見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

掌の宇宙・細密銅版画/天理ギャラリー

2006-02-27 23:25:40 | 行ったもの(美術館・見仏)
○天理ギャラリー 第127回展『幕末明治の銅版画-玄々堂(げんげんどう)と春燈斎(しゅんとうさい)を中心に-』

http://www.sankokan.jp/exhibition/gallery/index.html

 銅版画とは、鉄筆等でひっかいたり、酸を腐食させたり、色々な方法で銅版に傷をつけて、 そこにインクをつめて紙に刷る技法である。日本では、天明3年(1783)、司馬江漢が制作した銅版画が最初だそうだが、天保期(1800年代半ば)から、京大阪では、社寺や名勝を描いた小さい銅版画が、お土産品として売られるようになった。展示品の中には、実際に寺社の境内で銅版画を売っている店を描いたものもあった。いまの観光名所の絵葉書みたいなものなのだろうが、伝統的な木版画に比べると、ずいぶん「ハイカラ」なお土産だったんじゃないだろうか。

 銅版画は、木版よりずっと細い描線が引ける。だから、いまの絵葉書より一回り小さいくらいの画面なのに、視点を引きに引いて、広い空間を細密に描き出したものが多い。どれも人物は1センチくらいの大きさだ。ベタ塗りを使わず、線を多用するので、全体が柔らかな感じの仕上がりになる。人物の足元に必ず影が描かれているのがちょっと不思議だった。

 明治期には、地図など大判の刷り物や、全編にわたって銅版画を集めた小冊子、名所や買物の「独り案内」シリーズが刊行されている。ちなみに、いちばん新しいもので1890年代だった。このへんから写真に代わられていくのかなあ。
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真説・江戸の学び/江戸東京博物館

2006-02-26 21:26:43 | 行ったもの(美術館・見仏)
○江戸東京博物館 『江戸の学び:教育爆発の時代』展

http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/

 いま、ちょうど教育史関係の読みものにハマっているわけだが、それと符丁を合わせたように、江戸の教育事情に焦点を合わせた展覧会である。キャッチフレーズは「今こそ寺子屋に学べ!」。

 江戸時代の教育事情というのは、本当のところ、よく実態が分からない。寺子屋制度のおかげで、初等教育の普及は世界に冠たる水準を誇り、文盲はほとんどいなかった、という話も聞くが、これはどうも胡散臭い。確かに、江戸時代には様々な娯楽読みものが出版され、浮世絵の中では、女性も本を手に取っているし、街の看板は文字だらけである。しかし、農村では、文字の読めない人のために「めくら暦」という絵暦も作られていたし、山本武利の『新聞と民衆』によれば、明治期の調査で、自分の姓名を書けない者が3~5割いたと言う。地域差が大きかったのか。あるいは男女差、階級格差というのはどうなのか?

 真実はどのあたりにあるのか、訝りながら、この展示を見に行った。会場に入るとすぐ、雛壇のような展示ケースに150冊ほどの和本が並んでいる。壮観! 全て「往来物」といって、寺子屋で使用された初等教科書である。

 最初のセクションは、寺子屋教育を主題にしている。浮世絵には、意外なほど、女性の手習い教師や女子生徒が描かれていることに驚く。ふぅーん。初等教育では男女の別って、あまり意識されなかったのかな。ただし、女性教師というのは江戸だけの風俗だったそうだ。

 面白かったのは、埼玉の寺子屋教師、大野雄山が残した『文吉行作日記帳』。文久3年、数えの10歳で入門した文吉という少年が、どうしようもない不届き者で、朋友と喧嘩し、机の上を駆け歩いたり、机の下で昼寝したりのやりたい放題。雄山の日記には「この日も一字も習わず」「この日も本を読まず」という、困惑と愛情の混じった文言が並ぶ。展示を食い入るように見入っていた初老のおじさんは、もしかしたら現役の教師だろうか。

 寺子屋を描いた絵画資料では、多くの子供たちが、机の上に飛び乗り、筆を振り回して、のびのびと遊んでいる。もちろん絵画的誇張はあるにしても、当時の日本人が「理想の子供」をどのように考えていたかが窺えて、興味深い。渡辺京二の『逝きし世の面影』にも、外国人から見た日本は「子供の王国」だった、という記述があったことを思い出す。

 次に、江戸時代の庶民と文字のかかわりを示す、様々な資料が並ぶ。読み本、引き札(広告)、看板、暦、俳諧などはともかくとして、桐生市の旧家に伝わった「放火の予告状」にはびっくりした(桐生市図書館蔵)。実際に商家の門だか軒先だかに、貼り付けられたものらしい。たどたどしさが、かえって怖い。一揆の直訴状というのもすごいものだ。命懸けの気迫が書面から立ち上がってくる。これも違った意味で「書の至宝」と言えるかも知れない。

 さて、18世紀末に行われた松平定信の「寛政の改革」といえば、緊縮財政と風紀取締りが主眼だと思っていたが(日本史には弱いのである)、「学問吟味」と称して、旗本・御家人層を対象に漢学の試験を実施し、成績優秀者を登用することが構想されたと言う。ちなみに、大田南畝はこの学問吟味に及第し、戯作者をやめて役人になった。かくて、この展示会の結びは、生活のため、勤勉を強いられる社会が始まり、「学びを楽しむ文化」が失われたことを惜しむ文言で終わっている。

 そうか。「立身出世の近代」は、明治維新から、いきなり始まるものではなく、少なくとも武士階級においては、江戸時代の後期から準備されていたのだなあ。
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戦後知識人の覇者/丸山真男の時代(竹内洋)

2006-02-25 23:16:33 | 読んだもの(書籍)
○竹内洋『丸山真男の時代:大学・知識人・ジャーナリズム』(中公新書) 中央公論新社 2005.11

 昨年11月に刊行されて3刷。けっこう売れてるんだなあ。嬉しいことである。本書の内容は、先日読んだばかりの『大学という病』(中公叢書, 2001)と重なる点が多い。ただし、重点の置き方は明らかに異なる。前著の主題だった、戦前の右派勢力による帝大粛正運動は、本書では「おさらい」程度にとどまり、逆に前著では「補遺」的に扱われていた(でも十分示唆的で面白かった)丸山真男と戦後知識人の問題が、本格的に論じられている。

 本書の意図は、「あとがき」の次の一文によって明確である。「丸山の言説を個人のものとして分析する(せまい意味での)思想研究ではなく、戦後の大衆インテリの世界の中で丸山の言説を読み解く知識社会学あるいは社会史的アプローチによって戦後日本論を書いてみたいと思ったのである」。いや、おもしろかったな~。私は面白い箇所に遭うと、心覚えにページの端を折っておくのだが、あんまり折り過ぎて、何がなんだか分からなくなってしまった。

 本書が主に扱う時代は、戦後、丸山が「超国家主義の論理と心理」(『世界』1946年5月号)で鮮烈な論壇デビューを飾り、日本の知識人界の「参照の極」に押し上げられながら、60年代後半、全共闘学生による糾弾を受け、1971年に東大法学部を辞職、1996年に亡くなるまでである。半分くらいは、私が生まれて以降の同時代史なので、微かな記憶を刺激されるところが多々ある。「丸山真男」が日本の知識人を代表する名前だったことは、かなり幼い頃の記憶にある(小学生の頃?マンガを描くことが好きだった私は、知的でオシャレな女の子を描く小道具に、「丸山真男」の本を持たせていた。本当の話)。華やかだった学生運動も、もちろん覚えている。だが、本書を読んで初めて、それらの記憶に解釈の座標軸を得たように思う。

 終戦直後の丸山は、1930年代に日本ファシズムが跋扈した原因の1つを、知識人と大衆の文化的断層に求め、ジャーナリズムを通じた大衆啓蒙戦略(在家仏教主義)をとる。それは60年安保闘争において成功(大衆の市民化)を収めたかに見えた。しかし、高度経済成長とともに、高等教育のインフレーションによる「知識人のプロレタリアート化」が始まる。大学教授に罵声を浴びせる学園闘争の根底には、「大学を卒業してもサラリーマンにしかなれない」世代の、知識人グループにおけるアウトサイダー意識、言葉を換えれば、既に特権を享受している大学知識人に対するルサンチマンがあったと言える。

 同時に、戦後日本のアメリカ像は、初期の圧倒的な肯定から、次第に否定的なものに変わっていく。いわば、戦後日本の「養父」アメリカから「父離れ」を起こした日本は、「実母」日本の文化や価値観を再評価しようとする動きが起こる。「西洋人よりも西洋的」と言われた丸山が、「日本社会の病理」として否定した「思いやり」や「気がね」の論理が、すぐれた日本的システムとして賞賛されるようになる。

 それでも、晩年の丸山は、長い間、生理的な嫌悪の対象だった日本的なるものと格闘し続け、日本の歴史意識の古層にあるものを「執拗な持続低音(バッソ・オスティナート)」という比喩で捉えた。私は大学生のとき、哲学科の学生でもないのに「日本倫理思想史」を聴講に行って、このタームを教わった記憶がある。当時も卓抜で美しい比喩だと思ったが、本書を読んで、丸山がこの一語に托した執念とも怨念ともつかないものを、強く肌身に感じるようになった。

 丸山真男という思想家には、不徹底さも傲慢さもある。しかし、”下司(げ)びた心情があったからこそ、卓抜な日本社会論が書けた”という本書の指摘は、たぶん正しいと直感的に思った。この他にも、いろいろ面白い読みどころがあって飽きない。
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鎌倉だけじゃない!神々と出逢う/神奈川県立歴史博物館

2006-02-24 23:29:08 | 行ったもの(美術館・見仏)
○神奈川県立歴史博物館 特別展示『神々と出逢う-神奈川の神道美術-』

http://ch.kanagawa-museum.jp/

 神奈川県下の古社に伝わる神像、縁起絵巻、美術工芸品など、神道関係の遺宝を集めて公開するもの。いつもなら、チケット売り場と展示会場の間に、がらんとしたホールが待ち受けているのだが、今回はそのエントランススペースに、展示ケースが林立していて、まず驚かされる。ケースの中には、大ぶりな神像彫刻(木造)がひしめきあっており、その物量にも圧倒される。

 数で群を抜くのは、男神・女神・僧形神(立像各1対+残片1セット)、さらに随身1対を有する大磯町の高来神社。大磯町には何度か行っているが、残念ながらここへは行っていないと思う。同じ大磯町の六所神社へは、昨年5月、「国府祭(こうのまち)」というお祭りを見に行って立ち寄ったが、今回、新発見の平安期の男神・女神像が出ている。どちらも「怒りとも苦悩ともつかない」(解説)沈鬱で、不思議な表情をしている。左右の髪を頬の下で結んだ女神像は、眉根を寄せ、感情を殺し過ぎて放心したような表情にも見える。孫悟空のようなリングを頭に載せた男神は、ちょっと興福寺の阿修羅像を思い出す(下記『有隣』サイトに写真あり)。

 大きさでは、熱海伊豆山神社の伊豆山権現像が、2メートルを超える巨像である。平安期の作で、顔も手足も大様な造りだ。着ているものが珍しいと思ったら、朝鮮風なのだそうだ。また、地中から掘り出されたという銅製の小さな権現像もある。どっしりとした下半身、広い肩の盛り上がりが、小兵プロレスラーのようだ。ちょうど烏帽子から顔にかけて、表情も分からないほどの緑青に覆われ、痛々しくも威容を高めている。

 思わず足が止まったのは、4種出ている獅子・狛犬。伊勢原三之宮比々多神社の狛犬は顔が小さく肩の盛り上がったアスリート体型。藤沢市個人蔵(江島神社宮司家)のは足の速そうな砲弾型。川崎神明大神のは受け口でユーモラスな表情。どれもかわいい。

 このほか、季節もの(?)の天神像が各種、神仏習合に配慮した仏像も多数。私は神奈川県に2年間だけ住んだことがあるが、こうしてみると、実に多くの古社が、広範囲に点在していることが分かる。この催しは、神奈川県神社庁設立60周年の記念企画だそうだが、なるほどリキが入っている。前期・後期と称しているが、実際には4期に分けて展示替えが行われる。さあて、次回はいつ行こうかな。

■『有隣』第459号:座談会「かながわの神道美術―神奈川県立歴史博物館特別展示にちなんで-」
http://www.yurindo.co.jp/yurin/yurin.html
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大衆と知識人/大学という病(竹内洋)

2006-02-23 23:01:00 | 読んだもの(書籍)
○竹内洋『大学という病:東大騒擾と教授群像』(中公叢書)中央公論新社 2001.9 

 私はかつて教員をしていたことがある。高校の教師を4年、小中学生相手の塾講師を2年。得たものがないとは言わないが、あまり楽しい経験ではなかった。そのトラウマだろうか。考えてみると、かなり博愛的に書籍を漁っている私であるが、これまで、学校・教育にかかわる本だけは避けてきた気がする。それ以外の人文社会科学分野は、哲学・歴史・政治・経済、なんでも面白いと思うのだが、”教育”と聞くと、体が拒否反応を起こしていた。

 しかし、とうとう、その禁断の領域に踏み込むことになってしまった。本書は、東大経済学部を舞台に、昭和3年の大森義太郎助教授の辞職から、昭和14年の「平賀粛学」まで、10年にわたる「東大紛擾」事件を描いたものである。

 昭和初期の東大経済学部には3つの派閥があった。土方成美らの反マルキストグループ。河合栄治郎、大河内一男らの自由主義・教養主義グループ(国家主義にもマルクス主義にも与せず。そのため左右両陣営から批判を浴びた面もある)。さらに大内兵衛、矢内原忠雄ら、マルキストを中心とした少数派グループ。教官人事をめぐる泥仕合がスキャンダルとなり、さらに急進右翼による帝大バッシングが追いうちをかける中、平賀譲総長が河合・土方両教授の休職処分を断行し、これに抗議して、経済学部教官13人が辞表を提出した。

 著者の「あとがき」によれば、この事件は「近代日本の大学史研究の中では必ずふれられる定番のテーマ」で、いわば「大学版忠臣蔵という趣きがある」そうだ。私は、昨年、立花隆の『天皇と東大』を読んで、初めてこの事件を知った(まんざら東大と無縁な生活をしているわけでもないのに)。したがって、事件の概要は既知のものであるのだが、おもしろいと思うのは、著者がこの事件を捉える視線である。

 何度も批判を繰り返すようだが、立花の本と比較してみたい。立花は、明治から昭和初期までを、天皇中心主義者(右翼的国粋主義者)の攻撃により、大学(西欧的=自由主義的=左翼的価値観)が敗退を重ねる歴史としてとらえている。その完成が「平賀粛学」であり、以後、翼賛的体質に変貌した東大は、戦時体制下で大繁栄を迎える。しかし、戦後日本の再出発を支えたのは、「平賀粛学」で放り出されたマルキスト経済学者、大内兵衛であり、有沢広巳であった。このように二項対立で物事を説明するのは、分かりやすいが、ある種、モダンな(=古くさい)結末のつけ方であると思う。

 本書の著者は、もう少し巧緻な大団円を用意している。「粛学」に続いて大学内を跋扈した右翼急進派の悪夢、それは昭和40年代の全共闘運動となってよみがえる。昭和43年、法学部研究室の封鎖に遭った丸山真男の脳裡には、かつての右翼急進派の暴挙がよみがえっていたにちがいない。河合派の大河内一男は、辞表を撤回することで、「粛学」から最大の利益を得たはずであったが、東大総長として、全共闘の学生に吊るし上げられる羽目に陥る。

 全共闘運動は、かつて大森義太郎が唱えた「大学の没落」論を継承していたと言える。しかし、さらに現実に目を向ければ、大学の解体を決定づけたのは、全共闘学生ではなく、学生運動の挫折の後に登場した「レジャーランド大学生」であるとも言える。

 このように、著者はいくつもの視点と、それを支える実証的なデータを用意している。そのため、読者は1つの事件について、さまざまな側面から重層的に考えることを要求される。右翼/左翼だけではなく、知識人/大衆、大学アカデミズム界/ジャーナリズム界など。おもしろい。特に、戦前の帝大における右翼急進運動と昭和40年代の全共闘学生運動の対比を縦軸に、知識人(エリート)/大衆(反エリート)を横軸に設定して、その交差点で丸山真男を論じるというのは、おもしろいんじゃないかと思う。というのは、私は既に、同じ著者の2冊目『丸山眞男の時代:大学・知識人・ジャーナリズム』を読み始めているわけだが。

■東京大学経済学部:研究科長挨拶
今なお、「平賀粛学」を過去のものとしていないのは偉い。
http://www.e.u-tokyo.ac.jp/aisatu.htm
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美術商の百年/東京美術倶楽部

2006-02-22 00:33:13 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京美術倶楽部 創立百周年記念展『大いなる遺産 美の伝統展』

http://www.toobi.co.jp/

 明治40年(1907)、全国の主な美術商が団結して、東京美術倶楽部を設立。その百周年を記念する展覧会である。先だって、古書専門店の店主が書いた『和本入門』(平凡社 2005.10)を読んで、「ある人が要らなくなった本を、次の所有者にバトンタッチするために古書店市場がある」という、自分の生業に自信を持った書きぶりに感心したが、美術商の役割も同じようなものかもしれない。

 この展覧会は、(1)近代絵画、(2)近代工芸、(3)古美術の三部構成になっている。近代絵画は、初心者にもなじみの深い作品・作家が勢揃いしており、みんな楽しそうだった。最近、古美術の展覧会は、若者の姿が多い。それに比べると、近代絵画の部屋は、なんだか、おじいちゃん・おばあちゃんが多いように感じた。それから、初老の男性と若い男の子のペアを何組か見た。もしかしたら、美術商のお父さんが、跡取り息子を教育のために連れてきていたのかしら?

 古美術にも、各美術館の看板役者級の逸品が並んでいる。色絵や染付けは印象が強いので、ああ、松岡美術館の古九谷、こっちはサントリー美術館の柿右衛門、と記憶がすぐによみがえるが、青磁や白磁になると、あれっ、これは初めて見るかな?と首をひねるものもあった。静嘉堂文庫の『青磁象嵌葡萄唐草文瓢形水注』はその一例。その名のとおり、ひょうたん型の水注の腹に、葡萄唐草文を象嵌した青磁だが、やりすぎなくらい洒落ている。定窯の白磁はどれも美しい。大好きな磁州窯がたくさん見られたのも嬉しかった。

 「国宝室」は入場制限をしているので、少し待たされた。お目当ては、『源氏物語絵巻・夕霧』と『紫式部日記絵詞』。片や嫉妬する女人・雲井雁、片や酔い乱れる貴族たちが、生々と(むしろナマナマしく?)描かれている。これに対して、しばし現実を離脱した美に酔うことができるのは、2枚の南宋絵画『林檎花図』(畠山記念館)と『鶉図』(根津美術館)。

 藤原佐理の『離洛帖』はおもしろい。「三跡」のあとの二人、小野道風と藤原行成は、素人目にも端正で上手いと感じられるんだけど、佐理は上手すぎて、流麗なんだか乱筆なんだか、よく分からない。反古と紙一重の魅力である。
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お嬢さまの雛人形/根津美術館

2006-02-20 23:56:35 | 行ったもの(美術館・見仏)
○根津美術館『雛祭り-虎屋の雛人形と雛道具-』

http://www.nezu-muse.or.jp/

 この時期になると、やや食傷気味になるほど、あちこちの美術館・博物館で「ひな祭り」関連の展示が目立つ。今月は根津美術館も「雛人形」か。まあ、パスしてもいいかな、と思っていたのだが、公式サイトに載っている雛人形の顔写真が、あまりに愛らしくて「萌え~」系だったので、行ってみる気になった。どうだろう。これだけ美しい雛人形も珍しいと思うのだ。明治時代の雛人形だというが、女性美の表現として、古さと新しさが絶妙の均衡を保っている。

 実はこの人形、実物を見るとびっくりするほど小さい。そして、この展示会、きちんとした雛人形は、この一組しかない。あとは何かというと、雛飾りのお道具のオンパレードである。箪笥、鏡台、文机、時計(!)、お膳に食器、お茶道具、楽器、盆栽、燭台、箱枕まで。

 文机には硯箱が載り、墨、硯、筆はもちろん、料紙から硯屏(硯の前に置いて風や塵を防ぐ衝立)まである。文庫には「八代集」に「湖月集」(これは源氏物語の注釈「湖月抄」かな)。謡本には「紅葉狩」や「井筒」の文字が見える。「歌骨牌(うたがるた)」と書いてあるのは百人一首のことで、札の1枚1枚に、ちゃんと絵と文字が描かれている。

 食器は、伊万里ふうの染付あり、京焼あり。可笑しかったのは、五島美術館所蔵の尾形乾山作の「菊文向付」と全く同型のミニチュアがあって、ご丁寧に「乾山」の銘まで入っている(特別出品を依頼された五島美術館も、苦笑したことと思う)。リカちゃんやバービー人形に、シャネルやヴィトンのミニチュアを持たせたいという心境と同じかもしれない。茶道具も、見る人が見れば、美濃とか志野とか、分かるんだろうな、きっと。

 この雛人形と雛道具は、和菓子の老舗・虎屋の第14代当主が、明治30年生まれの娘・算子(かずこ)のために揃えたものだという。展示図録に、カジュアルな洋装に身をつつみ、おすましする小さなお嬢さまの写真が載っている。そんなわけで、展示の要所要所に虎屋特製の雛菓子が添えられている(もちろん展示ケースの中の話だ)のも、心なごんで楽しい。

 ちなみに第二展示室では「江戸時代の調度」を特集していて、雛道具の”本物”を見ることができ、あっ、さっきは香道具だったのか!などという発見がある。
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ブームの遠景/「冬ソナ」にハマった私たち(林香里)

2006-02-19 21:36:41 | 読んだもの(書籍)
○林香里『「冬ソナ」にハマった私たち:純愛、涙、マスコミ……そして韓国』(文春新書) 2005.12

 著者とは少しだけ面識がある。なので、あ、林先生の本だ、と思って手に取った。けれど、本屋のレジに持っていくのは少し恥ずかしかった。私は「冬ソナ」ブームを支える”中高年女性”に属するが、このドラマは一度も見ていない。たまたまチャンネルを回していて遭遇したことはあるが、2分と見ていられなかった。しかし、まわりの友人は、「初めは馬鹿にしてたんだけど、見てみたら意外と…」などと言いながら、実におもしろいほど次々にハマっていった。

 どうして、彼女たちは「冬ソナ」にハマったのか? 著者は、多数のファンから貰った手紙やアンケートの長文の回答を紹介し、分析していく。

 女性の日常生活は、育児・家事・介護など、感情労働の側面が強い。彼女たちは、つねに感情の管理(抑制)を強いられており、自分の「感情のケア」を欲している。感情を解放するために(大泣きするために)彼女たちはロマンスを必要とするのである。

 また、これまで男という性のもつ粗暴さを味わってきた彼女たちは、主人公の優しさや精神性に強く憧れる。通常、女性はメロドラマの女性主人公に自分を投影して感情の流れを楽しむ。しかし「冬ソナ」では、女性たちが、ペ・ヨンジュン演じる男性主人公の「耐える姿」に同一化している面がある。

 このドラマが性的な描写を欠くことも、女性たちの好感を呼んでいる。宮台真司によると、大正生まれから昭和20年代生まれにかけては、良妻賢母教育が最も徹底し、最も性的に「奥手」になった世代だという(→この分析、おもしろい)。彼女たちにとって、性はオス側のものであり、解放的なセクシュアリティを見せつけられることは、自分たちの価値観が社会において周縁的であることを思い知らされる、脅威の体験なのである。これに対して「冬ソナ」は、彼女たちの価値観を承認し、安心を与えてくれる。

 このほかにも、いろいろ興味深い視点はあったけれど、私は、本書を読んで、自分が一向に「冬ソナ」にハマらない理由が分かったような気がした。ペ・ヨンジュン的男性像が好きでないというのもあるし、感情を解放するより、知性を刺激されるほうがずっと好き、というのもある。しかし、たぶん最大の理由は以下の点。「冬ソナ」を初めとする韓流ドラマの多くは、韓国社会の”激動の”近代史を切り捨てて、どこでもない「モダンな都市」と「ノスタルジックな田園」を舞台に成り立っている(らしい)。だけど、私は歴史を捨象したドラマとか小説には、うまく乗れないのである。
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すごい狩野派/東京国立博物館

2006-02-18 20:11:20 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京国立博物館 特集陳列『幕末の怪しき仏画―狩野一信の五百羅漢図』

http://www.tnm.jp/jp/

 『書の至宝』で大混雑の東京国立博物館に行ってきた。ただし、私のお目当ては、今週から始まった特集陳列(常設展)である。まずは上記サイトの説明を読まれたし。

 ――知る人ぞ知る幕末の絵師・狩野一信(かのうかずのぶ)の五百羅漢図(ごひゃくらかんず)のすべてをまとめてご覧いただける絶好の機会です。一信は、仏画に秀でた画家で、その作品に千葉・成田山新勝寺(なりたさんしんしょうじ)の釈迦堂天井の龍図や増上寺(ぞうじょうじ)の五百羅漢図などが知られています。

 私が狩野一信の存在を知ったのは、赤瀬川原平さんと山下裕二さんの『日本美術応援団:オトナの社会科見学』(中央公論社 2003.6)による。おふたりは、増上寺の「五百羅漢図」を絶賛して「小松崎茂の絵を思い出す」「若冲の『動植綵絵』に通ずる」等々、論じていた。小さな掲載図版を見るだけでも、尋常でない「あやしさ」が、プンプン匂ってくるようだ。しかし、ふだんは全く非公開である(2003年に、数点のみ板橋区立美術館で公開されたらしい)。

 何とか、見る方法はないものかと思っていたら、昨年の6月頃だろうか、東博の「年間予定」の先のほうに、”狩野一信「五百羅漢図」”が載っているのを見つけてしまった。こ、これは、すごいことになるぞ!と、ひとりで興奮して、この日を手帳に記して待っていた。

 さて、特集陳列が始まって最初の休日、ドキドキしながら会場(本館2階、特別1・特別2室)に入ってみると、思っていたより、作品が小さい。あれっ。『オトナの社会科見学』の図版では、人の背丈くらいの掛け軸だったはずなのに。しかし、図柄は間違いなく、記憶に焼きついていたとおり、狩野一信の「怪しい仏画」である。

 解説を読んで、事情が判明。今回の展示品は、増上寺の「五百羅漢図」ではなく、その下絵とされる作品だったのだ。明治天皇の皇女から東博に下賜されたもので、増上寺のものと同じ図柄を1幅に2枚ずつ描いている。なんだー。ちょっとガッカリ。

 しかし、気を取り直して眺めると、小さくても「あやしさ」は十分に伝わってくる。第1幅「名相」(表題が付いている)から順番に見ていくと、初めはさほどでもないのだが、徐々に「あやしさ」が増していく。第17~18幅の「六道・人」第19~20幅「六道・天」、東洋絵画に不似合いな遠近法がいいな~。第23幅、25幅の強烈な陰影法も。第26幅からの「神通」「禽獣」は、細部によーく目を凝らすと、あやしくも可笑しい描写が満載である。特に脇役の動物たちの表情が楽しいので、くすくす笑いっぱなしだった。第41幅からの「七難」シリーズは、漆黒の空に浮かぶ羅漢たちと、その足元で繰り広げられる人間たちの受難の図が、ゴヤの黒い絵を思わせる。

 増上寺蔵の作品も2枚だけ出ていて、下絵と見比べることができる。図柄はほぼ等しいものの、やっぱり大判は迫力がある。いつの日か、全て大判で見たいものだ!

 1時間ほど、うろうろしていたら、だんだん会場に人が入ってきた。『書の至宝』が混んでいるので、入館待ちで整理券を貰った観客が、常設展を見てまわっているようだ。時間つぶしに使われるのはちょっと悔しいが、まあ、たくさんの人に見てもらえるのはいいことである(と思うことにしよう)。

 なお、常設展には、日本で描かれた最も古い「羅漢図」(国宝、滋賀の聖衆来迎寺蔵、11世紀)あり。人物を大きく描き、大様に色を塗り分けた、静的で温雅な作品である。また15世紀の「羅漢図」も2枚。こちらは、水墨画ふうの輪郭に色を付けたもの。痩肥の変化のある描線が美しかった。
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闇に向き合う/日本主義的教養の時代(竹内洋、佐藤卓己)

2006-02-17 23:34:49 | 読んだもの(書籍)
○竹内洋、佐藤卓己編『日本主義的教養の時代:大学批判の古層』(パルマケイア叢書21) 柏書房 2006.2

 2004年の『言論統制』(中公新書)、2005年の『八月十五日の神話』(ちくま新書)と、活躍の続く佐藤卓己さんの新刊である。メディア史の専門家という認識だったので、”大学批判”というのは、ちょっとこれまでの著作とは異質かもしれないなあ、と思いながら手に取った。すると、意外な名前が目に飛び込んできた。

 ――蓑田胸喜(みのだむねき)。昭和前期、美濃部達吉の天皇機関説の糾弾者として悪名高い日本主義者である。私が、この奇矯な名前に出会ったのは、昨年12月に発売された立花隆の『天皇と東大』(文藝春秋社)でのことだ。立花の本は、2006年2月の現在も、新刊書の棚に平積みになっているのを見かける。そこそこ売れ続けているだろう。しかし、私は立花の本にあまり感心しなかった。直後の読後感に書いたように、問答無用で国家主義者を悪と決めつける態度に、なんとなく受け入れ難いものを感じたのだ。その最たるものが、蓑田胸喜という人物の扱い方だった。

 確かに、立花の本に引用されている蓑田の論文を見ると(論旨よりも、強調のための傍点で満艦飾状態の外貌に対して)、こりゃあ、付き合い切れない人物だな、という印象を持つ。しかし、付き合い切れないからと言って、切って棄てるように狂人扱いしていいものか。私は、立花が蓑田を扱う冷笑的な態度に、砂利を噛まされたような後味の悪さを感じてしまった。

 あれから2ヶ月、こんなに早く、再び蓑田の名前に出会おうとは思ってもいなかった。本書は、竹内洋氏の「はじめに」によれば、「戦時中の忌まわしい記憶を象徴するものとして、批判もされずに葬り去られてきた」(by 松本健一)蓑田胸喜という人物を中心に、彼が主宰した雑誌『原理日本』と、その周辺の人々を、彼らの思想と生涯に寄り添いながら、丹念に追った労作である。実は、本書の執筆者の多くは、『蓑田胸喜全集』全七巻(柏書房 2004)の編纂にかかわり、各巻の解題を執筆した人々であるという。びっくりした。2002年、蓑田胸喜のご子息へのインタビューに始まる、調査と共同研究の経緯は、佐藤卓己氏の「あとがき」に垣間見ることができる。

 本書の執筆者は、精神的にタフな人たちだと思う。研究者として当たり前のことだが、自分の主義主張あるいは嗜好と相容れないもの・忌まわしいものにフタをしてしまうのではなくて、それと向き合うこと。初めに結論ありきではなく、地道な資料調査を通して問題を発展させていくこと。やっぱり、本当の学問というのは、こうでなくては、と思った。

 本書は、日本主義(国粋主義)を、「近代日本の急速な欧化(洋才による洋魂化)によって浮遊するナショナル・アイデンティティ(和魂)をなんとか係留しようとする格闘のなかから生まれた」ものと考える。この説明は、昭和初期に適用されるばかりでなく、いまの若い世代に瀰漫している、ナショナリズムとの親和的傾向を考える上でも示唆的である。

 それから、比較的、若手の多い執筆者陣の中で、プロデューサーの役割を果たしているのは、たぶん竹内洋氏(1942-)なのだろう。どこかで見た名前だと思ったら、最近出た中公新書『丸山眞男の時代-大学・知識人・ジャーナリズム』(2005.11)の著者である。読もうかどうか、迷っていたのだ。全く知らなかったが、ちょっと調べてみたら、このひと、面白そうな本をいっぱい書いている! 獲物を見つけた猟犬の気分。どれから読んでみるかな。
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