見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

サハリン旅行2015:食べたもの

2015-08-16 23:15:00 | ■アジア(中国以外)
サハリン旅行に行ってきた。稚内からフェリーでコルサコフに入港。4泊5日の行程には、現地ガイドさんが同行した。

昼食と夕食は基本的にコースで、サラダ→具沢山のスープ→メインディッシュ(肉or魚)→デザート&紅茶orコーヒー。サラダにはトマトとキュウリ、スープの具かメインの付け合わせにはジャガイモが定番だった。どれも美味しくてハズレなし。以下にその何品かを紹介する。

初日の夕食。スープはボルシチ。メインディッシュはジャガイモと鮭。





2日目の昼食。豆のスープ。盛り付けが雑だが、ハンバーグは美味。ごはん添え。





3日目の夕食。ごはんに味噌スープ。海藻と豆腐(?)入りでほぼ味噌汁。メインディッシュのメンチカツはチリソースで味わう。





観光最終日の夕食、ユジノサハリンスクのロシア料理店で。テーブルウェアが可愛い。デザートは、ほぼ巨大なジャムパン。





何度か飲んだバルチカビール。数字はアルコール度数を表し、「3」は低い方。



詳しい旅のレポートはこれから。(※8/9から8/14の項にUP)
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サハリン旅行2015【5日日】ユジノサハリンスク→コルサコフ→稚内

2015-08-14 20:48:31 | ■アジア(中国以外)
朝、専用車でコルサコフの港まで送ってもらい、ガイドさんたちと慌しくお別れする。サハリンは、どの街でも団地が目立っていた。キューブを積み上げたような造りが特徴的だった。



帰りもフェリーで約5時間半。少し到着が遅れたが、快適な船旅だった。出発前と同じ、南稚内のビジネスホテルに宿泊。夕食は、副港市場の和食レストランへ。稚内限定だという日本酒「最北航路」が美味しかった。中身は男山だから、当然なんだけど。



翌日は、稚内から羽田直行便に乗る者、普通列車とバスで留萌方面に出る者と、各自バラバラに帰京の途につく。私はスーパー宗谷で札幌に出て、今年4月にオープンした北海道博物館に立ち寄ったのだが、それはまた別稿としたい。

(8/18記)
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サハリン旅行2015【4日日】再び、ユジノサハリンスク

2015-08-13 20:43:03 | ■アジア(中国以外)
朝8時過ぎ、寝台列車はユジノサハリンスクに着いた。ガガーリンホテルに戻って朝食をとり、隣接するガガーリン公園を散策する。日本統治時代は豊原公園と呼ばれており、「王子ヶ池」と刻まれた石碑や祠の基壇などが残る。また、鉄道学校の生徒たちが運営する「子供鉄道」が約12分で園内をめぐっているが、まだ営業時間前だったので、乗車はできず。↓写真は、恐竜の骨格のかたちをした、本のリサイクルボックス。読み終えた本を持ち寄って、交換するためのもの。



この日も日本統治時代の痕跡を訪ねてまわる。市東部の丘陵の中腹には、かつて樺太唯一の官幣大社・樺太神社があった。神社本殿のあったところには、公務員の別荘(とガイドさんが言っていた)が建ち、現在は個人所有の邸宅となっている。フェンスの中に「奉献」の文字のある石標が残り、フェンスの外にコンクリートで校倉造を模した宝物蔵らしきものが残っている。公園の中にある参道は、最近きれいに整備されて、往時の面影はなくなってしまった。

ほかにも樺太庁豊原病院、樺太守備隊司令官邸(樺太庁博物館旧庁舎)などを見学。最も保存状態がよかったのは、北海道拓殖銀行豊原支店↓。裏側に継ぎ足し増築されて、サハリン州立美術館に使われている。



1階は全ての窓に防犯用の鉄格子が嵌まっており、建物外観そのままの飾り板がついているのがオシャレ。ガイドさんが「日本時代の建物は窓が縦長です」と言っていたが、確かにそういうデザインが多い。当時の流行だろうか。設計は、国会議事堂も手がけた矢橋賢吉(やはし けんきち)と思われる。



ビジネスマンでにぎわう町の食堂で昼食。小さな鉄道歴史博物館で、館長の熱心な説明をガイドさんの通訳で聞く。日本統治時代の橋などを見て、あとはお買い物タイム。自由市場に連れていってもらったので、近くにあるはずの「ゴロヴニン像」を見たい、とガイドさんにお願いする。旅行会社から貰った観光地図に載っていたのを、現地に来てから見つけたのだ。ガイドさんは不思議そうな顔をして「むかしのロシア海軍の軍人ですけど、日本とは何も関係ありませんよ」という。いやいや、ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴロヴニン(ゴローニン)は、千島列島を測量中に松前奉行の役人に捕縛され、2年3か月、日本に抑留されて『日本幽囚記』を書いた人物。私は松前で、ゴロヴニン幽閉の地を訪ねたこともある。ガイドのオリガさんは日本統治時代の樺太には詳しいが、それ以外の時代はよく知らないのかもしれない。



自由市場には、常設店舗のほか、野菜や果物、ベリー、きのこ、搾りたての牛乳などをちょっとだけ自家用車に積んできて、小さなお店を構える素人店主がたくさんいて、楽しかった。



最後に郊外の巨大なショッピングセンターでお土産を調達。無難そうなチョコレートを爆買いし、ペットボトル入りの「間宮林蔵ビール」は夕食後に三人で消費した。

(8/18記)
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サハリン旅行2015【3日日】スミルヌィフ、ポロナイスク

2015-08-12 07:00:21 | ■アジア(中国以外)
早朝5:34、スミルヌィフ駅で下車。待っていた別の専用車に乗って、北へ約30キロメートル移動し、旧国境線(北緯50度線)を訪ねる。70年前の8月には激しい戦闘が行われた地域で、さまざまな慰霊碑や戦勝記念モニュメントを見ることができる。ちょっと中国東北地方の旅を思い出した。

かつては北緯50度線上に、片面に日本語、片面にロシア語を刻んだ国境標石が並べられていた。その遺物は、前日、ユジノサハリンスクの郷土博物館で見ることができたが、この場所に残っているのは、標石を埋め込んだ土台の石組だけである。



周辺にはトーチカ(防御陣地)も多数残っている。のどかな田園風景に打ち棄てられていると、古代か中世の遺跡のようだが、つい70年前に多数の人の生死を分けた戦闘があったことを思うと、胸がざわざわする。南樺太の「戦争」は8月9日のソ連侵攻から始まり、8月15日を過ぎて、いよいよ激しさを増し、9月初めまで継続したことは、この旅行の帰途に札幌旧市庁舎の樺太資料室でおさらいした。



旧国境付近から車で南に下り、港町のポロナイスクへ。日本統治時代の敷香町(しすかちょう)である。ホテルで朝食。まだ朝の9時前だが、すでに半日くらい観光した気分。この日は1日ポロナイスク観光で、午前中は王子製紙工場(↓ここもすさまじい廃墟)と小さな郷土博物館へ。敷香は横綱・大鵬の出生地で、小さな公園にまわし姿の銅像がある(なぜか棒立ち)。



午後はポロナイ川の河口にある中洲島にフェリーで渡り、サハリン先住民の戦争慰霊碑を見る。ポロナイスク周辺には多くの先住民が住んでいる。この中洲島には先住民のための寄宿学校があり、父母がトナカイを遊牧して旅に出る期間(ウィルタか?)、子供は学校に留まるという話が面白かった。

19:00頃に夕食を済ませて、ホテルの部屋で休息。しかし今夜はここに泊まらないのである。深夜1:40に起こしてもらい、車でポロナイスク駅へ。2:34発の夜行列車に乗り込み、ユジノサハリンスクへの帰途につく。2日連続の寝台車。



では、おやすみなさい!

(8/18記)
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サハリン旅行2015【2日日】ドリンスク、スタロドゥプスコエ

2015-08-11 22:44:32 | ■アジア(中国以外)
ホテルに荷物を預けたまま、専用車で、ユジノサハリンスクの北北東(オホーツク海側)に約43キロメートル離れたドリンスクに向かう。日本統治時代には落合(おちあい)と呼ばれた。チエホフの胸像のある公園、図書館に面した小さなレーニン広場などを観光。

ドリンスク駅は、列車の来る気配が全く感じられない田舎駅で、無人のホームでは大きな犬がくつろいでいた。しかしサハリンでは駅舎や列車の撮影は禁止。誰も見ていないと思って写真を撮っていたら、駅舎の二階からおじさんに注意された。



ガイドのオリガさんは日本統治時代の遺跡をよく知っていて、落合の学校にあった奉安殿がまだ残っているという。奉安殿とは、御真影と教育勅語を納めていた建造物である。戦前の小学校には必ずあったものと聞いているが、私は一度もホンモノを見たことがない。まさかサハリンでそんなものを見ようとは思いもしなかった。ユジノサハリンスク(豊原)の博物館の敷地にも移設された奉安殿がきれいに残っていたが、かつての「場所」に立ち続けているドリンスクの遺跡のほうが生々しかった。



↓ドリンスクに1軒だけあった「着物店」の遺構。蔵造りである。旧住民はよく覚えていて、懐かしがるのだそうだ。



旧・王子製紙落合工場も見学。びっくりした。冬場、町に温水を供給するボイラーとして、一部の設備は使われているそうだが、ほぼホラー映画の舞台になりそうな、完全な廃墟である。

↓スタロドゥプスコエ(栄浜/さかえはま)に向かう途中、「日本橋」(日本人が建造した橋)の遺構。ガイドさんの話では、昭和天皇が皇太子時代に南樺太を訪問したとき、この橋で撮った写真が残されているそうだ。



大正時代、詩人の宮沢賢治は、最愛の妹を亡くした直後、ひとりで樺太に渡り、大泊から樺太鉄道に乗って、豊原・落合を経て、終点の栄浜で下り、海岸を散歩し、さらに近傍の「白鳥湖」に寄ったのではないかと言われている。栄浜の駅舎は既に廃され、草むらだけが広がっていた。ガイドのオリガさんが「以前は線路の枕木があったんですけど…」というが、それすら土に還ろうとしている。駅灯だったかもしれない高い柱がぽつんと立っていて、私の好きだった童話、賢治の「シグナルとシグナレス」を思い出した。

白鳥湖を遠望し、栄浜海岸で砂粒のような琥珀を集めて拾う。盛りだくさんの半日を終えて、ユジノサハリンスクのホテルに戻り、昼食。午後はサハリン州郷土博物館を見学した。建物は日本時代に樺太庁博物館として使われていたもの。いわゆる帝冠様式である。博物館の庭には、日露戦争時代や第二次世界大戦時の大砲や戦車も展示されていた。



その後、町の中心部に残る日本時代の建築などを見て歩き、駅前のレストランで夕食。22:30発の寝台列車に乗り、日本ソ連の旧国境に近いスミルヌィフに向かった。

(8/17記)
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サハリン旅行2015【初日】稚内→コルサコフ→ユジノサハリンスク

2015-08-10 00:44:32 | ■アジア(中国以外)
7:30にタクシーを呼んでもらい、国際フェリーターミナルから、サハリン行きのフェリー「アインス宗谷」に乗船する。二等船室の客を見る限り、ロシア人のほうが圧倒的に多い。日本人は二割くらいか。9:00に船が出発し、船内の売店が開くと、ロシア人客が殺到し、お酒やお菓子を爆買いしていた。船内は免税なのである。自働販売機の缶ビール(サッポロ黒ラベル)もなんと100円で、水より安い。



コルサコフ到着はサハリン時間の15:30(1時間の時差あり)で5時間半の船旅である。乗船客には緑茶の缶としゃけ弁当が配られる。出発して1時間くらいすると「日露中間ラインを越えました」というアナウンスがあって、希望者には「国境通過証明書」を配布してくれる。これは帰りの船でも同じだったが、そのときの船長さんの名前が入っており、ハンコの形が行きは円、帰りは四角形で異なる。

はじめは物珍しさに興奮していたが、だんだん疲れてくると、みんな絨毯に寝転んで、ウトウトし始める。ほどよい波の揺れが快適。たぶん飛行機が同じくらい揺れたら落ち着かないのに…。



時間どおり、コルサコフに到着。バスに乗せられて、長い桟橋を渡り、入国審査を受ける。外に出たところで、現地ガイドのオリガさんと合流する。彫りの深い顔立ち、明るい髪の色が、いかにもスラブ系らしい。一方、専用車の運転手のアントンさんは黒髪の東洋系(あとで朝鮮系と分かる)。車でユジノサハリンスクへ向かう。

コルサコフは、日本統治時代には大泊(おおどまり)と呼ばれていた。港を出発してすぐ、右手に旧・北海道拓殖銀行の建物が見えると教えられ、車を止めてもらった。今は使われていない。後日、ユジノサハリンスク(豊原)に残る拓殖銀行の建物も外観だけ見学した。ユジノサハリンスクの拓銀の装飾にはライオンが使われていて、オリガさんは「コルサコフは羊でしたね」と言っていたが、確認できず。



初日はユジノサハリンスクのガガーリンホテル泊。(8/16記)

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サハリン旅行2015【前日】稚内

2015-08-09 23:53:44 | ■アジア(中国以外)
職場が変わって(夏季一斉休業があるので)長めの旅行をしやすくなったこと、昨夏、日本最北端まで行ってみて「その先」にも行ってみたくなったこと、猛暑の東京を逃げ出したくなったこと、などの理由で、今年は稚内からフェリーで行くサハリンツアーに出かけることにした。十年来の恒例だった中国旅行に同行していた友人二人がつきあってくれることになった。

ツアーの始まる前日、羽田から稚内入り。空港ではアザラシの剥製がお出迎え。いちばん奥にいるのは、稚内観光のゆるキャラ、出汁之介(だしのすけ)くんである。なつかしい。



南稚内の温泉ホテルに前泊。すでに違う国にいるように夜風が涼しくて、生き返る。

(8/16記)
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沖縄旅行2012:拾遺

2012-02-10 23:39:56 | ■アジア(中国以外)
沖縄旅行ですごく気になったのが「書き文字」である。特に初日、那覇から浦添~宜野湾方面に向かう途中、車の中から風景を眺めていると、立派な造りのマンションなのに「○○ハイツ」みたいな名前を、素朴なペンキの「書き文字」で記した物件が目についた。東京なら、そこはお金をかけて、気取ったデザインの看板を取りつけるところだろうに。

加えて、アルファベットよりもカタカナのほうが好まれている感じがした。「ロイヤルマンション」とか「ハッピーマーケット」とか。基地の島ならではの日本語表記へのこだわりなのかな。こんなことを面白がるのは私くらいだろうと思って、なかなか口にだせなかったら、昨年から沖縄人になった友人も、同じことを感じていたことが、あとで分かった。

那覇市内の表通りは、さすがに「書き文字」の大看板は少ないが、小さな店はこのとおり。これ、中国ノリだなあ、どう見ても…。



「石敢当(いしがんとう)」の風習も中国ノリである。中国のガイド本は「せっかんとう」の読みを使うことが多い。私が初めて見たのは、本場、山東省泰山の石敢当だった。



やちむん通りで買った器。さっそく使ってます。あまり沖縄っぽくないが、やっぱり磁器のほうが、軽くて使いやすい。てのひらサイズ。

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沖縄旅行2012:那覇市内観光

2012-02-05 23:57:22 | ■アジア(中国以外)
○牧志公園~崇元寺石門~公設市場~やちむん通り~首里城公園~円覚寺跡~龍潭~玉陵~那覇空港

日曜の朝、同宿の友人より一足先にホテルを出て、公設市場に向かう予定が、途中の牧志公園の小さな塚に心ひかれ、地図を見たら、崇元寺の石門が近いことも分かって、ふらふらと寄り道。迷い込んだ裏通りも楽しかった。市場で慌ただしく買い物、ホテルに戻り、今日もローカルガイド兼ドライバー役をつとめてくれる沖縄在住の友人と落ち合う。

やちむん通りを散策。骨壺専門店に驚く。↓部長!という感じのこわもてシーサー。



首里城。おお!男性職員は、ほんとに琉球官僚の扮装なんだ。御庭にいるのは黄色い冠(はちまち)の中級官僚、宮殿内にいる職員は紫冠で、着物の色も少し違う。しかも年配者が多い印象。



正殿が二層式というのが面白い。二階の玉座の背後には3枚の扁額が掛けてあって、中央の「中山世土」は康煕帝の御筆、向かって左の「永祚瀛壖(えいそえいぜん)」は乾隆帝、右の「輯瑞球陽」は、その場で分からなかったが雍正帝だそうだ。なるほどね。琉球新報の過去記事に「沖縄戦で9枚が焼失したが、3枚の復元が実現した」とあった。琉球王国は光緒年間に滅びたのだから、順治帝から光緒帝の9代かな。

南殿では『テンペスト』衣装展を開催中(※写真)。沖縄の友人もドラマを見ていたそうで、徐丁垓人形のふてぶてしさに笑ってしまった。

円覚寺跡。こんなに首里城から近いと思っていなかったが、第二尚氏王統の菩提寺だったのか。沖縄戦で、放生池の石橋以外は全て失われてしまった。残った石橋(放生橋)にも、現状では近づくことができないが、石彫の美しさは遠目にも分かる。



龍潭。弁財天堂のある四角い小島に渡るのが天女橋。沖縄の友人は「仏像」「廃墟」「給水塔」好きなのだが、私はかなり「橋」好きなのである。鉄橋も木製の橋もいいが、やっぱり石橋に一番うっとりする。



龍潭で見かけた、インパクトのある水鳥。デカい。群れをなしている。そして、人間を怖がらない。調べたら、バリケンといって、和歌山県立自然博物館の方が「バリコレ」という情報サイトを作っていた。



玉陵(たまうどぅん)。第二尚氏王統の歴代国王の陵墓。友人は「ここに来ると落ち着く」という。私も好きだ、この石積みに囲まれた雰囲気。併設の資料室は、コウモリの「たまちゃん」をキャラクターにしている。石彫のこれ↓が由来かと思ったら、玉陵の入口付近の茂みにある木に、本物のオオコウモリの「たまちゃん」が住み着いているのだそうだ。



コイツも気になる。シーサーなんだろうか。



このあと、金城町石畳道と識名園の観光を計画していたのだが、玉陵向かいの店で昼食をとりながら時計を見たら、とても間に合わないことが判明。あきらめて空港に向かうが、車が渋滞に巻き込まれる。「モノレールを使ったほうが安全」との忠告を受け、沖縄の友人とは、慌ただしくお別れ。空港では、お土産を見る時間もなく、搭乗口に駆け込んで、なんとか間に合った。

じっくり観光できて楽しかったけど、いろいろ見残してきてしまった。また行かねば…。

(2/7記)
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沖縄旅行2012:中部ドライブ

2012-02-04 00:17:50 | ■アジア(中国以外)
○沖縄本島中部ドライブ:那覇~宜野湾~中城城(なかぐすくじょう)~中城高原ホテル跡~金武観音寺・鍾乳洞~万座毛~残波岬灯台

沖縄在住11ヵ月目の友人の運転する車でドライブに出発。友人の職場に寄り道。



中城城に隣接する中城高原ホテル跡は、沖縄海洋博開催の1975年7月開業を予定していたが、博覧会の開催直前に建設をしていた企業が倒産し、30年以上放置されたままの廃墟。



国頭郡金武町(きんちょう)の金武観音寺は、16世紀創建の古刹。木立の奥に覗く赤瓦の本堂は昭和17年再建だが、近世建築の様式を残す。ご本尊はよく見えなかったけれど、ご朱印は「聖観音」だった。ちなみに、これまでに私がいただいたご朱印の最南端(長崎?)・再西端(平戸?)記録を大幅に更新。



境内に地下30mの鍾乳洞があり、天然の古酒蔵として利用されている。→※金武酒造



境内の売店で売っている古酒。プレミアム古酒「平成元年」という銘柄があった。私は、いまの仕事に就職したのが平成元年なので、あと10年ほど寝かしておいてくれないかなー。定年祝いに飲みたい。



定番観光地の万座毛、残波岬の風景も美しかった。万座毛の断崖から覗き込んだ海は、普陀山の潮音洞を思い出した。海岸に自生(?)するアダンの木を見た(※アダンの実から筆を作ることがある)。残波岬には、琉球王国から初めて明国に遣わされた泰期(たいき)の像が立っている。1372年、洪武年間だから、朱元璋に拝謁しているのかー。像建立の経緯がいろいろありそうで、興味深かった。

(2/7記)続きは明日(というか今夜)。
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