小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

人斬り以蔵の「真実」  1

2006-05-14 16:34:37 | 小説
 幕末、「人斬り以蔵」と異名をとった岡田以蔵は当時の重要人物ふたりの危難を救ったことがある。ひとりは勝海舟、いまひとりはジョン万次郎こと中浜万次郎である。海舟を護衛していて、刺客を追い払ったことはよく知られている。話は海舟『氷川清話』の中にある。へたな潤色はしないで、そのまま引用しておこう。
「文久3年の3月に家茂公がご上洛なさるについて、その頃京都は実に物騒で、いやしくも多少議論のある人はことごとくここへ集まっていたのだから、将軍もなかなか厳重に警戒しておられた。このときおれも船でもって上京したけれど、宿屋がどこもかしこも詰まっているので、しかたなしにその夜は市中を歩いていたら、ちょうど寺町通りで3人の壮士がいきなりおれの前に現れて、ものもいわず切りつけた。驚いておれは後へ避けたところが、おれの側にいた土州の岡田以蔵がにわかに長刀を引き抜いて、一人の壮士を真っ二つに斬った。『弱虫どもが、何をするか』と一喝したので、後の2人はその勢いに辟易して、どこともなく逃げていった。おれもやっとのことで虎の口をのがれたが、なにぶん岡田の早業には感心したよ。
 後日、おれは岡田に向かって、『君は人を殺すことをたしなんではいけない。先日のような挙動(ふるまい)は改めたがよかろう』と忠告したら、『先生、それでもあのとき私がいなかったら、先生の首は既に飛んでしまっていましょう』といったが、これにはおれも一言もなかったよ」
 これは、海舟の日記を参照するに文久3年3月7日の夜の出来事のようである。ただし日記には海舟は刺客の襲撃のことは書いていない。

トンデモ龍馬本

2006-05-11 22:31:36 | 読書
 本を読んで、こんなに後味の悪い思いをしたのも珍しい。加治将一『あやつられた龍馬』(祥伝社)は、はっきり言って、トンデモナイ本であった。この本の副題は「明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン」となっている。まあ、これでだいたいの見当はつくというもので、こと龍馬に関した本ならば私は一気呵成に読むのだが、この本だけは途中であほらしくなって、中断していた。しかし、本日、忍耐をかさねて読了したのである。この2月にTBS系のテレビで、この本と著者をとりあげて全国放送したというが、TVプロデューサーの質も落ちたものだと思う。
 この本、最終章にいたって龍馬暗殺の下手人を中岡慎太郎、谷干城、毛利恭介、田中光顕、白峰駿馬らと断定する。暴論に唖然とし、怒りをおぼえたが、次にはあまりの馬鹿らしさに嗤うしかなかった。
 著者は最初に中岡が龍馬に斬りつけたという。では中岡は誰に斬られたのかといえば、そのあたりの記述はぼかしてある。京都見回組の今井信郎の刑部省における供述や渡辺篤の告白は、あれはいったいなんだったかなど、この著者は頓着するところがない。事件後に駆けつけた谷らを犯人にしたてるとは、ほとんど漫画的だ。まともに反証する気もなえてしまう。
 このブログで「龍馬は誰に殺されたか」(2005年11月6日が一回目)を読まれた方ならば、たとえば谷干城がどんな人物だったかお分かりの筈だ。こともあろうに谷を下手人側に想定するとは、あきれた所業である。
 

 済州島物語 完

2006-05-09 19:15:08 | 小説
 ともあれ、耽羅は百済が完全に滅亡してしまうと、こんどは新羅の属国となった。それから後の済州島の歴史は半島の歴史の変転と軌を一にして、翻弄されてゆく。
 私など日本人にはよくわからないところだが、韓国にはいまなお根強く「済州島差別」があると聞く。李朝時代に流刑地だったことも影響しているのかと思ったりしたが、たぶん古代において、百済や新羅の属国だったという歴史的背景が下地にあるのだろう。
 三多島つまり石と風と美しい女性が多いこの島のことは、ほんとうは、とおりいっぺんな切り口では実態に迫ることができない。いま、済州島は「韓国のハワイ」とも呼ばれ、わが国からも多くの観光客を誘致する島となっている。「神話と伝説の島」というこの島の形容詞はなにかメルヘン的な響きのまま、表層的な印象で受けとめられている。しかし、わが国と濃密なかかわりを持つミステリアスな島であることに変りはない。現代史まで踏込めば、悲劇の島であった。島民の人口の十分の一が殺されたといういわゆる「済州島四・三事件」の真相が明らかになれば、私はまた別の済州島物語を書きたい。
 古代から現代まで、済州島にはまだ正統な歴史がなく、とりわけ古代の耽羅史は歪められているといった思いが、この島について調べている間中、私の脳裏を去らなかった。この島はこの島独自のヒストリーを持たねばならない、せめてストーリーは持たなければならない、済州島物語と題したのはそんな意気込みがあったのだけれど、筆はあらぬ方向にすべってしまった。唐突だが、この稿を終わる。

済州島物語 14

2006-05-07 22:10:14 | 小説
 消息不明の人物、漢皇子(あやのみこ)は大海人皇子(おほしあまのみこ)つまり後の天武天皇ではないかという説がある。おもてむきは斉明天皇と舒明天皇の間の子となっている大海人は、実は斉明と高向王の子であって、天智天皇とは異父兄弟になるという説だ。
 実の兄弟であるはずの天智天皇と天武天皇には、年齢の問題などもふくめて奇妙な矛盾点のあることは、誰しも気づくことである。しかし、それは別の問題としてみたい。要するにそれだけ漢皇子は謎めいていると理解していただければ足りる。
 漢皇子はたぶん母親の斉明の再婚前に済州島に渡ったと私は想像している。そして、斉明天皇の7年に耽羅から来朝した王子「阿波伎」その人を「あやのみこ」の姿に重ねてみたい。この済州島の王子は母のいる国に来たのである。耽羅の朝貢が斉明天皇の時代に始まるというのは、そういうことであった。
 斉明天皇が耽羅と百済のために、異例の海外出兵を決意した理由は、もはやくだくだしく述べる必要はないだろう。さらに、いまひとつ興味深いことがある。 
 斉明天皇が渡海の拠点とするために、九州に設けた滞在施設、朝倉宮のことだ。正式な名称は朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)であった。タジマモリが常世すなわち済州島から持ち帰った橘の文字をあえて冠した宮であったのだ。

 済州島物語 13

2006-05-06 19:19:45 | 小説
 田村皇子の父親は彦人大兄(ひこひとのおふえ)であると『日本書紀』は記す。この父親は本来は天皇になるべき人物だったらしいが、それにしては没年も不明だし、その消息について『日本書紀』はいっさい詳らかにしない。皇統譜をつなげるための架空の人物といった気配すらある。 私は田村皇子の両親はともに済州島にゆかりの人物であったと類推しているのだが、独自の古代史論を展開している小林恵子氏は田村皇子をなんと百済の武王だとしている。(『興亡古代史/東アジアの覇権争奪1000年』文藝春秋)
 私にはそこまで言い切れないけれど、いずれにせよ百済と縁の深い済州島に出自の求められる人物が斉明天皇の夫の舒明天皇だったと思っている。
 そればかりではない。女帝その人が済州島と濃密なかかわりがあったと考えている。女帝の本名はタカラ姫。なにかと謎が多い。舒明天皇とは再婚であった。最初の結婚相手は「高向王」であった。『日本書紀』は「たかむくのおほきみ」とよませるが、はたしてその呼び名でよい夫だったのか。思い出していただきたい。耽羅建国神話で三姓穴から現れた三神人のひとりは「高」姓であったことを。しかもタカラ姫は高向王との間に子供までなしていた。その子の名は「あやのみこ(漢王子)」とある。この場合。「あや」の「漢」は中国のことではない。朝鮮半島に意味づけた命名である。なぜ子供にそんな名をつけたのか。そもそも「あやのみこ」の消息について、これまた『日本書紀』は黙して語らない。
興亡古代史―東アジアの覇権争奪1000年

文藝春秋

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 済州島物語 12

2006-05-05 18:10:06 | 小説
 七世紀の東アジア、とりわけ高句麗、新羅、百済が鼎立していた朝鮮半島は激動の時代だった。大国唐は高句麗攻略のため新羅と連携し、まず新羅と敵対していた百済を滅亡させた。しかし百済の遺臣たちは根強く抵抗した。国の再興をめざして、わが国の支援を要請、わが国(注:私はゆえあって倭とも日本とも大和朝廷とも表現したくないので、わが国という言い方で通す)は斉明天皇が外征を決意、自ら大軍を率いて九州まで赴くが急逝(暗殺説もある)、中大兄皇子(後の天智天皇)が代わって朝鮮半島に軍を送った。662年のことである。唐・新羅連合軍に戦いを挑んだのであった。
 しかし、世にいう「白村江の戦い」で、わが水軍は歴史的大敗を喫し、半島から撤退せざるをえなかった。百済再興はならなかったのである。のみならず、わが国は唐・新羅の侵攻をおそれて、中大兄皇子は都を大津にまで遷さなければならなかった。白村江の戦いの5年後には高句麗もまた唐・新羅連合軍に滅亡させられるから、わが国は半島における友好国をすべて失うという事態になる。
 さて、ここで疑問が生じる。なぜわが朝廷はそこまで百済に肩入れして、無謀な戦いに突入しなければならなかったのか。斉明天皇にとって百済はいかなる国であったのか。そのことである。
 この二度も天皇になった女帝(35代皇極天皇、37代斉明天皇)の夫、舒明天皇は本名を田村皇子といった。その母が田村皇女という別名を持っていたからである。この田村、百済に属していた耽羅に由来しているのではないのか。

 

済州島物語 11

2006-05-04 20:13:39 | 小説
 さて話は前後するが、耽羅使節の来朝は天智天皇の時代にも2回あった。注目すべきは、『日本書紀』天智天皇8年3月の次の記事である。
 
 三月の己卯の朔己丑(十一日)に、耽羅、王子久麻伎等を遣(まだ)して、貢献(みつぎたてまつ)る。丙申(十八日)に、耽羅の王に五穀の種を賜ふ。是の日に、王子久麻伎等罷(まか)り帰りぬ。

 済州島の王子たちは、来朝して1週間後には帰国したもののようだが、彼らに土産物として持たせたのが、五穀の種と記録しているわけだ。これは、いやでも済州島の建国神話を思いおこさせるではないか。例の神話の石の函には、わが国からの救援物資として、やはり五穀の種が入っていた。
 いわゆる済州島の建国神話は厳密な言い方をすれば耽羅の建国神話であって、それ以前の州胡の創世が語られているわけではない。この神話は意外に新しい時代に作られたものであり、天智朝から贈られた五穀の種のことが、微妙に反映されているような気が私にはする。
 ともあれ7世紀の耽羅はわが国だけに朝貢外交をしたのではない。唐にも使節を送っていた。百済を応援するわが国と新羅を応援する唐とを天秤にかけていたのである。
 

 済州島物語 10

2006-05-01 23:05:08 | 小説
 話を神功皇后の待酒の歌にもどす。歌の中の「常世に坐す石立たす」スクナヒコを、済州島で石人像になっているスクナヒコと私は解釈したのであった。新羅征伐のため、半島に渡ったとされる神功皇后の歌だからこそである。海を渡ったひとでなければ、済州島のことなど知るわけはないからである。
 ところでその神功皇后は実在があやぶまれている日本古代史の謎のスーパー・ヒロインである。『日本書紀』の編者自身、彼女を邪馬台国の卑弥呼に擬した注釈を載せるほどだ。おそらく複数の女性を重ね合わせた人物のはずで、女帝斉明天皇の事績も参照されているのではないかという説もある。つまり3世紀の人物なのか、それ以降のいつの人物なのか、ほんとうはよくわかっていないのである。斉明天皇は600年代の天皇であるが、『日本書紀』によれば、この女帝のときに初めて耽羅から使節が入朝したとある。つまり、わが国と済州島との正式な外交記録は斉明朝から始まるのであった。
 斉明朝7年5月、耽羅国の王子阿波伎らが来たと記されている。「あわき」とはまた倭人みたいな名で、それ以降入朝する人名も半島の国々の人物名とまったくニュアンスが違って、違和感がないというか、もしかして日本語?といいたくなるような感じだ。
 天武朝2年に来朝した王子の名は久麻藝、随行員の名が都羅、宇麻ら、とある。熊、虎、馬ではないか。
 天武朝には3回、つづく持統朝には2回、耽羅からの使節来朝があった。同じ人物がだぶって来朝というケースもあるが、ほかに人名のわかるのは姑如(くにょ)、加羅(から)だけである。
 この当時、済州島(耽羅)は永い間勢力下におかれていた百済の政変(滅亡する)を機に、わが国に接近しようとしていたらしい。わが国としても百済救援の橋頭堡は戦略的にみて済州島しかなかった。