見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

2012大晦日・大河ドラマ『平清盛』再考

2012-12-31 14:58:31 | 見たもの(Webサイト・TV)
NHK大河ドラマ『平清盛』全50回

 大晦日に大河ドラマのことを書くのは、2007年の『風林火山』以来である。あのときは大晦日に総集編の放映があったのだが、『平清盛』総集編はまだ見ていない。

 私は元来、平家びいきなので、平清盛が大河ドラマの題材になると聞いたときから嬉しかった。主演の松山ケンイチさんはよく知らなかったし、脚本の藤本有紀さんも知らなかった。人物デザインの柘植伊佐夫さんは『龍馬伝』で知っていたけど、あんまり奇抜なことはしないでほしい、と思っていた。

 ともかく私は楽しみにしていたのだが、公式ホームページが立ち上がった頃から「王家」という用語に非難が集中し、なんだか面倒くさいことになった。さらに放映当初から「画面が汚い」「暗くて見にくい」という意見が大きく報道された。私は全然そう思わなかったが、実際「汚いわよねえ」と言っているオバサマの会話を耳に挟んだこともある。これは個人の感じ方なのでいたしかたないだろう。

 確かに高平太(若き日の清盛)の人物デザインは、私も「ちょっとやり過ぎ」な感じがした。あと、制作者の意図が、新しいものをつくりたいという気持ちと、分かりやすいエンターテインメントにして、それなりに視聴率も稼ごうという気持ちに分裂して、軸が定まらなかったり、和歌の扱いが粗雑だったり(歴史研究の時代考証とは別に、文学・言語担当の考証がほしかった)、序盤はいろいろ頭を抱える局面もあった。

 それでも私は、今まで描かれなかった時代を描きたい、新しい大河ドラマをつくりたい、という制作者のもがきみたいなものを感じて、見続けることができたが、最近の視聴者の見切りの早さには、驚かされた。自分が「分からない」「気に入らない」ものはバッサリ拒否なんだな~。あれでは、異なる社会とか異なる文化を描いた古典文学や海外文学なんて、読めないだろう。ネットで検索しただけの知識で、言葉の使い方や演出のここがおかしい、あそこが変、と言い立てられてもなあ…と思った。

 同様に「武士の世をつくる!」と大言を吐きながら、何もそれらしい行動を起こさない、いわゆる「厨二病」と揶揄される状態から、なかなか抜け出せない主人公・清盛に対するバッシングも強かった。あの反応を見ていると、一日も早く大人(空気の読める存在)になることを強いられている今の若者って、可哀想だなあと感じた。むかしは、ゆっくり大人になる人間のほうが、大きな器になると言って、許容され、むしろ尊敬されたものなのに。

 序盤の迷走を抜けて、ドラマは、保元・平治の乱あたりから俄然、面白くなってきたが、その頃には、離れる視聴者は離れ尽くし、視聴率は10%前後を低迷し、相変わらず面倒くさいアンチが暴れていた。その頃、Wikiによれば第24回放送(6月21日?)からTwitterを用いて、プロデューサーの磯智明氏が番組解説を行うという取り組みが行なわれた。私はドラマに解説を持ち込むという手法が嫌いなので、正直、これには感心しなかった。しかし、ドラマの各回を見終わったあとで、制作スタッフの解説、出演した俳優さんの話、さらに視聴者の感想を読むのが、だんだん面白くなった。制作者の意図以上にドラマの本質をつかんだ感想があったり、笑えるネタもたくさん盛られていた。後半になるほど、いろいろな「仕掛け」(前半とのつながりや、史実や伝承の借用など)に手が込んできて、私が見逃したポイントを教えられたことも一度ならずあった。

 公式ホームページでの情報発信も多くなった。最終回放映の後に掲載された、人物デザイン監修・柘植伊佐夫さんの「キャラクターそれぞれの人物デザイン 総集編+」は何度も読み直した。これ、本にしてほしい。私が最も感銘を受けたエピソードは、盛国の餓死による自害シーン、ただ静かに無表情に座すものと、意識が遠のく寸前に涙がひとすじこぼれ落ちるという2バージョンを撮影し、演じる上川隆也さんも柴田監督も「涙をこぼさない方がより感慨が深い」という意見に一致した、というもの。1分にも足らないようなシーンに、これだけの手間ひまと真剣な努力が注がれていることに感激した。

 それから、これは「NHKドラマスタッフブログ」のサイトに掲載されている「【詳報】平家は一蓮托生!『平清盛』最終回パブリックビューイング(2012/12/23)」の記事で、松山ケンイチさんが「僕は自分の部屋に清盛の絵を飾っていて、撮影中は毎日手をあわせてから現場に向かっていました」というのにも驚かされた。「どうやったら彼の強さや大きさを表現できるのかいつも考えていたのですが、演技ではなく、人間としてのレベルを上げないと無理なんだと思います」というのも胸を打つ言葉だった。

 繰り返すが、私はもとから平家びいきなので、放送終了後のTwitterを読んでいると「平家嫌いだったのに印象が変わった」「負け犬だと思っていた」というつぶやきが多くて、そんなに(一般的日本人にとって)印象悪いのか…と、あらためて苦笑させられた。でも、このドラマによって平家一門のイメージが少しでも変わるとしたら、泉下の清盛入道も喜んでいるだろう。松山ケンイチさんは、清盛の少年時代から老醜までをよく演じた。最後に武士の志を取り戻し、ぶ厚い金色の裘代(きゅうたい)を脱ぎ捨て、軽やかな単衣に変わった姿は、六波羅蜜寺の眼光鋭い清盛像に似ていなくもなかったと思う。

 私はあまりテレビを見るほうではないので、このドラマで初めて知った俳優さんが多かった。特に後半に登場した若手の俳優さんは、みんな役にハマっていた。キャスティングもよかったが、それぞれ役作りに熱心だったように思う。直衣の着こなしや、お辞儀などの所作も非常に綺麗だった。これから先、他の時代劇ドラマで、彼らの活躍を見るのがとても楽しみである。

 磯Pの年末最後のツイート「振り返ると『平清盛』は、荒波に浮かんだ船のように、いつ沈んでもおかしくない状況でした。このツイッターの場は、私たちにとって雨雲から時折差し込む、光のような希望を与えてくれました。みなさまのおかげで無事、航海を終えることができました」には、感慨深いものがある。今後のテレビ番組って、意外とこんなふうに(制作者と視聴者の直接交流が普通に)なっていくのかもしれない。

【おまけ】9月に東京銀座の「TAU(広島県のブランドショップ)」で行なわれた最初の「盛絵」展に展示されていたオウムのナイミツちゃん


12月23日、NHKスタジオパークの「盛絵」展イベントに登場した磯プロデューサー、柴田ディレクター


ファンが描いた「盛絵」のごく一部。圧巻!


では、そろそろこのへんで、皆様よいお年を。
コメント

退屈な19世紀/赤と黒(スタンダール)

2012-12-30 22:58:08 | 読んだもの(書籍)
○スタンダール;野崎歓訳『赤と黒』上・下(光文社古典新訳文庫) 光文社 2007.9-12

 年末休みなので、久しぶりに古典小説を読んでみた。確か中学生の頃に読んだはずだが、ほとんどあらすじを忘れていた。読み始めてすぐ、こんな小説を中学生で読もうなんて、無謀だったなあ、自分、としみじみ思った。

 田舎町ヴェリエールの農民の息子ジュリヤン・ソレルは、聡明さを買われて、レナール町長の子どもたちの家庭教師に雇われ、優しく純情なレナール夫人と恋に落ちる。二人の仲が疑われるようになり、ブザンソンの神学校へと追われるが、孤高の志を持つジュリヤンは、同級生たちと馴染むことができない。やがてラ・モール侯爵の秘書に推薦されて、パリへ出る。ここでも、野心と劣等感の板ばさみになって、苦悩するジュリヤン。ラ・モール家の令嬢マチルドは、少し変わった気性の持ち主で、ジュリヤンの「風変わりさ」に惹かれていく。二人は反発しながら、激しく愛し合い、マチルドはジュリヤンの子を妊娠する。

 ラ・モール侯爵からジュリヤンの身元の照会を受けたレナール夫人は、聴罪司祭に命じられたまま、ジュリヤンの罪を告発する手紙を書いてしまう。侯爵は激怒し、ジュリヤンとマチルドの結婚を取り消す。ジュリヤンはヴェリエールに赴き、レナール夫人にピストルを向ける。夫人は一命を取り留めたが、ジュリヤンは捕らえられ、裁判の末、断頭台にかけられる。

 中学生って、満足な恋愛体験もないのに、というのは、ひとまず措く。当時、恋愛ドラマもマンガも、それなりに理解して楽しめていたはずだ。しかし、やっぱりこの作品は、舞台となる社会の構造が、現代日本と違いすぎる。古典を読むのは難しいなあ、と思う。エンターテインメントとして非常によく出来ていて、新しい事件が次々と起こり、登場人物は気まぐれ(?)みたいに感情をこじらせるので先が読めないし、前半のここに出てきた人物が、後半のここに出てくるか、みたいな面白さもある。

 しかし、ある程度、時代背景を了解していないと分からないところも多い。たとえば、三人の息子の母でありながら処女のように純真可憐なレナール夫人の造形には、当時の女性が、どのような教育を受け、結婚し、母となるライフコースが一般的だったかの理解がほしい。

 ラテン語の秀才であるジュリヤンは、田舎町で手に入るわずかな本を暗記しているだけで、それ以上の教養や、まして「世間知」に類することは、大都会に出て、社交界に入らなければ身につけられない時代だった。また、貧しい青年が出世するには、神学校を出て僧職になるのが唯一の手段だったと思われる。「野心家」ジュリヤンが、一向に政界や財界に出て行く様子もなく、貴族の子弟たちの前で、立居振舞いを軽蔑されまい、と神経質に思い悩むところなども、上記のような了解があって、はじめて納得できるものだろう。

 特に時代が「1830年」、7月革命の直前に設定されていることは重要だと思う。ジュリヤンはひそかにナポレオンを崇拝し、ナポレオンの時代だったら貧しい生まれでも、軍人になることで出世できたのに、と思っている。王政復古下の聖職者の堕落、貴族階級の退廃は冷ややかに描き出されている。ただ革命前夜にしては、新しい時代への期待はあまり感じられず、むしろ偉大な世紀が過ぎ去ったあとの、退屈な「19世紀」に対する恨みつらみが述べられているように思った。

 偉大な世紀として、マチルドが夢見るのは「シャルル九世やアンリ三世の時代」、西洋史に疎い私には、ぜんぜんイメージが湧かなかったのだが、16世紀なのかー。マチルドは、新しい女性のようでいて、古代の巫女みたいな性格づけもされた、面白いキャラクターである。

 あと、ジャンセニスト(悲観的人間観を強調した異端的キリスト教思想)やヴォルテールについては、ちょうど読んだばかりの岡田温司『デスマスク』から引き継ぐところが大きかった。最後の、断頭台の処刑についても。
コメント

生けるが如き死者/デスマスク(岡田温司)

2012-12-28 21:11:01 | 読んだもの(書籍)
○岡田温司『デスマスク』(岩波新書) 岩波書店 2011.11

 西洋美術に対して、私の関心は東洋美術についてほど深くないのだが、このひとの本は、いつも興味深く読んでいる。取り上げるテーマが「理性」「啓蒙」「近代モデル」の西洋から、大きく逸脱しているところが好きなのだ。

 本書は「デスマスク」について、おおよそ時代順に並べた八つのトピックから成る(古代ローマの先祖崇拝、王の二つの身体、教皇の身体、ルネサンスの蝋人形、ジャンセニストの死面、ギロチンとフランス革命、近代の天才崇拝、名もなきセーヌの娘)。

 古代ローマでは、先祖の肖像は「イマギネス」と呼ばれて、葬儀や葬列に使われたのち、屋敷の玄関広間に飾られていた。それは外国の芸術家による青銅像や大理石像ではなくて、「蝋で作った顔の模型」であったとプリニウスの『博物誌』は言う。これらは現存していないそうだが、共和制ローマ時代には、ギリシア彫刻にもヘレニズム彫刻にも見られない「生き写しのようなリアルな顔の表現」をもつ大理石の肖像彫刻が残っている。何点か写真が掲載されているが、確かにすごい。日本で比較するなら、鎌倉期の肖像彫刻みたいである。

 本書の章立てとは異なるが、まず私は、西洋の葬送儀礼の伝統と継承を、非常に面白く読んだ。特に高貴な人物の葬送には、その人物を「生けるが如く」あるいは「死んだ直後の状態」で、視覚化し、保存することが求められ、そのためにさまざまな技術が用いられた。ローマでは、故人の肖像(面)を、親族の中で背格好が最も故人に似ている者がかぶり、故人の職業や官職を思わせる衣装をまとって行進したという。ええ~悪趣味、と思ったが、16世紀に存命したイングランドの名君、エリザベス女王の場合は、1ヶ月にわたる葬礼の間、棺の上に衣装を着せた肖像(蝋でできた頭部+木製の身体)が横たえられていた。同様のことは、多くの王、教皇についても行なわれた。もっと直接には、遺体を長期保存するため、死後、速やかに内臓を取り除いたり、遺体を熱湯で煮立たせて、骨と肉に分離するという処理も行なわれた。

 うーむ、西洋人は、どうしてそんな儀礼を「必要」と感じたのだろう。また、どうして日本人は必要としなかったんだろう…というのが、とても興味深かった。でも近代以降は、遺骨に対するこだわりは、日本人のほうが強いと言われるのにな。西洋人は、こんなに強かった遺体そのものに対するこだわりを、どこかの時点で捨てたんだろうか。

 著者は、西洋の「ハイパーリアリズム」肖像彫刻について、デスマスク制作の習慣との親近性を読みとる。それは、とても納得のいく想定に思われる。ルネサンス時代においても画家や彫刻家たちは、高尚な芸術作品をつくっていただけでなく、同時にさまざまな典礼品、奉納品、生活用品などを作って売っていた。彼らの「職人としての一面」を忘れてはならないし、かといって強調しすぎてもならない…慎重を要するところだ。

 そして、やっぱり自分の関心では、日本の画家や彫刻家はどうだったんだろう、ということが気になる。日本の鎌倉肖像彫刻って、やっぱり故人に「生き写し」の像を求めたところがあるのかな。でも、デスマスクの影響っていうのはないよな…たぶん。

 で、こういう歴史をたどってくると、欧米人の蝋人形趣味が、きわめて長い伝統に根ざすものなんだということが分かった。マダム・タッソーの名で知られるマリー・タッソー(1761-1850)が、フランスの実在の蝋人形作家で、フランス革命とギロチンに深い因縁を持っていることも初めて知った。ギロチンは「当事者の死顔の表情を瞬間的に定着させる肖像写真のごときものとみなすこともできるだろう」って、悪夢のような指摘もなされている。

 ギロチンによって定着させられるデスマスクが、自他を厳しく分かつ近代の自我の肖像であるとするなら、「名もなきセーヌの娘」と呼ばれる、入水した若い女性のデスマスク(ということになっているもの)は、無名・没個性であるがゆえに、普遍や永遠につながる神秘性を有している、と感じられる。

 最後に本書は、日本のデスマスクについて、ごく簡単に触れている。明治期にデスマスクの技術を輸入した日本では、昭和の初期までの短い一時期に限って、その制作が試みられた。夏目漱石、内村鑑三、小林多喜二などがその実例である。しかし、今日、日本で著名人のデスマスクがつくられたという話は聞かない。西洋はどうなんだろう。今でも普通につくられているのかしら。
コメント

2012大河ドラマ『平清盛』最終回覚書

2012-12-25 01:12:13 | 見たもの(Webサイト・TV)
NHK大河ドラマ『平清盛』最終回/第50回「遊びをせんとや生まれけむ」(2012年12月23日放送)

 ドラマ『平清盛』が完結した。私は2007年『風林火山』以来のパーフェクト完走である。本放送を見逃した回はオンデマンドで補完した。ただ、二つの視聴スタイルはだいぶ異なっていて、『風林』は自分の外側にある好物ドラマという感じで、録画を何度も飽きずに見直すことがあった。『平清盛』は、何というか、一回見ると、ずんと自分の中に入り込んでしまうので、その印象をああでもないこうでもないと一週間かけて反芻するのが常だった。途中から時代考証の本郷先生のtwitterが始まり、続いて公式twitterが立ち上がり、ファンによる嵐のようなつぶやきを読むのも面白かった。

 自分の感想は「第6回まで」と「第21回まで」の二回書いただけだったが、これは後半に入って関心が薄れたわけではなく、むしろ加速度的に面白くなっていくドラマにますます惑溺して、感想をまとめる余裕がなくなってしまったためである。

 私は、もともと「平家物語」ファンなので、この時代の人々には、ある程度の知識と親近感を持っていたつもりだった。しかし、源氏や東国の武士、摂関家、天皇家については、このドラマを通じて、はじめてイメージが鮮明になった人たちがたくさんいる。いや、平家の人々についても、このドラマのイメージが上書きされることは、たぶん当分ないだろう、と思う。

 主人公・清盛を演じた松山ケンイチさんは見事だった。バトンタッチセレモニーで「僕の一番の失敗は大河の主演ということで、ものすごく緊張したこと」と告白していたように、序盤は迷いもあったのだろうと思う。ところが、実年齢をはるかに離れて、老醜の清盛を演じる後半になるほど、演技に凄みが増していった。そして、まわりの俳優さんも、役への収まり方が素晴らしく、視聴者である私も、半分あっちの世界(平安末期)に行きかけていたように思う。

 最終回は、この壮大な物語に憑依されかけた視聴者を、ゆっくり「現実」に返すために必要な仕掛けだったのではないか、と思っている。そういう点では、原典「平家物語」の大原御幸の段の役割に似ているかもしれない。

 親兄弟、叔父、親友、早世した息子など、さまざまな人々の志を受け継ぐ使命を自覚する清盛は、熱病にうなされ、生霊のごときものとなってさまよいながらも、生に執着する。その清盛に、人はみな、無念を残して死んでいくものと諭す西行。そして、死の直前まで、子どものようにひたむきに生きた清盛の人生は「まばゆいばかりの美しさ」であったと語りかけ、死を受け入れることを促す。

 そののち、西行は平家一門の邸を訪ね、清盛の遺言を伝える。画面には亡き清盛自身が現れ、晴れ晴れした穏やかな表情で、ひとりひとりに親身な言葉を与える。これは完全な創作パートだが、一年間このドラマに、平清盛の人生に付き合ってきた視聴者に「物語の終わり」を知らしめるには、最上の大団円だったと思う。盛国、いや鱸丸に対する言葉には、ここであの説話を持ってきたか、と胸の内で喝采した。後世のイメージのよくない時忠をねぎらい、やがて裏切り者の汚名を着る頼盛を励まし、最後に正妻・時子に向けた優しい一言は、意外すぎてほろりとした。

 そして、頼朝に受け継がれる清盛の志、駆け足の壇ノ浦、平家一門それぞれの最期、頼朝・義経兄弟の確執。「武士の世」の途上に打ち続く修羅の日々。しかし、海の上には、無垢な希望に満ちた小兎丸の姿。…ここまでは、だいたい想定範囲の最終回だった。

 いよいよ本当のラストシーン。海の底で宋剣を拾った若き日の高平太は、兎丸の声に迎えられ、波の底の「都」に歩み入る。そこには、陸の上と変わらない、なつかしい屋敷、さらに勢ぞろいした笑顔の一門が待っていた。え、そこまでやるのか(視聴者に受け入れられるか…大丈夫か?)という不安が一瞬よぎったが、この大胆な演出で興ざめするような視聴者は、たぶんとっくにドラマから離れていたと思う。逆に、私を含め、このドラマに最後までついてきた視聴者は、たとえあの場面が描かれなくても、「平家一門は海の都で仲良く暮らしているはずさ」という妄想を逞しくしたに違いない。だから、あのシーンは、視聴者が最後に見たかったものを見せてくれたものと考えて、評価したい(平家びいきの歌川国芳に、海の底の平家一門を描いた図があったなあ。中心は知盛だったけど)。

 ラストシーンでは、清盛目線のハンディカメラが、一座の者の表情をひとりひとり捉えていく。みんな「役」であると同時に、俳優さんの「素」の笑顔が渾然となっているような気がした。実は最終回だけオンデマンド購入して、さっきからラストシーンを何度も見返しているのだけど、見れば見るほど、不思議な幸福感に満たされていく。

 いろいろ物議を醸したドラマだったけれど、私は、治天の君から海賊に至るまで、それぞれ、高い志を抱いて格闘したたくさんの人々がいて、長い歴史を持つこの国が、前よりもっと好きになった気がする。そして、その歴史を一年間かけて楽しむ「大河ドラマ」という番組があることの幸せ。このことは、またあらためて書くかもしれないが、とりあえずの覚え書き。制作にかかわったみなさん、ありがとう。
コメント

ドラマ『悪夢ちゃん』最終回

2012-12-23 10:53:55 | 見たもの(Webサイト・TV)
日本テレビ ドラマ『悪夢ちゃん』(2012年10月13日~12月22日、全11回)

 この秋、めずらしく民放ドラマをずっと見続けていた。私の好きな大森寿美男さんが脚本を書いており、「やっぱり大森さんは面白い」というネットの評判を見たので、Gyao!ストアの有料配信で、見逃した数話を一気に見た。確かに面白い。

 明るく生徒思いの小学校教師を演じる武戸井彩未(むといあやみ、北川景子)は、実は決して他人に本心を明かさない変人だった。ある日、5年2組に古藤結衣子(木村真那月)という生徒が転入してくる。結衣子は、他人の無意識につながり、予知夢を見てしまう「悪夢ちゃん」だった。結衣子の祖父・古藤博士(小日向文世)は大学で夢の研究をしており、人の見た夢の「夢札」を映像化できる「バク」という機械を持っている。博士の助手、志岐貴(GACKT)は、敵か味方か分からない謎の人物…というキテレツな設定。

 はじめの数話は、5年2組の生徒たちの無意識が、ひとりずつ結衣子に悪夢を見せて行く。その悪夢がまた、グロいわ、怖いわ、訳わからないわ、なのだが、軽快で毒の効いた(でも品のある)セリフがポンポン飛び交い、気持ちのいい緊張感がある。なりふり構わず疾走するような展開、神託のような解釈、結末のカタルシスに惚れ惚れし、次の回も見てしまう。しかし、回が進むに連れ、彩未が無意識に押し込めていた記憶が、じわじわと解き放たれ、より大きな謎が浮かび上がってくる。しかも、二転三転する「謎」の真相…。

 私は、何話目だったか忘れたが、志岐貴がつぶやく「子どもの夢はなぜ怖いのか」の「解」が好きだった。彼らは悪夢を見ることで、恐怖や悲しみに満ちた現実の世界に適応する準備ををしなければならない、みたいなことを言っていたと思う。

 そして、最終回は、まさにその言葉どおりだった。現実に絶望して、無意識の中に引きこもり、眠り続ける結衣子の夢に彩未先生は決然と下りていき、「未来は変えられる。だから、どんな悪夢を見ても大丈夫」と語りかける。「未来はその人のもの」であるけれど、同時に夢(無意識)の中では、死んだ母親、会ったことのない父親、あるいは子どもの頃の親友などが、姿を変えて、その人を見守っている、ということも示される。

 単に「頑張れば大丈夫」ではなくて、「あなたは守られているから大丈夫」というメッセージが暖かいなあ、と思った。特に、子どもが現実に不適応を起こす最大要因になりやすい親や教師が、時には間違った方向に暴走することがあっても、心の奥底では、子どもを愛し、守ろうとする存在として描かれていたことも暖かいドラマだった。ちょっとケストナーの『飛ぶ教室』を思い出してしまった。

 ネタバレ(放映済み)だが、古藤博士の娘の菜実子(=結衣子の母親)は、彩未の幼い頃の親友だった。予知夢を見る能力のあった彩未は、将来自分が小学校の先生になり、菜実子の子どもの担任になる、と明かす。ただし、そのとき菜実子はもうこの世にいない、とも。やがて菜実子は自分の役割を理解していたかのように、父親の分からない娘(結衣子)を友人のために残して早世する。この展開に、私は今年の大河ドラマを思い出してしまったことを、こっそり付け加えておこう。親友の子どもに危機を救われるって、清盛と義朝・頼朝のアレと似ている。親(世代)は子ども(世代)が現実に生きていくための手引きをしなくちゃいけないが、同時に親(世代)は自分の危機を、子ども(世代)に救われるのである。いや、私が脚本の大森さんのファンになったのが、以前の大河ドラマ『風林火山』なので、つい。

 ラストシーン。あの露天の夢違観音(法隆寺にあるもの模刻)は、関西のお寺ではなかったかな…と思ったが、画像検索すると世田谷観音というお寺が出てきた(今度行ってみよう)。「夢の中で、ここでお父さんに会った」という結衣子と彩未の背後に近づく男性。振り向き、驚く二人の表情。「父親」の足元からスパンしたカメラが、顔の一部をチラッと捉えたところで暗転、ジ・エンドという粋な演出。ネットには「誰なの?」という声もあったが、ドラマをちゃんと見ていれば、志岐貴の生還以外、ありえないでしょう。ただ、志岐が結衣子の実の父親だったのか、これから彩未先生と幸せな家庭を築いていくことの暗喩なのか、その両方なのか、そこは視聴者の解釈にまかせる、という計らいだと思った。こういうドラマのつくり、好きだな~。

 恩田陸の『夢違』という小説が「原案」だというが、ドラマは、この設定の一部だけ借りて、全く別作品をつくりあげたものらしい。あの震災以来、上っ調子に「絆」々という連呼がうるさい、と思っていたが、本気で人と人の「絆」に向き合ったドラマだと思った。とても素敵なクリスマス・プレゼントをありがとう。
コメント

殿様も登場/我ら明清親衛隊(板橋区立美術館)

2012-12-22 23:34:40 | 行ったもの(美術館・見仏)
板橋区立美術館 特別展・江戸文化シリーズNo.28『我ら明清親衛隊-大江戸に潜む中国ファン達の群像』(2012年12月1日~2013年1月6日)

 先週(12/15)記念講演会を聴きに行ったのだが、後期(12/17~)から登場の作品も見たくなって、もう一回行ってきた。以下のレポートは、主に後期の展示に沿って書く。

 図録掲載の安村敏信先生の文章によれば、17世紀には後の上方画壇に影響を与える二つの出来事が中国からもたらされた。一つは黄檗僧逸然の来日。→鶴亭、蕭白の色遣い。一つは『八種画譜』の輸入と翻刻。→南画。18世紀に入ると、さらに二つの出来事が。一つは蘇州版画の流入。→初期浮世絵の透視図法や応挙の眼鏡絵。もう一つは沈南蘋の来日である。

 ということで、ロビー奥のコーナーでは大判の蘇州版画1点と、ちょっと「やりすぎ」の透視図法を用いた初期浮世絵を数点展示。藤原鎌足の「玉取」伝説を題材にしたものが並べてあって、竜宮城の描き方を比べてみると面白かった。以下、主な絵師と作品を紹介していこう。

・黒川亀玉…江戸で最も早く唐絵(新しい中国風の絵)を始めた画家。前期に出ていた『白梅黄鳥図』や『海棠白頭翁図』も、暖色系の明るい色遣い、生気にあふれた愛らしい小鳥がいいなと思ったけど、後期の『日の出鶴図』はさらに好きだ。桃の木に舞い降りる鶴を、ほぼシンメトリーの安定した構図で描く、臆面もない目出度さ、ハイパーリアルな鶴の尾羽の質感も目を引く。小さい作品だけど、赤のきれいな『関羽図』もいい。

・建部綾岱…南蘋画を学んだが、目を病んだため、細密描写を用いず、枯淡な味わいの淡彩墨画を描いた。画題が南蘋ふうなのに、画風が裏切っているところが独特で面白い。建部綾岱って国学者の建部綾足のことか…って、以前も書いたような気がする。

・諸葛監…本名・清水又四郎。中国人ふうの名乗りからして本格派で、唐絵の上手として定評があった。『罌粟に鶏図』は若冲の先鞭という感じもする(かなりアッサリだけど)。

・宋紫石…南蘋画といえばこの人、と思っていたが、本展では、意外とアッサリしてさわやかで可憐な作品が多かった。細部は緻密に描き込まれていても、広い余白に余韻が漂う。後期の『十八羅漢図巻』かわいかったなー。13人しか見られなかったけど。

・松林山人、渡辺玄対、司馬江漢、藤田錦江、岡岷山、董九如、土方稲嶺…それぞれ達者な花鳥画。縦長の画面を斜めに横切る木の枝。鳥のポーズにはいくつか定型があるように思う(振り返る、下から見上げる、など)。口を開けた鳥がよく描かれるのは、画面に「声」を添える工夫なのかな。司馬江漢描くカワセミが、ポケモンのキャラみたいに精悍で可愛かった。ええと、源鸞卿=本名・山本又三郎は、軍師・山本勘助の一族につながるという、どうでもいい解説に反応してしまった。

・森蘭斎…顔の怖い鹿の絵。木村蒹葭堂と交友あり。上方では南蘋画があまりふるわなかったので、江戸に出たという。そうそう、南蘋画は江戸で大流行だったんだな。府中市美術館の『三都画家くらべ』でもそんな話だった。ちょっと不思議。大阪との親近性のほうが高そうなのに。

・金子金陵…この展覧会で初めて知った画家の中で、いちばん気に入ったのはこの人。とにかく色彩がきれいだった。でも図録の写真だと、その魅力が今ひとつ伝わってこないのだけど。そして、うーん、実はどこが中国ふうなのかよく分からない。このあとに、渡辺崋山、椿椿山と、やっと知っている名前が出てきた。

・鈴木鵞湖…『雪山図』の題材は三国志からだが、雪化粧した山水が、あまり中国的でないのがほほえましい。

・岡本秋暉…聞き覚えのある名前と思ったら、東博の「平成23年度新収品」でたくさん資料の入った画家だった。『百花一瓶図』の色彩の洪水はすごい。

・増山雪斎…前期の『孔雀図』(普通の孔雀雌雄/白孔雀の対幅)、後期の『牡丹と鶏図』の鶏(白い羽毛、赤と青の混じった目元)どちらもすごかった。この人、伊勢長島藩の藩主だったと知って、びっくり。Wikiに「政治面では無能な藩主であった」と書かれてしまっているけど…。隠居して巣鴨の下屋敷に住んでいたのか。いいな~江戸時代。

・松平定信…うむ、この人も絵を描いていたのか。『達磨図』は添えられた解説に「素人っぽさにあふれていて、かえって気持ちがよい」「異様に大きなサインも殿様らしくてよろしい」とあって、笑えた。

 いろいろ面白い絵もあったが、実は「当時の中国画」の実態が私にはよく分かっていないので、むしろ江戸の絵師たちの作品を見ながら、当時の中国画って、こんなだったのかなあ…と思いをめぐらす展覧会だった。
コメント

江戸絵画のニューモード/講演会・沈南蘋再考(板橋区立美術館)

2012-12-20 00:44:28 | 行ったもの2(講演・公演)
板橋区立美術館 講演会『沈南蘋再考-江戸時代人にとっての南蘋画とは?』(講師:板倉聖哲、12月15日15:00~)

 特別展『我ら明清親衛隊-大江戸に潜む中国ファン達の群像』(2012年12月1日~2013年1月6日)を記念する講演会。はじめ、展覧会のタイトルを聞き、中国絵画史の板倉聖哲先生の講演会があると知ったときは、え?板橋区立美術館の次の展覧会は中国絵画か!と早とちりをしていた。講演会の少し前に行って、図録を購入してから、展示作品を見ておこうと思ったら、別のお客さんと受付の方の「沈南蘋の作品は出てないんですね」「ええ、中国絵画は…あちらの版画1点だけなんですよ」という会話が聞こえてきた。

 あら、そうだったのか。自分の予想を少し軌道修正して会場をひとまわりした。どこかで聞いたことがあるかな程度の日本人画家の作品ばかりだったが、楽しめた。そして、講演会に参加。

 かつて「鎖国」といわれた江戸時代だが、来舶画人(中国から日本を訪れた画人)は、名前が分かっているだけで130人以上に及び、朝鮮通信使に随行した画家の影響も注目されている。沈南蘋(沈銓)は中国清代の画家。雍正年間に来日、長崎に足掛け3年(1731-33)滞在し、18世紀の江戸絵画に多大な影響を及ぼした。『清史稿』には、沈南蘋が「日本国王」の招聘を受けたとある。これは、享保10年(1725)将軍・徳川吉宗が命じた明絵画の粉本収集に応じて、南蘋が来日したと考えられているためである(Wikiに詳しい)。長崎図書館には、南蘋が将来した画本(約100本)の目録が現存すると言っていたと思う(このへん初めて知ることばかりで、記憶に自信が持てない)。

 内藤湖南は沈南蘋を「いささか時代遅れの気のきかない画」と評したという。あー湖南先生の趣味ではなさそうだな。これに対し講師は、南蘋の古画に学ぶ(北宋・元・明の作品をまねる=彷古)態度は、同時代の画家にも見られるオーソドックスなもので、時代遅れではないこと、文人たちの間に一定の評価を得ていたことを示す。

 近年、中国文化圏でも「旅日画人」を中国絵画史のコンテキストで捉えなおそうという動きがあり、新たな作品が続々見つかっている。しかし「伝・南蘋筆」作品は約500点現存するが、真贋はかなり疑わしい…ということで、講師は、具体的に写真を見ながら、○○美術館のこれは贋作、△△美術館のこれもあやしい、と厳しい判定。

 また、ひとくちに南蘋画といっても、比較的あっさりした写生的な花鳥画もあれば、緻密で濃厚な色彩の作品もあることを示す。私は沈南蘋の名前を、泉屋博古館の『雪中遊兎図』で覚えたので、南蘋画のイメージといえば、まず後者である。

 しかし、あの『雪中遊兎図』は乾隆年間の作品である。実は、南蘋の長崎滞在期(1731-33)の作品は、ほとんど日本に残っていない。乾隆年間の作品は、後世(近代以降)にもたらされたもので、江戸の画家たちは「見ていない」ことに注意しなければならない。これを補足するのが、講師が行なった谷文晁一門の模本調査(1700点)。江戸の画家たちが見た南蘋画とはどのようなものであったかを、いま一度整理し、南蘋画の影響とか流行というものを考え直す必要があるのではないか。う~当たり前すぎる結論なのに、目からウロコだった。意外とこういう実証的な手続きをなおざりにして、直感でものを言ってしまうこと、多いよなあ、と感じる。

 詳しく再録はできないが、代表的な作品を取り上げての見どころ解説も面白かった。三の丸尚蔵館所蔵の『香宿艶図巻』は、2006年の『花鳥-愛でる心、彩る技』展で見ているが、細部を拡大すると、あんなに虫たちに人間的な表情があって愛らしい作品だなんて、たぶん気付いていなかったな。斧劈皴(ふへきしゅん)から雲紋皴(うんもんしゅん)へという、岩の描写の変遷も見るときのポイント。これを耳で聞きながら、なんとなく理解できたのは、黒川古文化研究所の『中国の花鳥画』展の記憶があったからだと思う。

 展示参観レポートはまた後日(と言って書き逃すことも多いが…)。
コメント

歌仙絵と和様の墨蹟/時代の美 鎌倉・平安編(五島美術館)

2012-12-19 00:03:49 | 行ったもの(美術館・見仏)
五島美術館 新装開館記念名品展『時代の美-五島美術館・大東急記念文庫の精華』第2部 鎌倉・室町編(2012年11月23日~12月24日)

 新装開館記念名品展シリーズのその二。前期(~12/9)に出ていた国宝『紫式部日記絵巻』をあえて外して、後期に見に行った。冒頭からしばらく、13~14世紀の絵画資料が並ぶ。特に歌仙絵は、これだけ並べて見比べると壮観。後鳥羽院本三十六歌仙絵の平兼盛像とか、一歌仙一首本歌仙絵の源俊頼像とか、手先を袖から出して、尺を顎に当てたり、髭をひねったり、動きのあるポーズをとる歌仙絵って、ちょっと珍しい(新しい)感じがする。

 以前、後鳥羽院本三十六歌仙絵の『平仲文像』について疑問を感じた件(『絵画の美』展、2010年)、新刊の図録解説を見たら「仲文(藤原仲文 923~92)は」と、サラッと書き流してあり、オイ、と突っ込みたくなった。

 弘安本『北野天神縁起絵巻』の断簡も3種も出ていたし、『前九年合戦絵巻』の断簡も好きだし(菅笠?を深くかぶった右端の男たちがいい)、『尹大納言絵巻』断簡も好きだ。置き眉、赤いおちょぼ口の平安ボーイたちがかわいい。ほとんど描線が見えないくらいの白描なのに、じっと見ていると、華麗な色彩の洪水が瞼に浮かんでくる。

 『過去現在絵因果経断簡』は、益田鈍翁旧蔵本(全長1メートル余)を全面公開し、さらに、やや時代の下る断簡3種も一部公開。「断簡」といっても、60~70cmある長大な経巻である。描かれた仏たちが、蓮華座の上で周りを気にしていたり、踏み割り蓮華をスリッパみたいに履いて、よちよち歩く姿とか、どこか人間臭くてかわいい。室町時代の『山水屏風』もよかった。一度ここで見ていると思うのだが、以前より展示室の環境がよくなって、断然見やすくなった気がする。

 仏画・墨蹟は、心なしか、おだやかで和風テイストなものを選んでいるような気がした。本格的に中国風なものは、「第4部 中国・朝鮮編」に温存しているのではなかろうか。

 古写本や古筆も、楽しませてもらった。『祈雨日記』を見ては、書写者の成賢が藤原通憲入道(信西)の孫と知って、なつかしく感じる。解脱上人貞慶も信西の孫だったな、と思い起こす。『右大臣家百首断簡』は、伝承筆者の西行はあてにならないが、同時代の美しい仮名書きで、右大臣=九条兼実邸で治承2年に行なわれた百首歌(藤原俊成が合点を付した)と聞くと、あの政変前夜に、兼実さんは、こんな優雅なことをしていたのか、としみじみする。

 『平家物語』最古の完本、延慶本も出ていた。平家一門滅亡から約百年後に、紀州・根来寺で書写された本を、さらに百年後の応永年間に書写したもの。そうかー「延慶本」って延慶年間の写本じゃないのね、と基本的なことを理解。森立之旧蔵の金沢文庫本『南華真経注疏』『文選』とか、同館のコレクションは、旧蔵者の名前にうなずいたり、驚いたり、反応したくなるものが多いのも特徴である。
コメント

下層民たち/秀吉の朝鮮侵略と民衆(北島万次)

2012-12-18 01:15:35 | 読んだもの(書籍)
○北島万次『秀吉の朝鮮侵略と民衆』(岩波新書) 岩波書店 2012.10

 本書が刊行されてしばらくは、読もうか、どうしようか、悩んでいた。文禄の役/壬辰倭乱(1592年)と慶長の役/丁酉倭乱(1598年)という、日本人の野望が招いた戦乱が、朝鮮の民衆に甚大な損害を与えたことは事実で、彼の国の子孫のみなさんには、申し訳なかったと思う。しかし、一方で、この時代の戦争を、近代の非戦主義から悪徳呼ばわりすることにも、私は違和感がある。

 本書の立場はどちらであるか。「はじめに」を読み始めてすぐ、戦功の証しとして指示された鼻切りが非戦闘員の民衆に及んだことに触れ、鼻を削がれて生きながらえた人々の「苦悩や思うにあまりある」という一節に行き当たったときは、やっぱり非戦主義か、ずっとこの調子だと鬱陶しいな、と警戒した。しかし、これは杞憂だった。

 第1章、第2章は、秀吉の第一次朝鮮侵略(文禄の役)と第二次朝鮮侵略(慶長の役)の発端から収束までを記す。著者の感想めいた言葉は一切なく、淡々と事実のみが記述されている。初めて知ることが多くて、面白かった。第一次朝鮮侵略の日明講和交渉で、秀吉は、明皇帝の公主(皇帝の姫)を日本天皇(後陽成天皇)の妃とすることを要求している。明皇帝って万暦帝か。実現してたら面白かったのに~と無責任に思う。もっとも、このときの明講和使節は偽物だったというのも驚きだ。

 第3章は、名将・李舜臣の戦いぶりを、独立した1章でまとめて語る。ただ、第2章で日本軍が撤退を決めるまでの間に、あまり李舜臣が登場しないので、李舜臣の存在が、この戦いで重要だったのかどうかが、いまひとつ納得できない。「乱中日記」という日記が残っているんだな。でも、今の韓国人で漢文の読める者は少ないんだろうなあ、残念なことに。

 さらに第4章では、この「乱中日記」から、李舜臣の水軍を支えた人々、船大工や弓匠などの職人集団、船漕ぎたちの実像を明らかにしていく。朝鮮では、陸軍は門閥の子孫だが、水軍は賤民身分の職業だった。へえ~日本の水軍はどうだったんだろう。また、李舜臣の水軍の船漕ぎには、奴婢や「鮑作人」と呼ばれる沿海の民(船の扱いに熟練した水上生活者)が徴用されていた。小説のネタになりそうな話だ、と思った。

 第5章では「降倭」すなわち、日本の陣営から朝鮮あるいは明側に投降した将卒や雑役夫などの日本人について語る。敗色濃厚となって、取り残された日本人がいたという話は聞いていたが、積極的に投降した将卒もいたことは初耳。著者は降倭を、耕地や官職を与えられて土着し、朝鮮人に同化していった幸せな降倭と、過酷な運命に遭った兵卒労役型の降倭に分類している。後者の中でも、何も特技のない者は、消耗品として朝鮮水軍に配置され、さらに女真への防備問題が起きると、辺境の防衛軍として動員されたという。しかし辺境で生き抜いた者も少数はいたのではないか。ここでも、つい小説的妄想が湧き出てくるのを抑えがたい。女真族に投降し、ついに山海関を越える日本人とかね…。

 逆に、これも知らなかったことだが、日本の兵卒に変装して略奪行為を行った朝鮮人や、さらには、日本軍の間諜となったり、抗日活動家を密告した朝鮮人もいたそうだ。特に朝鮮東北部においては、朝鮮国家の中央から派遣された官僚と、在地勢力(女真族を含む)の間に軋轢があり、中央政府への反感を抱く者が、侵略軍である日本軍の傀儡となる事態が生じた。この地域(咸鏡道)に駐屯した加藤清正は、「日本にては八丈が嶋、硫黄が嶋などの様なる流罪人の配所(中略)帝王は我々為には代々の敵」と、鋭い観察を残している。

 つまり、「日本」がまだ形成途上であったと同様に、「朝鮮」という国家も、さまざまな集団が混沌と寄り集まっている状態だったんだな、と思った。宣祖25年(1592)4月30日、朝鮮国王都落ちの直後には、乱民が宮中に放火し、国王の私庫から宝物を奪い取った。また身分差別の根底にあった戸籍を焼き払う奴婢たちもいたという。これは「おわりに」にある記述で、明記されていないけど出典は「実録」かな? 未確認。

 戦乱の中でも、図太く、こずるく、したたかに生きる下層民たち。著者の表現を借りれば「必ずしも国家への忠義を第一とするわけではない。まず自分の生命と生活の安全を優先する」態度が、私は嫌いではない。それにしても、秀吉の朝鮮出兵の波紋を、武将たちだけでなく民衆の経験を交えて、面白く描いた小説ってないものだろうか。
コメント

「中世史学」史を考える/武力による政治の誕生(本郷和人)

2012-12-16 01:08:30 | 読んだもの(書籍)
○本郷和人『武力による政治の誕生』(講談社選書メチエ;選書 日本中世史1) 講談社 2010.5

 本郷和人先生の著書を取り上げるのは、ちょうど去年の今頃、まだ大河ドラマ『平清盛』が始まる前に読んだ『謎とき平清盛』(文春新書、2011.11)以来である。あれから1年、まさかドラマの展開を追いながら、著者のつぶやき(twitter)を日常的に読みにいくことになろうとは思っていなかったが、ドラマの時代考証にとどまらず、ときどき面白い発言をされていたので、2冊目にトライ。

 本書は、日本史における中世とは何か、という大問題に著者なりの「史像」を示した労作。全5章+終章から成る。正直にいうと第4章までは、すごく面白かった。はじめに、鎌倉幕府成立後の、朝廷と幕府(武家政権)の力関係を、文書の授受ルートなど史料に基づいて再考する。そして、現状ではもっとも定説に近い(と著者が書いている)「権門体制論」、つまり公家、武家、寺社家などの権門から成り立つ支配者層の最上位に天皇(朝廷)が立つという認識を批判する。

 はじめに「文」があり、それを否定する「武」が現れ、実力を蓄えた「武」は「文」を従属させていく。天皇(朝廷)の下位に武士が位置するかたちは、名目に過ぎない。鎌倉中期には、武士の助力なしに朝廷は機能しなくなる。やがて「武」は「文」を学び、成長していく。ふむふむ、このへんまでは『男衾三郎絵詞』などに描かれた「武」の恐るべき暴力性とか、一見ニセモノかと思われる稚拙な文書が、まだ有能な文吏が不在だった頼朝周辺で作成されていたことなど、興味深かった。具体的な文書も図版でたくさん引用されており、深く中世の空気を吸うことができた。

 ところが、第5章からは、中世史というより、近現代の「中世史学」史の話になる。冒頭に取り上げられるのは、井上章一氏の『日本に古代はあったのか』(角川選書、2008)。ユーラシア大陸が中世に入っているのに、なぜ日本は11世紀まで延々と古代が続くと考えるのか、という設問に対し、著者は、日本史に無理やり「古代史」を作ったのは「東大で学んだ東国人」歴史学者たちで、好きで好きでしかたない武士の中世を美化するために、否定すべき古代を設定したのだ、と考える。えええ~。

 さらに戦前の皇国史観が、本来、両立しない「尚武」と「天皇賛美」を結びつけようとしたものであったこと、それゆえ実証的な歴史学の育つはずがなかったことを示し、加えて終章では、戦後の網野史学や、フェミニスト上野千鶴子の実証軽視にも苦言を呈している。うーん。こういう「学問」史を論ずることは嫌いではないのだけど、どっぷり中世史を学ぶぞ!と思って、本書を手に取った読者にとっては、ちょっとした「閑話」かと思っていた話題が、ずるずる最後まで続く後半は興醒めな感じがした。それぞれ、別の本でやってほしかったと思う。

 それから、著者が「武」と「文」というときの「文」が、どうにも貧弱な印象なのも気になる。「武」が「文」を従属させていく、という発言から見て、武=武力、文=文官行政くらいしか念頭に浮かんでないようだが、私は「文」は、さまざまな芸術(fine art)を含む、文化ないし文華の意味だと考えるので、いくら「武」が伸張しても、それだけでは「文」の中心点を動かせないと思うのだけど…。

 思わずにやりとしてしまったのは、武力による政治=鎌倉幕府の成立について、高橋昌明氏の「平家幕府」論に注目をうながしているところ。高橋説(清盛が摂津福原に居を構え、めったに上洛しないことで後白河法皇の権力に距離を置き、親平家の公卿に自らの利害を代弁させる方式から、頼朝は多くを学んだ/『平家の群像』岩波新書、2009)に接した著者は「視界がいっぺんに開けた気がした」と記す。本書は2010年5月刊行だから、まだ、このときは高橋昌明氏と著者が、大河ドラマの時代考証その1、その2として、名前を並べることになろうとは思っていらっしゃなかっただろうな…。今から見ると、なんだか初々しい発言でほほえましい。『平清盛』の制作発表は2010年8月だから、制作関係者は本書を読んで、オファーしたのかな、など、歴史資料を読み込み、推理するような気持ちで、楽しませてもらった。
コメント