見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

見どころ多彩/大出雲展(京博)

2012-07-30 23:17:40 | 行ったもの(美術館・見仏)
京都国立博物館 古事記1300年 出雲大社大遷宮 特別展覧会『大出雲展』(2012年7月28日~9月9日)

 会場に入って、思ったよりも混んでいるな、という感じがした。日曜日の午後、屋外が異常に暑かったから? いや、やっぱり「古事記」とか「神話」って、老若男女問わず、ストレートにアピールするのかな。会場に入る前に、水面から首をもたげるヤマタノオロチを斬り鎮めるスサノオの図を描いた巨大な「こしらえもの」(パネル?バナー?)があって、カッコよくて、しばし見とれた。会場に入れば元ネタがあるのかな?と思っていたが、なかったような気がする。いま画像検索して、月岡芳年の『日本略史 素戔嗚尊』らしいと分かったので書いておく。

 それにしても、冒頭に原田直次郎の『素盞嗚尊八岐大蛇退治画稿』って、クセ球すぎるだろう、と思った。原田直次郎といえば『騎龍観音』の作者、そして森鴎外の友人でもある。この作品は、キャンパスを破って(?)顔を出す犬。解説ボードに「(発表時は)評価が分かれた」みたいなことが、しれっと書かれていて、そうだろうなあ、と可笑しかった。次は直球で、大須観音宝生院所蔵の『古事記』最古の写本(国宝)。いわゆる「真福寺本古事記」であるが、博物館や美術館が、こうした写本にキャプションをつける場合、文学や歴史研究で使う「○○本」という慣習的な呼び名を用いないのは何故なんだろう。

 第1室は、由緒正しい貴重な写本と江戸・明治の絵画が雑多に置かれていて、ややカオス。楊州周延のスサノオ図の解説だったか、日本神話の神々を古代豪族の装束で描くようになったのは、明治以降であるという説明があって、納得した。

 続いて、埴輪。ほとんどが島根県からの出陳。楽しかった。ポスターにもなっている「見返り鹿」は、めちゃくちゃ可愛い。ポスターだと(腹の欠損部分を隠すためか)立体感が分からない構図になっているのが残念。私の埴輪概念をくつがえすような、大きな力士埴輪(素朴な兵馬俑みたいだった)にも目を見張った。

 勾玉は緑色が一般的で、赤色(瑪瑙)は首長権のしるしと解説されていた。そういえば、ドラマ「テンペスト」の「馬天ノロの勾玉」は赤色だったな。勾玉ではないけど『契丹』展の高貴な埋葬者も、大きな赤瑪瑙を首飾りにしていたのが印象的だった。それから、銅鐸、銅矛、銅剣。日本古代史の必須アイテムが、ひととおり揃う。途中に、出雲大社の復元模型あり(写真撮影可)。凄すぎて冗談にしか思えないが、鎌倉時代の宇豆柱(うずばしら)の遺物や江戸時代の勝男木を目のあたりにすると、笑い事ではない迫力に圧倒される。

 さて、このあと、何があるんだろう?と思っていたら「出雲の神と仏」のセクション。これは、思いのほか、よかった。島根県の仏像なんて、ほとんど見にいったことがないものなあ…。こんな機会に拝観できるのはまことにありがたい。仏谷寺の観音菩薩立像は、腰高で堂々とした体躯の厚み、霊威を感じさせる真剣な表情が、平安時代(10世紀)の古仏らしくて、私好み。横田八幡宮の騎馬神像も愛らしかった。東京に来てくれたら、また見に行くのだが、どうかしら。

 最後は出雲大社に伝えられた神宝類で、狩野安成筆『舞楽図屏風』が楽しい。実は私、出雲大社には行ったことがないのである。古事記編纂1300年の今年、そして約60年ぶりで出雲大社大遷宮が行われる平成25年は、またとない好機かもしれない。「神話博しまね」もやっているみたいだし、行ってみるか。
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週末関西旅行など備忘録

2012-07-30 00:31:09 | なごみ写真帖
興福寺東金堂の外壁の習字。以前にも一度写真に撮ったんだけど、「奉納 平成24年4月25日」に更新されていたので。実際は二面ある。確証はないけど「解脱名不可思議」で調べたら「維摩経」の一部らしい…そういえば、この堂内には維摩居士像がある。



関西旅行で見てきたものと、東京で見て、まだ書いていないものを心覚えに列挙。

・東博の平常展(森鴎外、美術解剖学、琉球の工芸など)
・東京近代美術館『吉川霊華展』
・奈良博『頼朝と重源』、名品展
・大阪市美『橋本コレクション中国書画』、中国彫刻
・京博『大出雲展』

さて、次の週末までに全部書けるだろうか。
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大阪で文楽を見る/夏休み文楽特別公演・曽根崎心中ほか

2012-07-29 01:28:30 | 行ったもの2(講演・公演)
国立文楽劇場 夏休み文楽特別公演(2012年7月28日)

 また週末をやりくりして、ショートステイで関西に来ている。もちろん博物館・美術館にも寄っていくつもりだが、今回、最大の目的は、大阪で文楽を見ること。私は学生時代から、もはや30年にわたる文楽ファンなので、このところ、大阪市の文楽協会への補助金凍結問題を見ていると、腹が立つやら情けないやら、開いた口がふさがらない気持ちだった。とりあえず応援がてら、大阪の文楽公演がどんな状況なのか、自分の目で確かめてこようと思った。

 東京人の私が、文楽を見るために通い続けてきたのは(東京の)国立劇場である。大阪の文楽劇場には、むかし一度だけ、声明だか雅楽だかを見るために遠征した記憶があるが、文楽公演を見に行くのは初めてのことだ。第1部・親子劇場の新作「西遊記(さいゆうき)」には、かなり心引かれたのだが、第2部・名作劇場の「摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)」「伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)」「契情倭荘子(けいせいやまとぞうし)」と、第3部・サマーレイトショー「曽根崎心中(そねざきしんじゅう)」にとどめた。それでも、こんな盛りだくさんな演目を一日で鑑賞するのは、ずいぶん久しぶりのことだ。

 「摂州合邦辻」は、私の大好きな作品。合邦庵室の段のみの上演だが、ちゃんとストーリーが分かるように組み立てられているのがすごいと思う。記録を探したら、2006年2月に国立劇場で見たときは、竹本住大夫+野澤錦糸の切だったようだ。住大夫さんの舞台が聴けたのは、これが最後くらいじゃないかしら。今日は、松香大夫-咲大夫-嶋大夫のリレー。嶋大夫さんは、2009年5月の『ひらかな盛衰記』以来かな。恐るべきパワーと技量である。文楽を老いぼれの世迷い言みたいに思っている若者は、まあ一度、嶋大夫さんの芸を見てみてほしい。それでもって、玉手御前という、貞女のタテマエに隠された、恋する女の「毒」に戦慄してほしい。それから、合邦夫妻と娘・玉手御前の親子愛が身に沁みた。両親の老いを感じる年齢になったからかもしれない。

 「伊勢音頭恋寝刃」は、古市油屋の段(切)を竹本住大夫+野澤錦糸がつとめる予定で、私はすごく楽しみにしていたのだ。何しろ東京公演では、住大夫さんの出るプログラムは、あっという間に売り切れて、この数年、チケットを取れたためしがないのである。そうしたら、直前に病気休演が決まって、竹本文字久大夫さんが代演することになった。文字久大夫さんは美声だが、ちょっと物足りない感じがする。ごめんなさい。まあでも、これもヘンな演目だ。とってつけたように忠義を理由にしているけど、要するに、ばさばさと人を斬り殺すこと自体に様式美と快感を感じているフシがあって。

 「曽根崎心中」は、やっぱり何度見ても名作だと思う。話の筋がコンパクトにまとまっているところが、現代人向き。今回、わりと後方の席から舞台の全景を見ていたのだが、どの場面も色彩がとても美しかった。お初の蓑助さんも徳兵衛の勘十郎さんもさすがだ。何よりこの道行は、文章を前にしただけで泣いてしまうのである、私。客席のあちこちからも啜り泣きが漏れて、終演後、ハンカチで涙を拭いている浴衣姿の若いお嬢さんもいた。

 第2部・第3部ともほぼ満席。この客の入り、この反応で、どこに文句があるのだろう、と思った。東京の文楽ファンは、年齢を問わず「文化」「教養」志向を感じさせるのに対し、大阪は家族連れが多くて庶民的、という客層の違いは、なんとなく感じた。でも、それはそれとして、気になったのは、文楽劇場の「居心地」が今ひとつなこと。東京の国立劇場に比べて、座席の間が狭くて窮屈。さらに客席に高低差がないので、舞台が見にくい。それと、第3部が始まる前に、2階ロビー売店のお弁当が全て売り切れていた(1階レストランは営業)。まあ、東京の国立劇場と違って、外に出ればすぐ軽食屋とかあるんだけどさ…。もうちょっと、劇場内のサービスを改善する余地はあるんじゃないかしら。

 1回だけの印象では分からないこともあると思うので、また来てみようと思う。大阪の文楽公演のほうが、東京よりチケットを取りやすいことが分かったのは、補助金凍結問題の思わぬ余得であった。ええと、ちなみに前々日に大阪市長が「曽根崎心中」を見に来て、いろんな感想をマスコミ相手に喋っているらしいが、あまりにも馬鹿馬鹿しいので、ここに書き留めることもしない。あんな子供でも言わないような感想を報道されることに、本人はほんとに納得してるのだろうか? なんだかもう、この件にかかわっている誰も彼も、可哀相になってきた。
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エミシ・契丹・琉球・竹島/境界をまたぐ人びと(村井章介)

2012-07-26 23:52:27 | 読んだもの(書籍)
○村井章介『境界をまたぐ人びと』(日本史リブレット28) 山川出版社 2006.5

 芸大美術館『草原の王朝 契丹』の記念講演会を聴きに行ったら、講師の市元塁さんが「契丹に触れる本」として紹介してくれた本の1冊。展覧会を見て、最後に2階のミュージアムショップに寄ったら、ちゃんと関連書籍が置いてあったので、忘れないうちにと思い、すぐ購入した。

 短いまえがきのあと、日本列島をとりまく、さまざまな「境界」に関する5つの各論が、おおよそ年代順に収められている。

 最初に提示される興味深い観点は、前近代の国境が「線」ではなく、ある程度の広がりを持つ「空間」であったこと。だから「境界をまたぐ」という表現は不正確で、前近代には、境界そのものを生存・活動の場とする生き方があったのだ。このことは、以下の各論で、順次確認されていく。

 (1)エミシからエゾへ:7~9世紀、ヤマト国家の北方経略が生んだエミシとの緊張関係。政治的境界はゆるゆると北へ押し広げられていくが、その背後には民族雑居の状態が広範に広がっていた。10世紀以降、「蝦夷」の読み方がエミシからエゾに変化する。奥州藤原氏は、北方の海洋民との交易で築いた富で繁栄を謳歌したこと(金だけじゃないのか)、12世紀半ばから中央の貴族や僧侶が詠む和歌に、エゾを題材とする作品が「突然あらわれる」というのも面白い指摘だと思った。いろいろと、激動の時代だったんだなあ。

 (2)環日本海の「唐人」-日本と契丹の媒介者:これが本題。1060年から約60年の間に、越前から但馬にかけての日本海岸に来着・居留する「唐人」が集中的に現れる。これは、当時、契丹に属していたロシア沿海地方から錫(白臈)をもたらした唐人、あるいは契丹人も混じっていたのではないか、と著者は推測する。博多なんかに比べたら、ずいぶん京に近いところに「居留」してたんだな、と驚く。

 1092年、大宰権帥藤原伊房が商人僧と宋商と共謀し、契丹(遼)と私貿易を行い、処断された記録があるという。堀河天皇の、というより、白河法皇の御代である。頭注に小さく、白河院-範俊(僧)-明範(僧)という人脈で契丹の密教の導入が試みられた、という仮説が紹介されていて、へえ~思わぬ話が思わぬところにつながるものだな、と驚く。ちなみに伊房は能筆家としても有名。あと、この章段に紹介されている今昔物語の「猫ノ嶋」の唐人伝説は、むかし読んで、ちょっと怖かった記憶がある。

 (3)多民族空間と境界人:平安末期から鎌倉初期、博多を拠点に、いよいよ本格的に活動する境界人たち。寧波の天一閣博物館には、博多に住む三人の中国人が銭10貫文ずつを寄付し、寧波の某寺の参道に立てた「刻石」が収められているらしい。え~天一閣博物館、行ったはずなのだが、これは見たかしら?! 写真の拓本には「日本國太宰府博多津居住」「日本國太宰府居住」の文字が誇らしげに躍っている。

 また、歌人として有名な源俊頼の父親が大宰権帥として赴任中に亡くなり、俊頼が博多に下向して葬儀を営んでいると、唐人たちが弔問に訪れた、というのも興味深く読んだ。ううむ、この時代の資料はけっこう読んでいるつもりでも、知らないことが多いなあ。この章では、さらに室町時代に下り、対馬、朝鮮、琉球へと活躍の舞台を広げる境界人たちの姿を追う。

 (4)俊寛物語を読む:「キカイガシマ」と称された南方の境界領域について。その住人は、普通の人間とは異なるが、完全な異界でもない。平家物語をよく読むと、鬼界が嶋の流人へは、平教盛が所有する肥前の鹿瀬荘という荘園から物資を送ることができた。鬼界が嶋の先には琉球があり、さらに中国や東南アジアに通じる交易ルートがあったことがわかる。

 (5)元禄時代の「竹島問題」:1667年に出雲藩士斎藤豊宣が著わした文書の解釈をめぐって、日韓の一部の学者の解釈は対立している。しかし、著者の立場からすれば「前近代にさかのぼれば、国家と国家のあいだには、島をも含めて、誰のものでもない空間が広がっていたことはいうまでもない」のだ。

 誰のものでもない空間、そこに生きる人たちの活力を、もう一度、取り戻すことができたら。ああ、今年の大河ドラマが描こうとして描き切れていないテーマも、本当はそのへんなんじゃないか、と唐突に思った。別に日本に比べて宋国がすばらしいと言いたいわけではなくて。

 でも、私は、ふだん安定した組織の一員として生活しているからこそ「ボーダーレス」に憧れるけど、そもそも安定した雇用を手に入れることができず、生活基盤も帰属先も不安定な若者は、せめて「国家」くらい明確な輪郭を持ってほしいと願うのかもしれない。
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磁器の美しさ/草原の王朝 契丹(芸大美術館)

2012-07-25 23:56:03 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京芸術大学大学美術館 日中国交正常化40周年記念特別展 『草原の王朝 契丹-美しき3人のプリンセス-』(2012年7月12日~9月17日)

 記念講演会の記事に続いて、芸大展の様子についても書いておこう。入口にあったのが、九博展でも印象的だった男女一対の『侍者像』で懐かしかった。九博「ぶろぐるぽ」にエントリーしてダウンロードした写真を当時の記事に使わせてもらっている。

 鍍金の冠やブーツ、金製の仮面など(いずれも副葬品)、精巧な装飾工芸品を前にすると、九博展のワクワク感が戻ってきた。こんな凄い考古文物を日本で見ることができていいのだろうか…。個人的には、故宮博物院展より、さらに貴重な文物を実見することのできる、得がたい機会だと思っている。

 記憶によれば、九博展は「3人のプリンセス」という切り口を大事にして、場内の説明にもイラストやアイコンを多用したり、プリンセスどうしのお喋り形式で解説を書いてみたり、工夫を凝らしていたように思う。それが、ちょっとウルサい感じもあった。九博って、よくも悪くも大宰府観光のついでに寄ったみたいなお客さんの多いところだから、展示に関心を引き付けるには、いろいろ工夫が必要なんだろうな、と思う。

 それに比べると、芸大展の会場の作りはオーソドックスで、3人のプリンセスの面影は後景に退いている。講演会の直後ということもあってか、こういう考古文物が本当に好きな人たちだけが来ている雰囲気で、ゆっくり落ち着いて見ることができた。

 本展覧会の見もの、トルキ山古墓の彩色木棺は、展示ケースと一緒に巡回しているんだろうか? なんとなく印象として、芸大展のほうが「見やすい」と感じたのである。まわりが静かで人が少なかったために、そう感じたのかもしれない。

 九博→芸大に巡回と聞いたときは、かなり規模を縮小するのではないかと思ったが、途中の説明パネルコーナーなどを省いただけで、展示文物は減らしていないようだ。芸大美術館、よく頑張っている。

 契丹の工芸品に表された動物たち、龍、鳳凰、マカラなどの溌剌とした躍動感は、何度見ても感動的だが、今回、私が再発見したのは、第二会場(地階)の冒頭に並んだ契丹磁器の美しさ。三彩(遼三彩)もあるけど、黒釉、黄釉、緑釉など単彩のものがいい。色も形もシンプルで、北欧ブランドの台所用品みたいな、堂々とした存在感がある。契丹って、いまの北欧諸国みたいな、大人の文化国家だったんじゃないかと直感的に感じた。
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講演・契丹!草原王朝はこんなに凄かった(芸大美術館)

2012-07-23 23:57:57 | 行ったもの2(講演・公演)
○東京芸術大学大学美術館 講演会『契丹! 草原王朝はこんなに凄かった』(講師:市元塁、7月21日14:00~)

 同館で始まったばかりの『草原の王朝 契丹-美しき3人のプリンセス-』(2012年7月12日~9月17日)の見どころを紹介する記念講演会。私は、2011年秋に、この展覧会が見たくて九州国立博物館まで行ってきた。九博が開館以来、6年かけて準備してきたというだけあって、熟成した「愛情」の感じられる、気持ちのよい展覧会だった。この日は、九博研究員の市元さんの講演が聞きたくて出かけた。

 開始時間にちょっと遅れて会場に入ったら、いきなり「広開土王碑碑文では…」という講師の声が聞こえて、えっと耳を疑った。永楽5年(395)条にある「稗麗」は契丹のことだと話している。そんなに早い記録が残っているとは…。

 一般に「契丹」という名称が歴史に登場するのは、907年あるいは916年の耶律阿保機による建国(二説あり、講師は前者を採る由)以降。「遼」と「契丹」という二つの国号があるが、考古資料の出現頻度や、契丹文字に「契丹」があっても「遼」に相当する文字がないことから、契丹人たちは「契丹」を自称していたと考えられる。

 契丹建国の907年といえば、日本は延喜の帝(醍醐天皇)の御代。契丹滅亡の1125年は、おお、崇徳天皇の即位の年だ。従来、日本と契丹には交流がなかったと考えられてきたが、宋や高麗を経由して契丹の情報が入っていたのではないかと、近年、特に仏教史では考えられているそうだ。面白い。「蓮如上人縁起」や「将門記」にも「契丹」や「大契丹王」の表記が見られ、高麗末から朝鮮で読まれた中国語会話読本『老乞大』の「乞大」も「契丹」に由来するという。

 続いて、スライドを見ながら、展覧会の出品文物と三人のプリンセスについて紹介。契丹文化は、独特の埋葬風俗など北方民族的要素を有する一面、唐の王朝文化を色濃く継承していること。契丹も唐も鮮卑族系なのだから、継承は自然な流れであること。唐の繊細・華麗な美術工芸に比べて、契丹は野暮ったいと考えられがちだが、先入観を捨てて、描かれた龍や獅子の溌剌とした姿態に目を向けてほしいこと、などが熱っぽく語られた。

 講師が「唐の工芸の獅子がプジョーの獅子であるなら」とおっしゃったので、契丹は何に譬えるんだろう、と思ったら「契丹の獅子はジャングル大帝の…」言われたのが唐突で、ちょっと噴いてしまった。車に乗らない私は「プジョーの獅子」がイメージできなかったのだけど、さっき画像を見て、再び…笑った。

 同時代に西夏という国があり、西夏が宋にくっついている間は、西アジアの文物(ガラス製品など)が宋に流れ込み、西夏が宋を離れて契丹に接近すると、契丹に西方の文物が流れ込む、という話も興味深かった。西夏って、そういう役割を負った国家なのか。

 契丹の仏教文化について、日本も契丹も1052年=末法の始まりという認識を共有していたという。今日以上に、宗教って国境を超えるものだったんだな。でも唐や高麗ではどうだったんだろう。仏教(浄土教)文化圏でも末法意識には濃淡がありそうな気がする。

 それから、日本では江戸時代以降、朱子学の浸透などにより、北宋が重視されるようになると、契丹の地位は相対的に低下した、という解説も面白いと思った。

 最後に「契丹に触れる本」ブックリストの紹介。これは、とってもよい企画! 「王道編」からは村井章介さんの『境界をまたぐ人びと』を脳内リスト入り。「ワクワク編」に北方謙三さんの『楊家将』。そうだよねー。ほかにもこの時代を舞台にした日本人の小説があることを初めて知った。あと「ゾクゾク編」のホラーサスペンス『キタイ』は…ちょっと苦手だ。
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最終話に刮目せよ/明治断頭台(山田風太郎)

2012-07-22 23:05:12 | 読んだもの(書籍)
○山田風太郎『明治断頭台』(角川文庫:山田風太郎ベストコレクション) 2012.6

 伝奇時代小説の名手・山田風太郎に、幕末・明治を舞台とした本格ミステリーのシリーズがあることは、むかしから、なんとなく知っていた。若い頃の私は、日本史の知識も関心も乏しくて、敢えて読んでみようという気にならなかったのだが、今回、たまたま書店で本書を見て、あまりにもあり得ない設定(※という判断くらいは、できるようになった)に、読んでみたくなった。

 時は明治2年秋。著者に言わせると「空白の時代」である。大革命がひとまず終わって、敗者はもとより勝者も、何から手をつければいいのか昏迷におちいり、新しい法令・思想・風俗が洪水のように流れ込むと同時に、旧時代よりさらに古怪なものが亡霊のように復活していた…。

 主人公・香月経四郎(かづき けいしろう)は、フランス帰りの弾正台大巡察。「旧幕の頃でいえば同心にあたる」という作中の説明が分かりやすい。時代錯誤な水干姿で、市中を闊歩している。佐賀藩邸の長屋住まいの彼のもとには、エスメラルダという金髪のフランス人美女が、恋人気取りで身を寄せている。彼女は、パリの死刑執行人サンソン一家の末裔で、経四郎が日本に断頭台を輸入するにあたり、ついてきたのだという。

 香月のリヴァル(ライバル)、弾正台の同僚として登場するのが、薩摩人の川路利良(かわじ としよし)。のちに「日本警察の父」とうたわれる実在人物だ。

 明治初年の東京で、次々に起きる陰惨な難事件を、正義感に燃える大巡察の経四郎と川路が解決する。ただし、その種明かしが一風変わっていて、巫女姿のエスメラルダが口寄せで死者の霊を呼び出し、カタコトの日本語で、真相を語らせる趣向。まあ合理的に解釈したければ、あらかじめ経四郎がフランス語で彼女と打ち合わせ、彼の推理を語らせていると考えて差し支えない。

 本書には8話の短編が収められている。いずれも、トリック自体はそれほど珍しいものでないと思うが、新旧入り混じった風俗や文物の用い方に、この時代ならではの「趣向」が感じられる。人力車とか蒸気船とか双眼鏡とか…。一方で、旧幕時代の恩讐やら社会変化やら何やらを反映した複雑な人間関係も、事件の背景や直接の引き金になっている。

 また、物語世界を行き交う歴史上の有名人たち(あるいは後の有名人たち)も読みどころ。第1話に登場する福沢諭吉は、実にそれらしく活写されていて、笑ってしまった。あるいは「はせがわ たつのすけ」と聞いて、瞬時に二葉亭四迷だ!と脳内変換して、にやりとする楽しみもある。そもそも主人公の香月経四郎からして、実在人物の香月経五郎(佐賀の乱の首謀者の一人)の兄という設定だし、エスメラルダの荒唐無稽な設定も、いちおう事実らしきものを背負っている。

 しかし、何と言っても本書を「傑作」にしているのは、最終話に待っているドンデン返しである。これはネタバレになるので詳しく言えないが、空白と昏迷の時代を生きた人々の切ない夢と熱情が、あり得ないけどあり得たかもしれないラストシーンに昇華している。最終話がなかったら、単に明治の風俗を巧みに採り入れたミステリーだけで終わっていただろう。

 初出は、雑誌「オール読物」に1978~79年に連載。79年に単行本化され、文春文庫、ちくま文庫を経て、三度目の文庫化。読みつがれるだけの魅力ある作品である証だと思う。
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プロデューサー新井白石/音楽公演・朝鮮通信使(紀尾井ホール)

2012-07-21 23:25:06 | 行ったもの2(講演・公演)
紀尾井ホール(小ホール)『紀尾井 江戸 邦楽の風景(六)朝鮮通信使』(PDF)(7月19日、18:30~)

 たまたま、本公演の関係者からチラシをいただいて、こういうシリーズ公演が行われていることを初めて知った。「江戸 邦楽の風景」は2010年春から始まった企画で、絵画、風俗、演劇などと、ジャンル横断的な音楽の楽しみ方を提唱するものらしい。今回は、正徳元年(1711)徳川家宣が第6代将軍になったお祝いに訪れた朝鮮通信使を取り上げる。

 使節一行は1711年5月12日に漢城(ソウル)を出発し、釜山で船に乗り込み、対馬や牛窓など、多くの地域に立ち寄りつつ、大阪に到着。大阪から日本の川船に乗り換え、京都へ。京都から陸路で、江戸に到着。10月18日には宿舎の浅草東本願寺に入り、11月1日に国書を将軍に手渡し、11月3日、使節をもてなす儀礼がおこなわれた。使節の人数は約500人、うち51人が音楽隊だったという。朝鮮は儒学の礼楽思想を尊んだので、国王の出御にはもちろん、国王の使節団にも奏楽が伴わなければならないと考えていた。朝鮮通信使の音楽は、当時の日本人を魅了し、その痕跡は各地の祭礼などに残っている。

 一方、日本側で、このときの通信使の接待を担当したのは新井白石(1657-1725)で、白石は使節をもてなす音楽を能楽から雅楽に改めた。へえ~初耳。いま、私は、当日の解説で聞いた話を、もう一度、20ページほどの無料小冊子で確かめながら書いている。

 ちなみに、この日の第一部は、日韓の音楽学の専門家である徳丸吉彦氏と黄俊淵(ファン・ジュンヨン)氏が、舞台上で、スライドを映しながら、対談形式で、以上のような正徳元年・朝鮮通信使の背景について紹介。ただし「対談」といっても、話す内容については、かなり綿密な打合せができていて、アドリブは少ないように思った。通訳は、日本音楽の研究家である李知宣(イ・ジソン)氏(女性)がつとめた。

 第二部は、徳丸吉彦先生の解説で進行。韓国国立釜山国楽院のメンバーが演奏する最初の曲「大吹打」は、「吹鼓手」と呼ばれる楽隊が、行進の際に演奏するもの。楽隊はホール後方の扉から入ってきて、ゆっくり客席を通り過ぎ、舞台にあがった。短い籐の鞭(?)をもった指揮官は「音楽はじめ」を宣告することが仕事で、演奏には関わらない。打楽器の龍鼓(袖先に撥を蓋うカバーのようなものをつける)、ダブル・リードで旋律を奏でることのできる太平蕭、長い喇叭、螺角(法螺貝)が続く。視角的には喇叭が目立つが、大音量を出しているのは太平蕭で、喇叭はひとつの音高しか出せないというのが、ちょっと意外。さらにシンバルのような啫哱囉(ジャバラ)、鉦(チン、銅鑼、銅鼓)が続く。黄色い服と黄色い帽子、青い帯をしめて、帯の端は長く垂らす。帽子の頭頂の左右には孔雀の羽根飾り。

 続いて、静かな室内楽を担当する「細楽手」の登場。「本当は全く別組織なのですが、この公演では同じメンバーが衣装替えをして出てきます」と徳丸先生が説明。赤い服、黒い冠、胸に中国の官服でいう補子(ほし)を付けていて、さっきの「吹鼓手」より、ちょっと格上な感じがする。演奏の開始を告げるのはササラ。曲は「吹打」。横笛の大笒(テグム)・小笒(ソグム)、ダブル・リードのビリ、二弦の胡弓が旋律を担当。杖鼓、座鼓がリズム楽器。次も「細楽手」の演奏で、4人の女性の舞人が登場し、「剣舞」を舞った。これは美しいが、人でないような妖しい動きで、ちょっと怖かった。

 休憩を挟んで、舞台転換。伶楽舎の皆さんが登場して、日本の雅楽「陵王」を舞う。あ~私はこの曲(舞)、雅楽の中ではいちばん好きなのだ。この間、舞楽公演『蘇合香(そこう)』では不覚にも眠くなったが、これは面白くて目が覚める。仮面と衣装の美しさにも見とれた。これは、新井白石が通信使をもてなすために選んだ曲目のひとつで「北斉の音楽が遣唐使を通じて日本に伝えられた」みたいな伝承を、得々と筆談で通信使正史の趙泰億に語ったらしい(記録が残っている)。

 続いて「納曾利(なそり)」。わりと最近聴いたようなような気がする、と思ったら、今年の3月『蘇合香』公演の際に見たのか。今回は、釜山国楽院のメンバーが韓国古楽の楽器を用いて演奏し、伶楽舎の舞人が舞う、という変則バージョン。はじめ、やっぱり曲調に違和感があって、よくこれで舞えるなあ、と思ったが、だんだん聴いているうちに気にならなくなった。「納曾利」は、いわゆる高麗楽に属するので、白石は例によってそのことを筆談で伝え、楽人・狛(こま)氏についても説明したらしいが、嫌な顔されなかったのかなあ、ケモノへんの文字なんか持ち出して…。でも、こういう無意識の嫌なヤツって、面白くて気になる。

 連れの友人(日本史に詳しい)も言っていたけど、ゴーイング・マイウェイな新井白石と使節団の間に入って苦労したのが雨森芳州だった。のちに白石は雨森を「対馬にありつるなま学匠」と呼び、雨森も白石批判の評を残している。生々しい…。また冊子の徳丸先生の記述によれば、白石が変えた方針は、徳川吉宗の時期に来日した次の通信使への対応に際しては否定され、儀礼がそれ以前のものに戻されてしまったそうだ。うーむ。行き過ぎた改革の末路って、そんなものか。民主党みたいじゃないか、新井白石。

 公演終了時には、出演者一同が舞台上にって、西洋音楽式に一礼。これまで雅楽や舞楽公演で、こういう形式の挨拶(しかも舞人が仮面を取って一礼)を見たことがなかったので、ものすごく驚いた。海外公演などでは、実行しているんだろうな、きっと。
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アイスショー"Prince Ice World 2012"(東京公演)

2012-07-21 11:51:55 | 行ったもの2(講演・公演)
プリンスアイスワールド/Prince Ice World 2012(東京公演)(2012年7月16日、15:30~)

 2010年に「生まれて初めて、アイスショーなるものを見てきた」のが、新潟のFaOI(Fantasy on Ice)で、2回目がこのPIW(Prince Ice World)東京公演だった。どちらもプルシェンコが見たくて行ったのである。その後、このスケーターもいいなあ、この人も生で見たいなあ、というご贔屓さんが次第に増えて、昨年も何度かショーを見に行ったのだが、今回のPIW公演は、久しぶりのプルシェンコ来日と聞いて、絶対見逃せないと思った。

 ところが、この三連休は、1日ないし2日の出勤要請があって、しかもなかなか日程が決まらない。社会人はつらいー。できれば羽生結弦くんの出演する7/15か7/16を見たいと思っていて、ようやく7/16に休めることが確定したときは、どのチケット販売サイトも「完売」になっていた。ショック! しかし、PIWの公式サイトに追加販売のお知らせが出ているという情報を別のサイトで知り、2週間くらい前に電話をかけて、SS席(11,000円)を入手することができた。もう会場に入れさえすれば、席種も場所も文句は言わない。その直後、7/14~7/16に高橋大輔inのニュースが流れて、ほんとに掛け値なしの「完売」になってしまったらしいから、あぶないところだった。

 2010年に初めてPIW公演を見たときは、子どもだましとは言わないまでも、ファミリー向けのまったりした内容に、日本のアイスショーって、よくも悪くもこんなものかーという感想を持った。なので今年も、ゲストスケーターがやたら豪華なのはさておき、またあの氷上のゆるいコントを見るんだな、という気持ちでいた。そうしたら、プリンスアイスワールドチームの演目が、記憶を一新するような、大人のエンターテイメントに洗練されていて、びっくりした。

 羽生は前半に登場。曲は「ハロー・アイ・ラヴ・ユー」。以前は、こういうアップテンポの曲だと、華奢な体形が強調されて合わないように感じたけど、もう違和感がなくなってきたと思う。大きな円弧を描くハイドロブレードが間近に見られて、すごく楽しかった。

 後半は、高橋大輔→安藤美姫→プルシェンコ→荒川静香さん(トリ)の豪華リレー。高橋はピアソラのタンゴ。いろんなテイストの曲に挑戦しているけど、こういうしっとりプログラムが、個人的には一番好きだ。安藤も同様で、一時期の奇抜な衣装のプログラムから、白衣装のしっとり系に変わったときはホッとしたのだが、そろそろ飽きてきた感もある(観客って勝手なものだ)。プルシェンコは、東京公演のはじめの3日間「ロクサーヌ」を滑っていたので、最終日は「ストーム」と聞いたときは、ええ~「ロクサーヌ」が見たかったなーと、正直、少し落胆した。2010年のPIWで「タンゴ・アモーレ」を見たときに、こういうプログラムは、スケーターと観客の距離が近い、狭い会場のほうが適しているんじゃないかと思ったのだ。たぶん「ロクサーヌ」も、同じタンゴだし。

 でも「ストーム」も十分盛り上がった。動画で見ていると、短くて物足りない、と感じるところがあるのだが、会場では、一瞬が永遠に思われるくらいの充実感があって、終わったときは、へなへなと座り込むくらい、お腹いっぱい。ジャンプ高かったなー、ほんとに鷹が天から舞い降りるみたいだった。

 フィナーレでは、ゲストが次々にジャンプを披露。羽生は失敗して土下座のパフォーマンスも見せてくれた。全員がリンクを周回して出口に捌けたあと、プルシェンコと羽生だけが再登場し、歓声の中、お互いを讃えあうようなジェスチャーを見せて、仲良しポーズ、そしてハグ。やっぱり楽公演のフィナーレは特別な感じがする。

 ただ、私の席は北東の角で、このあとの「ふれあいタイム」に、出演者にプレゼントを渡したいファンが集中する階段の脇だったので、フィナーレ終了時には早くも混乱が始まっていた。あっという間に人の移動が始まり、まわりの客席が空っぽになったのには、呆気にとられた。そういうエリアだったのか、このへん。私は今回も遠くから見守るだけにとどめた。またねー、ジェーニャ!



 向かい側でポーズを取る羽生。



 同じ日、プルシェンコの奥さんの妊娠が、初めてメディアで報じられたことも付記しておこう。おめでたい記念なので。
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寅歳・もち肌/ペリーの顔・貌(かお)・カオ(神奈川県立歴史博物館)

2012-07-20 23:52:57 | 行ったもの(美術館・見仏)
神奈川県立歴史博物館 特別展『ペリーの顔・貌(かお)・カオ -「黒船」の使者の虚像と実像-』(2012年7月7日~8月26日)

 日本を「開国」させた米国人、マシュー・カールブレイス・ペリーの顔は、多くの日本人が、歴史の教科書などで目にしたことがあり、一定の共通イメージを持っているはずだ。けれども、来日当時、実際にペリーの顔を見た日本人は少なく、本人とは似ても似つかない「イメージ」が流布したことは有名な話である。

 と言っても「イメージ」のバリエーションは、思ったほど多くない、ということが本展を見て分かった。こんなペリー像は見たことがない!というのは少なかった。敢えていうと、横浜市歴史博物館の『黒船来航図巻』くらいか。解説にも「あまり流布していないペリー像」とあった。あとはだいたい、いくつかの類型に分類することができるようだ。それから、はっきり言って、日本で制作された図像は、稚拙なものが多い。鑑賞用の「絵画」のレベルにあるものは少なく、最低限の情報伝達のために複製され、流布したと思われる。幕末・明治の世相を描いた絵画メディアには、もうちょっと美的に洗練されたものもあるのに。

 途中のパネルに「米国使節団を描いた人々とその周辺人物」という図解があって、本当にペリーを実見できたのは、昌平黌総裁・林家十一代当主の林復斎など、本当に限られた人物だったことが分かる。まあでも、これは著名人に限っての話で、実際は、警備役や給仕役の人々も見ているはずだ。遠征隊随行画家のヴィルヘルム・ハイネが描いた「横浜上陸」の場面にも、遠巻きに見物する黒山の人だかりが描かれている。

 なんとなく物足りなかったのは、Wikipediaにも載っている、日本人にとって最も有名な「この写真」が会場になかったこと。この写真の出典は何だったけな? それが知りたくなった。余談ながら、私は関根勤の「開国シテクダサ~イ」という「もち肌ペリー」ネタが昔から好きで、先日、NHKドラマ「テンペスト」を見てたら、時代考証の上里隆史先生が、twitterでこのネタをつぶやいてらしたので、その浸透ぶりに感心してしまった。

 あと、1794年生まれのペリーは甲寅歳の生まれで、再来日した嘉永7年/安政元年甲寅(1854)は還暦に当たる、という「こぼれ話」的な情報が伝わっているのも、妙に面白かった。

 ところで、この日は、金沢文庫と歴史博物館と、神奈川県立の施設2ヶ所をはしごしたのだが、先日、気になるニュースをネット上で見た。

◆「県有施設の原則全廃など盛る 神奈川臨調が中間取りまとめ」(2012/7/18 msn産経ニュース)

 神奈川県の緊急財政対策本部の外部調査会(神奈川臨調)は18日、原則として県有施設を全廃することを盛り込んだ中間意見をまとめた。補助金・負担金の一時凍結のほか、人件費の大幅削減を求めている。黒岩祐治知事は同日の定例会見で「来年度当初予算編成の過程で一つ一つ検討する」と述べた。…(後略)

 まあ運営に問題のある施設もあるだろうし、何を廃し何を残すかと言う選択は、議論百出する問題だと思うが、あまり拙速な結論は出さないでほしい。定年後は、博物館や図書館を利用して生涯学習、という、つましい将来像も描けなくなるのか。稼げなくなったら、文化的な楽しみもないということなら、ちゃんと見返りの期待できる国に税金を払うほうがいいかなあ、と思う。
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