小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

最後の将軍の弟  8

2009-01-30 21:40:45 | 小説
 パリ万博の前年すなわち慶応2年の夏に、幕府はフランスと600万ドルの借款契約を結んでいた。第二次長州征討がらみで、幕府としては軍備増強の必要に迫られていた。莫大な額の武器、装備、軍艦の発注のための資金を、フランスの融資に頼ろうとしたのである。
 この借款の協定は、勘定奉行小栗忠順と来日した仏経済使節クレーの間で結ばれ、ヨーロッパで日本国債の応募者を募る窓口は、フランスの金融機関ソシエテ・ジェネラルと決められた。
 フランス側としては、この融資話を機に、見返りとして、生糸など日本からの輸入を独占しようという勢いになった。これまで対日貿易の主導権を握っていたイギリスとしては黙って見過ごせない事態が進行しつつあったのだ。
 勝海舟の『氷川清話』に日仏借款のことが語られている。
「小栗は、長州征伐を奇貨として、まず長州を斃し、次に薩州を斃して、幕府の下に群県制度を立てようと目論んで、フランス公使レオン・ロセスの紹介で、仏国から銀六百万両と、年賦で軍艦数艘を借り受ける約束をしたが、(後略)」
 ここのところの海舟の述懐は『海舟語録』(注)の明治30年4月の項にもあって、「仏蘭西から金を借りるといふ事では、己は一生懸命になって、たうとう防いでしまった」とあり、この機密事項を「薩州の方では、誰だったか、留学生の方から知らせて、チャント玉があがって、何もかも知って居た」と話している。
 むろん借款協定を海舟がつぶしたわけではない。いわばフランス側が約束をホゴにしたのである。
 フランスの政財界は、大君(幕府)が日本の君主であるという認識のもとに融資をしようとしたのに、諸大名と同格であると言われれば、二の足を踏むのは当たり前である。
 さて、昭武一行は、その600万ドルの一部を滞在費にあてるつもりだったが、外債募集は頓挫してしまった。一行が日本を発つときに持参したのは5万ドルだった。
 金が足りなくなった。

(注)江藤淳・松浦玲編の講談社学術文庫版

最後の将軍の弟  7

2009-01-28 20:12:27 | 小説
 向山がエラール立会いのもとに「薩摩の影武者」(渋沢華子氏の形容)モンブランと会ったのは、パリに到着して一週間以上経ってからだった。もっと早く会うか、それともモンブランなど相手にせずに直接に薩摩藩の責任者を呼びつけるべきだったのである。
 ともあれ、遅ればせながらモンブランと面談した向山は、彼を詰問するけれど、らちはあかない。
 結局、万博の日本出品取扱委員長のレセップス邸で、日をあらためて会合することになった。この会合に、向山は欠席した。部下の田辺太一と通訳の山内文次郎に一任したのである。薩摩側からは岩下佐次右衛門とほか1名、それにむろんモンブランが出席した。フランス側はレセップスと外務省顧問ドナが協議に加わった。
 問題は博覧会会場に、琉球王国と大書したプラカードがあり、出品目録にも「琉球国王陛下松平修理太夫源茂久」とあって、あたかも薩摩藩主島津茂久が独立国の国主のようにふるまっていることだった。田辺は、言うべきことは言っている。つまり薩摩藩は幕府の支配下にあり、琉球はその支配下にあるにすぎないと。
 ところが結果としては、モンブランにいいように言いくるめられたのだった。
 出品物は大君政府と薩摩太守政府というかたちでそれぞれ展示されることを、田辺が呑んだのである。Gouvernement de TaikounとGouvernement dutaischiou de Satsoumaの並立で決着をつけたわけだが、田辺は「政府」つまりGouvernementの意味の重要性がよくわかっていなかった。
 パリのマスコミは、こぞって報じた。
 どうやら日本は連合国であるらしい。大君も薩摩大守も独立した領主であり、大君は有力な一王侯にすぎず、立場上は大名と同格である、と。
 これでは、将軍慶喜がパリ万博に参加した意図がまるきり裏目にでたことになる。大君政府すなわち幕府が日本の主権者であることをアピールすることが昭武一行の目的だったのに、幕府の威信を失墜させるための万博参加になってしまっているのだ。
 実はこれこそモンブランの、あるいはイギリスの目的ではなかったのか。

最後の将軍の弟  6

2009-01-26 22:59:16 | 小説
 昭武一行がパリに着いたのは慶応3年3月7日(西暦4月11日)の夕刻だった。
 にわか雨が降った、と昭武は日記に書いている。夜、カションと小出大和守(外国奉行)とロシア使節目付の石川駿河守が昭武のホテルを訪ねている。小出、石川のふたりは樺太国境確定交渉のためロシアに派遣されていて、その帰路、ちょうどパリにいたのであった。
 その8日前に一行はマルセイユに到着していた。いずれにせよ万博はもう開かれている。
 マルセイユで出迎えたのは日本名誉総領事エラールと先着の万博出品係の塩島浅吉、北村元四郎(名村泰蔵)たちだった。塩島は外国奉行支配定役元締、北村は神奈川詰オランダ通詞であった。
 このふたりが実は万博における薩摩の展示の件を、深刻な面持ちで上司の向山駐仏公使(勘定奉行格外国奉行)ら一行に伝えているのだが、昭武の日記には、そんなことは書かれていない。少年には知らされなかったのであろうか。
 同行者の渋沢栄一の『航西日記』にも、このことは触れらていない。
 渋沢栄一の孫にあたる渋沢華子氏は『渋沢栄一パリ万博へ』(国書刊行会)で、こう書いている。
「のちに外国奉行向山隼人正も薩摩に出遅れたことを告白している。この報を栄一も耳にしたろうが、かって幕政を批判し倒幕を企てた彼にしてみれば、心中は複雑だったろう。下役ゆえ口だしもできず、『見ざる聞かざる云わざる』を良とした。栄一の地位は、昭武の御傳(おもり)役山高石見守の配下にあった」
 薩摩藩は薩摩琉球国勲章を作っていて、ナポレオン三世とその文武官に贈り、さらにパリの新聞社に日本代表という立場を喧伝している、と塩島や北村は憤慨して報告したはずだが、どうやら向山は事態を甘く見ていた。 

最後の将軍の弟  5

2009-01-25 21:03:27 | 小説
 ざて、そのモンブランについては当時の日本名誉総領事エラールがパリから駐日フランス公使ロッシュに宛てた手紙(注)で酷評していた。
「…薩人一行の方にては、モンブランの世話にて、総て可笑に堪へざることのみを為来れり」と彼は書いている。そしてモンブランは陸軍中将を自称し、「薩之大帯を肩より斜めに負ひ」あわせてレジョンドヌール勲章を帯び、「其体を見るに一個の犯客に似たり」と断じているのだ。
 さらに「新聞紙中に妄論を挙け、カション之曖昧たる不正論を信したるを以て」などとあげつらい、「モンブランも過度の事をなせし上、近々日本へ赴くとの由なり。其許も彼に対し如何なる処置をなすへきや、其方を知り給ふ様、彼の所業・談話等の事迄、余より委細其許へ申送るへし。謹言」と結んでいる。
 ここでカションとあるのはナポレオン三世と昭武の会見で通訳をしたメルメ・ド・カションのことである。そのカションは1867年5月1日発行の雑誌『フランス』で自分の覚書を暴露している。(以下は前掲の鳴岩氏の著書からの孫引きである)
「今日までわれわれが日本帝国ととなえてきたのは世襲大名の大連邦であって、将軍はその一員で薩摩、長州、佐賀その他の大名とともに同等の資格の者である。(略)江戸の大君はヨーロッパと日本間のあらゆる通商の仲介者となろうとしているが、反対に他の大名たちはヨーロッパ諸国との直接取引を望んでいる。薩摩の大名がそれを率先してしめした。彼が万国博覧会において独立の主権を強化した事実はわれわれが実際に見たところである」
 たしかにカションの言うとおり、パリ万博で示した薩摩の態度は、昭武ら幕府使節団、いや幕府そのものに深甚な打撃を与えたのだが、少年昭武はまだそのことに気づいてはいなかった。

(注)宮地正人・監修『徳川昭武幕末滞欧日記』(松戸市戸定歴史館)所収の翻訳書簡で日付は1867年8月10日、慶応3年7月11日付となる)

最後の将軍の弟  4

2009-01-22 22:25:26 | 小説
 昭武一行のアルフェー号が横浜を発ったのが慶応3年1月11日、そして先発船アゾフ号が品川を発ったのが慶応2年12月14日だったと、前に書いた。実はアゾフ号よりさらに早く、慶応3年11月10日、鹿児島を発った英国船にパリ万博に参加する薩摩藩の一行が乗船していた。以下のメンバーである。
 博覧会御用家老の岩下佐次右衛門(維新後は方平)、市来政清(側役格)、野村宗七、渋谷彦助、岩下清之丞、蓑田新平(以上4名は博覧会担当)、通訳の白川健次郎、堀荘十郎、岩下長十郎(岩下佐次右衛門の息子)、鳥丸啓助(大工)、それにイギリス人のハリソンとホーム。
 彼ら薩摩藩一行は、昭武ら幕府使節団より2か月も早くパリに到着していたのであった。
 薩摩藩は、幕府を出し抜いていたのである。その陰には、フランス生まれのベルギー貴族シャルル・ド・モンブラン伯爵がいた。モンブランは安政、文久年間に来日しており、1865年(慶応元年)に薩摩の五代才助らが渡欧したさいには何かと便宜をはかり、薩摩藩とは密接な関係にあった。
 慶応元年8月に薩摩藩がベルギー政府との間に、日本ベルギー貿易会社設立の協定を結んだのも、モンブランの斡旋によるものだった。そのときの約定の中で、パリ万博ではモンブランを薩摩藩代理人とすることが決められていた。
 鳴岩宗三『幕末日本とフランス外交』(創元社)に次のような一節がある。
「極東の島国に熱い思いを寄せるモンブランは、最初まず幕府の使節に近づこうとした。1864年春、池田筑後守長発の一行が横浜鎖港問題の交渉でパリ入りしたさいにも、ついで翌年、柴田日向守剛中の一行が製鉄所建設の用件でパリに滞在したおりにも、彼はある下心をいだいて接近をはかったが、パリ社交界における評判がよくなく、いずれの場合も敬して遠ざけられた。それを根にもって薩摩藩士と交際をはじめ、同藩の特別委員となった。そして、パリ万博では薩摩藩主が琉球王として出品することを博覧会総裁に願い出、そのニュースを新聞に流したという」
 新聞といえば、たとえば『ラ・リベルテ』の1867年2月8日付では、薩摩藩の一行を「日本の国王、琉球国王陛下の使節である」と報じていたのだ。
 そして日本茶屋の隣には薩摩藩のブースが並んでいた。丸に十の字の旗も掲げられていた。
 そんなわけで、メリメが薩摩公を日本国主と誤解しても不思議ではなかったのである。
 昭武にとって、それは屈辱的な事態であった、といえる。

最後の将軍の弟  3

2009-01-21 21:43:15 | 小説
 ところで、昭武一行を乗せたアルフェー号だけが、パリ万博参加者のすべてを運んだわけではない。先発船があった。
 慶応2年12月14日、品川沖を出帆し、翌慶応3年2月19日にパリに着いた一行があった。その中に万博出品商人の清水卯三郎が送り込んだ江戸柳橋の芸者3名がいた。寿美(すみ)、加祢(かね)、佐登(さと)の3女性である。
 彼女らは、万博会場の日本茶屋で茶や屠蘇酒を客にふるまったが、その着物姿が評判になったらしい。
 新聞(写真は当時の『ザ・イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に載ったイラスト)にもとりあげられ、連日、大入り満員だったという。
 小説『カルメン』の著者メリメは、この3人の日本女性のいる茶屋を訪れていた。メリメは、そのときの様子を女友達に手紙で知らせている。
「先日博覧会へ参りまして、そこで日本の女を見ましたが、たいへん気に入りました」と。そして「彼女たちをとりまいている物見高い連中といっしょになって眺めながら、わたしはヨーロッパの女が日本の群衆の前に出たとしたら、こうまで落ちつきはらってはいられまいと考えました」
 と書いている。
 彼女たちはメリメにおおいなる感銘をあたえていたのである。
 そのメリメの手紙に、実は見逃せない文言があった。メリメは日本茶屋は「薩摩公」が出したものと解釈しているのである。
 というより、どうやら江戸を支配しているのは「薩摩公」と誤解している。なぜか。

最後の将軍の弟  2

2009-01-19 22:57:37 | 小説
 イギリス側のスパイとは、アレクサンダー・シーボルトのことである。駐日イギリス公使館付通訳であった。
 名前からすぐに連想されるように、私たちがよく知っている、楠本イネの父親でもあるフィリップ・シーボルトの長男である。
 フィリップ・シーボルトは日本人妻と娘イネを残してオランダに帰国し、1845年、ガーゲルンという女性と結婚し、翌1846年にアレクサンダーを生んでいた。1859年、その息子アレクサンダーを伴って、オランダ貿易会社顧問として再来日していたのである。
 アレクサンダーは日本に来て2年足らずで、日本語をマスターしたらしい。そしてイギリス公使館の定員外通訳となっていた。
 彼は昭武一行の渡仏にさいし、自分を売り込んでいた。ちょうど休暇で本国に帰るところだから、船中での通訳その他お手伝いをしてもよろしいですよ、というわけだ。
 イギリスがフランスと対日外交でなにかと競い合っていたことは、よく知られている。イギリスにすれば、将軍名代のパリ万博参加はおおいに気になるところである。
 イギリス公使ハリー・パークスがアレクサンダーにある種のミッションを与えていたと思われる。
 スパイというのは、あながち言い過ぎではない。宮永孝氏は『プリンス昭武の欧州紀行 慶応3年パリ万博使節』(山川出版社)に書いている。

「イギリス政府の回し者(スパイ)として昭武一行の船に乗り込んだシーボルトは、公子(昭武のこと)をはじめ向山駐仏公使や山高ら側近を丸め込むことに成功した。
 シーボルトは一行の動静をつぶさに観察し、それを逐一、イギリス外務省のハモンド外務次官に報告した。かれの一連の諜報活動は、ついぞ発覚することなく、維新後こともあろうにかれは新政府につかえた。そのルポはすべて書簡のかたちでいまイギリスの文書館に保管されている。」

最後の将軍の弟  1

2009-01-17 17:43:39 | 小説
 浦賀にペリーが来航した嘉永6年(1853)9月、江戸駒込の水戸藩中屋敷で生まれた男の子は、余八麻呂と名づけられた。18番目に生まれた男子だったからである。
 水戸藩主徳川斉昭の18男、のちの徳川昭武である。
 昭武は満13歳のとき、将軍の名代としてパリ万国博覧会に派遣されることとなった。彼の16歳年上の異母兄は将軍徳川慶喜であったのだ。
 フランス皇帝ナポレオン三世が自国の威信をかけたパリ万博は、1867年4月1日より10月4日まで開催された。だが、ここでは都合上、陰暦で話を進めたい。すると慶応3年2月27日開会、同年10月8日閉幕ということになる。期間中の延べ入場者は680万人、各国の王族・元首が式典に参加し、パリは国際外交の舞台ともなった。もっともイギリス女王とアメリカ大統領は参加していない。
 さて少年昭武が慶喜の名代ということは、彼が慶喜の後継者つまり次期将軍ということを諸外国に公表したようなものである。
 万博への派遣を機に、慶喜の狙いは別のところにあった。渡仏の直前に、慶喜が昭武にあてた文書(注)がある。そこにはこう書かれている。

1 博覧会展観後、条約済各国え罷越、可致尋問候事
1 各国尋問済次第、仏蘭西へ留学可致、尤凡三ヶ年乃至五ヶ年程之積り相心得、若学業未た手ニ入兼候ハゝ、尚年限相増し可申事

 条約済みの各国を歴訪しろということは、日本の主権が幕府にあるということをアピールしてこいということだ。そして、その後3年から5年かけてフランスに留学しろというのは、次期将軍として先進国の学問と国際感覚を身につけさせようとしているのである。この時点で、先行き幕府が崩壊するなどとは慶喜も、昭武も思ってはいない。
 慶応3年1月11日、少年昭武は横浜からフランス郵船アルフェー号で出帆した。レオン・ディリー駐日フランス長崎領事を含め随行員は31名。その中には、渋沢栄一(当時は篤太夫)もいた。そして、イギリス側のスパイもいた。


(注)1月3日付、署名のない文書であるが、慶喜の筆跡とされている。水戸徳川家に伝わる。