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あいたくて

 なまじっか若い頃にフランス文学をかじったばかりに、存在理由(raison d'etre)などという何の役にも立たないものに拘っていたことがある。己の意思によってではなく、他の何かのはたらきによって産み落とされてしまったこの世界に、己の存在する理由は果たしてあるのだろうか、そんなことを漠然とではあるが、ずっと考えてきたような気がする。
 何の変哲もない日常が淡々と過ぎ行く中で、何とかくさびを打ち込もうとあがいたこともあるが、それは徒労でしかなかった。泣こうが喚こうが、時の流れに押し流されてしまい、はっと気づけばこんなところにまで流されてしまった。これから先一体どれくらいの時間が私の掌中に残されているのかはなはだ覚束なくはあるが、この歳になるまで自分の考えてきたことに明確な答えを見つけられないでいるのは、今まで生きてきた時間が無意味だったことの証左になってしまうのだろうか。いや、そんなことはあるまい。今日まで私は生きてきた途中で色んなところに足跡は残してきたはずだ。それがいくら頼りない歩みであったとしても、まるで無意味だったとは思いたくない。
 
 「あいたくて」  工藤直子
だれかに あいたくて
なにかに あいたくて
生まれてきた―
そんな気がするのだけれど

それがだれなのかなになのか
あえるのは いつなのか―

おつかいの とちゅうで
迷ってしまった子どもみたい
とほうに くれている

それでも 手のなかに
みえないことづけを
にぎりしめているような気がするから
手わたさなくちゃ
だから

あいたくて


私はもう会いたい人に会えただろうか。「ことづけ」を伝えることはできただろうか。この詩を読んで、ふとそんなことを思った。
 私は今まで数限りない人に会ってきた。しかし、その中で本当に会いたかった人はそんなには多くないだろう。そうした人たちに巡り会えた幸せは、奇跡的な確率なのかもしれないが、人の出会いには必然というものがあるような気がする。何の奇跡でもなく、出会うべくして出会ったという、昔から言われている「運命の糸」で結ばれたような必然的な出会いがあるような気がする。互いの心の中にある磁石が互いの方向に向き合って引かれあうような出会いが。
 しかし、それと気づかずにやり過ごしてしまった出会いもあるかもしれない。その出会いがいくら運命的なものだったとしても、お互いが自分の心を伝えあわなければ、何も生まれないからだ。自分が心の中に持っている「ことづけ」をしっかり相手に伝えることができるか、それが出会いを単なる出会いのまま終わらせるか、永続的な関係へ発展させるかの岐路なのだろう。「ことづけ」を相手に伝えることは勇気の要ることかもしれない。しかし、本当に相手との友好を望むのなら、それを乗り越えるくらいのエネルギーは簡単に出てくるはずだ。
 そうした「ことづけ」を伝えること、それが私たちの存在理由なのかもしれないと、最近思うようになってきた。いかにも抽象的だが、そんな気がしてならない。
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