慎太郎が死んで二日後に、岩倉具視が大久保利通に宛てた手紙がある。つまり日付は11月19日。
「…坂横死云々、臣も実ニ遺憾切歯之至り、何卒真先ニ復讐し度ものニ候」
この手紙は大久保より暗殺犯は新選組らしいと知らされたことを受けたものである。つまり「復讐」という言葉の対象は新選組という具体的なイメージをもっているからインパクトが強い。
ともあれ『岩倉公実記』の慟哭とは違って「遺憾切歯ノ至り」は誇張ではないだろう。
岩倉具視は晩年、こう述懐している。「好を条公(三条実美)に通じて、交を西郷、木戸、広沢、黒田、品川五子に結ぶは、則、中岡、坂本二子之恵也」(「岩倉具視賜邸祝宴記」)
たしかに三条実美と岩倉を結びつけたのは慎太郎の功績だった。そして慎太郎の考え方は、龍馬よりも岩倉には理解しやすかったに違いない。龍馬より慎太郎のほうに、よりシンパシーを感じていたはずだ。だから、「中岡、坂本」と慎太郎の方が先にくるのである。
かって禁門の変では、慎太郎は戦場に臨んだが生き残った。戦死した同志に思いをはせて漢詩を詠んだ。その一節。「吾身死すべくして未だ死せず 淪落かつ抱く生をぬすむの羞」生き残ることがなにが羞(はじ)なものか。慎太郎も龍馬も、もう少し長生きすべき人たちだった。慎太郎は満で数えればまだ30才に満たなかった。あの夜、ふたりは、これから軍鶏鍋を囲もうかというところだった。
慎太郎と龍馬のめざす路線の違いを、ことさらに強調する論者がいるが、私はそのつど龍馬の手紙にあった慎太郎評を思い出す。龍馬は慎太郎のことを姉の乙女やおやべに説明して「此人ハ私同よふの人」と書いている。私同様の人、その表現に龍馬が込めた意味を深読みすれば、慎太郎と龍馬は一心同体のようなものだったのである。
あの夜、刺客の狙いはあきらかに龍馬であって、慎太郎は藤吉同様そばづえをくったようなものだ。しかし、龍馬と「同よふの人」はやはり彼と共に死ななければならなかった。
「…坂横死云々、臣も実ニ遺憾切歯之至り、何卒真先ニ復讐し度ものニ候」
この手紙は大久保より暗殺犯は新選組らしいと知らされたことを受けたものである。つまり「復讐」という言葉の対象は新選組という具体的なイメージをもっているからインパクトが強い。
ともあれ『岩倉公実記』の慟哭とは違って「遺憾切歯ノ至り」は誇張ではないだろう。
岩倉具視は晩年、こう述懐している。「好を条公(三条実美)に通じて、交を西郷、木戸、広沢、黒田、品川五子に結ぶは、則、中岡、坂本二子之恵也」(「岩倉具視賜邸祝宴記」)
たしかに三条実美と岩倉を結びつけたのは慎太郎の功績だった。そして慎太郎の考え方は、龍馬よりも岩倉には理解しやすかったに違いない。龍馬より慎太郎のほうに、よりシンパシーを感じていたはずだ。だから、「中岡、坂本」と慎太郎の方が先にくるのである。
かって禁門の変では、慎太郎は戦場に臨んだが生き残った。戦死した同志に思いをはせて漢詩を詠んだ。その一節。「吾身死すべくして未だ死せず 淪落かつ抱く生をぬすむの羞」生き残ることがなにが羞(はじ)なものか。慎太郎も龍馬も、もう少し長生きすべき人たちだった。慎太郎は満で数えればまだ30才に満たなかった。あの夜、ふたりは、これから軍鶏鍋を囲もうかというところだった。
慎太郎と龍馬のめざす路線の違いを、ことさらに強調する論者がいるが、私はそのつど龍馬の手紙にあった慎太郎評を思い出す。龍馬は慎太郎のことを姉の乙女やおやべに説明して「此人ハ私同よふの人」と書いている。私同様の人、その表現に龍馬が込めた意味を深読みすれば、慎太郎と龍馬は一心同体のようなものだったのである。
あの夜、刺客の狙いはあきらかに龍馬であって、慎太郎は藤吉同様そばづえをくったようなものだ。しかし、龍馬と「同よふの人」はやはり彼と共に死ななければならなかった。