小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

チャンドラー、最後のヒロイン

2009-07-28 16:00:54 | 読書
 チャンドラーの遺作『POODLE SPRINGS』は、わずか4章が書かれたままだった。この未完の小説は30年後にロバート・B・パーカーによって完成させられ、『プードル・スプリングス物語』として邦訳(菊池光訳、早川書房)も出ている。
 われらが主人公の私立探偵フィリップ・マーロウは、なんとリンダ・ローリングと結婚し、新婚25日目に、夫婦で新居を見に行く場面から始まる。それがこの遺作だ。
 リンダ・ローリングはご存知『長いお別れ』に登場した人妻だった。村上春樹の新訳『ロング・グットバイ』(早川書房)から、彼女の登場場面を見てみよう。

「バー・スツールには、黒いテーラードメイドの服を着た女性が一人座っていた。こんな季節に着ていられるのだから。オーロンだかなんだかそういう化学繊維で作られたものに違いない。彼女は淡い緑色をした飲み物を前に置き、長い翡翠のシガレット・ホールダーで煙草を吸っていた。細部までくっきり締まった顔だちだった。それは神経症のしるしかもしれないし、性的飢餓のしるしかもしれないし、あるいはただ極端な食事療法をとっているだけかもしれない」

 物語はマーロウの視点で叙述されているから、これがマーロウの彼女に対する第一印象であり、なにかぎすぎすとした女性という印象を読者も持たされる。「性的飢餓」などという表現は、彼女が夫とはすでに冷たい関係になっていることのチャンドラー流の伏線である。
 事件がほぼ解決した終章近くで、彼女はマーロウの家に一泊用の鞄を持ってやってくる。ところがふたりは、ちょっとした行き違いでいさかいをして、マーロウは彼女が帰ったと思ってしまう。
 チャンドラーは、決してすんなりと進行するラブシーンを書かない。

「背後から声がした。『馬鹿ね。行ってしまったと思ったの?』
 ドアを閉めて振り向いた。彼女は髪をほどき、はだしの足に房飾りのついたスリッパを履き、絹のローブを羽織っていた。日本の版画の夕日みたいな色あいのローブだった。らしくない恥ずかしげな微笑を顔に浮かべ、ゆっくりとこちらにやってきた」(村上春樹訳)

 かくて彼らは結ばれた。けれども私はチャンドラーが彼らを結婚させるとは思いもしなかった。マーロウはこのとき42歳、リンダは36歳だった。

 ついでにロバート・B・パーカーが描くところの二人のラブシーンはこうなる。

「リンダがスーツの上衣のボタンを外して脱ぎ、スカートのジッパーを下ろして抜け出た。下着を脱いで床に落とすと、背筋を伸ばしてまた私にほほえみかけた」(菊池光訳)

『プードル・スプリングス物語』の最終章で、紆余曲折あったふたりが再び愛を確認しあう場面の描写だ。チャンドラーははたしてこんな書き方をしただろうか。
 リンダは大富豪の娘である。もとよりマーロウは妻の財力に頼るような男ではなく、リンダの意に反して、しがない探偵稼業をやめようとしない。ハードボイルドの美学は、いわば痩せ我慢である。そこにふたりの葛藤がある。いったいチャンドラーはふたりの愛の行く末を、どう構想していたのか。もっとも考えつきやすいのは、彼女をなんらかの事件に巻き込ませて死なせることである。すくなくともマーロウの孤絶感は担保できるからである。パーカーだって、そう考えたはずだ。しかし、おそらくそれでは安易過ぎるとして、そうはしなかった。
 村上春樹の新訳を再読していて、ふと思った。チャンドラーは裏の裏をかくひとだ。たぶんチャンドラーの遺作では、リンダは死ぬ運命だったと。リンダは『ロング・グッドバイ』で登場した女性だ。彼女と結ばれた日の翌朝の描写。

「さよならを言った。タクシーが去るのを私は見まもっていた。階段を上がって家に戻り、ベットルームに行ってシーツをそっくりはがし、セットしなおした。枕のひとつに長い黒髪が一本残っていた。みぞおちに鉛のかたまりのようなものがあった」(村上春樹訳)

 そのあとに、二行ほど文章があって、あの有名な台詞がある。
「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」
 思えば、『ロング・グットバイ』はいくつかの別離が主調低音にある作品だった。チャンドラーの遺作は、その続編だったと考えられないか。遺作の、つまりチャンドラーの最後の作品のヒロインはリンダであり、彼女にほんとうの「さよなら」を、マーロウは、あるいは私たち読者は告げざるをえない設定が構想されていたのではないだろうか。

日食と卑弥呼

2009-07-23 22:58:21 | 小説
 日本では46年ぶりという皆既日食の日、南の島々での観測騒ぎをテレビの画面で見ながら、ふと卑弥呼の時代の日食に思いをはせていた。
 247年に日食があった。それは卑弥呼の死んだ年とされており、邪馬台国の女王の死は日食と関係があったする説がある。あるいはアマテラスの岩屋戸に隠れる事件は、日食を象徴する神話であり、アマテラスには卑弥呼が投影されているという説がある。
 だが、卑弥呼の死と日食を直接結びつける史料はない。まして日食に動揺した邪馬台国の人々によって殺されたなどというのは小説家的想像の産物でしかない。卑弥呼はおそろしく歳をとっていたから、老衰による自然死だったと思われる。
 魏志倭人伝は女王のことをこう記述している。
「年己長大 無夫婿」つまり年齢はすでに長大で、夫は無く、独り身だったのである。
 卑弥呼が死んだのは、魏の年号である正始8年のこととされているから247年とわかるのだが、さて何歳で死んだのか。
 あまり注目されていないのだが、古代朝鮮の史料である『三国史記・新羅本紀』に卑弥呼の記事がある。
「倭の女王卑弥乎、使いを遣わし来聘す」
 これが173年のことである。死ぬ74年前のことだ。すると彼女がかりに、このとき10歳の女王だとしても、84歳で死んだ勘定になる。
 倭人伝は邪馬台国の人の寿命を「その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年」と書いているが、これは女王その人のことを意識しているのかもしれない。
 ともあれ、247年の日食の年は、たまたま卑弥呼の寿命尽きる年であったということだ。卑弥呼の名の意味が、日の御子あるいは日巫女であったとしても。 

良寛、老いらくの恋  完

2009-07-20 16:36:03 | 小説
 貞心尼は書いている。
「ひるよる御かたはらに有て御ありさま見奉りぬるに ただ日にそへてよわりによわりゆき給ひぬれば いかにせんとてもかくても遠からずかくれさせ給ふらめと思ふに いとかなしく」(『蓮の露』)
 昼も夜も彼女は良寛の傍らにあって、看護に明け暮れた。しかし良寛は日を追うごとに弱ってきて、もはや死期の迫っているのは認めざるをえなくなってきた。
 彼女は歌を詠んだ。

   生き死にのさかひ離れてすむ身にも
          さらぬ別れのあるぞかなしき

 生死の問題を超越すべき仏の道に仕え、棲む身でありながら、それでも避けることのできない別離のあることは、やはりかなしい、と言っているのである。
 良寛はやがて薬はもとより食べ物いっさいをうけつけなくなる。
  
   かひなしと薬ものまずいひたちて
          みづから雪のきゆるをや待つ

 なにか食べなくては、薬も飲まなくてはと、貞心尼はなかば叱責するように良寛に言うけれど、良寛にはそれができない。命の比喩が雪とはせつない。しょせん消えてゆく雪のような命。
 天保2年1月6日の申の刻、良寛は死ぬ。
 貞心尼の悲しみは深すぎて、良寛の死の様子をなにも書けない。
 臨終に際して、誰かが「なにか言い残すことは」とたずねたら「死にとうなし」と答えたという説がある。さもありなんと思う。貞心尼を残して、良寛は死にたくなかったはずである。
 生前の良寛は、こんな歌を詠んでいた。

   良寛に辞世あるかと人問はば南無阿弥陀仏といふと答へよ

 しかし良寛は「南無阿弥陀仏」ではなく「死にとうなし」と言った。良寛の良寛らしいのは、こういうところである。

  この生 何に似たる所ぞ
  騰々 しばらく縁に任す
  笑うに堪えたり
  嘆くに堪えたり
  俗に非ず 沙門に非ず

 と、かって良寛は詠んだ。
 沙門つまり僧でもなく、さりとて俗人でもないと自分を規定した良寛は、引き裂かれた存在だったろうか。そうではなく、それは良寛の自在感のようなものだったはずだ。老いらくの恋に、もし成就があるとすれば、最愛の人に看取られて死ぬことだった。良寛はそのように生きた。
 ちなみに貞心尼は、戊辰戦争を体験し、維新を見て、明治5年まで生きた。         

良寛、老いらくの恋  7

2009-07-17 00:15:17 | 小説
 良寛と貞心尼の交歓は4年足らずで終った。良寛は74歳で死ぬからである。
 天保元年(1830)の越後の夏は記録的な猛暑であった。良寛の体に異変があらわれる。腹痛におそわれ、一日になんどとなく下痢に悩まされるのである。
 その年の冬になると、良寛はいっさい外出をせず、庵に閉じこもったままになった。大腸がんであったらしいが、良寛自身あるいは周りの者たちは、赤痢かなにかの伝染病を疑ったみたいである。閉じこもったのは、そのせいもあるだろう。
 良寛はおのれの病苦を旋頭歌にした。

    ぬばたまの 夜はすがらに くそまり明かし あからひく 昼は厠に
    走りあへなくに

    この夜らの いつか明けなむ この夜らの 明けはなれなば おみな来て
    ばりを洗はむ こいまろび 明かしかねけり ながきこの夜を

 ころげまわって苦痛に耐えている様子が伝わってくる歌だが、さて「おみな」とは誰か。たとえば松本市寿は『良寛 旅と人生』(角川ソフィア文庫)で、病気の世話をする老女と解釈している。「おみな」を「嫗」とみなしたようだが、これはすなおに「女」と理解すべきではないだろうか。女とは、ほかでもない貞心尼である。
 もしかしたら伝染病かもしれない良寛を介護し、「ばり」つまり汚物を処理したりすることのできるのは彼女しかいないのである。あるいは、こう言い換えてもよい。良寛が気兼ねなく、いわゆるシモの世話をゆだねることのできるのは、夫婦も同然の彼女をおいてほかにいなかった、と。
 厳寒の12月23日頃、良寛の容態が急変する。母屋の木村家の者が、良寛の弟の由之と貞心尼に「危篤」を知らせに走った。木村家では、すでに貞心尼を良寛の身内として扱っているのだ。
 貞心尼は、雪のちらつくあの16キロの道を急いだ。
「かくてしはすのすゑかた、(中略)打おどろきていそぎまうで見奉るに さのみなやましき御気しきニもあらず 床のうへに座しゐたまへるが おのが参りしをうれしとやおもほしけむ」(貞心尼『蓮の露』)
 小康状態を保った良寛が、駆けつけてくれた貞心尼を見て、どれほど喜んだか、よくわかるではないか。「おのが参りしをうれしとやおもほしけむ」
 貞心尼は、もうこのままずっと良寛と一緒にいようと決意する。  

良寛、老いらくの恋  6

2009-07-16 06:38:56 | 小説
 貞心尼は「愛する夫に死に別れた悲嘆の極の厭世から」出家したとするのは新潟出身の文学者の相馬御風である。 
 彼は昭和13年に『良寛と貞心』という著書を世に問うているけれど、貞心尼に関する定説の基礎は、ほぼこの著書によって出来上がったといってよい。
 なにしろ相馬御風の強みは、貞心尼の弟子であって、彼女に7歳から20歳までの14年間仕えていたという高野智譲尼に直接取材していることだった。取材時には77歳だったという高野智譲尼は、貞心尼が絶世の美女だったと証言した生き証人でもあった。「うちの庵主さんほどきれいな人を見たことがない」と、この老女は語ったのである。
 さてところが実際は、貞心尼は相馬御風が言うように夫とは死別していなかった。
 奥村ますが嫁いだ関家の過去帳によれば、医師長温が死亡したのは、文政10年2月14日となっている。これは貞心尼が夫と死別したとされる年の8年後となるのだ。つまり、死別ではなく、たんなる離婚だったということになり、相馬御風の言う出家理由はあやしくなるのである。
 先に貞心尼の伝記には腑に落ちないところがある、と書いた。彼女は乳母に育てられたというけれど、奥村家が25石取りの下級武士の家系だとすると、乳母がいたとは思えない。しかも、実母に代わって幼い貞心を養育した女性は、相当な教養があったはずである。一般に、女に教育はいらないとされた時代に、古典文学の教養を深めるための基礎教育を貞心という美貌に恵まれた女性の身につけさせたのは誰だったのか。
 貞心尼が学問好きだったことは、そもそも良寛にあこがれて会いにいったという事実からもわかる。私は、貞心の出家は、厭世とか宗教心から出たものではなく、むしろ学問の場として寺を選んだのではないかと考える。
 寺子屋といえば、昔の学習塾であり、学校だった。なぜ寺子屋なのか。もともと「寺」は、宗教の場であるのとは別に、学問の場であった。寺という学習環境に身を投じること、そこに貞心尼の思いがあったと言えば、貞心尼の宗教心を軽んじることになってしまうだろうか。

良寛、老いらくの恋  5

2009-07-14 20:39:10 | 小説
 橘屋を継いでいたのは、良寛の弟である由之の長男・馬之助だった。
 由之は公金の使途不明金をめぐる訴訟に敗れ、私財没収、所払いの処分を受けて出雲崎を追われ、その子の馬之助も名主見習職を剥奪されていた。だから、良寛と貞心尼が訪問した頃の橘屋は、実質的には没落していた。屋号は有名無実のようなものだった。
 ちなみに由之は良寛同様に剃髪して与板の庵に住んでいた。良寛と由之らの父は、良寛が38歳のときに京都桂川で投身自殺しているらしいから、この血族にはただならぬ陰翳があったといえる。
 そもそも長男である良寛がなぜ家を継がなかったのか。彼はいずれは庄屋となる身分を捨てて、名主見習役だった18歳のときに、突如出家している。その理由については自らは何も明らかにしてはいない。だから、さまざまな説がある。なかには新婚の妻から逃げたというような説もある。あるいは松嶋北渚の『良寛伝』には、こんな記述がある。
「ある日、友人達と女郎屋で遊び、大いに歌い、大いに酔って、百両を遣い果たした。そしてすぐに髪を剃り落とし、自ら良寛と号した」
 これはたぶん話が逆である。剃髪を覚悟したから、最後に遊郭で遊んだのであろう。良寛はただの朴念仁ではない。生涯、酒も煙草もたしなんだ。
 18歳の橘屋山本栄蔵の出家は、要するに世俗のしがらみから逃れたくなったというほかない。
 禅文化研究所編『良寛和尚逸話選』を読むと、良寛は面倒なことがらに遭遇すると、よく逃げる人なのである。
 良寛を理解するには、なにか一筋縄ではいかないところがある。吉本隆明は書いている。
「良寛に近づくには漱石のように『書』からゆく道がある。また大愚という名を国仙からおくられて印可を受けた禅の『師家』として近づく道がある。吉野秀雄や唐木順三の良寛像はそれに近いとおもう。また近世の指おりの歌人や詩人や長歌の人として良寛に近づく方法もあるとおもう。良寛自身はじぶんが宗派をたばねるような俗情と才幹がない性格悲劇をもてあました人間だということをよくしっていて、宗門からも外れて隠棲してしまった。良寛が好きだったのは法華経でいえば『常不軽菩薩品』であった。これは手毬をついて里の子らと遊ぶ良寛の像になり、また師家のいうとおりに慣れあいの修行をやり宗門の位階に眼がくらんだ僧侶にたいして、激しい批判をあびせる良寛の像となってあらわれた」(『エロスに融ける良寛』)
 この「性格悲劇をもてあました人間」という評言は、良寛をよくとらえていると思う。
 その晩年の良寛を、もっともよく理解し、愛したのが貞心尼だった。彼女もまた当時の女性の概念からは、はみだした女性だった。いったい彼女はなぜ剃髪したのだろうか。

良寛、老いらくの恋  4

2009-07-13 23:00:58 | 小説
 良寛と貞心尼のはじめての出会いは、前に書いたように季節は秋であった。
 貞心尼のいる福島村と、良寛の住む島崎は16キロほどの距離があるらしい。しかも山道である。歩きづめに歩いても4時間はかかる距離だ。女の足で、休み休みならば片道5時間以上かかったのではないだろうか。貞心尼がきやすく、ひんぱんに逢えるところに良寛はいないのである。
 冬になれば、雪がなおさらふたりを遮断した。およそ、ものごとに執着の薄かった良寛が、貞心尼との逢瀬を待ち侘びる。

  君や忘る 道やかくるる このごろは 待てど暮らせど 音づれのなき

  あずさ弓 春になりなば 草の庵(いほ)を とく出て来ませ 逢ひたきものを

 いずれも貞心尼を待つ良寛の歌である。
 そして貞心尼がやってくると、こんどは良寛が手放しで喜んだ。

  いついつと待ちにし人は来たりけり いまは相見て何か思はん

「何か思はん」とは、彼女に逢えたから、もう思い残すほどのことはないというほどの意味である。
 ふたりが良寛の実家である橘屋を訪れたというエピソードがある。
 橘屋は良寛の身内なのだから、直接良寛にものを言えばよいと思われるに、貞心尼に、良寛の書をほしいと頼むのである。
 ひとが良寛さん、良寛さんというのに実家に良寛の書がないのはおかしいから、貞心尼から、何か書いてくれるようにすすめてくれというのだ。で、ふたりを招待し、ご馳走した。ところが良寛は、食べ終わるとひとりで黙って先に帰ってしまった。あとで貞心尼が良寛をなじる。「せっかくご馳走をして何か書いてくださいと頼んでいるのに、何か書いておやりになればいいでしょうに」良寛は言う。「ご馳走されたから何か書かねばならぬなら、おまえさんが何か書いてくればよかったじゃないか」
 まるで夫婦のようなやりとりではないか。しかも実家の橘屋のふたりの遇し方も、あんに二人の仲を認めているように思われる。

良寛、老いらくの恋  3

2009-07-12 17:05:36 | 小説
 文政11年(1827)11月12日、三条大地震(新潟県三条市周辺が被災)があった。平成16年10月に起きた新潟中越地震は、まだ私たちの記憶に新しいが、あの惨状はそっくり三条大地震に重ねることができる。死者の数はむしろ良寛の時代の三条大地震の方が多かった。
 良寛が山田杜皐(とこう)に宛てた有名な手紙がある。

「地震は信(まこと)に大変に候。野僧草庵は何事もなく、親類中、死人もなく、目出度く存知候

 うちつけに 死なば死なずて 永らへて
         かかる憂き目を 見るが侘しさ

 しかし災難に遭ふ時節には災難に遭ふがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。これはこれこれ、災難を逃るる妙法にて候。かしこ」

災難にあう時節には災難にあうがよく、死ぬる時節には死ぬがよくとは、一見ひとをたじろがせるような非情な言葉である。しかし禅的境地の奥深さというよりほかなく、くだくだしい解釈をしては、掌からなにかがこぼれてしまいそうだ。
 文政11年、つまり良寛が貞心尼と出会った翌年の大地震であった。
 さて、恋もまた災難のようなものだ。恋におちる時節は恋におちるがよく候と、もじっては不謹慎だろうか。たとえ僧と尼僧の破戒的な恋、40歳という年齢差の常識はずれな恋としてもだ。
 良寛は「天真に任す」という生き方をつらぬいた。
 己の覚悟を詠んだ漢詩がある。なんども読み返したくなるいい詩だ。

  生涯 身を立てるに懶(ものう)く
  騰々として天真に任す
  嚢中 三升の米
  炉辺 一束の薪
  誰か問わん 迷悟の跡
  何ぞ知らん 名利の塵
  夜雨 草庵の裡
  双脚 等閑に伸ばす

「誰問迷悟跡 何知名利塵」は、悟りだの迷いだの、そんな痕跡はどうでもよい、名声だの利益だのそんなものは塵のようなものだ、と言い切っているのである。天然ありのままに生きよう、それが「天真に任す」である。
 良寛の老いらくの恋を、むろん迷悟の痕跡として論じようとしているわけではない。ジイドに「善か悪か懸念せずに愛すること、君に情熱を教えよう」という言葉がある。もし、そういう言い方が許されるならば、私はただ良寛の情熱に目をみはっているだけだ。

良寛、老いらくの恋  2

2009-07-10 06:43:14 | 小説
 良寛と貞心尼の出会いは、文政10年(1827)の秋のことであった。(注:文政9年説もある)
 良寛は前年に、約30年の長きにわたって独居生活を送った国上山中から里に降りてきていた。山中での生活が肉体的に厳しくなったのではないかといわれている。
 里に降りて越後三島郡島崎村(現在の長岡市)の木村家(屋号能登屋)の裏庭にある小屋を住処とした。母屋に住んで欲しいという木村家の要請を断って、薪小屋を改造した離れに住んでいたわけである。
 その離れを、かねて良寛という存在に関心をいだいていた貞心尼が訪問したのがはじまりだった。
 良寛70歳、貞心尼30歳であった。
 良寛は越後三島郡出雲崎の出身である。大名主の長男で、もとの名は山本栄蔵。生家の屋号は橘屋という。
 貞心尼の俗名は奥村ます。長岡藩士奥村五兵衛の娘として生まれ、幼くして実母と死別、乳母にそだてられたという。17歳のときに北魚沼郡出身の医師・関長温に嫁いだが5年後に離婚して、実家に戻ったらしい。23歳のときに閻王閣という尼寺で「貞心尼」という名をもらい、独立して長岡市外の福島村の閻魔堂を拠点としていた。
 貞心尼の伝記には、私には腑に落ちないところがあるが、それは後で触れることになるだろう。
 良寛とはじめて会ったときの貞心尼の歌は手放しの感激ぶりである。

 きみにかく あひ見ることのうれしさも
         まださめやらむ ゆめかとぞおもふ

 貞心尼は、いわば良寛のフアンであった。良寛の詩歌の才能と名声に強い憧れをいだいていたのである。
 良寛の返歌は次のような歌である。

 ゆめの世に かつまどろみて ゆめをまた
         かたるもゆめも それがまにまに

 ふたりのそれからを暗示するキーワードが「それがまにまに」ではないかと思う。

良寛、老いらくの恋  1

2009-07-09 01:45:44 | 小説
 男と女がいる。
 男は70歳で、女は30歳である。男は禅僧であり、女は尼僧であった。
 良寛と、美貌できこえた貞心尼のことである。ふたりながら仏につかえる身で、それも40歳という年齢差のある男女に、スキャンダルとしての視線を向けるのでなく、その愛の行方をなぞろうと思う。だから、書き出しは原初のかたちとして、男と女がいる、とした。
 良寛と貞心尼については、すでに瀬戸内寂聴が小説『手毬』に書いている。吉本隆明に、この瀬戸内作品を批評した「エロスに融ける良寛」という小論がある。そこで吉本隆明は、こう述べている。
「どこからつついても淡あわしい交遊、交歓だったふたりの関係を作品らしい濃度に仕上げるため、作者はいくつか独自な工夫をこらす。その工夫が作者の文学なのだといっていい」
 さらに貞心尼は「とうていエロスをもって良寛を融かす存在ではありえなかった」とも述べている。ふたりの関係を、ほぼプラトニックなものと断定しているのである。
 はたして、そうだろうか。そう言いきれるだろうか。
「どこからつついても淡あわしい交遊」に過ぎない、とは思えないのである。
さて、ではどこからつついてみようか。
 貞心尼の歌がある。

 いかにせむ学びのみちも恋くさのしげりていまはふみ見るもうし

 尼僧が堂々と「恋」の歌を詠んでいる。しかも、学ぶこともどうでもよくなったほど恋におちたという意味の歌をである。
 この歌に対する良寛の返歌がある。

 いかにせんうしにあせすとおもひしも恋のおもにをいまはつみけり

 良寛と貞心尼の間で、たくさんの歌のやりとりがあった。相聞歌である。
 歌がフィクションであるとは思えない。   

吉本隆明語る「思想を生きる」

2009-07-04 16:02:09 | 読書
 京都精華大学の創立40周年記念事業のひとつとして、同大学の名誉教授笠原芳光氏が吉本隆明氏にインタビューしたDVDが限定5000部で無償配布された。『吉本隆明語る 思想を生きる』である。申し込んでいたそのDVDが本日届いて、さっそく視聴した。
 吉本さんの自宅で採録されているので、本郷のご自宅の玄関や書斎の様子が映されている。書棚に漱石の写真が飾られていて、あっと思った。その写真は、かって鉛筆画で模写し、私も同じように書棚に飾ってあったからだ。さらに思わずにやりとしたのは書棚の横にブロンドのピンナップガールのヌード写真が無造作に貼られてあったことだ。80歳を過ぎてエロスはなおお忘れではないらしい。かなりの茶目っ気ぶりというべきか。
 最初のお話で、60年安保闘争時の吉本さんの行動に平野謙が好意的であったことが語られた。あの当時、吉本さんは全学連と一緒に抗議デモに参加されたが、あくまでも学生と同じ一兵卒として行動したのであり、全学連主流派のブレーンでもなく、組織的なアジテーターでもなかったと明らかにされた。思えば第9回『群像』新人文学賞に「吉本隆明」論で応募したとき、私は吉本さんを全学連のブレーンとみなすことに異を唱え、もっぱら文学者としての吉本さんをとらえた。そのことは間違っていなかったと、うれしい思いで吉本さんの言葉に耳を傾けていた。
『群像』新人文学賞の当時の選者には平野謙がいた。平野謙には私の吉本論は違和感があったのか、誉めてはもらえなかった。ついでに書けば、選者は伊藤整、中村光夫、大岡昇平、それに平野謙の4人で、大岡昇平は小説部門の作品より、評論部門の私の吉本論のほうがよいと言って下さった。小説部門はのちに芥川賞作家となった畑山博の作品だったが、ふたりとも最優秀作として雑誌には掲載されたが、第9回新人文学賞は該当作なしとなっている。いや、吉本さんのことを語るべきだった。
『群像』の編集者から、吉本さんが雑誌の対談などで見せる様子をうかがったことがあった。シャイで、相手の目をあまり見ず、右手をテーブルに曲げて載せたまま、顔を伏せて、そのくせ過激な言葉を吐くというものだった。しかしDVDに映る吉本さんは、笠原氏の目をまっすぐ見て、昔日の過激さはない。ただ右手はしきりに動き、ときおり白髪の頭にのせられる。やはり老いの語り口になっていて、どこかもどかしい印象を与えるけれども、結語の部分はさすがに迫力があり、思わず襟を正したくなった。
 ひとは資質や宿命を自分で選んだわけではないが、それでもそれは自分に固有のものであるから、自分の考えで固有の人生を歩めれば、もって瞑すべしではないかと同席した大学のスタッフに力強く語るのである。
 DVDの最後に吉本さんの詩「苦しくても己れの歌を唱へ」が引用されている。その詩は、インタビューの結語によく似合っている。

   苦しくても己れの歌を唱へ
   己れのほかに悲しきものはない
   つられて視てきた
   もろもろの風景よ
   わが友ら知り人らに
   すべてを返済し
   わが空しさを購はう