小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

虎の巻  7

2006-06-28 22:26:42 | 小説
 さて、太公望没後400余年、春秋時代の最初の覇王となった桓公は、太公望の子孫だとされている。ということは、太公望には子がいたのである。
 その子の母親は誰か。貧乏暮らしに耐えられず、彼を甲斐性なしとして追い出した、あの妻とは思えない。太公望が仕官して、生活が安定したのちに愛人ないし再婚相手に生ませた子であろう。すると彼の年齢が気になるのである。70才を過ぎてなおかつ生殖能力のある男性はいないわけではないが、それならそれで、もっと話題になっていそうなものである。
 呂尚すなわち太公望が周王に仕えてからの活躍ぶりを見ても、とても高年齢者とは思えない。戦闘にあたっては、彼はみずから本軍を率いて敵軍に突入したりするのである。
 呂尚の年齢は『史記』が示唆するような高年齢ではなく、はるかに若いとみるべきではなかろうか。 
 その軍略の見事さに老成さを感じた後世の史家が、彼を仙人のような老人にしてしまったのではないのか。
 戦場でまだ占いや祈祷がはばをきかせていた古代中国にあって、彼の兵法の極意は、いってみれば洞察力と合理性に満ちたものだった。その兵法は斬新だったのである。
 

虎の巻  6

2006-06-27 21:53:56 | 小説
 唐突だが、司馬遼太郎のペンネームの由来は、よく知られているように司馬遷に由来している。司馬遷にははるかに及ばない男、というのが「司馬遼太郎」の意味である。しかし、司馬遷の『史記』の文学性は大衆性にあるという雑喉潤の意見(『史記の人間学』講談社現代新書)に私は賛同する。そういう意味合いからすれば、司馬遼太郎は司馬遷に優るとも劣らない。
 太公望のことは『史記』にある。古来、というか明治維新まで、わが国における永遠のベストセラーは『史記』と『論語』であった。その『史記』に書いてあるから、多くの『史記』読者から太公望の伝記はそのままに信じられてきた。
 私は信じない。
 太公望が亡くなったのは、百余才だったはずと『史記』の「斉太公世家」は記す。そんな馬鹿な、嘘だろうと思ってしまう。
『戦国策』という中国の史書がある。前漢の劉向の編纂命名とされている。太公望に言及した記述がいくつかある。
 姚賈(ようか)という人物が、秦王にいうセリフに、こういうのがある。
「太公望は斉で妻においだされた夫、朝歌(殷の首都)で腐れ肉を売っていた者、子良におっぱらわれた臣、棘津で身を売ろうにも買い手のつかなかった男、云々」
 妻に愛想づかしされたことだけは有名であったらしい。

(前回のカッコ内の記事中、舌足らずになっていた箇所を訂正しました)

虎の巻  5

2006-06-26 20:51:47 | 小説
 覆水盆に返らず、という諺がある。
 太公望とその妻の故事に由来している諺だ。不遇だった太公望が、周王の重臣となり、軍事参謀として成功し、斉の領主にまで出世する。すると、彼を見限ったはずの妻が、いまさらのように復縁を迫った。太公望は、かっての妻の前で、盆に入れた水を地にまいた。「この水をもとに戻せたら承知しよう」と言ったのである。
 太公望、本来の姓は姜(きょう)であるが、遠祖が呂という地に封じられていたので呂姓をなのり、呂尚(りょしょう)と称した。太公望という呼び名自体が彼の人生の転機となった挿話をあらわしている。
 太公とは父の尊称である。「父が望んだ」人物という意味が太公望である。ここで父というのは、周の文王の父のことだ。
 渭水で釣りをしていた呂尚と会った文王は、彼と話を交わすうちに「この人物こそは父が待ち望んでいた人物だ」と悟るのである。父(太公)はかねて「いずれ聖人が周にやってきて、周の興隆のためにつくしてくれるだろう」と予言してのであった。
 かくて呂尚は文王に仕え、その子武王をもたすけ、大国殷をほろぼして周を一大強国となしたのである。
 太公望が文王と出会ったのは70才を過ぎた晩年であったというのが通説である。しかし、ここのところが私には納得がいかない。
覆水盆に返らず、という諺の故事は、どうみてもまだ男女の生々しさが漂っている。なにかが変だ。
(ちなみに太公望が釣りをしていた場所というのが特定されていて、現在も観光地になっているから、中国という国の歴史は端倪すべからざるものがある。わが国では、紀元前どころか、たかが3世紀の卑弥呼の墓さえわからない)

虎の巻  4

2006-06-25 17:50:34 | 小説
 義経が張良の化現とされたことは、おそらく義経の風貌に関する伝説にも一役かっているはずだ。なぜなら張良は女とみまがうような美男子だったと伝えられているからだ。漢王劉邦に仕えた軍事の天才は役者のような男だったのである。義経もまた眉目秀麗な源氏の御曹司として、そのイメージが定着するのは張良がだぶっているのではなかろうか。実際の義経は醜男だったという説もあるからである。
 それはさておき、張良はほんとうに『六韜』の「虎の巻」を読んだのであろうか。実も蓋もない言い方になるが、張良が不思議な老人(黄石公とよばれる)から得た太公望の兵法書は、『六韜』ではない。張良は紀元前250年から185年頃の人物。ところが現存する『六韜』はその後の成立、つまり太公望の撰ではなく、後人の偽作とされるからである。
 現存する『六韜』は、なるほど太公望と周の文王および武王の問答集という体裁になっている。王が質問し、太公望が答えるというQ&A方式なのである。そこに太公望の思想と政治および軍事に関するノウハウが踏襲されているとしても、太公望本人の著書ではないのだ。
 話は時代をいったりきたりすると前にも書いた。双六ゲームのように「上がり」が見えないのだが、実は「虎の巻」をめぐるゲームのシナリオを作ったら面白いのではないかと、ふと思いついたことがあったのだ。『新宿鮫』シリーズの作家大沢在昌氏が、ゲームのシナリオをてがけて意外に面白かったと、かって述べていた。「虎の巻」をめぐっては、これまで紹介したように歴史上の有名人物が、それも中国と日本両国にまたがり、ごろごろと出てくる。小説という形式で時空を稠密に描くことは無理であるが、劇画ないしゲームシナリオなら、「虎の巻」をめぐる物語も可能なように思えたのである。
 それにしても、出発点は太公望である。うだつが上がらず妻にも見捨てられて、孤独に釣り糸をたれていた老人の身の上に、いったい何が起きたのか。

虎の巻  3

2006-06-21 23:12:02 | 小説
 さて話は、時代をいったりきたりするけれども、虎の巻が兵法書であり軍事戦略の教本であるならば、戦国時代に話題になっていない方がおかしい。
 やっぱりという感じだが、武田信玄が虎の巻を見ていたのである。京都鞍馬寺から「虎巻の法」修法の「勤行巻数」と「本尊の絵像」を受け取ったという、武田信玄の礼状が存在するらしい。(私は未見)
 なぜ鞍馬寺、いや、やはり鞍馬寺というべきか。
 鞍馬寺といえば坂上田村麻呂がその化身とされた毘沙門天信仰の寺である。そして義経が牛若丸時代に修行した場所であり、鬼一法眼ゆかりの寺である。虎の巻を追ってゆくと、この寺に収斂されてくるものが多すぎるほどだ。
 ところで、武田信玄が虎の巻といっしょに受け取った「本尊の絵像」とはなんだろう。
 室町時代の一条尚敬の日記によれば、鞍馬寺には「兵法之道場」というのがあって、本尊は「張良化現大天魔義経神」と書いた短冊であった、という。短冊と「絵像」ではイメージが違うし、義経以前から存在する寺のはずだ。軍神としての毘沙門天の絵像の方が武田信玄にはありがたかったというものだ。
 それはともかく、義経は張良の「化現」つまり生まれ変わりと見なされたことが、これでわかる。

虎の巻  2

2006-06-20 22:42:05 | 小説
『御伽草子』の記述は、いささか荒唐無稽であるけれど、作者は義経が「虎の巻」を入手しており、だからこそ戦さ上手であったと言いたかったのであろう。義経が「虎の巻」を読んでいるという見方は、室町時代にはかなり一般的であったらしい。
『義経記』では、もっと現実的な記述になる。義経は、鬼一法眼の娘と契りを結び(要するにたぶらかし)、鬼一法眼の所持していた「虎の巻」その他を写し取るのに成功した、と書くのである。鬼という字はついていても、こちらは人間である。人間の娘と交わったのである。
 鬼一法眼、京都一条堀川に住んでいたという陰陽師である。ただの陰陽師ではない。武鬪派である。剣術の京八流の祖とされ、剣術の神としても崇められている。
 それにしても、なぜ鬼一法眼は、これらの兵法書を持っていたのか。早い話が平将門から入手したことになっている。では平将門は誰から譲り受けたのかと順繰りにさかのぼってゆくと、平安の将軍藤原利仁、そして坂上田村麻呂にゆきつく。
 坂上田村麻呂、いわずと知れた人物である。774年から811年に及ぶ東北38年戦争で、後半に活躍して蝦夷の抵抗を制圧した征夷大将軍である。蝦夷の首魁のアルテイ、モレ以下500人の蝦夷を投降させた。軍神と崇められ、毘沙門天の化身とたたえられたが、伝えられている容貌は外人である。赤ら顔に黄色いひげ、なのだ。事実、先祖は倭人ではない。
『群書類従』に彼の簡単な伝記がある。出自は前漢高祖皇帝となっている。後漢が滅んだ頃、一族百人ばかりでわが国に亡命した阿智王の子孫だというのである。なるほど、出自が大陸であるならば、坂上家に「六韜」兵法書があってもおかしくはない。
  

虎の巻  1

2006-06-19 22:09:21 | 小説
 はるか昔の中国、紀元前も紀元前、周の時代に呂尚という軍師がいた。後に斉の始祖となった人物である。呂尚というから、わかりにくい。釣り好きの代名詞となった人物といえば、誰もが知っているだろう。太公望である。この太公望の撰になるという兵法書がある。
 「六韜」という。「文、武、龍、虎、豹、犬」の六巻からなる。「虎韜の巻」がいわゆる「虎の巻」であり、今日の参考書あるいはあんちょこの語源になっている。「虎の巻」は秘伝の書だった。
 秦の始皇帝の時代、張良という人物がいた。始皇帝の暗殺も企てたことのある人物だが、前漢王朝の基礎を築いたことで知られている。その張良は、あるとき橋上で不思議な老人と出合い、兵法書を譲り受けた。太公望の「六韜」とされている。
 さて、話はわが国に移る。
 以下は室町時代の『御伽草子』の一節。

 日の本より艮(うしとら)に当たりて、きまん国といふ島は、鬼の島にてありけるが、鬼の大将は八面大王と申すは、四十二巻の虎の巻をもちてありけるぞ。彼の島に渡り、大王が婿になり、一人娘の朝日天女に契をなし、この巻物を引出物に取り、それよりも立帰り、秀衡五十万騎を引率し、汝十八と申すには、都へさし上すべし。
 
 秀衡という固有名詞が出てくるから、鬼の大王の娘と契を結んで虎の巻を手に入れた人物の名は、もはや言うまでもないだろう。牛若丸、そう義経のことである。

「悪党芭蕉」という本

2006-06-18 14:59:12 | 読書
「老人アイドルと化した芭蕉を、俗人と同じレベルで」考えなおしたい、という嵐山光三郎『悪党芭蕉』(新潮社)を、面白く読んだ。タイトルほど内容は奇を衒ったものではない。ごくまっとうな芭蕉論と私などは思うけれど、俳聖芭蕉の心酔者にしてみれば、異端的な書に映るかもしれない。嵐山氏が芭蕉に造詣の深いことは知っていたが、こんなふうに芭蕉を見ている人とは思っていなかった。てっきり、俳聖としての芭蕉心酔者のひとりだと、この著書を読むまでは誤解していた。 ただし、嵐山氏は芭蕉をあくまでも職業的俳諧師として、芭蕉忍者説あるいは隠密説にあえて触れようとせず、いっさい無視している。芭蕉の主業を、幕府の諜報活動の請負人と見る私などの立場からすれば、この点がいささかはがゆい。 芭蕉の弟子には「危険な人物」(嵐山氏)が多く、芭蕉の出自よりはるかに上の藩士や藩士くずれの浪人、医者、豪商が多い。嵐山氏は「なぜ一介の俳諧師が、かくも強力な文武両道にわたるネットワークをはりめぐらす奇跡ができたのか」と不思議がる。私はこれこそ諜報活動のシンジケートであって、そう見れば不思議でもなんでもないという立場である。 ところで芭蕉と杜国の男色関係については、私は「芭蕉の男色説」に書いたように否定的だった。しかし嵐山氏の考察を読むうちに、ちょっと自信がもてなくなった。考え直さなくてはならないかもしれない。
悪党芭蕉

新潮社

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道真怨霊  完

2006-06-11 15:34:15 | 小説
 天神社の発祥は947年の北野神社からとされている。北野は平安京の近郊農村地であった。道真とは関係なく雷神信仰がもともとあったところらしい。2年後の949年には、道真怨霊(雷神)をたくみに政治的に利用した藤原忠平が没している。その10年後、忠平の子で右大臣となった藤原師輔が資材を寄進して本格的な神殿を作った。忠平系藤原氏の崇敬する社となってゆくのである。
 庶民はといえば、打ち続く天変地異に苦しんでいたが、せめて原因がわかれば、おののく不安も少しはやわらぐといった情況にあった。原因のわからぬ天変地異のほうが恐いのである。しかし、道真のたたりとわかれば、その怨霊を鎮めればよいという対策はとれるのであるから、なにがしかの安堵感がある。藤原氏にしても、庶民の天神信仰に同調して、道真怨霊を鎮めれば、とりもなおさず藤原氏への支持、政権の安泰につながるという局面を迎えるに至るのだ。
 987年には、一条天皇が北野天満宮に行幸、官幣社に列するようになる。
 かくて、たたる神は変容する。
 怨霊は、農耕神、至誠の神、弱者救済の神、子供の守り神、芸能の神、書道の神、さらに学問の神と変化した。とりわけ、江戸時代には寺子屋の神様として庶民に親しまれ、天神講なる催しも行なわれ、これが天神様は学問の神様という今日の信仰の対象につながっている。
 菅原道真という一個人の「御霊」は、おそらく道真のあずかり知らぬところで「怨霊」として勝手に政治の具に利用された。しかし、千年以上の歴史を閲してみると、道真のピュアな学者魂だけが天神様となったのである。
 ちなみに、歌舞伎の三大名作は「義経千本桜」に「仮名手本忠臣蔵」それに「菅原伝授手習鑑」である。義経といい、赤穂四十七士といい、そして道真といい、私たちは「悲劇」の主人公が好きである。     

道真怨霊  9

2006-06-10 22:37:31 | 小説
 藤原一門と天台密教のつながりは早くからあったが、一門の内部抗争の過程で、天台座主をより緊密に味方につけたのは、藤原忠平であった。たとえば、時平の長男で大納言保忠は病床にあったとき、密教僧の唱える平癒祈願の呪文を呪詛の言葉と聞き間違えて狂死したという説がある。これなど、大納言の聞き違えではなく、まさしく呪い殺した可能性がなくもない。忠平にとって時平の眷族は根絶やしする必要があったからだ。むろん道真怨霊のたたりで皆に死んでもらうのである。
 ただし、時平の息子でやはり道真怨霊のために短命だったとされる権中納言敦忠の場合は、むしろ女の怨念によって命を縮めたのかもしれない。余談のようになるが、三十六歌仙のひとりであった藤原敦忠の歌に触れておこう。彼は情交のあとの歌を詠んだ。歌は百人一首にある。

 逢ひみての のちの心にくらぶれば 昔は物を思はざりけり

 ところが彼はこの恋の相手の女人を捨てた。女の名は通称右近。彼女の歌も百人一首にある。いわば、返歌である。

 忘らるる身をば思はず 誓ひてし人の命の惜しくもあるかな

 忘れられた自分のことはどうでもいいけれど、二人の愛を神に誓いながら、破ってしまったあなたは神罰が当たって命を失うのが惜しい、と凄味をきかせた歌なのである。
 事実、彼の命も短かった。やはり道真がたたったと人はいうけれど、女人の怨念で短命に終わったというほうが、この平安のプレイボーイにはふさわしいかもしれない。 
 

道真怨霊  8

2006-06-08 21:40:04 | 小説
 さて、鎌倉時代の天台座主に慈円がいる。慈円は、その著書『愚管抄』に藤原忠平について、奇妙な記述をのこしている。
 忠平は常人ではない、というのである。禁中の仁王会に忠平は姿を見せずに声だけで参加した。そんなことができるのは「隠形の法など成就したる人」だからと伝え聞いている、と書くのである。
 隠形の法とはなにか。 
 手元の岩波書店刊・日本古典文学大系『愚管抄』の頭注を以下にそのまま写す。
「隠形法は摩利支天の隠形の印を結んで、その陀羅尼真言を修すること。摩利支天は摩利支天経に説く仏教の天女。これを念ずると身を隠すことが出来るという。但し、忠平の仁王会における逸話は不明」
 そんな逸話など探す必要はないのである。ここには、かんじんな注釈が忘れられている。
 隠形法は密教呪術のひとつである。はげしく祟る怨霊や鬼神を呪縛して、みずからの使役神にしてしまうという術のことだ。つまり、怨霊や鬼神を自在にあやつる呪術なのである。
 もう、いわずもがなだろう。忠平は菅原道真という怨霊あるいは天神という鬼神を自在にあやつったのである。あたかも隠形の法を使ったかのように、だ。道真の怨霊が雷になって祟るという噂を流すだけで、政敵にじゅうぶんすぎるほどのダメージを与えることができたのであった。なにしろ、政敵は気の弱い貴族たちであったし、時代そのものがなにかのたたりをうけているかのような苛酷な時代だった。各地で旱魃、かと思えば洪水、疫病の流行、そして落雷被害の頻発、おまけに隕石まで落ちてきた。 

道真怨霊  7

2006-06-07 16:38:52 | 小説
 左遷された道真に代わって右大臣となったのは源光であった。時平側の公卿である。ところがこの源光は狩の途中に馬もろとも泥沼にはまって死んだ。遺体は見つからなかった。世上、これも道真のたたりとされるが、もっと別の陰の声があった。暗殺されたのではないか、というささやきだ。それと公に語られたわけではないが、暗殺の黒幕は次に右大臣になった人物だと、誰もが感じていた。
 その人物とは藤原忠平である。藤原基経の四男、つまり時平の弟である。時平と忠平の兄弟仲は悪く、忠平は宇多法皇、道真側の人間であった。 
 醍醐帝亡き後は、忠平が摂政となって、完全に彼の天下になるのだが、彼の妻に注目すべきである。名は順子(じゅんし)、宇多法皇の養女という説もあるが、菅原類子の娘とみて間違いはない。「菅原の君」と呼ばれていたからだ。そうなのだ。道真の姪である。道真が実の子以上に可愛がり、彼女もまた道真を父のように慕っていたらしい。
 道真怨霊の仕掛け人はこの忠平・順子夫妻であったように思われる。
 それに天台座主の増命(ぞうみょう)がからんでいる。増命は宇多法皇が出家したさい、受戒、受灌の師となった天台宗の僧である。玉体安泰などの祈願を宮中でしばしば行なっており、宇多法皇系の政治と軌を一にした宗教家であった。

道真怨霊  6

2006-06-06 22:18:50 | 小説
 道真が大宰府で死んだ6年後、時平も死ぬ。ただし時平は39才という若さだったから、世間はそこに常ならざるものを感じてしまう。たたりだというのである。道真怨霊伝説の始まりである。
『北野天神縁起』は不可解な話を書いている。時平が病に倒れたときのことである。かって、道真に政治家をやめろと忠告したことのある三善清行が見舞いに行くと、時平の左右の耳から青龍が頭を出していた。そして「怨敵に報いようとしているのに邪魔をするのか」と睨んだ。三善清行は子の浄蔵に怨霊調伏の祈祷をさせていたからである。驚いた彼は浄蔵に知らせると、浄蔵は退室し、すると同時に時平は息を引き取ったというのである。
 やがて、時平の娘、息子、孫らが相ついで死んでゆく。時平派の者たちにも、なぜか不幸が続く。
 道真が死んで20年後、皇太子保明親王が22才の若さで死ぬ。世人は、これも道真の祟りだと噂した。醍醐天皇はこれでほとんどノイローゼ状態になる。亡き道真の官位を右大臣に戻し、左遷の詔勅を焼却してしまう。
 しかしこの7年後、醍醐帝を震撼させる出来事が起きる。その年の6月26日のことだった。殿上で雨乞いのことを話し合っていたら、突如、雷鳴がとどろき清涼殿の柱に雷が落ちた。藤原清貫が胸を裂かれ死に、平希世は顔を焼かれて倒れる。紫宸殿にいた見奴忠包が焼死、ほかに腹を焼かれた者、膝を焼かれた者と悲惨な有様となった。
 醍醐帝はショックで病床に就き、三ヵ月後に崩御するのであった。
 さて、道真怨霊を演出した人物がいるらしい。
 

道真怨霊  5

2006-06-05 16:24:02 | 小説
 道真は宇多法皇が天皇の頃からの寵臣であった。その宇多法皇の子である醍醐天皇の右大臣なのだが、図式的に書けば、宇多法皇と道真は醍醐天皇および藤原時平とは対立的であった。つまり、宇多法皇と醍醐天皇の実の父子の確執にまきこまれているのである。
 この頃の宮廷は文芸サロン化と色好みが目立ち、かぎりなく退廃に近い爛熟の時代だった。宇多法皇は息子の后である京極の御息所を召すなど、現代なら信じがたいようなことも事実として記録されている。
 律令体制が崩れ始めようとした時期でもあった。若き醍醐帝は時平と強調して、地方行政の緊縮を進めていた。勅旨開田の禁止、あるいは貴族や社寺が地方の勢家から得た田地の返還を命じた延喜の荘園整理令など、革新的な政策を打ち出していた。むろん、保守的な貴族たちは反対勢力となる。醍醐帝を廃したいという思惑が満ちてきても不思議ではない。
 源善という宇多法皇の側近が、実際にクーデターを企てようとした、と私は思っている。源善は道真と同時に出雲権守に左遷になった人物である。のちに道真自身が告白している。「自ら謀るところはなかったけれど、善朝臣の誘引を免るることができなかった」
 道真らの動きは事前に時平らによって察知され、左遷という、考えてみれば寛大な措置ですんだわけである。なにせ、醍醐帝にすれば陰謀の黒幕に実の父である宇多法皇がいるのだから、こうするほかなかったのであろう。

道真怨霊  4

2006-06-04 20:27:06 | 小説
 道真は42才の時にも、中央官庁から地方に飛ばされたことがあった。讃岐守への転任である。この人事を決したのは、ときの太政大臣藤原基経である。すなわち時平の父だった。
 讃岐への転任に際しては、道真は基経の前で、声を失って嗚咽している。その基経の息子がまたしても自分の上司なのであるから、心中おだやかでないのは道真のほうなのである。確執は親子二代にわたっているのだ。基経が死んだあと、政治力学に変化がおきたように、道真は異常な出世ぶりで右大臣にまでのぼりつめた。しかしなお、時平という最後のハードルは残っていた。
 道真と時平というふたりの大臣を比べてみると、年齢的にも革新派が時平、保守派が道真だった。しかも政治手腕は年若い時平のほうがはるかに優れていた。道真は讃岐時代も、地方行政はなかば他人まかせでほったらかし、詩作にばかりふけって、「痴人」あるいは「狂士」と陰口を叩かれている。ほんらいは政治家的な資質の持ち主ではないのに、権力の座には執着のあった厄介な矛盾を抱えている人物だった、といえる。三善清行という人物が道真に忠告していた。「学者出身で大臣になった者は吉備真備以外にない。ろくなことはないから、今のうちに足るを知って勇退し、山野に自適せよ」
 しかし、道真はこの忠告を無視した。彼は「管家廊下」という私学も経営していた。官僚養成学校である。管家伝によれば、生徒数は数百人、「さながら朝野に満てり」とある。朝廷の要所要所に生徒がいたであろう。だから道真に包容力があり、もう少し積極的にうまく立ち回れば、時平を蹴落とせたかもしれない。
 むろん、そのことに時平の方が気づいていた。だから、時平が先手を打ったのである。