小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

琳瑞暗殺の謎 5

2013-03-08 11:04:15 | 小説
先にこう書いた。「…清河八郎と琳瑞の人生にはただならぬ接点があった。最大の共通点はふたりとも暗殺されたということである」
 ただならぬといえば、奇妙な偶然がある。清河八郎もまた暗殺された当日の朝、高橋泥舟の家を訪問していることであった。さらに、その泥舟の家で白扇を求めて、あたかも辞世のような歌を書きつけている。

  魁けてまたまたさきがけん死出の山
        まよひはせまじ皇(すめらぎ)の道

 これを見た泥舟が、不吉だから、今日は外出するなと八郎に言ったという話が伝わっている。
 こういう話がでっちあげられるところが胡散臭いのだが、歌は泥舟が登城のため出かけたあとで、泥舟の妻や、のちの石坂週造夫人となる桂という娘の相手をしていて書いたというのが本当らしい。桂の回顧談を参照した大川周明は、はっきりと泥舟の外出の後に歌をしたためたと書いている。
 当日の朝、泥舟はこの歌の存在を知らないのである。
 風邪をひいていたらしい八郎が、当日朝風呂に入ったという話も、なんだか変であり、このあたりのことは少しじっくりと検証してみたいのだが、なぜか先回りするなという声が聞こえる。
 実は清河八郎の妻のお蓮さんの物語を書き始めている(荘内日報への連載は延びに伸びて4月から)のだが、それが一段落してからのほうがよさそうである。だから八郎の暗殺と琳瑞の暗殺がリンクしているということを述べるつもりの、この稿を未完のまま、しばらく置いておくことにする。
 ただ琳瑞と八郎の直接的な交流を示す資料は発見されていないものの、その「ただならぬ接点」について、これまで注目されていなかった以下のことを記しておきたい。
 琳瑞の莫逆の盟友は、東条一堂塾で知り合った那珂梧楼であった。そして清河八郎の盟友はご存知安積五郎であった。
 さてその安積五郎は、安政5年に江帾(えばた)五郎と江戸は下谷の摩利支天横町の組屋敷に塾を設けて漢学を教え、塾頭となっていた。江帾と同じ五郎だから、自らは長五郎と名乗って区別していた。
 このエバタゴロウは那珂梧楼のことである。こうしてみると八郎と琳瑞に親しい交流のないはずがないではないか。
 八郎はよく知られているように、金子与三郎の屋敷からの帰途に暗殺され、金子も暗殺に関与しているのではないかと疑われている。その金子は琳瑞を崇敬したということである。琳瑞は、金子から八郎暗殺の真相を聞きただすことのできる人物であったということだ。