毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
9=1
レイズ(TB)がアメリカンリーグチャンピオンの座に着いた。私はシリーズが始まる前、いい加減な気持ちで「レイズの4勝2敗」などと予想してしまったが、レイズ3勝1敗で迎えた第5戦、7回まで7-0で勝っていて、もう優勝は間違いないなと思っていたら、終盤3回であれよあれよと言う間に逆転負けを喫してしまった時は、かなりやばいな、と思った。案の定、1日おいた第6戦も接戦を落としてしまい、これでTBの命運も尽きたかな、と正直思った。しかし、レギュラーシーズンでももうそろそろ失速するだろうと思い始めると、驚異的な力を発揮してとうとうレッドソックス(BOS)やヤンキースを抑えて地区優勝した力は侮るわけにはいかないと思い直して、第7戦は悪い流れを一蹴して勝ってくれるじゃないだろうかと、TBの若いパワーを信じることにした。
久しぶりに試合開始前から胸がワクワクした。立ち上がりペドロイアにソロHRを打たれ、先制を許した先発投手ガーザも2回以降はすっかり立ち直り、打線も中盤4・5回に一点ずつをあげて逆転に成功し、さらに7回にはアイバーのソロHRで3-1と2点差に開いた。これなら逃げ切れるかな、と思って見ていると、さすがBOS、そう簡単に勝たせてはくれない。8回には小刻みな継投で逃げ切ろうとするTB投手陣に襲い掛かり2アウト満塁と攻め立てる。ここで5人目の投手・新人プライスが度胸満点の投球でドルーを見逃し三振にしとめて絶体絶命のピンチをしのいだ。9回もプライスが続投し、先頭バッターに四球を与えるもの後続を連続三振にしとめ、最後のバッター・ローリーがセカンドにゴロを打つ。二塁手岩村の前でイレギュラーし、一瞬ヒヤッとするものの難なくキャッチした岩村が、そのままセカンドベースに走りこんで試合終了!!岩村は走りながらウィニングボールを後ろポケットに仕舞おうとするもうまくいかず、そのままマウンド上での歓喜の輪の中に飛び込んだ。

松井ファンの私でさえも、胸が熱くなるようなシーンだった。と言うか、松井ファンとかそんな小さな枠を超えて、スポーツの素晴らしさ、野球の面白さというものを堪能できたシリーズだったと思う。昨年の王者・BOSが貫禄十分な試合運びをするのに対して、ひるむことなく果敢に攻めていくTBの若い力、実に対照的なチーム同士の戦いは、松井の出ない試合など見ていてもつまらないと常々思っている私をぐいぐいひきつけてしまった。結局、塾の授業で見られなかった第6戦を除けばすべての試合を見たことになる。それだけ面白い試合が多かったのだ。
表彰式の後、インタビューを受けたTBのマドン監督は「9=1という我々の数式が完成した」というような発言をしていたが、まさしく彼の野球観を表現した言葉だと思って興味を持った。「9人全員が1つになって戦う」という思いをシンプルに「9=1」という数式で表現したものだろうが、このシンプルさがかえって選手個々に全員野球の精神が浸透したのではないだろうか。シーズン序盤ではベンチに帰った選手同士で小競り合いがあったというニュースも読んだが、そうした未成熟な選手たちに、勝つために何が大切かを理解させるには、物事を単純化した方がいいのかもしれない。その象徴的な采配が、8月18日の対レンジャーズ戦での9回2アウト満塁からの敬遠押し出しだろう。どうすれば勝てるのか、勝つためにはどんなことが必要か、マドン監督の考えがよく表れている作戦だと思う。9-6と3点リードで迎えた満塁のピンチに、強打者と勝負せずに敬遠で1点与えて2点差、次のバッターをきっちり抑えて逃げ切ったという、まさに大胆かつ巧妙な作戦だ・・。時折TV画面に映るマドン監督は表情が淡々としている。ピンチのときも深刻な顔などしていない、笑顔さえ見られる。そんな冷静な監督だからこそ、若い力を纏め上げて「9=1」の数式を完成できたのだろう。私も見習うことが多い監督だ。
さあ、23日からはワールドシリーズが始まる。相手はフィリーズ。私はまったく知らないチームなのでどんな戦いになるのか予想もつかないが、きっとこの勢いでレイズがワールドチャンピオンになるだろうと信じている。
(レイズの4勝1敗かな・・)
久しぶりに試合開始前から胸がワクワクした。立ち上がりペドロイアにソロHRを打たれ、先制を許した先発投手ガーザも2回以降はすっかり立ち直り、打線も中盤4・5回に一点ずつをあげて逆転に成功し、さらに7回にはアイバーのソロHRで3-1と2点差に開いた。これなら逃げ切れるかな、と思って見ていると、さすがBOS、そう簡単に勝たせてはくれない。8回には小刻みな継投で逃げ切ろうとするTB投手陣に襲い掛かり2アウト満塁と攻め立てる。ここで5人目の投手・新人プライスが度胸満点の投球でドルーを見逃し三振にしとめて絶体絶命のピンチをしのいだ。9回もプライスが続投し、先頭バッターに四球を与えるもの後続を連続三振にしとめ、最後のバッター・ローリーがセカンドにゴロを打つ。二塁手岩村の前でイレギュラーし、一瞬ヒヤッとするものの難なくキャッチした岩村が、そのままセカンドベースに走りこんで試合終了!!岩村は走りながらウィニングボールを後ろポケットに仕舞おうとするもうまくいかず、そのままマウンド上での歓喜の輪の中に飛び込んだ。


松井ファンの私でさえも、胸が熱くなるようなシーンだった。と言うか、松井ファンとかそんな小さな枠を超えて、スポーツの素晴らしさ、野球の面白さというものを堪能できたシリーズだったと思う。昨年の王者・BOSが貫禄十分な試合運びをするのに対して、ひるむことなく果敢に攻めていくTBの若い力、実に対照的なチーム同士の戦いは、松井の出ない試合など見ていてもつまらないと常々思っている私をぐいぐいひきつけてしまった。結局、塾の授業で見られなかった第6戦を除けばすべての試合を見たことになる。それだけ面白い試合が多かったのだ。
表彰式の後、インタビューを受けたTBのマドン監督は「9=1という我々の数式が完成した」というような発言をしていたが、まさしく彼の野球観を表現した言葉だと思って興味を持った。「9人全員が1つになって戦う」という思いをシンプルに「9=1」という数式で表現したものだろうが、このシンプルさがかえって選手個々に全員野球の精神が浸透したのではないだろうか。シーズン序盤ではベンチに帰った選手同士で小競り合いがあったというニュースも読んだが、そうした未成熟な選手たちに、勝つために何が大切かを理解させるには、物事を単純化した方がいいのかもしれない。その象徴的な采配が、8月18日の対レンジャーズ戦での9回2アウト満塁からの敬遠押し出しだろう。どうすれば勝てるのか、勝つためにはどんなことが必要か、マドン監督の考えがよく表れている作戦だと思う。9-6と3点リードで迎えた満塁のピンチに、強打者と勝負せずに敬遠で1点与えて2点差、次のバッターをきっちり抑えて逃げ切ったという、まさに大胆かつ巧妙な作戦だ・・。時折TV画面に映るマドン監督は表情が淡々としている。ピンチのときも深刻な顔などしていない、笑顔さえ見られる。そんな冷静な監督だからこそ、若い力を纏め上げて「9=1」の数式を完成できたのだろう。私も見習うことが多い監督だ。
さあ、23日からはワールドシリーズが始まる。相手はフィリーズ。私はまったく知らないチームなのでどんな戦いになるのか予想もつかないが、きっとこの勢いでレイズがワールドチャンピオンになるだろうと信じている。
(レイズの4勝1敗かな・・)
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初とろろ
熟柿も栗も松茸さえも自然薯にはかなわない。秋の風味と言えばとろろに勝るものはない。自然薯を食べなければ、秋が来たとは言えない。私の体内時計にとろろは秋の象徴としてしっかりと組み込まれている・・。だが、私は自分で自然薯を掘ったことがない。自然薯の蔓さえも判別できない男であるから、とろろを食べたいからと言って自分で掘りに行くことなどできない。父が掘ってきてくれるのを待つしかない。年々自然薯が少なくなっているのは父から聞いているし、頼みの父も高齢で無理はさせられないので、黙って待っているしかないのだが、父自身がこの季節になるといてもたってもいられなくなるようで、わずかばかりではあるが、今年初めての収穫を見せてくれた。

細くてあまりおいしそうには見えなかったが、たわしで洗ったらそれなりに見えた。この芋をすり鉢ですって下準備をする。今我が家には3人しかいないのでこれだけあれば十分だ。かつおだしの醤油のおつゆも出来上がってあとはゆっくりすりこぎでのばしていくだけだ。

ある程度のばしたら卵と酒を入れる。たぶんこれが味付けのみそなんだろう・・。

おつゆを入れながら、すりこぎでのばしていくのだが、おつゆの入れ方にもこだわりがある。すり鉢のすみにおたまを当てて、ゆっくり少しずつ入れていく。そうすることによって自然薯とおつゆがよりしっかりと混ざり合う、というのが父の持論だ。

おつゆを入れてある程度のばしたら、山かけ用におたまですくう。マグロの刺身は買ってきてあったが、この時知り合いから電話が入って、釣って来たばかりのはまちをおすそ分けしてくれると言う。なんてグッドタイミング!!
届けてくれたはまちを妻が刺身におろして山かけにして食べた。う~~ん、新鮮でおいしい!!

その後もおつゆを入れながら、ひたすらこねていったら見事にあわ立ち始めた。すっていくうちにかなりのびた。おいしそうだ!!

ここ数年は贅沢に濃い目のとろろを食べている。子供の頃はおつゆでかなりのばしたのだろう、ご飯にかけるとさっとご飯にしみこんでいく音がした。それはとろろ好きの私には至福の音だったが、濃いとろろではそんな音は立たない。濃いとろろのおいしさを味わい尽くしている今の私には、もう昔の懐かしい音になってしまっている。
今年初めてのとろろは天然ものの持つ荒々しさはなかったものの、自然薯の上品な味わいがでていて、これはこれでおいしかった。少々物足りなさも感じたが、それは生まれてからずっととろろを食べ続けてきた「とろろグルメ」の私ならではの贅沢な思いなのかもしれない。



細くてあまりおいしそうには見えなかったが、たわしで洗ったらそれなりに見えた。この芋をすり鉢ですって下準備をする。今我が家には3人しかいないのでこれだけあれば十分だ。かつおだしの醤油のおつゆも出来上がってあとはゆっくりすりこぎでのばしていくだけだ。



ある程度のばしたら卵と酒を入れる。たぶんこれが味付けのみそなんだろう・・。

おつゆを入れながら、すりこぎでのばしていくのだが、おつゆの入れ方にもこだわりがある。すり鉢のすみにおたまを当てて、ゆっくり少しずつ入れていく。そうすることによって自然薯とおつゆがよりしっかりと混ざり合う、というのが父の持論だ。


おつゆを入れてある程度のばしたら、山かけ用におたまですくう。マグロの刺身は買ってきてあったが、この時知り合いから電話が入って、釣って来たばかりのはまちをおすそ分けしてくれると言う。なんてグッドタイミング!!
届けてくれたはまちを妻が刺身におろして山かけにして食べた。う~~ん、新鮮でおいしい!!



その後もおつゆを入れながら、ひたすらこねていったら見事にあわ立ち始めた。すっていくうちにかなりのびた。おいしそうだ!!


ここ数年は贅沢に濃い目のとろろを食べている。子供の頃はおつゆでかなりのばしたのだろう、ご飯にかけるとさっとご飯にしみこんでいく音がした。それはとろろ好きの私には至福の音だったが、濃いとろろではそんな音は立たない。濃いとろろのおいしさを味わい尽くしている今の私には、もう昔の懐かしい音になってしまっている。
今年初めてのとろろは天然ものの持つ荒々しさはなかったものの、自然薯の上品な味わいがでていて、これはこれでおいしかった。少々物足りなさも感じたが、それは生まれてからずっととろろを食べ続けてきた「とろろグルメ」の私ならではの贅沢な思いなのかもしれない。
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熟柿
父が毎日せっせと通っている畑の近くで実っていた柿をもいできた。といっても、普通の柿ではなく、今にも弾けんばかりに熟しきった柿だ。変に力を加えてしまったらグチャッと潰れてしまいそうなほどに熟れた物を20個ばかり箱に入れて大事そうに持ってきた。熟柿が好きな妻は自分ようにいくつかもらって、箱に入れて台所の隅においてある。毎日少しずつ食べるつもりらしい。

柿色というよりも赤みがかっていて、ちょうど手のひらで包み込めるくらいの大きさだ。丁寧に扱わなければ潰れてしまう、そんな危うさを秘めてはいるが、はちきれんばかりに力強く膨らんでいるようにも見え、小さな実の中に宇宙を隠しもっているような神秘ささえ感じられる。私は今までこうした熟柿を食べたことはあまりない。柿といえば硬いものを、えいっと歯に力を込めて噛み砕いて食べるものだと思っている私にはこんなに熟した柿はあまり得手ではない。だが、まじまじと宝玉のように光り輝いている熟柿を見ていたら、いつになく食べたくなってきた。そこで妻から一つもらって食べてみた。

箱から取り出すと一段と輝きが増したように思えた。何だか食べるのがもったいない気もしたが、思い切って包丁で2つに切ってみた。父は、「皮ごと食べても十分にやわらかいぞ」と言っていたが、今回は中身の様子を見てみたかったので、包丁で切ってみた・・。

「トロトロだぁ・・!!」
そんな言葉が思わず口をついて出てしまった。完全に熟している。種さえもやわらかくなっていて、スパッと切れてしまった。スプーンですくってみた。

果汁が滴り落ちそうで落ちない、不思議だ。口に入れてみた。スプーンですくった形はすぐにはくずれない。しかし、とろりっとそのまま口の中で溶けていく感触がたまらない。蜂蜜をたらしたように見える果肉から想像したほど甘くはないが、控えめで上品な甘みが口中に広がる。続けて二口三口と食べ進んでもくどさはまったく感じない。爽やかな食感が最後まで続く。これほどまでに美味しいものだとは知らなかった。今まで食べたことがなかったのを大いに後悔した・・。
俚諺に「食べ物は腐る寸前がおいしい」と言われているが、まさしく熟れきった瞬間に見せる最高のおいしさを味わったのかもしれない。ちょっとクセになりそうなほどだ・・。

柿色というよりも赤みがかっていて、ちょうど手のひらで包み込めるくらいの大きさだ。丁寧に扱わなければ潰れてしまう、そんな危うさを秘めてはいるが、はちきれんばかりに力強く膨らんでいるようにも見え、小さな実の中に宇宙を隠しもっているような神秘ささえ感じられる。私は今までこうした熟柿を食べたことはあまりない。柿といえば硬いものを、えいっと歯に力を込めて噛み砕いて食べるものだと思っている私にはこんなに熟した柿はあまり得手ではない。だが、まじまじと宝玉のように光り輝いている熟柿を見ていたら、いつになく食べたくなってきた。そこで妻から一つもらって食べてみた。

箱から取り出すと一段と輝きが増したように思えた。何だか食べるのがもったいない気もしたが、思い切って包丁で2つに切ってみた。父は、「皮ごと食べても十分にやわらかいぞ」と言っていたが、今回は中身の様子を見てみたかったので、包丁で切ってみた・・。


「トロトロだぁ・・!!」
そんな言葉が思わず口をついて出てしまった。完全に熟している。種さえもやわらかくなっていて、スパッと切れてしまった。スプーンですくってみた。

果汁が滴り落ちそうで落ちない、不思議だ。口に入れてみた。スプーンですくった形はすぐにはくずれない。しかし、とろりっとそのまま口の中で溶けていく感触がたまらない。蜂蜜をたらしたように見える果肉から想像したほど甘くはないが、控えめで上品な甘みが口中に広がる。続けて二口三口と食べ進んでもくどさはまったく感じない。爽やかな食感が最後まで続く。これほどまでに美味しいものだとは知らなかった。今まで食べたことがなかったのを大いに後悔した・・。
俚諺に「食べ物は腐る寸前がおいしい」と言われているが、まさしく熟れきった瞬間に見せる最高のおいしさを味わったのかもしれない。ちょっとクセになりそうなほどだ・・。
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ペットボトル
まったく迂闊だからいやになる・・。ほとんど毎日必ず1本は飲んでいるサントリーウーロン茶500ml入りのペットボトル、そのラベルのはがし口の仕様が変わっていたのにまったく気づかなかったなんて情けない・・。

左が旧来のもので、右が今現在のもの。ボトルの形が直方体から六角柱ぽくなって持ち易くなったのはずいぶん前から気づいていたが、それと同時にラベルのはがし方も変わったのだろうか?まったく知らなかった。このブログでも、サントリーウーロン茶はおまけのことで何度も取り上げているのに、ボトル本体にまったく注意していなかったのは迂闊だった。自分の観察眼の乏しさは常々身にしみているつもりだが、こうやって新しいボーンヘッドが見つかるたびに、一段と悲しくなる・・。
だが、こんなことくらいでへこたれていてはいけない。こうした己の愚かさを逆手にとって開き直ってみるのも大事だ。そこで、上の写真のペットボトルのどちらのほうがラベルをはがしやすいのか、新しい仕様のほうが果たして簡単にはがせるのか、を試してみることにした。(空のペットボトルを集める塾の置き場に、今では見かけない写真左の旧式のペットボトルが落ちていたのは運がよかった)
まずは旧式のペットボトル。切り取り線の真ん中あたりを両手の親指でぐっと押すとボトルが潰れて点線に沿った切れ込みができる。そこに親指を突っ込んで左右に引っ張ると簡単にめくれた。ペットボトルは変形してしまうが、ラベルのはがれ具合はきれいだ。所要時間およそ4秒。

次に今のペットボトル。「ラベルはここからはがせます」と書いてあるから、そこを使ってはがしてみなくてはいけない。左手でボトルを支え、右手の親指を切れ込みに入れ、思い切り押してみる。すると穴が大きくなって、親指をそこに入れることができた。そこから親指をラベルの中に押し込んで、その勢いでラベル全体を
一気にめくった。全部めくることができはしたが、親指に大きな力を入れたため少しばかり痛い。それにめくれたラベルの切り口がぎざぎざしていて見栄えはよくない。ただボトルにまで圧力が及んでいないのか、形はつぶれていない。所要時間は約5秒。

ラベルをめくるのにかかる時間は甲乙付けがたいが、旧式はボトルが変形し、新式ははがしたラベルの見た目がよくない。まあ、どうしてラベルをはがすのかといえば、ペットボトルの処理をしやすくするためであるから、処理業者にとっては分別さえしてあれば形がどうなろうと大きな違いはないだろう。私たちにとっても、ラベルのはがしやすさが最大の関心事だから、さほど時間をかけずに楽にはがすことができるのが一番である。
そうすると、旧式のペットボトルのほうがラベルのはがしやすさでは優っている、という結論に達することになる。さらには、別のペットボトルで試したときに、親指を入れた穴から上がはがれにくくて全部剥ぎ取るのに時間がかかった、という欠点にも気づいたので、旧式のほうにますます一票を投じたくなった。

まだまだ改良の余地ありですね、サントリーさん!!


左が旧来のもので、右が今現在のもの。ボトルの形が直方体から六角柱ぽくなって持ち易くなったのはずいぶん前から気づいていたが、それと同時にラベルのはがし方も変わったのだろうか?まったく知らなかった。このブログでも、サントリーウーロン茶はおまけのことで何度も取り上げているのに、ボトル本体にまったく注意していなかったのは迂闊だった。自分の観察眼の乏しさは常々身にしみているつもりだが、こうやって新しいボーンヘッドが見つかるたびに、一段と悲しくなる・・。
だが、こんなことくらいでへこたれていてはいけない。こうした己の愚かさを逆手にとって開き直ってみるのも大事だ。そこで、上の写真のペットボトルのどちらのほうがラベルをはがしやすいのか、新しい仕様のほうが果たして簡単にはがせるのか、を試してみることにした。(空のペットボトルを集める塾の置き場に、今では見かけない写真左の旧式のペットボトルが落ちていたのは運がよかった)
まずは旧式のペットボトル。切り取り線の真ん中あたりを両手の親指でぐっと押すとボトルが潰れて点線に沿った切れ込みができる。そこに親指を突っ込んで左右に引っ張ると簡単にめくれた。ペットボトルは変形してしまうが、ラベルのはがれ具合はきれいだ。所要時間およそ4秒。

次に今のペットボトル。「ラベルはここからはがせます」と書いてあるから、そこを使ってはがしてみなくてはいけない。左手でボトルを支え、右手の親指を切れ込みに入れ、思い切り押してみる。すると穴が大きくなって、親指をそこに入れることができた。そこから親指をラベルの中に押し込んで、その勢いでラベル全体を
一気にめくった。全部めくることができはしたが、親指に大きな力を入れたため少しばかり痛い。それにめくれたラベルの切り口がぎざぎざしていて見栄えはよくない。ただボトルにまで圧力が及んでいないのか、形はつぶれていない。所要時間は約5秒。

ラベルをめくるのにかかる時間は甲乙付けがたいが、旧式はボトルが変形し、新式ははがしたラベルの見た目がよくない。まあ、どうしてラベルをはがすのかといえば、ペットボトルの処理をしやすくするためであるから、処理業者にとっては分別さえしてあれば形がどうなろうと大きな違いはないだろう。私たちにとっても、ラベルのはがしやすさが最大の関心事だから、さほど時間をかけずに楽にはがすことができるのが一番である。
そうすると、旧式のペットボトルのほうがラベルのはがしやすさでは優っている、という結論に達することになる。さらには、別のペットボトルで試したときに、親指を入れた穴から上がはがれにくくて全部剥ぎ取るのに時間がかかった、という欠点にも気づいたので、旧式のほうにますます一票を投じたくなった。

まだまだ改良の余地ありですね、サントリーさん!!
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Pour l'autre
相変わらずウチダ先生は素晴らしい。文章が明晰で切れがすごい。内田樹「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(文芸春秋)という何だか奇妙な題名の本を読み終えた率直な感想だ。これだけ豊富な知識と語彙を縦横に駆使してあらゆる分野に持論を展開できる人物は今の日本にそう多くはないだろう。まったくもって「知の巨人」と呼ぶにふさわしい人物だ。
本書はウチダ先生が自身のブログに書き溜めた文章を集めたものであるため、硬軟織り交ぜた多彩な内容になっていて、読む者を飽きさせない。集められた40の文章はどれにも先生の思想がにじみ出ていて、「内田樹」という宇宙の一端を垣間見るには格好の書なのかもしれない。私も何冊か先生の本を読んでいるが、短文を幾つか集めたこうした形式の書の方が、先生のエキスをコンパクトに吸収できて便利だ。本書からもいくつか重要な示唆を受けることができたし、いつもの如く読み応えのある内容だった。
例えば・・、先生は現代の日本人に l'un pour l'autre (他者のための存在)という理念が欠如していると指摘する。それは、「どうして若者たちは働く意欲がなくなったのでしょうか」という問いに、彼ら彼女が「自分のために働く」からであると答えることの理由として述べられるものであるが、この理念は本書のどの文章でも底流をなしている、いわば先生の思想の根幹を成しているものであるのが読み取れる。もちろん先生のことであるから、このフランス語に哲学的な解説をされているのだが、要するに「自己」というものを必要以上に重視する現今の風潮に対する批判でもあるのだろう。それは「縮小する自我」という言葉に端的に表れている。
日本人は市場経済の要求に従って、「家族を破壊し、カップルを解体し」て個を砂粒化して消費単位を縮小し、消費単位の個数を増やし続けて来た。その結果、日本は「自我というのは他者とのかかわりの中で、環境の変化を変数として取り込みつつ、そのつど解体しては再構築されるある種の「流れのよどみ」のようなものであるという「常識」が欠落してしまった社会」になってしまった(P.252)。他者があってこその自我という意識が希薄になってしまった日本人は、「自己決定」「自己責任」「自分らしさの探求」・・などという、先生によれば「空語」に取り憑かれてしまい、本来義務であるはずの「労働」が、「まるで自ら進んで自己実現のために行う「創造」でなければならないと信じ込」むようにさえなってしまった(P.101)。現代の日本社会では、「個人的努力にたいして個人的報酬は戻されないというのが労働するということである。個人的努力は集団を構成するほかの人々と利益を分かち合うというかたちで報われる」(P.104)と要約できる「無人島ルール」がまったく理解されなくなってしまった・・。
なるほどそうなのか、と単純な私は思ってしまう。目から鱗が落ちるような理路整然たる論の組み立てであり、現代日本の若者を的確に分析している・・。だが、ウチダ先生の説くこの理説も、「おまえが若者を語るな」という本を読んだばかりの私には、団塊世代の精神論、または理想論としてしか受けとめられない気がしなくはない。なんと言ってもウチダ先生は日本で有数のお嬢様学校、神戸女学院大学の教授でいらっしゃる。先生の著作「下流志向」を途中で読めなくなってしまったのも、先生は実際に街のコンビニで夜中にたむろしている若者たちの一人とでも話をしたことがあるのだろうか?とふと疑義が湧いてしまい、そこに書いてある論説がすべてある一定の収入を持った家に生まれ、そこそこの学歴を持った特定の若者たち、つまりは「上流」に分類される若者たちを対象にしているのではないかと思ったら、もうそれより先を読めなくなってしまったのだ。
じゃあ、お前はそんな若者を知っているのかと問われたら、ウチダ先生よりはずっと知っていると答えられると思う。確かに塾に通ってくる子供たちはそれだけの家計に余裕がある家の子供たちだというのも事実であろうが、それでも私の塾にはいろんな家庭の子供たちが通ってきていて、塾に通わなくなった後の彼らの様子も時々は耳に入ってくるから、ふ~~っと大きなため息をつくこともしばしばだ。そんな彼らに果たしてウチダ先生の高邁なお考えなど通じるものだろうか、いやとても無理だな・・と思わざるを得ないのが正直な感想だ。確かに現代日本社会の流れから見れば、先生のお説は真理であり、何も反論するものではない。だが、街の若者たちにそれを説いたところで、何の効果ももたらさないのでは・・と思ってしまう。
理屈じゃないんだよね、多分・・。
本書はウチダ先生が自身のブログに書き溜めた文章を集めたものであるため、硬軟織り交ぜた多彩な内容になっていて、読む者を飽きさせない。集められた40の文章はどれにも先生の思想がにじみ出ていて、「内田樹」という宇宙の一端を垣間見るには格好の書なのかもしれない。私も何冊か先生の本を読んでいるが、短文を幾つか集めたこうした形式の書の方が、先生のエキスをコンパクトに吸収できて便利だ。本書からもいくつか重要な示唆を受けることができたし、いつもの如く読み応えのある内容だった。
例えば・・、先生は現代の日本人に l'un pour l'autre (他者のための存在)という理念が欠如していると指摘する。それは、「どうして若者たちは働く意欲がなくなったのでしょうか」という問いに、彼ら彼女が「自分のために働く」からであると答えることの理由として述べられるものであるが、この理念は本書のどの文章でも底流をなしている、いわば先生の思想の根幹を成しているものであるのが読み取れる。もちろん先生のことであるから、このフランス語に哲学的な解説をされているのだが、要するに「自己」というものを必要以上に重視する現今の風潮に対する批判でもあるのだろう。それは「縮小する自我」という言葉に端的に表れている。
日本人は市場経済の要求に従って、「家族を破壊し、カップルを解体し」て個を砂粒化して消費単位を縮小し、消費単位の個数を増やし続けて来た。その結果、日本は「自我というのは他者とのかかわりの中で、環境の変化を変数として取り込みつつ、そのつど解体しては再構築されるある種の「流れのよどみ」のようなものであるという「常識」が欠落してしまった社会」になってしまった(P.252)。他者があってこその自我という意識が希薄になってしまった日本人は、「自己決定」「自己責任」「自分らしさの探求」・・などという、先生によれば「空語」に取り憑かれてしまい、本来義務であるはずの「労働」が、「まるで自ら進んで自己実現のために行う「創造」でなければならないと信じ込」むようにさえなってしまった(P.101)。現代の日本社会では、「個人的努力にたいして個人的報酬は戻されないというのが労働するということである。個人的努力は集団を構成するほかの人々と利益を分かち合うというかたちで報われる」(P.104)と要約できる「無人島ルール」がまったく理解されなくなってしまった・・。
なるほどそうなのか、と単純な私は思ってしまう。目から鱗が落ちるような理路整然たる論の組み立てであり、現代日本の若者を的確に分析している・・。だが、ウチダ先生の説くこの理説も、「おまえが若者を語るな」という本を読んだばかりの私には、団塊世代の精神論、または理想論としてしか受けとめられない気がしなくはない。なんと言ってもウチダ先生は日本で有数のお嬢様学校、神戸女学院大学の教授でいらっしゃる。先生の著作「下流志向」を途中で読めなくなってしまったのも、先生は実際に街のコンビニで夜中にたむろしている若者たちの一人とでも話をしたことがあるのだろうか?とふと疑義が湧いてしまい、そこに書いてある論説がすべてある一定の収入を持った家に生まれ、そこそこの学歴を持った特定の若者たち、つまりは「上流」に分類される若者たちを対象にしているのではないかと思ったら、もうそれより先を読めなくなってしまったのだ。
じゃあ、お前はそんな若者を知っているのかと問われたら、ウチダ先生よりはずっと知っていると答えられると思う。確かに塾に通ってくる子供たちはそれだけの家計に余裕がある家の子供たちだというのも事実であろうが、それでも私の塾にはいろんな家庭の子供たちが通ってきていて、塾に通わなくなった後の彼らの様子も時々は耳に入ってくるから、ふ~~っと大きなため息をつくこともしばしばだ。そんな彼らに果たしてウチダ先生の高邁なお考えなど通じるものだろうか、いやとても無理だな・・と思わざるを得ないのが正直な感想だ。確かに現代日本社会の流れから見れば、先生のお説は真理であり、何も反論するものではない。だが、街の若者たちにそれを説いたところで、何の効果ももたらさないのでは・・と思ってしまう。
理屈じゃないんだよね、多分・・。
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本棚
私の寝室はもうひどい状態になっていた。缶ビールの空き缶はあちこちに散乱しているし、なにより本が部屋中に山積みになっていて、足の踏み場もない状態になっていた。さすがにその写真を撮って貼り付けるほど露悪趣味にはなれない。
実は夏休み前にも一度部屋の大掃除をしようと思い立った時があって、そのためにはまず本を片付けるための本棚を買ってこなくちゃいけないと家具屋で大きな本棚を買っておいた。すぐに本を並べればよかったのに、本棚を買ったことに満足してしまい、何日か眺めていたらすぐに夏休みになってとてもそんなことをする時間などなくなってしまった。夏休みが終わっても、何だか毎日忙しくて(たぶん忙しいふりをしているだけだろうが・・)自分の部屋の掃除にまで気が回らなかった。なので、3ヶ月以上もせっかく買った本棚には一冊の本も並べられなかった・・。

私の寝室に妻はめったに上がってこない。寝室の隣の部屋に妻の洋服箪笥がおいてあるので、ほんのたまに服を取りにくるくらいで普段はまったくといっていいほど上がってこない。私も勝手に掃除でもされて、何がなにやら分からなくなるのもいやなので、部屋の掃除は私がすることになっている。が、やっぱりそうなると、なかなか掃除する時間も取れないので、年に何回か気が向いたときに大掃除するだけだ。それでも文字通り寝るだけの部屋なので、掃除しなくちゃ!と我慢できなくなるまでにはかなりの時間がかかる。昨日やっと我慢の臨界点に達したらしく、久しぶりに「掃除するぞ!」という気になって、とうとう本棚に本が並ぶこととなった。
まずは、以前貸し出した「あずみ」全巻が戻ってきたときのまま、もう1年以上も放置してあるのを本棚に並べることにした。マンガ本など本棚に並べたことは今まで一度もないが、「あずみ」は別だ(私が単行本を全巻集めているのはこの「あずみ」と「ディアスポリス」だけだ)。久しぶりに袋から取り出してペラペラめくりながら並べてみた。最新号は先日買ってきた46巻だが、並べてみたら3巻も欠けていた。最近の号は時々買うのを忘れてしまうので、欠落が出てしまったのだろう。これでは「あずみ」を語るわけにはいかぬ、本の整理は中断して、すぐに買いに行って全巻揃えた。気持ちがいい・・。

「あずみ」さえ片付けられたら、残りの本など適当に並べておけばいい。単行本、新書、文庫本と大きささえ揃えておけば十分だ。部屋中に散乱している本を拾い集めたら、結構な数になって、本棚もかなり埋まってしまった。それでも、最近読んだ本はこのブログに感想を記すのに参考にするため、PCの置いてある塾の事務所の本棚に並べてある。だが、もうそこもいっぱいになってしまっていて、床に積みあげたりしているので、何冊かは新しい本棚に移さねばならないだろう・・。またそれも面倒なことだが、背に腹は代えられない・・。

何だかこのところ、すごい勢いで本が増えているように思う。確かに本はよく読んでいる。以前は1冊の本を読み終わらねば次の本を読んだりしなかったものだが、最近は何冊かの本を並行して読んでいる。それは一冊を一気に読み通せるだけの根気がなくなってしまったからかもしれない。まるでTVのチャンネルを次々と変えるようにして、数ページずつ読んでは本を変えている。もちろん興が乗れば一気に何十ページも読むことはあるので、本によって読み終える時間がかなり違う。それでも、読みかけた本は最後まで読もうという意気込みは以前よりも増しているのはいい傾向だと思う。ここ最近は途中で投げ出してしまった本はないはずだ。
これからしばらくはこんな調子でどんどん本が増えていきそうなので、この新しい本棚もすぐにいっぱいになってしまうかもしれない。もうこれ以上本棚を置くスペースは寝室にもその隣の部屋にもないから、ちょっと困ってしまいそうだ。どうしよう?
実は夏休み前にも一度部屋の大掃除をしようと思い立った時があって、そのためにはまず本を片付けるための本棚を買ってこなくちゃいけないと家具屋で大きな本棚を買っておいた。すぐに本を並べればよかったのに、本棚を買ったことに満足してしまい、何日か眺めていたらすぐに夏休みになってとてもそんなことをする時間などなくなってしまった。夏休みが終わっても、何だか毎日忙しくて(たぶん忙しいふりをしているだけだろうが・・)自分の部屋の掃除にまで気が回らなかった。なので、3ヶ月以上もせっかく買った本棚には一冊の本も並べられなかった・・。

私の寝室に妻はめったに上がってこない。寝室の隣の部屋に妻の洋服箪笥がおいてあるので、ほんのたまに服を取りにくるくらいで普段はまったくといっていいほど上がってこない。私も勝手に掃除でもされて、何がなにやら分からなくなるのもいやなので、部屋の掃除は私がすることになっている。が、やっぱりそうなると、なかなか掃除する時間も取れないので、年に何回か気が向いたときに大掃除するだけだ。それでも文字通り寝るだけの部屋なので、掃除しなくちゃ!と我慢できなくなるまでにはかなりの時間がかかる。昨日やっと我慢の臨界点に達したらしく、久しぶりに「掃除するぞ!」という気になって、とうとう本棚に本が並ぶこととなった。
まずは、以前貸し出した「あずみ」全巻が戻ってきたときのまま、もう1年以上も放置してあるのを本棚に並べることにした。マンガ本など本棚に並べたことは今まで一度もないが、「あずみ」は別だ(私が単行本を全巻集めているのはこの「あずみ」と「ディアスポリス」だけだ)。久しぶりに袋から取り出してペラペラめくりながら並べてみた。最新号は先日買ってきた46巻だが、並べてみたら3巻も欠けていた。最近の号は時々買うのを忘れてしまうので、欠落が出てしまったのだろう。これでは「あずみ」を語るわけにはいかぬ、本の整理は中断して、すぐに買いに行って全巻揃えた。気持ちがいい・・。

「あずみ」さえ片付けられたら、残りの本など適当に並べておけばいい。単行本、新書、文庫本と大きささえ揃えておけば十分だ。部屋中に散乱している本を拾い集めたら、結構な数になって、本棚もかなり埋まってしまった。それでも、最近読んだ本はこのブログに感想を記すのに参考にするため、PCの置いてある塾の事務所の本棚に並べてある。だが、もうそこもいっぱいになってしまっていて、床に積みあげたりしているので、何冊かは新しい本棚に移さねばならないだろう・・。またそれも面倒なことだが、背に腹は代えられない・・。


何だかこのところ、すごい勢いで本が増えているように思う。確かに本はよく読んでいる。以前は1冊の本を読み終わらねば次の本を読んだりしなかったものだが、最近は何冊かの本を並行して読んでいる。それは一冊を一気に読み通せるだけの根気がなくなってしまったからかもしれない。まるでTVのチャンネルを次々と変えるようにして、数ページずつ読んでは本を変えている。もちろん興が乗れば一気に何十ページも読むことはあるので、本によって読み終える時間がかなり違う。それでも、読みかけた本は最後まで読もうという意気込みは以前よりも増しているのはいい傾向だと思う。ここ最近は途中で投げ出してしまった本はないはずだ。
これからしばらくはこんな調子でどんどん本が増えていきそうなので、この新しい本棚もすぐにいっぱいになってしまうかもしれない。もうこれ以上本棚を置くスペースは寝室にもその隣の部屋にもないから、ちょっと困ってしまいそうだ。どうしよう?
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電磁石エンジン
「大人の科学21 電磁石エンジン」を買った。「懐かしの『6年の科学』のふろくを復刻」したものだそうだ。私は小学校の頃ずっと学研の「科学」と「学習」はとっていたから、ひょっとしたら当時この「電磁石エンジン」という付録を手にしたことがあったかもしれない。まったく記憶にはないが、毎号付録が楽しみだったことはよく覚えているから、はるか昔に組み立てたことがあるかもしれない。

電磁石に仕組みは現在小学6年生で学習する。私も基本的なことくらいなら説明できる。導線に電流を流すと磁界が発生し、さらにコイルに導線を一定方向に巻き付けていくと磁界がさらに強くなり電磁石となる・・。まあ、それくらいの知識があれば、この付録を組み立てるのに十分だろうと、早速組み立て始めた。

①コイルを組み立てる・・鉄心に巻線をまきつける。きれいに巻くと磁力が強くなる。なるべくていねいに巻いていこう。

②本体(上)を組み立てる・・本体にコイルを付け、上の穴に巻線と接点金具付きコード、リードスイッチのコードの先を通す。

③本体(下)を組み立て、本体(上)と合わせる・・車軸を通して車輪を取り付ける。接点金具を本体(下)の穴にそれぞれ差し込む。

④ローターを組み立てる・・6個の磁石をローターの穴に差し込み、本体に取り付ける。

⑤電池ボックスに電池を入れ、車輪に輪ゴムをかけて完成!・・輪ゴムがきついとローターの回転を止めてしまうので輪ゴムは指で伸ばしてからかけるようにする。
う~~ん・・、簡単にできたけど、いったいこれは何?スイッチを入れたら動くだけ?う~~ん・・しょぼい、しょぼすぎる・・。これなら前に作った茶運び人形のほうがよっぽど面白い・・。でも一回くらいは動かしてみなくちゃ・・。
ということで最初の動画に戻る・・。


電磁石に仕組みは現在小学6年生で学習する。私も基本的なことくらいなら説明できる。導線に電流を流すと磁界が発生し、さらにコイルに導線を一定方向に巻き付けていくと磁界がさらに強くなり電磁石となる・・。まあ、それくらいの知識があれば、この付録を組み立てるのに十分だろうと、早速組み立て始めた。


①コイルを組み立てる・・鉄心に巻線をまきつける。きれいに巻くと磁力が強くなる。なるべくていねいに巻いていこう。


②本体(上)を組み立てる・・本体にコイルを付け、上の穴に巻線と接点金具付きコード、リードスイッチのコードの先を通す。


③本体(下)を組み立て、本体(上)と合わせる・・車軸を通して車輪を取り付ける。接点金具を本体(下)の穴にそれぞれ差し込む。


④ローターを組み立てる・・6個の磁石をローターの穴に差し込み、本体に取り付ける。


⑤電池ボックスに電池を入れ、車輪に輪ゴムをかけて完成!・・輪ゴムがきついとローターの回転を止めてしまうので輪ゴムは指で伸ばしてからかけるようにする。
う~~ん・・、簡単にできたけど、いったいこれは何?スイッチを入れたら動くだけ?う~~ん・・しょぼい、しょぼすぎる・・。これなら前に作った茶運び人形のほうがよっぽど面白い・・。でも一回くらいは動かしてみなくちゃ・・。
ということで最初の動画に戻る・・。
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笑顔の素敵な人
10月5日に亡くなった緒形拳を追悼して放映された「ディアフレンズ」を見た。9年前の平成11年に放送されたドラマの再放送だ。緒形拳は享年71歳だから、このドラマの時には62歳だったことになる。どうりで、肌つやもよく顔に皺も目立たない。亡くなる直前に流さされたエプソンのCMの緒形拳は皺くちゃになってかなり年をとったなという印象が強かったから、少しばかり隔世の感が否めなかった。簡単にストーリーをまとめると・・、
保護司に連れられてデイケア施設へボランティアにやって来た少年院出の少年・裕司(岡田准一)は、そこで妻を亡くし仕事も投げ出してしまった佐竹老人(緒形拳)とちょっとしたトラブルを起こす。その謝罪のため老人の自宅を訪ねた裕司は、また新たな悶着を引き起こすが、佐竹老人に一方的に押し切られ、千葉までのドライブに付き合わされることになる。10年以上会っていない佐竹の孫娘に会うための道行きはトラブル続きで珍道中とも呼べるものであった。やっとの思いで会うことのできた孫娘から、「もう来ないで」と言われてしまう佐竹・・。それを遠くから見守る裕司・・。
新聞のTV欄には、「生きがいを失った孤独な老人と非行少年の奇妙な二人旅 世代を超えた友情と感動の物語」とあったが、最初少し見ただけで物語の展開がすべて読めるほどの単純なドラマであり、9年前だったらたぶん途中で見るのをやめてしまっただろうと思えるほどのステレオタイプなつまらない筋立てだった。それでも元気な頃の緒形拳を見ることができたのと、岡田准一の9年前の演技を見られたのとで、何とか最後まで見ることができた。外部に心を閉ざしてしまった若者と老人が次第に心を通わせていく・・といったドラマの本筋とはまったく違う次元、ただ緒形拳と岡田准一の演技を見たいだけ、という製作者の意図とはかけ離れた見方をしていてはいけないのかもしれないが、そんな心持ちで見るのがちょうどいいくらいのドラマだったような気がする。が、二人の演技は実によかった!!
私にとっての緒形拳という役者は、やはり「必殺仕掛人」の藤枝梅安だ。「木枯し紋次郎」の裏番組として、じわじわ人気を博していったこのTVドラマで梅安役の緒方拳は、軽妙な味わいのある表の顔と仕掛人として冷徹な裏の顔とを見事に演じ分けていた。当時10代の私では、男の色気などという洒落たものを解するだけの器量は持ち合わせていなかったが、それでも何となくは感じ取っていたように思う。あんな風になれたらな、と思わないでもなかったから。特に梅安・緒形拳の笑った顔が好きだった。顔全体でニッと笑う顔が可愛らしくて好きだった。
その笑顔をこの追悼番組でも見せてくれた。生きるのが面白くないと始終苦虫を噛み潰したような顔をしていた佐竹老人が一度にこっと笑った場面があった。それが昔から私の好きだった緒形拳の笑顔そのものだったから、思わずはっとした。と同時に、この笑顔が見られたのだから、このドラマはそれだけでも十分に追悼番組の役割を果たしている、と思った。

あちこち回ってやっと見つけた、この笑顔だ。やはり笑顔の素敵な俳優はいい。この笑顔を見ると私の心まで晴れ晴れするような気がする。もっと長くこの笑顔を見ていたかったなあ・・。
心よりご冥福をお祈りいたします。
保護司に連れられてデイケア施設へボランティアにやって来た少年院出の少年・裕司(岡田准一)は、そこで妻を亡くし仕事も投げ出してしまった佐竹老人(緒形拳)とちょっとしたトラブルを起こす。その謝罪のため老人の自宅を訪ねた裕司は、また新たな悶着を引き起こすが、佐竹老人に一方的に押し切られ、千葉までのドライブに付き合わされることになる。10年以上会っていない佐竹の孫娘に会うための道行きはトラブル続きで珍道中とも呼べるものであった。やっとの思いで会うことのできた孫娘から、「もう来ないで」と言われてしまう佐竹・・。それを遠くから見守る裕司・・。
新聞のTV欄には、「生きがいを失った孤独な老人と非行少年の奇妙な二人旅 世代を超えた友情と感動の物語」とあったが、最初少し見ただけで物語の展開がすべて読めるほどの単純なドラマであり、9年前だったらたぶん途中で見るのをやめてしまっただろうと思えるほどのステレオタイプなつまらない筋立てだった。それでも元気な頃の緒形拳を見ることができたのと、岡田准一の9年前の演技を見られたのとで、何とか最後まで見ることができた。外部に心を閉ざしてしまった若者と老人が次第に心を通わせていく・・といったドラマの本筋とはまったく違う次元、ただ緒形拳と岡田准一の演技を見たいだけ、という製作者の意図とはかけ離れた見方をしていてはいけないのかもしれないが、そんな心持ちで見るのがちょうどいいくらいのドラマだったような気がする。が、二人の演技は実によかった!!
私にとっての緒形拳という役者は、やはり「必殺仕掛人」の藤枝梅安だ。「木枯し紋次郎」の裏番組として、じわじわ人気を博していったこのTVドラマで梅安役の緒方拳は、軽妙な味わいのある表の顔と仕掛人として冷徹な裏の顔とを見事に演じ分けていた。当時10代の私では、男の色気などという洒落たものを解するだけの器量は持ち合わせていなかったが、それでも何となくは感じ取っていたように思う。あんな風になれたらな、と思わないでもなかったから。特に梅安・緒形拳の笑った顔が好きだった。顔全体でニッと笑う顔が可愛らしくて好きだった。
その笑顔をこの追悼番組でも見せてくれた。生きるのが面白くないと始終苦虫を噛み潰したような顔をしていた佐竹老人が一度にこっと笑った場面があった。それが昔から私の好きだった緒形拳の笑顔そのものだったから、思わずはっとした。と同時に、この笑顔が見られたのだから、このドラマはそれだけでも十分に追悼番組の役割を果たしている、と思った。

あちこち回ってやっと見つけた、この笑顔だ。やはり笑顔の素敵な俳優はいい。この笑顔を見ると私の心まで晴れ晴れするような気がする。もっと長くこの笑顔を見ていたかったなあ・・。
心よりご冥福をお祈りいたします。
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松茸!!
金融危機なんて関係ない、そんなのどうでもいい、なんて気合を見せるため(誰によ?)、松茸を食べた。はははは!!!食べたんだよね、国内産松茸を!!中国産でも北朝鮮産でない、和歌山県産の松茸をね、ははははは!!!!・・・

奥さんがね、SMAPの大阪でのコンサートに行って、娘の部屋に泊まったときに近くの商店街で見つけた松茸、軸がしっかりしているものを2本選んでもらって買ってきた。今年は暖かかったため、市場に出る松茸が少なくて、値段が高いんだって。「京都産なんてとても買ってこられない」なんて店のおばちゃんが言ってたらしいけど、そんなの関係ない!!!松茸食べなくっちゃ秋って気がしない(なんて偉そうなこと言っても、2本が精一杯なのも情けないけど・・)。さあ!!

火をおこして、1本なり焼くつもりだったけど・・、奥さんがね、裂いちゃった・・・、ちょっと残念!!!。でもこうやって食べるのがきっとおいしいんだろうな、と思い直して、さあ、焼こう、がんがん焼こうぜ!!

なに、これ?どうしてこんなにジューシーなの?むちゃくちゃおいしい!!3年前に奥さんが買ってきた3年前に妻が買ってきた松茸も驚くほどおいしかったけど、それに負けないくらいみずみずしい!「国内産はこんなにおいしいんだよ!!!」ははははは!!!!!!なんて、ちょっと(大いに?)自慢・・・。
いつの間にか夜になった空を見上げたら、中空に朧月が懸かってた。

こんな夜は一句ひねれば詩人の心持ちになれるか、としばし呻吟したあげくに・・。
「三歳(みとせ)ぶり 食む松茸の みずみずしさ おぼろ月見る 夜のさやけき」
駄作だよね、やっぱり・・・。ははははははは!!!!!(笑い茸かも)

奥さんがね、SMAPの大阪でのコンサートに行って、娘の部屋に泊まったときに近くの商店街で見つけた松茸、軸がしっかりしているものを2本選んでもらって買ってきた。今年は暖かかったため、市場に出る松茸が少なくて、値段が高いんだって。「京都産なんてとても買ってこられない」なんて店のおばちゃんが言ってたらしいけど、そんなの関係ない!!!松茸食べなくっちゃ秋って気がしない(なんて偉そうなこと言っても、2本が精一杯なのも情けないけど・・)。さあ!!

火をおこして、1本なり焼くつもりだったけど・・、奥さんがね、裂いちゃった・・・、ちょっと残念!!!。でもこうやって食べるのがきっとおいしいんだろうな、と思い直して、さあ、焼こう、がんがん焼こうぜ!!



なに、これ?どうしてこんなにジューシーなの?むちゃくちゃおいしい!!3年前に奥さんが買ってきた3年前に妻が買ってきた松茸も驚くほどおいしかったけど、それに負けないくらいみずみずしい!「国内産はこんなにおいしいんだよ!!!」ははははは!!!!!!なんて、ちょっと(大いに?)自慢・・・。
いつの間にか夜になった空を見上げたら、中空に朧月が懸かってた。

こんな夜は一句ひねれば詩人の心持ちになれるか、としばし呻吟したあげくに・・。
「三歳(みとせ)ぶり 食む松茸の みずみずしさ おぼろ月見る 夜のさやけき」
駄作だよね、やっぱり・・・。ははははははは!!!!!(笑い茸かも)
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「実体経済」って何よ?
アメリカに端を発した金融不安が世界中の株価を暴落させ、世界恐慌の再来とまで言われている。TVや新聞のニュースのトップは株価の動向、世界経済の先行き不安を憂慮するものばかりで、さすがの経済オンチの私でも、忍び寄る大不況の影に心が重くなってしまう。もちろん私のような者ではどうしたものやら見当がつくはずもなく、ただただ新聞を精読し、TVニュースを傾聴することで少しでも心の準備をしておこうと思うばかりである。が、最近どうしても気にかかってならない用語がある。それは、「実体経済」というものだが、金融不安が広がり始めたころから、盛んに使われるようになったように思う。曰く、
「金融不安が実体経済に与える悪影響」
「日本の実体経済はさほど心配ない」
などという文脈で使われることが多い文言である。もちろん漠然とは分かる。しかし、「実体経済」という言葉の反意語として使われる「金融経済」とは何だろうと考え始めると私にはよく分からないことだらけだ。そこで、少しネット上で調べてみた。
先ず実体経済とは何か。大まかに言えば、実体経済とはモノを作り、それを販売し、研究開発を重ね、サービスを提供するなど、私達が日々に体験しているものを指す(医者が病気を治す、教師は授業で生徒達に教える、道路、橋、港、空港、鉄道等が造られるなど)。実体経済では、労働によって、あるいはモノによって、対価(おカネ)を受け取っているため、人間の労働やモノによる裏付けがあって、初めて価値が認められる経済なのである。
それに対して金融経済とは何か。
よく使われる比喩が、経済全体を人間の身体とそれを支える血液に譬えることである。体(実体経済)が生きるためには、常に血液(おカネ)が全身を回って、酸素・栄養分を供給し、老廃物を排泄しなければならない。ところが金融経済とは、おカネ自体が商品として取引される経済と言ってもいいだろう。おカネは、それ自体に価値があるのではなく、何か実体のあるモノと交換して初めて意味があるものなのに、金融経済では、おカネそれ自体が目的となり、おカネがおカネを生み出すという構造になっている。おカネだけが際限無く増え続けているのである。
金融経済本来の役割は、実体経済の回転を助けることであり、実体経済にサービスを提供するからこそ金融経済の存在意義があったはずだ。しかし、血液であり体を支えるためのものが、勝手に大増殖し、いまや体を遥かにしのぐ程になってしまった・・。(金融経済は、いまや実体経済と比較して20~30倍の大きさになっているとも言われているようだ)
今日、最先端のハイテク機器によって世界は一つに繋がり、ネットワークが組まれたため、金融市場では毎日数兆ドルが動いている。そこは規制も監督も行われていないマーケットであるため、世界中で一日に1兆ドル(円高の現在は100兆円ほど)程度のおカネが動いていると言われている。
要するに、額に汗する労働から成るのが実体経済で、手にもしていないお金を右から左に動かすことで利益を得ようとするのが金融経済なんだな・・・。ここまで調べて、今夏私が不満を募らせた原油価格高騰のことを想起した。サブプライムローンの焦げ付きで行き場を失った金融資本が原油先物市場に注ぎ込まれたのが価格高騰の要因であると声高に論じられたが、ひょっとすると、あれは金融市場の断末魔のあがきだったのかもしれない。実体のない石油価格高騰が実体経済を窮地に陥れるという構造は、まさしく今回の金融不安が実体経済を、全世界の経済をどん底に沈めてしまうかもしれない事態と軌を一にしているように思われる・・・。
石油は今週末、やっと1ℓ140円台で買えるようになった。それはそれで経費節減に及ぼす効果はあるのだろうが、これだけ連日株価が暴落しては、株主などではない私の生活にもかなり深甚な影響を及ぼすことは必定であろう。この金融不安から簡単に抜け出すのは難しそうだが、何とか踏ん張っていかねばならないのは誰しも同じことだ。だが、「もうこれ以上マネーゲームに踊らされるのは真っ平ごめんだ」、という意思表示だけは是非していかねばならない。さもなければこうした金融市場の暴走は繰り返されることだろう。
いやだ、イヤだ。
「金融不安が実体経済に与える悪影響」
「日本の実体経済はさほど心配ない」
などという文脈で使われることが多い文言である。もちろん漠然とは分かる。しかし、「実体経済」という言葉の反意語として使われる「金融経済」とは何だろうと考え始めると私にはよく分からないことだらけだ。そこで、少しネット上で調べてみた。
先ず実体経済とは何か。大まかに言えば、実体経済とはモノを作り、それを販売し、研究開発を重ね、サービスを提供するなど、私達が日々に体験しているものを指す(医者が病気を治す、教師は授業で生徒達に教える、道路、橋、港、空港、鉄道等が造られるなど)。実体経済では、労働によって、あるいはモノによって、対価(おカネ)を受け取っているため、人間の労働やモノによる裏付けがあって、初めて価値が認められる経済なのである。
それに対して金融経済とは何か。
よく使われる比喩が、経済全体を人間の身体とそれを支える血液に譬えることである。体(実体経済)が生きるためには、常に血液(おカネ)が全身を回って、酸素・栄養分を供給し、老廃物を排泄しなければならない。ところが金融経済とは、おカネ自体が商品として取引される経済と言ってもいいだろう。おカネは、それ自体に価値があるのではなく、何か実体のあるモノと交換して初めて意味があるものなのに、金融経済では、おカネそれ自体が目的となり、おカネがおカネを生み出すという構造になっている。おカネだけが際限無く増え続けているのである。
金融経済本来の役割は、実体経済の回転を助けることであり、実体経済にサービスを提供するからこそ金融経済の存在意義があったはずだ。しかし、血液であり体を支えるためのものが、勝手に大増殖し、いまや体を遥かにしのぐ程になってしまった・・。(金融経済は、いまや実体経済と比較して20~30倍の大きさになっているとも言われているようだ)
今日、最先端のハイテク機器によって世界は一つに繋がり、ネットワークが組まれたため、金融市場では毎日数兆ドルが動いている。そこは規制も監督も行われていないマーケットであるため、世界中で一日に1兆ドル(円高の現在は100兆円ほど)程度のおカネが動いていると言われている。
要するに、額に汗する労働から成るのが実体経済で、手にもしていないお金を右から左に動かすことで利益を得ようとするのが金融経済なんだな・・・。ここまで調べて、今夏私が不満を募らせた原油価格高騰のことを想起した。サブプライムローンの焦げ付きで行き場を失った金融資本が原油先物市場に注ぎ込まれたのが価格高騰の要因であると声高に論じられたが、ひょっとすると、あれは金融市場の断末魔のあがきだったのかもしれない。実体のない石油価格高騰が実体経済を窮地に陥れるという構造は、まさしく今回の金融不安が実体経済を、全世界の経済をどん底に沈めてしまうかもしれない事態と軌を一にしているように思われる・・・。
石油は今週末、やっと1ℓ140円台で買えるようになった。それはそれで経費節減に及ぼす効果はあるのだろうが、これだけ連日株価が暴落しては、株主などではない私の生活にもかなり深甚な影響を及ぼすことは必定であろう。この金融不安から簡単に抜け出すのは難しそうだが、何とか踏ん張っていかねばならないのは誰しも同じことだ。だが、「もうこれ以上マネーゲームに踊らされるのは真っ平ごめんだ」、という意思表示だけは是非していかねばならない。さもなければこうした金融市場の暴走は繰り返されることだろう。
いやだ、イヤだ。
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