小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

谷干城は誤解されていないか  1

2007-03-29 16:33:25 | 小説
 土佐の谷干城(たてき)と会津の山川浩の、いわば男が男に惚れる物語が私は好きである。戊辰戦争では、敵と味方の間柄であったのに、新政府の陸軍の要職にあった谷は、山川を口説きに口説いて陸軍に出仕させている。会津攻めのとき、かって自分たちを悩ました山川の鮮やかな戦いの指揮ぶりを、谷はおぼえていたのである。西南戦争では、熊本鎮台司令長官として熊本城に籠城した谷の救出に、山川が活躍している。たしかこのときの怪我で山川は左手が不自由となるが、のちには互いに貴族院議員となり、会派を結成、生涯の盟友となった。
 その谷干城は、幕末史のまことに重要なふたつの局面にかかわっていた。坂本龍馬暗殺事件と板橋における近藤勇の取り調べである。いずれにも同時代史料として貴重な証言を彼は残しているのだが、ふたつの証言が妙な具合にリンクして、誤解を招いているように思われる。
 谷干城には、頑迷で短絡的な激高家、といったイメージが定着しているのではないのか、そんな気がするのである。
 たとえば、近刊の木村幸比古『龍馬暗殺の謎』(PHP新書)を読むと、例の今井信郎の自分が龍馬を斬ったという実歴談に谷が不快感を示したことが述べられている。それはいいけれど、「今井刺客説に反論し、やはりあくまで新選組の仕業だと言い切った」と書いている。これはちょっとニュアンスが違うんじゃないだろうか、と言いたい。谷は龍馬が「誰にやられたかということについては、未だ今に心にかけて詮議中である」と述べているのだ。「大学には歴史専門の諸君も沢山御在りなさることでありますから、どうか私がお話申上げる所をご参考となし下されて、事実の真相を御吟味になれば誠に大慶に存じます」とも述べ、さらに「随分あの時分は斬自慢をする世の中であったから、誰がやった彼がやったと云ふことは、実に当てならぬと思ふ。どうぞ御参考に供しますが、尚ほ御取調を願いたいと思います」と切々と訴えている。
 谷の明治39年の講演記録は『谷干城遺稿』収録の前半部分がカットされたものが文献として紹介されることが多い。全講演記録を読むべきである。印象はがらりと違うはずである。新選組が犯人だなどと単純に決めつけている人の話ではないのである。
 さて、龍馬を殺したのが新選組と信じきっていたから、谷は近藤勇の取り調べに際し、冷静でいられずに、いわば私怨、あるいは土佐の恨みを晴らしたという見方がある。あるというより定説化しはじめている。はたして、そうか。

唐人お吉と呼ばれた女 完

2007-03-27 11:57:02 | 小説
 3月27日は下田で毎年「お吉まつり」が開催される日である。下田の芸者衆が艶やかに打ち揃って供養する様子は、残念ながら観光写真でしか見たことがない。別に計算していたわけではないが、その「お吉まつり」の日に、このブログを終われそうである。こういう符合は私はきらいではない。
 さて、村松春水である。彼のかなり重要な取材原は宝福寺の住職の竹岡大乗師であったことは明らかである。村松は大乗師のもとに毎日のように通っていたという。お吉が「唐人」と呼ばれたことを村松に教えたのも大乗師であったらしい。唐人という言葉は、当時は外国人の総称のようなものだった。要するにお吉は「外国人」と呼ばれたにひとしい。外人と寝る女だから、日本人とは見なさいというわけだ。
 ところで大乗師が写真家の下岡蓮杖と親交のあったことは前にも触れたが、竹岡範男『唐人お吉物語』に、こんなくだりがある。
〈大乗師はお吉に法名を「釈貞歓」とおくりました。ヒュースケンから写真術を学びとった下岡蓮杖氏とは無二の親友で(中略)蓮杖氏よりお吉が開国のための陰の力となった犠牲者であることを聞いて知っていたことも考えられ、「まことのよろこび」という法名をおくったのでしょう〉
 そうなのだ。お吉伝説のおおもとのところに、ほらふき蓮杖がからんでいるのであった。
 村松の蒐集したお吉に関するデータは、ほとんど口伝のたぐいで構成されたと見るべきである。それにしても、お吉の母きわ、姉もととその夫惣五郎、それに一時期お吉の養子だったとされる安吉という少年のその後など、間接的にせよ身内の証言や消息を知る史料が少なすぎる。お吉はなぜ孤独な死を死ななければならなかったのか。
 明治23年の3月、稲生沢村の河内門栗の淵に身を没したお吉の遺体は村役場の吏員土屋某が検死している。束ね髪に縦縞の着物、黒襦子衿の半纏をひっかけて静かに眠っていたという。半纏さえ脱げていないというのは、やはり覚悟の自殺であろう。その遺体は、なぜ引き取り手がなく、二日間もむしろをかぶされて放置されたのだろうか。
 ほんとうに「唐人にさわると指がくさる」(前掲『唐人お吉物語』などと言われたのか。そうであるならば、彼女を疎外せざるをえなかったこの国の風土が哀しい。
 唐人お吉と呼ばれた女性が死して115年、その供養の日に、この稿を閉じる。きちさんの霊よ安かれ。

唐人お吉と呼ばれた女 15

2007-03-26 16:36:38 | 小説
 大正時代の学生を熱狂させた女形がいた。昭和初期まで活躍した新歌舞伎の市川松蔦(しょうちょう)である。なにしろ美人を形容するのに「松蔦のような女」という言葉がはやったというから、その人気のほどがわかる。その市川松蔦がお吉を演じたのが昭和5年だった。同じ年、日活で映画「唐人お吉」が作られている。監督は溝口健二、お吉役は梅村蓉子(写真)という女優である。さらにこの年、河合映画(こんな映画会社があったのだ)で琴糸路という女優もお吉を演じている。
 どうやら、この時代に、空前の唐人お吉ブームが起きたもののようだ。
 村松春水『実話 唐人お吉』が平凡社から刊行されたのも昭和5年4月。
 実は前年の昭和4年1月、十一谷義三郎の『唐人お吉』が万里閣書房から刊行されていた。単行本になる前に十一谷は雑誌にお吉をヒロインとした小説を載せていた。「中央公論」の昭和3年11月号および12月号である。これが新歌舞伎や映画の原作となったものだ。
 そして十一谷の小説の資料というか、ネタ元は村松春水であった。十一谷は小説の冒頭で「下田に隠棲せられる村松春水翁の限り無い好意に仰ぎ」と書いている。その村松春水は医師であり、郷土史研究と文学が趣味だった。彼は大正14年、下田で刊行されていた雑誌「黒船」に、お吉に関する文章を発表しているらしい。ちなみに、この年は開国70年の節目に当たる年で、バンクロフト米大使が下田を訪問していた。
 十一谷はおそらく、この「黒船」を読んで、村松に接触したものと思われる。 


唐人お吉と呼ばれた女 14

2007-03-25 20:37:31 | 小説
 なぜ斉藤姓なのか、よくわからないところもあるが、お吉の本名は「斉藤きち」とされている。太地喜和子らを乗せて車を運転したスナックのママの姓は、偶然にも斉藤だった。
 そもそも太地喜和子がそのスナックへ行ったのは、ママの和服の後姿が気に入って、後をつけるようなかたちで店に入ってしまったのである。店ではカラオケで誰かが「唐人お吉」の歌をうたっていたという。見えない糸にたぐりよせられるような運命もあるのである。
 こういう話を聞くと、ユングのシンクロニシティという概念を思い出してしまう。太地喜和子はお吉の生まれ変わりで、だから同じ年齢で死んだと信じている人もいる。たしかに、ほぼ同年齢で没したが、一才ほどの違いはある。ただ、お吉が死んで、ちょうど100年後に太地喜和子も死ぬという暗合は、どこかで私たちを呪術的思考に陥れそうになることはたしかだ。
 お吉伝説が、とりわけ巫女的な女優であった太地喜和子という女優の肉体を借りて、究極のよみがえりをみせたといえるかもしれない。
 もともと、お吉伝説は俳優に演じられることによって、その存在が知られ、ひろく私たちの心に棲みついたのだった。

唐人お吉と呼ばれた女 13

2007-03-24 16:30:45 | 小説
 太地喜和子の舞台「唐人お吉ものがたり」の初演は平成4年8月13日、東京日本橋の三越劇場であった。9月12日から地方公演に入り、名古屋を皮切りに大阪、大津、清水港公演と続き、島田、磐田、浜松、掛川、沼津、静岡、浜北、藤枝、富士宮、冨士、伊豆、伊東と巡演、明日は下田公演という10月12日の夜から日をまたいで深夜、太地喜和子は酒を呑んでいた。無類の酒好きというところはお吉とお吉役の女優には共通点があった。
 唐人お吉の芝居はかって下田では上演されたことはなかった。水谷八重子がお吉の恰好をして、お吉の墓を詣でたという事実はあっても、水谷にもむろん下田公演はない。
 太地喜和子も気にしていて、ほんとうは下田公演はやりたくないと洩らしていたという。予感のようなものがあったかもしれない。
 伊東市観光会館での芝居がはねたその夜、太地は男優ふたりと飲み歩いていた。いつものことだった。夜を徹して呑むのだった。すでに日付の変わった午前2時、観光桟橋から海に車ごと転落して溺死した。運転をしていたのは、その夜たまたまふらりと立ち寄ったスナックのママだった。太地が「海が見たい」と言ったので、ママが自家用車を運転して、桟橋まで行ったのである。おそらくブレーキとアクセルの踏み間違いで、海に転落したのであろうが、太地だけが車から脱出できなかった。ママと男優ふたりは助かっている。

唐人お吉と呼ばれた女 12

2007-03-22 23:20:34 | 小説
 明治9年、36才になったお吉は下田から三島に移っている。金本楼で芸妓をしていたのだ。その金本楼にいわくがある。
 お吉についでハリスの侍妾となったおさよを後妻に迎えた良助の先妻に子がいた。その人物は三島で「かね屋」という料理屋を経営していた。かね屋が転業して貸座敷となり、「金本楼」となったのであった。つまり、お吉を金本楼に紹介したのは、おさよだったのである。お吉とおさよはハリスつながりで、親交があったというわけなのだ。
 三島に二年ほどいて、また下田に戻ったお吉は、おそらく金本楼での経験を活かして、自ら「安直楼」という貸座敷を営むようになる。資金は船頭の亀吉というものが出したというが、前に世帯を持った男が鶴松で、今度のスポンサーが亀吉では、鶴亀で出来すぎのような気もするが、さしあったってスポンサーは問題ではない。お吉に経営の才覚があったかどうかだ。明治17年には安直楼は破綻している。
 それから、お吉の落魄の晩年がはじまるのだ。
 乞食女として死んだ、と前に書いた。酒がたたって中風となり、ぼろを着て、杖をつきながら物乞いのように歩いていたらしい。
 明治23年の春、3月25日の夕刻、門栗の淵に身を投げたのか、それとも誤って転落したのか真相はわからないのだが、死んだ。
 この悲惨な生涯の閉じ方が、らしゃめんの末路を象徴する悲劇として、お吉を有名にする契機となったのであろうか。小説や映画や戯曲のヒロインとなった。
 私は思い出している。平成4年10月13日午前2時、静岡県伊東市の舞台でお吉を演じるはずの女優が死んだ。お吉と同じように水死だった。冥界からお吉に呼ばれたような死に方だった。女優の名は太地喜和子である。 

唐人お吉と呼ばれた女 11

2007-03-21 21:04:09 | 小説
 お吉の父親の市兵衛は大酒呑みだったと伝えられている。酒で早死にした男であったらしい。その父親の血を、たぶんお吉は受け継いでいた。晩年のお吉は、ぼりぼりと線香をかじりながら、冷酒をコップであおっていたというから、凄まじい酒の呑み方をしていたのである。そうではあるけれども、酒席にはべるような機会がなければ、お吉だって酒の味をおぼえたわけはない。14才で芸妓になっていたから、早くから酒になじんだのであった。
 ハリスの侍妾(あえてそう書いておく)を解雇されてから、お吉は酒びたりの毎日になった。
 なにしろ大金を得たのだから、母も姉夫婦もお吉の酒を大目に見ざるを得ない。なぜお吉が酒を呑みたがるのか、痛いほどわかるのである。
「唐人」などという言葉が、陰口ではなく面と向かって投げつけられる日もあったのだ。「毛唐のところへ犬の真似をしに行った女」と世間は見ていた。半農半漁の下田の人間の中には、もしかしたら一生かけても手に入れることのできない金額を、たった3日で手に入れた女、それがお吉だった。好奇と妬みの十字砲火を浴びて、どこまで正気でいつづけることができただろうか。
 意識を混濁させるために、お吉には酒が必要だった。立派なアルコール依存症になったに違いない。
 鶴松という男は酒を呑まない男だったらしいから、ふたりの世帯の破綻は目に見えていたのである。

唐人お吉と呼ばれた女 10

2007-03-19 22:01:08 | 小説
 もしもハリスが善福寺に女性を入れるとしたら、お吉ではなく、別の女性であったはずだ。なぜなら、ハリスは安政5年の7月には、おさよという女性を、いわばお吉のあとがまとして雇い入れていたからである。
『下田会所御用日記』によれば、おさよは「須崎町為吉娘」とある。天保13年生れの17才だった。
 ハリスはおさよには贈り物をしたり、気に入った様子であった。だからお吉のように3日で解雇などしてはいない。解雇されたのは、その年の12月15日である。翌16日はハリスが米国公使に昇任する日だ。江戸に出て、公使館(つまり善福寺)を設けるため、下田を引き払わねばならない。おさよはそのためのリストラ要員である。彼女さえ、江戸には連れていけなかったのである。
 ついでながら、おさよのその後について記すと、下田の侠客金平の妾となり、金平が死ぬと骨董商良助の後妻になったりしている。明治39年病死というから、66才まで生きたのである。
 お吉はといえば、明治元年になって、昔の恋人とされる船大工の鶴松と横浜元町五丁目の長屋で世帯をもっている。4年ほど横浜で過ごし、下田に帰った。髪結いなどして家計を助けていたが、明治7年には鶴松と離婚していた。どうやら、お吉の酒癖が原因であるらしい。

唐人お吉と呼ばれた女 9

2007-03-18 14:11:03 | 小説
 お吉の姉婿惣五郎の受領印のある受取書の文言の一部を引用しておこう。
「きち儀先達暇相候に付き右為手当書面の金子(注:30両)御下渡相成候に付き、則私共へ御渡被下 慥に受取申候」
 暇(いとま)に相成り、とあるとおり、解雇手当であって、以後、再雇用されたはずはない、と私は思う。
 ところがハリスが江戸に出て、麻布の善福寺を仮の米国公使館ととしたときも、善福寺にお吉がいたという証言がある。以下は竹岡範男『唐人お吉物語』の「あとがきに代えてー愛は海鳴りの如く」の一節である。
〈お吉が善福寺で奉仕していたことを、(善福寺の)住職の麻布照海氏も認めており、その件につき、氏は私(竹岡氏)に「お吉が私の寺にハリスと一緒に住んでいたことは内密にしてください」と懇願した。私は「内密にする必要はない」と主張して彼が対米感情を恐れること無用なゆえんを話したのだが、彼が私に同意したかどうかだまっていたからわからない〉
 事実が秘匿されていたような印象を与える文章であるが、麻布住職の思い違いと竹岡氏の思い込みが合致しているに過ぎない。
 麻布にいた女性は、名をつるという横浜表にいた遊女だった。ヒュースケンの月雇いの囲妾とされる女性だ。
 善福寺に詰めていた外国係下役が山門をくぐる女性はチェックし、かつ素性を調べ上げていた。外国奉行にヒュースケンの妾と報告された女性つるの存在はあきらかだが、善福寺の住職は、おそらくこのつるをお吉と思い違えたのであろう。
 ちなみに、つるはヒュースケンの子を産んでいた。
 

唐人お吉と呼ばれた女 8

2007-03-16 16:54:28 | 小説
 下田に着任したハリスは、通訳のヒュースケンのほかに5人の中国人を従えていた。香港で雇い入れた召使頭、料理人とその助手、洗濯夫、雑役夫の5人だ。
 そして下田に来てから現地調達というかたちで、日本人の少年ふたりをボーイとして雇用した。村山滝蔵(当時16才)と西山助蔵(当時15才)である。さらに和泉喜助という馬丁、庭師、水運搬人、掃除夫の3名も雇い入れている。
 さて思い出してほしい。下岡蓮杖の談話をである。
 彼は領事館となった玉泉寺で給仕をしていて、ヒュースケンから写真を教わったと語った。彼の本名は桜田久之助。そういう名の人物が領事館で給仕をしていたという痕跡はないのである。
 蓮杖が「ほらふき」といわれるゆえんである。したがって蓮杖が語る「お吉」像にも注意すべきなのだが、蓮杖はお吉の菩提寺となった宝福寺の住職とも友人関係にあったらしい。住職に、蓮杖のほら話が吹きこまれている可能性はじゅうぶんにあるわけで、後世の史家はこのあたりを勘案すべきなのである。
 お吉は、ハリスのもとに通って3日後には解雇されたということは前にも書いた。
 これはお吉側のいわば嘆願書が残っているので、確認可能な事実である。
 嘆願書の日付は安政4年7月10日である。
 お吉は5月22日に出仕したのだが、24日には解雇されたのであった。理由は「腫物」だった。その腫物も全快したので再雇用をと届け出たのに、役所の方では暫く待てというばかり、「何卒格別之御仁惠を以って御慈悲之御沙汰偏に奉願上候」というのが嘆願書の趣旨である。8月になって解雇手当30両を受け取ったという、お吉の姉婿惣五郎の領収書も残っている。
 ところで、お吉の腫物つまり、おできの場所はどこだったのか。肌をあらわにしなければわからないところにあったはずだ。
 ということは、ハリスはお吉の裸体を見たということになりそうだ。 

唐人お吉と呼ばれた女 7

2007-03-14 23:15:46 | 小説
 残念ながら竹岡範男『唐人お吉物語』は、この写真の件といい、お吉に関する良質な史料とは認めがたい面がある。お吉に関する一級史料は、では何があるだろうか。
 ハリスに日本滞在日記があり、ヒュースケンにも「日本日記」がある。いずれにも、お吉のことは出てこない。某日、私は都立中央図書館(個人貸し出しはない)で、絶版となった岩波文庫の『ヒュースケン日本日記』に目を通し、軽い疲労感をおぼえたものだ。おふくを手はじめに、おきよ、おまつ、つると次々と侍妾を変えたヒュースケンの日記に、彼女たちのことはいっさい書かれていないのである。なかでも、つるにはヒュースケンとの間にできた子供がいた。その子を抱いた写真(オランダ歴史海洋博物館蔵)がある。つまり唐人お吉よりも、もっと実態のある女性がいたのだが、なぜ後の世の私たちは、あくまで「お吉」なのか。お吉だけがなぜクローズアップされるのか。
 お吉に関する一級史料は、当時の『下田町会所御用日記』や、下田に残っている古文書である。口伝のたぐいは、よほど留意しなければならない。
 古文書といえば、お吉とおふくが玉泉寺に出仕すると決まった時、「勤め方心得書」というものにサインさせられている。12ケ条からなる、いわば服務規定なのであるが、そのなかに興味深い1条がある。
「両人とも経水相滞妊娠之模様相心得候はば其段官吏江申入且つ御訴可申上候事」
 すなわち妊娠のきざしがあったら役所に届けろ、というものだ。彼女たちの役目がなんであったか、これでわかるではないか。

唐人お吉と呼ばれた女 6

2007-03-13 20:58:31 | 小説
 さて、いったん、お吉の写真に話を戻そう。お吉記念館のリーフレットにも使われているらしい例の写真のことだ。
 私は、竹岡範男『唐人お吉物語』の表紙を飾っている写真と、同書の本文中の写真で「お吉十九才(安政6年)」とあるモノクロの写真で彼女の風貌を知った。
 同書には「撮影者 水野半兵衛氏 出品者 水野重四郎氏」とある。さらに「水野半兵衛氏は横浜で下岡蓮杖氏より写真を学び、唐人お吉の話を聞き、下田へ来て写したもの。重四郎氏は三代目」と注記されていた。
 安政年間に撮影されたはずのないことは前に記した。
 しかし、どこかでこの写真の女性はお吉だろうと思い込んでいた私は馬鹿だった。私は妙な発見をしてしまって、いま、自分のうかつさを恥じている。
 この写真、私は以前に見ていたのに忘れていたのだ。小沢健志『幕末・明治の写真』のページをあらためてめくっていたら、お吉の写真と同じ写真に出会ってしまったのだ。なぜ気がつかなかったのだろうか。同書の本文にだけ気をとられ、挿入写真を詳しくチェックしていなかったのが残念だ。
 髪飾りを、お吉とされる写真のほうは、なぜか削除して修正している。つまり、小沢本のほうが原写真で、お吉記念館のほうがコピーなのである。写真研究の第一人者とされる小沢氏の本では、この写真は「娘 明治中期 着色」となっている。明治中期に流行した着色写真なのであった。さすがに明治中期に、お吉はこの若さではありえない。小沢本で写真番号99、ということは小沢本の巻末の写真の「所蔵者一覧」を参照するに、この写真は小沢氏ご本人が所蔵されているようだ。
(いささか法的な面での抵触懸念を憂いながら、ネット上でアップされてもいるので、当該写真を掲げておく。ほんとうは小沢氏とご連絡がとれればよいのだが) 
 




唐人お吉と呼ばれた女 5

2007-03-12 22:24:18 | 小説
 領事館となった玉泉寺にお吉が出仕した時の年齢は、通説は17才であった。つまり、お吉は天保12年(1841)11月10日生れだとされているのだ。父は下田の船大工市兵衛。一説には愛知県知多郡の生まれで、4才の時に下田に移住とか。本名は斉藤きち。
 それにしても、船大工に姓があったのが不思議であるが、このあたりの事情はさっぱりわからない。14才で芸妓に出て、「新内明烏のお吉」とうたわれたというから、芸者だったのだろうが、本名も源氏名も一緒かい、と疑問も生じる。いや芸者ではなく、下田寄港の回船の船頭たちの衣類を洗う洗濯女で実態は売春婦だったという説もある。奉行所がアメリカの領事館に送り込む女なのだから、芸者というほうが正しく思われるが、ともあれ処女を人身御供にしたというような話ではなさそうだ。
 妙に年譜がしっかりしているのが、私などはかえって怪訝に感じるのだが、だいたいその命日も妙である。
 彼女は明治も20年をすぎて、門栗ヶ淵で入水して死ぬのだが、通説の命日は明治24年3月27日。ところが菩提寺の宝福寺の伝承では、彼女が死んだのは3月25日。死んで二日間誰も遺体の引取りてがなかったのを、宝福寺の竹岡大乗住職が埋葬したのが27日ということらしい。その竹岡大乗師の息子の竹岡範男氏に『唐人お吉物語』(文芸社)がある。いささか文意の読み取りにくい箇所のある評伝であるが、その著書によると「それともどうしたことでしょうか、役所の記録は明治23年と書きいれられています」とある。役所の錯誤といえるかどうか。
 いずれにせよ、死んだのは乞食女キチであった。
 
 

唐人お吉と呼ばれた女 4

2007-03-11 22:36:45 | 小説
 お吉とふくという2人の女性を、ハリスとヒュースケンにそれぞれ斡旋したのは、もとより蓮杖ではない。下田奉行の井上信濃守清直らである。
 ハリスが病を発し、ヒュースケンが看護婦の斡旋を奉行に依頼、ところが当時の奉行所は看護婦なる女性の概念がつかめなかったのである。要するに侍妾をよこせと要求しているものと理解した。
 だから、多額の支度金と年俸を約束して、お吉たちに因果を含めた。お吉にはむろん、その覚悟があったのである。
 ところが、蓮杖も述べているように、お吉は3日後には解雇されている。なぜだろう。いずれにせよ再雇用があったという説があるので、このことはあとで検討の必要があるけれど、さしあたってはハリスについて知っておかねばならない。
 タウンゼント・ハリスはおそらく女など欲していなかったと思われるのだ。彼はこのとき52才、しかも健康をそこねていた。胃痛や発熱に悩んでいたのである。20代のヒュースケンとはわけが違うのである。
 ハリスは生涯独身であったが、どうやらとんでもないマザコンであったらしい。母親を偏愛し、縁談にはまるで興味を示さず、異性愛を抑圧していたのではないかとされている。「将来、母から離れることが起こったら、世界の眼から取り残されている極東へ行ってみたい」(『日記』)というような人物だった。母が死んだから日本へ来たのであった。
 ともあれハリスはお吉をいったん解雇したのに、ヒュースケンの女となったふくの方は息子の嫁のように可愛がったということは記憶しておいてよい。

唐人お吉と呼ばれた女 3

2007-03-10 13:19:23 | 小説
 さて、ここで下岡蓮杖とお吉の接点に触れておかねばばらない。
 下岡蓮杖は文政6年(1823)伊豆下田の生まれなのであった。安政4年(1856)にはアメリカ総領事ハリスの給仕係をしていて、そこで通訳官のオランダ人ヒュースケンから写真術を習ったともいう人物なのだ。(ヒュースケンが写真に詳しかったという見方は、ほとんど否定的である)
「ほらふき」とも評される蓮杖のことだから、それなりに心してかからなければならないが、彼にこんな談話がある。
「米国から最初の領事として、ハルリスという人と、和蘭語が出来るヒュースケンという人が来ました。私は両人の給仕のような役を言付かって、昼夜一緒にいましたから、自然、心安くなって打ち明けたことを頼まれました。(中略)五・六十両だして貰って、おキチをハルリスに、おマツをヒュースケンに配しました。ハルリスは六十ばかり、ヒュースケンは三十五・六でしたろう。おキチは二十五・六、おマツは二十歳ばかりでした。しかし、ハルリスはおキチをニ・三度呼んだばかりで六十弗の金をくれて断わってしまいました……」
 お吉をハリスに斡旋したのは、まるで自分のような蓮杖の言い草であって、なるほど「ほらふき」といわれるゆえんである。
 しかも、お吉の年齢は通説とあまりにもかけはなれている。蓮杖とお吉は幼なじみだったという説もあるが、幼なじみだったら年齢は正確に知っているだろう。蓮杖のいう年齢が正しいのだろうか。
 ちなみに実際のお吉の支度金は25両、年俸120両だった。

注:下岡蓮杖の談話は谷有ニ『黒船 富士山に登る!幕末外交異聞』(発行 同朋舎、発売角川書店)からの孫引きである。引用文献は『横浜ドンタク』(有隣堂)となっている。

注:(追記)『横浜ドンタク』となっていたので原本が捜せなかったが、正しくは『横浜どんたく』であって、明治42年の『横浜開港側面史』の翻刻本(昭和48年)であるらしい。