見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

《リレー対談》日本・アジア・世界'07

2007-07-31 00:06:42 | 行ったもの2(講演・公演)
○朝日カルチャー公開講座《リレー対談》日本・アジア・世界'07

 参議院選挙前日の土曜日、新宿・住友ホールで行われた、上記の公開講座を聴きにいってきた。企画者によれば、当初は、参議院選挙の結果を踏まえて、今後の日本の針路について語る予定だったが、国会の会期延長によって、図らずも投票日前日の対談となってしまった由。ただ、どの講師も、明日の選挙がどうなるかというような卑近な問題にはあまり触れず、もっと大きな構えで、日本・アジア・世界の本質的な課題を取り上げていたと思う。

■小森陽一×藤原帰一 日米安保体制と憲法問題

 朝10:00からの対談だというのに、藤原先生、最初からハイテンションで飛ばしてくれて、面白かった。冒頭、小森陽一さんが、文学者らしく「我々のことばは、誰に届いているのか」というコミュニケーションの問題を提起したのに対して、藤原帰一さんは、精密な術語を用いて行われる学術コミュニケーションの意義と、多くの人に分かる言葉で語ることの重要性を同時に説いた。後者の営みがなければ、社会科学は痩せてしまう。しかしまた、「多くの人に分かることば」とは、多くの人の思い込みに絡め取られる危険性を持っているという。

 そのあと、藤原さんが、戦後日本の政治、外交、平和運動のプロセス(直接の危機から解放されたとき、人々は発言を始める)を一気呵成に振り返り、適所適所で小森さんがまとめと注釈を入れる。実にいいコンビネーションで話が聞きやすかった。両氏は同じ東大の先生だが、「よく会うけど、話したのは初めて」だという。いや~また聞きたいな、おふたりの対談。

■藤原帰一×神野直彦 日米関係と日本経済の行方

 講師陣の中で、私が、唯一、ご本人も著書も存じ上げなかったのが神野直彦先生。財政学を専門とする経済学者である。このコマでは、日本国内に広がる地域内格差の実態について話してくださったが、国際政治学者の藤原帰一さんとは、ちょっと話の接点を見つけられなかったようで、消化不良に感じた。

■高橋哲哉×姜尚中 「愛国心」教育と靖国問題の本質を問う

 ここから午後のコマ。おふたりの対談を聞くのは何度目になるだろう。たぶん、両氏は、ご当人どうしも飽きるくらい(?)このテーマの対話を繰り返していらっしゃるのではないかと思う。なので、テーマの緊張感に反して、まったりした雰囲気の対談だった。ただ、指摘されていたことは、けっこう重要だと思った。靖国をめぐる対立が、賛成=保守ナショナリスト/反対=民主リベラルという二項対立でなくなってきている、という点である。

 70年代の保守勢力は、A級戦犯合祀に反対しつつ、靖国神社の護持を訴えていた。ところが、90年代の保守勢力は、リビジョニスト(歴史修正主義)の極限であり、東京裁判自体の不当性を主張している。彼らは、昭和天皇の意図さえ、尊重すべきものと考えていない。グローバリズムの侵食、地域経済の疲弊によって、実体としての「パトリ(故郷)」が失われるとともに、理念としての「愛国」が頭をもたげているとも言える。

■姜尚中×神野直彦 東アジア情勢と日本の経済的役割

 再び、神野直彦さん登場。姜先生は「今日は神野さんとお話できることをいちばん楽しみにしてきました」と挨拶。ほぼ初対面ということらしい。同じ東大の先生なのになあ。姜尚中氏は、政治学者であるけれど、いつ頃からだったか、地域社会の再生に非常に関心を抱いている、と語っていらした。それから、実際に株式投資をやってみた、という話も。そういう経済学への素直な関心(好奇心)によって、神野さんの学識と魅力が引き出され、非常に面白かった。

 神野直彦さんのお名前を知ったのは、この日、最大の収穫。ぜひ著書を読んでみたい。このコマだったか、そのあとの質疑セッション(藤原、姜、神野氏が登壇)での発言だったか、姜尚中氏が、地域再生に努力している保守の人々と、もっと対話していきたいと語っていたのも印象的だった。やっぱり、経済(生活)を離れて政治(主義主張)だけを語るのは、危ういことかも知れないな、と思った。いろいろなお土産を胸に、19:00を過ぎた会場を後にした。
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ひ弱な青年たち/大帝没後(長山靖生)

2007-07-30 23:45:06 | 読んだもの(書籍)
○長山靖生『大帝没後:大正という時代を考える』(新潮選書) 新潮社 2007.7

 「大正青年と平成の若者は驚くほど似ている」というのが著者の着眼点である。大正は、圧倒的なカリスマ性で君臨した明治天皇と、彼に表象される「英雄」「闘争」「建設」の時代が過ぎたあとに訪れた「大衆」「消費」「軽さ」「童心」の時代だった。それは、昭和天皇没後の「平成日本」と奇妙に重なる部分が多いという。

 まあ確かに、日本の近代150年の間で、最もいまに似ている時代を探せといわれたら、間違いなく誰もが大正時代を挙げると思う。偉大な父親の遺産を食い潰す「若旦那」の時代である。

 しかし、両者には相違点も多い。実は、大正青年の典型例として本書に引用されている志賀直哉の自伝的小説があまりに面白かったので、本書のあと、志賀の短編集を読んでみた。志賀は30歳になっても就職せず、文学に志すと称して昼過ぎまで寝ているような生活をしていた。見事に「パラサイト」で「ニート」な「引きこもり」ぶりである。だけど、彼の作品を詳しく読んでみると、やっぱり大正青年と平成の若者には、大きな隔たりがあることを感じた。詳しくは、また後日。

 いちばん興味深く読んだのは、乃木大将の殉死をめぐる再検討である。乃木が、きわめて多くの遺書を周到に遺していたこと、遺書の中で、家名の断絶と爵位返上をくどいほど指示していたことは初めて知る事実だった。乃木は、前近代的な「家」制度を、個人主義的な主張によって否定したとも言える。

 にもかかわらず、乃木家の再興は、「家」制度の既得権益の代表者・明治の元老と、これに寄生する「若旦那」的大正青年の共犯によって断行された(団塊世代と、パラサイト団塊ジュニアみたいなものか)。心静かに乃木大将を偲ぼうとしていた遺族たちの意思は無視され、「忠臣」乃木大将のイメージが祀り上げられていく。これって、靖国問題の構図と根は同じだな、と思った。

 乃木家再興が一応の決着を見た大正4年、大正天皇の即位礼が行われた。夏目漱石は小説『明暗』の執筆に取り掛かっていた。『明暗』の作中人物たちは、読者と同じ時空間を生きているように思われる。しかし、『明暗』には、祝祭ムードに浮き立つ東京の様子は全く書かれていない。むしろ、青年天皇の一世一代のイベントが行われている時期に、主人公の津田は、病院のベッドで尻を出し、痔疾の説明を聞く場面から小説は始まる。うわっ、何たるアイロニー。こうしてみると、あの喪章を付けた漱石の写真にも、空虚な大衆イベントに背を向け、個の立場で哀悼を表明しようとする反抗心が垣間見えるような気がしてくる。
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恩人たちの晩年/お雇い外国人(梅溪昇)

2007-07-29 10:50:52 | 読んだもの(書籍)
○梅溪昇『お雇い外国人:明治日本の脇役たち』(講談社学術文庫) 講談社 2007.2

 幕末から明治初頭にかけて、日本は多数の欧米外国人に助けられて、猛スピードで近代化を成し遂げた。キリスト教の伝道のため、志願して来日した宣教師もあったが、多くは、幕末期には幕府および有力諸藩、明治期には新政府によって招聘され、雇用された人々であった。

 本書は、総数1800名余り(221頁、『日本帝国統計年鑑』による著者推計)といわれるお雇い外国人の中から、フルベッキ、ボアソナード、ロエステル、ジュ・ブスケ、ドゥグラス、デニスン、キンドル、シャンド、ワグネル、ダイエル、モルレー、モース、フェノロサら、各分野で功績を残した人々を個別に紹介し、さらにモースやベルツの日記を手がかりに、彼らの生活と思想を詳述している。

 私は、大学・工部大学校の教師たちには馴染みがあるが、そうでない分野(外交・軍事・金融など)のお雇い外国人には、知らないことが多くて興味深かった。また、馴染みの人々についても、フルベッキが徴兵制を主張していたこと、ボアソナードが拷問廃止に強い熱意を払ったことなど、知らないエピソードは多かった。内政ばかりではなく、不平等条約の改正、日露交渉、三国干渉の処理など、日本の「国益」に関する最も根幹的な部分にも、外務省顧問デニソンをはじめ、お雇い外国人の功があったということも初めて認識した(一般の政治外交史では、あまり語られていないが)。

 気になるのは、彼らの晩年が必ずしも幸せに見えないことである。フルベッキが日本帰化の希望を叶えられず、経済的にも不遇のうちに世を去ったことは知っていたが、ボアソナードは起草した旧民法が不採用となり、老齢70歳で「しょんぼりと故国へ帰って行った」という。

 その根底にあるのは、日本人の外国文明に対する態度であるように思えてならない。確かに、当時、欧米諸国はアジア地域を侵略と収奪の対象と見なしていた。それに対抗するためには、とにかく早急に近代国の対面を取り繕わなければならなかった。

 しかし、ここに挙がっている多くの外国人は、真に日本人の「友」となろうとした人々だった。にもかかわらず、日本国は、当面、必要と思われる知識技術を学んでしまい、明治10年代以降、日本人の後継者が育ってくると、彼ら外国人を「使い捨て」にしたのである。ベルツの日記には、日本人が西洋の学問の結実のみを取ろうとし、収穫をもたらす「根元の精神」を学ぼうとしない、浅薄な態度に対する不満が述べられている。
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自由は土佐の山間より/高知市立自由民権記念館

2007-07-28 22:53:39 | 行ったもの(美術館・見仏)
○高知市立自由民権記念館 常設展示

http://www.minken.city.kochi.kochi.jp/

 四国旅行2日目。金毘羅さんの観光を終え、土讃線で再び高知駅に戻った。帰りの飛行機まで、まだ2時間ほど、市内観光の余裕がある。私はすぐに路面電車に乗って、自由民権記念館に向かった。高知に行ったら、ぜひ訪ねてみたいと思っていたのが、高知城でも、はりまや橋でもなく、この記念館だったのである。こんな観光客は、めったにいないと思うけど。

 「明治初頭(近代の始まり)」の面白さに、突如として目覚めたのは数年前。明治10年代に日本の社会を席巻した「自由民権運動」の意義と魅力については、坂野潤治先生の本色川大吉さんの本から学んだ。むかしは、幕末の動乱に対して、新しい体制が出来上がったのが明治だと思っていたのだが、むしろ真の変革はこの時期に起こるのだ。幕末のリーダーたちのように、ひとりふたりで日本の行方を決した大立者はいない(少ない)けれど、実に多様な、地域に根ざした運動家・思想家が現れる。また、この「自由民権運動」は、近代日本のさまざまな政治運動に地下水脈のように流れ込んでいく。一見、何の関係もないように思われる、昭和初期の国家主義、アジア主義との関連性を指摘していたのは、坂野潤治先生だったと思う。

 だから、展示室で、中江兆民、植木枝盛らに混じって、頭山満の名前を見つけたときも、あまり驚かなかった。右翼/左翼なんて、政治思想の初学者のために用意された、便宜的な分類に過ぎないのだと思う。

 展示は、写真・説明パネルや複製物で構成させているところがほとんど。しかし、非常に分かりやすくて面白い。少量であるが、当時の図書・雑誌・新聞等も展示されている。「近森文庫」というラベルをいくつか見たが、高知市出身の元軍人で近代文学の愛好者であった近森重治氏の蔵書だそうだ(国文学研究資料館で画像データベース化されている)。

 高知では「公共図書館」を「市民図書館」と呼んでいるらしい。公共図書館の事情には疎いので知らなかったが、調べてみたら「○○市立図書館」ではなくて「○○市民図書館」と呼んでいるところは、けっこう多い。でも、高知の場合、特に自由民権運動の伝統にのっとって、「市民」という言葉を用いているような気がしてならない。

 図書や雑誌のほかでは、「自由」「板垣」の文字の入った泥メンコ、「自由万歳」の文字の入った大徳利など。そう、「自由」には、憧れの高級ブランドのイメージがあったのだ。ある日の新聞広告欄には、歯磨き粉の「自由散」、鶏肉ケレー(カレー)「自由ソップ」、日本酒「自由誉」などの文字が躍っている。

 女性の政治参加運動が、意外と早くから起きていることには驚いた。1880(明治13)年、高知の上町町会では、女性に選挙権・被選挙権が与えられた(のち撤回)。矢がすり柄の着物を着た女性が、緋もうせんの演台に向かっている「婦人演説」という錦絵は、岸田俊子(中島湘煙)を描いたものだという。ちょっと艶めかしい美人だと思った。
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初探訪・讃岐の金毘羅さん

2007-07-26 00:44:51 | 行ったもの(美術館・見仏)
○金刀毘羅宮~高橋由一館~金丸座

http://www.konpira.or.jp/

 四国旅行2日目。本当は3連休を使って、高知1泊+高松1泊を予定していた。しかし、台風で1週延期した結果、今日(日曜)のうちに東京に帰らなければならない。でも、せっかく四国まで来たので、金刀毘羅宮をこの目で見たい。

 調べてみたら、高知-琴平町は特急で1時間半。なんだ、東京なら通勤圏内じゃん。駅前で朝食のパンを買って、7時の特急に乗り込んだ。まもなく、土佐山田を過ぎると、土讃線は、深い緑に覆われた山の中に入る。ときどき通過駅が目に入るが、ホームの表面まで植物がはびこり、忘れ去られた古代遺跡のようだ。列車はスピードを落とさないので、気持ちいい。車窓から見下ろす青い帯は吉野川渓谷である。巨大な岩盤が目立つところが、奈良の吉野川に不思議とよく似ている。

 琴平町に到着。ようやく店を開け始めた土産物屋を眺めながら、長い石段を上がる。本宮の手前に表書院・奥書院があった。現在、東京藝術大学の美術館で公開中の、応挙・若冲らの障壁画を有するところだ。芸大の展覧会には、全ての障壁画が来ているわけではないので、もしかしたら、残りは現地で見られるのではないか、と期待していたが「9月30日まで閉鎖」だそうだ。まあ、冷静に考えれば、さもありなん。でも『書院の美』展に感激して、ふらふらと現地まで来てしまった身には、ちょっと残念。



 境内には、日本近代洋画の祖、高橋由一の作品を集めた高橋由一館がある。明治期の宮司、琴陵宥常(ことおかゆうじょう)が購入したものだそうだ。「鱈梅花」とか、わけわかんない作品で好きだなあ。

 本宮に到着したところで、強い雨が降り出す。幸い、私は傘を携帯していたが、ほとんどの参拝客が、屋根の下で身を寄せ合って雨止みを待つ状態に。「羅生門」みたいで可笑しかった。



 琴平町には、もうひとつ外せない見ものがある。現存最古の芝居小屋、金丸座(旧金毘羅大芝居)である。中に入ると、帳場で待っていたおじさんが、いろいろ興味深い説明をしてくれた。注目ポイントは天井である。金丸座では、舞台の上も客席の上も、竹を編んだ「葡萄棚」状になっている。演目によっては、ここから紙吹雪を降らせる。近代の劇場では、舞台の上だけが格子天井になっており、客席の上に紙吹雪は降らない。しかし、かつては舞台と客席に区別はなかった。

 また、江戸時代には、現在のような照明装置はなかった。そのため、舞台の暗転は人海戦術による窓の開け閉めによって行ったそうだ。自然光と蝋燭の光だけがたよりのほの暗い舞台だからこそ、あの厚い白塗りメイクと、金糸を織り込んだ派手な衣装が映えたのである。そう思うと、古典美術・古典芸能と言いながら、われわれ現代人は全く別のものを見ているのかも知れない。舞台の下に下りると、人力で動かす廻り舞台の仕組みを見ることもできる。

 あやふやな記憶だが、おじさんから聞いたことを書いておこう。純粋に江戸時代の様式を残す芝居小屋は、この金丸座のほか、あと2つ(3つ?)ある。1つは愛媛県内子町の「内子座」。それから熊本県山鹿市の「八千代座」。あとは江戸と近代の折衷様式で、古い芝居小屋は名古屋周辺に多いそうだ。

■新たなる歓声、伝統の芝居小屋(日本の旅ドットコム)
http://www.nihonnotabi.com/sibaigoya/
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絵金まつりの夜:その2

2007-07-24 23:59:52 | 行ったもの(美術館・見仏)
(前日の続き)

 簡単な夕食を済ませて、再び町内に戻る。絵金蔵では、6時からの夜間開館が始まっていた(昼のチケットで再入館可)。暗闇の展示室は、ビデオシアターに様変わり。収蔵庫の「蔵の穴」では、笑い絵(春画)が見られるようになっていた。私がいちばん感動したのは、さっき見逃していたギャラリー(土間ホール)の白描画コレクションである。

 絵金といえば、泥絵具を用いた芝居絵屏風がまず目に浮かぶ。ポスターカラーみたいな、メリハリの利いた発色、奇抜な構図と相まって、横尾忠則のアートみたいだと思った。しかし、絵金には、狩野派を学び、藩の御用絵師の座についた過去もある。芝居絵屏風の1枚「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ) 御殿」には、小道具として、狩野派ふうの鷹図の屏風が描き込まれていて興味深い。

 さらに「李白観瀑」や「菊慈童」など、いかにも狩野派チックな伝統的画題の白描画(水墨画)も残している。それとは別に、絵金の白描画には、芝居絵の下絵と思しい作品が多数ある。自作の想を練るための草稿だったり、弟子に与えたお手本だったりするらしいが、これが素晴らしくいい。基本は「浮世絵の顔」なのに、人間くさい感情がほとばしり、今にも動き出し、喋り出しそうである。「江戸のアニメーター」と呼びたいくらい。安彦良和のデッサンを思い出した。

 外に出て、本町通りの様子を見に行く。営業を始める露店が増え始め、人出も多くなってきたが、なかなか屏風は並ばない。また横町通りに戻ったり、川辺に出たり、ぶらぶら歩きを繰り返しているうち、ようやく本町にも屏風が立った。商売のかたわら、屏風の画題について解説してくれる店もある。いつしか提灯に灯が入り、遅い夏の日も、徐々に暮れ始めた。



 7時から、絵金蔵の館長=蔵長(くらおさ)横田恵さんによる作品解説ツアーが始まった。野外用の大きなハンドスピーカーを下げて、商店街をまわる蔵長の後を、生ビールの紙コップ片手に、人波に揉まれながら付いて歩く。BGMは、歌謡ショーの生演奏と露店の売り声。喧騒の下、ロウソクの灯と白熱電球に照らされて、絵金の屏風は生き返ったように、輝きと妖しさを増す。





 8時を過ぎた頃、そろそろ引き上げねばと思った。同じ道を何度も何度も行きつ戻りつして、全ての作品と名残りを惜しみ、結局、8時51分発の高知行で赤岡町を離れた。きっとまた来るだろう、このお祭り。来ないわけがない。
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絵金まつりの夜:その1~絵金蔵

2007-07-23 23:59:05 | 行ったもの(美術館・見仏)
 「土佐の絵金」の名前を、私は、いつ、誰から教わったのだったろう? もう20年も前になる学生時代、歌川国芳や月岡芳年の名前と一緒に覚えたのではないかと思う。けれど、版画という複製メディアを通じて”全国区”的に名を馳せた国芳や芳年と違って、作品のほとんどが高知に残る絵金のホンモノには、ついぞお目にかかったことがなかった。

 絵金(1812~1876)は、幕末土佐の町絵師・金蔵の通称である。贋作事件によって高知城下を追放されたのち、赤岡町(現・香南市)に住み、町の旦那衆のために、極彩色の芝居絵屏風を描いた。年に一度、須留田八幡宮の祭礼の宵宮にあたる7月14日の晩に、絵金の屏風が商家の軒先に広げられるようになったのは江戸時代末期のことだという。

 この話を聞いて以来、私はずっと南国の海辺の町に憧れを寄せてきた。けれど、社会人の生活では、なかなかドンピシャリその日に休暇を取ることができなかった。たまたま昨年、「海の日」3連休の直前に、何も予定が無いことに気づいて、旅行に出ようと思い立ち、行き先を探していたら、この「絵金祭り」が引っかかってきた。現在は、7/14-15日のほか、7月第3週の絵金祭りでも屏風が公開されているという。よし!と思ったのだが、飛行機のチケットが取れず、結局、見送ってしまった。

 今年は、昨年の教訓を踏まえ、早めに予定を立てて3連休を待っていたのだが、何と台風4号の直撃で断念。そして、1週ずらして、ようやく長年の夢が実現したのが、一昨日のことである。

 赤岡駅には3時半過ぎに着いた。ひなびたローカル線の駅舎を想像していた身には、予想外の近代的な高架駅だった。同じ列車を下りた10数人ほどの乗客は、みな絵金祭りと絵金蔵が目的と思しい。とりあえず、高架の下に下りてみたものの、どっちに歩いていっていいのか分からない(無人駅だし)。ようやく案内地図を見ていたひとりが方向を決めて歩き始めると、皆、そのあとに続いて歩き出した。

 5分ほどで「絵金祭り」の垂れ幕の下がった町の入口が見えてきた。微妙に蛇行する狭い道路の両脇には、テキヤの兄ちゃんやおばちゃんが、露店を広げ、商売の準備を始めている。やがて、小さな美術館「絵金蔵」に到着した。

 いきなり豆電球つきの小さな提灯を手渡される。「これ持って入ってください」と言われ、暗幕をめくって展示室へ。お化け屋敷か、ここは!? 第1展示室は、ほぼ漆黒の闇の中に6、7点の芝居絵屏風が立てられている。耳に聞こえるのは義太夫語りの三味線と、打ち寄せる波の音。小さな提灯の明かりでは、屏風全体を見ることができない。提灯を動かし、明かりの中に浮かんでは消える、極彩色の断片にどきどきしながら、屏風全体の構図を想像するのである。これは絵金祭りの晩だけの趣向とのこと。

 奇抜な演出にすっかり呑まれてしまったが、暗闇の中の展示品は複製である。絵金の本物の屏風は、収蔵庫に保管されていて見ることはできない。ただし、常時2点だけ「蔵の穴」という覗き穴を通して見ることができる。これもなかなか凝った仕掛けで面白い。

 小さな美術館だが、じっくり見ていたら、あっという間に5時になってしまった。ここで一時閉館のため、観客は全て外に出される。向かいの芝居小屋「弁天座」に入ろうと思ったが、満員札止めだというので、町の入口にあったラーメン屋で腹ごしらえをしてこようと思う。さっきとは違う道を、駅の方向に戻りかけたとき、にぎやかな商店街に突き当たった。行きに通ったのが本町商店街、これは本町に直行する横町商店街。絵金祭りでは、この2つの商店街に露店が並び、屏風が立てられるのである。



 目を凝らすと、正面の店先には既に極彩色の屏風が! 衝撃だった。さっきまで美術館の中で見ていたものが複製で、この”昭和の風景”の商店街の店先に、柵も覆いもなく、無防備に置かれた屏風が本物だとは、にわかに信じられなかった。しかし、にじり寄って、表装の擦れ具合を見ると、確かに古さが感じられる。



 見て行くと、数軒置きに、ぽつりぽつりと芝居絵屏風が立てられている。物見高い観光客がカメラを構えて群がっているが、地元の皆さんは、もの慣れて落ち着いたものだ。本町になく、横町だけに見られるものに、上図のような灯籠がある。前面の和紙に描かれた一見地味な色彩の絵は、これも絵金の作だという。(続く)
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速報・土佐の絵金まつりに行ってきた!

2007-07-22 22:53:55 | 行ったもの(美術館・見仏)
 先週、台風で断念した四国旅行に1泊2日で行ってきた。目的は、高知近郊の赤岡町で行われる「絵金まつり」。絵金は、幕末に土佐で活躍した異端の画家である。飛び散る血しぶきの中、狂気の白刃が閃き、美女が身をよじる、こんな絵を描いた。



 これら、絵金の作品の多くは、現在、赤岡町にある美術館「絵金蔵(えきんぐら)」に大切に保管されている。通常は、美術館の展示室で見ることができるのも複製品に限られる。にもかかわらず、年に1度、この「絵金祭り」の2晩だけは、20数点の芝居絵屏風が収蔵庫から解放されて、昔ながら、街道筋の家々の軒先に並ぶのだ。



 日が落ちると、屏風の前にはロウソクが点される。周囲には焼きソバやら焼きトウモロコシやらの露店が立ち並び、香ばしい匂いと蒸気がモウモウと立ち込め、狭い通りは人でいっぱいになる。地元民も観光客も、片手に生ビールのコップや焼きトリの串を持ちながら、これらの屏風を眺めてまわるのである。詳細レポートは明日以降、あらためて。

■サムライ・ニッポンの異端画家[絵金]
http://www.i-kochi.or.jp/Ekin/

■絵金蔵(えきんぐら)公式サイト
http://ekingura.com/
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眉唾の一冊/ワーキングプア(門倉貴史)

2007-07-20 23:59:41 | 読んだもの(書籍)
○門倉貴史『ワーキングプア:いくら働いても報われない時代が来る』(宝島社新書) 宝島社 2007.4

 最近は、ワーキングプア(働く貧困層)という言葉をよく聞くようになった。私は見ていないが、NHKスペシャルが『ワーキングプア~働いても働いても豊かになれない~』を放送したのが2006年7月だというから、それに先立つ本書は、この言葉の早い使用例だと思う。

 ニートやフリーターはもう古い? しかし、「経営効率化のため、企業が正社員雇用を抑制している→正社員になれない人々が貧困層に落ち込む」という問題設定の図式は、ニート、フリーターに焦点を当てた玄田有史さんの『仕事のなかの曖昧な不安』などと、本質的に変わらないと思う。ただし、玄田さんが「中高年ホワイトカラーの雇用不安」の虚偽を暴き、中高年の既得権益擁護を糾弾して、若年ニートのための論陣を張ろうとしているのに対して、本書は、どちらかというと、中高年に同情的である。この点、私はちょっと眉に唾をしながら読んだ。

 たとえば「1990年以降、人件費負担の重くなった企業は、賃金の高い中高年層を中心にリストラを積極的に行うようになる」(102頁)と黒ゴチ活字で書いてあるけれど、その上に掲載されている「経営上の都合による離職者数」は、経年変化が分かるだけで、年齢別の動向は分からない。その先にある「派遣労働者の年齢別構成(2004年)」(107頁)では、もちろん圧倒的に若年層が多い。これってどうなの~?と思った。

 著者の頭の中では、「一家の大黒柱=中高年男性」というイメージが強固で、それが少しでも揺らぐことが耐え難いのではないかと思う。前半でも、「ダグラス=有沢の法則」(夫の所得が低くなるほど、妻の有業率が高くなる)を紹介し、その具体的表れとして、「夫の年収と妻の有業率(2002年)」を引いている(66頁)が、この数字、意味があるかなあ。「妻の有業」にも、働く理由とか働き方(パートか正規雇用か)とか、いろいろな区分があるはずなのに、「夫の収入の不足を補うため」で撫で斬りにしているところが納得いかない。しかも、このあとに「夫の収入を補填するためにパートタイマーとして働く主婦の数」の経年変化を”著者推計”で得々として挙げているのは、全く説得力がないと思う。

 こんなふうに私が感じるのは、橋本健二さんの『階級社会』に、最近は「ダグラス=有沢の法則」が必ずしも成立していない、という指摘があったからだ。近年は、夫の所得の高い世帯では正社員として働き続ける妻が増えており、「高所得の夫と高所得の妻」と「低所得の夫と低所得の妻」という、世帯の所得格差が拡大しているという。こっちのほうが、私の実感に近い。

 本書は、各章の節目に「ドキュメント」と題して、インタビューを織り込んだ10人の実例を紹介している。三浦展さんの『下流社会』の手法である。統計だけでは窺い知れないワーキングプアの実像に、ケーススタディから迫ろうという意図だと思うが、本文の記述が疑わしいと、情緒に訴えてごまかそうとしてるように感じられてしまう。厳しい批評になるが、コイツ(著者)、私より若いのに頭古いなーという印象だった。
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名品で学ぶ陶磁史/中国・朝鮮陶磁(戸栗美術館)

2007-07-19 23:41:20 | 行ったもの(美術館・見仏)
○戸栗美術館 『開館20周年記念 戸栗美術館名品展II-中国・朝鮮陶磁-』

 戸栗美術館といえば、伊万里・鍋島ゆかりの美術館だと思っていたが、中国・朝鮮陶磁のコレクションもすごいということが、よく分かった。

 中国陶磁は、仰韶文化(新石器時代)の彩陶に始まり、明清まで、順に時代を追っていく。古いものでは、無地の名品が印象に残った。元代の青磁(龍泉窯)では、細い頸と、なだらかに膨らんだ胴を持つ水瓶。これを「玉壺春」というのだそうだ(→大阪市立東洋陶磁美術館のサイトに画像あり。上から2番目)。白濁した青みの鈞窯(北宋)にも、かすかな卵色を感じる定窯の白磁(金~元)にも、同じような形があった。

 明代の嘉靖期から赤絵が登場する。万暦以前に焼かれた五彩を「古赤絵」と言い、明末~清初の「呉州赤絵」や「南京赤絵」に比べると、素朴で古拙な感じが日本人好みである。題材も、民話や唐子遊戯図、動物たちなど、にぎやかで楽しく可愛らしいものが多い。古赤絵は「青花を用いず」とあった。そうかー。この間、『青山二郎の眼』展で見た「呉州赤絵」は、赤と青の対比が印象的だった。そのへんが見分けどころなのかな。

 本展は、清代の作品は意外と少なく、明の赤絵と五彩に重点が置かれていた。たぶん近世までの日本人の趣味を正しく反映しているんじゃないかと思う。数少ない清代陶磁器の中では「桃花紅」の表現にシビれた。半透明の深紅の釉薬を通して、素地の風合いが透けているところが、桃の薄皮そっくりである(→こんな感じ)。

 朝鮮陶磁は、高麗青磁に始まる。9世紀前半から10世紀後半、中国の越州窯の技術を摂取して、生産が始まったそうだ。色味は、灰色から翡翠色まで、幅広い。李朝(14世紀~)に入ると、白磁、鉄絵、青花などが現れる。私はやはり無地の白磁の壺に惹かれた。張りのある丸みが色っぽい。ふと、先だって福岡市美術館で見た『色絵吉野山図茶壺』が思い浮かんだ。仁清の茶壺は、朝鮮白磁のかたちによく似ている。青花は、素地の確固たる白色に比べて、青の描線は薄くてたよりない。その結果、恐ろしい龍虎を描いても、妙に枯淡で涼しげである。

 ところで、比較的最近の新聞記事によれば、戸栗美術財団は、佐賀県の伊万里に新美術館建設を予定しているとのことだ。私は、以前、有田は観光したけど、伊万里は通り過ぎてしまったので、心残りに思っている。また行ってみたい。でも、この新美術館、地元では反対されているのか。残念だなあ。

■西日本新聞(2007/06/28):戸栗・新美術館建設-伊万里・有田焼伝統産業会館敷地に
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/saga/20070628/20070628_001.shtml
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