見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

築地本願寺で朝ごはん

2017-12-31 12:25:56 | 食べたもの(銘菓・名産)
今年は東京の年末をのんびり。

一昨日は築地に行ってみた。買い物客で大混雑の場外市場は避けて、築地本願寺へ。さすがどこを撮ってもインスタ映えする。



お目当ては、本願寺境内のカフェ「Tsumugi(つむぎ)」。2017年11月にリニューアルオープンし、話題になっている「18品目の朝ごはん」を食べにきた。お粥+味噌汁+16種類の小皿の朝ごはん。



小皿のおかずは、豆腐・野菜など精進ものが多いが、肉・魚・卵もあり。フルーツとスイーツも1皿ずつ。



料理が出てくるまで少し時間がかかるが、そこは気を落ち着けて。お茶も美味しかった。御馳走様でした。
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2017年11-12月@東京近郊展覧会拾遺

2017-12-29 22:51:42 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館・表慶館 特別展『フランス人間国宝展』(2017年9月12日~11月26日)

 「フランス人間国宝(メートル・ダール/maitre d'art)」って何かと思ったら、日本の人間国宝(正式名称:重要無形文化財の保持者)認定にならって、フランス文化省により1994年に創設された制度なのだという。ミッテラン政権の時代か。本展は、この認定を受けた13名+2名の作家を紹介する。布、紙、羽根細工、金銀細工など、いろいろな工芸品があったが、最も印象的だったのは、陶芸家ジャン・ジレル氏のセクションで、曜変天目の探求に人生を捧げている。100件近い茶碗がずらりと並んでいて、確かに曜変天目を目指していることは分かるが、どれも曜変天目とは言い難い。京博の国宝展で龍光院の曜変天目を見た直後だっただけに、あの輝きが、万分の一、百万分の一の確率でしか生まれない奇跡であることを、あらためて実感した。

世田谷文学館 企画展『澁澤龍彥 ドラコニアの地平』(2017年10月7日~12月17日)

 澁澤龍彦(1928-1987)の没後30年を記念する回顧展。手書き原稿の文字の読みやすさが、澁澤さんの頭脳の明晰さと人柄を表しているようで慕わしかった。晩年、声を失ったため、夫人や友人との気のおけない会話がメモとして残されているのも貴重である。子供時代や学生時代を紹介する資料には、初めて見るものも多かった。匿名で書いた政治ビラも発見されている。私にとって澁澤は非実在スレスレの、畏敬と憧れの対象なのだが、こういうアーカイブ資料を見ると、やっぱり現実の中に生きた人であったことを実感する。

静嘉堂文庫美術館 『あこがれの明清絵画~日本が愛した中国絵画の名品たち~』(2017年10月28日~12月17日)

 国内有数の明清絵画コレクションを12年ぶりに一挙公開!がうたい文句だった。確かに2005年に『明清の絵画と書跡展』という催しがあって、私は見に行っている。まだ明清絵画の魅力が分かっていなかった頃の話である。本展は、藍瑛の『秋景山水図』と、その付属品として伝わる谷文晁の模写など、日中(日漢?)のコラボが見どころのひとつ。併せて、明清絵画を日本に普及させた図譜(江戸の版本)の数々も展示されていた。

国立科学博物館 特別展『古代アンデス文明展』(2017年10月21日~2018年2月18日)

 導入部で、南米大陸の太平洋岸に展開した9つの文化の存在を知る。北から順に「シカン」「チムー」「モチェ」「チャビン」「カラル」「ワリ」「インカ」「ナスカ」「ティワナク」。最も古いカラル文化は紀元前3000年頃に遡り(中国は仰韶文化期?)最も新しいインカ帝国は12~16世紀の話である。空間的にも時間的にも、あまりに広大な範囲の遺物が展示されているので、歴史的に整理しようとしても整理がつかない。単純に造形を愛でるのは面白かった。素人の感想では、南アジアに似ているかなあ。あと、1点だけ微妙にエロティックな土偶が出ているのだが、現地にはもっと山のようにあるという話を専門家がSNSで流していた。公的な美術館の展示では、いろいろ限界があるのだろう。

山種美術館 特別展・没後60年記念『川合玉堂-四季・人々・自然-』(2017年10月28日~12月24日)

 川合玉堂(1873-1957)の没後60年を記念する回顧展。玉堂といえば、日本らしい風景を写実的かつ情感豊かに描いた画家というイメージを持っていた。『鵜飼』や『春風春水』が私の考える玉堂で、正直、あまり好きなタイプではなかった。しかし今回、雪の山肌を白と黒のコントラストで描いた『宿雪』や、琳派ふうの金屏風『紅白梅』など、多様な作品があることを知って、少し認識を改めた。晩年の『荒波』『屋根草を刈る』それに『猫』など動物を描いた小品もよかった。

サントリー美術館 六本木開館10周年記念展『フランス宮廷の磁器 セーヴル、創造の300年』(2017年11月22日~2018年1月28日)

 1740年に誕生した軟質磁器製作所は、フランス国王ルイ15世の庇護を受けてパリ東端のセーヴルへ移転し、王立磁器製作所として、優雅で洗練された作品を作り出した。本展はセーヴル磁器の18世紀から現在までを紹介。やっぱり18世紀の王侯貴族に愛された作品は繊細で美しい。19世紀は装飾過剰でちょっと辟易する。19世紀末、アール・ヌーヴォーとアール・デコの作品はまた素敵。そして現在は、生活磁器の枠を超えて挑戦的な作品を作り続けていることが分かった。

 これで今年の展覧会は見納め。来年も楽しい展覧会と作品に出会えますように。
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仕事おさめは大手町でフレンチ

2017-12-28 21:38:08 | 食べたもの(銘菓・名産)
ああ~長かった一年がようやく終わる仕事おさめ。友人おすすめのレストラン「ラ・カンパーニュ」で夕食。

全国から取り寄せた旬の国産食材が売りものの、JA(全農)直営のフレンチレストランである。美味、美味。









カレンダーどおりだけど、6日連続で休めるのは、久しぶりの贅沢。

※メールチェックをしたら、幸い仕事のメールも来ていなかったので、今夜はゆっくり寝ます。

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東京下町の人と言葉/本所深川散歩、神田界隈(司馬遼太郎)

2017-12-27 23:40:57 | 読んだもの(書籍)
〇司馬遼太郎『本所深川散歩、神田界隈』(朝日文庫 街道をゆく36) 朝日新聞出版 2009.4

 『台湾紀行』を買うついでに、これも、と思って購入した。私は東京生まれなので、本書がカバーする地域とはつきあいが長いが、特に今年の4月から、深川に暮らし、神田に勤めるようになって、親しみが増したところである。しかし、読んでみたら(台湾紀行と同じで)あまり街の風景は描かれていなかった。特に本所深川編で、著者は江戸の風情を求めて歩くのだが、「現実はどうもただの下町に過ぎない」「閉口するほどに情趣がわきおこってこない」という嘆きが繰り返されている。執筆は1990年というから、まあ仕方ないと思うのだが、かなり執筆に苦労している様子がうかがえる。

 現実の風景に情趣がわかないので、自然と話題は歴史上の人物のことになる。本所生まれといえば勝海舟。その父・勝小吉の会話体の文章から、深川ことばの話になる。二葉亭四迷は『浮雲』を書くにあたって式亭三馬の会話を参考にしたと言い、「いわゆる深川言葉といふ奴だ」と説明しているらしい。確かに、東京弁とか江戸ことばという名称では広すぎる。私は深川におばさんがいて、このひとの話しことばが子供の頃から好きだった。おばさんの言葉は、東京住まいのほかの親戚とはどこか違っていた。上品すぎず下品でもなく、ストレートできれいなことばをつかう人だった。

 芥川龍之介も本所の育ちである。著者は、芥川の小説の登場人物たちの会話を分析し、「です」「ございます」等の文末の効果を論じている。「です」は明治・大正の書生ことば、近代人のことばであるというのが面白かった。

 また、家康の関東入部に始まり、深川一帯が整備されていくプロセスは、この夏、江戸東京博物館の常設展示で学んだことのちょうどよい復習になった。深川の地名は、一帯の開拓者である深川八郎右衛門に由来するそうだ。本書には載っていないが、菩提寺の泉養寺(市川市国府台)に墓所が残っていることや、八郎右衛門の屋敷の祠が深川神明宮(森下)の起源であることを知ったので、ここに書きとめておく。

 なお、現実の風景はほとんど描かれていないと書いたが、例外は隅田川にかかる橋の風景である。著者は船で隅田川を下り、土木工学の宮村忠さんとともに、橋の数々を眺めている。家康の関東入部の4年後に架けられた千住大橋は、慶応4年、最後の将軍慶喜が江戸を出て水戸に向かう橋となった。そして明治18年の洪水で流失した。なんだか江戸幕府と運命をともにしたような因縁の橋である。このとき、流れ出た千住大橋の橋材が下流の吾妻橋を襲って吾妻橋も落ち、その下流の厩橋はあやうく難を免れたという。すさまじい。

 神田編でも、いちばん印象的だったのは火事と火徐地の話だった。神田佐久間町は特に火元になることが多かったといわれる。しかし関東大震災のとき、神田はおろか東京の下町はほとんど焼けてしまったのに、神田佐久間町だけは焼け残ったのだそうだ。知らなかった。しかもその理由は、佐久間町の人々が町内を一歩も退くことなく「中世の籠城戦のように火という火を叩きふせて」消してしまったから、というのは小気味よすぎる。もちろん、こんなことを推奨すべきではないけれど、足掛け二日、消火にかけまわったという、下町らしい痛快な逸話である。「むかしからの不評判に、全員が腹をたてていたにちがいなく」と、著者はユーモアをこめて書いている。

 神田編の冒頭には、共立女子大の大講堂が目立つ交差点の風景が描かれ、この一帯も火除地で「護持院ヶ原」と呼ばれたことが示される。今、私が通勤している界隈だが、「護持院ヶ原」と聞いて思い出すものがあった。そう、森鴎外の歴史小説『護持院原の敵討』の舞台なのである。本書には、この小説のあらすじも紹介されている。ただし鴎外の小説に護持院ヶ原の風景描写はないそうだ。

 神田に関係する人物として取り上げられているのは、神田にあった共立学校に通った夏目漱石。女子医学校を起こした吉岡弥生。正岡子規と妹の律。律は共立女子職業学校に通い、母校の裁縫の教員となった。『坂の上の雲』が思い出されて懐かしかった。神田は学生の街なんだなあ。

 神田明神について。明治7年、本殿に祭られていた平将門の神霊がにわかに別殿に移され、少彦名命の分霊をお迎えするという御祭神の変更が行われた。全く明治政府なあ…。将門公が正式な祭神に復帰したのは昭和59年のことで、大河ドラマ『風と雲と虹と』の将門人気が一役買ったかたちだという。結果的にはめでたいことだ。神田明神といえば銭形平次で、野村胡堂の平次と岡本綺堂の半七を、特にことばづかいの面から比較した一段も面白かった。
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遊戯としての学問/南方熊楠(国立科学博物館)

2017-12-26 21:43:39 | 行ったもの(美術館・見仏)
国立科学博物館・企画展示室 南方熊楠生誕150周年記念企画展『南方熊楠-100年早かった智の人-』(2017年12月19日~2018年3月4日)

 生物学者か人類学者か、それとも民俗学者か、なんと呼べばいいのか分からない天才・南方熊楠(1867-1941)の生涯と業績を振り返る展覧会である。はじめに熊楠の生涯を概観し、幅広い業績の中から、特に隠花植物(菌類・地衣類等)の研究を、科学的視点で紹介する。ノート(抜書)や日記、書簡、フィールドワークの道具に加え、多様な標本や図譜が出陳されている。 熊楠関係のアーカイブ資料が、こんなにたくさん残っているとは知らなかったので、驚きの連続だった。いちばん驚いたのは「キャラメルの大箱」である。



 生物学者であった昭和天皇は、皇太子時代から粘菌にも関心をもち、熊楠の存在を知っていた。昭和4年(1929)、熊楠は、田辺湾に浮かぶ神島で陛下をお迎えし、御召艦「長門」の艦上でご進講を行った。このとき熊楠は、ミルクキャラメルの大箱に入れた生物の標本を持参したと伝わっている。この逸話を、私は何度か読んだことがあるのだが(たぶん丸谷才一さんの随筆で)「キャラメルの大箱」を勝手に「キャラメルの箱」に読み替えていた。私の頭の中では、一般に小売店で売っているような、小さなキャラメルの空き箱に入れた標本を、熊楠が昭和天皇に手渡すイメージだったのである。それが実は、キャラメルの小箱が50個くらい入りそうな「大箱」(ご進講に使用したのと同型、という説明あり)だったので、自分の長年の誤解が可笑しくて、笑ってしまった。

 本展では、熊楠は森羅万象を探求した「研究者」とされてきたが、近年の研究では、むしろ広く資料を収集し、蓄積して提供しようとした「情報提供者」として評価されるようになってきた、と説明されている。基本的に賛成できるが、さらに言えば、熊楠は「提供」するために情報を集めたのではなく、収集・蓄積することが全てだったように思う。

 展示パネルの解説に、熊楠の談話を引いて言う。自分は病的な癇癪持ちで、遊戯で病気を治そうとしたがうまくいかず、ならば「遊戯同様の面白き学問」を始めようと思った。博物標本の収集はなかなか面白く、癇癪を抑えることができて、狂人にならずに済んだ。これはいい話だ。遊戯としての学問が許されなくなったら、その社会は、ひどくつまらなく、生きづらくなると思う。

 熊楠の収集の成果に「菌類図譜」があるが、2012年に「菌類図譜」(第二週)数百枚が新たに発見された。すでに発見されていた図譜(第一集)とは趣きの異なるコレクションだという。没後70年以上経って、こんなこともあるのだな。科博では、南方熊楠顕彰館と協力して「菌類図譜」全ての画像(※博物図譜情報検索サービス)を公開しており、将来は文字情報もデジタル化して、菌類図譜と日記を軸としたデータベースを公開予定だという。すばらしい。

 熊楠の収集は標本だけではない。少年時代も、イギリス留学時代も続けていた、さまざまな文献からの抜書ノートも「収集」という営為の一例だと思う。また、熊楠が採集した菌類標本には未判定のものがあるという。いつか分かるときがくるだろう。学問とは、個人の生涯を超えてつながっていく生命体のように感じた。

 収集・蓄積するだけではなく、主張し行動する熊楠の足跡を示すのは、神社合祀に反対し、自然保護を訴えた「南方二書」。印刷配布されたパンフレットと、 原本(植物学者・松村任三に宛てた書簡)が並んで展示されていた。明治の神道政策って、旧来の伝統を破壊し、いろいろ無茶をしてるんだなあとしみじみ。

 もうひとつ印象的だったのは、熊楠が雑誌「ネイチャー」に寄稿した論文タイトルの一覧表。「動物の保護色に関する中国人の先駆的観察」「中国の蟹災害」「網の発明」「魔よけの籠」等々、いやあ読みたい。正月だし、久しぶりに『十二支考』でも読み直すか。
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忠と孝の間/中華ドラマ『趙氏孤児案』、看完了

2017-12-24 20:49:22 | 見たもの(Webサイト・TV)
〇『趙氏孤児案』全41集(2013年、中国中央電視台;中視伝媒他)

 中華ドラマファンの間では、2017年は大豊作の1年と言われているらしい。確かにそうだ。昨年の暮れ、まさかこんな1年が始まるとは予想していなくて、ちょっと見たいものが途切れた合間にGYAO!ストアで『天命の子~趙氏孤児』(日本名)を見始めた。面白いので、あっという間に最初の配信話数を見尽くしてしまって、続きの配信を待っているうち、関心が『射雕英雄伝』に移り、そのあとも『軍師聯盟』『人民的名義』に嵌って、戻ってこられなくなってしまった。年末に至って、ようやく全話を見た。日本語字幕版ではなく、中国の動画サイト「騰訊視頻」を利用して、第1話から見直した。

 舞台は中国春秋時代の晋の国。趙朔とその一族は政敵の屠岸賈によって滅亡させられたが、生まれたばかりの幼児・趙武は、趙朔の食客・公孫杵臼と、医者の程嬰によって助け出される。屠岸賈は城内の赤子の皆殺しを命じる。程嬰は、趙武の身代わりに、同じ日に生まれた我が子の命を差し出し、以後、我が子・大業と偽って、趙武を育てる。この奇計を屠岸賈に信じさせるため、公孫杵臼は命を捨て、程嬰の妻・宋春は記憶の一部を失い、夫を認識できなくなる。

 程嬰は、趙朔の妻・荘姫公主や趙朔の下僚・韓厥将軍に恨まれ、蔑まれながら、屠岸賈の庇護の下、大業(趙武)を育てあげた。大業は、屠岸賈の一人息子・無姜と兄弟のように睦まじく育つ。そして19年後、ついに真実が明かされるときがやってくる。

 煎じ詰めれば善悪のはっきりした復讐譚なのだが、ドラマは起伏に富んで見事な展開だった。元来「史記」や「春秋左氏伝」が伝える物語で、元曲や京劇でも親しまれてきたというので、ドラマの脚色がどのくらい入っているのか、よく分からなかったが、Wikipeadiaを読んで、かなり創作をまじえているらしいことが分かった。

 主人公・程嬰(呉秀波)と屠岸賈(孫淳)の超級頭脳戦がひとつの見どころだが、それだけではない。奸臣・屠岸賈は、愛妻・孟姜の死と引き換えに息子の無姜を得、息子の幸せ=栄耀栄華を願って、政敵を倒し、権力の簒奪に邁進する。しかし成人した無姜は、己れの出生を疑い、父に反発する。屠岸賈が差し向けた女スパイの湘霊は、大業の人柄にほだされ、屠岸賈から離反する。智者を以てしても予測できない「人心」の面白さ。また、屠岸賈の罠に落ちて命を失った趙朔だが、その生前の善行が、めぐりめぐって程嬰や趙武を助けることになる。

 登場人物は多くないが、みな印象的である。完全な悪人も完全な善人もなく、貪欲、短気、臆病、浅慮など、みんな何かの欠点を抱えていて、しかし魅力的に描かれている。全ての真相が明らかになったあと、大業(趙武)は屠岸賈の命を取るべきか取らざるべきかで悩むが、復讐にはやる公主と韓厥が「なぜ殺さない!」とキレる場面が面白かった。程嬰の妻・宋香(練束梅)は、少しでも豊かな暮らしを夢見る、単純で善良なおばちゃんで、程嬰のような智謀も義侠心も持ち合わせないのに、運命に翻弄されて、苦難の多い生涯を終える。検索すると、素顔は若々しい女優さんだが、老齢に至る難しい役をよく演じている。そして、最後まで宋香と程嬰が引き裂かれることなく、物語が終わってよかった。

 物語のその後を想像すると、謀反人の子となった無姜はつらい人生を送っただろうなあ。政治は嫌いだと言っていたから、辺境警備に赴いたか。草児はそばにつきそっただろうか。義父の程嬰を失った趙武も大変だろうと思う。晋の朝廷には、ほかに趙武を教え導く大人がいそうにないので。

 2013年に中国国内で数々の賞を総なめにしたという評価には納得。日本でテレビ放映したら、少なくとも一部には熱狂的なファンがつくドラマだと思う。どこか試してくれないかなあ。
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門前カフェの休日

2017-12-23 22:27:42 | 日常生活
職場は全く年末気分なし。それでも春~夏に比べれば、少し精神的な余裕は増えたかも。

週末は、散歩とドラマ(中国もの)視聴で気分転換。

門前仲町は「和」の甘味処が有名だが、「洋」のお気に入りは、深川不動尊参道のMONZ CAFE(モンズカフェ)。「スコップスイーツ」と呼ばれる、大皿に作ってスプーンで取り分けるタイプのケーキがお気に入り。今日はアップルクランブルだった。


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歴史の中の台湾/台湾紀行(司馬遼太郎)

2017-12-20 23:35:42 | 読んだもの(書籍)
〇司馬遼太郎『台湾紀行』(朝日文庫 街道をゆく40) 朝日新聞出版 2009.5

 台湾旅行に行くことに決めて、新しいガイドブックを買いに行ったついでに、そういえば台湾篇をまだ読んでいなかったことに気づいて購入し、行きの機内で読み始めて、帰りに読み終わった。本書は1993年と1994年の台湾旅行をもとに、精力的な取材をまじえて執筆されている。1993年1月は主に台北に滞在し、基隆港や日月潭にも足をのばしたらしい。1994年4月は、高雄から入り、台南、花蓮、嘉義、台東、珊瑚潭などをまわっている。しかし、不思議なことに本書を読み終えても、あまり著者が見た台湾の風景はあまり頭に残らない。むしろ、著者ではない「誰か」が見たさまざまな台湾の風景が、ぐるぐると万華鏡のように浮かんでいる。

 たとえば、台湾の行政の基礎をつくった児玉源太郎、後藤新平、そして新渡戸稲造。日本の占領行政を美化するつもりはないが、客観的に見て人材にめぐまれたなあと思う。水沢藩生まれの後藤、盛岡藩生まれの新渡戸は、少年時代、薩長という占領者のもとで、日本に対する台湾人の境涯を体験していたという指摘を面白いと思った。

 土木技師の八田與一は烏山頭にダムを築き、嘉南平野を豊かな農地に変えた。台湾の人々に愛され、尊敬された日本人として、むしろ最近になって、よく名前を聞くようになった人物である。ダム工事は、受益者たちが「組合」をつくって資金を集め、政府が補助金を出すという方式で行われたため、八田は「総督府技師」の肩書を捨て、組合に雇用された技師になったこと、太平洋戦争に徴用されてフィリピンに向かう途中、船が攻撃を受けて死んだこと、奥さんが烏山頭ダムに身を投じて後を追ったことなど、私は初めて知った。著者は、土木という技術がしばしば人類的な性格を持つと書いているとおり、このひとは日本人として顕彰するよりも、民族や国籍を超えた存在として、そっとしておくほうがいいのではないかと思った。

 伊沢修二が志願して台湾総督府学務部長心得となり、台北の北郊に芝山巌学堂という小学校を建てたというのは知らなかった。伊沢は六人の音楽教師を連れてきたが、伊沢の帰京中、この学校は日本統治に抵抗する武装勢力に襲われ、教師がみな死亡するという悲劇にみまわれた。伊沢の志が、八田に比べて劣っていたわけではないと思う。私たちの前にある歴史は、さまざまな偶然が左右したあげくの結果なのである。

 日本統治時代の山地人の反乱「霧社事件」についても、初めて詳細を知った。誇りを奪われた者の反乱という点で、熊本の神風連の乱に似ているという。人間は、生活の便利さや経済的豊かさだけで生きるものではなく、誇りを奪われたら生きていけないのだということは、いつも心に留めておかなければならないと思う。

 ほかにもたくさんの、有名・無名の人物が登場する。元新聞記者(著者の元同僚らしい)の田中準造氏は、戦前、台南に近い新営で少年時代を過ごした。引き上げで日本に移り住み、ずっとのちにひとりで新営に赴き、感極まって泣きながら、町の人々に助けられて、医者の沈乃霖先生を尋ねあてた。これは本書の中でも出色の、小説というよりおとぎ話のように美しいエピソードである。

 最初の旅で、著者は陳舜臣夫妻とともに李登輝総統と会談している。李登輝さんは、1988年、蒋経国前総統の死によって、総統に就任したばかりの頃だった(ちなみに本書巻末には『台湾紀行』を書き上げたあとの、別の機会の対談も収録されている)。李登輝さんは、親日的な政治家・言論人として知られるが、本書を読んで、むしろ思想的バックボーンはキリスト教なんじゃないかと感じた。私が非常に気に入ったのは、農民のデモが台北に向かっていると聞いて「あの沈黙の人達がデモをするようになったか」と涙があふれそうになったという逸話。近年の、若い世代による民主化運動についても、同様の感慨をお持ちだろうか。

 また、本書には、執筆時期の1993-94年という時代の刻印を、強く感じるところがある。蒋家の支配が終了し、急速に民主化が進んだ時期。忘れてはならないが、この少し前まで、台湾は自由にものを言える社会ではなく、政治犯は緑島という離島に送られていたのである。また、日本を抜いて世界でもトップクラスのドル持ちの国となり、なんと大陸に「優しい小姐」を求める嫁探しツアーが人気だともいう(当時)。著者は大胆にも李登輝総統に向かって、「もし大陸中国が、いっそ養ってくれませんかと言ってきたらどうします?」と聞いて、困らせている。

 それから20数年が経ち、台湾の民主化は、さまざまな困難につきあたりながらも着実に進んでいると思う。一方、経済はどうなんだろう。特に悪化しているとも思わないが、今、「大陸中国が養ってくれと言ってくる」状態を想像する人はいないだろう。そうした時代の変化と、予測できたもの・できなかったものを確かめながら読むと面白い。
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台湾旅行2017【3日目/最終日】帰京

2017-12-19 23:04:24 | ■中国・台湾旅行
 週末旅行はすぐに最終日。12:50桃園空港発の便だったので、少し朝の観光ができるかと思ったが、ゆっくり朝食がとれたくらいで、あまり旨みはなかった。桃園空港にはクリスマスの飾りつけ。



 そして、しっかり『おんな城主直虎』最終回の放送に間に合うように家に帰った。楽しい週末はこれで終了。

(12/19記)
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台湾旅行2017【2日目】九份、台北市内

2017-12-19 22:57:18 | ■中国・台湾旅行
 台湾旅行2日目は、九份(ジウフェン)に行こうと決めていた。朝、目が覚めると、天気予報どおりの激しい雨音。しかし、ホテルで朝食を食べて出かける頃は、雨が上がっていたので、かすかな期待を抱いて、忠孝復興駅前から「金瓜石」行きのバスに乗る。ガイドブックには所用1時間半とあったが、朝だったので、もう少し早く着いた。しかし「九份老街」でバスを下りる頃は、滝のような大雨。折りたたみ傘は持っていたけど、とても外を散策できるような状態ではない。

 そこはよくしたもので、バスを下りてすぐの駐車場(?)の雨宿りスペースで、簡易雨具を売っていた。フード付きの雨ガッパ(35元)と靴カバー(2セット、30元)を購入。これでなんとか歩き出せる体制を整える。



 少し先から細いメインストリート「基山街」が始まる。両側は観光客相手のお土産屋、食べ物屋が立ち並ぶ。長い庇を張り出している店が多いが、完全な雨除けアーケードにはなっていないので、やはり傘なしでは歩けない。



 「基山街」と交差する階段道が「豎崎路」。少し上がると、九份国民小学校に突き当たって行き止まりとなり、少し下ると「阿妹茶楼」がある。全く予定してなかったのだが、雨の坂道を歩くのに疲れてしまったので、お茶を飲んで、少し休むことにした。



 この坂道は、いかにも九份らしい趣きが感じられる。私は、そもそも侯孝賢監督の映画『非情城市』(1989年)を見て以来、九份に憧れてきたのだが、今では『千と千尋の神隠し』(2001年)のモデルの街として、すっかり有名になってしまった。この日も、修学旅行らしい日本の高校生を何組か見たし、カオナシのお面など、ジブリグッズを扱っているお店をあちこちに見て、時代の変化を感じた。



 お昼過ぎのバスで台北市内に戻る。市の中心部の道はすっかり乾いていて、朝の雨はあとかたもなし。十数年ぶりに国立歴史博物館を訪ねてみた。残念ながら「歴史文物」の展示室は閉まっていて、近現代の写真と董小蕙(1962-)という女流画家の作品展示が中心だったが、けっこう楽しめた。

 

 それから龍山寺の近くにある「剥皮寮(ボーピーリャオ)歴史街区」を初めて訪ねてみる。狭い区画だが、清代の伝統的な店屋や日本統治時代の建物が保存・再生されている地区。街の歴史を尋ねる展示施設もあって面白かった。



 龍山寺では、ちょうど夕方のおつとめが行われており、声をあわせて経を唱える信者のみなさんの数に圧倒された。いつものおみくじを引いたところ、第四十四「周郎赤壁敗曹兵」が出た! 総合評価は「中中」だから、あまりよい卦ではないのだが、三国志随一のイケメン周瑜を引いたことに小躍りしたい気持ちだった。

 少し寒くなってきたので、いったんホテルに戻ってコートを羽織り、夜は寧夏夜市に行ってみた。胡麻もち(中華風の餅ではなく、日本ふうの白いもちである)を一皿買ったら、それだけで夕食になってしまった。

(12/19記)
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