徳川幕府が開かれてほぼ半世紀、巷には失業武士たちがあふれていた。
失業武士すなわち浪人(牢人)の数は、当時30万人以上40万人に迫っていたのではないかとする推論もある。正確な人口統計があるわけではないから、どこまでも推定値になるけれど、総人口3000万人、武士が150万人いたとして武士の失業率はほぼ27%という、とんでもない数値になる。
積極的に大名、旗本を取り潰し、あるいは減封、移封によってその勢力をそぐことが秩序維持につながると判断した幕府の政策過程で発生したのが、大量の浪人たちであった。
その浪人たちが叛乱を計画したのが慶安事件である。窮鼠は猫を噛むのことわざがある。由比正雪、丸橋忠弥らが計画したクーデターは、つまるところ浪人たちの抑圧に淵源があった、と思う。
慶安4年(1651)に起きた事件の背景については、尊王倒幕説、あるいはキリシタン一揆説などもあるけれど、失業武士たちの救済説が定説化しつつあるように思われるのだ。
ところで、この稿は、事件そのものの考証が目的ではない。ずいぶん前から、丸橋忠弥の出自が気になっており、そのことを考えてみたいのである。丸橋は長宗我部盛親の子であるという説だ。
長宗我部盛親は四国の覇者となった長宗我部元親の子で、父の死去により土佐の国守となり、大阪の陣では豊臣側に参戦した。つまりアンチ徳川であった。
その最後については『ウィキペディア』の記述から引用すると、こうなっている。
〈勝利を諦めた盛親は次の日の大坂城近郊での最終決戦には参加せず、大坂城・京橋口の守りについていたが、敗北が決定的になると「我ら運さえ良ければ天下は大坂たるよ」と言い残し再起を図って逃亡した。
だが運は盛親に味方せず、5月11日京都八幡近くの葭原に潜んでいるところを、蜂須賀家の家臣・長坂七郎左衛門に見つかり捕らえられる。その後、盛親は見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられた。そして5月15日に京都の六条河原で6人の子女とともに斬首され、三条河原で梟首された。享年41。
これにより、長宗我部氏は完全に滅亡した。墓所は京都市五条寺町の蓮光寺。領安院殿源翁宗本大居士と諡名された(別の諡名として蓮国一栄大禅定門)。〉
ご覧のとおり、「6人の子女」も処刑され、「長宗我部氏は完全に滅亡した」と、私も認識していたから、丸橋忠弥が盛親の子と言われると、なぜ?と疑問が生じたのであった。
失業武士すなわち浪人(牢人)の数は、当時30万人以上40万人に迫っていたのではないかとする推論もある。正確な人口統計があるわけではないから、どこまでも推定値になるけれど、総人口3000万人、武士が150万人いたとして武士の失業率はほぼ27%という、とんでもない数値になる。
積極的に大名、旗本を取り潰し、あるいは減封、移封によってその勢力をそぐことが秩序維持につながると判断した幕府の政策過程で発生したのが、大量の浪人たちであった。
その浪人たちが叛乱を計画したのが慶安事件である。窮鼠は猫を噛むのことわざがある。由比正雪、丸橋忠弥らが計画したクーデターは、つまるところ浪人たちの抑圧に淵源があった、と思う。
慶安4年(1651)に起きた事件の背景については、尊王倒幕説、あるいはキリシタン一揆説などもあるけれど、失業武士たちの救済説が定説化しつつあるように思われるのだ。
ところで、この稿は、事件そのものの考証が目的ではない。ずいぶん前から、丸橋忠弥の出自が気になっており、そのことを考えてみたいのである。丸橋は長宗我部盛親の子であるという説だ。
長宗我部盛親は四国の覇者となった長宗我部元親の子で、父の死去により土佐の国守となり、大阪の陣では豊臣側に参戦した。つまりアンチ徳川であった。
その最後については『ウィキペディア』の記述から引用すると、こうなっている。
〈勝利を諦めた盛親は次の日の大坂城近郊での最終決戦には参加せず、大坂城・京橋口の守りについていたが、敗北が決定的になると「我ら運さえ良ければ天下は大坂たるよ」と言い残し再起を図って逃亡した。
だが運は盛親に味方せず、5月11日京都八幡近くの葭原に潜んでいるところを、蜂須賀家の家臣・長坂七郎左衛門に見つかり捕らえられる。その後、盛親は見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられた。そして5月15日に京都の六条河原で6人の子女とともに斬首され、三条河原で梟首された。享年41。
これにより、長宗我部氏は完全に滅亡した。墓所は京都市五条寺町の蓮光寺。領安院殿源翁宗本大居士と諡名された(別の諡名として蓮国一栄大禅定門)。〉
ご覧のとおり、「6人の子女」も処刑され、「長宗我部氏は完全に滅亡した」と、私も認識していたから、丸橋忠弥が盛親の子と言われると、なぜ?と疑問が生じたのであった。