見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

憧憬と相克/南蛮美術の光と影(サントリー美術館)

2011-10-31 23:37:09 | 行ったもの(美術館・見仏)
サントリー美術館 開館50周年記念「美を結ぶ。美をひらく。」IV『南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎』(2011年10月26日~12月4日)

 めずらしく展示替リストをチェックして、行くなら後半のほうがいいかな?と思ったのだが、待ちきれなくて、見てきた。南蛮美術、大好きなのである。

 冒頭は、典型的な南蛮屏風(同館所蔵、桃山時代)。右隻には日本の港に入ってくる南蛮船、左隻には、どことも知れない異国の風景が描かれる。南蛮人は、長い黒マントのイエズス会士たちを除くと、かぼちゃのように丸く膨らんだズボンを穿いている。長ズボンの者と半ズボンの者がいて、後者は、棒のように細い脛が印象的だ。記号的ではあるけれど、西洋人の体形の特徴をよく捉えていると思う。

 同じくサントリー所蔵で今回初公開の別作品(江戸初期)になると、南蛮人の脛も、ふくらはぎがしっかり描かれ、肉体表現が写実的になる。宮内庁三の丸尚蔵館本は、南蛮寺で聖人像を礼拝する南蛮人たちが羅漢さんのようだ。神奈川歴博本では、建物の中と南蛮船の上で、日本人と南蛮人が双六(?)に興じている。ボードゲーム(盤戯)を通じた異人との交流といえば、『長谷雄草紙』や『吉備大臣入唐絵巻』を思い出すところ。この作品は、南蛮人の眼が、むかしの少女マンガみたいにつぶらで、明らかに日本人とは描き分けているのも面白い。

 このほか、イヌとか傘とか帽子とか、大判のレースのハンカチ(オテロみたい!)とか、作品によって少しずつ変化があり、隅々まで見どころがあって飽きない。

 続いて、キリスト教布教のためにもたらされ、あるいは日本で制作された聖画の数々。大正年間まで、竹筒に収められ、土壁に塗り込められていたとか、仏壇裏に隠されていたとか、伝来と発見の経緯にも感慨を覚える。『聖ペテロ像』が「出山釈迦如来絵像」として寺に伝わったというのには、すまないが、笑ってしまった。

 輸出漆器(螺鈿蒔絵)も名品揃い。ここで4階会場が終了。あれー目玉の『泰西王侯騎馬図』は、第1会場(4階)じゃないのかーと、ちょっと奇異な感じを受けながら、階段を下りる。すると、まず目に入るのがサントリー美術館所蔵『泰西王侯騎馬図』のアンリ四世のUPと黒馬のUPバナー。いや、半端でなくて、ものすごい拡大写真である。王冠の宝石や胸の飾りボタンが、絵具を盛り上げ(鎌倉仏の土紋みたいに)立体で表現されていることまで分かる。

 階段ホールには、サントリー美術館(右)と神戸市立博物館(左)の『泰西王侯騎馬図』が並んでいた。展示ケースに張り付いて、まじまじと眺めた末に、反対側の壁際まで下がって、両者を交互に眺めわたす。私は、2007年にサントリー本を、2008年に神戸市博本を見ているが、両作品を一度に視界に収めるのは、初めてのことだ。やっぱり、躍動感のある神戸市博本のほうが好き。でも神戸市博本は、キャラの顔立ちが似すぎているかもしれない、と思う。あと、この画家、手指の描き方があまり巧くない。同じように、ゴヤが手指を描くのを苦手にしていたという逸話を思い出す。

 本展では、東京文化財研究所が行った両作品の調査結果が、合わせて展示されている。詳細は展示図録を読むのが正しいが、会場で唸ってしまったのは、サントリー本の近赤外線画像(白黒)を実物大に仕立てた屏風。裏貼りに使われた反故紙の文字や、「金」塗色指定の文字が、くっきり浮かび上がっている。

 これでもう、本展の収穫は十分と思っていたのだが、3階会場で衝撃の作品に出会ってしまう。「キリシタン弾圧」の章に展示された『日本イエズス会士殉教図』『元和八年、長崎大殉教図』『元和五年、長崎大殉教図』である。いずれも、ローマのジェズ教会(イエズス会の総本山)に保管されているものだという。こんな絵画資料があるとは、不覚にも知らなかった。特に元和八年図は、素人くさい素朴な構成ながら、迫真の緊迫感、沈痛な悲しみと怒りを感じさせる。処刑の様子を実際に目撃した日本人キリシタンが、禁教を逃れてマカオに渡って描いたと伝えられているそうだ。大画面の『泰西王侯騎馬図』以上に、胸を揺さぶられるような印象が残った。まさに南蛮美術の――日本と西洋文明のファーストコンタクトの「光と影」と言えるだろう。

 このほか、初期洋風画は実に丹念に集めている。東美アートフェアで見た伝信方『老人読書図』は後期。三の丸尚蔵館の『萬国絵図屏風(万国絵図屏風)』は神戸会場でしか出ないのか。そうなのかー。
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基本から学ぶ/目からウロコの琉球・沖縄史(上里隆史)

2011-10-30 23:09:56 | 読んだもの(書籍)
○上里隆史『最新歴史コラム:目からウロコの琉球・沖縄史』 ボーダーインク 2007.2

 BS時代劇『テンペスト』の時代考証をされていた上里隆史(うえざと・たかし)さんの著書。同名のブログが元ネタになっている。「あとがき」によれば、著者がブログを始めた理由は「歴史研究界では常識になっている事実が、一般にはほとんど知られていなかったこと」にあるという。この本に紹介されている「目からウロコが落ちる話」は、研究界では今さら言うほどのことでもない"常識"がほとんどなのだそうだ。

 そうは言うけど、琉球・沖縄史をきちんと語れる日本人は少ないと思う。私自身も、「琉球」という独立王国があったらしい程度の、曖昧模糊とした知識しかなかった。本書では、まず30ページほどの書き下ろしコラム「最新版すぐわかる琉球の歴史」でざっくり通史をお勉強。

 長く漁労採集の時代が続いていた南西諸島が「琉球文化圏」として形作られるのは10~12世紀頃。日宋貿易の影響で、人やモノが流れ込み、ゆっくりと農耕社会の発達を促した。各地に政治的リーダーが生まれ、琉球は戦国乱世に突入する。やがて沖縄島では、山北・中山・山南の3つの勢力が鼎立し(三山時代)、三山の王たちは、中国(明朝)から王として認められるようになった。

 15世紀はじめ、第一尚氏による統一琉球王国が成立する。しかし、政権基盤の弱かった第一尚氏王朝はクーデターで滅び、1470年、第二尚氏王朝が成立する。1609年、薩摩軍の侵攻を受け、以後の琉球は、薩摩と中国(明→清)の双方に朝貢する国家となる。薩摩による征服以前を「古琉球」と呼び、以後、明治に王国が滅びるまでを「近世琉球」と呼び習わす。なるほど。

 あとは、どこから読んでも楽しい「目からウロコ」コラム。へえ~と思ったのは、今、私がイメージする中国色の強い「琉球」は、近世以降の所産であるということ。首里城の王府儀礼も、琉球の船も建築も、古琉球時代は、もっと日本的だったらしい。ところが、薩摩による征服以降、ひとつは「儒教」という先進的な価値観による内政改革のため、また中国に対し朝貢国として「優等生」ぶりをアピールするため、さらにはヤマトの幕藩体制に呑みこまれないため、など、いくつかの理由で、中国化が進行したのだという。

 ただし、王族の食文化は、最後まで日本食系統だったようだ。今、沖縄料理といわれるものは、中国からの冊封使を迎えるための特別料理か、肉体労働中心の庶民が食べていたものだという。琉球宮廷料理、食べてみたいなあ。画像け検索すると、韓国の宮廷料理に似ていなくもない。最後の琉球国王・尚泰王の息子、尚順氏が"グルメ男爵"として知られているというのも、初めて知った。

 尚王家については、東京移住後も、美術品・古文書から不動産(庭園、陵墓)まで、その遺産をきちんと管理し、今日に伝えてくださったことに本当に感謝したい。ただし、選りすぐりの「財宝」は、沖縄戦の最中、米軍に持ち去られてしまったという。日本も韓国に返すべきものは返しつつあるのだし、アメリカも返還、せめて公開してくれないものだろうか。

 あと、面白すぎるが、大坂夏の陣で死んだはずの豊臣秀頼が琉球に潜伏していたという伝説があるそうだ。明の健文帝の伝説を思い出す。少なくともウィリアム・アダムス(三浦按針)は、琉球に寄港した際、大坂から落ちのびた「位の高い人物」が首里に来たことを聞いているという。え~誰なんだ!? また、元朝17代天元帝の次男・地保奴(ティボヌ)は、捕えられて南京に送られたあと、琉球に追放されたと『明実録』にあるそうだ。本書では、1368年、明建国直後の北伐で捕えられたように読めるが、Wikiを見ると、1388年(洪武帝の晩年)藍玉の北征軍に敗れている。どっちでもよさそうだが、中国史好きとして、念のため。

※標題の本の画像は、ボーダーインク社のサイトから借りてます。

※気になる関連本。写真だけでも眺めたい。
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大衆と対峙した政治家/山県有朋と明治国家(井上寿一)

2011-10-30 00:08:48 | 読んだもの(書籍)
○井上寿一『山県有朋と明治国家』(NHKブックス) 日本放送出版協会 2010.12

 根があまのじゃくなので、歴史上、人気のない人物ほど気になる。伊藤博文への肩入れも、そんな気持ちから始まった。しかし、NHKドラマ『坂の上の雲』では、加藤剛演ずる伊藤博文がカッコ良すぎて、リアル伊藤公ファンとしては、ちょっと気恥ずかしい感じがする。さて、山県有朋は誰が演じていたか、思い出せなくてチェックしたら、江守徹だった。うーん。本書を読んだ印象だと、もう少し深謀遠慮の似合うタイプがいいと思う。

 本書は、政治家・山県有朋を主題とするため、生い立ち~幕末の青年期はさらりと済ませ、明治維新政府における手腕の振い方から、本格的な記述に入る。徴兵制度による国軍の創設。悪名高い統帥権(参謀本部)の独立。しかし、本書の描く山県は、頑迷な軍人至上主義者でも、狂信的な国家主義者でもない。つねに柔軟な判断のできるリアリストである。

 基本的には、山県は「非選出勢力」を中心とする立憲君主制の確立と護持に力を注いだ。選出勢力(政党、その背後の大衆)の拡大は避けねばならなかった。そのためには、国民生活を圧迫し、民心の離反を招くことは望ましくないので、ときには軍事費を削減し、「強兵」よりも「富国」を優先した。危険な社会主義を根絶するために、むしろ労働者保護や疾病養老保険などの社会政策を整備し、地方自治を推進した。いまの日本に、こういうリアルな洞察力の働く政治家はいないものだろうか、と思う。右でも左でもいいから。

 外交においては、列国とのパワーの差に自覚的であったがゆえに、協調外交を重視し、日清・日露の二つの戦争でも開戦回避を主張した。特に私は、日清戦争前夜の「朝鮮永世中立国化構想」を初めて本気で読んだ。ずっと口先だけの空論だろうと思っていたのだ。山県は、この構想のカウンターパートナーとして清国の李鴻章に期待していたという。しかし、国内の対外強硬論に乗じた陸奥外相は、枢密院議長の山県、首相の伊藤を押し切って、開戦を決定する。

 いざ開戦となれば、「一介の武弁」を名乗った山県は、誰よりも積極的に戦争を推進する。著者は「それが山県の矜持だった」と書いているけど、やっぱり私には分かりにくい点である。繰り返すが、本書は、政治家・山県有朋を主題とするため、二つの戦争それ自体の経過には、ほとんどページを割かない。日露戦争もアッサリ終わって、その後に山県が果たした役割について詳述する。

 本書を読んで再認識したのは、山県有朋(1838-1922)が、大正11年、83歳まで生きていたこと。長寿だなー。陸奥宗光(1844-1897)、伊藤博文(1841-1909)、桂太郎(1848-1913)、井上馨(1836-1915)など、明治国家の成長を支えてきた政治家たちが次々に没する中、山県は、大衆消費社会と対峙し、政党政治家の大隈重信、原敬などを巧みに操って「ポスト明治国家」の軟着陸に腐心し続ける。この時期(大正~昭和初頭)の政治史も、多少読んだことがあるのだが、あまり山県の影響力を考えたことはなかった。

 山県の国葬に際して、ジャーナリスト石橋湛山(1884-1973)は「死もまた社会奉仕」という挑発的なタイトルの一文を寄せ、山県の死は、社会の健全な発達に必要な「新陳代謝」でなくてはならない、と論じているという。権力者として近代日本の(明治日本の)国家秩序を維持し続けた山県は、もはや去るべき時に来ていた。しかし「敵ながらあっぱれ」という評価を石橋は示した、と著者は書いている。

 全く政治思想の異なる側から、これだけの"評価"を贈られるのは、ある意味、権力者として名誉なことであろうと私も思う。ただ、のちに石橋が政界入りして首相にまでなったことを括弧に括って読むと、敵も何も、ずいぶんアレじゃないの?と思うところもある。今なら、上杉隆が中曽根康弘を評するようなものか。これは蛇足。
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秋の花・菊

2011-10-29 19:33:29 | なごみ写真帖
仕事の波が少し引いて、一段落。次の波まで、だらけておく週末。



ご近所の生け垣のキク…たぶん(植物を見分けることに自信なし)。

若い頃は、つまらない花だと思っていたが、このペンキのようなベタ塗りの色彩感に、逆に野趣を感じて、好きになってきた。部屋に飾るなら、気取って一輪だけ挿すのではなくて、ざっくり束で取ってきて、籠に盛っておきたい。

采菊東籬下 悠然見南山 (菊を采る東籬の下 悠然として南山を見る)

でしたね。
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ネット配信ドラマ『大明帝国 朱元璋』看完了

2011-10-27 00:55:07 | 見たもの(Webサイト・TV)
○『大明帝国 朱元璋』(2006年、上海三九文化発展有限公司、中国国際電視総公司制作)

 夏から『GyaO!ストア』で見ていたドラマを見終わった。全46話を見終えるのに、840円×8=6,720円。ネットで配信ドラマを購入するのは初めての体験だったので、高いか安いかは判断がつかない。

 ドラマは面白かった。貧民から身を興し、明王朝の太祖となった朱元璋(洪武帝)の生涯を描く。貧窮の中で父母を失い、孤児となって寺で成長した朱重八。幼なじみに、やがて義兄弟の盟約を結び、明建国の功臣となる徐達、湯和がいる。長じて、郭子興の義軍に入り、馬姑娘(のちの馬太后)を娶って、郭子興軍を受け継ぐ。元、漢(陳友諒)、呉(張士誠)の三軍を撃破して、ついに大明皇帝となる。

 ここまでが前半。陳友諒との激烈な水上戦(鄱陽湖での戦い)が見どころ。映画『レッドクリフ』で、派手に火薬を使っていたのには苦笑したが、この時代設定ならOKか。李善長、劉伯温という2人の軍師が幕僚に加わる。軍師というより、民政担当と考えるほうが正しいかも。

 北伐によって元の残存勢力を一蹴すると、活躍の場を失った将軍たちの間に、恩賞・封爵をめぐって不満が渦巻く。続いて、文官たちの陰湿な権力争い。楊憲、胡惟庸は、相次いで、皇帝・朱元璋に取り入り、さらには欺こうとする。ひとり栄達に背を向け、故郷に帰ることを望む劉伯温。しかし、朱元璋はこれを許さない。そんな劉伯温に嫉妬し、自らの立場を守ろうとする李善長。

 後半は、朱元璋の頑固で冷酷な暗黒面がクローズアップされる。陰惨なエピソードが続くので、もう見るのをやめようかとも思った。朱元璋は、やがて皇位を継ぐ、心やさしい息子・朱標のために、全ての奸臣を取り除いておこうと奮迅する。しかし、朱標は、父より先に早世してしまい、朱元璋を支えた賢夫人・馬太后も没する。この、次々に登場人物が没していく最後の5話くらいは見ごたえがあって、引きこまれた。朱元璋を演じている胡軍の「老い」の演技が、思った以上によかった。

 いや、俳優さんはみんなよかった。低予算ドラマなのか、衣装とか小道具はわりと安っぽかったと思うのだが、登場人物の魅力にひかれて、最後まで見てしまった。折々、史実を確認しながら見ていたのだが、ほんとに中国史って過酷だなあ。李善長なんて、明王朝の筆頭功臣とされ、左丞相まで栄達したのに、76歳で罪を問われて自害させられる。これだから、中国の官僚は、命のあるうちに隠棲したいと思うんだろうなあ。ドラマでは、刑場に引き立てられる李善長が、朱元璋を罵る藍玉をさえぎって「あの方は千年にひとりの天が選んだ皇帝なのだ! わしが皇帝でも李善長を罰する!」みたいなことを叫ぶ。このドラマ、いろいろとお爺ちゃんがカッコいいのである。劉伯温(劉基)は、中国では有名人なのだそうだ。二階堂先生が書いている。

 徐達は、Wikiに「(朱元璋に)毒殺されたとみる説も故ないことではない」とある。ドラマでも、ちょっと微妙な描き方をしていた。「南京にある徐達の邸宅は『瞻園・太平天国歴史博物館』として現存している」というリンク先を見て、自分が観光でここに行ったことがあるのを思い出した。そうか、あれ、徐達アニキの邸宅だったのか!と、ちょっと嬉しい。架空キャラでは、二虎、玉児(投獄中のすっぴん顔のほうが美人)夫妻が癒し系で、謎キャラの呉風も好きだった。

 朱元璋といえば、あまりにも相貌の異なる二種類の肖像画が伝わることで有名だが、ドラマの最終話では、童女・小青(李善長の一族という設定)が「こっちはいい人すぎる、あっちは怖すぎる」と不思議がるのに対し、朱元璋が「どちらも爺々の顔なんだよ」と語りかけるのが、一種の「謎解き」になっている。ラストシーン、落日を背景に、静かに息絶える朱元璋の姿にかぶさるナレーションも「その功罪はいまだ決していない」と述べるのが、いかにも中国の歴史ドラマらしい。中国の歴史って、千年経っても功罪が決しない人物がたくさんいるからなあ。
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幕間(まくあい)の美術館/知られざる歌舞伎座の名画(山種美術館)

2011-10-26 21:09:56 | 行ったもの(美術館・見仏)
山種美術館 歌舞伎座建替記念特別展『知られざる歌舞伎座の名画』(2011年9月17日~11月6日)

 改修中の今だから、可能となった歌舞伎座名画展。出品リストをちらりと見たら、高橋由一とか岡田三郎助とか和田英作とか、私の好きな近代初期の洋画家たちの名前があったので、見に行くことにした。

 会場の説明パネルによれば、歌舞伎座の建物は、平成25年(2013)完成予定の新劇場が第5期にあたる。明治22年(1889)に建てられた第1期の歌舞伎座は洋風建築(ただし内部は和風)だったが、明治44年(1911)に大改築されて、純日本式の宮殿風になった。絵画の収集を始めたのは、昭和26年(1951)、第4期の歌舞伎座再建以来のことらしい。企業などから提供された絵画が掲げられ、「幕間(まくあい)の美術館」として人々を楽しませてきた。ということは、とびきり古い高橋由一の『墨堤櫻花』(明治9-10年頃)をはじめ、浅井忠、和田英作などの作品も、明治時代の歌舞伎座にかかっていたわけではなくて、戦後に購入or寄贈されたものなのだろう。

 明治期の作品で、最も興味深かったのは、亀井至一『山茶花の局(美女弾琴図)』(明治23年/1890)。第3回内国勧業博覧会に出品された『深殿弾琴之図』と、ほぼ同一構図の第二作とされる。モデルは、煙草王・村井吉兵衛の妻で、明治天皇の女官をつとめた日野西薫子。亀井の第一作は、博覧会会場で原田直次郎の『騎龍観音』をしのぐ人気となり、宮内庁買い上げとなったが、現在の所在は確認できない。以上、展示図録の解説によるが、チェックポイントがありすぎ!! 村井吉兵衛といえば、来月から京都の長楽館で『京都が生んだ明治のHERO 村井吉兵衛展』(11月6日~11月20日)開催のニュースを見つけてしまったし、日野西薫子といえばマンガ『公家侍秘録』の登場人物、原田直次郎といえば森鴎外のドイツ留学時代の友人である。

 画家・亀井至一の名前は初めて聞いたので、少し調べてみたら「横山松三郎に洋画と石版術をまなぶ」「玄々堂で画工をしていた」等の情報を拾った。画中の「山茶花の局」は、豊かな黒髪を大きな髷に結い、目鼻立ちのはっきりした、いくぶんバタくさい美人である。

 伊東深水とか鏑木清方とか上村松園の描く、アッサリ顔の和装美人は、昭和の作品。気をつけないと、時代錯誤感があるな、と思う。好きなのは、犬種の違う(性格も違いそうな)2匹のじゃれあいを描いた、小林古径の『犬(庭の片隅)』。速水御舟の『花ノ傍』は、たたみこむようなストライプ模様の交錯が面白く、最後に見る者の視線は、モデルの足元に寝そべる1匹の犬(スピッツかな?)に行きつく。

 川端龍子の『青獅子』は、ストレートに私好みではないのだが、魅力は分かる。むかし、池田理代子の少女マンガに出会ったときの感覚に似ている。片岡球子『花咲く富士』は、安定感のある魅力。こうして見ると、歌舞伎座って(あまり行ったことがないのだが)芝居の演目や観劇をテーマに描いた作品は少ないんだな。

 名優の短冊、明治の歌舞伎番付など、歴史資料も出品されていたが、珍品は、マッカーサーの手紙(歌舞伎座の再開を祝した)とリッジウェイの手紙(歌舞伎を鑑賞した後の礼状)だろう。全文日本語役が掲げられており、読んでみると、かなり余計なお世話だと感じるところもある。
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無心の破壊力/朝鮮時代の絵画(日本民藝館)

2011-10-24 23:13:56 | 行ったもの(美術館・見仏)
日本民藝館 『朝鮮時代の絵画-19世紀の民画を中心に』(前期:2011年9月13日~10月16日、後期:10月18日~11月23日)

 先々週末、今日が前期の最後だった!と気づいて、慌てて行って来た。そして、先週末には、始まったばかりの後期にも。なので、前後期まとめてレポートする。伝統的な描法や合理的な構図に捉われない、明快で大らかな魅力に満ちた「朝鮮民画」約100点を展示。

 まず前期。2階の大展示室に入って、あーなるほど、と思う。展示されているのが、いわゆる絵画作品だけでないのだ。屏風や軸物の間に、木工品や石像や陶磁器が、混然と並んでいる。本展の出品リストからは、それらは省かれているが、実際に鑑賞する際は、陶磁器に描かれた草花や動物も「民画」の一種として眺めていくことになる。リストに載っている作品にも、刺繍があったり、ガラス絵があったり、粉板(牧童図)があったりして、絵画と工芸の区別は曖昧である。ちなみに「粉板」とは、粉をこねるのに使うのかと思ったら、そうではなくて、習字の練習板だそうだ。

 面白かったのは、手書き・色絵入りの『占書』2冊。手に持って読むことを想定していないのか、やたらとデカい。1冊は漢文、1冊はハングルだった。手書きの縦書きハングルって、満州文字やモンゴル文字に似ていると思う。これは、刺繍の『狩猟図』を見て、朝鮮って両班(ヤンバン)文化だけでなくて、騎馬民族文化もそれなりに継承していたんだな、と感じた影響もあるかもしれない。

 大展示室を出ると、大階段の裏側には、金庾信(ユシン)墓の十二支像画像石の拓本5点(巳、酉、午、丑、龍)が展示されていた。驚くほど明瞭な拓本である。日本民藝館って、こんな資料も持っていたのか。ほか、大津絵や泥絵など、日本の絵画も味わいのある絵画資料が展示されていて面白かった。

 2階の第3展示室が、大展示室を補うかたちで、「鑑賞画と記録画」を中心とした朝鮮絵画の特集になっていることに気づく。さりげなく李巌の『花下狗子図』(16世紀)が出ていたりして、驚いた。これも日本民藝館の所蔵なんだなあ。同館では、ほとんど見たことがない。伝・李巌筆『猫蝶図』も好き。いま調べたら、中国では、猫と蝶に長寿を祝う意味があるそうだ(以上は前期のみ)。

 さて、後期である。一般の展示はほとんど変わっていないが、『朝鮮時代の絵画』に関しては、総入れ替えに近い。ただし、元来が無記名の民藝(民画)であるから、雰囲気はさほど違わない。注目は『天下図』(折本?)。前期は、朝鮮国内の地方図が展示されていたが、後期は、天下図・日本国図・琉球図・中国図・それに朝鮮全図(我国)の5図が開かれている。その天下図(世界図)があまりに稚拙で、ええ~19世紀でこれかよ~と思うと可笑しくて仕方ない。日本国図・琉球図もかなりテキトー。中国図は、さすがに主な地名の位置関係は正しく把握しており、文人の教養として、黄鶴楼とか岳陽楼とかまで正確なのが、また可笑しい。

 こんな書き方をすると朝鮮絵画を貶めているようだが、私は「どうしてこうなった」的な『瀟湘八景』とか、「朝鮮民画」の破壊力が大好きなのである。

 後期にも紙本の『狩猟図』が出ている。でも弓矢でなく、青龍刀や二刀流で、虎や猪を追いつめるって有り? 三国志演義や水滸伝の版本から、構図を借りてきているのではないかと疑う。馬上の人々は、お椀に毛皮を巻いたような帽子をかぶり、満州族の風俗に見える。余談だが、朝鮮民画の虎図って、前脚を交差させたポーズが多いのはなぜなんだろう。文字絵は前後期とも多かったが、後期に版画(墨摺)の『孝悌忠信』というのがあり、ふと谷中安規の作品を思い出した。谷中さん、一時期、朝鮮に渡っていたことがなかったっけ。

 第3室もすっかり入れ替わった。李巌の『架鷹図』が見られる。若冲の『鸚鵡図』を思い出す人もいると思う。『青紫聯芳図』は茄子と瓜の図。「中国・明時代(伝・朝鮮時代)」と成立時期・国が訂正されている。まだまだ、中国/朝鮮/日本絵画の整理って、これから進むんだろうな、と思う。『文官肖像』は、西洋絵画の学習を思わせる異色の写実画。でも、やっぱり民画のほうが好きだ。
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これからどうなる?/女性と学歴(橘木俊詔)

2011-10-24 00:10:06 | 読んだもの(書籍)
○橘木俊詔『女性と学歴:女子高等教育の歩みと行方』 勁草書房 2011.10

 一時期、格差論が流行って、さまざまな書き手が登場した中で、橘木さんは私の好みだった。声高に主義主張を唱えたり、危機感を煽ったりせずに、数量データを用いて淡々と語るスタイルに好感を持った。その後、2008年頃から、立て続けに大学論の著書を発表されていて、少し研究テーマを変えられたのかしら?と思っていたが、なるほど、本書を読むと、高等教育システムと格差の問題は、「学歴社会」をキーワードに直結していることが分かる。

 本書は、まず明治以来の日本の女子高等教育の「歩み」を概観する。言及されているのは、東京女子高等師範(現・お茶大)、津田英学塾、東京女医学校、日本女子大学校、東京女子大など。あまり多くのデータは残っていないので、橘木さんらしい切り口の分析は少ないが、各校の沿革史等を素材に、事実に即して語っていく。ところどころ「興味が尽きない」とか「不思議に思う」とか、学術書らしからぬ率直な感想が挟まれている。

 女子教育をめぐって、男性知識人たちが多く登場するのも、本書の面白いところ。東大総長・山川健次郎は、大正年間、内閣直属の臨時教育会議において「女子に高等教育を受けさせることは、民族の繁栄に害がある」と発言しているという。山川(大山)捨松の兄にして、この発言あり。東北帝国大学に女子を受け入れた沢柳政太郎総長は、大学経営の立場(東北大は旧制高校生の入学者が不足していた)から認めたのであって、積極的な男女平等論者ではなかったとか、同じく大正年間、九州帝大に2名の女子学士が誕生した際、リベラリストで知られる美濃部達吉教授は「僅か2人であるからその弊もなかろう」と発言しているとか…。まあ、こんな発言を後世に残されてしまった男性知識人も、迷惑な話だろうけど。

 なお、本書は「高等教育」の範疇を少し広げて、高等女学校進学者に関するデータ分析を行っている。高等女学校の教育水準は、男子でいえば旧制中学に等しい。しかし、特定の人々(女性)の中で、その教育を受けている人の数が少ない(1920年代で15%)ことは、これを高等教育とみなす根拠となる、と著者は述べている。ううむ、それでいうと、今の大学教育なんて、ぜんぜん高等教育ではないな。

 海外の女子教育への目配りも興味深かった。アメリカでは、第二次大戦後、経済的繁栄によって社会が保守化し、1950~60年代には、男性が外で稼ぎ、女性は家で家事と子育てに専念するという思想が有力になったという。そうか、アメリカの女性の解放(社会進出)というのも、決して単線的に進んできたわけではないのだ。1960~70年代、主にリベラル・フェミニズムの影響によって、アメリカの女子教育は大きな変革を迫られ、今日に至る。

 日本では、戦後、本格的に女子の高等教育が認められるにあたり、GHQは男女共学を原則としようとしたが、「本国アメリカでは私立学校で別学を認めているのに、日本の私立学校に共学を勧めるのはおかしい」という指摘を受け、多くの女子大学が誕生することになった。著者は、「私が関心を持つのは…旧制の女高師や女子専門学校が…ほとんどが共学化しなかった事実とその理由である」と述べている。これはどうやら、女子教育関係者の自負と、父兄の希望が大きかったらしい。一方で、現役女子学生は、むしろ共学化を希望していたことが、当時のアンケートから分かっているのが皮肉である。

 近年、女子の高等教育には、別学→共学へ、短大→四年制へという流れが顕著である。もうひとつ、女子教育全体としては「超高学歴層(名門・難関大学卒)」「高学歴層(女子大を含めた普通の大学・短大卒)」「低学歴層(高卒以下)」という三極化が進行しているという。では、これまで高学歴の男性によって占められてきた社会的な指導者層は、今後、「超高学歴層」の女性によって一部代替されていくのだろうか。著者は「そうあってほしい」と希望を述べつつ、そのための条件(考慮すべき点)を3つ挙げる。第一に、ワーク・ライフ・バランス。第二に、差別という障壁(の行方)。第三に、日本が学歴社会であり続けるか否か。

 学歴社会の風潮が続くほうが、高い学歴をもった女性たちは、社会の指導者層に到達しやすい。もし日本がその特色を放棄するような時代になれば、「競争は混沌としたものになる」。さあ、あなたの望む社会はどっち?と問われているような、悩ましい設問である。ちなみに著者は、企業や役所の昇進においては、学歴の比重が小さくなるが、いわゆる専門職に関しては、学歴社会の退潮はないと考えており、この方面への女性の進出に期待している。それはいいんだけど、これから社会の指導者層(管理職)は何で決まるようになるんだろう。学歴社会がベストだとは思わないが、「混沌」の行方が恐ろしくて、不安になる。
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其の二「雪」/春日の風景(根津美術館)

2011-10-22 18:02:02 | 行ったもの(美術館・見仏)
根津美術館 開館70周年記念特別展『春日の風景:麗しき聖地のイメージ』(2011年10月8日~11月6日)

 其の一「月」編は、春日宮曼荼羅についての雑感を述べたが、ここでは『春日権現験記絵』の感想を中心に述べたい。高階隆兼筆、全20巻、鎌倉時代、宮内庁所蔵。私の大好きな絵巻のひとつであるが、ホンモノはめったに見たことがない。書き始めて7年になるこのブログでも、2005年と2009年に登場しているだけである。

 本展では、巻1と巻19を展示。巻19は、一度見たら忘れられない、アイシングしたような雪景色の春日山が描かれている。私は、たぶん1999年、東博平成館の開館記念展で、この場面を見て、『験記絵』のファンになってしまった。しかし、2009年の『皇室の名宝』展の感想にも書いているように、この絵巻のストーリーは、よく理解していなかった。今回は、巻19の冒頭から三分の二くらいまでが開いているので、かなり物語を読み込むことができる。

 巻19は、正安3年(1301)10月、春日社に押し入った悪党が、神鏡14面を強奪した事件の顛末を記している。絵巻制作のわずか10年ほど前の出来事である。冒頭、興福寺の衆徒軍が、悪党追捕のため、社殿に参集する。これに続くのが、時ならぬ雪景色の春日山。そして、悪党と衆徒の合戦が描かれ、神鏡3面を取り戻す。その後、瑞光に導かれ、山寺の堂内や土中から、次々に神鏡が発見され、最終的には全て取り戻すことができた。

 これについては、本展図録のコラム「雪にこめられた神威(松原茂)」が興味深い。御正体の神鏡14面を奪われるという屈辱的な災難に遭った春日山の雪景色を、歴史家の五味文彦氏は「春日山が深い悲しみをたたえているさま」と解釈しているそうだ。松原氏は「むしろ春日神の静かな怒りを表しているようにも思える」と評している。どちらの解釈も感銘深い。

 日本の野山は、人間の行為に対し、怒りや悲しみ、あるいは喜びや慈しみなど、いつも豊かな感情を表してきた。絵師はそれを表現し、見るものはその意味を理解することができたのだ。そのことを忘れて、「わあ、きれい!」だけで、やまと絵を見てはいけないな、と感じた。

 『験記絵』は、痛みやすい絹本であるにもかかわらず(←ここ強調!)700年も伝えられてきたことも驚きであるが、上記コラムの補注によれば、宮内庁は、平成16年(2004)から15年計画で、全巻の本格修理に踏み切ったという。痛みやすい表紙ははずして別置保存し、「皇后陛下が飼育された日本純産種の蚕・小石丸の糸を用いて復元模造した綾で新調された」という。なんと、ありがたい。平成の世に皇室があってよかった、と素直に思ってしまった。

 以上のとおり、今回の展示図録は、豊富な情報を含んでいて、お買い得(まだ全部読んでいないけど)。絵巻の図版が大きいのも嬉しい!

 このほかの展示品では、工芸の優品が多数。青いビーズ(ガラス玉)の瑠璃燈籠は、灯を入れたところを見てみたい。会場のキャプションボードに、『験記絵』に同じものが描かれている、とあったので、探してみたが、見つけることができなかった。いま図録を読んだら、巻1の冒頭、社殿の軒下に小さく描かれている。東博所蔵の『春日宮曼荼羅彩絵舎利厨子』は、厨子の奥壁に、まっすぐ伸びる参道、朱塗りの鳥居、春日山を描く。遠近法の効果が感じられる。

 初めて知った豆知識として「南都八景」というのを挙げておこう。「東大寺鐘」「春日野鹿」「三笠山雪」「猿沢池月」「佐保川蛍」「雲井坂雨」「轟橋行人」「南円堂藤」だそうだ。文献上の初出は『蔭涼軒日録』の由。雲井坂と轟橋は、「奈良きたまち」のサイトに詳しい(面白いな。このサイト)。

 展示室5は「古代織物の美」を開催中。中国および日本の7~8世紀の織物が、端切れとはいえ、50点も見られる貴重な展示なのだが、夏の中国旅行で、紀元前の衣服がまるごと残っている(荊州博物館)のを見てしまったインパクトから立ち直れていないので、いまひとつ感興が湧かない。展示室6は、今年も「名残の茶」。やっぱり、この時期(晩秋~冬)の茶道具取り合わせが、私はいちばん好きだ。
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其の一「月」/春日の風景(根津美術館)

2011-10-21 23:34:18 | 行ったもの(美術館・見仏)
根津美術館 開館70周年記念特別展『春日の風景:麗しき聖地のイメージ』(2011年10月8日~11月6日)

 聖地「春日」のイメージの展開と諸相を紹介する展覧会。いま微かに思い出すのは、たぶん80年代に、まだ珍しかった絵画史料論の本で、ある春日宮曼荼羅についての論考を読んだ記憶がある。描かれた風景(御蓋山に対する社殿の向き)が、現実の空間と異なるという趣旨だったと思うが、当時はまだ、春日社になじみが薄かったので、やたらに難しく感じられた。

 春日野の周辺の地理が分かるようになったのは、2009年、2010年と2年続けて、8月の万燈籠を見に行く機会があってからで、つい最近のことだ。現地の地理を理解して、春日宮曼荼羅を眺めてみると、あのへんに万葉植物園と駐車場があって、あのへんが、万燈籠の特別拝観と一般拝観の別れ道の三叉路、などと実感がよみがえってくる。社殿をめぐる回廊も、特別拝観で訪ねたままのように思う。ただ、参道の始まり(一の鳥居)附近に描かれた二基の五重塔は分からなかった。興福寺の塔?東大寺の境内?と首をひねったが、現在の奈良国立博物館の敷地にあたる。そうだー。博物館の建物の裏(南側)に塔の礎石が残っていたことを、やっと思い出す(※写真)。

 参道の突き当たりに描かれた「山」は、いずれの図像でも二重の構図を取る。手前に御椀を伏せたような、なだらかな小山。淡い緑色を基調に、白っぽい花木を鱗のようにあらわす。小山を囲む屏風のような奥山は、少し稜線がでこぼこしており、濃い緑色で平板に描かれる。しばらく眺めていて、あ、そうか、手前が御蓋(みかさ)山か!と思い当たる。そうすると、奥が春日山なのか?

 いろいろ調べてみたが、この地図が納得できて、分かりやすいと思った。→(個人サイト)たのしい万葉集「平城京東部」。Wikiによると、御蓋山を「春日前山」、奥の別名・花山(はなやま)を「春日奥山」と呼ぶこともある。そのため、御蓋山を「別名、春日山とも呼ばれ…」と書いているサイトもある。さらにいうと、隣りの若草山が、菅笠のような形の山が三つ重なって見えることから「三笠山という」とする「俗説」(Wiki)もあるそうだ。ややこしいな~。
 
 気になるのは、紹介した地図が、春日大社の前方を「春日野」としていることだ。いや、あの一帯は「野」じゃないだろう…少なくとも現在は、見事な「森」である。春日大社のホームページは、参道の南寄りの、「飛火野」と呼ばれる芝生の広がる野原を、古代の「春日野」として紹介している(追記:春日宮曼荼羅では、参道のまわりは、ちょぼちょぼと樹木の生えた野原がどこまでも広がっている。古くは「野」と「森」って、あまり区別がなかったのかも)。

 古例を除き、ある時期以降の春日宮曼荼羅では、春日奥山の向かって左肩に、鏡のように丸い月を配することが定番となる。これも不思議なのだ。なぜ月輪なんだろう? 阿部仲麻呂の古歌「みかさの山に出でし月かも」があったことは、もちろん知っている。では、なぜ仲麻呂は月を詠んだのか。だいたい、背景に春日奥山があるのだから、「御蓋山に出でし月」は、実景ではあり得ないではないか。かさ(暈)→月の縁語というのは考え過ぎ?

 ふと、根津美術館の『那智瀧図』を思い出した。あれは瀧の背景の右肩に大きな月輪が描かれている。「月輪」と書いたのは、根津美術館サイトの説明によるが、私は、以前、この作品を見た感想に「日輪」と書いている。自分の直感ではなくて、どうも『国史大辞典』あたりの記述を根拠にしたようだ。

 そして、本展の図録に収載されている、梅沢恵氏の論考「春日におけるイメージの変相」は、やまと絵では、月日を描き分ける場合、太陽は金、月は銀で表現されてきたこと、そうした描き方の法則からすれば、春日曼荼羅の円相は日=太陽を表していることになる、という重要な指摘を行っている。しかし、春日山と月のイメージは、仲麻呂の古歌以来、連綿と受け継がれてきた伝統であると、いったんは円相=月輪と確定したように見せながら、「(御蓋山との結びつきで)和歌に詠み継がれた景物『月』(※言うほど詠み継がれているのかは、例証不足)が(略)何らかの理由で日輪に変じたとすればどのような理由があるのだろうか」と問題提起する。これは面白い、と期待したら、最後は「太陽と月のどちらかであるということよりも、日月のイメージが両義的に保持された表現であることにこそ意味があるのかもしれない」という曖昧な結論に終わっている。うーん、なんか文献学的な論証が物足りない。というか、万葉集(7-8世紀)から千載集(12世紀)までが、あまり留保なく並んで例証に使われているのを見ると、これで時代認識は大丈夫なのか?と気になる。やっぱり文献資料と絵画資料を、どちらも自在に使いこなすというのは難しいなあ。

 寄り道が長くなってしまったので、続きは別稿、其の二「雪」編の予定。
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