見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

離洛帖・スピードの美学/畠山記念館

2006-06-27 22:03:44 | 行ったもの(美術館・見仏)
○畠山記念館 春季展II『墨跡と古筆-書の美』

http://www.ebara.co.jp/socialactivity/hatakeyama/index.html

 禅僧の筆跡「墨跡」と仮名の美「古筆」を取り混ぜた書の展覧会である。畠山記念館の展示室には、細長い座敷がしつらえてあって、最も重要な展示品は、座敷に沿った壁の展示ケースに飾られている。

 いちばん右端に、正方形を2つ継いだ紙面に和歌1首を散らし書きした作品が掛けてあった。あっ、『継色紙』(伝小野道風筆)だ~!!と思って、目が吸い寄せられてしまう。先だってMOA美術館で見てきたものとは、またちょっと違う。料紙は薄い紫色をしている。

 書かれている和歌は「きみをおき/てあたしこ/ころをわ/かもたは/すゑの/松山/なみも/こえな/む」。ゆらゆら揺れる水草のように頼りない筆跡だ。地を這うように低く押さえられた下の句の中で、「なみも」の行頭だけが突出している。隣の行の「松山」よりもはるかに高い。絶対、意識的に文字を配置してるんだろうと思う。修辞上は強い決意を述べているようだが、書かれた文字を見ていると、本心がフクザツに揺れ動いている感じが伝わってくる。面白いなあ。この『継色紙』って、いったい何種類くらい残っているのだろう。

 そして、中央には藤原佐理の『離洛帖』が掛かっていた。ゆっくり、その前にいざり寄る。佐理が、太宰大弐に任命されて任地へ向かう途中、摂政の藤原道隆に赴任の挨拶をしてくるのを忘れたことを思い出し、参議・藤原誠信にとりなしを依頼した侘び状であるという。いやー。いいわあ。

 『離洛帖』を見るのは初めてではない。2月に東京美術倶楽部百周年記念展でも見た。そのときは、「流麗なんだか乱筆なんだか、よく分からない」なんて書いてしまったけど、魅力は「スピード」。この一言に尽きる。私は本文の最後の2行「可聞子細、恐惶頓首、(佐理)謹言」の、ひときわ細く、薄くなっていく線が好きだ。地上の重力を離れ、「抽象」に向かって無鉄砲に突き進んでいくようだ。カッコいいっ。もっとも、このとき佐理は47歳。貴族社会では一向にウダツの上がらない、中年というより、初老のおじさんであるが。

 本当を言うと、ごく最近まで「書」の魅力はよく分からなかった。今は、こんなに美しいものが、どうして分からなかったんだろう、と思う。やっぱり、本物を見ることで、眼力って養われていくのだな。しかし、いくら秀麗な筆跡だとは言え、ただの私的な詫び状を一千年も愛で伝えてきて、「国宝」と呼んでしまうのだから可笑しい。可笑しいけれど、私がこの国の文化と伝統を衷心から愛おしいと思うのは、こういう物件に出会うときである。

 このほか、墨の香り立つような伊行筆『戊辰切』(和漢朗詠集らしい)。シンプル・イズ・ベストの行成筆『升色紙』など、見もの多数。変わったところでは、ちょっといいなあと思ったのは、一休和尚の墨跡だった。
コメント

唐の鏡・女性好みの美/泉屋博古館分館

2006-06-26 22:20:40 | 行ったもの(美術館・見仏)
○泉屋博古館分館 特別展『唐の鏡』

http://www.sen-oku.or.jp/tokyo/program/index.html

 泉屋博古館東京分館の存在を知ったのは、ごく最近のこと。実際に訪ねるのは、今回が初めてである。南北線の六本木一丁目で下りると、ガラスと鉄骨をふんだんに使った高層ビルがそびえ立つ。その近未来的な風景の足元で、龍や鳳凰を刻んだ「唐の鏡」の展示会が行われているというのは、なんともミスマッチでおもしろい。

 展示品は、ストイックに唐代の鏡約80点「だけ」である。ふだん博物館で見る文物の中に銅鏡が混じっていても、それほど注目したことはないので、果たして面白いのかどうか不安だったが、意外と面白かった。

 鏡の文様モチーフでは「四神」や「十二支」の登場が早い。しかし、華麗で国際色豊かな唐代文化を印象づけるのは、なんと言っても「海獣葡萄鏡」である(→「海獣」は外来の異獣の意味。そうだったのか!)。直径30センチ弱の大型の鏡2枚(泉屋博古館所蔵と天理参考館所蔵)は、この展示会でも白眉の名品だと思う。小さな粒が寄り集まった葡萄の房、蔓の間を飛びまわる小鳥の翼など、繊細な細工、優美な造形は、見飽きない。中国の書画芸術は(日本と違って)「男性趣味」が強いと思うのだが、隋唐の工芸だけは、中国四千年の歴史の中で、全く例外的に女性好みだと思う。

 「海獣葡萄鏡」と言っても、実はさまざまな小動物がひそんでいることを、今回、発見した。小鳥、トンボ、蝶、蜂、蟹、とあって、蟹は最初、発見できなかったのだが、あとでロビーにあった写真図録で確認した。いちばん外側の縁模様に、なぜか間違い探しのように潜んでいるのである。

 盛唐の「八稜鏡」は本体が大ぶりなだけでなく、文様モチーフもひとつひとつ明確で大きい。以前、正倉院展で見た「鳥獣背八花鏡(ちょうじゅうはいのはっかきょう)」は、この仲間である。

 中唐以降になると、鶴・柳など和風に近いもの、駱駝、胡人、仙岳、伯牙弾琴図、孔子像などが現れる。優美な女性的センスが後退して、儒教・道教など、男性臭が強くなるように感じる。

 なお、1点だけ、唐鏡を模して日本で作られた鏡が出品されていた。表(いや、裏か?)の文様は、ごちゃごちゃしていて感心しないが、鏡として使用する面の側に、釈迦三尊と諸仏が毛彫されている。周囲の花吹雪も愛らしい。でも、像を映す際に邪魔にならないのかな?

 蛇足。京都の泉屋博古館本館で、次の週末まで行われている『近世の花鳥画』展。サイトのトップに上がっている彩色画は若冲らしいのだが、私の記憶にない作品である。花盛りの枝にずらりと並んだ目白がかわいいっ。見に行きたい!! 行けるか!?
http://www.sen-oku.or.jp/kyoto/program/index.html
コメント

ポスターの時代、戦争の表象(東大情報学環シンポジウム)

2006-06-25 21:29:26 | 行ったもの2(講演・公演)
○東大情報学環シンポジウム『ポスターの時代、戦争の表象』

http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/gnrl_info/news/list06/08.html

 上記のリンク先では『第一次世界大戦期プロパガンダ・ポスターコレクション デジタル・アーカイブ公開記念シンポジウム』という長い名前になっているが、会場でもらったプログラムには『ポスターの時代、戦争の表象』というタイトルが付いていた。

 4月にも紹介したとおり、このポスターコレクションは、情報学環の前身である新聞研究所に伝えられてきたものだ。終戦直後、外務省情報部から譲り受けたものであることは、かなりはっきりしたらしい。1962年に東大の五月祭で展示されたことがある(初耳!)ほかは、長く研究所に眠っていた。

 このプロジェクトのリーダーである吉見俊哉氏によれば、2004年、社会情報研究所(新聞研究所の後身)が廃止され、情報学環と合併したことが、ポスターコレクションのデジタル・アーカイブ化を進める大きな要因になったという。情報学環は、理系の知と文系の知の融合を目指して設置された研究組織であるが、まさにその実践例になったといえる。

 同時に吉見氏が強調していたのは、「印刷をめぐる大先輩たち」の絶大な力である。具体的には、森啓さん(女子美術大学)の基調講演を聴こう。森さんは、デザイナーとして、グラフィック、編集、タイポグラフィなどを手がけ、現在は大学でグラフィックデザイン史、印刷技術史などを教えている。その森さんを、このプロジェクトに誘ったのは、柏木博さん(武蔵野美術大学、近代デザイン史)だという。

 森さんは、長い間、参加をためらっていた。ひとつは「いまさら戦争宣伝のポスター」という心情的なものだった。もうひとつは、ちょうどこの時期(19世紀末から20世紀初め)というのは「ビジュアルデザインの空白時代」と言われていて、デザインの面でも、印刷技術の面でも分からないことが多いのだという。それでも、たぶん石板印刷だろうと予想をつけて調べ始めたら、諸先輩から「20年遅い」と言われてしまった。気づいてみれば、1910年代の石板印刷を知っている技術者は、もうわずかしか存命していない。それでも、印刷博物館、印刷学会、凸版印刷などを通じて、現場の技術者から、貴重な助力を得ることができたという。

 とりわけ、司会の吉見氏も報告者たちも、感謝の言葉を惜しまなかったのは、印刷学会の山本隆太郎氏である。客席には、ステッキをついたまま、静かに話に聞き入る小柄な老人の姿があった。

 私はシンポジウムのプログラムを見たとき、まず第2部に惹かれた。ジェンダー研究の若桑みどりさん、メディア史の佐藤卓己さんなど、癖のある有名人揃いで、絶対に面白いに違いない、と思ったのだ。それに比べると、物理的媒体(紙)や印刷技術をテーマとする第1部には、あまり期待をしていなかった。

 ところが、この予想は大きく外れた。第1部の話は、圧倒的にものめずらしくて面白かった。そして、第1部の報告者が、私大の教員のほか、デザイナーや学芸員など、全て「東京大学(あるいは国立大学)」の外部から招かれた人々であることが感慨深かった。第1部では、質疑応答にも印象的な場面があった。客席で立ち上がった老人が「先生たちは、石板の現物を見たことがあるのか」と、やや興奮気味に問いかけたのだ。かつて石板印刷に携わった経験のある技術者らしかった。「うちにも博物館や印刷会社の人が話を聞きにくるが、現場の人間を連れてこないから、話が通じやしない」と老人は怒りを露わにし、一瞬、会場の空気も緊張したかに感じた。

 彼の怒りは正しい。私はそう思った。「現場」にしか伝わらない技術や思想はたくさんある。大学に認められた「知」は、人間の営為のごく一部でしかない。

 かつては周縁テーマであった「ジェンダー」も「メディア」も、近年は、どうやらアカデミズムの中に位置を得ている。だが、「グラフィック・デザイン(ファイン・アート=美術=でないもの)」「広告/プロパガンダ」「印刷技術」などは、相変わらず、大学アカデミズムが研究対象とし、守り伝えていくものとは考えられていないのが現状である。

 このポスターコレクションには、植民地向けに製作されたため、非常に珍しい言語で書かれた作品を含む。しかし、そこは東京大学の底力で、「どんな少数言語でも、探していくと、解読できる研究者が見つかるのです」と吉見氏は述べていた。それはその通りであろう。また、理系と文系の融合が、実践レベルで進むのもいいことだと思う。しかし、それでもなお、今日の大学は大学だけではやっていけないのだと思う。伝統的なアカデミズムの境界を乗り越え、外部の「知」と出会うことの意義を深く感じたシンポジウムだった。

 ちなみに前出の山本隆太郎氏は、ちょっと調べてみたら1924年生まれ(82歳)、森啓さんと若桑みどりさんは1935年生まれである。一方には、若い学部生や院生も参加しており、拙いながら、自分の言葉で質疑に加わろうとしていた。世代差を越えた「知」の交流を感じることもできて、楽しかった。

 付記しておけば、こうした戦時プロパガンダポスターが新聞研究所に伝わった背景には、東京大学が日本の政治中枢に根深く食い入ってきた事実がある。そのことの意味と責任を問い直すとともに、今日、このアーカイブ公開にあたっての、アメリカが主導する暴力主義、日本の政治状況に対する「クリティカルな視点」を、司会の吉見俊哉氏が、最後まで確認していたことが印象的だった。
コメント

つくられた日本の貴族/華族(小田部雄次)

2006-06-24 23:43:02 | 読んだもの(書籍)
○小田部雄次『華族:近代日本貴族の虚像と実像』(中公新書) 中央公論新社 2006.3

 明治2年(1869)、「公卿諸侯之称廃せられ、改めて華族と称す可し」と定められたのが華族の始まりである。そして明治17年(1884)、公侯伯子男の五爵制を定めた華族令が決定された。

 実は本書も、先日読んだ『近代国家の出発』(中公文庫)の余波である。明治17年といえば、折りしも自由民権運動が最高潮に達していた(秩父事件、群馬事件、加波山(かばさん)事件などが起きる→これも前掲書で知ったもの)。一方、伊藤博文は、新政府の基盤を強固たらしめんと、組織づくりを着々と進めていく。そんな騒然とした世相も、リアリスト伊藤博文の思惑も、知ってか知らずか、明治国家の支配者たちは、「お手盛り」の爵位をもらって、大喜びしていたという。この皮肉な記述を読んで、そう言えば、最近、書店に並んでいた本書を思い出し、読んでみようと思った。

 華族と聞いて、私が素朴に思い浮かべるのは「むかし、殿様やお公家さんだった人々」である。しかし、よく考えてみれば、「殿様」と「お公家さん」が同列にいること自体、ヘンかもしれない。その上、あれ?三井家とか岩崎家は、どうして爵位を持っていたんだろう、とか。軍人の山県有朋、大山巌も華族だったし、旧幕臣の勝海舟も、とか、記憶をたどってみると、かなりさまざまな人々が、○○伯爵とか○○男爵と呼ばれているのである。

 「華族令」の選考内規では、諸侯と公卿を中心とし、「国家に勲功ある者」が加えられていた。藩閥間の勢力バランスに配慮しつつ、最終的に「勲功」を判断したのは伊藤博文である。長州の山県有朋や井上馨、薩摩の西郷従道や大山巌は、このとき、爵位を得た。最終案に近い文書では、伊藤本人の名前は欄外に記されており、逆に伊藤がひとりで全てを決めていたことが分かって面白い。

 このほか、神職、僧職、奈良華族(興福寺の住職26家)、琉球王家にも爵位が贈られた。明治20年には、反政府勢力への「懐柔策」として、民権派の板垣退助、大隈重信ら、旧幕臣の勝安芳(海舟)らに叙爵が行われる。日清・日露戦争以後は、軍人の叙爵者が増加。財閥を中心とした資産家も、日本の経済発展に関する寄与を「勲功」と認められて、華族の仲間入りをする。全く「物は言いよう」である。さらに日韓併合に伴い、朝鮮貴族が加わり、大正期以降は、軍人(意外と多くない)のほか、政治家・官僚、学界人が増えた。

 こんな調子なので、「華族」の内実は、さまざまな出自・職業・伝統的モラル・利害関係を持つ人々を抱え込んでいた。便宜上、同じ名前で括られてはいるが、ひとつの社会集団(階級)を成していたとは言い難い。むしろ、そこ(名前と実体の乖離)が近代日本の社会構造を表していると言えるかも知れない。

 私がおもしろいと思ったのは、現代の眼から見た明治・大正の偉人で「爵位を受けなかった人々」である。巻末付録の「華族一覧」を眺めてみたが、文学者は、ひとりも入っていない。「国家に勲功ある者」の範疇から、およそ真逆の位置の職業と考えられていたんだな~ということが分かる。福沢諭吉が入っていないのも、当然かも知れないけど、これだけ種々雑多な人々が叙爵を受けていたと分かると、あらためて感慨深い。教育家、学識者も非常に少ない。東大総長の数名と、田中芳男が入っているのは、むしろ文部官僚としての功を評価されたのだろう。このへんにも「明治国家」の性格がほの見えている。
コメント

鈴木大拙没後四十年/鎌倉国宝館

2006-06-21 22:53:55 | 行ったもの(美術館・見仏)
○鎌倉国宝館 鈴木大拙没後四十年記念展『円覚・東慶・松ヶ岡の至宝』

http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kokuhoukan/index.htm

 仏教学者・鈴木大拙(1870-1966)の没後40年を記念する展覧会。大拙の遺品と、ゆかりの深い、円覚寺、東慶寺、松ヶ岡文庫(東慶寺境内にある)の名宝が集められている。

 円覚寺所蔵の『五百羅漢図』(南宋~元時代)は、50枚セットのうちの1幅。岩場に腰かけて同じ方向を打ち眺める羅漢たちの頭上では、灰色の雲が渦巻き、龍を従え、太鼓を連ねた雷神が顔を出している。画面の色調は暗いが、どことなく晴れやかな構図で、楽しそうだ。

 大きな『跋陀婆羅尊者像』は、以前にも見た記憶がある。作者の宗淵は、雪舟から『破墨山水図』を贈られたことで知られる画僧。穏やかな作風の多い宗淵の作品の中にあって、本図は「アクが強い」と解説にあったけれど、そうかなあ。たくしあげた衣の襞を描く太い墨線は、ちょっと近世初期の美人画を思わせる。

 『初音蒔絵火取母(ひとりも)』は、東慶寺蒔絵(そんなものがあるとは初耳!)を代表する香炉だそうだ。黒地に金色の小鳥が浮き出している。「初音」というからウグイスなのだろうが、くちばしの細いカラスに見える。

 その隣は、久しぶりにお会いする、東慶寺の水月観音である。ご開帳日の限定された「秘仏」ではないが、あらかじめ予約を入れないと拝観できない「予約仏」である。10年くらい前に、仏友たちと拝観にうかがったのも懐かしい思い出だ。東慶寺のお座敷では、遠慮がちに遠目から拝見した。正面または左手から見ると、細面で幼い印象だが、近寄って見ると(特に右側面から)、体躯に厚みがあり、意外と妖艶な印象に変わることを発見した。さらに隣は、東慶寺の開山である覚山志道尼の坐像。ひな人形のような小さな像である。

 それから、鈴木大拙の書は、どれもいいと思った。にじみ具合もかすれ具合も、素直ですがすがしい。学者・政治家・高僧など、いろんな人の手跡を見たけど、近代人の書をこんなにいいと感じたのは初めてのことだ。本気で1枚、欲しい。
コメント

古文書いろいろ/金沢文庫

2006-06-20 22:56:38 | 行ったもの(美術館・見仏)
○神奈川県立金沢文庫 企画展『金沢文庫古文書への誘い』

http://www.planet.pref.kanagawa.jp/city/kanazawa.htm

 この金沢文庫では、仏像・絵画・工芸など、さまざまな文化財を扱っているが、こうした古文書の展示こそ、本来の面目をあらわすものだ。とは言え、無地の料紙に墨書ばかりで、しかも古筆のような美しさもないので、誰でも楽しめるとは言い難い。しかし、見慣れてくると、これはこれで、味わい深い世界である。

 金沢文庫の特徴は、残す意図のなかった文書が全体の8割以上を占めることだという。紙は貴重品だったから、オモテ面の案件を処理したあと、ウラ面は仏典の書写に再利用されることが多かった。中には「読んだら燃やしてくれ」と書いてあるのに、そのまま残ってしまったものもある。現代でもありそうな話だ。

 当時、「厚礼」の書状には5枚の料紙を用いた。(1)本紙、(2)裏紙には用件を書くが、(3)礼紙、(4)(5)立紙2枚は、差出人と受取人を記すだけだったから、たっぷり余白があった。そこで、高級料紙の場合は、ウラ面を使うだけでなく、うまく裁断して余白を活用したり、経典のブックカバーに用いたものもあった。

 なお、太寧寺の日光・月光菩薩立像が、おまけ(修理記念特別公開)で公開されている。小ぶり(身長45cmほど)だが、神経のゆきとどいた優品である。昨年、『祈りの美-奈良国立博物館の名宝-』で見た、大きな薬師如来と小さな十二神将たちを思い出す。いつか一緒に台上に並ぶことができるといいのだけど。
コメント

排除される人々/はじめての部落問題(角岡伸彦)

2006-06-19 22:55:19 | 読んだもの(書籍)
○角岡伸彦『はじめての部落問題』(文春新書) 文藝春秋 2005.11

 東京育ちの私は、部落問題というのを実感したことがない。たまに関西に遊びに行くと「差別はやめよう」みたいな標語が街に大きく貼り出してあって、ああ、そんな問題があったなあ、と思い出すくらいだ。

 ところが、先日読んだ『近代国家の出発』(中公文庫)の中に、八王子郊外にあった被差別部落の話が出てきた。部落民として生まれた山上卓樹(作太郎)は、キリスト教に入信して人間の自覚に達し、村に教会堂を建設した。その聖瑪利亜(サンタマリア)教会堂は、今も元八王子に残っているという。これは、ちょっとしたショックだった。

 というわけで、書店でこの本を見つけ、ふらふらと手に取って、読み始めてしまった。すると、北海道・東北および(なぜか)石川県を除く都道府県には、同和地区(これは官庁用語で被差別部落のこと)が存在するのだそうだ。そして、私が奇妙に感じたのは、「誰が部落民か?」という問いに対して、血縁よりも地縁で判断する、と答えた人が多かったことだ。つまり、部落(同和地区)に住んでいる者、部落で生まれた者、部落に本籍地を持つ者などは「部落民」と判断されるのである。

 これは、都市部以外では住民の定着性が高いこと、転出入する場合も、親戚がいるとか同じ職業集団がいるとか、何らかの同質性があって、行き先を選んでいること、同和地区は地価や物価が安く、貧困層が集まりやすいことなどを背景としているのだろう。

 2002年まで実施されていた同和対策関連事業では(一部の地域を除き)、元来の部落民と転入者とを区別せず、さまざまな「特典」が与えられていた。本書の著者は部落出身者であるが、失業保険を貰いに行ったら、通常は3ヶ月給付のところ、8ヶ月貰えることが分かり、しかも部落民であることの証明も求められなかったので、「こんないい加減でええんかいな」と思った体験を記している。

 地価や物価が安い上に、そんな優遇措置まであるのなら、私も同和地区に住居を移してみようかしら、と思わないでもなかった。しかし、今なお厳しい社会的差別も行われている。いちばん切実なのは、結婚と就職に関する差別である。差別をする側には、「部落民はどこかが我々と違っている」という思い込みがある。それが「どこ」なのかは、本人も分かっていない。しかし、部落民との結婚は、「血」を汚す行為であり、「家」を裏切ることである。「普通」の人のすることではない。

 馬鹿馬鹿しい。だが、論理的に論破できない思い込みだからこそ、払拭するのは困難なのだと思う。初めに「普通」でありたい願望があり、それゆえ「どこか違っている人々」が招来されるのだ。先だって読んだ速水敏彦さんの『他人を見下す若者たち』(講談社現代新書 2006.2)は、自分を「オンリーワン」と見なしたがる若者の悪弊を論じていた。「普通」でありたい、汚れた者・異質な者と指差されたくないという気持ちは、逆向きのようでいて、実は同じ根を持つ病理なのではないかと思う。

 就職問題については、究極の就職差別とも言うべき麻生太郎の発言を、いま一度思い出しておきたい。本書にも引用されている『野中広務:差別と権力』(講談社 2004.6)の1シーンは、読んだとき、衝撃的だった。

 なお、私は著者に倣って「部落」を使っているが、この言葉、マスコミではデリケートな扱いらしい。ただし「被差別部落」に言い換えればOKである(変なの)。余談だが、最近、台湾では「Blog」を「部落格」と表記する。本書の著者ならおもしろがって「部落民部落格」を始めてくれそうだが。
コメント (3)

進歩を疑う/おじさんはなぜ時代小説が好きか(関川夏央)

2006-06-18 19:13:36 | 読んだもの(書籍)
○関川夏央『おじさんはなぜ時代小説が好きか』(ことばのために) 岩波書店 2006.2

 山本周五郎、吉川英治、司馬遼太郎、藤沢周平、山田風太郎、長谷川伸、村上元三など、時代小説の代表的な作家と作品を取り上げて論じたもの。

 最も典型的な「時代小説」は、文化文政~天保年間に舞台を設定する。この時代こそ現代日本人のセンスのふるさとであるからだ。「時代小説」とは、過去に舞台を借りた現代小説である。現代人だって、義理と人情に縛られて生きている。忍ぶ恋や恩返しの美しさを知っている。しかし、現代文学(純文学)は「人間は不純である」とか「不純であって何が悪い」という現実認識の上に成り立っているので、ピュアな心情を真正面から扱うと、恥ずかしくて読めなくなってしまう。それゆえ、作者は過去に舞台を借りるのである。

 これは、現代文学(純文学)の大きな弱点をついた指摘ではないかと思った。もっとも、最近の純愛ブームや韓流ブームを見ていると、「ピュアな気持ちを、そのまま表に出すのは恥ずかしい」という近代人の自己規制は、かなりゆるんで来た感じがする。そこまで思い切れないおじさんたちは、「時代小説」という舞台を借りて初めて、リアリティをもったピュアな物語に慰藉を感じることができる。だから、時代小説の盛行と社会的ストレスの増加には相関関係があるという。これも面白い指摘だと思う

 著者は、多くの時代小説の「祖」に、森鴎外の歴史小説を置く。鴎外の歴史小説、特に史伝小説は、同時代には全く不人気だった。なぜなら、大正年間の時代精神は「進歩」と「社会改造」だったからである。それは、自分の都合のいいように過去を解釈し、それを他者に押し付けようとするセンスである。鴎外の歴史小説は、文学の主流としての純文学ではなく、大衆小説、時代小説の中に受け継がれた。その読者たちは、レトロやアナクロニズムで時代小説を愛したのではなく、「進歩」や「改造」を疑う気持ち、言い換えれば、過去から未来への連続性を信じる気持ちを、どこかに持っていたのだろう。

 ここまでは、非常に納得しながら読んだ。しかし、日本のような高民度の先進国で、時代小説が愛されてきたのは驚くべきことだ、という指摘は、どうなのだろう。著者は、日本はアジアの中でも特殊なのだ、という趣旨のことを何度か述べている。だけど、韓国や中国・台湾の、文芸事情はよく知らないが、最近の映画やTVドラマを見ている限りでは、日本人の時代小説好きと、十分共通する面があるのではないかしら。

 補足になるが、著者は、時代小説家たちの業績を多面的にすくい上げている。吉田満に『戦艦大和ノ最期』を書くように促したのが吉川英治であったこと、股旅物で人気を博した長谷川伸は、後年、『日本捕虜志』を自費出版し、電車で会った折口信夫(初対面だった)によく書いてくれたと感謝された話なども、興味深い。
コメント (1)   トラックバック (1)

中公・日本の歴史/近代国家の出発(色川大吉)

2006-06-17 11:25:13 | 読んだもの(書籍)
○色川大吉『近代国家の出発』(中公文庫) 中央公論新社 2006.5改版

 1965~67年に刊行された中央公論社の『日本の歴史』全26巻は、評価の高い通史である。姉妹編の『世界の歴史』シリーズは、何冊か、高校の図書室で借りて読んだ記憶がある。たぶん『日本の歴史』も隣に並んでいたのだろうが、私は日本史の授業を取らなかったので、覚えていない。その後、70年代に文庫版(写真製版による縮小版→読みにくそう!)も出ていたそうだが、このたび、本格的に版面を組み替えて、文庫版が刊行されることになり、いま、月に1冊ずつ刊行中である。

 読んでみると、やっぱり面白い。「近代史」の評価軸は、この数年、さまざまに揺れ動いたように思っていたけれど、それは政治や通俗ジャーナリズムにかかわる表面だけのことで、アカデミズムに根を下ろした名著というのは、30年や40年の歳月では、微塵も色褪せないものだということが分かる。

 本書は、「自由民権運動」に特徴づけられる明治10年代を集中的に扱う。ジャケット裏の短文解説が、内容要約の見本のようなできばえなので、そのまま書き写しておこう。――明治政府の本質は有司専制にあると見きわめたとき、士族民権家も、都市ジャーナリストも、豪農運動家も、自由の伸張・民権の拡大を求めて猛然たる闘いを開始し、政府は政権の安定と永続のための装置づくりに没頭する。帝国議会開設に至るこの白熱の歳月を民衆の基底部から描き出す。

 「アカデミズムに根を下ろした」とは言ったけれど、叙述スタイルは学術書の厳密さからは、かなり自由に逸脱している。本書の冒頭は「シベリアの曠野を二台の馬車がよこぎっていた。」の一文で始まる。ときは明治11年(1878)。馬車には、ペテルスブルグを出発し、帰国を急ぐ榎本武揚が乗っていた。幕臣として最後まで新政府軍に抗戦しながら、明治国家に仕える身となった榎本の思い。西郷、大久保は最早この世にない。書店で、このドラマチックな書き出しを立ち読みしてしまった私は、即座に本書は「買い」であると決めた。

 そして、あたかも首尾照応するように、本書の最後は、明治27年(1894)、征清軍を率いた陸軍大将山県有朋が、氷の張りはじめた鴨緑江を渡る場面で完結する。冒頭から結びまで、その間、わずか10数年というのに、この「白熱の歳月」の、なんという多事多端! 明治という時代は、まだ始まったばかりだ。明治人の代表のような、鴎外も漱石も、まだ登場さえしていない。

 著者が簡潔にまとめているように、「明治ノ青年」第一世代にあたる1850年代生まれの人々は、「天皇制がまだ確立せず、文明開化が進み、下からは民権運動が昂揚し、国民大衆の健康な活力がみなぎっていた」時代に生きた。その結果、彼らは終生楽天家であり、無限進歩の信奉者でさえあった。

 しかし、本書に扱われた明治10年代の後半から20年代、自由民権運動の挫折と、政治的価値観に対する懐疑の中で、青春時代を過ごした第二世代(1860~70年代生まれ)には、「根深い懐疑心や屈折した精神の陰影」が見てとれるという。なるほど。20年代以降、本格的に花開く「明治文学」を理解するには、その前史「政治の季節」明治10年代に何が起きたかを理解する必要があることを、あらためて感じた。

 印象的な場面は数々あったが、帝国憲法発布の式典(明治26年2月11日)の「茶番」ぶりを冷徹に描写した箇所は、特に興味深かった。いちばん嫌いな臣下に憲法を授けなければならない皇帝。最も頑健に立憲制に反対していた総理大臣(しかも妻殺しの容疑を持つ)。不貞の噂のある彼の後妻。まるで三島の戯曲みたいではないか! いい歴史家って、史料を「読む」ことに熟達している分、自ら「語る」ことにも巧者なのだと思う。
コメント (1)

黒のバッグ(いただきもの)

2006-06-15 23:39:49 | なごみ写真帖
あるとき、自分が「ハンドバッグ」と呼べるものを1つも持っていないことに気づいた。ブランド物どころか、ビニール製の安物さえも。堅気の社会人生活を続けて20年余りになるというのに、なんということか。

いちばん困るのは、冠婚葬祭の「葬」のときだが、急場をしのぐと、けろりと忘れてしまう。
30代の後半から、そんなことの繰り返しである。

さて、かつての上司で、今でもバレンタインデーのチョコレートだけは付け届けをしている相手がいる。むかしは、いろいろなお返しを貰ったが、最近はギフトカタログを送ってくれるようになった。

ホワイトデーからはるかに日が過ぎて、パラパラめくっていたら、黒のバッグが目についた。これだ!と思って申し込んだものが、最近、届いた。ジュンコ・コシノのフォーマル・バッグである。

やれやれ。これ1つあれば、まずは墓場まで安心。

コメント