見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

没後220年 長沢芦雪(京博)+龍谷の至宝(龍谷ミュージアム)

2019-07-31 22:36:32 | 行ったもの(美術館・見仏)

京都国立博物館 名品ギャラリー(平常展示)

 先週末の関西出張のついでに、土曜日は半日だけ博物館もまわった。京都国立博物館には開館の少し前に入った。常設展だけなのに朝から長い行列ができていてびっくりしたが、夏期講座のお客さんだったようだ。

 いつものように3階から見ていく。「陶磁」は『日本と東洋のやきもの』(2019年7月 9日~8月12日)で、京都の寺院が伝えてきたやきものの名品を見ることができた。万福寺の大きなティーポット『紫泥罐』とか、曼殊院の『青磁尊式瓶』とか、初めて見るものが多くて面白かった。建仁寺の『四頭茶礼道具』は大きなお盆に八客の天目茶碗+天目台。それに金属製のポット(浄瓶)、注ぎ口には茶筅がかぶせてあった。

 2階へ。「絵巻」は『福富草紙』と『鶴の草紙』。「仏画」は白描の図像集。「中世絵画」は『描かれた動物たち』(2019年7月2日~8月12日)特集で、狩野松栄筆『龍虎豹図』はマンガみたいにキャラが立っていてかわいい。単庵智伝筆『龍虎図屏風』の龍は大きな耳(?)にタコの足みたいな尾、ポケモンの仲間みたいだ。

 そして私が今回、このために来たのは「近世絵画」の『没後220年 長沢芦雪』(2019年7月2日~8月12日)。わずか10作品だが、芦雪を語るポイントを押さえた展示で、さすがだと思った。『人物鳥獣画巻』に描かれていたのはイタチだろうか?コツメカワウソみたいな愛らしさ。唐美人の『楚蓮香図』。人間くさい表情の『楓鹿図屏風』。応挙風にみっしり描き込んだ『薔薇孔雀図』。どう見ても丸くなったネコの『虎図』。指頭画の『牧童吹笛図』。江ノ島みたいな『蓬莱山図』。芦雪といえば月の『朧月図』など。セレクションがいいと、この点数でも不満が残らない。

 「中国絵画」はまたも斉白石特集。『翎毛雑画冊』のスズメの絵に「曽看朱雪個有此雀、似是而未是也」という自賛があり、「朱雪(八大山人)の描いたスズメは、私のスズメに似ているが及ばない」(大意)という解説が添えてあって驚いた。いや、筋金入りの「八大山人推し」の斉白石が、いくら自分の画力に自信を得たからってそんな傲慢なことを言うかな? 気になってネットで調べたら、中国語の評論で「未是」を斉白石の自称と解釈している例を見つけた。こちらの解釈のほうが腑に落ちる。

 1階。特集展示『赤ってじつはどんな色?』(2019年7月2日~8月12日)が面白かった。考古から仏像、五節舞姫人形、狂言面、赤絵のやきもの、堆朱など。埴輪『帽子をかぶった男子』の赤い化粧は戦士の表現なのだろうか。『九州・海上牧雲記』を思い出した。特集展示『新収品展』(2019年7月2日~8月4日)は2017~2018年度に同館が新たに収蔵した美術品・文化財のなかから約70件の名品を展示。2年分だというし、毎年行われている展示ではないのだな。はじめて見たが、こんなすごい作品が寄贈されたり市場に出たりするのかと思って、しみじみ驚いた。さすが京都である。

 このへんで予定の時間になってしまい、もう1箇所寄るかどうするか迷ったが、結局、次に向かった。

龍谷ミュージアム 企画展『龍谷の至宝-時空を超えたメッセージ-』(2019年7月13日~9月11日)

 2019年に創立380周年を迎えた龍谷大学が、所蔵するさまざまな分野の学術資料を一堂に会する企画展。創立380年って間違いじゃないかと思ったら、1639年に本願寺の教育施設「学寮」として設立されてからをカウントするのである。すごい。歴代宗主が所蔵してきた「写字台文庫」(龍谷大学図書館所蔵)の貴重書も多数出ている。

 大谷探検隊がもたらした貴重な文書・文物も。久しぶりに『李柏尺牘稿』の本物を拝むことができた。西夏文字の『六祖壇経』も。アスターナ出土の『青龍(給田文書)』は、文書をつなぎあわせて青龍型の墓所の装飾の裏張りに使用したもの。表側の、鮮やかに彩色された青龍の一部は旅順博物館にあるそうだ。同じくアスターナ出土の『伏羲女媧図』(7~8世紀)は色が鮮やか過ぎて複製かと思ったら本物だった。本図と接続する下半身部分は1972年に発掘され、現在はウルムチの新疆ウイグル自治区博物館にあるそうだ。見たいなあ。いつか一緒に展示できるといいなあ。

 驚異だったのは、仏教天文学の世界観をあらわす須弥山儀。四つ足の丸火鉢のようなかたちで赤・黄・白・青(緑)に塗り分けた円盤の上に低いピラミッドのような須弥山があり、さらに天体の運行を表すからくり模型が載っている。田中久重(からくり儀右衛門か!)の製作。少し小型の『縮象儀』も並んでいた。円形の大地のうち、日本を含む「南贍部洲」(青色の扇形)だけを切り取ったもので、よく見ると中心に日本地図が描かれている。こんなものが存在するとは全く知らなかったので、いま図録の解説を読んで勉強している。

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政治家、官僚、日銀/平成金融史(西野智彦)

2019-07-30 23:56:16 | 読んだもの(書籍)

〇西野智彦『平成金融史:バブル崩壊からアベノミクスまで』(中公新書) 中央公論新社 2019.4

 先だって吉見俊哉先生の新刊『平成時代』の「経済」の章がとても興味深かったので、たまたま目についた本書にトライしてみた。著者は時事通信社の記者やニュース番組の放送プロデューサーをつとめた経歴の持ち主。そのせいか、人物中心のドキュメンタリーの形式で書かれていて、経済オンチの私にも読みやすかった。それから「記録的な冷夏」とか「ワールドカップ初出場を決めた翌日」などの挿入句に触れるたび、このとき自分は何をしていたか、遠い記憶を揺さぶられながら読んだ。

 本書は平成の30年を4つのフェーズで記述する。(1)1989-1995:バブル崩壊の衝撃と問題の先送り。(2)1996-1998:金融危機の襲来、大型破綻の連鎖。(3)1998-2005:デフレ発生、竹中プランの出動。(4)2006-2018:脱デフレの果てしなき道、である。

 平成元年(1989)はバブルが最高潮に達した年。1990年は株価の暴落で幕を開け、日銀は金融の引き締めを開始する。しかし1991年には未曽有の不祥事が続発、1992年に土地バブルも崩壊し、株価の下落が止まらなくなり、銀行や信用組合の経営危機が表面化する。日銀は金融システムを安定させるため、公的資金を投入しようとするが、銀行の自助努力を重視する大蔵省銀行局に阻まれる。

 1996年、橋本龍太郎内閣が発足。国会で住専処理問題で野党の猛攻撃を受ける。まあたぶん私も「安易に公的資金を投入するな」という立場だったろうけど、日本の金融システム全体のために、どちらが正しい判断だったかは分からない。橋本は「日本版ビッグバン」と呼ばれた金融制度大改革を指示。しかし株価は低迷した。1997年、三洋証券の倒産が引き金となり、拓銀が破綻、山一証券が廃業する。

 このあたりの記述を読みながら、金融システムというのは、お互い、必要に応じて資金を融通し合うことで成り立っているという基本的なことを学んだ。だから疑心暗鬼で市場が委縮すると、弱い金融機関は資金がショートしてしまうのである。金融危機が極限に達する中、政府は公的資金投入を決断する。

 1998年、長銀危機の処理をめぐって金融監督庁と大蔵省が対立したが、官房長官の野中広務が「破綻認定」を決断した。続いて日債銀も破綻。組織防衛に走る銀行の貸し渋りによってデフレ圧力が強まる。株価は急落。円高・ドル安も加速した。そして景気対策として、政府の強い要求により日銀が実施したのが「ゼロ金利」だった。

 2000年、日銀はゼロ金利政策を解除したが、米国のITバブル崩壊などの影響で株価が下落し、2001年には実質的にゼロ金利に回帰する。2002年、小泉首相は経済財政担当相の竹中平蔵に対策を指示、不良債権処理を加速するための「金融再生プログラム」が公表される。2003年、日銀総裁に就任した福井俊彦は、政府と協調して、為替介入と量的緩和(金融市場に大量に資金供給をおこなう)政策を実施し、外需主導・輸出依存型の景気回復を後押しした。私は竹中平蔵が嫌いなのだが、不良債権処理と景気回復に一定の貢献をしたことは認めなければならないと思った。しかし、よく読み直すと、竹中よりも福井総裁の貢献のほうが大きい気もする。

 2006年、日銀は量的緩和政策の解除のタイミングを見計らっていた。しかし政府の強い反対で頓挫。2008年、米国でリーマン危機が発生し、世界経済を直撃する。さらに大震災、欧州危機と逆風が続く中、白川日銀総裁は「非伝統的手段」の政策を積極果敢に繰り出すが、円高に歯止めがかからず、批判がくすぶり続ける。2012年、自民党総裁に返り咲いた安倍晋三は「無制限の金融緩和もよるデフレ脱却」を掲げ、政権に復帰。円安・ドル高が加速し、株価も急上昇を始める。

 白川の「抗議」と見られる辞職後、後任・黒田の「異次元緩和」は、当初、上々の成果を上げる。しかし、黒田バズーカの神通力は次第に弱まり、史上初の「マイナス金利」の評判は散々で、その副作用を懸念する声が強まっているという。

 全体を通して、バブル崩壊の巨大なツケに苦しみながら、日本の金融マンはかなり頑張ってきたと思う。特に「日限」という専門家集団には、はじめて親近感と信頼を感じた。しかし気になるのは「日本の失敗パターン」が顕著にあることだ。一度うまくいったことを止める・変えるタイミングを逃して、気が付いたときには手遅れというもので、現在の金融緩和政策もそうなっていないか、よくよく考えてみる必要があると思う。

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ひんやり夏狂言/文楽・仮名手本忠臣蔵と国言詢音頭

2019-07-28 23:03:48 | 行ったもの2(講演・公演)

国立文楽劇場 令和元年夏休み文楽特別公演(7月27日、14:00~、18:30~)

・第2部:通し狂言『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』五段目 山崎街道出会いの段/二つ玉の段/六段目 身売りの段/早野勘平腹切の段/七段目 祇園一力茶屋の段

 金曜日、京都で仕事だったので、そのまま関西に居残って文楽を見てくることにした。思い立ったときは、第2部のチケットは完売だったのだが、なんとチケット転売サイトで入手することができた(定価より安かったので違法にはならず)。あきらめずに探してみるものだ。

 今年は国立文楽劇場の開場35周年を記念し、4月・7-8月・11月の3公演を使って『仮名手本忠臣蔵』の通し狂言が試みられている。実は、私は忠臣蔵という話があまり好きでないので、これまでこの芝居を見たことがほとんどない。五段目だけは、ずいぶん昔に見た記憶がかすかにあった。六段目は同じときに見ているかもしれないが全く忘れていた。五、六段目は展開がめまぐるしくて面白いが、勘平がおかるの家に身を寄せている理由、定九郎が通りすがりの悪党ではなくて塩谷家にゆかりがあることなど、これ以前の経緯と人物関係がきちんと把握できていないと、面白さが分かりにくいと思う。人形は勘平を和生さん。床は身売りの段を咲太夫と燕三、早野勘平腹切の段を呂勢太夫と清治。

 七段目、祇園一力茶屋の段のあらすじは知っていたが見るのは初めて。10人以上の登場人物に全て太夫さんが割り当てられていて華やかだった。全員が一度に登場するのではなく、入れ代わり立ち代わり床に座る。おかるの兄、足軽の寺岡平右衛門が下手から登場したときは、下手の小さな仮設舞台に豊竹藤太夫さんが座って語りをつとめた。華やかで変化の多い音曲も楽しかったが、ちょっと演出過多で浄瑠璃として邪道じゃない?と思うところも。由良助を呂太夫、九太夫を三輪太夫など贅沢な布陣。ヒロインおかるを津駒太夫というのが面白かった(年増っぽい声なので)。

 人形は、おかるが二階に登場し、由良助にからかわれながら梯子を下りてくるところまでを蓑助さん。いやもう絶品だった。他の人が遣う人形とは格が違うとしか表現のしようがない。由良助は勘十郎さんで、前半、呆けて性根を失くしているところが、全くそのままで楽しかった。

 しかし、いま私は中国の古装劇『長安十二時辰』というドラマをネットで見ていて、これは唐の都・長安を爆破し、要人暗殺をたくらむテロリスト集団と、その一味の正体を追う人々の物語なのだけど、赤穂浪士って見方を変えればテロリストだなあとあらためて思った。本当は、彼らの敵討ち計画を阻止しようとする九太夫・伴内のほうが正義であってもおかしくないのに。

・第3部:サマーレイトショー『国言詢音頭(くにことばくどきおんど)』大川の段/五人伐の段

 この狂言は、文楽に興味を持った早い時期に見た記憶がある。曽根崎新地の遊女に馬鹿にされた薩摩の田舎侍が、茶屋に押し入り五人を斬り殺すという救いようのない筋で、古典芸能の闇の深さを知って、呆気にとられた作品である。遊女菊野には絵屋仁三郎という思い人がいるが、薩摩藩士の初右衛門に見初められ、いやいや相手をしていた。あるとき真実の気持ちを書いた菊野から仁三郎への手紙が、偶然、初右衛門の手に入ってしまう。鷹揚に二人を許して帰国すると見せかけた初右衛門は、深夜、茶屋に押し入り、菊野ほか、居合わせた人々を斬り捨て、雨の中を悠々と去ってゆく。

 妖刀や魔物の呪いではなく、嫉妬とか侮辱に対する怒りで人間はここまで残虐になれるというのを淡々と描いているのが怖い。殺戮シーンの前に、仁三郎の許嫁おみすが菊野を訪ねてきて、仁三郎の身持ちを案じていることを相談すると、菊野は身を引くことを約束し、自分の代わりにおみすを仁三郎の床へ案内する場面がある。これは曽根崎新地の遊女の「粋」なのかなあ。それに対する初右衛門の野暮。睦太夫・織太夫・千歳太夫のリレーで聞きやすく、情感たっぷり。

 初右衛門は玉男さん。こういう野暮で悪い役もいいねえ。月岡芳年描く悪人を思わせて、ぞくぞくした。最後は茶屋の外に出て、用水桶の水で返り血を洗い流し、番傘を差して雨の中を去ってゆく。このとき、舞台一面に本物の水で雨を表現。傾けた傘に雨が当たる。へええ、文楽で本水を使った演出は記憶になくて面白かった。

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札幌のせんべいと焼き饅頭/まち文化百貨店(まち文化研究所)

2019-07-23 22:09:39 | 読んだもの(書籍)

〇塚田敏信、まち文化研究所編集『まち文化百貨店』 まち文化研究所 2019.6

 先週、小樽市の小樽文学館を訪ねたとき、カウンターで500円で販売していたB6判(たぶん)の100ページほどの冊子。表紙の焼き菓子の写真がおいしそうだったので買ってしまった。表紙以外は白黒印刷だが、写真も多く、イラストもあり、私家版にしては凝っている(写真は残念ながら見つからなかった)。発行者は、札幌で「まち文化」をテーマにした展示・講演・参加型イベントなどを実施している団体らしい。単発のブックレットなのか雑誌なのか、よく分からないが、特集は「やっぱり、おやつが好き」。

 最初の特集は「せんべい」で、東京育ちの私は、せんべい=米菓=醤油味しか考えられないのだが、そういえば北海道には、麦(大麦、小麦)からできるせんべいが多かったように思う。千秋庵の銘菓「山親爺」は甘いほうの代表。甘くないほうには、ひねりあげの「横綱」がある。横綱?と不審に思ったが、かりんとうの老舗・オタル製菓の「Yokozuna」の写真を見て、あったあった、と思い出した。ゴマ入り、カボチャの種入りなど、さまざまなかわらせんべいを揃えた我国煎餅店の商品も、たぶん職場のおやつなどで食べたなあ。

 第二特集は「冨士屋のとうまん」。札幌の丸井今井デパートで、自動焼き機を使って実演販売をしているもの。小麦粉・卵・砂糖などのカステラ種で白餡を包んだお饅頭で、表に「とうまん」の焼印が押されている。「とうまん」の由来は唐饅頭らしい。同類のお饅頭は全国にあって、私は京都・新京極の「ロンドン焼」を最初に知ったが、東京・東海地区では「都まんじゅう」を名乗るものが多いみたい。本誌によると、小樽・赤岩の「メタルアート」は、さまざまな焼印を制作しており、「とうまん」のほか、和菓子「とらや」の焼印、築地名物の卵焼き(どこだろう?)の焼印も制作しているそうだ。

 滝上町郷土館のルポも面白かった。筆者はこの郷土館で「ご家庭用煎餅の焼き型」を大量に見つけてびっくりする。しかし筆者が、自分の家にも、よく「今川焼」とか「おやき」などと呼ばれる菓子の型ならあった、と書いているのに私は驚いてしまった。しかし煎餅を家で焼くとは…と筆者は驚いているのだが、私にしたら、家庭で煎餅を焼くのも今川焼を焼くのも、同じくらい驚きである。この「何でも家庭でつくる」精神、北海道らしい。

 北海道神宮の献菓祭ルポも面白かった。札幌市内菓子販売店リストは労作。観光客の行く六花亭や石屋ばかりが菓子屋ではないのだな。

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2019北海道週末旅行:2日日(小樽)

2019-07-21 22:34:45 | 北海道生活

 先週末の北海道旅行の2日目。函館行きたいとか富良野行きたいとか、いろいろ悩んだのだが、結局1泊2日のショートスティなので小樽に出かけた。

おたる水族館小樽市鰊御殿

 駅前から祝津線のバスに乗って25分。おたる水族館を初訪問。この頃、動物園とか水族館を面白いとあらためて思うようになっている。パノラマ回遊水槽では、悠々と泳ぐ巨大なエイとサメに驚く。「北と南の魚たち」のコーナーでは、色が地味で全体に動きの鈍い北の魚と、色鮮やかで体が小さく、俊敏な動きの南の魚を興味深く眺める。サカナって、一般的にずっと泳ぎまわっているものかと思っていたが、けっこう岩場でじっと寝ている(?)のもいるのだな。

 そして、海辺の怪獣公園に出て、セイウチ、トド、ペンギン、オタリア(アシカ)、イルカのショーを順番に楽しむ。セイウチやトドが意外に芸達者でかわいい。ペンギンは気分次第で飼育員のお兄さんの指示を聞いたり聞かなかったり、フリーダムに行動する様子がかわいい。イルカショーは、一緒にプールに入ってイルカと息の合ったアトラクションを披露する飼育員さんのお兄さんたちがカッコよくて見とれる。

 2時間くらい遊んで、このあとも初の試み、祝津港から観光船で小樽市中心部に戻る予定を立てていた。ところが観光船乗り場に行ってみると「本日欠航」の札。特に海が荒れているようには見えなかったのにまさかの欠航である。仕方ないのでまた路線バスで戻ることにし、ついでに近くの丘の上にある「 鰊御殿(にしん ごてん)」を見ていくことにした。

 小樽市鰊御殿は、明治30年に積丹・泊村の鰊親方、田中福松氏が建てたもの。全盛期には120人程の漁夫が寝泊まりしていたという。昭和33年に現在地へ移築復元され、「北海道有形文化財ニシン漁場建築」として文化財に指定された。屋内には、ニシン漁やニシン加工に使われた道具類をはじめ、当時の生活用具や写真などが展示されている。

 なお「にしん大尽」と呼ばれた青山政吉が建てた別荘(旧青山別邸)は、少し離れたところに残っていて、こちらは「にしん御殿(小樽貴賓館)」という高級和食店として営業している。今回は寄り道をあきらめて、ロードサイドの普通のレストランでにしんそばの昼食。そばに乗っているにしんが大きくて食べ応えがあった。

小樽文学館 企画展『いまプロレタリア芸術が面白い! 知られざる昭和の大衆文化運動』(2019年7月6日~8月18日)

 小樽市中心部に戻って、今回の旅行の目的のひとつだったこの展示を見る。同館所蔵品のほか、法政大大原社研や日本近代文学館から、ビラ、ポスターなど珍しい資料がたくさん出陳されていた。↓写真は、函館生まれ、小樽育ちの画家・大月源二『告別』で、右翼テロリストに殺害された共産党議員・山本宣治の葬儀を描いたもの。カラーコピーを貼り合わせた複製作品だがよくできている。

 本展は、プロレタリア文学に限らず、絵画、演劇、映画など多方面で展開された「プロレタリア芸術」を総合的に紹介する。とりわけ、この時代(大正末~昭和前期)においては「演劇」というメディアの訴求力が、芸術としても娯楽としても、今とくらべものにならないくらい大きかったのだなと感じた。カウンターでお願いすると、カラー図版満載・解説入りの冊子を無料でもらえる。その冊子に小さく「本展は科研費の助成を受けています」の注記が入っていた。素晴らしいこと。

 最後に小樽の老舗「あまとう」本店でパフェを食べていく。何度か、行列の長さにあきらめたことがあるのだが、今回は少し待って入ることができた。

 小樽・札幌、また来るね。

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2019北海道週末旅行:初日(札幌)

2019-07-19 21:59:21 | 北海道生活

 先月末から今月初め、少し緊張を強いられる仕事が続いたので、それが一段落したところで、遠出をしてのんびりしたくなった。結局、三連休の最初の1泊2日だけ札幌に飛ぶことにした。

北海道博物館 第5回特別展『アイヌ語地名と北海道』(2019年7月6日~9月23日)

 ちょうどこの展覧会が始まっていたので、新千歳空港から直行で見に行った。江戸時代の古地図や古文献に記載されたアイヌ語の地名、それが嫌われ、日本語らしい漢字表記に変更されていく様子、その一方、アイヌ語地名を読み解こうとした山田秀三(1899-1992)の調査ノートなど、興味深い展示だった。しかし文字の小さい資料が多くて老眼にはつらかった。デジタルアーカイブで手元で丹念に見たい。

 入口に「ヒグマ出没注意!」の貼り紙があったのにはびっくりした。

 この子(↓)は常設展「生き物たちの北海道」の部屋にいる、ソファがわりのヒグマ。開館以来、ぼろぼろになっていたけど、背中を張り替えてもらったのかな。よかった。もう1頭、シャチのソファは姿が無かった。

 常設展「北海道らしさの秘密」の部屋で見つけた、効率的な種まき器。「ブラタモリ」の富良野?の回で見た記憶がある。

北海道立近代美術館 常設展・近美コレクション『風雅の人 蠣崎波響展』(2019年3月30日~7月28日)+特別展・テレビ北海道開局30周年記念『東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画展』(2019年6月8日〜7月28日)

 蠣崎波響(かきざき はきょう)展をやっているというのに惹かれてきたら、東山魁夷展もやっていた。東京人の私が、わざわざ北海道に来て唐招提寺御影堂の障壁画を見るというのもヘンな話だが、これもご縁だと思って参観した。今年3月、なぜかふと思い立って10年ぶりに唐招提寺を訪ねて鑑真和上の御廟にお参りした。そのあと5月に中国・江南旅行に行って、鑑真和上が住職をしていた揚州の古刹・大明寺を訪ねた。今回、札幌でもご縁があったので、もう1回くらい何かありそうな予感がして楽しみである。

 御影堂の障壁画はむかし見たことがあったが、制作の過程で、日本・中国各地で描いたスケッチや習作がたくさん出品されていて興味深かった。鑑真和上像の厨子のまわりを囲む「揚州薫風」は色のない墨画なのだけど、きっと和上の閉じたまぶたの裏には、色のある故郷の風景が映っているのだろう。

 蠣崎波響展は展示替えもあって、見られたのは15、6点。個人蔵が多かった。『夷酋列像』の印象が強いが、花鳥図、唐美人図など、ああ円山四条派だなあと思った。そして、鳥の生き生きして人間くさい表情が、応挙より、芦雪の画風に近いと思った。

 まだ明るかったので、円山方面にぶらぶら歩いて、古民家カフェの森彦(もりひこ)でひとやすみ。札幌から引っ越す間際か引っ越した後に存在を知って、一度来てみたいと思っていたカフェなので嬉しかった。

 カフェの隣りの空き地には、四角く囲われた大きな石碑(道祖神?)があり、北に向かって旧界川(さかいがわ)跡という曲がりくねった遊歩道が続いていて不思議な空間である。マルヤマクラスまでは何度も買いものに来ていたのに、ちっとも知らなかった。

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革新者・曹操の魅力/三国志(渡邉義浩)

2019-07-17 23:18:02 | 読んだもの(書籍)

〇渡邊義浩『三国志:演義から正史、そして史実へ』(中公新書) 中央公論新社 2011.3

 著者の最新刊『漢帝国』(中公新書、2019)が面白かったので、旧著をさかのぼって読んでみることにした。はじめに日本と中国における「三国志」受容の違いが簡潔に示される。現代の日本人に最も大きな影響を与えた吉川英治の『三国志』は、湖南文山の『通俗三国志』(元禄年間)を下敷きにしており、その底本は明代の李卓吾本である。一方、中国では清代の毛宗崗本が決定版である。毛宗崗本の特徴は「義絶」関羽・「智絶」孔明・「奸絶」曹操を三大主役と捉える点にある。李卓吾本はまだそれほど関羽を熱く語らないし、曹操は毛宗崗本において虚構を交えて悪役ぶりを強調される。

 もともと陳寿の『三国志』は曹魏を正統としていたが、東晋の時代に(非漢民族に中原を追われるという国際関係を背景として)蜀漢正統論が芽生え、南宋の朱子によって完成される。清代の毛宗崗本は、官学であった朱子学の影響を受け、蜀漢を正統とする歴史小説になったという。この千年を跨ぐ壮大な影響関係の見取り図に感服してしまった。

 本書は『演義』の虚構を出発点として、正史『三国志』と比較し、陳寿の『三国志』も所詮は曹魏の正史である(西晋の正統性を示すための)という限界を明らかにして、さらに史実に迫る。二袁(袁術・袁紹)、曹操、孫呉の人々(孫堅・孫策・孫権)、関羽、諸葛亮を中心に、その周辺の登場人物にも言及する。

 まず面白かったのは、有名な黄巾の乱の「蒼天已に死す、黄天当に立つべし」の解釈で、蒼天は儒教の天のことで、「儒教国家」後漢の終わりと、黄老思想に基づく新たな国家の建設の主張だという。曹操も同様に「儒教国家」に代わる新しい価値観を求めたので、儒教国家=漢の再建を求める荀彧とは対立せざるを得なかった。著者によれば、曹操が儒教の価値観を相対化するために選んだものは「文学」だった。この解釈はすごく面白い。「文学」が、国家の価値観の対立概念になり得るなんて、ちょっと考えられないけど、そこが曹操の天才なのだろう。

 諸葛亮について。劉備の遺言「君自ら取る可し」(我が子劉禅に才能がなければ、君が自ら君主の座を取れ)を陳寿の『三国志』は君臣の信頼関係の象徴として描くが、明の遺臣・王夫之はこれを「乱命」(出してはいけない命令)と評している。裏をかえせば、劉備は諸葛亮を全面的には信頼しておらず、諸葛亮の即位に「釘をさした」ものだという。意地の悪い読みだが、なるほどなあと思う。そして諸葛亮は、劉備の信頼を得られなかったことを当然知りつつ、一切の恨みを表に出さずに『出師表』を書いたのかと思うと、一層味わいが深まる。

 なお軍師としての諸葛亮の神格化は、元代の『三国志平話』で頂点を迎える。しかし、行き過ぎた神格化は空々しく、文学としての完成度は低い。これに対して『演義』毛宗崗本の諸葛亮は、志を捨てず、人智の限りを尽くして死後の準備をする。その人間らしさに読者は惹かれるのだ。神にならなくてよかったと思う。

 本書全体を通して、何度も確認されるのは、中国の「古典古代」の正統となる「漢」の規制力の強さである。同じ著者の『漢帝国』をすでに読んでいたこともあって、よく理解できた。そして、その強固な正統性を乗り越えた曹操の比類ない革新性も、あらためて認識できた。

 余談だが、私は、むかし吉川英治の『三国志』は読んだが、それほど熱心な「三国志」マニアではなかった。それが、近年中国で制作されたドラマ『軍師聯盟』や『三国機密』を見て、急に「三国志」に興味が高まりつつある。ドラマのおかげで、本書に出てくる人名の多くを、具体的にイメージすることができた。特に、司馬懿、司馬師、司馬昭の名前が出てくると嬉しかった。あと鄧艾、鍾会にも反応してしまった。冒頭に、日本人の「三国志」受容は李卓吾本、中国人は毛宗崗本、という紹介があったが、この違いは、現代の両国のドラマやマンガにも影響を及ぼしている気がする。

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失敗続きの30年/平成時代(吉見俊哉)

2019-07-16 22:36:19 | 読んだもの(書籍)

〇吉見俊哉『平成時代』(岩波新書) 岩波書店 2019.5

 吉見先生(1957-)は私とほぼ同世代だから、昭和の末期に大人になり、平成時代は第一線で働き続け、学者のキャリアパスは一般の勤め人とは違うかもしれないが、そろそろ後進に道を譲る機会が増えてきた世代だと思う。気力体力も充実し、人生において最も実り多かったはずの30年間を、日本の「失敗」の時代としてシビアに総括するのは、なかなか辛い。読んだ私も辛かった。

 著者によれば、平成の30年は日本の段階的な衰退過程であり、その過程は4つの「ショック」によって拍車がかけられた。(1)1989年に頂点を極めたバブル経済の崩壊、(2)1995年の阪神・淡路大震災とオウム事件、(3)2001年のアメリカ同時多発テロと国際情勢の不安定化、(4)2011年の東日本大震災と福島第一原発事故である。本書は、4つの「ショック」を起点に平成時代をI~IV期に区分し、それぞれ特に大きな影響が生じた社会の次元にあわせて「経済」「政治」「社会」「文化」について語ってゆく。

 最も興味深く読んだのは最初の「経済」である。昭和の最末期、私はバブル景気とは全く縁がなかったし、おかげでバブルが崩壊しても何の影響も受けなかった。だから、こうして歴史として解説を読むことで、何が起きたのかをあらためて認識することができた。さらに興味深いのは、その後、日本企業がついに立ち直れなかった理由である。1つは、日本の主要な電機産業がテレビ時代の終焉とモバイル型ネット時代の到来を認識できなかったこと。もう1つは、1990年代からグローバル規模で進んだ水平分業の仕組みに適応できなかったことだという。後者の話は、むかし丸川知雄氏の『現代中国の産業』で読んで、中国式の「垂直分裂」のほうが合理的な気がしたことを思い出した。

 そして徐々に衰退していく日本企業。「国主導で推進されたエレクトロニクス分野のいかなる事業も、大きな成果を生んだことはまずない」「そこには『何が何でも勝つ』という気迫が生まれない」という大西康之『東芝解体』の厳しい指摘が引用されている。私はこれを、半導体メーカーだけの話ではなくて、いまの自分の職場・職種にも置き換えて、寒気を感じながら読んだ。リスクを取ることを避け、ずるずると失速していったNEC。リスクを取ったが、ビジョンを間違えて失敗したシャープ。ビジョンのあったサンヨーはタイミングを間違えた。ソニーも各部門が「身を守ろう」として非協力的になった結果、失敗。「異人」ゴーンにすがった日産は、有能で強力なリーダーを独裁者に転化してしまった(問題の本質は日本の社会にあると著者は考える)。グローバルな世界で勝ち残ることはかくも難しい。自分の職場、というのは国立大学のことだが、結局、どの道をたどっても失敗に行きつくのではないかと思い、ひどく暗澹とした気持ちになった。

 「政治」については、すでに遠いむかしのことだが、昭和から平成への変わり目に起きた「土井たか子ブーム」のとき、社会党は「ヨーロッパの社会民主主義政党のような草の根的な裾野をもったリベラル政党に転身する最後のチャンスがあった」という指摘を興味深く読んだ。逃したチャンスの大きさは、あとにならないと分からないものだ。

 「社会」については、平成初年の連続幼女殺害事件に遡り、80年代に大都市郊外を舞台として爆発的に増殖したメディアの浸透によるリアリティの変容、自己の喪失から語り起こす。このへんは著者の本来の専門分野だろうが、それ以上に衝撃だったのは、超少子高齢化が突きつける事実。出生率の変化が人口構造をはっきり変化させ始めるのは半世紀以上の時差があり、21世紀半ばまで日本の大幅な人口減少はどうやっても変えられない。にもかかわらず、東京は地方の人口を吸い寄せ続ける。21世紀半ばにはこの世を去る世代として、この未来を、いったいどういう顔をして次の世代に託せばよいのか。

 悲劇には未来への希望がある、と著者は「あとがき」に書いているけれど、いまの日本のどこかに、見せかけでない希望はあるのだろうか。老人はどんなにペシミスティックになってもよいが、せめて若者が未来に希望を見つけられる社会であってほしい。

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視聴中:『長安十二時辰』で唐代長安を思う

2019-07-15 23:55:43 | 見たもの(Webサイト・TV)

 6月27日に優酷(Youku)で配信が始まったドラマ『長安十二時辰』が面白い。制作中から噂は聞いていて、予告編も見ていたので、始まったら必ず見ようと思っていたのだが、期待を三倍くらい上回ってすごい。私はいつものように楓林網に流れてくる動画を見ているのだが、Amazon Prime等で正式な日本配信も予定されているらしい。ただし日本語字幕が用意されるには、もう少し時間がかかることだろう。ドラマそのものについては、全編視聴を終えてからゆっくり書くつもりなので、周辺の情報について少し書いておく。

 このドラマには同名の原作がある。作者の馬伯庸(1980-)は、2000年代後半から歴史、SF小説を発表している若い作家で、2018年にドラマ化された『三国機密之潜龍在淵』の原作者でもある。『三国機密』は、後漢のラストエンペラー献帝に双子の弟がいたという設定で描く「熱血沸騰的虚構歴史大作」だった。今回の『長安十二時辰』は、唐の玄宗皇帝年間、長安全市を爆破し焼き尽くそうとする犯罪集団の陰謀と、これに立ち向かう人々の24時間を描く。いま48集中の20集まで見たところだが、むちゃくちゃ面白い。どこかに原作の日本語翻訳版を出してくれる出版社はないものか。中国では、村上春樹や東野圭吾など、日本の現代作家の作品がどんどん翻訳されて、多数の読者に享受されているというのに、すごく残念である。

 ドラマ版の監督・曹盾は「長安城の一日を忠実に再現したい」という理念を掲げて制作に臨んだ。その結果、墳墓の壁画や三彩俑でしか見たことのなかった大唐長安城の人々が、まさにそのまま、画面の中を生き生きと動き回っていることに私は単純に感動している。衣装や髪型、女性の化粧、甲冑などに一切手抜きがないのがすごい。もちろん画面を美しく見せるためのつくりごともあるのだが(靖安司の内部など)雰囲気の統一感は厳格に守られている。

 私が非常に気に入っているのは、優酷が配信している「這就是長安(This is Chang’an)」という、5分位の短編動画シリーズである。司会者の張騰岳と原作者の馬伯庸がドラマ『長安十二時辰』と唐代長安について気楽に語り合う。長安城の規模と構造、食べもの、酒と酒杯、武器、移動手段としての動物、時刻の計り方、皇帝の呼称など。そして、実に些細なことまで調べ尽くして頭に入っている作者・馬伯庸の博識ぶりに驚いている。

 歴史のリアリティを尊重するための、創作上の苦心談も随所で聞けて面白い。檳榔を噛む描写を入れようとしたが唐代長安には無かったので薄荷にしたとか。作者の馬伯庸はアメリカのドラマ『24(トゥエンティフォー)』を参考にしたが、現代の携帯電話が果たしている役割を、どうやって唐代長安に置き換えるか考えた末、坊城ごとに建てられた望楼を利用して太鼓や旗で通信することにした。さらにドラマでは、曹盾監督の発案により、望楼に取り付けられた12の小窓の色の組み合わせで、精密な暗号通信が行われていることになった。これは歴史上の根拠を持たないが、視覚的な効果は抜群だったと作者は嬉しそうに語っている。悪の組織に立ち向かう武闘派・張小敬の武器「弩」を携帯に便利で折り畳み式の「小弩」にしたのもドラマでの改変。このドラマは、歴史のリアリティと虚構の楽しさの、実に絶妙なバランスを生み出していると思う。

 馬伯庸が余談で語っていた、漢代には皇帝を皇上でも陛下でもなく「県官」と呼んだ、という話は初めて知った。当時は中国(天下)全体を「赤県神州」と謂ったので、その支配者たる皇帝は「県官」だったという。また、最近の古装劇はやたら「大人」を使うが、あれは清代から流行したもの、という指摘も面白かった。日本の時代劇でもあるなあ、こういう「時代劇用語」。

 なお「這就是長安」以外にも、ドラマの甲冑担当や衣装担当やアクション担当のインタビューがYoutubeで公開されているので、ドラマと合わせての視聴をおすすめする。いずれも制作チームの強い本物志向が分かる映像である。

※あらためて見返すと予告編も興味深い。

YouTube:長安十二時辰・予告編

YouTube:長安十二時辰・人物特集

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都会の道端の百合

2019-07-11 21:56:59 | なごみ写真帖

近所に庭のあるような家が少ないが、道端のプランターで大きな百合を育てている家がある。

いまのアパートで暮らすようになって3年目。毎年、楽しませてもらっていたが、ようやく写真に撮ることができた。

純白の花弁に赤い花芯。カサブランカかな?

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