小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

陸奥宗光と日清戦争  11(完)

2005-06-16 00:57:25 | 小説
 事件直後、ロシア、アメリカなどから対日批判が当然のように起きた。日本政府は三浦公使ほか事件関係者全員を帰国させ、広島地裁及び軍法会議で裁いた。
 外務大臣は陸奥から西園寺公望に代わっている。関係者はしかし全員無罪となった。証拠不充分というわけだが、もともと形式的な裁判にすぎなかった。
 三浦梧楼はのちに枢密顧問官となるし、堀口九万一はブラジルなどの公使を歴任、みな一様に出世をした。ただ岡本柳之助だけは浪人でありつづけた。彼は陸奥という、後ろ盾を失ったのである。陸奥が岡本の行動を許さなかったのか、あるいは岡本が陸奥から離れていったのかさだかではない。陸奥は岡本が釈放された翌年の明治30年8月に死んだ。岡本は再び大陸に渡り、明治45年まで生きたが、上海で客死した。
 思えば陸奥はかって征韓論者であった。明治初期の征韓論とは何であったか。韓国人の呉善花女史の言葉を引用しておこう。「征韓論の狙いは単なる朝鮮侵略ではなく、中国を中心とする東アジア世界秩序の破壊にあった。日本はこの古代以来の東アジアの世界秩序を破壊し、自らの手で新しい東アジアの世界秩序を生み出し、欧米列強のアジア侵略に対抗しようとした。そこで当面の課題としては朝鮮をこの世界秩序から離脱させること、つまり朝鮮独立が、近代日本の外交上、最重要課題として浮上したのである」(『「日帝」だけでは歴史は語れない』)
 こんなことを、かりに日本人の私がいったらあざとい。日韓の歴史認識の違いについて、つねにバランスのとれた発言をする呉女史のような韓国人ばかりだったら、最近の日韓歴史の共同研究の成果だって違ったものになっていただろう。とはいうものの私はふたつの国民国家の歴史が共通の認識をもてるなどというは絶望的であると思っている。日韓の歴史というからいけないのである。東アジア史という大きな枠組みでとらえなおすべきだと思うものである。しかし、そのことを言い出せば、表題から逸脱してしまう。
 余談だが作家の大路和子氏はもう何年も前から陸奥宗光を題材にした小説の構想を練っている。私は龍馬夫人のおりょうさんが陸奥を悪く評した史料を大路さんにお渡ししたが、なんかよけいなことをしたなと、今では後悔している。大路さんも和歌山の出身だから、陸奥には特別な思い入れがあるに違いない。私も陸奥宗光が好きになっておりますよ、と今度お会いしたら大路さんにはそういうつもりだ。


陸奥宗光と日清戦争  10

2005-06-14 21:04:39 | 小説
 陸奥は暗殺の決行をあらかじめ知っていたのではないか、と疑っているのは角田房子氏である。事件にかかわった岡本柳之助という人物がいる。大院君かつぎ出しの実務をになった主役のひとりだが、かっては陸奥の私設公使といわれていた。大陸浪人として朝鮮で活躍していた彼が、三浦公使の計画を陸奥に知らせないはずはなく、陸奥はそれを黙認したと角田氏は言うのである。
 しかし、これはないだろう。陸奥は朝鮮の内政改革に意欲的ではなくなっていた。この国はどうしようもない、と冷たく見放しているようなところがあった。もし陸奥が閔妃暗殺計画を知ったら、真っ先に岡本の行動を阻止していたはずだ。
 私は岡本の行動には復讐の思いがあったという気がする。明治27年3月つまり日清戦争の始まる前年に、非業の死を遂げた朝鮮の革命家金王均と岡本は親交があった。金王均は閔氏一族の腐敗政治を排するクーデターに失敗、日本に亡命していた頃には福沢諭吉や後藤象二郎らとも親交があった。金王均は日本の明治維新をモデルに朝鮮維新を起こそうとしていたのだが、閔氏一族の放った刺客によって、上海で殺された。岡本はそのとき上海に渡って金の遺体引取り交渉をしようとしている。ところが果たせなかった。遺体はすでに朝鮮に運ばれ、死後凌辱刑にあっている。首をはね、両手両足を切断し、胴体を切り刻んでバラバラにしたうえで、数日間さらしものにされたのである。李朝の処刑はもともと残酷なものだが、閔氏一族がいかに金王均をおそれていたかがわかる。
 岡本が朝鮮に渡ったのは、この金王均のことがあった直後のことであった。彼は金王均の仇討ちをしたかったのだと思う。いわば私怨を胸に秘めていたから、三浦公使の計画に参画したのだ。そのことは陸奥に話せば止められるに決まっているから、彼はこの「仇討ち」をひそかに自分ひとりのものとしたのであろう。

陸奥宗光と日清戦争  9

2005-06-13 22:16:42 | 小説
三浦梧楼はもと高杉晋作の奇兵隊隊士、、むろん長州出身である。伊藤博文、井上馨、山県有朋の長州三巨頭によって、公使として任命された。予備役の陸軍中将で子爵であったが、みずから「外交オンチ」と認めていた。
 三浦は、閔妃の政敵である大院君をかつぎだし、クーデターをもくろんだ。大院君とは閔妃の義父である。つまり閔妃の夫の国王の父なのだが、閔妃はその人物とさえ対立していたのである。その大院君は、歌人の与謝野鉄幹とも親交があったらしい。詩人の堀口大学の父、堀口九万一も大院君のかつぎだし、さらに閔妃暗殺にかかわってくる。
 明治28年10月8日、その朝、日本軍予備隊、朝鮮人訓練隊、領事館警察、民間日本人(壮士団)の混成部隊が王宮に乱入、、かつ王宮を占拠した。
 どの史料を探しても部隊の実数が明らかかでないが、壮士団だけでも50人近くいたようだ。王妃の部屋に侵入したものの誰も王妃の素顔を知らない。ともかく居合わせた3人の女性を斬殺した。
 王妃は当時44才、小柄な女性で実年齢よりはるかに若くみえたという。暗殺者は3人の女性の遺体を裸にして、胸や局部をあらためるという陵辱行為を行った。あげく女官のひとりに遺体を確認させ、王城内の松原でその遺体に油をそそいで焼いた。
 ところが、これらの行為をアメリカ人の外交官とひとりのロシア人技師が目撃していた。かくしてこの事件は、朝鮮はもとより各国の知るところとなる。
 大院君がリーダーではなく、日本人が首謀者であることがばれてしまうのだ。
 日本はこの愚挙によって、外交上最大のピンチとなる局面をむかえる。
 まことに三浦は「外交オンチ」であったのだ。病床にあった陸奥は舌打ちをしたに違いない。、

陸奥宗光と日清戦争  8

2005-06-12 20:27:12 | 小説
 日本は戦争に勝ったものの、ロシア、ドイツ、フランスの三国からの干渉、とりわけロシアからの強い圧力で、遼東半島の所領をあきらめざるを得なくなった。講和条約の大幅な変更で、日本国民も不満の声をあげた。「戦争に勝って外交に負けた」とする見方が大勢を占めたのである。しかし、一歩誤れば武力干渉をも招きかねない局面を、よくしのいだのは陸奥らの外交手腕があったからである。
 陸奥は日清戦争のさなかもその戦後も超人的な日々を送り、若い頃から病んでいた肺結核を悪化させていた。少し無理をすると発熱するのだが、気力で持ちこたえていた。
 日本が三国干渉でロシアに屈したとみるや、閔妃はロシアにすりよってゆく。自主独立の意気込みが為政者自身にないのである。閔妃は夜な夜なロシア公使を宴会に招き、意識的に親しくなっていった。朝鮮をめぐるロシアの力関係が日本を上回るようになれば、清国とロシアがいれかわっただけの状態になる。日本はなんのために清国と戦ったのか。
 明治28年6月、陸奥の症状は重くなり、彼は大磯にひきこもる。すると、対朝鮮方針に空白が生じた。
 そんなとき、新任の駐韓公使として三浦梧楼が任命された。忘れないでいただきたいが、この人選には陸奥は反対していた。しかし三浦公使は実現したのである。その三浦が朝鮮に赴任する。
 王妃暗殺計画を胸に秘めてである。

陸奥宗光と日清戦争  7

2005-06-11 22:26:31 | 小説
 ほとんどの日本人が忠臣蔵の話を知っているように、ほとんどの韓国人は閔妃暗殺事件のことを知っているようだ。しかし、現代の日本人のほとんどは、たぶんこの事件のことを知らないだろう。韓国の対日感情悪化の淵源にもなっている事件について、現代日本人は鈍いのである。
 さて、『閔妃暗殺』(新潮社)を書いた角田房子は、その本で「陸奥宗光への疑惑」という一項目を設けている。閔妃暗殺にかかわった岡本柳之助という人物が、陸奥と同じ和歌山出身であり、陸奥のいわば情報係であったからである。
 しかし事件後、陸奥は林薫宛ての私信のなかで、こう書いている。
「今回の朝鮮事件も小生は全く関係いたさず、最初には少々持論もこれあり候えども、(略)始終傍観の地位に立ちおり候」
 私は陸奥のこの言葉を信じたい。あらゆる状況を冷静に判断できた彼が、こんな愚挙にかかわったとは思いたくない。
 それにしても閔妃はなぜ暗殺されねばならなかったのか。
 閔妃は女ながら、あるいは女ゆえにというべきか、したたかな策謀家であった。王である夫の側室の生んだ子を毒殺するなどの風評はあるし、王をさしおいて外交問題の主役となっていた。日清戦争勃発の契機となった朝鮮の内乱、つまり東学党の蜂起の目的のひとつは王妃とその一族を中心とした腐敗政治の糾弾であった。閔氏一族の専横によって王朝は腐りきっていたのである。
 日本を弁護するわけではないが、この頃の朝鮮は他国が内政干渉したくなるようなスキを与えていたといえよう。

陸奥宗光と日清戦争  6

2005-06-10 20:25:30 | 小説
 1.朝鮮を自主独立の国として干渉しないこと。ただし、その場合、将来、朝鮮政府の内政がどうなるか成り行きまかせで、日本の出兵が意味のなかったことになるおそれがある。
 2.朝鮮は名義上独立とするが、日本がいろいろの形で保護すること。ただし、これは朝鮮の自主独立のためという戦争目的と矛盾するから、外国と葛藤が起きた場合、どうするかという問題が残る。
 3、日清両国で朝鮮の独立を保障すること。ただし日清両国の調整はたいへん難しい。
 4、列国で朝鮮の中立を保障する。ただし、これは日本がせっかく取ったものを列国に分けてやるようなもので日本国民が納得しないだろう。
 これら4案のうち、一つにしぼることは閣議ではできなかった。陸奥の権謀術数が発揮されてくるのだが、彼の真意は2番目の案にあった。つまり外国との葛藤の起きる前に戦争を片付けようとしたのだ。
かっては陸奥を指導したこともある勝海舟は、日清戦争を評して「不義の戦」と言った。朝鮮の自主独立のためという名分はあっても、朝鮮にすれば大いなる内政干渉である。日清両国ともに、その戦争目的にいかがわしさがつきまとっているのは否めない。
 とあれ日本は勝った。その結果、日本は遼東半島と台湾及び澎湖島の割譲を申し入れ、さらに2億両の賠償金を手に入れた。その賠償金の9割は軍事拡大費用として使われ、やがて日露戦争につぎこまれた。
 遼東半島の割譲がいわゆる三国干渉のひきがねとなるのだが、それはさておき、日清戦争後の不幸な出来事について語らねばならない。朝鮮王朝末期の国母、閔妃(ミンピ)暗殺についてである。ひと言で書けば、日本の公使が指揮をとって、朝鮮王宮に乱入、王妃を殺したのである。


陸奥宗光と日清戦争  5

2005-06-09 19:27:43 | 小説
「閣臣の戦争」と天皇は指摘したが、ほんとうは総理大臣伊藤博文と外務大臣陸奥宗光のふたりの戦争といいたかったのではないか。
 日清戦争は伊藤と陸奥の二人三脚で始められたようなものだ。「ビスマルクの開戦外交が帝国主義外交の芸術であったとするならば、伊藤、陸奥のそれも芸術であった」と岡崎久彦はいう。檜山幸夫は「明治天皇との軋轢を生んだのは、伊藤と陸奥の行動であったが、なかでも陸奥は不都合な外交文書は閣僚はもとより天皇にも見せないで政策決定している」(『日清戦争』講談社)と書いている。
 檜山氏の批判はすこし厳しすぎるような気もするが、陸奥の驚くべき手腕は岡崎氏がまさに「芸術」と評したとおりである。
 日清戦争の全局を通じて、陸奥の決断と仕事ぶりはともかく早いのである。即断即決して、結果的にはすべて判断を誤っていない。独断専行のようにみえて、周到である。つねに先を読み、打つ手がすべて的中しているのだ。このため清国側の対応が後手後手にまわった。
 日本の海軍と陸軍は連戦連勝したが、陸奥がいなかったら、局面はあるいは変わっていたかもしれない。
 さて、彼はおそろしくロジカルな男で、並外れた勉強家であった。龍馬が彼の資質を見抜き、評価していたのはさすがというよりほかない。「カミソリ陸奥」と異名を取った男の、その回想録や欧米留学中のノートをみると、おそらく現代の受験生たちでさえタジタジとなるだろう。彼は留学中は1日10時間勉強に没頭し、活字のようにきれいな英文ノートを作成、外人教師を感嘆させている。陸奥の思考がきわめてロジカルというのは、たとえば物事を判断するのに、必ずいくつかの選択肢を想定して、その中の最善を選ぶというパターンにあらわれている。
 日清戦争開戦早々の明治27年8月17日、彼は4案を閣議に提出した。

陸奥宗光と日清戦争  4

2005-06-08 17:44:39 | 小説
 7時52分、両国の艦隊は3000メートルの距離ですれ違おうとする。突如、清国艦が吉野に発砲、朝霧の中で銃撃戦が始まった。これが日本側の記録。清国側の記録では発砲は逆になる。
 いずれにせよ、清国側の完敗となった。
 この海戦の日を期限とする最後通牒を、実は陸奥は清国に出していた。西郷従道海軍大臣は、あらかじめ陸奥に質問していた。この日以降「日本艦隊が清国艦隊に遭遇するか、あるいは清国が軍隊を増派すれば、直ちに戦端を開いて、外交上問題はあるのか」と。これに対し陸奥は「いっこうにかまわない」と返事していた。
 海軍は清国艦隊に出会えば、発砲してもよいという許可を得ていたのであるから、先も後もあるものか、見つけ次第発砲するだろう。戦略上からも、ここで清国艦隊を叩いておく必要はあったのである。両国艦隊がたまたますれちがって、戦端を開いたという単純な図式ではない。
 それにしても日清戦争の開戦を8月1日とする史料が多い。宣戦布告は7月31日、宣戦詔勅は8月2日(清国は8月1日)で、国内法的には開戦はこの7月25日である。開戦日を境に戦時法が適用され、軍人給与や恩給法、あるいは陸軍刑法の処罰規定が平時と変わる。だから開戦日は閣議決定事項だ。それが豊島沖海戦の日なのである。
 開戦に際し、明治天皇は「閣臣の戦争にして、朕の戦争にあらず」と言ったという話はよく知られている。開戦後、数日間、天皇は不機嫌であったらしい。不機嫌というより、かなり怒っていたとおもわれる。当然である。天皇が平和主義者だったからというわけではない。帝国憲法13条は「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」とある。この天皇の戦権よりも、たえず閣議決定のほうが優先してきたからである。
 日清戦争は立憲体制となったわが国初の戦争といわれている。しかし、憲法を無視して始められているのだ。

陸奥宗光と日清戦争  3

2005-06-07 18:09:10 | 小説
 明治27年、朝鮮にいわゆる東学党の乱(大規模な農民一揆のようなもの)が起き、政府軍で鎮圧できなくなった朝鮮は清に派兵を要請する。この動向を察した日本もまた朝鮮に兵を送る。
 清より先に日本が大兵を送り込んだ。日本としては朝鮮を清国の属邦として認めていない。朝鮮の独立を守るという名分のもと、朝鮮政府から清兵を追い出せと迫った。朝鮮としては、はじめに清国に派兵を要請しているから、これはおいそれとは呑めない。しかし、陸奥はこれをやらせた。
 現地の大鳥公使に、こう打電している。
「今は断固たる処置をなす必要がある。外国から甚だしい非難を招かない限りは、いかなる口実を用いてもよい。速やかに実際の行動をとるべし」
 明治27年7月25日、日本はやっと朝鮮側の応諾をとる。しかし、その日、すでに戦争は始まっていた。
 豊島沖の海戦である。
 清国の軍艦の方が先に発砲した、とされている。ところが日本の方が先に発砲しているというのが真相のようだ。
 いずれにせよ、実質的な戦争の幕開けが、この豊島沖海戦であった。
 その日、午前4時半、朝鮮西海岸の豊島沖のベーカー島付近に、連合艦隊第一遊撃隊の三艦、吉野、秋津洲、浪速が到着する。合流するはずだった八重山と武蔵の二艦の船影が発見できない。二時間ほど待った。すると牙山方向より軍艦二艘の接近が認められた。なんと清国の軍艦だ。吉野に乗っていた坪井海軍少将は、待っていた八重山と武蔵の二艦は清国軍艦に沈められてしまったと思い込む。そこで、戦闘の準備を命じた。

陸奥宗光と日清戦争  2

2005-06-06 20:20:30 | 小説
 彼の評判は、勝海舟の神戸海軍塾時代においても、あまりよくなかった。「うそつき小次郎」といわれていた。彼の旧姓は伊達、幼名は小次郎である。小利口な小才子として毛嫌いされる面があったらしい。まだ20才前のことだ。
 塾内で孤立していた彼をすくいあげ、やがて土佐人グループの亀山社中に加えたのは龍馬であった。その彼には、外人宣教師の家に住み込み、その妻から英語を学んだという逸話もある。のこされた写真をみると、いかにも外人うけしそうな美男子である。
 ところで、なぜ「陸奥宗光と日清戦争」なのか。それは日清戦争は、陸奥宗光の平和的外交を無視した軍部の独走によるという史観が存在するからである。満州事変における軍部の独走は誰もが異論はないだろうが、日清戦争においてはこの見方は正しいだろうか。
 日清戦争はいわば朝鮮半島をめぐる日本と清国の覇権争いである。清国は朝鮮を「属邦」と呼び、半島における勢力は日本よりも優位に立っていた。それを日本側が日清同等と主張すれば、行きつく先は戦争しかない。俊敏な外交官であった陸奥宗光はそんなことは百も承知だったと、岡崎光彦は『陸奥宗光』に書いている。私もそう思う。
 日清戦争はどうみても、日本側がしかけた戦争だった。
 

陸奥宗光と日清戦争  1

2005-06-05 23:29:31 | 小説
 陸奥宗光はもと海援隊士だった。もっとも土佐藩士ではない。紀州和歌山藩の重役の息子であった。坂本龍馬に傾倒し、龍馬の影響をもっとも強く受けた人物であり、海援隊の出世頭だ。
 鎌倉の壽福寺に墓がある。源頼朝と北条政子の墓のある由緒ある寺で、文人の高浜虚子や大仏次郎もここに眠っている。小林秀雄が散策の場所として愛した寺で、私も一時期鎌倉に住んだおり、小林秀雄を真似るようにして、この寺を訪れたものだった。けれども陸奥宗光の墓所には、われながら冷淡だった。
 龍馬は海援隊士をを評して、刀を取り上げたら路頭に迷う生活能力のない連中ばかりだが陸奥と自分だけは食うに困らないだろうと言った。それほどまでに評価したのが陸奥宗光であった。しかし、龍馬びいきでは人後に落ちない私なのだが、陸奥には好ましい印象を抱いていなかったのだ。陸奥のことをよく知っているわけではないのに、この印象はどこから来るのだろうと自問してみた。たぶん、龍馬の妻のおりょうさんが陸奥を嫌っていたせいだと思われる。おりょうさんの眼で、私は陸奥を見ていたのではないか。


 ◇この稿は旧稿の焼き直しです。
  10回を超えるぐらいの続き物になります。