さて、太公望没後400余年、春秋時代の最初の覇王となった桓公は、太公望の子孫だとされている。ということは、太公望には子がいたのである。
その子の母親は誰か。貧乏暮らしに耐えられず、彼を甲斐性なしとして追い出した、あの妻とは思えない。太公望が仕官して、生活が安定したのちに愛人ないし再婚相手に生ませた子であろう。すると彼の年齢が気になるのである。70才を過ぎてなおかつ生殖能力のある男性はいないわけではないが、それならそれで、もっと話題になっていそうなものである。
呂尚すなわち太公望が周王に仕えてからの活躍ぶりを見ても、とても高年齢者とは思えない。戦闘にあたっては、彼はみずから本軍を率いて敵軍に突入したりするのである。
呂尚の年齢は『史記』が示唆するような高年齢ではなく、はるかに若いとみるべきではなかろうか。
その軍略の見事さに老成さを感じた後世の史家が、彼を仙人のような老人にしてしまったのではないのか。
戦場でまだ占いや祈祷がはばをきかせていた古代中国にあって、彼の兵法の極意は、いってみれば洞察力と合理性に満ちたものだった。その兵法は斬新だったのである。
その子の母親は誰か。貧乏暮らしに耐えられず、彼を甲斐性なしとして追い出した、あの妻とは思えない。太公望が仕官して、生活が安定したのちに愛人ないし再婚相手に生ませた子であろう。すると彼の年齢が気になるのである。70才を過ぎてなおかつ生殖能力のある男性はいないわけではないが、それならそれで、もっと話題になっていそうなものである。
呂尚すなわち太公望が周王に仕えてからの活躍ぶりを見ても、とても高年齢者とは思えない。戦闘にあたっては、彼はみずから本軍を率いて敵軍に突入したりするのである。
呂尚の年齢は『史記』が示唆するような高年齢ではなく、はるかに若いとみるべきではなかろうか。
その軍略の見事さに老成さを感じた後世の史家が、彼を仙人のような老人にしてしまったのではないのか。
戦場でまだ占いや祈祷がはばをきかせていた古代中国にあって、彼の兵法の極意は、いってみれば洞察力と合理性に満ちたものだった。その兵法は斬新だったのである。