見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

代々木上原で歳末フレンチ

2015-12-31 18:49:36 | 食べたもの(銘菓・名産)
12月29日に友人と代々木上原で忘年会ランチ。「ル・ボークープ(Le Beaucoup)」というフレンチのお店。オードブル2種+メイン(魚料理)+デザートにした。野菜も海鮮も素材の味が感じられて、美味しかった。









また行きたいなー!(と言いつつ、二度目の来訪ができないお店が多い)

大晦日。新しい年が、平和であることを祈りつつ。
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アメリカの宗教と政治/反知性主義(森本あんり)

2015-12-30 01:01:59 | 読んだもの(書籍)
○森本あんり『反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書) 新潮社 2015.2

 この夏、現政権に対する批判として「反知性主義」という言葉をよく聞いた。その流行の原点のような本だが、書店で表紙を眺めていて、どうも書いてある内容は違うんじゃないかと思っていた。たまたま小田嶋隆氏の『超・反知性主義入門』を読んだら、付録に小田嶋さんと森本あんりさんの対談がついていて、本来の「反知性主義」の説明が非常に興味深かったので、迷っていた本書を読む決心がついた。

 「反知性主義」(anti-intellectualism)の名づけ親は『アメリカの反知性主義』の著者ホフスタッターである。同書は2003年に日本語訳が刊行されているが、アメリカ独特のキリスト教史の前提がないと理解しにくい。そこで、日本人の著者が、日本人にも分かるように懇切に書き起こしたのが本書である。

 アメリカに入植した初期のピューリタンはきわめて高学歴だった。カトリックの聖職者は典礼(儀式)さえ執行できればよかったが、プロテスタントは一般信者が自分で聖書を読むことを奨励した。さらに教会の純化を求めたピューリタンは、聖書の言葉を正しく解き明かしてくれる指導者を求めたので、大卒でなければ牧師になれない、と考えられていた。それゆえ、初期の入植者たちは、牧師の後継者を養成するため(初等教育の充実よりも先に)直ちに植民地に大学を設立した。ハーバード大学はその一つだが、目指したのは「神学校」ではなかった。むしろ広汎なリベラルアーツこそが、ピューリタン牧師に必要な専門教育と考えられていた。こんな調子で、本書は「アメリカ大学史」として読んでも、非常に面白かった。

 初期のピューリタンの礼拝は長時間の説教がメインで、高度に知的な営為だった(オルガンや讃美歌、クリスマスさえも「カトリック的」なので排除された!)。この反動として起きたのが、18世紀半ばの「信仰復興運動(リバイバル)」である。本書はジョナサン・エドワーズ(1703-1758)とジョージ・ホイットフィールド(1714-1770)という二人の牧師について詳述している。ホイットフィールドは、難解な教理よりも素朴な福音のメッセージを語り、声音と身振りで多くの聴衆を魅了した。聖書にも、神は真理を知恵のある者ではなく幼な子にあらわされると書かれている、というのが、彼ら巡回説教師の決めぜりふだった。ここに反知性主義の究極の出発点があると著者は説く。

 19世紀初めには第二次信仰復興運動が起き、メソジスト教会と(よりラディカルな)バプテスト教会が大きく成長する。信仰復興運動は教派を越えて、アメリカのキリスト教に「福音主義(エヴァンジェリカル)」という共通感覚を醸成した。政治の世界では、1828年の選挙で「無学な荒くれ男」のジャクソンが「インテリ」アダムスを破って、大統領に就任した。著者いわく「昔も今も、アメリカの大統領には、目から鼻に抜けるような知的エリートは歓迎されない」。なるほど、何人かの大統領や大統領候補の顔と名前が脳裡をよぎった。そして、「ビールを飲みながら気軽に話せる相手」のような気さくさ、特権階級に対する反感、巧みなパフォーマンスなどで大衆を引き付ける点は、最近の日本の政治家に通じるように思う。

 19世紀末の第三次信仰復興運動では、リバイバル説教をビジネスにして大成功したドワイト・ムーディ(1837-1899)、さらに大リーガーから転身した伝道家ビリー・サンデー(1862-1935)についても語られている。サンデーは大学はおろか高校も出ていない。

 著者はここで注意を促す。フランス人トクヴィルは、アメリカには無学な者も多いが、思わぬところにとんでもない知識人がいることを書き留めている。つまり、ヨーロッパのように知性(知識)を代々受け継ぐ特権階級が存在しないのである。この平等主義は、アメリカ反知性主義の原点である。反知性主義は、知性そのものに対する反感ではなく、知性が世襲的な特権階級の所有物になることへの反感なのだ。別の箇所にあった解説だが、アメリカの反知性主義は「神の前の万人平等」という宗教的原理に根ざしているのであって、反知性主義は反権力主義であるという言葉も付け加えておこう。このまとめを読むと、反知性主義は、希望をもたらす輝かしい果実のように思える。

 しかし、本書は、上述の伝道家サンデーが、富や権力に対する民衆の反感を基盤にのし上がったはずなのに、いつしか権力構造の内部に取り込まれてしまったことを記す。20世紀の反知性主義は、大衆的成功をおさめると同時に、本来の反権力主義的な性格を失ってしまった。今、日本で、あるいはアメリカのニュースで、私たちが見聞きしているのは、この堕落した反知性主義のなれの果てなのかもしれない。
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知性の効能/負けない力(橋本治)

2015-12-29 20:50:22 | 読んだもの(書籍)
○橋本治『負けない力』 大和書房 2015.7

 「知性に関する本を書いてくれませんか?」と編集者に言われて、「知性とは負けない力である」という趣旨で書いた本。いま、世間には積極的に勝つ方法を伝授する本があふれている。「勝つ」とは、頭がよくなり、勉強の成績が上がり、最終的にはグローバルに活躍して、たくさんお金を稼ぐような生き方をいう。

 しかし「知性」は「頭のよさ」や「勉強ができること」は違う。にもかかわらず、とにかく手っ取り早く勉強して成績を上げることが奨励されたのは、明治維新以来、先進国に追いつくことが至上命題だったからだ。そして、太平洋戦争に負け、バブルがはじけて、お手本がなくなってしまっても、日本の教育関係者は「独創性」の育て方が分かっていない。ここまではよくある論じ方。

 むかし「知性」は普通の庶民とは関係のないものだった。ただ旧制高校から大学に進む学生だけが、難解な西洋の哲学書を読んで「近代的知性」を身につけることを求められた。しかし、実のところ、彼らが身につけていたのは「教養」と呼ばれる知識の総体でしかなかった。とここで、「坊っちゃん」のターナー島の箇所を引いて、漱石が、野だと赤シャツの「教養」を笑っていることを示す。「教養」は、今では「情報」にその座を譲り渡しているが、どちらも自分の外に根拠(権威)を求める行為である。

 日本人は古くなった知識(教養、情報)を簡単に新しいものに入れ替える。甚だしいと「考え方」自体も入れ替えようとする。軍国主義を民主主義に入れ替えたように。そして利口な(損得に鋭敏な)人間は文句を言わない。そこで、ようやく最後の五分の一くらいになって「知性」の話になる。考えることの根本にあるものが「知性」である。今までの自分では駄目だ、という状況に陥って、不安を感じたとき、サッと別の考え方に乗り換えるのではなく、「自分の尊厳」を信じて、自分にできることを考える。つまり「負けない力」が知性なのだという。

 難しい言葉は使っていないのだけど、後半はずっと抽象的で分かりにくかった。まあ著者は、この本は自己啓発本のような「役に立つ本」ではないと、再三ことわっているのだから、不満を言ってもしかたないのだけど。

 大事なことを補足しておくと、複数の価値観に立脚するのが知性であって、単一の価値観の下で「負けまい」(勝っている人たちのレベルに達しないと、人生の敗残者になってしまう)と思って、必死に戦い続けるのは、知性のある人間の振る舞いではないという。まわりにこういう人たちをよく見るので、自戒をこめて書き留めておく。
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私生活の絵画/プラド美術館展(三菱一号館美術館)

2015-12-28 22:47:39 | 行ったもの(美術館・見仏)
三菱一号館美術館 『プラド美術館展-スペイン宮廷 美への情熱』(2015年10月10日~2016年1月31日)

 スペインの王室コレクションを受け継ぐプラド美術館。本展は、15世紀から19世紀末までの作品から「小さなサイズ」という共通項を持った100点以上の絵画を集めた展覧会である。プラド美術館で2013年に開催され、バルセロナへの巡回を経て、新しい作品を加えて、日本での開催となった。「小さなサイズ」にも幅があるが、だいたい一辺が30~40センチか、もう一回り大きいくらいの作品が多かった。解説によれば、注文主の私的な楽しみのために描かれた絵画が多く含まれるという。会場に入って、なるほど日本の一般的なギャラリーで見るには、このくらいのサイズがちょうどいいと思った。王侯貴族の肖像画など巨大な絵画は、日本では箱ものが限られてしまう。

 だいたい年代順に構成されているので、はじめは14~15世紀の宗教画が中心。ヒエロニムス・ボスの『愚者の石の除去』が来ていたが、こんなに小さな作品(48.5×34.5)だったのか。しかも「絵画」は円形で、そのまわりに黒字に金で「先生、どうか石を早く取り除いておくんなさい」「おいらの名はルッペルト・ダス(お人よしの意)だ」という会話(?)が描き込まれている。

 16世紀、ルネサンスからマニエリスムへ。ティツィアーノの『十字架を担うキリスト』の押し殺した迫力、いいなあ。小サイズの絵画には、公式の大作にはない、自由で実験的な制作が見うけられる。エル・グレコの『受胎告知』は、わずか26.7×20の小品なのに、見た瞬間、エル・グレコだと分かるのが面白い。17世紀、バロック。ベラスケスの黒、ルーベンスの色彩。ムリーリョの『ロザリオの聖母』。このばら色の肌と黒い目、濃い髪。スペイン美術大好きだ。

 ヤン・ブリューゲル(1世)をはじめとする静物画には、怖いもの見たさの魅力がある。ハブリエル・メツーという知らない画家の『死せる雄鶏』には高橋由一の『鮭』を思い出してしまった(紐で吊るされているから)。ヤン・ブリューゲル(2世)の『地上の楽園』は若冲の『鳥獣花木図屏風』を思い出した。単なる連想だけど。そして、ピーテル・ブリューゲル(2世)の『バベルの塔の建設』。父のブリューゲル(1世)の描いたバベルの塔に比べると、基壇の全囲が小さくて、縦に細長い塔になりそうな形をしている。ずいぶん目を凝らして見て来たつもりだったのに、いま図録を開いて、工夫たちの姿など、全く見えていなかったことが分かった。暗く幻想的な『冥府のオルフェウスとエウリュディケ』を描いたピーテル・フリスという画家は初めて知った。知られている作品は3点しかないのだそうだ。そのうちの1点を日本で見ることができてうれしい。

 18世紀になると主題も技法も近代化して、あまり面白くないと思ったが、いやいや、ゴヤが登場する。1部屋使って6作品。『レオカディア』を日本に運んできてくれてありがとう! 私は糟糠の妻の肖像画として覚えたもの。いまは別人(画家が晩年に親密だった女性)の肖像と考えられているそうで、そう思って眺めると少し印象が変わる。『アルバ女公爵とラ・ベアタ』は驚くほど小さい(33×27.7)。しかしゴヤは、「私的な楽しみのための小品」の行きつく果てに、あの黒い絵を描き、自分の部屋に飾っていたんだよなあ、と感慨を催す。

 そのあと、アントン・ラファエル・メングスという画家の『マリア・ルイサ・デ・パルマ』という肖像画を見る。この展覧会のポスターなどにも使われていた、くりくりした黒い目の、若々しい女性の肖像。これが、後にゴヤの描いた『カルロス4世の家族』の中央で周囲を睥睨しているおばさん(王妃)そのひとだと知ったときは、死ぬほど驚いた。これだけでも見ておく価値があったと思っている。
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篭絡されたメディア/誰が「橋下徹」をつくったか(松本創)

2015-12-27 23:56:58 | 読んだもの(書籍)
○松本創『誰が「橋下徹」をつくったか:大阪都構想とメディアの迷走』 140B(イチヨンマルビー) 2015.11

 2008年1月、橋下徹は大阪府知事選に当選し、38歳の史上最年少(当時)知事が誕生した。大阪の熱気は、メディアを通して関東在住の私にも届いていたが、現地の「異様な興奮」はそんな程度ではなかったのだろう。それから8年。たびかさなるメディア攻撃、個人攻撃。府知事から大阪市長への転身。大阪維新の会から日本維新の会さらに維新の党へ。大阪都構想をめぐる住民投票、等々。結局、何か「成果」と言えるものはあまり残っていないのだが、とにかく話題には事欠かなかった。神戸新聞の記者として、そしてフリーランスのジャーナリストとして、在阪メディアの中で一部始終を見て来た著者は「大阪を空疎な熱狂と不毛な対立で煽り、混乱と停滞に陥れた『橋下現象』」と振り返る。

 橋下徹の言論が、基本的に詭弁で成り立っていることは、彼の弁護士時代の著書『最後に思わずYESと言わせる最強の交渉術』『図説 心理戦で絶対負けない交渉術』が明らかにしている。「詭弁、すり替え、前言撤回、責任転嫁などを”交渉術”として得々と披瀝する内容」だそうで、その記述と、実際に都構想をめぐる議会や記者とのやり取りを並べて読むと、げんなりするほど合致している。しかし、詭弁であろうと口撃であろうと、キャッチ―なワンフレーズを繰り出せる橋下のメディア的な価値は高い。平松邦夫前市長のような教養ある知識人では、大衆の好む絵にならないのだ。そして、テレビをはじめとするメディアは、数字の取れる「おいしいネタ」をふりまいてくれる橋下に軽々と篭絡されてしまった。

 新聞はどうか。2013年5月に朝日新聞社労働組合が神戸で開催したシンポジウム「言論の自由を考える5.3集会」の様子が興味深い。大阪府立高校の国歌斉唱条例で街頭アンケートを取ったら、予想に反して賛成が圧倒的多数だった。リベラル・護憲を看板に良心的に世論をリードしてきたつもりが、振り返れば誰もいなかった。世の中が見えていたのは橋下氏の方だった。――以上は「朝日新聞大阪社会部デスクの嘆き」として、シンポジウムの直前に紙面に掲載されたものだという。この記事を書いた論説委員の稲垣えみ子(当時)は、たとえば日の丸・君が代問題となると、護憲派の学者さんや組合活動家に聞いて記事を仕立てるのが「伝統芸能みたいになって」いたと率直に語っている。橋下徹という存在は、そこを突いてきたんだな、ということを感じる。陳腐化した伝統芸能は、一度、膿を出して、再生しなければならないと思う。

 現在の橋下は「多数者の専制」を体現している。これは中島岳志先生の指摘。多数者が絶対的な力をもつのは民主主義の本質であるけれど、一度多数が形成されると(≒選挙で首長が選ばれると)誰もが競ってその後に従おうとし、民衆を中心におきながら民衆が抑圧される事態が起きる。この専制をつくりだすのが、批判を忘れたメディア。中島先生は、朝日放送(ABC)の番組中で、橋下とメディアの関係について、はっきり批判的コメントを述べた顛末が本書に記されている。なるほど、この事件を受けての『「リベラル保守」宣言』出版社変更だったわけか。
 
 なお、上記に関しては、いまのマスコミに橋下批判の視点を期待することは難しいように感じた。最終章で在阪局のプロデューサーが語っているが、テレビ局の社員は一般に自分の能力で競争を勝ち抜いてきた意識が強いので、橋下氏の新自由主義的思想と共振性が高いという分析は、共感できないけど納得できる。新聞も、いまやコストだ、コンプライアンスだみたいなことをいって、グローバリズムと市場原理主義に呑み込まれつつある由。嫌な世の中だ。
 
 ただし、橋下徹も政治家に転身した直後は、確かに大阪の政治の空気を刷新した面があったことも本書を通じて知った(思い出した)。けれど、結局、彼も権力となり、権力は劣化する。テレビタレントとしては面白いかもしれないけど、面白いだけの人物に政治を預けるのは、もう止めたほうがいい。
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ワイン展+渋川春海と江戸時代の天文学者たち(国立科学博物館)

2015-12-26 23:55:34 | 行ったもの(美術館・見仏)
国立科学博物館 特別展『ワイン展-ぶどうから生まれた奇跡-』(2015年10月31日~2016年2月21日)

 だいぶ前に職場の同僚から招待券をもらっており、時間ができたので行ってみた。体験型の展示で、思ったよりも面白かった。余市のニッカウィスキー蒸留所も面白かったけど、私はものづくり(特に食品関係)の展示を見るのは好きなのだ。はじめはブドウの品種や栽培方法について。食用とワイン用の品種は違うこと、日本でよく見る棚づくりは欧米では一般的でないことなどを知る。

 ワインの歴史は西アジアのコーカサス地方で始まったと考えられている。エジプトではワインよりビールが珍重された。それはビールの方が製造が難しかったからだという。日本で本格的なワインの生産が始まったのは明治以降。高野正誠、川上善兵衛(岩の原葡萄園)、神谷伝兵衛(牛久のシャトーカミヤ)の名前があったと思う。高野正誠(たかのまさなり)は、山梨県から伝習生としてフランスに留学し、ワイン醸造を学んだ人物。東大農学部に古い記録文書が残っているのに感心した。しかしブドウ自体はもっと古くから日本で(山梨などで)栽培されているんだよね。そこも知りたかった。瓶に入った日本最古のワインとか、難破船から引き揚げられた世界最古級のシャンパーニュも地味に展示されている。

■同館・日本館1階 企画展『日本の科学者技術者展シリーズ第11回~渋川春海と江戸時代の天文学者たち』(2015年12月19日~2016年3月6日)

 特別展のチケットで参観できる企画展。私が日本史を習った頃、渋川春海は、高橋至時や伊能忠敬に比べると格段にマイナーな存在だったが、小説『天地明察』(2009年)であっという間に有名になった。映画では、イケメン岡田准一が演じていたし。今年は渋川春海(1639-1715)が亡くなって300年にあたることから、春海の業績・人物像と、その流れを継ぐ江戸時代中後期の天文学者を紹介する展示である。

 国立天文台、神戸市立博物館などが所蔵する書籍、文書、観測器具はともかくとして、けっこう見たことのない「個人蔵」の資料が出ていて興味深かった。天球儀の複製をマウスで回転させたり、春海の棋譜を碁盤に再現する演出も面白かった。浅草天文台の地図や絵図を壁一面くらいに拡大したパネルも単純だがインパクトがあった。市井の天文学者では、大阪の間重富が面白くて魅力的だなあ。

 すごくいい展示なのに、図録どころか展示リストもないのが非常に残念である。理科系の展示って、あまりそういうことを欲しないのだろうか。なお、企画展示室の向かい(日本館1階南翼)にも天球儀や望遠鏡の展示がある。科博の常設展示って、最近全く見たことがなかったので、初めて知った。2月6日の講演会は、都合がつけば聞きにいきたいと思っているところ。
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アベ政治と橋下政治/「意地悪」化する日本(内田樹、福島瑞穂)

2015-12-25 21:08:47 | 読んだもの(書籍)
○内田樹、福島瑞穂『「意地悪」化する日本』 岩波書店 2015.12

 今年(2015年)の4月から9月、4回にわたって行われた対談だという。安倍晋三総理と橋下徹大阪市長の話題がかなりの部分を占めるが、何しろ多事多端の時期に語られているため、本書では「予測」であることが既に現実になり、現実のほうがずっと先まで進んでいたりするので、時々、読みながらとまどうところがあった。

 冒頭の「アベ政治とは何か」は、安倍総理と橋下市長がなぜ支持されるかという問題提起から始まる。内田さんは、だいたい分析を終えていて、福島さんが説を拝聴するかたちになる。自分のことを知識人だと思っている人間は、言ったことの矛盾を指摘されると崩れてしまう。しかし安倍さんや橋下さんは全くダメージを受けない。公人なのに平気で嘘をつき、発言が矛盾しても気にとめず、相手を黙らせるために喋り続ける。これまでの常識やルールが全く通じない相手を前にジャーナリストは「呆然」としており、それを見た一般視聴者は「論破された」と判断する。「確信犯的に首尾一貫性のないことを言う」彼らの戦略に対して、僕たち(対抗する側)は有効な反撃ができずにいる。これに対して福島さんは悔しがるが、内田さんは冷めている。私は、こういう知識人らしい冷静な分析に好感を持つのだが、安倍総理や橋下市長の支持者は、全然ちがう感じ方をするのだろうな。

 内田さんの分析で気になったのは、安倍さんは葛藤がないから人と対話できない。たぶん人生のどこかで内的葛藤を切り捨てたんだろう、という言葉。尊敬できるかできないかは別として、普通の人間には到達できない境地にいるんだな、ということはよく分かり、初めて安倍総理という人を恐ろしいと思った。しかし内田さんは、安倍政権の基盤は「株が上がるんじゃないか」「対中・対韓で強腰でいられるんじゃないか」などの「気分」に支えられているので、たとえば、株価が下がるとか、アメリカの信頼を失えば、一気に崩れる可能性がある。そうしてら、あれほど例外的なキャラクターが自民党から再び出てくるとは思えない、というのだけれど、本当にそんなに楽観視して大丈夫なのだろうか。

 橋下市長については、最終的に彼に期待した人たちを裏切り、絶望の底に叩き落すのが、彼の偶像破壊計画のゴールなのではないかという分析がとても面白かった。本当にそこまで行ったら拍手してもいいわ。こういう「誰も愛していない」人間が支持を集めるのは、豊かさの中で、日本人が「意地悪」になっているためだという点で二人は一致する。

 それから自民党が目指す家族像、道徳の教科化、マイナンバー問題など、公と私、国家による個人の領域侵犯の問題が続くのだが、印象深かったは、二人の著者の自分語り。内田さんのお父さんが、戦後民主主義の中で新しい家族をつくろうとして、しかし、そんなものは見たことがないので、律儀に模索していた姿とか、福島さんが宮崎の田舎で、とりもちのようにベタベタな家族の愛情の中で育った話、その結果として、彼らが選んだ家族のかたちがとても面白かった。

 内田さんいわく、1945年から1960年くらいまでの日本には、家族はこうあるべきとか社会はこうあるべきという合意がなくて、その自信のなさが風通しのよさになっていたのではないか。うん、そう、自信のない人間の奥ゆかしさっていいなあと私は思うのだが、これも今時は流行らない考え方かもしれない。

 後半は、この夏、安保法案をめぐって登場したSEALDsなどの新しい市民運動について語る。内田さんは「でも僕は、やっぱり『悪は滅びる』と思いますけどね」と語る。盛者必衰の理です、とも。それはそうだろうけど、いつの時点で滅びるかが問題だと思う。この国が焦土となる前に、まともな近代国家に戻ってきてもらいたい。
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2015クリスマスケーキ

2015-12-24 21:46:36 | 食べたもの(銘菓・名産)
つくばのフランス菓子の名店「コートダジュール」のクリスマスケーキ。予約もしてなかったし、あきらめていたら、駅ビルの売店で買えた。



画像では分かりにくいが、通常のピースの倍くらいあって、一度にひとりでは食べ切れなかった。それにしても800円(税別)は高いなあ。札幌の「きのとや」なんてショートケーキが300円しなかったのに~。

ミントンの花柄のお盆は、最近手に入れたもの。結婚式の引き出物のカタログギフトから選んでみた。

メリークリスマス。
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荒ぶる幽霊、可憐な幽霊/歌舞伎・東海道四谷怪談

2015-12-23 22:26:20 | 行ったもの2(講演・公演)
国立劇場 12月歌舞伎公演『通し狂言 東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)』(2015年12月23日)

 今年は年末までキリキリと働かされていたのが、ようやく今週前半で一段落した。最後の山を乗り切るモチベーションを高めるために、自分への「ごほうび」として用意したのが今日のチケットだった。鶴屋南北の『東海道四谷怪談』が演劇史や文化史において重要な作品であることは、いろいろ読んできている。しかし、舞台は全くの初見である。参考までに、今日のプログラムを記録しておこう。

・発端 鎌倉足利館門前の場
・序幕 第一場:浅草観世音額堂の場/第二場:浅草田圃地蔵前の場/第三場:同裏田圃の場 
・二幕目 第一場:雑司ヶ谷四谷町民谷伊右衛門浪宅の場/第二場:同伊藤喜兵衛宅の場/第三場:元の伊右衛門浪宅の場
・大詰 第一場:本所砂村隠亡堀の場/第二場:深川寺町小汐田又之丞隠れ家の場/第三場:本所蛇山庵室の場/第四場:鎌倉高師直館夜討の場

 幕が上がる前に、花道に鶴屋南北(市川染五郎)が登場し、口上を述べる。『東海道四谷怪談』は『仮名手本忠臣蔵』の世界を背景に成り立っている。初演では両作品を少しずつ区切って交互に上演する方式を取った。今回、平成のお客様にもこの構造を理解していただくため、初めと終わりに原作にない場面を付け加えております、云々。そして「鎌倉足利館門前の場」では、今まさに館内で、塩治判官が高師直に斬りつけたことが語られる。

 序幕では、多数の主要登場人物が一気に登場し、その複雑な愛憎関係が明らかになる。民谷伊右衛門(松本幸四郎)は、舅の四谷左門に身重の妻・お岩(染五郎)を返してくれるよう懇願するが、伊右衛門の悪人の本性を見抜いてしまった左門は聞き入れない。腹を立てた伊右衛門は左門を殺害する。序幕の伊右衛門は身勝手ではあるけれど、まだお岩への愛情があるように感じられた。お岩は頬かむりして筵をもった体で登場し、妹のお袖に「まさか夜鷹を」を驚かれ「父を助けるため」とこぼす(お袖も「私も地獄に」と打ち明ける)。塩治家の断絶によって浪人・四谷左門は、娘たちが身売りするほど困窮していたのである。さらっと流していたけど壮絶な設定。

 二幕目。男子を出産したお岩は産後の肥立ちが悪く、伊右衛門はお岩を疎んじている。しかし、お岩の着物を取り上げて質屋に入れるくらい困窮しているわりには、按摩の宅悦とか下男の小仏小平とか、家内に人を置いているんだな。隣家の伊藤喜兵衛(高家の家老で羽振りがいい)から、お岩のために薬が届けられる。伊右衛門が伊藤家に挨拶に行くと、喜兵衛の孫娘のお梅が伊右衛門に恋慕している、どうか婿になってほしい、と懇願される。先刻の薬は、お岩の面体を醜くする毒薬であると打ち明けられ、驚愕する伊右衛門。ええ~『東海道四谷怪談』では、民谷伊右衛門こそ「悪」の権化と思っていたが、この伊藤喜兵衛こそ極悪非道じゃないか。それも孫娘の幸福を願うあまりの凶行というのが酷い。人間は怖い。いや、本当に怖いのは、何の手も汚さないお嬢様のお梅かもしれないと思って、さらに怖くなった。

 伊右衛門は請われるままにお梅との結婚を承諾。家に戻り、醜く変貌したお岩に愛想を尽かし、按摩の宅悦にお岩に言い寄るよう命ずる。お岩は宅悦と争ううちに自分の脇差で命を落とす。伊右衛門は下男の小平(染五郎)にお岩殺しの罪を着せて、小平も殺してしまう。お梅が嫁入りしてきたが、角隠しをあげるとお岩の顔。伊右衛門が斬りかかるとお梅の首が落ちた。続いて小平の亡霊と思って斬りかかると、喜兵衛の首が。ううむ、諸悪の根源というべき父娘なのに、殺されかたが簡単すぎて物足りないなあ。もっといじめてくれないとスッキリしない。

 大詰。「隠亡堀」の戸板返しとか「蛇山庵室」の提灯抜け、仏壇返しなど、知識としては知っていたので、舞台上に提灯や仏壇が見えただけで、くるぞくるぞとわくわくした。そして期待以上の演出だった! 提灯抜けから、まさかフライング(ワイヤーアクション)しようとは思ってなかった。伊右衛門の母のお熊もお岩に取り殺されるのだが、百万遍の念仏の輪の中にいるところを、上空から飛来したお岩に掴み上げられてしまう。このとき、お岩がくるりと逆立ち状態になるのは、おおお!「さかさまの幽霊」(by 服部幸雄)だ!と興奮した。お岩の幽霊は、ひたすら荒ぶり、恨みある者全てに復讐を果たす。その後、成仏したのかどうかは定かでない。

 一方、小仏小平の幽霊は、足を患っていた小汐田又之丞に民谷家伝来の妙薬をもたらす。薬のおかげで全快した又之丞は、義士の一人として討ち入りに参加する。恩ある人に尽くしたいという念を残す、可憐な幽霊もいるのだと思って、少しほっとする。「夜討の場」は白一色の舞台を背景に絵画的で、舞踊のようで、華やかだった。丸谷才一さんが『忠臣蔵とは何か』で、これは冬の王を殺して新たな春を迎える冬至の祭りだと(大意)書いていたことを思い出す。禍々しいものは全て去り、豊かで明るい新年がめぐってくるように感じた。年末に見るには、たいへんいい狂言だった。

 お岩の造形には、今年の夏に芸大美術館で見た『うらめしや~、冥途のみやげ展』を思い出すところも多かった。お岩の幽霊が、腰から下を赤く染めた衣で跋扈するのは、生んだばかりの赤子を(結果的に)死に至らしめた悔恨が、産女(うぶめ)の姿を取らせていたのではないかと思う。あの図録、もう一回眺めてみよう。
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村上華岳(山種美術館)+神仏・異類・人(国学院大学博物館)

2015-12-21 23:23:00 | 行ったもの(美術館・見仏)
山種美術館 特別展《裸婦図》重要文化財指定記念『村上華岳-京都画壇の画家たち』(2015年10月31日~12月23日)

 2014年に山種美術館が所蔵する『裸婦図』が、村上華岳(1888-1939)の作品としては2件目の重要文化財に指定されたことを記念し、その画業を振り返る展覧会。という謳い文句を聞いて見に行ったので、華岳の作品がもっとスラズラと並んでいるのだと思っていた。そうしたら、華岳の作品は、下絵や小品を含めて十数点ほどで、京都画壇の先人や学友たちの作品が圧倒的に多かった。まあ、おかげで小野竹喬や福田平八郎など好きな画家の作品を見ることができた。菊池契月『少女図』など、京都国立近代美術館や京都市美術館のコレクションが、たくさん出陳されていたのがめずらしかった。竹内栖鳳の『斑猫』など動物を描いた名品が多かったのも楽しかった。

 華岳の作品で最も印象に残ったのは、油絵の自画像。あと、卒業制作の『羆(ひぐま)』はディズニーのクマみたいで、どことなく可愛かった。

国学院大学博物館 平成27年度第5回企画展『神仏・異類・人-奈良絵本・絵巻にみる怪異-』(2015年11月21日~2016年2月7日)

 現実にはありえない不思議なこと(怪異)を描いた、江戸時代の奈良絵本や絵巻を特集展示。20数点ほどの小規模な展示だが、私は怪異や異類が大好きである上に、最近、この手のチープなメディアがすごく気に入っている。「芸術」や「文芸」の専門家が本気で論ずることなど絶対にない作品の数々。怖い場面なのに怖くなく、泣ける場面なのにゆるくて可笑しい。『俵藤太物語』の竜宮おもしろいなあ。亀(?)があちこちにいる。タコやアワビ、サザエは擬人化されているが魚はそうならないのか。『異代同戯図』では鐘馗が双六に興じ、カルタの札とにらめっこする文殊さまが可笑しい。

 参考展示の『嵯峨本・伊勢物語』を見て、これが和文の物語をはじめて印刷したものという説明に、いまさらながら驚く。それまでは仏典・漢籍など漢文で書かれた古典のみが印刷され、和文の物語は写本のみで伝わっていたのだ。文化の画期だったことを再認識。また、伊勢物語・芥川の「鬼ひとくち」が、能や歌舞伎など各種の怪異物語の原型になったという説明も非常に腑に落ちた。
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