小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

幕末の「怪外人」平松武兵衛 5

2007-10-31 20:22:47 | 小説
「すなわち新潟港は会津藩の生命線であった。ここを失えば武器弾薬の供給は中断される。戦争になったら、惨敗は免れなかった」と星亮一は『会津戦争全史』(講談社)に書いている。
 つまり会津藩の最大の防備拠点は新潟であった。
 その新潟に弟エドワルドがおり、兄ヘンリーは会津に居を移した。慶応4年4月上旬には若松城下絵高町に設置された異人館に住み、会津藩軍事顧問のようなかたちにおさまっていた。松平容保に謁見、日本刀大小と衣服も下賜されている。
 5月24日、若松に米沢藩の軍務総督千坂高雅が来た。軍議のためである。千坂はヘンリーと会い、越後軍の参謀になれとヘンリーに言う。ヘンリーはこれをうけた。翌6月には千坂は同盟諸藩の北越方面軍総督になるから、ヘンリーの立場も、たんに越後軍ではなく、奥羽越列藩同盟軍の参謀のようになるのだった。このことは、ヘンリーの自尊心をおおいにくすぐったものようで、悦に入っていたようである。
 頭髪を剃り、和服を着て、おそらく容保から下賜された日本刀を腰に帯びた。そして、平松武兵衛と日本名を名のるようになるのだった。
 ヘンリーの風貌について、千坂高雅に仕えていた米沢藩軍務参謀の甘糟継成が記録を残している。彼の日記によれば、「そもそも平松年頃三十歳前後、眉目清秀」とある。「実ニ一個の美男子也」とも記している。
 そして注目すべきは、ヘンリーは日本語に堪能で、「大抵の事訳を待たずして相弁ず」とあることだ。いったいヘンリーは、あるいは彼ら兄弟は、どこでどうやって日本語を習得したのか。
 いずれにせよ兄弟がプロシアにしろスイスにしろ公使館に職を得たのは、この日本語力が買われたのだろうと察しがつく。

幕末の「怪外人」平松武兵衛 4

2007-10-30 21:45:26 | 小説
 この兄弟、戊辰戦争においては、東北諸藩のもっぱら武器調達を請負うのであった。
 たとえば庄内藩と弟エドワルドが1868年8月28日に交わした契約書がある。それによれば、短シャープス騎銃600挺、スプリングフィールド銃300挺ほか火薬類も合わせて売買総額5万2千131ドル。
 エドワルドは戊辰戦争勃発後すぐに拠点を横浜から新潟に移し、新潟港近くの勝楽寺という寺の本堂、別荘、倉庫を借りうけ、いわばスネル商会の事務所としている。兄ヘンリーと緊密に連絡をとりながら、実務担当といったところだ。
 この新潟では、エドワルドはデンマーク国商人とか、オランダ領事とか自称していたらしい。とにかく武器を売るためには国籍を臨機応変に変えるのである。
 エドワルドはさらに相馬中村藩と契約を交わしている。ミューケヘール銃1500挺、シャールプ銃(シャープス銃か)500挺ほか総額3万6千375両の発注だった。これはエドワルドの契約不履行となり、のちに手付金の返還をめぐって、こじれにこじれるのだが、そのことは後で述べる機会があるだろう。
 ともあれ会津、米沢藩を含め、兄弟の武器周旋総額は15万ドルとされているから、彼らは戦争特需に便乗して、ごく短期間に「死の商人」として活躍するのだった。
 巨利を得ることができただろうか。そこのところが、実は微妙である。なにしろ、兄弟が加担しているのは戦争の敗者側である。

幕末の「怪外人」平松武兵衛 3

2007-10-29 17:10:40 | 小説
 さて、スネル兄弟の名が幕末の裏面史にひんぱんに登場するのは、大政奉還後である。
 越後の長岡藩家老河井継之助が、当時日本に3門しかなかったガトリング砲を2門買い付けたことはよく知られている。この買付を斡旋したのが、スネル兄弟だった。
 ガトリング砲はアメリカの南北戦争時に開発された速射砲で、「車台付元込連発銃」とも称されていた。幕府とりわけ神奈川奉行や土佐藩もほしがっていた最新兵器だった。1門5000両。
 横浜居留地のスイス商人ファーブル・ブラントが輸入し所有していたものだ。河井継之助はスネル兄弟から購入したというふうな記述もあるが、兄弟はあくまで仲介者であったはずだ。
 長岡藩は江戸を撤収する際、藩邸にあった藩主牧野家の家宝や、書画什器の類を横浜居留地の外人に売り払っている。軍資金に変えたかったのであるが、この仲介の労をとったのがスネル兄弟だったのである。
 兄弟はダブルで手数料を稼いだのであった。
 慶応4年正月15日、ヘンリー・スネルはプロシア領事館と同国公使館に2年間の休職願いを出して、承諾されている。
 彼ら兄弟は、公使館員よりも、はるかに割りの良い仕事を見つけ、自由に動きたくなったのであろう。
 鳥羽伏見の戦争に突入すると、会津藩家老梶原平馬は、弟エドワルトの仲介で小銃800挺と弾薬類を購入している。 

幕末の「怪外人」平松武兵衛 2

2007-10-27 22:45:38 | 小説
 その日本名に意味があるというのは、彼が会津藩の軍事顧問となり、舶来武器の調達役となったからだ。まさしく「武兵衛」という名がふさわしかったのだ。
 芝田町で三橋昌と鼻緒屋浅次郎に銃創を負わせたときの兄弟の身分は外国公使館員だったけれど、すぐにいわゆる「死の商人」つまり武器商人となっていた。武器商人がそのまま会津藩の軍事顧問になるのだった。
 平松武兵衛の前身はヘンリー・スネル、1843年生まれだとされている。ひとつ違いの弟がエドワルド・スネルである。
 兄弟の国籍が実は特定できていない。あるときはオランダ人、あるときはプロシア人、あるときはスイス人と、本人たちが自称しているからである。生国は不明なのである。
 兄はプロシア(のちのドイツ)公使館の書記兼訳官そして弟はスイス総領事館書記生というのが、慶応3年7月当時の身分であった。それぞれ、その勤務先の国籍を称したのであって、ほんとうはオランダ人であったのではないだろうか。
 芝田町の事件から、さかのぼること6年、文久元年(1861)に兄弟の名を意外なところで見つけることが出来る。
 現在の横浜中華街付近、横浜居留地の前田橋際で乳牛を飼育し、居留地の外人相手に牛乳を販売している自称オランダ人兄弟がいた。それが、ヘンリー、エドワルドのスネル兄弟だった。なぜそのことが記録されているかというと、わが国で最初の牛乳販売の歴史にかかわっているからである。兄弟の搾乳場に雇われていた千葉の農夫前田留吉が慶応2年に独立して、現在の横浜市中区山下町に牧場(とはいえ和牛6頭)を開き、搾乳と牛乳販売をしたのが、営業用国産牛乳の第一号とされるのである。
 つまり、兄弟は根っからの「死の商人」として来日したわけではないのだ。牛の乳しぼりをしている頃の兄弟の年齢に注目してみよう。まだ20才に達していないではないか。

幕末の「怪外人」平松武兵衛 1

2007-10-26 21:53:21 | 小説
 有楽町駅近くで、「サンダァ線の駅はどこ?」と地方訛りの男性に訊かれた娘は、とっさにはそれが「三田(みた)線」のことと理解できなかったらしい。そのことを聞いた日、幕末に関するある文章を読んでいて「芝田町」という地名が、三田近くの田町のことと、とっさに理解できずに、ひとりで笑ってしまった。
昔は「田町」の前にも「芝」がついていたのであった。ちなみに田畑が町家に変貌したのが印象的だったらしく、それで田町と名付けられたという。
 妙な前置きになってしまった。慶応3年(1867)7月15日、芝田町で起きた事件から話をはじめたかったのである。その夜、外国人兄弟が日本人を銃撃する事件が起きている。
 元麻布の臨済宗寺院の春桃院は慶応2年からプロシア公使館となっていた。その夜、横浜から江戸に入り、春桃院に向かう馬車が芝田町7丁目で、ひとりの侍を抜き去ろうとしたとき、侍が突如として抜刀、馬車の提灯に切りつけた。
 侍の名は三橋昌、沼田藩上屋敷の表近習役で、いささか酒に酔っていたらしい。馬車の中にいた外国人は、すばやく反応して彼を小銃で撃った。弾は三橋の脇腹をかすめ、驚いた三橋は近くの鼻緒屋に逃げ込んだ。
 というより、表の騒動に気づいた鼻緒屋の従業員で浅次郎という者が三橋を抱えるようにして店に入れ、すぐに戸締りをして、彼を裏口から逃がしたのであった。三橋はこの店と顔なじみでもあったようだ。
 馬車を降りて、店まで追ってきた外国人ふたり、このふたり兄弟であったが、締まった雨戸めがけて小銃を発射、浅次郎が撃たれた。二発以上の銃弾をあびているが、近くの久留米藩邸から駆けつけた医師の手当てで、生命はとりとめている。事件のその後の展開は割愛するには惜しいような気もするが、先を急ごう。私の関心事はこの外国人兄弟にある。
 そのうちのひとりが、のちに日本人名を名のるのだ。
 平松武兵衛。なんと姓の平松は、会津の松平容保にあやかって、松平を逆にしたものだという。そして武兵衛にも意味がある。

幕末の剣聖と海舟

2007-10-21 19:40:13 | 小説
 剣道の竹刀の長さは三尺八寸が限度とされている。「サンパチ」というらしい。この最長限度を決めたのは、「幕末の剣聖」と称される直心影流の男谷精一郎信友だという。彼が幕府講武所頭取となったときのことだ。つまり、それまではやたらに長い竹刀を使う者がいたりして、標準化されていなかったのである。ハンデをなくそうというのが男谷の狙いであったようだ。
 ところで男谷が頭取となった講武所は、安政3年(1856)に築地に開設されている(のち神田小川町に移転)。
 剣術の指導に当った師範役およびその補佐の教授方には、各流派の剣客が名を連らねているが、将軍家指南役の柳生新陰流と小野派一刀流の者はなぜかいない。たまたまなのか、意図的なのかわからないが、それはそれとして講武所設立の趣旨は、旗本・御家人の武術のスキルアップであった。
 ペリー来航以来の外圧に対処して、国境を守る戦闘要員を教育するという意図があったのである。武芸全般に関し、幕府としての公営教育機関がそれまでは存在していなかったというのが、考えてみれば不思議なくらいである。いわゆる町道場はあくまで民営である。
 さりながら、いまさら剣術修行などという時代ではあるまいという気がしないでもないが、のちに講武所の砲術師範役を命ぜられたのは、男谷精一郎の年少の従弟であった。勝海舟である。時代のニーズは剣術よりも砲術であった。
「歌は、松平上総介に習ひ、書は、伯父の男谷にならったこともあるが、手習などに、骨を折る馬鹿があるものか」と海舟は『氷川清話』で語っている。
 書を習った伯父とは、海舟の父小吉の兄、男谷彦四郎のことである。すなわち男谷精一郎の父であった。海舟は10代の初期、この精一郎の道場で剣術を習い始めているから、男谷父子はいわば海舟の家庭教師だったことになる。さらに歌を習ったという松平上総介も一時期、講武所の剣術師範役を務めたらしいから、海舟の指導係には剣客がそろっているのである。
 海舟自身は、中津藩士の島田虎之助が浅草新堀に開いた道場に通って、剣の道に開眼したように述べている。晩年「本当に修行したのは剣術だけ」と語るぐらい厳しい修業だったらしい。しかし島田道場に通わせたのは男谷側のはからいだったようだ。だから最も本質的なところで海舟に影響を及ぼしていたのは、男谷精一郎ではないかと、私は思う。 

勝海舟のパトロン

2007-10-20 13:46:56 | 小説
 幕末。学問好きというか本好きな青年がいた。
 赤貧洗うがごとしというような貧乏暮しだったから、本は買えない。ある書店に通っては立ち読みをしていた。
 この青年のことを、書店の主人は店の上客である富裕な商人に話したらしい。青年の向学心を見抜いた書店の主も人物だが、これを聞いて青年と会い、青年の家を訪問した商人もただ者ではなかった。
 この青年、御存じ20代の頃の勝海舟である。
 商人の名は渋田利右衛門、函館の回船問屋の主だった。ただの商人ではない。おそらく当時としては一級の知識人だった。外国船が「箱館」に来たとき、通訳として奉行所から呼び出されたというから、地元ではその学識は知れ渡っていたのだ。
 おそらく、海舟とは蘭学に関して意気投合したものと思われる。海舟の通っていた書店で年間600両ぐらい本を買っていたらしい。彼は現在、函館では「図書館の祖」とたたえられているが、蔵書を一般に公開していたもののようだ。
 海舟と利右衛門の出会いについては、海舟自身が『氷川清話』で語っているから有名であるけれど、なんど読んでも胸が熱くなるエピソードである。人と人との出会いのすばらしさ、そして利右衛門という人物の志の篤さに、ああなんていい話だろうと、誰しもが思うだろう。
 利右衛門は、なんと海舟に200両という大金を差出し、本代にしろと言うのである。びっくりして言葉を失っている海舟に「僅かだが書物でも買ってくれ」というから、海舟が固辞すると、さすがに商人、相手に金をおさめさせるのがうまい。「あなたが珍しい書物を買ってお読みになり、そのあとで私に送ってくれればよい。さらに面白い蘭書があったら翻訳して送ってくれればよい。その筆耕料をこの200両から払えばよい」と、海舟に負担をかけないように金をわたすのであった。
 その後、海舟と利右衛門は文通しあう仲となるが、利右衛門という人物の行き届いたところは、自分の死後の海舟のパトロンまで選定したことだ。「万一、私が死んで、あなたの頼りになる人がなくなっては」困るだろうかと、はやばやと3人の人物を紹介していた。
 3人とは、灘の醸造元嘉納冶右衛門(柔道の治五郎の父)、伊勢地方屈指の金持ち竹川竹斎、紀州の豪商浜口梧陵である。
 実際、海舟は神戸時代に嘉納冶右衛門から機械類をすべて買ってもらったと語っている。安政5年の12月に、渋田利右衛門は病没していたのであった。

龍馬暗殺と勝海舟のコメント 追記

2007-10-12 14:44:38 | 小説
 明治3年、刑部省では元京都見廻役の小笠原忍斎(小笠原河内守長遠)に、ある問い合わせをしている。
 見廻組の与頭(くみがしら)佐々木只三郎と龍馬殺害に関してである。今井信郎が佐々木がリーダーとなって見廻組が近江屋を襲ったと自供したからである。
 当時、佐々木の直属の上司であった小笠原は、こう答えている。
「坂本龍馬召し捕り方の儀に限らず、京都見廻組勤め向きの義は佐々木唯三郎全権にて百事委任取り扱い候義故…」(『坂本龍馬関係文書』)
 さて、この小笠原の発言をどう解釈すべきか。
 佐々木に「全権」をゆだねていたなどというのは、信じがたい話であって、いわゆるトカゲのしっぽ切り的な官僚的発言であろう。自分に累が及ばぬように、佐々木の勝手な行動だったと言いたかったのであろう。とはいえ、実際に幕府上層部から指示が出ていれば、上からの指示でと言えたはずだったのである。
 ここで松平勘太郎の言を確認したい。松平勘太郎は、今井糾問の情報を入手したとき、小笠原のコメントも合わせて聞き取っているはずだ。そのうえで、「もっとも」佐々木だって上からの指図がなければ、あんなことはしないだろう、と訝しがっているのである。はなから、佐々木の判断のみでできることではないと思っているのだ。なぜなら、見廻組という組織は老中の支配下にあって、行動に逸脱がないように誓約書まで取っていたからだ。
 そのことを追記しておきたい。

龍馬暗殺の日の鍋当番

2007-10-10 16:02:30 | 小説
 このところ、年に一度は法事で高知に帰省している。そのおり、市内の居酒屋に入ったら、やたらに「龍馬鶏のナントカ」(たとえば龍馬鶏の水餃子)というメニューが目についた。てっきり新品種の肉用鶏かと思った。なにしろ、尾長鳥や土佐犬、土佐金(魚)と生き物の品種改良のお好きな国柄であるからだ。ところが違った。軍鶏のことだった。龍馬暗殺の夜にちなんだ軍鶏を、店なりにネーミングしているのだった。
 龍馬が暗殺された日、彼が中岡慎太郎と軍鶏を食しようとしたことは、よく知られている。
 峰吉という者に軍鶏を「鳥新」という店に買いに行かせた。むろん生肉である。江戸末期、鶏肉を葱鍋に煮て食すことは流行だったと『守貞漫稿』に書かれている。天保期以降の記述である『真佐喜のかつら』には「ちかき頃はシャモと云ふ大鳥を賞翫する事おびただし」とある。
 さて、軍鶏鍋であるから、火はもとより、鍋の用意、さらには葱もきざまなければならない。これら調理を龍馬は誰にやらせようとしていたのか。おそらく龍馬は近江屋の女中ないし書生にやらせようと思っていたはずだ。
 ところが当夜の状況をうかがう資料からは、女中の存在がただひとつの例外を除いて語られていない。書生の数の問題も錯綜としている。つまり、近江屋の従業員の目撃証言がまったくない異様な事件なのである。
 はっきりしているのは暗殺現場に、これから食事をするにしては、なんの準備もされていなかったことだ。谷干城も証言している。「京都では能く机を置て話をし飯を食ふことをやって居るが、そんなものはなかった」
 以上のことは前にもこのブログで書いたが、龍馬暗殺の日の状況に思いをはせると、こういうささいなことも実は事件解明の重要な糸口になるのである。
 ほんとに龍馬鶏の鍋の調理人はだれだったのだろう。


訂正追記:「龍馬鶏」はやはり交配種だと知りました。軍鶏と名古屋コーチンをかけあわせている由。(2008.1.4)


龍馬暗殺と論理学

2007-10-08 20:18:13 | 小説
 高知の「龍馬研究」の直近の号(167号)で中村武生氏が「龍馬十景」に書いている。龍馬暗殺に関してである。

≪ではどうして薩摩黒幕説はうまれたのか。それは「うわさ話」を信じたからだ。同時代史料には、薩摩が龍馬を殺したと伝えるものはたしかにある。たとえば肥後細川家があつめた情報に「坂本を害し候も薩人なるべく候」(『改訂肥後藩国事史料』所収)が、これを信じてはダメだ。何でもそうだが、事実認定にはニュースソースがなにかを問題にしなくてはならない。
 龍馬暗殺はまず土佐関係史料が信用にたる。最も良質の史料が集まっているはずだから。もし薩摩が黒幕なら当事者の島津家の史料が重要となる。が、話題の情報はいずれとも縁のない細川家のものだ。情報源がわからない以上、信用にたるかどうか判断できない。そういうあやしいものは捨てる、これが歴史研究の原則だ。もしかしたら、「事実」かも知れない。でも捨てる。そのストイックな姿勢が確実な事実のみを浮かび上らせるくるのだ。≫
 
 まことにまことに、そっくりな見解をあるブログで知っており、私もコメントさせていただいた経緯があった。ともあれ、こんな歴史研究の原則で、歴史的事実に近づけると思っているのなら、おめでたい限りである。フィリップ・アリエス・杉山光信訳『歴史の時間』(みすず書房)所収「『学問的』歴史学」などをご参照いただきたい。歴史的認識と歴史的事実とは一緒とは限らない。
誰も細川藩史料からさかのぼっているわけではない。剽窃といった概念すら頭をよぎったが、仏教大学ほかで講師をされている中村氏だから、たまたま見解を同じくされたのあろうと思う。
 この史料はあくまで傍証的につかわれるにすぎない。『改訂肥後藩国事史料』を批判したところで、わら人形論法にしかならない。
 ことは暗殺である。史料が残っていると期待する方がおかしいではないか。はじめに史料ありきという実証主義的歴史学は破産していたと私などは認識していたが、史料がないから「事実」はないとバカなことをいう人は結構多いらしい。龍馬の暗殺に関しては、論理学的に言って、このほかずいぶんとおかしな発言がある。
 証拠の不在は不在の証拠にならない、などというと論議がもつれるけれど、すくなくとも「オッカムの剃刀」的発言をする人は、御自身が「わら人形論法」に陥ってないか自省すべきである。

注:薩摩黒幕説とはたかだか薩摩藩士が関与していたという説にすぎない。
 薩摩藩の総意で龍馬暗殺を決めたなど誰も思っていないだろう。

龍馬暗殺と勝海舟のコメント 完

2007-10-03 22:10:26 | 小説
 松平勘太郎は海舟の日記にはしばしば登場する。ひんぱんといってもよいぐらいふたりは会っており、その親密さがうかがわれるが、、それもそのはず、一緒に摂海の海防に尽力した仲であった。勝海舟が軍艦奉行、松平勘太郎が大坂町奉行だった頃のことだ。
 慶応3年、つまり龍馬が暗殺された年には、松平勘太郎は大目付になっていた。だからこそ、龍馬暗殺が佐々木、今井ら見廻組の仕業と知って、いささか衝撃をうけ、なんとなく腑に落ちない面持ちで、今井供述の内容を勝に話したのである。
 海舟の日記を現代語訳したかたちで紹介している司馬氏の文章には、原文にある「尤」(もっとも)という単語がぬけている。実はこの「もっとも」という語に微妙なニュアンスがまとわりついているのである。

 もっとも佐々木も上よりの指図これ有るにつき、事を挙(げたのであろう)

 それにしては誰が一体命令を下したのであろうとかいう疑問が最初に生じているわけである。
 ところで「もっとも」というのは見廻組の面々が勝手に行動するわけはないから、という認識をあらわしているのだが、ここであえて「もっとも」といわざるをえないのは、なにか心にひっかかるものがあるのである。
 こういうニュアンスを打ち消して、さらに松平勘太郎の感想を勝海舟の感懐に取り違え、そのうえ勝海舟が龍馬暗殺を見廻組に指示したのは榎本対馬守と疑ったなどと解釈するのは、おかしな話なのである。
 残念ながら、龍馬暗殺に関して勝海舟のたしかなコメントを私たちは知ることができていない。

龍馬暗殺と勝海舟のコメント 2

2007-10-02 01:07:11 | 小説
 海舟の明治3年4月15日付日記の該当箇所の原文は以下のとおりである。

≪松平勘太郎聞く、今井信郎糺問ニ付申口、卯之暮於京師坂下竜馬暗殺は佐々木唯三郎首として信郎抔之輩之輩乱入と云、尤佐々木も上より之指図有之ニ付挙事、或は榎本対馬之令歟不可知と云々≫

 最後の「云々」に注意すべきであって、「松平勘太郎聞く」以下は、松平勘太郎の話の内容なのである。以前にもこのブログで書いたことと重複するけれど、海舟は自分の感想を書きつけているわけではないのだ。
 ここでは松平勘太郎が佐々木や今井の行動を不思議がっている様子を海舟は書きとめているにすぎない。
 見廻組の佐々木らが龍馬の宿舎に「乱入」したのは、上からの指図によるものとすると命令系統からいって、榎本対馬守が命令したことになるが、その直接の上司である俺(松平勘太郎)は何も聞いてないよ、変な話だよな、といった意味合いなのである。それはそうだろう、佐々木らは龍馬殺害を復命していないのである。
 したがって勝海舟が榎本対馬守を疑っている、というような司馬氏の読解は見当違いなのである。
 海舟も松平勘太郎も、佐々木らの行動に尋常でない雰囲気を感じているのである。だからこそ「暗殺」という言葉をつかっているのだ。
 勝海舟も松平勘太郎も幕臣である。同じ幕臣の見廻組が上からの命令によって、龍馬を殺したと認知したのであるならば、公務による「殺害」と書くはずで「暗殺」とは表現しないだろう。
 結論的には、まことに「不可知」な事件だなというのが両者の心のうちなのだ。
 海舟の日記は、続く16日、17日、18日と空白である。私には海舟がかっての愛弟子の暗殺に思いを巡らして、沈思黙考した三日間のように思われる。
 司馬氏のみならず、この海舟の日記を引用して、龍馬暗殺は幕府上層部の命令で見廻組が動いたと勝も推測している、と書きつける論者はほかにもいる。はあ?と聞き返したいような気分だが、最近そういう論文を目にする機会があって、これを書く気になった。
 
 注:ちなみに、勝海舟は「坂本」を「坂下」と表記している活字史料が一般的だが、海舟は「本」を独特にくずしていて、「下」に見えるため活字にするときに「坂下」となるのではないかと推測しているが、違うだろうか。龍馬の姓を間違えるわけはないと思えるのだが…