊敗走の知らせを聞いている。その夜、彼は高取城夜襲を図った。
 伴林光平はこう記述している。
「高取城朝駈退陣の夜、只一騎、小川佐吉、中垣健太郎の二人を率て(別に十津川人廿人引具す)城内三ノ門まで打入りて一戦、自ら槍を捻って、城将秋山何某の馬上にあるを突落し、槍を抜取らんとするに、ぬけざりしかば、強て引しらふ程に、迅雷一声、炮丸胸脇より背後へ射貫けたり」
 吉村はどうやら味方の十津川兵の銃弾をあびたらしい。闇夜で敵味方の区別がつきにくかったのである。命に別状はなかったけれど、傷はのちに破傷風になって、吉村の体の自由を奪った。
 伴林光平はこの記事の前で、吉村のことを簡潔に紹介している。
「吉村虎太郎、土佐の郷士なり。寛仁大度、能く人を愛し、能く人を敬す」
 よく人を愛し、よく人を敬すとは、まことに的確に吉村のひとがらを表現している。数え年でまだ27才の吉村を、50才を越えた国学者の伴林光平がほとんどいつくしむような眼で見ている。
 17才で土佐の北川村の庄屋の実務についた吉村は、年貢軽減の愁訴など地元農民のために数々の治績を残していた。小柄ではあるが、凛とした風貌の持主であった。学問を間崎滄浪に、剣を武市半平太に学んでいるが、自分は文武に劣るところがあると謙遜してはばからなかった。つまり、自分というものをよく知っていたのである。
 保田與重郎は『郷士傳』の「野崎主計傳」の項で書いている。
「吉村虎太郎は維新志士中の有数であるが、出身は土佐の里正、即ち庄屋だから、武士でない、農家である。この土佐には天保12年頃に庄屋の同盟が成立し、その眼目は『里正の職は、天照皇大神の定められた天邑君(アメノムラキミ)を始祖とする天職である』といふ天職の意識に立脚したもので、これは当時異色ある、又大切な思想を現わしてゐる」
 なるほど、吉村のまっすぐな勤王思想の淵源をそこに見ることも可能かもしれない。


注1:吉村が槍をつけたのは秋山何某ではなく、実際は軍監浦野七兵衛であった。
注2:伴林光平の記録は、彼が捕らわれて獄中で書いた『南山踏雲録』のことで、同書からの引用である。

「天誅組」の悲劇  6

2008-01-23 23:06:07 | 小説
 名分を失ったのだから解散という選択肢もあったはずだが、天誅組はそうしなかった。徹底抗戦を選んだのである。
 勤王郷といわれた十津川の郷士を頼りに、追討軍を迎え討つことに決めた。このため本陣を天辻に移すことにした。
 天辻は十津川街道の最高所にあって、前記の記録方の伴林光平がのちに「懸河四国にそそぎ、絶壁咫尺を遮隔して要害究竟の地」と記したところである。ただし記録はこう嘆く。「水の手隔たりて民家少きのみぞ兵衆の愁いなりける」
 吉村虎太郎は募兵のため、十津川には先発している。ちなみに十津川は南北二十里といわれる広域の村だった。募兵は思うようには順調にはいかなかったが、それでも1千余名が集まった。
 郷士の指導者である上平主税(明治になって横井小楠暗殺事件の関連者として逮捕された人物)は、あいにく上京中だった。吉村は在郷の野崎主計の協力を得ている。
 政変の一週間後となる8月25日の暁、天誅組はにわか仕立ての十津川兵を率いて五条に進発、翌26日朝、高取城を攻めようとした。もとより高取藩にはすでに天誅組追討令が出されており、迎撃態勢が整っていた。
 高取藩のうちかける大砲に十津川兵は四分五裂、城に近づくこともできず惨敗した。天辻の本陣に退却するしかなかった。
 天誅組追討令はむろん高取藩だけに出されたわけではない。郡山、柳本、柴村などの大和の諸藩、さらに藤堂、和歌山、彦根、津藩にも幕府から追討令が出されていた。9月になると、幕府と朝廷から鎮圧の督促があり、狭山、尼崎、岸和田、膳所、加賀の諸藩の兵士が動員されている。
 天誅組は1万人以上の追討軍に包囲されるのであった。
 さて吉村は高取城攻略のとき本隊とは別行動をしていた。 

「天誅組」の悲劇  5

2008-01-22 18:03:11 | 小説
 8・18政変というクーデターによって、京都から長州勢が一掃され、三条実美ら公家7人が朝廷から追放された。いわゆる七卿落ちである。長州勢の中には大和行幸の仕掛け人ともいえる久留米水天宮の神官真木和泉もいた。
 要するに急進的な攘夷派が追い払われたわけで、吉村ら天誅組はその後ろ盾を失ったのであった。失ったばかりではない。彼らは一転逆賊になっていた。しかし、その情報は吉村らにすぐには届かない。いわばルビコン河を渡ってから知らされた。
 天皇が8月26日に在京諸侯に示した勅書は、なんともやるせないものであった。勅書はいう。
 政変以前には不分明な勅もあったけれど、政権以後の勅は真実朕の「存意」であるから、一同心得違いしないように、と。
 つまり大和行幸の詔は真意ではなかったと弁明しているようなものである。
しかし、吉村ら天誅組の同志にとっては、天皇の詔勅は命をかけるに足る神聖なものだった。真意がどうかなど忖度すべきものではなかった。だからこそ、郷里に遺書めいた手紙を出し、挙兵したのであった。
 たとえば吉村と同郷の天誅組監察の那須信吾の場合。土佐の養父あてに「義兵を挙げ、徳川家譜代不尊王の大名を討ち取り、ご親征の手初めをつかまる事に決し」と報告し、歌を添えていた。
 君ゆえにおしからぬ身をながらえていまこの時に逢うぞうれしき
 はじめから命を天皇にささげているのである。これを心得違いとおおせあるのであろうか。
 天誅組は18日、五条、須恵、新町の三か村の村役人を召集し、挙兵の趣旨と年貢半減を布告していた。さらに大和の諸大名に対し挙兵に参加するよう交渉し始めていた。その日、京都でなにが起きていたか知るのは、翌日の19日になってからだった。
 19日、政変の事実を淡路津井村の古東領左衛門という豪農の勤王家が桜井寺に伝えてくる。
 五条の西方の橋本には、早くも天誅組討伐兵が迫っていた。
 

「天誅組」の悲劇  4

2008-01-21 22:37:47 | 小説
 ともあれ代官所襲撃後は「天誅組」と語られることになる彼らの軍事行動は、8月13日の大和行幸の詔に端を発していた。
 皇軍の先駆けとなるという彼らの大義名分は、そこにあった。
 その詔が偽勅であったとされる。では、天誅組は哀れにも偽勅に踊らされたのか。そうではないだろう。
 あの日8月13日の昼前に小御所に参内した鳥取藩主池田慶徳、岡山藩主池田茂政治、米沢藩主上杉斉憲、徳島藩世子蜂須賀茂韶(もちあき)らに議奏・武家伝奏から詔が示されたのであった。4人の諸侯は武家として、天皇の親征行幸には反対の立場をとる者たちであった。
 だから、夕刻になって直接天皇に面会し、行幸の見合わせを嘆願している。
 自分たちが江戸に下って、幕府を口説き、将軍にただちに攘夷を決行するように説得するから、それまで待ってほしいというわけである。
 こういう経緯があるのだから、偽勅であるわけはないのである。
 攘夷派の過激な公家に押し切られたとしても、天皇はいったんは確かに大和行幸を決断したのであった。
 もしもその決断を、この4人の嘆願の時点でひるがえしていたならば、天誅組の挙兵はなかったのである。
 天皇の心は揺れていたと思われる。それを見透かしたように会津と薩摩が動く。あわただしく政変計画を練ったのである。その日、薩摩の高崎左太郎が朝彦親王を訪れ、計画のいったんを告げた。朝彦親王が動く。翌14日夜、常御殿に現れた朝彦親王は、天皇と密談している。
 16日の夜になって、天皇は計画に同意の旨、朝彦親王に手紙で伝えたもののようである。政変まで、あと二日である。
 天誅組が代官所を襲った17日の夜、天皇の意思は、にわかに参内した朝彦親王、二条斉敬、近衛忠熙の3人によって最終確認された。
 むろん大和行幸は中止である。
 文久3年の8・18政変前夜、天誅組はすでに大和で勝ちどきをあげていた。

【注】この稿の参照文献 佐々木克『幕末の天皇・明治の天皇』(講談社学術文庫) 

「天誅組」の悲劇  3

2008-01-20 20:16:24 | 小説
 五条代官所にすれば、天誅組は憎むべき敵であった。なにしろ、前任の代官は彼らによって殺され、路傍に首をさらされたのであった。
 天誅組の挙兵は、よく知られているように五条代官所襲撃が幕開けであった。
 五条代官所の管轄は大和5郡(吉野・宇智・宇陀・葛上・高市)405か村、7万千余石の天領だった。天領といいながら幕府直轄領である。代官は幕府から派遣されていた。いわば租税の徴収機関として機能していたから、少数の役人しかいず、軍事的な防衛力はなきにひとしかった。
 文久3年8月17日の夕刻、天誅組一同60余名は、代官所の表門と東門から討ちこみ、代官鈴木源内ほか4人を斬って、あっという間に代官所を制圧、その夜のうちに焼き払った。そして隣接する須恵村の桜井寺を本陣とし、「御政府」の表札を掲げた。
 五条から橿原の神武陵までは一日の行程内にある。天誅組は「皇軍御先鋒」と称したわけだから、ここで兵を募り、孝明天皇の大和行幸つまり神武陵「御拝」に合流しようとしたのだった。天皇の大和行幸は、攘夷祈願のためであり、そのことは皇軍をそのまま江戸に進めて、討幕という含みがあった。
 天皇の大和行幸の宣布は4日前の13日。
「為今度攘夷御祈願、大和行幸、神武帝山陵、春日社等後拝、暫御逗留、御親征軍議被為在、其上、神宮行幸事」
 大和から伊勢神宮に向かい、江戸に発進するという予定だった。
 吉村虎太郎、そして岡山藩出身の藤本鉄石、三河国刈谷藩士松本奎堂(この3名が総裁となった)ら38人の志士が青年公卿中山忠光を主将に擁し、京を発ったのが14日だった。16日午後、河内の甲田村で水群善之祐(にごりぜんのすけ)ら約30人の河内勢と合流した。天誅組の成立である。千早峠を越えて五条に至ったのが17日だった。
 ところで「天誅組」と彼らが自称したわけではない。字面からすればテロリスト集団のようになるが、実際は「天忠組」であった。天子に忠実なる組つまり尊王攘夷派の彼らには、「天忠」のほうがふさわしいのである。河内勢のひとりで記録方をつとめていた伴林光平は「天忠組」と記録していた。

「天誅組」の悲劇  2

2008-01-19 19:30:09 | 小説
 名作『野火』や『レイテ戦記』の著者である大岡昇平が、吉村虎太郎や天誅組に寄せたシンパシーは、戦争における「敗走兵」というキーワードで語ることができると思われる。大岡昇平は、敗走兵の潔さを、ほんとうは書きたかったに違いない。
 たとえば、こんな記述がある。
「…隊士の暴行のいい伝えは全くない。放火暴行をほしいままにしたのは、むしろ天誅組討伐のため侵入した紀州兵で、若い女はみな山に隠れねばならなかったという。
 強姦は戦争につきもののようにいわれるが、軍隊にも色々あって、必ずしもそうとは限っていない。天誅組のような理想に燃えている軍隊では、兵士をそういう非人間的な行為にかり立てるものがないのである」
 あるいは天誅組壊滅から5年後の赤報隊に言及し、こう述べている。
「これらの軍隊も暴行はしなかった。夫の面前で妻を犯し、兄を立木に縛りつけて弟の肉を食べさせるが如き残虐行為は、戊辰の内乱の段階から起った」
 これらの文章は『野火』の作者のものであるから、なにげなく読みすごせないのである。「軍隊にも色々あって」などは、とりわけそうだ。
 さて、吉村虎太郎は、戦死したその土地で、ほどなく「神」とあがめられるようになった。「天誅吉村大神儀」である。なぜか。大岡昇平にならって「潔さ」という言葉をなんども使うけれども、精神の潔さというものに人々はどこかで「神」を感得するのかもしれない。
 吉村の遺骸は鷲家川の畔に埋葬され、小さな石碑が墓とされたが、その墓に不思議な霊力があると騒がれ始めたのである。
 地元の五条北之町に『月番行司順番帳』という史料が残されている。
 それによると「近村近国より参詣人夥しく追々ますます群集いたし、天誅吉村大神儀として、様々の立願相込め、ご利益これあり候よし。まことに追々参詣人夥しく群集いたし候ゆえ、そのご支配御役所より差止め候ところ、なかなか百姓ども更に聞き入れ申さず、益々参詣人いや増し不思議なる次第、恐るべし」
という有様だ。
 見られるとおり、吉村は百姓たちの流行神になっているのだ。
 足が立たなくなった娘に夢のお告げがあって、吉村の墓に三度参ったら、元の体に戻ったなどという伝承があるらしい。
 元冶元年といえば、吉村戦死の翌年であるが、その年の12月28日、五条代官は吉村の神格化によほど憤りをおぼえたらしく、吉村の石碑と、同じく戦死した那須信吾の墓石をともに鷲家川に投げ捨て、吉村をまつった村人20余名を投獄した。

「天誅組」の悲劇  1

2008-01-17 14:34:51 | 小説
 大岡昇平の歴史小説『天誅組』は、産経新聞朝刊に1963年11月18日から1964年9月25日まで310回にわたって連載されたものである。ところで司馬遼太郎の『竜馬がゆく』は、産経新聞夕刊に1962年6月21日から1966年5月15日まで連載されていた。ということは、ある期間同じ新聞の朝刊と夕刊で、吉村虎(寅)太郎と坂本龍馬の物語が同時進行していたわけである。私は産経新聞の読者ではなかったし、いずれの小説も単行本になってから読んだから、このほどそのことにはじめて気づいて、ある種の感慨にうたれた。
 いまや龍馬は有名だけれど、天誅組の首謀者吉村虎太郎を知る人は少ない。むろん土佐勤王党の志士で、文久2年3月6日に脱藩していた。同じ土佐勤王党の龍馬の脱藩が同年3月24日であった。つまり吉村虎太郎は、龍馬より18日ばかり早く行動を起こし、動乱の幕末史に身を挺してゆくのだが、ふたりの軌跡はまるで異なったものとなって、交わるようで交わらなかった。
 大岡昇平は『天誅組』に書いている。
「筆者は特に吉村を英雄化しようとはしなかった。むしろその四国の山村の庄屋という身分に注目して、矮小化したかも知れない。しかし、その生涯の意味は、討幕挙兵という一事にかかっている。そしてそこにはなにか潔いものがある。彼が国を出て、長州と京都の間で、国事に奔走したのは、文久2年から3年にかけて、8カ月に足りない。まっしぐらに、自分の計画に殉じてしまったのは、維新の志士の経歴として珍しい」
 ああ、よくぞこの文章をかきつけておいてくれたものと思う。これで吉村がうかばれる。
 大岡昇平の長編『天誅組』は、文中吉村のことを「われらが主人公」と形容する割には、実は吉村のことにはあまり紙数がさかれていない。僅かしか語られていないのだ。資料の博捜では定評のある作者の考証癖によって、作品は幕末史の教科書のような趣きを呈している。主人公は吉村というより「時代」そのものなのだ。はっきり言えば、『竜馬がゆく』のように面白くはないのである。吉村と天誅組については、未消化な気分が残る。だからというわけではないけれど、私なりに大岡昇平のいう吉村の「矮小化」をほぐしてみようと思い立った。
天誅組
大岡 昇平
講談社

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横井小楠を考える  完

2008-01-11 21:36:33 | 小説
 王政復古政権ともいえる新政府には、いわばコンプレックスのようなものがあった。龍馬のいわゆる諸侯会盟して盟主を選ぶという政治的手続きを中断して、薩長や岩倉らが勝手に天皇を盟主と決めてしまったからである。そのうしろめたさたが、不平分子や政敵を先んじて排除しておこうという暗い情念になっている。
 岩倉はかって最大の政敵であった朝彦親王に謀反の嫌疑をかけて京から追放、そして親王を担ぎ出そうとしていた大道組を洗脳して横井を暗殺させ、彼らを処分一掃した。これが一連の事件の背景である。
 横井暗殺事件の関係者の処分が終わってからでないと、親王は京へ戻ることを許されなかった。京に戻っても、まだ他人との面会は禁じられていた。親王がほんとうに自由の身になれるのは明治5年1月6日になってからだった。
 ちなみに明治36年に完成した『岩倉公実記』では朝彦親王の謀反は事実であったかのように記述されているが、昭和2年の復刻版では親王謀反の記事は全部削除されている。さすがに編者も気がひけたのであろう。
 さて横井小楠の思想を坂本龍馬を合せ鏡に書いてみようというもくろみも当初抱いていたが、暗殺事件の背景に時間を費やしてしまった。不本意であるけれども、いったん筆をおく。


【主要参考文献】

松浦 玲『横井小楠〈増補版〉儒学的正義とは何か』(朝日選書)
三上一夫『横井小楠 その思想と行動』(吉川弘文館)
圭室諦成『横井小楠』(吉川弘文館)
高木不二『横井小楠と松平春嶽』(吉川弘文館)
栗谷川虹『白墓の声 横井小楠暗殺事件の深層』(新人物往来社)
徳永 洋『横井小楠 維新の青写真を描いた男』(新潮新書)
浅見雅男『闘う皇族 ある宮家の三代』(角川選書)

横井小楠を考える 11

2008-01-10 21:44:02 | 小説
 生前の横井小楠の教説に共鳴した人物に柳川藩家老の立花壱岐がいた。新政府の刑法局判事に任命され明治元年9月に上京している。
 横井暗殺事件の直後の明治2年1月12日、立花は岩倉具視邸を訪れていた。立花は、断固として横井の遺志を継ぐべく、維新変革の具体的構想を岩倉に訴えようとしたのである。
 立花は自分の著作を提出し柳川に帰藩したところ、岩倉から手紙が来る。「足下の先見、実に感銘の次第」と持ち上げ、ついては至急上京されたしと要請したのであった。このあたりが岩倉の食えないところで、立花が横井の思想にどれだけ染まっているのか見きわめたいだけなのである。
 3月24日、立花は大阪の岩倉の別邸で、藩制の一切廃止を切望するのだが空振りに終わる。再度4月にも岩倉を訪ねた立花は、今度は身分制度の撤廃と四民平等の「王地王民」の王道政治を勧めるが、岩倉は黙したままだった。
 立花は失意のまま6月に帰省し、二度と国政にコミットしなかった。
 立花の説くところは横井の教説であった。つまり岩倉は、横井小楠という思想を受けいれられるような人物ではなかったということだ。
 ほんとうは横井は新政府に出仕などすべきではなかったかもしれない。かって坂本龍馬は横井にこう語っていた。
「先生は、まあ二階にござって、きれいな女性に酌でもさせて、酒をあがって、西郷や大久保どもがする芝居を見物なさるがようござる。大久保どもが行きつまったりしますと、そりゃあちょいと指図をしてやって下さるとようございましょう」
 この龍馬の言葉は、その場に居合わせた徳富一敬の記憶を息子の徳富蘆花が公表したものだだから、ほとんどこの通りだったろうと思う。
 横井小楠と龍馬の政治構想はじつによく似ていた。
 龍馬は横井を二階にいるべき人とみなしていた。
 だが、横井小楠は政府高官という実務の「一階」に降りてきて、殺された。
 そして龍馬は、近江屋の二階で殺された。

横井小楠を考える 10

2008-01-09 22:18:12 | 小説
 さて、新政府が横井小楠を登用したいと熊本藩に通知したのは、慶応3年12月末のことであった。
 よく知られているように、このとき藩はいったんは断っている。藩が士籍を剥奪した人間を政府高官にされては、藩としては立場がなくなるからである。
 ところが翌年3月になると岩倉具視が再度の召命を行い、熊本藩も断りきれずに彼の士籍を復帰、上京させた経緯があった。
 つまり、横井を新政府に登用させることに尽力したのは岩倉具視その人であった。人あって、必ず言うだろう。その岩倉が横井小楠暗殺の黒幕でありうるわけはないだろうと。
 岩倉は横井小楠という人物を勘違いしていたのである。横井の門下生であった由利公正はすでに参与になっており、新政府にとって欠くべからざる存在になっていた。由利公正といえば、五ヶ条の誓文の最初の草稿を作った人物だが、なにより太政官札を発行するなど維新財政を一手に担った財政のエキスパートだった。その由利の師匠たる横井に、岩倉は由利同様な実務面を期待したのであった。
 だから、横井小楠の召命について総裁局顧問にという声もあったけれど、そのポストには副総裁の岩倉具視は賛成していないのであった。おそらく岩倉は、実際に横井に親しく接するまでは、その人物の器を小さく見積もっていたのである。
 横井は岩倉の自宅によく招かれ、そこで日頃の持論を存分に披露したのであろう。それは、岩倉に強い危機感をもたらすことがらだった。推測するしかないけれど、『天道覚明論』に近い思想を、岩倉は横井の口から直接聞かされたと思われる。
 大巡察古賀の九州派遣と前後して、小野という小巡察が岡山に派遣され、横井小楠の著とされる五つの文書を探し回っている。いずれも皇室に対する不敬文書だという。書名だけが知られ、実物は発見できないのだが、新政府が横井の罪状として欲しいのは、実はここのところなのであった。
 刺客たちの言うキリスト教云々という斬奸理由など、最初から脇に追いやられていたのである。