見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

2020三月尽:日々の桜

2020-03-31 21:41:45 | 日常生活

毎年、三月末は落ち着かない。異動(と引っ越し)のサイクルにあたる年は無論、そうでなくても何かと慌ただしくて、ゆっくり桜を見ることのできた記憶がほとんどない。それが、今年は新型コロナウイルス感染症の影響で、不要不急の用事が雲散霧消した結果、意外とのどかな毎日を過ごしている(これからどうなるか分からないが、今のところは)。

3月20日(金) ベランダの前の桜が咲き始めたと気づいたのは三連休の初日。三連休は東京を離れる予定だったので、一気に咲いてしまうのではないかと心配したが、それほどではなかった。

3月24日(火) 花は下の枝から咲き始める。朝日が当たる時間帯はピンク色に染まってきれい。

3月26日(木) 中ほどの枝から梢へと徐々に開花が広がる。

3月28日(土) 雨の予報が外れて暖かな好天。一気に開花が進み、窓の外がピンク色になる。この日は、念願のお花見クルーズを予約していたのだが、都知事の「外出自粛要請」のため、運航中止になってしまった。仕方ないので、ひとりで川沿いの桜並木を歩きに行く。例年に比べると驚くほど人が少なかったが、静かな散歩が楽しめた。

3月29日(日) 翌日は一転して春の雪。白い塊が散っているのは、花びらではなく牡丹雪である。

3月30日(月) 雪で散ってしまうのかと思ったが、寒さのせいか、意外と花が残った。

3月31日(火) 今朝の窓の外。今が盛りの趣き。

今年は外を歩いている人が少ない上に、花に目を留めている人もあまり見かけない。それでも、どんなときでも花は咲くんだなあと思う三月尽。来年は心のどかに桜が見られますように。

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明治人の食べたもの/歴史のかげに美食あり(黒岩比佐子)

2020-03-29 19:32:57 | 読んだもの(書籍)

〇黒岩比佐子『歴史のかげに美食あり:日本饗宴外交史』(講談社学術文庫) 講談社 2018.2

 幕末から明治末期までの半世紀、近代日本を左右した大事件を、接待や交渉、あるいは密談のテーブルに並んだ饗応のメニューから読み解く。取り上げられる人物は11人、ペリー提督、アーネスト・サトウ、明治天皇(2回)、井上馨、大倉喜八郎、ニコライ皇太子、伊藤博文、児玉源太郎、村井弦斎、西園寺公望、幸徳秋水。

 ペリーは、嘉永7年(1854)二度目の来日を果たし、日米和親条約を成立させた。この調印に先立って、幕府が横浜でペリー一行に供した献立が残っている。料亭「百川」の仕出し料理で、盛時の朝鮮通信使への饗応よりやや控えめだそうだ。結び昆布、車海老、紅竹輪蒲鉾など、ハレの場にふさわしい料理が並ぶが、正直、あまり食欲が湧かず、ペリーに同情を感じる。しかし、それから10年ちょっとの慶応2年(1866)将軍慶喜がイギリス公使パークスを謁見した際の饗応はフランス式で行われた。料理をつくったのはフランス人シェフだというが、変化の速さに驚く。まあ人間は、理屈以前に、旨いものにははすぐ慣れるんだと思う。

 明治初期はフランス式会食の普及が最大の課題だった。鹿鳴館にも食堂があって、本格的なフランス料理が提供された。帝国ホテルの食事も、もちろんフランス式だった。著者は、鹿鳴館を建てた外務卿の井上馨と、帝国ホテルの建設・経営にかかわった大倉喜八郎を比較的好意的に紹介している。鹿鳴館では上流夫人による慈善バザーが行われたり、夫婦で参加するパーティが開催されており、新しい社会風俗を生み出し、定着させた功績は看過できない。また大倉喜八郎の舌は確かで、ハルピンのホテルでスカウトしたパン職人イワン・サゴヤンの焼いたパンが、今日のメロンパンのルーツになっているという説もあるそうだ。

 伊藤博文については、日清講和会議の春帆楼が紹介されているが、清国使節団の一行は、鍋、釜、火鉢から多くの食材を運び込み、料理人も連れてきて、ずっと自炊で通したのだそうだ。ついに日清両国の会食の機会はなかったという。それから10年後、春帆楼で河豚チリ鍋を午餐に食し、船で大連に向かった伊藤はハルピン駅頭で暗殺される。日本での最後の午餐が春帆楼だったというのは知らなかった。伊藤公、悔いはないだろうなあ。

 児玉源太郎のことはよく知らなかったので、本書に描かれたエピソードは面白かった。日露戦争の祝勝会で視察に来ていた外国武官たちからシャンパンシャワーを浴びたというのが主題だが、個人的に、茅場町の屋台のおでんの味が気に入って、参謀本部に三百人前届けさせたという話が好きだ。

 明治の後半は、だんだん話題が暗くなるのだが、日露戦争で捕虜になったロシア人が収容所で食べていた食事の献立は充実したもので、食欲をそそられる。外国人ジャーナリストの目を意識した配慮でもあったようだが、噂に聞く今の入国管理センターのほうが非人道的なのではないかと思う。

 幸徳秋水は、明治43年(1910)6月、大逆事件において逮捕され、翌年1月に死刑になった。獄中で過ごした大晦日に蕎麦、元旦に餅がふるまわれたことを漢詩に残している。

 人によって美食の定義はさまざまだろう。本人は日々の食事の1回としか思っていなかったものに、後世の人間がいろいろ意味づけしたくなる場合もある。いずれにしても、食べ続けて生きるのが人間なのだなあと感じた。

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水の都の危機管理/江戸水没(渡辺浩一)

2020-03-28 21:53:35 | 読んだもの(書籍)

〇渡辺浩一『江戸水没:寛政改革の水害対策』(ブックレット・書物をひらく 21) 平凡社 2019.11

 不謹慎な言い方になるが、災害の歴史を読むのが好きだ。今の状況だと、内海孝さんの『感染症の近代史』(山川出版社、2016)を思い出すが、去年の秋から江戸の水害に対する関心が持続していたので、本書を読んでみた。

 もともと江戸ができた場所は、利根川水系と荒川水系の二つの水系が海に出る河口域のかたわらにある。利根川水系は、約半分の流量が銚子方面に向かうように段階的に流路の変更が行われた。特に重要なのは中条堤(行田市)と権現堂堤(幸手市)で、これが破られると、洪水流が江戸に到達することになる。江戸市中では、日比谷入江に注いでいた平川の流れを、外堀(神田川)をつくって隅田川へ通した。これによって江戸の中心部は洪水を免れることができたが、隅田川が増水すると外堀に逆流し、小石川から市ヶ谷で洪水が起きることになった。また、標高の低い本所・深川地域も浸水しやすかった。以上は、水利の面から見た江戸の地形のまとめで、よく頭に入った。

 本書の主題は寛政改革の水害対策だが、はじめに、それに先立つ経緯を紹介する。寛保2年(1742)8月には、相模湾から上陸した台風の影響で大水害が起きた。「歴史天候データベース」の活用により、現代の天気予報図のように台風の進路や速度を復元する研究があることを知って驚く。浸水した本所・深川地域に取り残された人々に対し、町奉行所は「助船(たすけぶね)」を出して飲み水と食料を供給している。しっかりした民政が行われていたことに感心した。

 同年10月、幕府は関東地方のいくつかの河川の堤防修復を大名に命じ、隅田川の浚渫の評議を行っている。堆積土で川が浅くなると水の勢いが強くなり、大水害につながることが認識されていたのだ。しかし結局、浚渫は行われなかったのではないかという。災害直後の瞬発的な対応はよくても、次の災害に備えることに手を抜きがちというのは、なんとなく今の日本に似ている気がする。

 寛保大水害から30年後、大伝馬町への助成を目的として、隅田川西岸の三俣中洲に商業地を造成する計画が持ち上がった。この背景として、大伝馬町は、江戸と品川宿の間で幕府に伝馬と人足を提供する義務を負っており、幕府は大伝馬町に財政援助を与えていたが、財政負担を減らすため、この造成事業を持ち掛けたのだという。これも現代の利益優先の地方行政がやりそうな話だと思った。中洲新地のことは、昨年、太田記念美術館の『江戸の凹凸-高低差を歩く』で知って以来、気になっていたのだ。

 天明6年(1786)7月、江戸は再び大水害に襲われる。原因は台風ではなく集中豪雨だった可能性があるが、まだ結論は出せないとのこと。利根川・荒川の中流域で堤防が決壊し、隅田川の水位が両国橋付近で4.8メートル上昇した(ひえ~)。浸水は本所・深川だけなく、浅草、小石川や目白にも及んだ。大水害の原因は印旛沼干拓と中洲新地であるという噂が立ち、田沼意次は失脚。その後、松平定信の主導で、隅田川の浚渫と中洲新地の撤去が行われた。また浚渫された廃土を用いて、隅田川東岸に五つの「水塚」が作られた。洪水時の避難所を想定したものである。定信が回想録の中で「あとから思い出してうれしいのは、私が行った施策の中でも、深川本所の水塚、この社倉の米穀(備蓄米)、町々の火除地などである」と語っているというのは、彼の政治家としての姿勢がうかがえて、ちょっと好きになった。

 寛政3年(1791)8月には、江戸湾沿岸が高潮(強風と気圧低下によって海面自体が上昇する現象)に襲われ、深川洲崎で甚大な被害が出た。その後、定信は三俣中洲の例に準じて、住民を移転させ、空き地にしようとした。しかし、住民の移転に成功はしたものの、洲崎の「空き地」は観光名所として復興し、災害対策は不十分なものになってしまった。

 本書を読んで、現代人が「未曽有の災害」と感じる台風・水害も、意外と歴史上に類例があることを感じた。それから、こうした土地の歴史を知っていると、江戸の名所絵を見たときに違った感慨が湧くと思う。

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2020年3月関西旅行:彦根城、玄宮園

2020-03-25 22:09:15 | 行ったもの(美術館・見仏)

 三連休最終日は彦根へ。ブログ内で調べたら、前回は2009年に竹生島の宝厳寺ご開帳を見に来たとき、彦根観光をしているらしい。以前は京都に宿が取れないと、大津や近江八幡、時には彦根や長浜のビジネスホテルを探したものだが、最近、そういうことがなくなった。京都にホテルが増えたのだと思う。

 久しぶりに彦根に行こうと思った理由は複数あって、1つは2017年の大河ドラマ『おんな城主直虎』で井伊家びいきになったこと。その前に木下直之先生の『銅像時代』(2014年)で横浜・掃部山の井伊直弼像建立の経緯を知ったことも影響している。さらに2019年の年初からネットで見ていた中国ドラマ『九州・海上牧雲記』が彦根でロケをしていると知ったことが決定的になった。よし!春の彦根に行こう!と思い立ってホテルの予約を入れたのだが、昨年は3月末で職場を異動することが決まり、休日返上で準備をすることになって、泣く泣くキャンセルした。今年はそのリベンジを考えていたので、コロナ騒ぎが広まり、彦根城と玄宮園の建物が全て閉鎖中であると分かっても、やっぱり決行することにした。

 井伊直弼が青年時代を過ごした埋木舎(うもれぎのや)も閉館中。

 埋木舎の前のお堀の風景が絵に描いたようにきれいだった。白壁と黒い瓦が、中国・江南地方の城市を思わせる。お堀端の柳が芽吹くのはもう少し先。

 彦根城の天守。前回は「お城ブーム」で多数の観光客がつめかけて長い列ができていたので、参観をあきらめたことを思い出した。今回は人影がまばらだったが、閉鎖中のため登城できず。

 風情のある急坂を下って玄宮園へ。江戸時代初期に彦根藩4代藩主井伊直興が整備したといわれる庭園。中央に大きな池があり、茅葺き屋根のひなびた客殿が釣り殿ふうに池に張り出している。多彩な橋、築山、石灯籠などが変化のある風景をつくる。「彦根フィルムコミッション」のホームページによれば、『九州・海上牧雲記』はここで撮影を行ったらしい。残念ながら、ここはドラマで見た!と確信できる風景はなかったが、この石塔は、少年時代の寒江の登場シーンで使われたようだ。

 あとドラマでは、橋を使った印象的なシーンが多かったのだが、この橋は違うかなあ。

 玄宮園を出て彦根城表門に戻る途中に井伊直弼の銅像があったのだが、見落としてしまった。残念!

 それから彦根城下の東側、佐和山城跡方面へ向かう。JRの線路を渡ると、井伊家の「橘紋」を掲げた大きなお寺の伽藍が見えてきた。井伊家の菩提寺として、また父・井伊直政の墓所として直孝が開いた清凉寺である。でも、私が参拝したかったお寺はその隣り。龍潭寺(龍潭護国禅寺)である。

 遠江国・井伊谷(いいのや)にある井伊家の菩提寺を、井伊直政が佐和山城に転封された際、昊天和尚が移したもので、山門から続く参道は、佐和山ハイキングコースでもある。私は『直虎』ゆかりの地めぐりで、浜松の龍潭寺を訪ねたことを思い出して懐かしかった。「補陀落の庭」と呼ばれる石庭は昊天和尚作と伝える。枯山水ではあるけれど、豊かな自然に囲まれて、おおらかな感じの庭で好ましかった。また、書院の池泉鑑賞式庭園は昊天和尚と小堀遠州の合作と書かれていた。昊天さんの木像もあった。

 龍潭寺の隣りは井伊神社。彦根藩12代井伊直亮が、井伊谷の八幡宮(井伊谷宮?)から井伊大明神を分霊して祀ったのがはじめだという。井伊家の人々が、彦根に移ったあともずっと井伊谷を大事にしていたことが感じられて嬉しかった。

 それにしても彦根の町は、以前よりさびれた感じがした。駅前の平和堂アル・プラザも入ってみる気にならなかったし。早く賑わいが戻ってほしい。

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2020年3月関西旅行:東寺弘法市、八坂神社の茅の輪

2020-03-23 23:55:23 | 行ったもの(美術館・見仏)

東寺 弘法市+東寺宝物館 開館55周年記念『東寺名宝展-重要文化財 二間観音と密教工芸-』(2020年3月20日~5月25日)

 連休2日目は京都。今日は21日だから東寺縁日(弘法市)だ!と思い出して東寺に向かう。朝9時過ぎについたら、境内は大賑わいだった。東門を入ると、まず目につくのは植木屋さん。子供の頃、3月末に近所のお寺(真言宗だった)で開かれる植木市を楽しみにしていたことを思い出す。パンジーとか芝桜とか、小学生のお小遣いでも買える花の苗を選ぶのを楽しみにしていた。

 弘法市は、着物や書画、工芸品、骨董品もあれば、

 野菜、海産物、漬物、パンやスイーツもある。

 高野槙は和歌山から来るのかな? 泉州のタオル、若狭の塗り箸、明石のタコなど近県の特産品も。

 私は洗って使える布製のマスクを購入。むかし台湾でオートバイの排気ガスがひどかった頃、こういうマスクを買ったことを思い出して懐かしかった。

 大日堂、御影堂のあたりも参詣客で賑わっていた。御影堂の西側にひときわ濃いピンク色の「陽光桜」が満開だった。調べたら、「伯方の塩」の伯方塩業取締役会長をつとめた故・高岡正明氏が作出した品種であるらしい。面白い由来があるものだ。

 境内の南側にまわると、金堂正面の扉が開け放たれていて、屋外から薬師如来のお姿を拝むことができた。ふだんは有料拝観エリアなので近づけないはずだが、弘法市(あるいはお彼岸?)の日は特別らしい。食堂で御朱印をいただき、夜叉神に挨拶していこうと思ったら、なぜか雄夜叉がいなかった。

 続いて宝物館の特別展を見る。25年ぶりに公開された「二間観音」は、もと宮中清涼殿二間(ふたま)に安置されていたとされるもの。現在は、東寺の後七日御修法の際に祀られる。胸の前で左手に蓮華のつぼみを持ち、右手を添える聖観音菩薩を中尊に、右に帝釈天、左に梵天。光背、宝冠、瓔珞、衣のひだ、天衣の流れ下り方など、全て精緻で繊細。聖観音の立つ蓮華座からも宝珠の鎖がこぼれ落ちている。チラシの写真で見ると、ちょっとやり過ぎに見えるが、本物は優雅で気品があった。南宋風の優雅さ。でも顔立ちは和風だと思う。六角形を左右に引き伸ばしたような厨子が付随していた。

 このほかにも西院御影堂に伝来した仏像を公開。いずれも比較的小さなもの。愛染明王、釈迦如来(快慶の阿弥陀如来っぽい)、弥勒菩薩(腰が細く女性的)など。釈迦如来と弥勒菩薩は宣陽門院(後白河天皇の第六皇女)の寄進だという。あと東寺の梵鐘修理のため、足利尊氏が「馬一疋」を寄進したという文書が面白かった。

 巨大な千手観音を安置する展示室には、いつもの兜跋毘沙門天がいないので、どうしたのかと思ったら、奈良博の特別展「毘沙門天」に出陳中、という札が立っていた。そうかあ、入れなかった奈良博の建物の中にいらっしゃったのかなあ。代わりに(?)雄夜叉が来ていて、ここにいたのか!と驚く。

相国寺承天閣美術館 企画展『茶の湯-禅と数寄』2期(2020年1月11日~3月29日)

 後半に相国寺九十五世・鳳林承章の日記『隔蓂記(かくめいき)』に見られる、茶の湯をめぐる交流、墨蹟や美術品の購入・贈答の記録などが紹介されていて、茶の湯とは全然関係なく「ミイラ、ルザラシ、ウニコウル」という片仮名に目が留まってしまった(ルザラシは薬草)。

平野神社(京都市北区)

 早咲きの「魁桜(さきがけざくら)」という品種が満開というニュースを見たので行ってみた。色の薄い、ほぼ白に近い枝垂れ桜の美しさもさることながら、幹に大きな空洞を持つ状態で、満開の花を咲かせていることに驚いた。

八坂神社(京都市東山区)

 最後に八坂神社に寄った。このご時勢なので、疫病鎮めの八坂さんを拝んでおこうと思ったのだ。そうしたら、石段を上がってすぐの摂社の鳥居に茅の輪が取り付けてあった。蘇民将来を祀った疫神社であるという。なるほど。列の後ろに並んで、茅の輪をくぐって参拝した。

 さらに八坂神社の本殿の横にも茅の輪がしつらえられていた。こちらは左右が開けていて「8の字」まわりに3回くぐる(蘇民将来の子孫也と唱えながら)ように、との説明が添えられていた。通常、茅の輪くぐりは6月末の「夏越しの大祓」に行われるものだが、新型コロナウィルス感染症の流行を鎮めることを祈念して、特別に設置されたのだという。こちらも長い列ができていて、みんな神妙にくぐっていた。

 

 御朱印も「八坂神社」とあわせて、初めて「疫神社」をいただいてきた。ちなみに前日は奈良の春日大社にも詣でた。春日大社でも悪疫退散の特別祈願を行っていると聞いたので。科学も大事だが、こういう祈りも大事だと思う。

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2020年3月関西旅行:奈良で見仏(大安寺+福智院)

2020-03-22 22:40:27 | 行ったもの(美術館・見仏)

 この三連休の関西旅行はずいぶん前から決めていた。確か正月旅行から帰ってすぐ、次は三月と思ってホテルを予約しておいたのである。予定では、奈良博の『毘沙門天』(2020年2月4日~3月22日)と大和文華館『水のめぐみ、大地のみのり』(2月21日~4月5日)を見て、MIHOミュージアム『コレクションの形成-日本画を中心に』(3月14日~6月7日)を見てくるつもりだった。ところが新型コロナウイルス感染症の影響で、主要な美術館は軒並み休館。しかしまあ、天気もよかったので、微力ながら経済をまわそうと思い、のんびり関西旅行に出かけた。

大安寺(奈良市)

 初日は予定どおり奈良へ。近鉄奈良駅からバスで、秘仏馬頭観音立像の特別開扉(3月1日~3月31日)が行われている大安寺に向かった。確か2回くらい来たことがあるはずだが、ブログを検索しても記事が出てこないので、もう15年くらい前になるかもしれない。広々した境内にぽつりぽつりとお堂が建っている。はじめに本堂に参拝。お坊さんに促されて須弥壇に近づくと、目の高さに小さなお厨子があって、前面に御簾が張られている。御簾越しに拝したご本尊は十一面観音立像。右手をまっずぐ垂らし、左手に水瓶を持つ。裙が短く、華奢な足首が見えているのが印象的だった(※写真)。

 馬頭観音立像(※写真)は、本堂の背後の「嘶堂(いななきどう)」に祀られている。馬頭だけど馬の頭は載せていない。ストレートな忿怒の表現で、不動明王の原初形のようにも見える。身体に密着した天衣が、どっしりした腰の丸みを強調している。解説を読んで初めて気づいたのだが、胸の瓔珞だと思ったのは多頭の蛇で、足首にも蛇が巻き付いている。こ、怖い。

 最後に讃仰殿(宝物館)に寄る。中央に不空羂索観音、左右に聖観音と楊柳観音、四天王と、天平の木造仏7躯が並んでいる。四天王は多聞天像がよい。不空羂索観音はやや哀しげで優しい丸顔、感情を殺したような四角い顔の聖観音、品のある怒り顔の楊柳観音と、それぞれ個性的である。

福智院(奈良市)

 もう1箇所、特別拝観のお寺を訪ねた。奈良町エリアにある福智院である。門前に立ってはじめて、昨年秋、新薬師寺から春日大社まで歩く途中で、ここを通ったことを思い出した。お堂に入ると、熱いお茶と「あめちゃん」をいただける。特別拝観は宝冠十一面観音だが、本堂には大きな地蔵菩薩坐像がいらっしゃった。鎌倉時代の作で、めずらしい千体地蔵光背を有する。説明をしてくれたおかみさんの話では、むかしはお堂が荒廃して雨漏りするので、お地蔵さんが泣いたような顔になっていたとのこと。ようやくここまで修理したそうだ。

 秘仏の宝冠十一面観音は、華やかな宝冠と瓔珞をまとう。伊勢の某寺で発見されたもので、霊力のある方が所持していたが、縁あってこのお寺に渡ったという由来がとても面白かった。ネットにはほとんど情報がないようなので、もっときちんとメモを取ってくればよかった。あけっぴろげなおかみさんの話では、もとはそのへんに置いていたが、最近、厨子をつくったので秘仏になったそうである。

■東大寺ミュージアム 特集展示『二月堂修二会』(2020年2月4日~3月22日)

 最後に東大寺ミュージアムへ。特集展示に期待して行ったのだが、展示室はほとんど変わり映えがなかった。わずかに二月堂の再建地割図(設計図)や練行衆日記(この時期、いつも奈良博に出るもの)が出ていたくらい。え、これだけ?と思ったが「地下1階ホールでビデオ上映中です」と言われたことを思い出し、展示室を出て、地下1階へ向かう。

 すると大きなホールには、練行衆の僧衣や差し掛け(履き物)、紙子、食器などが展示されていた。それも展示ケースではなく、小中学校のバザーか文化祭のように、可動式のパネルと机を使って並べられているのが微笑ましかった。写真もたくさんあった。ホールの奥では、練行衆の立場で見た修二会の記録映像(平成元年制作、約70分)が流れていたので、ほぼ初めから終わりまで見てしまった。本行に入る前の準備の様子が特に面白かった。修二会の最中にしか来たことがないが、一度、2月28日の様子を見てみたいな。連日、気の抜けない行事であることはよく分かったが、写真パネルの食事風景の中で、テーブルに塩だか胡椒だか、調味料が用意されているのを見つけたときは少しなごんだ。

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ふつう、時々奇想/ふつうの系譜(府中市美術館)

2020-03-17 22:36:20 | 行ったもの(美術館・見仏)

府中市美術館 企画展・春の江戸絵画まつり『ふつうの系譜 「奇想」があるなら「ふつう」もあります-京の絵画と敦賀コレクション』(2020年3月14日~5月10日)

 新型コロナウイルス感染症の影響が続く毎日、フォローしていた府中市美術館のSNSアカウントから「予定どおり開催します」のお知らせが流れてきたときは嬉しかった。初日の土曜日は雨だったので、晴れた日曜日に出かけた。美術館から「マスクもしくは咳エチケット用のハンカチ等をご用意ください」というお知らせが公表されていたので、こういうときのために保管していた唯一の使い捨てマスクを着用して見に行った。

 いま「奇想」の日本絵画がブームを呼ぶ中で、あえて美術史のメインストリーム「ふつう」の魅力に着目する展覧会。中心となるのは、敦賀市立博物館の江戸絵画コレクションである。ここまでは予習の上で会場に入った。

 さあ「ふつう」って、何が来るかな?と思ったら、冒頭に見覚えのある作品。え?ええ?と思ったら、伝・岩佐又兵衛筆『妖怪退治図屏風』ではないか。昨年の東京都美術館『奇想の系譜展』の目玉のひとつだったもの。坂上田村麻呂の鬼神討伐を描いたという説明を興味深く読む。確かに源氏の白旗が舞っている。武士の軍団が弓を引いていないにもかかわらず、妖怪たちの上に矢が降り注いでいるのは、上空(画面の外)の観音菩薩が降らせているのだという。さらに蕭白が『山水図』『鍾馗図』『騎驢人物図』の3件。これらは全て個人蔵だった。

 そして「奇想」を眺めた上で「ふつう画」に向き合う。はじめにやまと絵の土佐派。愛らしく美しい貴族たちを描いた作品を、この展覧会では「まろ絵」と呼ぶ。なお、本展のメインビジュアルである土佐光起の『伊勢図』は後期展示。幕末の冷泉為恭も「まろ絵」の系譜なのだろうが、妙なリアリズムから生まれるおかしみが好き。『五位鷺図』とか。一方、中国絵画の魅力を再現しようとしたのが狩野派。探幽に始まる江戸狩野は、各地の大名の御用をつとめたり、町絵師にも広まり、江戸の「ふつう画」になっていく。

 18世紀に登場した円山応挙は、写生をもとに新しい「ふつう画」をつくり出すが、そのスタイルは、あっという間に弟子たちに広まり、応挙系の円山派と呉春系の四条派が成立する。応挙は「奇想」の対極にあるように言われるが、よく見ると変な作品が多いと思う。『紅葉白鹿図』も、なんだかぞわぞわする薄気味悪さがある。源琦、蘆雪、松村景文なども紹介。

 このあと、あまり意識したことのなかった原派(原在中、原在明)と岸派(岸駒、岸連山など)の作品が続く。全て敦賀市立博物館のコレクション。初めて見る作品が多くてとても面白かった。原在中は、京都のお寺などに行くとよく見る名前である。「パーフェクトな形」に特徴があるというが、きれいに整い過ぎて、時々「ふつう画」を踏み越えかけているように感じる。岸駒はさらに厄介で、『白蓮翡翠図』の、写実なのに物の怪のような蓮の葉は、どう見ても普通ではない。緑の描き分け(塗り分け)が異様。さらには「春の江戸絵画まつり」に何度か招かれている『寒山拾得図』のあやしさ(赤い靴と青い靴)。

 最後にもう一度「ふつう」に立ち返り、きれいな色ときれいな形を素直な心で楽しむ。と思ったら、墨画の楽しみ方の中に、橋本長兵衛(初代)の『仙人図』6幅の3幅が展示されており、その楽しさに頬がゆるんでしまった。特に琴高仙人、鯉に乗っているのだが、シン・ゴジラの蒲田くんに乗っているように見える。これは反則。中島来章の『三国志武将図屏風』にも驚いた。ギラギラした色彩で、とても円山派とは思えない。一見して「しつこい…」と思う作品、という、見る者の反応を見透かしたような解説には笑ってしまった。

 あらためて展示リストを見ると、106件のほとんど(90件以上)が敦賀市立博物館の所蔵品である。前後期でほぼ半分ずつ入れ替わるので、もちろん後期も見に来るつもり。図録をじっくり読んだ上で再訪したい。いつか敦賀も時間をとって観光してみたいな。

 お土産は「ふつう展」オリジナルの豆箱。「まめや金澤萬久」の商品である。中身は有機大豆の炒り豆(しおみつ、うめの2種類)。もう1種類、別の絵柄は後期展の楽しみにしているのだけど、残っているかしら。

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学習指導要領の虚妄/国語教育 混迷する改革(紅野謙介)

2020-03-16 23:25:27 | 読んだもの(書籍)

〇紅野謙介『国語教育 混迷する改革』(ちくま新書) 筑摩書房 2020.1

 近代日本文学の専門家である紅野謙介氏が、政府の国語教育改革に批判的な論陣を張っていることは承知していたが、最近読んだ石井洋二郎氏の『危機に立つ東大』で、記述式プレテストの精緻な分析を行っていることを知って読んでみたくなった。紅野氏には、すでに第1回プレテスト(2017年11月)を扱った『国語教育の危機』(2018)の著書があるが、本書は第2回プレテスト(2018年11月)の問題と、この間に改訂された「学習指導要領」の解説本を読み解いたものである。

 プレテストについては、まあこんなものか、という感想しか湧かなかった。問題文の選択は悪くなかったが、設問にいろいろ無駄な配慮が過ぎる。たとえば架空の人物「まことさん」が問題文から読み取った「考え」を120字以内でまとめさせる問題。出題者の「考え」を問うことによる異論や批判を避けたいのだろうが、無意味だと思う。また「第1文は~について、第2文は~について書け」「~という語句で書き始め、文末は~で結べ」などの煩瑣な条件付けは、記述式が得意でない生徒には助けになるのかもしれないが、回答を画一化させ、記述式のよさを殺している。

 より憂慮すべきは、名和小太郎氏の『著作権2.0』を題材とした2問目である。名和氏の文章が従来の著作権法の限界を指摘し、さまざまな思考実験によって、新たな著作権法を導き出そうとする試みであるにもかかわらず、設問は従来の著作権法の理解を問うにとどまっている。こういう「問題文は面白いのに的外れな記述式問題」は、世の中にけっこうあるものだが、褒められたものではない。

 後半は高校国語の『学習指導要領 解説』の解説本を読んでいく。最初に取り上げるのは、「要領」改訂作業の中心人物、文部科学省の大滝一登氏が書いた『高校国語 新学習指導要領を踏まえた授業づくり 理論編』である。ここでは文科省のお役人が、自分たちの主張に同意しない者を恫喝するときの「手口」が赤裸々に解き明かされていて面白かった。「ように感じる」「可能性が高い」程度の推測を前提に、突然強い口調で断定する論理の飛躍。仮想敵をつくるために積み上げられる妄想。「神の存在」や「大きな物語」の共有の時代は終わった、など、自説を装飾する大言壮語(これは笑った)。こういう文章を書いてはいけないという素晴らしい見本である。

 次に『高校国語 新学習指導要領を踏まえた授業づくり 実践編』(編著)に沿って、「現代の国語」「言語文化」「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」の各科目が何を教えようとしているか、どんな授業計画を想定しているかを見ていく。いま高校国語はこんなことになっているのか…。確かに「話すこと」「聞くこと」の重視はいいだろう。しかし「話す」ことは、いじめや暴力を誘発しかねない。人は二次方程式では傷つかないし、英語の例文や文法でも傷つかないが、第一言語を扱う「国語」はもっと慎重であるべきだと著者はいう。

 それから「読むこと」に関して、「学習指導要領」や「大学共通テスト」が、複数の資料を読んで1つの回答を導くことに強く拘泥している姿勢は、私も不思議に思っていたが、著者の解説で腑に落ちた。情報化社会において、多様な意見、多様な資料から必要な情報を抜き出す力が必要なのはそのとおりである。しかし「要領」解説者や問題作成者の根本的な誤解は「ひとつの資料から導き出される情報はひとつ」と考えていることだ。複数の資料を統合的に読むのではなく、ひとつの資料の中にある複数の情報に目を向けることこそが、情報を読み解く力になる、という著者の提言に共感する。

 そして著者は、複数性の極致というべき言語教材が小説であると解き、「要領」の解説者たちは小説を芸術だと思い込んでいる点において間違っている、と述べる。この小気味よい断定、思わず著者のいう「芸術」とは何か、という記述式の設問をつくりたくなる箇所である。本文ではこのあとに「小説」と「物語」を対比した説明がある。世界を一定のストーリーのうちに捉え、目に見えるかたちにするのが「物語」であり、類型的・典型的で、先入観や差別とも親しい。これに対して「小説」は、物語に支えられながらもそれを逸脱し、多様で個性的な表現を切り拓いてきたものだと説明されている。だからこそ、国語の時間に教師の指導で、そして教室のみんなで、小説一編をじっくり読むことは、無数の資料を読むことにまさるのだ。

 もうひとつ言っておけば、「要領」解説者の大滝氏は古典の「訓詁注釈」が嫌いであるようだが、私は高校と大学できちんと「訓詁」の手法を習ったことに感謝している。古典に限らず、文章を正確に読むために必要なことを教わったと思っている。

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唐代の書と仏像/名品抄 墨香耽美(センチュリーミュージアム)

2020-03-14 23:11:27 | 行ったもの(美術館・見仏)

センチュリーミュージアム 『名品抄-墨香耽美-』(2020年1月6日~3月28日)

 新型コロナウイルス感染症の影響が続く中、開館を続けているという情報を得たので、久しぶりに訪ねてみた。自分のブログを検索すると2013年の秋以来のようだ。ずいぶん行っていなかったな!(2013年当時は北海道に住んでいて、連休に東京の美術館めぐりに出て来たのだが、確かこの美術館に手帳を置き忘れ、翌日、慌てて取りに寄った記憶がある)

 今季の展覧会は、中国の書とその影響を受けながら確立された和様の書を、古筆・懐紙・墨跡などさまざまなジャンルの中にたどるもの。4階、5階に2つの展示室が設けられており、主に4階がこのテーマ展の会場になっている。展示室に入ると、他のお客さんは誰もいなくて、ほぼ文字ばかりの掛軸が並んだ静謐な空間だった。作品以外、余計な装飾バナーとか説明パネルがないのもよい。その代わり、1階の受付で貰った無料パンフレット(16頁)の説明が展示図録並みに詳しく、これを読みながら作品を見ていくと、とても勉強になった。

 たとえば『群書治要巻30断簡』は、かつて九条家が秘襲し、いま東博が所蔵する最古写本と一具と推定されるとか、『山城切(和漢朗詠集巻上断簡)』は、大阪住吉社の社家津守家に伝来した和漢朗詠集の断簡であるとか、私はこういう伝来情報を参照しながら作品を見るのが好きなのだ。もちろん「群書治要」や「和漢朗詠集」がどのような作品かという解説もあるし、書風の見どころ、筆者や成立時代の推定、それに釈文も添えられている。自分が学生だった頃に、こういう美術館があったら、もっと原資料を読めるようになっていたのではないかと思った。

 鑑賞用の書としては、冒頭の『貞観政要断簡』(唐時代)に惹かれた。もとは遣唐使がもたらした屏風に貼られていた色紙形の一枚ではないかと推定されている。それほど大きな文字ではないが、字間にも行間にも十分な余白があり、堂々とした王者の風格を感じる。特に「下」「千」などの縦棒の太さが力強い。中国の書では、環渓惟一の『偈』(宋時代)の少し右上がりの端正な行書も好きだ。江雪宗立筆『五大字』(江戸時代)は「地獄在目前」という横書きの大字で、禅宗らしい問答無用感がよいと思った。「地獄」がやたら大きく「在目前」が次第に寸づまりになっているのも好き。

 仮名の書は、蒐集者の趣味と見識だと思うが、連綿の美しさが目立った。古筆手鑑『武蔵野』に収められた「興風集」とか「大江切」とか。『香紙切(麗花集)』は、ところどころ横棒の筆画を長くしたり、カタカナを混ぜたり、連綿が切れそうで切れないのが面白くて魅力的だと思った。後半にほんの少し絵画資料があって、『三十六歌仙色紙』(角倉素庵賛、江戸時代)は人麻呂・小町・左近の3点が出ていたが、女流歌人の顔立ちが、現代の基準で見ても美人だった。

 5階は、藤原定信筆『戸隠切』(5行あり)や明恵さんの『書状』などもあったが、仏像の常設展示が主である。入ってすぐの木造の増長天像2躯(平安時代)は記憶のままで懐かしかった。窓の外のベランダに並んだ「特青砥」も変わっていなかった。平安・鎌倉の古い仏像はよく記憶していたのだが、『木造菩薩立像』(唐時代・9世紀)の存在はあまり覚えていなくて、今回あらためて注意を向けた。花を飾ったような宝冠、玉をつないだ瓔珞、左手は体の横で天衣をつまみ、右手は胸の前で蓮華の蕾を掲げる。技巧的には粗削りなところもあるが、若々しく華やかで朗らか。

 その隣りの『石造観音菩薩半跏像』(唐時代・8世紀)は、腰の細い逆三角形の体形でエキゾチックな雰囲気。『石像彩色菩薩頭部』(唐時代・7世紀)は、頭部だけだが髪型・宝冠の手の込んだ造形がよく分かる。赤や緑の彩色も残っており、パンフレットには「原彩色」とあった。都内で唐代の仏像が見たくなったらここにくればよい、ということが分かった。

 無駄なもののない、都心の隠れ家的な美術館。また行きます。

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英国から振り返る/大学はもう死んでいる?(苅谷剛彦、吉見俊哉)

2020-03-12 22:18:12 | 読んだもの(書籍)

〇苅谷剛彦、吉見俊哉『大学はもう死んでいる?:トップユニバーシティーからの問題提起』(集英社新書) 集英社 2020.1

 東大で教えた経験のあるオックスフォード大学教授の苅谷剛彦氏と、ハーバード大学で教えた経験のある東大教授の吉見俊哉氏が、日本の大学について考える対談。苅谷さんの大学論を読むのは初めてだが、中等教育を論じた『学校って何だろう』(ちくま文庫、2005)は好きな1冊だ。本書は「大学改革」「授業」「職員」「文系と理系」「グローバル化」「キャンパス」という6つの側面から日本の大学を考える。要約は難しいが、各章で気になった記述や指摘を抜き出しておく。

 「大学改革」は、現在の大学を語る上で避けて通れないキーワードだ。キャッチアップ型の人材育成の限界が指摘され、予測困難な時代に対応できる新しい人材をつくる方向にシフトチェンジしようとしたのは、1980年代後半の臨教審。しかしこの方向転換によって、日本の大学政策は明確なゴールを失い、以後、混迷の時代が続いている。苅谷氏によれば、日本では経済成長の達成を以って「近代化が終わった」と考えるが、イギリスは、社会福祉制度の整備や人権の尊重などを含めて「近代」と考えている。だからイギリスの近代化はまだ当分終わらない。また、日本の大学改革≒規制緩和の根源は新自由主義だと言われているが、日本流の新自由主義は「リベラリズムが定着していない社会で起こったという意味で、ネオリベラルとは違う」という指摘も新しい発見だった。使い古された言葉の真偽を新たな視点で吟味することはとても重要だと思う。それから、吉見氏が、今の大学(特に国立大学だと思う)を評して「戦国時代みたい」と言っていたのも気になった。分裂、対立、独自路線、そして腹の探り合いの時代なのだという。

 「授業」については、日本で一般的な「広く浅く学ばせる方式」に対して、両氏とも「深い授業」を目指して苦心している。深い授業をすれば、知識には穴が開く。しかしアカデミックな能力が身につけば、穴は自分で埋められるはずなのだが、なかなか理解されない。オックスフォードでは「読ませて、書かせて、アーギュメントできる能力を育てる」教育が根付き、有効に機能していることが社会にも承認されているから、誰も「やり方を変えろ」と言わないのだという。うらやましい。シラバスやTA、メンタルヘルスケアの具体事例の紹介も面白かった。

 「職員」について。英米の大学と日本の大学では「とりわけ授業と職員のあり方で決定的な差がある」と宣言されていたわりには、職員についての考察は物足りなかった。しかし国立大学が、今も驚くほど教員主導で、教員が自ら抱え込んだ権限を手放さないという吉見氏の指摘には強く同意。能力のある職員がいなくて任せられないと思っているのかもしれないけど、決定領域の健全な分業が成立していないことは教員にも職員にも不幸である。

 「文系と理系」について、目指すべきは文理の融合ではなく、異なる学問的方法論の間に対話の可能性をつくっていくことだというのは大変共感できた。文系・理系に関係なく、大学は「知の集積」に恐れおののく体験を与えるところ、という話から、東大の総合図書館の改修計画への批判的な言及あり。しかし書籍の山を見て「知の集積」を想像できるかどうかも、やがて変わっていくのではないだろうか。

 「グローバル人材」の章では、吉見氏が東大のGLP-GEfIL(グローバルリーダー育成プログラム)という特別教育プログラムにかかわった経験が語られている。寄付集めのため企業をまわり、ひたすら頭を下げ、相手にあわせてあらゆる会話をしたという。実は大学というのは一貫性のない組織で、プロジェクトの中心的な教員が退職したり、学部や大学の執行部が変わると、以前の取り組みが全て消えてしまうことが起きるのだが、スポンサー企業への説明責任があると、かえって事業の持続可能性が担保さるという話も面白かった。

 最後に「キャンパス」では、オックスフォード大学が今でも中世さながらの試験風景を残していることを紹介し、大学のキャンパスという結界の意味を考える。さらにキャンパスを越えて広がる知の基盤、近代日本における出版と翻訳について考え、再び図書館にも触れる。今の大学図書館を評して「異なる学問領域や異なるメディアがハイブリッドに交流するクロスロード的な空間」「知識基盤型社会の知的広場」と呼ぶのは、よくできたキャッチコピー程度にしか聞こえないが、「長らくそれが前提としてきた著者と読者の不均衡な関係を、さまざまな仕掛けでひっくり返すことが可能な実験的な場」という記述は、直感的に面白いと思った。何を仕掛けたら、こんなことが可能になるだろうか。

 多くの困難が指摘されているにもかかわらず、両氏とも学生を教えることのよろこびは揺るがないので、数ある大学問題本の中では珍しく、根底にあるオプティミズム、ポジティブ志向に元気づけられる。

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