見もの・読みもの日記

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中公・日本の歴史/近代国家の出発(色川大吉)

2006-06-17 11:25:13 | 読んだもの(書籍)
○色川大吉『近代国家の出発』(中公文庫) 中央公論新社 2006.5改版

 1965~67年に刊行された中央公論社の『日本の歴史』全26巻は、評価の高い通史である。姉妹編の『世界の歴史』シリーズは、何冊か、高校の図書室で借りて読んだ記憶がある。たぶん『日本の歴史』も隣に並んでいたのだろうが、私は日本史の授業を取らなかったので、覚えていない。その後、70年代に文庫版(写真製版による縮小版→読みにくそう!)も出ていたそうだが、このたび、本格的に版面を組み替えて、文庫版が刊行されることになり、いま、月に1冊ずつ刊行中である。

 読んでみると、やっぱり面白い。「近代史」の評価軸は、この数年、さまざまに揺れ動いたように思っていたけれど、それは政治や通俗ジャーナリズムにかかわる表面だけのことで、アカデミズムに根を下ろした名著というのは、30年や40年の歳月では、微塵も色褪せないものだということが分かる。

 本書は、「自由民権運動」に特徴づけられる明治10年代を集中的に扱う。ジャケット裏の短文解説が、内容要約の見本のようなできばえなので、そのまま書き写しておこう。――明治政府の本質は有司専制にあると見きわめたとき、士族民権家も、都市ジャーナリストも、豪農運動家も、自由の伸張・民権の拡大を求めて猛然たる闘いを開始し、政府は政権の安定と永続のための装置づくりに没頭する。帝国議会開設に至るこの白熱の歳月を民衆の基底部から描き出す。

 「アカデミズムに根を下ろした」とは言ったけれど、叙述スタイルは学術書の厳密さからは、かなり自由に逸脱している。本書の冒頭は「シベリアの曠野を二台の馬車がよこぎっていた。」の一文で始まる。ときは明治11年(1878)。馬車には、ペテルスブルグを出発し、帰国を急ぐ榎本武揚が乗っていた。幕臣として最後まで新政府軍に抗戦しながら、明治国家に仕える身となった榎本の思い。西郷、大久保は最早この世にない。書店で、このドラマチックな書き出しを立ち読みしてしまった私は、即座に本書は「買い」であると決めた。

 そして、あたかも首尾照応するように、本書の最後は、明治27年(1894)、征清軍を率いた陸軍大将山県有朋が、氷の張りはじめた鴨緑江を渡る場面で完結する。冒頭から結びまで、その間、わずか10数年というのに、この「白熱の歳月」の、なんという多事多端! 明治という時代は、まだ始まったばかりだ。明治人の代表のような、鴎外も漱石も、まだ登場さえしていない。

 著者が簡潔にまとめているように、「明治ノ青年」第一世代にあたる1850年代生まれの人々は、「天皇制がまだ確立せず、文明開化が進み、下からは民権運動が昂揚し、国民大衆の健康な活力がみなぎっていた」時代に生きた。その結果、彼らは終生楽天家であり、無限進歩の信奉者でさえあった。

 しかし、本書に扱われた明治10年代の後半から20年代、自由民権運動の挫折と、政治的価値観に対する懐疑の中で、青春時代を過ごした第二世代(1860~70年代生まれ)には、「根深い懐疑心や屈折した精神の陰影」が見てとれるという。なるほど。20年代以降、本格的に花開く「明治文学」を理解するには、その前史「政治の季節」明治10年代に何が起きたかを理解する必要があることを、あらためて感じた。

 印象的な場面は数々あったが、帝国憲法発布の式典(明治26年2月11日)の「茶番」ぶりを冷徹に描写した箇所は、特に興味深かった。いちばん嫌いな臣下に憲法を授けなければならない皇帝。最も頑健に立憲制に反対していた総理大臣(しかも妻殺しの容疑を持つ)。不貞の噂のある彼の後妻。まるで三島の戯曲みたいではないか! いい歴史家って、史料を「読む」ことに熟達している分、自ら「語る」ことにも巧者なのだと思う。
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