小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

中岡慎太郎を考える  完

2007-02-25 17:27:49 | 小説
 慎太郎が死んで二日後に、岩倉具視が大久保利通に宛てた手紙がある。つまり日付は11月19日。
「…坂横死云々、臣も実ニ遺憾切歯之至り、何卒真先ニ復讐し度ものニ候」
 この手紙は大久保より暗殺犯は新選組らしいと知らされたことを受けたものである。つまり「復讐」という言葉の対象は新選組という具体的なイメージをもっているからインパクトが強い。
 ともあれ『岩倉公実記』の慟哭とは違って「遺憾切歯ノ至り」は誇張ではないだろう。
 岩倉具視は晩年、こう述懐している。「好を条公(三条実美)に通じて、交を西郷、木戸、広沢、黒田、品川五子に結ぶは、則、中岡、坂本二子之恵也」(「岩倉具視賜邸祝宴記」)
 たしかに三条実美と岩倉を結びつけたのは慎太郎の功績だった。そして慎太郎の考え方は、龍馬よりも岩倉には理解しやすかったに違いない。龍馬より慎太郎のほうに、よりシンパシーを感じていたはずだ。だから、「中岡、坂本」と慎太郎の方が先にくるのである。
 かって禁門の変では、慎太郎は戦場に臨んだが生き残った。戦死した同志に思いをはせて漢詩を詠んだ。その一節。「吾身死すべくして未だ死せず 淪落かつ抱く生をぬすむの羞」生き残ることがなにが羞(はじ)なものか。慎太郎も龍馬も、もう少し長生きすべき人たちだった。慎太郎は満で数えればまだ30才に満たなかった。あの夜、ふたりは、これから軍鶏鍋を囲もうかというところだった。
 慎太郎と龍馬のめざす路線の違いを、ことさらに強調する論者がいるが、私はそのつど龍馬の手紙にあった慎太郎評を思い出す。龍馬は慎太郎のことを姉の乙女やおやべに説明して「此人ハ私同よふの人」と書いている。私同様の人、その表現に龍馬が込めた意味を深読みすれば、慎太郎と龍馬は一心同体のようなものだったのである。
 あの夜、刺客の狙いはあきらかに龍馬であって、慎太郎は藤吉同様そばづえをくったようなものだ。しかし、龍馬と「同よふの人」はやはり彼と共に死ななければならなかった。 

中岡慎太郎を考える  9

2007-02-22 22:41:01 | 小説
 千屋寅之助が中岡の実家(慎太郎の義兄・中岡源平宛て)に出した手紙がある。11月24日付けである。慎太郎は「翌々17日七ツ頃泉客と被成候」と伝えている。
 清岡半四郎が同じく中岡源平に宛てた手紙がある。「慎君は17日九ツ時死、其夜五ツ頃霊山ト申東山ニ神葬相成候由」とある。こちらは12月4日付け。
 どちらも事件後間もない時期の手紙なのだが、死亡時刻にずれがある。たぶん千屋寅之助の「七ツ頃」というのが正しいと思われる。理由は後で述べる。
 ちなみに勝海舟は12月6日付けの日記に「龍馬は深夜息絶へ、吉田(慎太郎のこと)は暁迄死にきらぬ趣」と書きつけている。二日間も慎太郎が生きていたというニュアンスで、死亡情報を受け取ってはいないことがわかる。
 いずれにせよ、谷、田中両人の16日死亡説と、これら17日死亡説は矛盾するのだが、いったいどちらが正しいのか。
 実は16日死亡説と17日死亡説のいずれもが正しいという重複した時刻がある。17日の午前1時から2時頃である。不定時法の数え方でいけば、まだ16日である。明け六ツから暮六ツまでを一日とする慣習からすれば、この時刻は16日といえるし、本居宣長のいう現在的な数え方ならば17日でもあるのだ。谷の講演の「午後」というのを「午前」の誤植とすれば、谷の言う「八ツ時」はぴったり合うのである。そしてそれは千屋寅之助のいう「七ツ頃」に近いのである。
 つまり中岡慎太郎は襲われたのち二日間も生きていたから48時間生きていたというわけではなく、30時間ちょっと息が通っていたと私は推測するものである。

 
 

中岡慎太郎を考える  8

2007-02-21 18:06:52 | 小説
 ただし、なぜだか岩倉具視は事件の翌日には、もうそのことを知っていた。正親町(おおぎまち)三条実愛(嵯峨実愛)が「極秘禁他見」としたメモを残しているのだが、11月16日付けのメモは、次のようなもので、実愛は岩倉の密書でふたりの凶事を知ったのである。
「…和より岳状来、坂横暗のこと、即古へ達候」(『嵯峨実愛手記』)
 まるで暗号のようであるけれど、「岳」が岩倉具視のこと、「和」は中御門経之、「古」は中山忠能のこと、むろん「坂横暗」は坂本龍馬と慎太郎の変名のひとつである横田が暗殺にあった事を指す。つまり、ふたりの凶事を告げる岩倉の密書がまず中御門に届き、それが三条実愛に転送(あるいは内容のみ)され、また中山忠能に転送した、というのがメモの意味である。ちなみに、謎めくが、『嵯峨実愛日記』の11月16日には凶事のことはなにも書かれていない。実愛は正規?の日記と裏日記のふたつを使い分けていた。
 メモの日付けの16日が微妙である。このメモでは坂こと龍馬も、横こと慎太郎も暗殺された、つまりふたりとも死んだようにも受け取れる。だが、即死に近い龍馬とはちがって、慎太郎は16日にはまだ生きていたのではないか。
 さてここからは、中岡慎太郎の命日が問題となる。事件があったのは15日、定説では慎太郎は17日に死んだことになっている。二日間生きていたということになる。
 ところがである。谷干城は明治の講演の中で「15日の夜に斬られて16日の午後今の1時過ぎまで生きて居って…」あるいは「今申す通り16日の午後1時か2時頃、昔で云ふと8ツ時といふくらゐに死んだ」さらには「とうとう翌日の8ツ前くらゐに斃れた」と三度も翌16日死亡に言及している。谷ばかりではない、田中光顕も「翌朝絶命した」と述べている。この時代、まだ日の数え方に混乱がある。思い出されるのは、本居宣長の遺言である。
「我等、相果て候はば、必ず其の日を以って忌日と定むべし。勝手に任せ日取を違候こと、これ有るまじく候、さて時刻は前夜の九ツすぎより其の日の夜の九ツまでを其日と定むべし」
 宣長がわざわざ注意をしなければならぬほど、日の数え方がまちまちだったのが江戸時代だ。
 さて、慎太郎はいつ死んだのか。

中岡慎太郎を考える  7

2007-02-20 20:51:02 | 小説
 香川敬三は旧名は鯉沼伊織、水戸藩の出身者である。慶應3年当時は小林彦次郎という変名を使っていたから、小林敬三と称されることもあった。いずれにせよ、近江屋事件の現場に駆けつけたにしては、そのことを示す史料が『岩倉公実記』のほかに見当たらないのだ。なぜ、こんなに影が薄いのか、おかしくはないか。中岡慎太郎ひきいる陸援隊の、香川敬三は副隊長格であった。瀕死の慎太郎と香川敬三のからみがあれば、目撃され、人々の印象に残っていていいはずである。それがそうではない。
 あの夜、近江屋に駆けつけた同志(医師を除く)として確認できるのは次の人々だ。
 曽和伝左衛門、島村要(土岐眞金)、岡本健三郎、谷干城、毛利恭助、大橋慎蔵、宮地彦三郎、田中光顕、吉井幸輔、安保清康、白峰駿馬。
 毛利恭介と一緒に駆けつけた谷干城によれば、彼らは「速い」ほうだったという。だから谷はまだ息のある慎太郎から話を聞けている。谷の明治になってからの講演によれば、慎太郎が「その死なぬ前に傍にいたのは、即ち今の宮内大臣田中光顕、これも土佐の白川屋敷に囲ってあった浪人組(陸援隊のこと)で、即ち自分の大将がそういう災難に遭うたものだから田中がとりあえずやって来た。それから田中が石川(慎太郎)を慰めて、云々」とある。その田中は島村要によれば、島村の後からやってきた、という。
 慎太郎は「速く事を挙げよ、速くやらねば君らもやられるぞ」としきりに言ったらしい。これが谷の聞いた慎太郎の遺言である。田中は「刀を手元におかなかったのが不覚だった。君らもこれからは刀を肌身から離すな」という慎太郎の言葉を遺言のように聞いている。
 いずれにせよ、岩倉公に云々などという慎太郎の言葉を誰も記憶していないし、香川敬三がその場にいたと証明してくれる人間がいない。私が捜した史料にはいないのである。
『岩倉公実記』の記述は、私には創作としか思えない。
 

中岡慎太郎を考える  6

2007-02-19 20:22:04 | 小説
「具視坂本龍馬中岡慎太郎ノ変死ヲ聞キ慟哭ノ事
十一月十五日夜凶徒アリ坂本龍馬中岡慎太郎ヲ河原町ノ寓居ニ襲ヒ之ヲ刺ス。具視其報ヲ聞キ大ニ駭(おどろ)ク。即チ香川敬三ニ命ジテ之ヲ存問セシム。敬三馳テ至ル。龍馬既ニ命ヲ殞シ慎太郎創(きず)重ク流血淋漓タリ。同志ノ士変ヲ聞キ皆来リ集ル。慎太郎ハ敬三ニ遺嘱シテ曰ク、天下ノ大事ハ偏(ひとえ)ニ岩倉公之ヲ負荷セラレンコトヲ願フノミ、子之ヲ岩倉公ニ告ゲヨト言畢(いいおわり)テ絶息ス。敬三袖ヲ湿シテ帰リ以テ具視ニ白ス。具視曰ク、噫(ああ)何物ノ鬼恠(きかい)ガ予ノ一臂ヲ奪フ、之ヲ哭シテ慟ス」
 慎太郎の最後の言葉、つまり遺言は「天下の大事はひとえに岩倉公にかかっていると、岩倉公に伝えてほしい」というものだったと書いている。そしてそれを聞いたのは香川敬三ということになっている。
 うさんくさいというのは、まさにここなのである。あの日、慎太郎の臨終に立ち会った者たちが、誰もそんな内容を伝えていない。こんなことを書いているのは『岩倉公実記』(明治36年12月発行)だけであり、似たようなことを書いてある本は、なんの検証もなしに、『岩倉公実記』を引用しているに過ぎない。
 だいたい香川敬三は、あの日、近江屋に駆けつけていたのかどうか、すこぶるあやしい。駆けつけた者から、その場にいた同志として名前が上がっていないのだ。そもそも誰が岩倉に悲報を伝えたのか。
 ともあれ嶋岡晨氏の小説『中岡慎太郎』(光風社出版)では、慎太郎のセリフはこうなる。「岩倉公にお伝えしちょいてくれ。王政復古のことは、ひとえに、卿のお力にかかっている、と、のう……」
 ただし耳をよせて聞いているのは田中顕助である。香川敬三ではない。嶋岡氏もおそらく香川敬三をその場に居合わせることに不安を感じたのだ。いっそのこと、岩倉公への伝言などなかったことにすれば、よほどすっきりしただろうにと思う。 



中岡慎太郎を考える  5

2007-02-18 16:40:36 | 小説
 中岡慎太郎の日記『行行筆記』に、
「烏公に出る。地球万国の図、西洋事情を献ず」
という記述がある。日付けは慶應3年4月23日である。
 烏公とは岩倉具視のことである。実は二日前の4月21日に、慎太郎は初めて岩倉具視と会っていた。その折に、おそらく西洋の地図を差し上げましょうとでも約束していたのであろう。公卿に、西洋事情を講義できるくらいの知識を、この頃には慎太郎は身につけていたことになる。佐久間象山と会ってから、すでに5年という歳月が流れていた。
 ところで慶應3年は慎太郎の死ぬ年である。つまり中岡慎太郎と岩倉具視の関係は、この年の4月に始まって、11月に終わるという、ごく短いものだったということを記憶しておこう。慎太郎を岩倉具視の「爪牙(そうが)」のように見なすものがある。そんなものではない。岩倉具視に働きかけたのは慎太郎の方であった。王政復古を視野に入れて、大宰府に遷座していた三条実美ら五公卿と手を組むことのできる在京公卿を探しまわっていたのが慎太郎だった。慎太郎は最初は岩倉を佐幕派の公卿と見なし敬遠していたが、土佐脱藩の同志大橋慎三の熱心なすすめで、岩倉と会ったのである。会ってみて、提携可能な人物と判断したから、6月には坂本龍馬を連れて面会もしているのである。
 さて、この年の11月15日、慎太郎と龍馬が暗殺されたとき、岩倉具視がどんな反応を示したかといえば、よく引用される文章がある。ああ、何者が余の片腕(原文は一臂)を奪ったのかと慟哭した、という『岩倉公実記』の箇所である。こんな箇所だけを読むと、いかにも慎太郎は岩倉と長い付き合いがあって、使われていたように錯覚しそうだが、この箇所の前後の文章は、かなりうさんくさいと私は思っている。次に原文をあげてみよう。 

中岡慎太郎を考える  4

2007-02-15 23:28:25 | 小説
 江戸に到着してほどなく、中岡慎太郎は水戸藩を経由して松代に旅立っている。佐久間象山と会うためである。同道者がいた。長州の山形半蔵と久坂玄瑞のふたりだ。中岡慎太郎と長州を結びつけた契機は、この旅にあったといってよい。
 どうやら中岡慎太郎は土佐藩の佐久間象山招聘の下交渉を命じられていたらしい。江戸で早くも頭角をあらわしているのだが、なぜ彼にそのような役割がまわってきたのか。彼は高島流砲術を学んでいた。たぶんそこに目をつけられたのであろう。佐久間象山は高島秋帆の孫弟子であり、接点があるとみなされたのだ。
 ところで長州藩もまた佐久間象山の招聘意向があったようだから、いわばスカウト同志の信州旅行となったわけだ。真田氏十万石の城下町松代にいた佐久間象山は、欧米の事情に通じた一級のインテリだった。訪問者の三人は象山の話に度肝を抜かれたはずだ。たとえば、攘夷に話が及ぶや、佐久間象山は幕府の築いた品川の台場を無用の長物だと嘲笑した。「トルコではかって海上に砲台を築いて英人に笑われておる。およそ、これからの海防の術は、云々」などとやられても、中岡らにトルコそのものの位置がイメージできたかどうかもあやしい。
 佐久間象山を通じて、中岡慎太郎は西洋に出会ったのである。『維新土佐勤王史』によれば、中岡は帰り道に「久坂を顧みて曰く、象山の気魄に圧せられたりと。久坂亦苦笑し曰く、我亦其の感ありと。然れども中岡は、是れより脳疾払ふが如く、神気頓に快活を覚えたりと云ふ」とある。
 さて「脳疾」とはなんぞや。中岡慎太郎は頭痛持ちだったらしいのだ。それが佐久間象山に会ったら治ったという。それほどの衝撃を受けたのである。

中岡慎太郎を考える  3

2007-02-14 21:20:27 | 小説
 文久2年秋10月、中岡慎太郎ら50人が土佐をあとにする。めざすは江戸である。幕制改革を推進する山内容堂に身辺の危機が迫っていると聞き、護衛のための出立であった。ただし、自発的行動である。
 藩庁に江戸行きを嘆願するも、なかなか許可がおりない。だから「願い捨て」の出立となった。当然、自費である。土佐勤王党の参謀格であった島村寿之助は田地三町歩を売り払い、同志の旅費にあてた。
 中岡慎太郎も村木虎二郎という人物から8両の金を借金している。旅の途中で村木に手紙をしたため、金は来年には返却するので、くれぐれも家族には(内緒だから)請求しないで欲しいと訴えていた。
 50人組の心情はよくわかる。容堂の身辺護衛もさりながら、政局の中心に躍り出たいのである。幕府のお膝元で土佐の尊攘思想を旗幟鮮明に示してみたいという衝動にかられている。国事に奔走したいという、たぎるような情熱に動かされている。
 思えば将軍の身辺護衛という形で、給金を貰って上洛した浪士組、つまりのちの新選組と当初の心情においてさほどの変わりはない。ただ50人組は官費出張ではなくて、自費で、まるで脱藩同然に故郷をあとにしたことだ。
 50人組結成の「有志義盟条約」は4条の簡潔なものだが、読んでいると胸が熱くなる。互いに暴に走らないよう挙動を戒め、同志は礼儀親切を尽くして親睦の道を失わないようにしようと誓い合っている。
 中岡慎太郎は、ほんとうはここから始まる。もとは中岡光次であったが、江戸到着を機に「慎太郎」と改名した。「君子は必ずその独りを慎しむ」という中国の古典から採った。
 慎太郎はもはや独りではなかった。

中岡慎太郎を考える  2

2007-02-13 23:45:07 | 小説
 土佐勤王党は、文久元年(1861年)8月、江戸にいた武市半平太ら土佐藩士数名によって結成され、のち200名弱の党員を数えるにいたった、ということになっている。
 血判を押した、いわゆる連判状で中岡慎太郎の名は17番目にある。坂本龍馬は9番目。さて、この順番の差に意味があるだろうか。あるとすれば慎太郎は龍馬より3才年下だったが、すでに妻帯していたこと、そして独身で次男坊という気楽さのあった龍馬と違って長男であり、しかも大庄屋見習として村民の世話をする立場にあったことがあげられよう。
 血盟連判状の盟文には「一点の私意を挟まず、相謀りて国家復興」に尽くすとあり、さらに私ごとで争そうものがあれば切腹だよ、というような文言がある。
 土佐勤王党に加わるとということは「私」を捨て、家庭を捨てることであったから、それほど簡単に血判を押せるわけはないのだ。
 とは言え、この順番にあまりこだわる必要はないかもしれない。今日流布している土佐勤王党血盟姓名簿は「写し」であって、原史料は文久3年2月12日に容堂の命によって焼却されている。原連判状の順番どおりに写されているという保証はない。
 そもそも江戸で結成されたから、江戸にいた藩士たちが先に署名しているわけで、すると土佐にいた龍馬の順番はあまりにも早すぎるような気もする。
 つねに「大道」を探していた中岡慎太郎が、血盟連署にためらいを見せるわけはないとも考えられ、ほぼ龍馬と同時期に党員になっているとみてさしつかえないかもしれない。

中岡慎太郎を考える  1

2007-02-11 23:10:44 | 小説
 龍馬の妻おりょうさんの語る中岡慎太郎のエピソードがある。
「面白い人で、私を見るとお龍さん僕の顔に何か附いて居ますかなどと、何時もてがうておりました」(『千里駒後日譚』)
「てがう」というのは、からかうという意味である。「いつも」とあるからには、慎太郎はおりょうさんに会うたびに軽口を叩いていたとわかる。さて、おりょうさんは他人の顔を臆面もなく凝視する癖のあったこともわかる。町医者の娘として育って、自分のうちを訪れる患者や付き添いの人間を、どこが悪い人たちだろうとおのずから観察する癖が習い性になっていたのと、近視のせいもあったと私は推測しているけれど、これがおりょうさんの悪女説の遠因になっている。
 あの濡れた黒い瞳でじっと見つめられたら、たいていの男は誤解するのだ。俺に気があるのかと事実誤解されたこともある。あるいは、はしたない女だと心の中で侮蔑されるか、だ。
 中岡慎太郎のとる態度は違う。おりょうさんの癖を軽口のネタにすることができるのだ。「またそんな目で僕を見る。僕の顔になんぞついちゅうかねえ」というわけだ。たぶん手でつるりと自分の顔をぬぐったふりなどしたのであろう。女のあしらいになれているのである。おりょうさんが「面白い人」と好感をもつゆえんだ。
 女あしらいがうまいという点で慎太郎と龍馬はよく似ているのだが、なにより女性との原体験が驚くほど二人はそっくりなのである。ともに幼くして母を亡くし、母性というものに渇望している。さらに三人の姉に可愛がられ、そのうちの姉の一人がともに不幸な死に方をしている。そのせいか女性を慈しむ眼を持っている。
 ともあれ、女性の心のなかにふっと自然に入っていける資質を、龍馬も慎太郎も、ともに持ち合わせていたと思われる。  

中岡慎太郎の隣の女

2007-02-08 16:35:12 | 小説
 右手で頬杖をついて首をかしげ、こぼれるような白い歯を見せて笑っている中岡慎太郎の写真がある。幕末当時の湿式写真だと、5秒から10秒露出時間がかかるらしいが、無理な作り笑いではない。ひきこまれるような自然な笑顔である。
 その写真は、宮地佐一郎編『中岡慎太郎全集』(勁草書房)に紹介されているが、なぜか左右が反転して掲載されている。掲載写真では左手で頬杖をつく恰好になっているが、脇差に注目すれば左右が逆になっていることがわかる。河田小龍のご子孫である京都の宇高随生氏が所蔵していたのを、故宮地さんが複写を許可されたものだが、複写か全集の口絵にレイアウトするとき、反転したのであろう。
 慎太郎の隣に女性が写っているはずなのだが、黒くぬりつぶされている。(慎太郎の膝に女性の振袖の袂らしいものが、ふわっとかかっている)さて、この女性は誰だったか。祇園の芸者で、たぶん慎太郎の愛人というふうに推測されてきた。私もながい間、そう思い込んできた。
 ところがこのほど小沢健志『幕末・明治の写真』(ちくま学芸文庫)を読み、所収の写真を眺めているうちに、あっと気づいた。慎太郎の写真は京都寺町通り仏光寺下ルの「西洋伝法写真処」で撮られたものだ。撮影者は堀与兵衛。ここで撮られた写真は人物の台座に同じ市松模様の敷物が使われているので、すぐわかるのだ。その堀与兵衛は、なんと女性モデルを使っていて、被写体の侍と組合わせて写すということをやっている。慎太郎の隣の女性もモデルという可能性があるのだ。
 それはともかく、かの新選組局長近藤勇が慶応2年に写真を撮ったのも、ここである。この写真館、大変な盛況ぶりで、たとえば慶応4年の半年間で千両を超える売上があったというから驚く。案外、モデルとのセット撮影もうけていたのかもしれない。
 慎太郎には祇園に愛人がいたのはいたのだが、一緒に写真を撮るというのは、やはり少し考えにくい。

(余計なことだが、某政治家が自分のHPに慎太郎の笑顔が好きだと言って、写真をアップしているが、反転写真のままですよ。)

新選組の悲劇  完

2007-02-06 17:27:57 | 小説
 近藤勇が囚われの身となったとき、土方歳三が勝海舟の家を訪れたことはよく知られている。そんなところからも海舟と新選組の関わりはとかく誤解を生じやすい。海舟日記に「土方歳三来、流山顛末を云」とあり、たしかに海舟は土方と会っているのだが、詳細はなにも書いていない。
 はっきりしているのは「軍事扱」という役職だった勝海舟に土方が顛末つまり状況報告をしたということだけだ。
 ところで海舟は土方に頼まれて近藤の「助命嘆願の手紙を書いたと推測あるいは断定する著述が目につくけれども、私は書いていないと思う」と述べているのは松浦玲氏(『新選組』岩波新書)である。
 実際、嘆願書の書きようはないと思われる。甲府から敗走して江戸に戻った近藤や土方らが、さらに戦い続けようと激高して主張したのを、直接叱りつけたのは海舟であった。その海舟が江戸無血開城の大詰めで苦労しているのと裏腹のタイミングで、独自にまた新選組の再組織化を企てたのが近藤らであった。年譜をみても一日違いなのだ。3月14日、海舟・西郷隆盛談判で江戸城総攻撃が延期。その翌日15日、新選組は再起をはかり五兵衛新田(現在の足立区綾瀬)に隊員100人を集めた。
 その五兵衛新田から流山に本陣を移したばかりの4月3日に近藤は拘束されたのだが、海舟にすれば近藤らはなにをやっているのかという思いしかなかっただろう。
 4月11日、江戸城明け渡し。そして4月25日、近藤勇は処刑された。斬首であった。首は京都に運ばれて晒された。慶應4年4月は慌しく日が過ぎ、世の中はぐるっと転回したのであった。
 甲府における敗退を契機に近藤と喧嘩別れした永倉新八や原田佐之助らは「靖共隊」なる別組織を立ち上げ、近藤を見限っていた。そのとき永倉はもはや「新選組は瓦解した」と断じていた。
 彼ら、あるいは旧幕府陸軍に合流した土方らにはまだ戦いが残されているが、それはまた別の物語である。

新選組の悲劇  19

2007-02-05 23:51:19 | 小説
 新選組は鳥羽伏見の戦いで惨敗すると江戸に戻り、やがて甲陽鎮撫隊として再生した。実のところ、この「鎮撫」の対象というか目的が混乱しているように思われるが、近藤たちは新政府軍にさきがけて甲府城を本気で接収できると思いこんでいたらしい。
 永倉新八によれば、甲府100万石を手に入れたら、近藤は10万石、副長土方は5万石、副長助勤は各3万石ずつ分け合おうなどと話し合っていたという。この時期、近藤勇はまだ大名になりたがっているのである。甲陽鎮撫隊には会津藩から資金援助があったが、そのおり甲府100万石をものにせよとでも煽てられたのであろうか。こうなると悲劇というよりも喜劇的である。
 慶喜は将軍職を投げ出し、上野寛永寺で謹慎中である。武力抵抗は諦めたとの態度を表明している。甲府100万石の分配など、いったい誰に権限があるのか。実質的には幕府体制は崩壊しており、破産管財人の入った倒産企業のような状況下にある。もっとも財産が保全されていないから、勝手な言辞を弄するものがあっても仕方ないといえば言える。
 鎮撫隊というのは手っ取り早くいえば、一揆の鎮撫が目的で許可されているのだ。一揆が官軍を刺激しては、慶喜の恭順が無意味になりかねない事態も想定される。だから、治安維持の為に派遣したのに、その鎮撫隊が官軍と交戦しては、どだい本末転倒なのである。ちなみに甲陽鎮撫隊を派遣したのは、大久保一翁であって、通説のように勝海舟ではない。

新選組の悲劇  18

2007-02-04 18:26:44 | 小説
 しかし因果はやはり巡るのであった。慶應4年4月、流山で新政府軍に拘束された近藤勇は大久保大和となのっていた。たぶん正体は簡単に割れるはずはないと思っていたはずだ。ところが板橋宿に送られ、総督府本営のあった中宿の収容先で、大久保大和なる人物が近藤勇であることを、あっさり見破ったのは油小路事件の生残りであったからだ。
 元新選組隊士にて高台寺党御陵衛士残党の加納鷲雄の談話は、近藤勇の最期に言及するたいていの書物に引用されているから、全部は引用しないが、要するに、加納が「近藤勇」と声をかけると、近藤の顔色が変わったのである。「その時の顔色は今に目に附くようで、はなはだ恐怖の姿でありました」と加納は述べている。(『史談会速記録』)
 この加納の談話を、私は最初どの本で読んだのか忘れているが、衝撃と不快感はいまも変わらない。そもそも、なぜ変名でなく、堂々と幕臣近藤勇となのらなかったのか。
 近藤勇の供述によれば、甲陽鎮撫隊の出陣を大久保一翁より命ぜられたから、大久保大和と改名したという。それはいいとしよう。ところが新政府軍と交戦したことの言い訳で「近田勇平」なる人物が暴発してやむをえなかった、と述べる。誰が聞いたって「近田勇平」は「近藤勇」その人を投影した架空の人物だとわかる。とっさのことで、ほかのもっともらしい偽名が思いつかなかったとしても、哀れというほかはない。
 訊問に当たった谷干城が「その色を見るに少しにても申し抜けして、一命を助かりたきの姿、誠に何も音にも似ぬ、鄙劣の男なり」と呆れた。「鄙劣」とは「卑劣」の誤記であろうが、なんとなくイメージに合うからやりきれない。

新選組の悲劇  17

2007-02-01 22:58:02 | 小説
 さて、新選組は伊東の死骸を七条油小路の辻まで運ぶと、馬丁を町役人に仕立て高台寺党に走らせた。「ご遺体のお引取りを願います」というわけだ。伊東の死骸を餌にした罠である。高台寺党を殲滅しようとするのだ。
 その夜、月真院にいた御陵衛士は7人、伊東の実弟の三樹三郎、藤堂平助、篠原泰之進、服部武雄、加納鷲雄、毛内有之助、富山弥兵衛、それに御陵衛士から抜けて土佐の陸援隊に入っていた橋本皆助がたまたま居合わせた。彼ら8人は、伊東死すの報に仰天し、ともかく駕籠を用意して現場に向かった。
 待伏せする新選組は総勢35、6人。いずれも黒装束、目出し頭巾ををかぶっていたという(『慶應丁卯筆記』)から、夜陰にまぎれる忍者のような恰好だ。事前に周到な準備ができているのだ。
 現場に着いて、藤堂が伊東の遺体を駕籠に乗せ、垂れをおろそうとした時だった。銃声がして、それを合図に身を潜めていた黒装束らがわっとばかりに衛士を襲ったのである。藤堂、服部、毛内の3人が討ち死にした。なかでも服部は二刀を振りかざしてよく戦ったらしいが、衛士たちは黒装束の相手が、かっての同志だと、とっさにはわからず戦っていたのではないだろうか。ともあれ5人が血路を開いて逃げのびた。油小路の決闘、などと活劇の名場面のようにいわれるが、新選組の装束を見よ、決闘などではなく襲撃そのものである。
 新選組は高台寺党狩りにまだ執着する。討ち死にした3人の遺体と伊東の遺体を二日間そのまま晒しものにした。衛士たちをさらにおびき寄せようとしたのである。
 高台寺党が近藤を抹殺しようと本気で考えるのは、この油小路の事件のいわば復讐である。近藤は自分の暗殺をはかったからという理由で先手を打って伊東を殺し、衛士たちを襲った。馬鹿な話ではないか。その結果、ほんとうに命を狙われるのであった。のちに馬上の近藤勇を富山弥兵衛が狙撃、弾は右肩を貫くのだが、致命傷とはならなかった。