菊地明氏の近著が岡田以蔵の評伝であると知って、早速に読みたくなった。アマゾンでは『史伝岡田以蔵』(学研M文庫)となっていたので、書名をメモして家人の外出のついでに日本橋丸善で買ってきてもらった。「題名が違っていたけれど、これでしょ」と渡された文庫本は『真説岡田以蔵』となっていた。サブタイトルは「幕末暗殺史に名を刻んだ『人斬り』の実像」。奥付では8月24日初版発行となっている。文庫のための書き下ろしである。
「史伝」を「真説」と変えた事情はなんとなくのみこめる。
岡田以蔵に関しては史料が少ないから「史伝」は書きにくいのである。以蔵にまつわる俗説、たとえば貧困家庭で育ち、教養がなかったなどという誤説を排除するためには「真説」と標榜して語るよりほかないのである。
菊地氏も書いているが、「人斬り」という呼称さえ後世のつくりもので、はっきりと彼が関与した殺人では絞殺という手段がとられている。以蔵って誰を斬ったの、という質問にすらすらと答えられる人がいたらお目にかかりたい。
ともあれ菊地氏の著書を大急ぎで、目を通してみた。立ち止まって、熟考したい箇所もあったけれど、やり過ごすようにして読んだ。
さすがに菊地氏、以蔵のジョン万次郎護衛説に言及されていた。この一点では立ち止まった。
このことについては私は以前に「人斬り『以蔵』の真実』(当ブログの右欄「自薦ブログ」参照)で書いた。菊地氏は、ジョン万次郎の護衛はありえない、つまり中浜家の家伝は虚偽であるとする立場をとられている。まあ、そう言わざるを得ないとは思う。ジョン万次郎の護衛をした年次は、以蔵が処刑されたあとの慶応の末であるからだ。しかし私は中浜家の家伝を信ずるものである。以蔵は生きていたという立場をとっている。詳しくは私の旧稿をお読みいただきたい。
菊地氏は書いている。
〈万次郎の墓は現在、東京都豊島区の雑司が谷霊園にあるが、万次郎はそれとは異なる生前墓を谷中(台東区)に建立していたのだという。
現在、谷中には東京都立の谷中霊園があり、その十万平米の広い墓域に7千基からの墓碑が並んでいるが、公共墓地とされたのは明治七年(一八七四)のことで、それまでは現存する天王寺の寺域だった。もちろん、谷中には当時も多くの寺院があり、生前墓が建てられたのは天王寺以外の、それらの寺院だったのかもしれない。
しかし、「谷中に墓地を求め」という表現は、ある寺院を指しているというよりも、漠然と谷中霊園のような広大な墓地を意味しているように思えてしまう。もちろん、これは感覚的なものに過ぎず、現実にはどこかの寺院のことで構わない。
その墓地に万次郎が以蔵と行ったのは、「慶応の末」だという。〉
この記述は菊地氏らしくはない。あたかも明治7年以降の話を慶応と勘違いしているのではないかと印象操作しかねないのだ。「谷中に墓地を求め」あるいは「慶応の末」というのも中浜博『私のジョン万次郎』(小学館)で紹介された家伝の中の言葉であるが。その中浜博の同書でも谷中の仏心寺(現存)と明記されている。谷中霊園ではないし、「現実にはどこかの寺院のことで構わない」などと言わずもがななのである。ついでに言えば井伏鱒二の『ジョン万次郎漂流記』でも谷中の仏心寺に万次郎が葬られたことは書かれていたと記憶する。
大正9年に谷中の仏心寺から現在の雑司が谷に墓が移されたことは中浜博の同書にもある。菊地氏はこれらの記述を見落とされたのであろうか。
さて私が菊地氏の著書に感じた違和感はここのところだけである。
以蔵に対する誤ったイメージを払拭する労作であることは間違いなく、大河ドラマで歪められた岡田以蔵像を読者は菊地本によって修正すべきなのである。
「史伝」を「真説」と変えた事情はなんとなくのみこめる。
岡田以蔵に関しては史料が少ないから「史伝」は書きにくいのである。以蔵にまつわる俗説、たとえば貧困家庭で育ち、教養がなかったなどという誤説を排除するためには「真説」と標榜して語るよりほかないのである。
菊地氏も書いているが、「人斬り」という呼称さえ後世のつくりもので、はっきりと彼が関与した殺人では絞殺という手段がとられている。以蔵って誰を斬ったの、という質問にすらすらと答えられる人がいたらお目にかかりたい。
ともあれ菊地氏の著書を大急ぎで、目を通してみた。立ち止まって、熟考したい箇所もあったけれど、やり過ごすようにして読んだ。
さすがに菊地氏、以蔵のジョン万次郎護衛説に言及されていた。この一点では立ち止まった。
このことについては私は以前に「人斬り『以蔵』の真実』(当ブログの右欄「自薦ブログ」参照)で書いた。菊地氏は、ジョン万次郎の護衛はありえない、つまり中浜家の家伝は虚偽であるとする立場をとられている。まあ、そう言わざるを得ないとは思う。ジョン万次郎の護衛をした年次は、以蔵が処刑されたあとの慶応の末であるからだ。しかし私は中浜家の家伝を信ずるものである。以蔵は生きていたという立場をとっている。詳しくは私の旧稿をお読みいただきたい。
菊地氏は書いている。
〈万次郎の墓は現在、東京都豊島区の雑司が谷霊園にあるが、万次郎はそれとは異なる生前墓を谷中(台東区)に建立していたのだという。
現在、谷中には東京都立の谷中霊園があり、その十万平米の広い墓域に7千基からの墓碑が並んでいるが、公共墓地とされたのは明治七年(一八七四)のことで、それまでは現存する天王寺の寺域だった。もちろん、谷中には当時も多くの寺院があり、生前墓が建てられたのは天王寺以外の、それらの寺院だったのかもしれない。
しかし、「谷中に墓地を求め」という表現は、ある寺院を指しているというよりも、漠然と谷中霊園のような広大な墓地を意味しているように思えてしまう。もちろん、これは感覚的なものに過ぎず、現実にはどこかの寺院のことで構わない。
その墓地に万次郎が以蔵と行ったのは、「慶応の末」だという。〉
この記述は菊地氏らしくはない。あたかも明治7年以降の話を慶応と勘違いしているのではないかと印象操作しかねないのだ。「谷中に墓地を求め」あるいは「慶応の末」というのも中浜博『私のジョン万次郎』(小学館)で紹介された家伝の中の言葉であるが。その中浜博の同書でも谷中の仏心寺(現存)と明記されている。谷中霊園ではないし、「現実にはどこかの寺院のことで構わない」などと言わずもがななのである。ついでに言えば井伏鱒二の『ジョン万次郎漂流記』でも谷中の仏心寺に万次郎が葬られたことは書かれていたと記憶する。
大正9年に谷中の仏心寺から現在の雑司が谷に墓が移されたことは中浜博の同書にもある。菊地氏はこれらの記述を見落とされたのであろうか。
さて私が菊地氏の著書に感じた違和感はここのところだけである。
以蔵に対する誤ったイメージを払拭する労作であることは間違いなく、大河ドラマで歪められた岡田以蔵像を読者は菊地本によって修正すべきなのである。