小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

慶安事件と丸橋忠弥  1

2009-08-30 22:16:39 | 小説
 徳川幕府が開かれてほぼ半世紀、巷には失業武士たちがあふれていた。
 失業武士すなわち浪人(牢人)の数は、当時30万人以上40万人に迫っていたのではないかとする推論もある。正確な人口統計があるわけではないから、どこまでも推定値になるけれど、総人口3000万人、武士が150万人いたとして武士の失業率はほぼ27%という、とんでもない数値になる。
 積極的に大名、旗本を取り潰し、あるいは減封、移封によってその勢力をそぐことが秩序維持につながると判断した幕府の政策過程で発生したのが、大量の浪人たちであった。
 その浪人たちが叛乱を計画したのが慶安事件である。窮鼠は猫を噛むのことわざがある。由比正雪、丸橋忠弥らが計画したクーデターは、つまるところ浪人たちの抑圧に淵源があった、と思う。
 慶安4年(1651)に起きた事件の背景については、尊王倒幕説、あるいはキリシタン一揆説などもあるけれど、失業武士たちの救済説が定説化しつつあるように思われるのだ。
 ところで、この稿は、事件そのものの考証が目的ではない。ずいぶん前から、丸橋忠弥の出自が気になっており、そのことを考えてみたいのである。丸橋は長宗我部盛親の子であるという説だ。
 長宗我部盛親は四国の覇者となった長宗我部元親の子で、父の死去により土佐の国守となり、大阪の陣では豊臣側に参戦した。つまりアンチ徳川であった。
 その最後については『ウィキペディア』の記述から引用すると、こうなっている。

〈勝利を諦めた盛親は次の日の大坂城近郊での最終決戦には参加せず、大坂城・京橋口の守りについていたが、敗北が決定的になると「我ら運さえ良ければ天下は大坂たるよ」と言い残し再起を図って逃亡した。

だが運は盛親に味方せず、5月11日京都八幡近くの葭原に潜んでいるところを、蜂須賀家の家臣・長坂七郎左衛門に見つかり捕らえられる。その後、盛親は見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられた。そして5月15日に京都の六条河原で6人の子女とともに斬首され、三条河原で梟首された。享年41。

これにより、長宗我部氏は完全に滅亡した。墓所は京都市五条寺町の蓮光寺。領安院殿源翁宗本大居士と諡名された(別の諡名として蓮国一栄大禅定門)。〉

 ご覧のとおり、「6人の子女」も処刑され、「長宗我部氏は完全に滅亡した」と、私も認識していたから、丸橋忠弥が盛親の子と言われると、なぜ?と疑問が生じたのであった。 

左甚五郎の謎  完

2009-08-26 11:10:50 | 小説
 元禄3年(1690)に刊行された『人倫訓蒙図彙』(じんりんきんもうずい)という書物がある。全7巻のイラスト付きの当時のいわば職業図鑑である。その木彫師の項に「上古には飛騨内匠名人なり。天正のころ左と号する名人あり」とある。
 さて天正元年(1573)は室町幕府が滅びた年であり、天正19年(翌年から文禄)は、豊臣秀吉が朝鮮出兵を命じた年である。つまり「天正のころ」というのは織田信長と秀吉の時代であった。
 その頃に、すでに左と号する木彫名人が存在していたというのだ。おそらく、この伝説の木彫名人が、江戸期の木彫作者に投影されて、さまざまな伝説を醸成したのではないだろうか。
 調べが行き届かなくて心残りだが、そのように結論づけたい。
 心残りといえば、日光東照宮の眠り猫の意味がどうしても気にかかる。
 あまり自信はないけれど、ひとつだけ思いつきを書きつけておこう。
 猫は江戸開拓と因縁のある動物だった。だから奥社の入り口に眠っているのだと。
 話は大田道灌にまでさかのぼる。
 江古田ケ原の戦いで劣勢になった大田道灌は道に迷った。そのとき一匹の猫があらわれ道先案内をし道灌を救った。その猫を道灌は江戸城でたいそう可愛がったという話があるのだ。新宿区西落合に現存する自性院には猫地蔵がある。その猫地蔵尊は道灌が奉納したというのが寺の由緒である。
 ちなみに自性院の猫地蔵は、招き猫の発祥説ともされるが、その真偽は定かではない。
 それにしても、左甚五郎の名はなぜ講談や落語あるいは浪花節によって語り継がれてきたのだろうか。おそらく匿名のアーティストに対する人々の敬慕のあらわれが、「物語」を生んだのだと思う。

左甚五郎の謎  3

2009-08-23 21:55:12 | 小説
 飛騨に「たくみ」すなわち木工が多かったのには、わけがある。遠く律令制下の時代に、飛騨国では免税措置の見返りに、里ごとに匠丁10人が徴発された。彼らは木工寮、造宮省、修理職などに配属され、その木工の技術を向上させた。木工のノウハウの蓄積は、飛騨は他国を圧倒していたのであった。
 さて、『国史大辞典』(吉川弘文堂)の「左甚五郎」の項に、こんな記述がある。

〈生没年不詳。建築彫刻の名人として江戸時代に理想化された人物像。延宝3年(1675)黒川道祐の著『遠碧軒記』に、「左の甚五郎と云もの、栄徳が弟子にて細工を上手にす。今の北野の社のすかしほりもの、ならびに豊国の社頭のほりもの竜は、栄徳が下絵にて彫れり。それゆへに見事なり。左の手にて細工を上手にしたるものなり」とあり、(後略)〉

 飛騨の甚五郎がなまって左になったという説とは別に、「左の手で細工」をしたから左甚五郎と呼ばれたという説もあったわけである。それも左利きだった、あるいは仲間の嫉妬によって右手を切り落とされ、左手しか使えなかったなど、とかく人はドラマチックに憶測したのであった。
 上記の引用文献で「栄徳」とあるのは、狩野栄徳のことであるらしい。『国史大辞典』が「生没年不詳」と記すのは、まことに良心的であって、左家の家譜のとおりなら、甚五郎は栄徳の弟子にはなれないのである。栄徳は甚五郎が生まれる前に死んでいる絵師だからだ。
 もしも栄徳の弟子で左甚五郎なる人物がいたとしたら、それは高松で死んだ甚五郎ではないのである。
 ただし寛永11年の高松藩『生駒家士分限録』には大工頭6名の末席に新参衆として「甚五郎」の名が登録されており、5年後の寛永16年の分限録では、こんどは筆頭で登録されている。高松藩に甚五郎という大工頭がいたことは確かなことである。フルネームで「左甚五郎」として登録されていたならば、後世の史家たちにもっとインパクトを与えたに違いない。

左甚五郎の謎  2

2009-08-20 22:30:27 | 小説
 昭和33年に四国で開かれた日本建築学会で、考証左甚五郎を発表した人物がいた。高松市在住の左光拳氏である。その姓が示すとおり、左甚五郎の末裔と称する彫刻家である。九世の孫であるという。
 左光拳氏によれば、甚五郎は慶安4年(1651)12月晦日に讃岐三谷村で死んだことになっている。だから墓は高松寺町地蔵寺にあった。
 しかしこの墓は昭和20年の空襲で焼かれて、墓石の正面の文字が読み取れないらしい。どうやら、甚五郎の墓という確証に欠けるところがあるようだ。
 ともあれ、左光拳氏が公表した左家の家譜の概要は次のようなものであった。

 初代 甚五郎利勝(讃岐入国後に左宗憲と名のる)
    文禄3年(1594)12月26日播磨明石に生れる。
    寛永11年(1634)4月江戸に亡命す。

 2代目甚五郎宗心
    寛永9年(1632)4月24日江戸に生れる。
    元禄15年(1702)3月15日没す。

 3代目甚五郎勝政
    寛文6年(1666)2月7日生まれ。
    享保12年(1727)5月13日没す。

 さて、気づかれた方もおられるだろうけれど、2代目甚五郎が初代の実子であるならば、初代の江戸亡命の年と2代目が江戸で生れた年に齟齬があることになる。
 左甚五郎の家譜については、江戸時代にすでに山東京伝が入手していたらしく『近世奇跡考』で紹介している。
 山東京伝の記す家譜では、2代目、3代目の没年は、左光拳氏のそれと合致しているが、かんじんの初代の死んだ年は寛永11年4月28日と大違いである。さらに「伏見人」となっているから、出身地も異なるのである。
 そもそも左という姓に疑念を持つ説が江戸時代からあった。「大和大工に飛騨たくみ」という言葉があり、優秀なたくみは飛騨に多かった。飛騨の甚五郎がなまって左甚五郎と称されるようになったという説である。

左甚五郎の謎  1

2009-08-16 22:03:33 | 小説
 日光東照宮の奥社入り口の回廊頭上に「眠り猫」の彫刻はある。その彫刻の裏側には雀の彫刻がある。つまり眠り猫と雀が背中合わせになっているのである。なぜ猫と雀なのか。
 その意味するところは、よくわからない。幕府の宗教政策を担当した怪僧天海の総合プロデュースによって創建されたのが日光東照宮である。意味のない意匠などあろうはずがない。まして奥社の入り口を護る装飾である。それがなぜ眠れる猫なのか、意味がわからないというより、意味が明らかにされていない、と言い直しておこう。
 猫と雀の意匠に、ヒントらしきものがなくはない。
 奈良の春日神社に伝わる平安時代の太刀の鞘に猫と雀が描かれていた。「金地螺鈿毛抜形太刀」と称される国宝である。刀身のなかごに覆輪と兜がねを装着して、そのまま柄にし、透かしが化粧用毛抜に似ているので、そんな名称がついたのであろう。
 鞘には、螺鈿で竹林に雀を襲う猫が描かれている。
 時系列で猫の様子が三態描かれているのだ。雀を追う姿、雀にかぶりつく様子、そして捕食し終わったあとの満足げな姿。しかもこの猫、野良猫ではない。よく見ると首輪をしている。
 さて、日光東照宮の眠り猫と雀は、この太刀のデザインに触発されたとも考えられる。
 戦国時代は終り、天下泰平の世になったのだから、猫は雀を襲うこともなく居眠りし、雀も安心して竹林に戯れている。そういうメッセージだと受け取る人がある。
 いずれにせよ、この彫刻の作者は、言わずと知れた左甚五郎、ということになっている。その左甚五郎に謎が多い。
 伏見の人という説がある。紀伊国根来の出身という説もある。明石の人という説もある。
 香川県高松市に墓がある。なぜだろう。 

若かりし頃の水戸黄門

2009-08-04 22:56:41 | 小説
 テレビドラマの『水戸黄門』はなんと40年続く長寿番組で、新シリーズでは、東北への漫遊らしく、芭蕉と曽良も登場している。つまり、芭蕉の「奥の細道」紀行と黄門一行の漫遊が重なるという設定のようだ。
 知人と居酒屋で飲んでいて、このことを教えられ、えっと驚いたけれど、黙っていた。もともと水戸黄門の諸国漫遊そのものが事実ではない。幕末の講談がもとになっているフィクションである。めくじら立てるほうが野暮と言うものである。
 ただ動かしがたい事実を無視した脚本家には敬意を表しておこう。
 芭蕉が曽良と一緒に、「奥の細道」の旅に出たのは元禄2年(1689)3月のことであった。水戸光圀が養子綱條に家督を譲って隠居したのは元禄3年(1690)10月のことであった。つまり黄門様と芭蕉の旅程が同じになるわけはないのである。
 黄門すなわち水戸光圀は、むしろその青年時代のほうに私などは興味がある。今風に言えば、かなりヤンキーであった若かりし頃にである。それはたとえば鬼平犯科帳の長谷川平蔵が、若い頃に本所あたりで無頼な生活を送っていたのと事情が似ている。
 光圀は結構な「かぶき者」で、守り役の小野言員(ときかず)を泣かせていた。小野は光圀にむかって「言語道断のかぶき者」と叱責し、種々お説教をした手紙を残している。
 ビロードの襟の派手なお召し物を着て、脇差を前に突っ込んで、両手をふりまわして歩くな。三味線ぐるいなどおやめなされ。軽輩ばかり近づけて下世話な噂話に興じるとはなにごとですか。弟たちと猥談にふけるとはなさけない。これらの様子を見て、皆が溜め息をついて悲しんでいますぞ、などと小野は書き、不行跡を重ねていると水戸藩に潜入している幕府隠密を通じて幕府に報告されてしまうと警告しているのである。
 いやいや、優等生でないところがよろしい、と私は思う。講釈師だって、こういう光圀に共感をおぼえて、隠居後の漫遊記を仕立てのではないだろうか。