「すなわち新潟港は会津藩の生命線であった。ここを失えば武器弾薬の供給は中断される。戦争になったら、惨敗は免れなかった」と星亮一は『会津戦争全史』(講談社)に書いている。
つまり会津藩の最大の防備拠点は新潟であった。
その新潟に弟エドワルドがおり、兄ヘンリーは会津に居を移した。慶応4年4月上旬には若松城下絵高町に設置された異人館に住み、会津藩軍事顧問のようなかたちにおさまっていた。松平容保に謁見、日本刀大小と衣服も下賜されている。
5月24日、若松に米沢藩の軍務総督千坂高雅が来た。軍議のためである。千坂はヘンリーと会い、越後軍の参謀になれとヘンリーに言う。ヘンリーはこれをうけた。翌6月には千坂は同盟諸藩の北越方面軍総督になるから、ヘンリーの立場も、たんに越後軍ではなく、奥羽越列藩同盟軍の参謀のようになるのだった。このことは、ヘンリーの自尊心をおおいにくすぐったものようで、悦に入っていたようである。
頭髪を剃り、和服を着て、おそらく容保から下賜された日本刀を腰に帯びた。そして、平松武兵衛と日本名を名のるようになるのだった。
ヘンリーの風貌について、千坂高雅に仕えていた米沢藩軍務参謀の甘糟継成が記録を残している。彼の日記によれば、「そもそも平松年頃三十歳前後、眉目清秀」とある。「実ニ一個の美男子也」とも記している。
そして注目すべきは、ヘンリーは日本語に堪能で、「大抵の事訳を待たずして相弁ず」とあることだ。いったいヘンリーは、あるいは彼ら兄弟は、どこでどうやって日本語を習得したのか。
いずれにせよ兄弟がプロシアにしろスイスにしろ公使館に職を得たのは、この日本語力が買われたのだろうと察しがつく。
つまり会津藩の最大の防備拠点は新潟であった。
その新潟に弟エドワルドがおり、兄ヘンリーは会津に居を移した。慶応4年4月上旬には若松城下絵高町に設置された異人館に住み、会津藩軍事顧問のようなかたちにおさまっていた。松平容保に謁見、日本刀大小と衣服も下賜されている。
5月24日、若松に米沢藩の軍務総督千坂高雅が来た。軍議のためである。千坂はヘンリーと会い、越後軍の参謀になれとヘンリーに言う。ヘンリーはこれをうけた。翌6月には千坂は同盟諸藩の北越方面軍総督になるから、ヘンリーの立場も、たんに越後軍ではなく、奥羽越列藩同盟軍の参謀のようになるのだった。このことは、ヘンリーの自尊心をおおいにくすぐったものようで、悦に入っていたようである。
頭髪を剃り、和服を着て、おそらく容保から下賜された日本刀を腰に帯びた。そして、平松武兵衛と日本名を名のるようになるのだった。
ヘンリーの風貌について、千坂高雅に仕えていた米沢藩軍務参謀の甘糟継成が記録を残している。彼の日記によれば、「そもそも平松年頃三十歳前後、眉目清秀」とある。「実ニ一個の美男子也」とも記している。
そして注目すべきは、ヘンリーは日本語に堪能で、「大抵の事訳を待たずして相弁ず」とあることだ。いったいヘンリーは、あるいは彼ら兄弟は、どこでどうやって日本語を習得したのか。
いずれにせよ兄弟がプロシアにしろスイスにしろ公使館に職を得たのは、この日本語力が買われたのだろうと察しがつく。