天誅組の尊攘思想には「討幕」という含意(コノタシオン)があった。前に紹介した那須信吾の郷里に宛てた手紙に具体的に語られているとおりである。武力討幕をめざしていたのである。
吉村の語る言葉に耳を傾けてみよう。文久2年5月、いわゆる伏見挙兵に挫折して、捕縛されて京から土佐に強制送還される船の船牢の中で述べた言葉がある。(船中書取)
「何分干戈を以て動かずば、天下一新致さず、然りと雖ども干戈の手初めは、諸侯方決し難し、即ち基を開く者は浪士の任也」
武器を動かすというのは、要するに一度戦争しなければ天下一新はできないと言っているのである。けれども諸侯つまり大名たちが戦端を開くわけにもいかないだろうから、それは自分たち浪士がやると言っているのだ。この決意・心情がそのまま天誅組挙兵につながっている。
ところで、どこかでこれと似たセリフを聞きはしなかったか。
「一度干戈を動かし」て「天下の耳目を一新」することが必要だと、天誅組壊滅後4年目に、まるで吉村をパクったようなセリフを吐くのは西郷隆盛である。(岩倉具視宛書簡)
西郷の場合は藩として行動できた。吉村らは草莽決起であった。
ところで昨今の幕末史研究では武力倒幕派をなぜか鳥羽伏見戦争直前まで存在しなかったように論じたがる傾向がある。これでは天誅組が視野から欠落するのである。
たとえば家近良樹『孝明天皇と『一会桑』」(文春新書)の結語部分で著者は言う。「私は武力倒幕派なる言葉を使って幕末史を説明する必要はないと考える」
この著書に「孝明天皇が攘夷にあそこまでこだわらなかったら、日本の幕末史はまったく違ったものになったと考えられる」とあるから、さぞかし大和行幸と天誅組に言及しているだろうと期待してはいけない。天誅組のテの字も出てこない。
天誅組に深入りしては、所論がくずれるからである。あれもこれもすべては公武合体論で説明可能といえなくなるからである。
あの幕末の混沌(カオス)を歴史学者はまるごとうまく叙述したためしがない。
かって保田與重郎が『南山踏雲録』の校註に書いた言葉を思い出す。
「あれもよし、これもよし、会津も理あり、天忠組は更にその心よしといふのでは、今日から過去のことを云ひくるめ得ても、天誅組の志と精神をうけついで御一新を翼賛完遂した志は、さういふあれもよしこれもよしの曲学阿世の歴史観からは生れぬのである」
吉村の語る言葉に耳を傾けてみよう。文久2年5月、いわゆる伏見挙兵に挫折して、捕縛されて京から土佐に強制送還される船の船牢の中で述べた言葉がある。(船中書取)
「何分干戈を以て動かずば、天下一新致さず、然りと雖ども干戈の手初めは、諸侯方決し難し、即ち基を開く者は浪士の任也」
武器を動かすというのは、要するに一度戦争しなければ天下一新はできないと言っているのである。けれども諸侯つまり大名たちが戦端を開くわけにもいかないだろうから、それは自分たち浪士がやると言っているのだ。この決意・心情がそのまま天誅組挙兵につながっている。
ところで、どこかでこれと似たセリフを聞きはしなかったか。
「一度干戈を動かし」て「天下の耳目を一新」することが必要だと、天誅組壊滅後4年目に、まるで吉村をパクったようなセリフを吐くのは西郷隆盛である。(岩倉具視宛書簡)
西郷の場合は藩として行動できた。吉村らは草莽決起であった。
ところで昨今の幕末史研究では武力倒幕派をなぜか鳥羽伏見戦争直前まで存在しなかったように論じたがる傾向がある。これでは天誅組が視野から欠落するのである。
たとえば家近良樹『孝明天皇と『一会桑』」(文春新書)の結語部分で著者は言う。「私は武力倒幕派なる言葉を使って幕末史を説明する必要はないと考える」
この著書に「孝明天皇が攘夷にあそこまでこだわらなかったら、日本の幕末史はまったく違ったものになったと考えられる」とあるから、さぞかし大和行幸と天誅組に言及しているだろうと期待してはいけない。天誅組のテの字も出てこない。
天誅組に深入りしては、所論がくずれるからである。あれもこれもすべては公武合体論で説明可能といえなくなるからである。
あの幕末の混沌(カオス)を歴史学者はまるごとうまく叙述したためしがない。
かって保田與重郎が『南山踏雲録』の校註に書いた言葉を思い出す。
「あれもよし、これもよし、会津も理あり、天忠組は更にその心よしといふのでは、今日から過去のことを云ひくるめ得ても、天誅組の志と精神をうけついで御一新を翼賛完遂した志は、さういふあれもよしこれもよしの曲学阿世の歴史観からは生れぬのである」