小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

菊地明『真説 岡田以蔵』の感想

2010-08-15 17:36:34 | 読書
 菊地明氏の近著が岡田以蔵の評伝であると知って、早速に読みたくなった。アマゾンでは『史伝岡田以蔵』(学研M文庫)となっていたので、書名をメモして家人の外出のついでに日本橋丸善で買ってきてもらった。「題名が違っていたけれど、これでしょ」と渡された文庫本は『真説岡田以蔵』となっていた。サブタイトルは「幕末暗殺史に名を刻んだ『人斬り』の実像」。奥付では8月24日初版発行となっている。文庫のための書き下ろしである。
 「史伝」を「真説」と変えた事情はなんとなくのみこめる。
 岡田以蔵に関しては史料が少ないから「史伝」は書きにくいのである。以蔵にまつわる俗説、たとえば貧困家庭で育ち、教養がなかったなどという誤説を排除するためには「真説」と標榜して語るよりほかないのである。
菊地氏も書いているが、「人斬り」という呼称さえ後世のつくりもので、はっきりと彼が関与した殺人では絞殺という手段がとられている。以蔵って誰を斬ったの、という質問にすらすらと答えられる人がいたらお目にかかりたい。
 ともあれ菊地氏の著書を大急ぎで、目を通してみた。立ち止まって、熟考したい箇所もあったけれど、やり過ごすようにして読んだ。
 さすがに菊地氏、以蔵のジョン万次郎護衛説に言及されていた。この一点では立ち止まった。
 このことについては私は以前に「人斬り『以蔵』の真実』(当ブログの右欄「自薦ブログ」参照)で書いた。菊地氏は、ジョン万次郎の護衛はありえない、つまり中浜家の家伝は虚偽であるとする立場をとられている。まあ、そう言わざるを得ないとは思う。ジョン万次郎の護衛をした年次は、以蔵が処刑されたあとの慶応の末であるからだ。しかし私は中浜家の家伝を信ずるものである。以蔵は生きていたという立場をとっている。詳しくは私の旧稿をお読みいただきたい。
 菊地氏は書いている。

〈万次郎の墓は現在、東京都豊島区の雑司が谷霊園にあるが、万次郎はそれとは異なる生前墓を谷中(台東区)に建立していたのだという。
 現在、谷中には東京都立の谷中霊園があり、その十万平米の広い墓域に7千基からの墓碑が並んでいるが、公共墓地とされたのは明治七年(一八七四)のことで、それまでは現存する天王寺の寺域だった。もちろん、谷中には当時も多くの寺院があり、生前墓が建てられたのは天王寺以外の、それらの寺院だったのかもしれない。
 しかし、「谷中に墓地を求め」という表現は、ある寺院を指しているというよりも、漠然と谷中霊園のような広大な墓地を意味しているように思えてしまう。もちろん、これは感覚的なものに過ぎず、現実にはどこかの寺院のことで構わない。
 その墓地に万次郎が以蔵と行ったのは、「慶応の末」だという。〉

 この記述は菊地氏らしくはない。あたかも明治7年以降の話を慶応と勘違いしているのではないかと印象操作しかねないのだ。「谷中に墓地を求め」あるいは「慶応の末」というのも中浜博『私のジョン万次郎』(小学館)で紹介された家伝の中の言葉であるが。その中浜博の同書でも谷中の仏心寺(現存)と明記されている。谷中霊園ではないし、「現実にはどこかの寺院のことで構わない」などと言わずもがななのである。ついでに言えば井伏鱒二の『ジョン万次郎漂流記』でも谷中の仏心寺に万次郎が葬られたことは書かれていたと記憶する。
 大正9年に谷中の仏心寺から現在の雑司が谷に墓が移されたことは中浜博の同書にもある。菊地氏はこれらの記述を見落とされたのであろうか。
 さて私が菊地氏の著書に感じた違和感はここのところだけである。
 以蔵に対する誤ったイメージを払拭する労作であることは間違いなく、大河ドラマで歪められた岡田以蔵像を読者は菊地本によって修正すべきなのである。

いろは丸新史料の謎 補遺

2010-08-04 09:58:08 | 小説
 あらら、『月琴を弾く女 お龍がゆく』を部分的に読み返していたら、私は龍馬に、いろは丸のことを「オランダ籍のアビソ号」としゃべらせていた。(同書255ページ)
 これが錯誤であることは、このブログの読者は先刻ご承知のことがらであるはず。まあ、小説のことだし、龍馬の思い違いということでご理解いただくとして、「アビソ号」即「いろは丸」という誤解を増幅させてはまずいから、機会があれば訂正したいと思っている。
 さて、いろは丸の賠償については、岩崎弥太郎の「崎陽日暦」の「6月2日」(慶応3年)に次のような記述がある。

「…大洲の重役大橋采女へ行キ、沈没ノ船代償ノ事ヲ申入置還ヘル」

 つまり大洲藩はいろは丸の賠償問題については、土佐側と緊密に連絡はとれていたのであり、賠償結果に異を唱えた形跡はまったくない。
 紀州藩が船代の残債を肩代わりしたことを呑んでいるのである。これがもし船代金を全額支払っていたら、とてもじゃないが呑めるような賠償結果ではないのである。
 
 ところで衝突して、いろは丸を沈没させた紀州の明光丸にも後日談がある。これがなにやら因縁めいている。というのも維新の際、この明光丸をオランダ商ボードインに引渡しているというのだ。藩債の入質だったようで、つまり、いろは丸代金の残債を肩代わりしたものの、担保は明光丸だったらしいのである。その償却後、明治3年大阪の紀伊国屋萬蔵に売却された、とある。いろは丸事件は、紀州藩にはなんとも高くついた事件だった。