見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

随身庭騎絵巻を見に行く/中世・近世の絵画(大倉集古館)

2013-04-30 23:27:12 | 行ったもの(美術館・見仏)
大倉集古館 館蔵品展『大倉コレクションの精華I-中世・近世の絵画-』(2013年4月6日~5月26日)

 大倉集古館の館蔵品展と聞いて、私が真っ先に思い浮かべたのは国宝『随身庭騎絵巻』である。出るのか? いや「中世・近世の絵画」とうたっておいて、出さないはずはないよなーと思って、この週末、短い東京滞在の間に大倉集古館を訪ねることをスケジュールに入れた。行ってみたら、確かに出ていたけど、前期(4/6~5/6)のみの展示だった。あぶなかった~。

 巻頭から巻末まで、全図展示は何年ぶりだろう? 自分のブログに検索をかけた限りでは、2006年の『国宝「随身庭騎絵巻」と男(をとこ)の美術』展で、巻頭から4人目までしか見られなかったガッカリ記録が出てくる。随身たちの、馬を操る力の入った表情もさることながら、筆者は、馬をカッコよく描くのが楽しくてしかたないように見て取れる。小学校の同級生に、オートバイや戦車をやたら緻密に描くのが趣味だった男子がいたけれど、あの感じ。タテガミの毛筋の流れるような美しさ。ひづめの向きからすると、飛び跳ねた馬が、中空で一瞬静止した状態を描いているのかな、と思う。

 そのほかにも名品多し。『融通念仏縁起絵巻』は、当麻寺を拠点に活動した勧進聖の良鎮が制作した百余本のうちの一本、という解説を読んで、あれ、どこかで聞いたことがあると思ったら、根津美術館の『『仏教説話画の名品とともに』にも同系統の一本が出ていた。素朴な画風になごむ。

 『普賢十羅刹女図』は、和装(女房装束)の羅刹女がめずらしい。九人しか認識できなかったけど。普賢菩薩の顔立ちも、温和でどことなく日本人顔。伊勢・朝熊山の山容とともに描かれた『虚空蔵菩薩像』も、和様な感じがするのは、正面性に厳格でない(身体が斜め横を向いている)ためか。

 冷泉為恭の『山越阿弥陀図』は巨大すぎて、ちょっと笑ってしまった。V字型に切れ込んだ山の間から出現しているので、地中から湧き出したようにも見える。『聖徳太子勝謾経講讃図』は、童形の山城大兄が妙にふてぶてしい。1階はこれら仏画と、久しぶりに宗達派の『扇面流図』屏風を見た。水の流れの激しさ、動きが感じられて好き。

 2階は、2012年の『古今和歌集序と日本の書』展で見た光悦&宗達の「詩書巻」が出ていて嬉しかった。詩は南昌の名勝・滕王閣を読んだもの。『名将肖像図巻』は65人の肖像画帖だが、その肖像があまり知られていない武将などもあり、菩提寺などに納められて、一般に見ることの難しい絵を参考にした可能性もあるという。展示箇所は、秀吉→秀次→弁慶(?)→頼政→大田道灌という不思議な並び方だった。山本勘助もいた。

 『百鬼夜行絵巻』は、かわいいバージョン。古寺の内外で田楽を楽しんでいた妖怪たちが夜明けの到来によって退散するストーリーで、近世初期の邦楽の様子をうかがい知ることができるのだそうだ。こういう親切な解説はありがたい。牛車の中の巨大な赤子(?)の妖怪が怖かった。
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日本文化の水脈/春の優品展 和歌の世界(五島美術館)

2013-04-29 19:23:31 | 行ったもの(美術館・見仏)
五島美術館 『館蔵 春の優品展-和歌の世界-』(2013年4月6日~5月6日)

 五島美術館は、昨年、4回連続の「新装開館記念名品展」に通って、見るべき館蔵品はだいたい見尽くした感があるが、やっぱり新しい展覧会が始まると、いそいそと足が向いてしまう。

 会場は、まず歌仙絵コレクションから。上畳本の紀貫之や佐竹本の清原元輔は、挙措も風貌も堂々と描かれている。それに比べて、後鳥羽院本の平兼盛や平仲文(藤原仲文の誤記)は、ちょっと風格に欠けるが、歌人の個性が出ていて面白い。大中臣能宣や源俊頼の面長な顔立ちは、身分の低さを表しているのだろうか。高貴な人物は総じて福々しい丸顔に描かれるので。

 めずらしいところでは、安田靫彦の『鎌倉右大臣』(実朝)、それから展示ケースに江戸時代の『集外歌仙』という冊子が出ていた。室町後期から江戸初期の「地下歌人」36人の和歌と肖像を集めたもので、その中には、毛利元就、伊達政宗、武田信玄などの武家歌人が含まれるという。展示箇所は毛利元就の図。武者としての肖像とどう違うのか、興味深い。絹表紙の上等な装丁だというが、それはよく見えなかった。

 古筆は「高野切古今集」第1種、第2種の揃い踏みから。やっぱり第1種がいい、と昨年くらいから思うようになった。おおらかな童心を感じさせる。「筋切」も好きだ。藤原佐理を伝承筆者とするが、近年は藤原定実の筆とする説が有力だという。でも、佐理と同系統の大胆さとスピード感が私の好み。ぐるりと会場をまわって、最後に覗いたケースの作品が美麗だったので、おっと思ったら、伏見天皇の「広沢切」だった。さすがだな~。薄めの墨を使っているのだが、鉱物の結晶のように明晰な線。迷いがなく、ブレがない。ほれぼれする。全体に万葉集と和漢朗詠集が多いように感じたのは、蒐集者の趣味だったのだろうか。

 会場の中央列には、茶道具が取り合わせてあって、はじめ意図がよく分からなかったが、和歌の世界に由来する「銘」を持つものが選ばれていた。

 展示室2には、国宝『源氏物語絵巻』の鈴虫一、鈴虫二、夕霧、御法。加藤純子氏の復元模写と比べながら見る。あまり混んでいなくて、ゆっくりできた。

 慈円の『法華経二十八品和歌』の解説「上部や文中の合点は兼実や定家と推測され」を読んで、兼実さんか~とにやにやしてしまう。しかし「合点」(チェック)だけで、どうやって主を推測するんだろう。学問ってすごいなあ。

 展示品に登場する和歌の翻刻と現代語訳がすべて添えられてあったのは、とてもありがたかった。絵巻、茶の湯、近代書道など、日本文化の水脈として生き続ける和歌の世界を感じる展覧会である。
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引っ越し前夜

2013-04-28 23:11:17 | 日常生活
先週に続いて、土曜から東京に戻っている。

先週は土曜に旧居を片付け(主に蔵書の仕分け。売り払うものと持ち続けるものと)、日曜は友人と大神社展(前期)を見てきた。感想は、近いうちにあらためて。

今週は、昨日、羽田空港を起点に、五島美術館→渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリー→大倉集古館→サントリー美術館をまわってきた。今日は終日荷作りの予定だったが、作業が順調に進んだので、ちょっと根津美術館を見てきた。朝は日曜美術館の「大神社展」特集も見られたし、充実の一日。ただ、いつレポートを書けるかが心もとない。

明日は布団を搬出して、都内のホテルに泊まる。三年暮らしたこの部屋に泊まる最後の夜だと思って、しみじみしている。殺風景な外観のわりに、住人には暮らしやすいマンションだった。

確か、不動産屋さんに三か所物件を見せてもらい、最後にこのマンションに案内してもらう途中、車の中から赤い鳥居の列が見えた。おや、こんなところに神社が、と思い、きっといい土地に違いない、と直感的に思った。



そのことが、このマンションを選ぶ決め手になった。引っ越しの準備をしながら、テレビで「大神社展」を見るのも何かのご縁かもしれない。
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2013春・生活一変

2013-04-25 21:03:18 | 日常生活
久しぶりのブログ更新である。
3月以降の慌しかった身辺変化をまとめておくと、

3月5日頃 4月から札幌に異動の内示
3月21日 札幌で前任者と引き継ぎ(1泊2日)
3月29日 3年間勤めた職場にお別れ
3月31日 持てる荷物だけ持って、札幌へ
 →ビジネスホテル住まいで4月1日より仕事開始
4月6日 宿舎入り。ただし布団セットはレンタル

…そして、なんのかんので1ヶ月になろうとしている。
視界をふさいでいた雪山は溶けて、さすがに寒さは薄らいだ。

東京の賃貸マンションに比べて、倍くらい広くなった新居には、まだ何もない。古いノートPCは持ってきているのだが、机も椅子もないし、だいたい安定したネットワーク環境がない。この記事は、ようやく見つけたネットが使えるカフェで書いている。

さらに仕事が忙しいのと、つきあいが多いのと(いずれも前年度比)で、すっかりブログの更新が滞ってしまったが、そろそろ復活したい。





今回のお餞別のいただきものは、花束よりも、やたら食いものが多かった。みんな、3年間で私のことをよく理解してくれたということネ。

先週末は、東京に1泊帰って、引越しの準備をしてきた。(遊んでもきた)
今週末、いよいよ本式の引越しである。
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記憶の中の災害報道/テレビの日本語(加藤昌男)

2013-04-12 23:53:31 | 読んだもの(書籍)
○加藤昌男『テレビの日本語』(岩波新書) 岩波書店 2012.7

 日本でテレビ放送が始まったのは1953年。今年で満60年を迎えた。白黒、カラー、衛星放送、デジタル化と技術面ではめざましい進歩を遂げてきたテレビ放送を、そこで使われる「ことば」の変遷に着目して振り返る。著者は、1966年、NHKにアナウンサーとして入社し、1999年からNHK放送研修センター日本語センターで後進の指導とコミュニケーション研修を担当しているという。

 さすが日本語に対する感覚が鋭い、と私が感じたのは、東日本大震災の報道で連発された「ご覧いただく」に対する違和感の表明である。「ご覧いただいている画面は、○○港の現在の様子です」という、当時、繰り返されたテレビのコメント。適度な敬語を用いて、冷静に事実を述べていて、非難されるいわれは全くないように思える。でも、何かが微妙におかしい。

 画面には、多くの人々の生命や財産が失われていく現実の光景が映し出されている。それを、あたかも映画やドラマの一場面のように、珍しい映像を視聴者に「お見せする」という感覚は、違うのではないか。この箇所を読んで、ことばのプロというのは、こういう厳しい感覚を持っているのだな、と身のひきしまる思いがした。

 かつて、アナウンサーは「音のことば」のプロであった。明確な声、正確な発音という「基礎体力」はむろんのこと、「取材力」「構成力」「表現力」を身につけるための努力は、一日も休めない。そして、どんなときも人を傷つけたり、不快感を与えないことばを選ぶ基本は、表現者の感性と倫理観にあるという。最近の促成「プレゼン」講座が、ウケればいい、おもしろければいい、に走って、倫理観を問わないのは、問題だな、と思う。

 テレビのことばが大きく変わったのは、80年代からだというが、その起点が「小型ビデオ機器」の導入にあるというのは、目からウロコだった。70年代末までは「事件現場に報道カメラが居合わせる」ことなどとても考えられなかったという。そうか、そうだったっけ。80年代から、小型ビデオ機器を通じて、さりげない日常の中で人々が発することばが放送に乗るようになり、テレビは、おしゃべりな「ごった煮」メディアになっていった。

 思えば、私は、実にど真ん中のテレビ世代ではないかと思う。本書に描かれたテレビ報道の変遷、NHK「ニュースセンター9時」の登場(1974年)、テレビ朝日「ニュースステーション」、TBS「NEWS23」など、いずれも鮮やかに記憶がよみがえった。もっと古い「スタジオ102」も覚えている。

 第4章「災害報道のことば」は、東日本大震災からさかのぼって、さまざまな災害報道を検証しているのだが、1984年の長野県西部地震(王滝村)、1993年の北海道南西沖大地震(奥尻島)、1982年の長崎大水害、1990年の雲仙普賢岳噴火等々、記憶のよみがえる大災害が並んでいる。日本って、本当に自然災害の多い国土だなあ、としみじみ(げんなり?)する。それから、過熱する選挙報道や「昭和が終わった日」のドキュメントにも言及する。

 最後にあらためて問われているのは、テレビ放送関係者の責任と矜持である。いざというとき、生活に不可欠な情報を的確なことばで発信することは、付け焼刃でできることではない。ことばの伝え手であるアナウンサーやキャスター、リポーターには、高いプロ意識が求められる。「テレビが、ことばの規範を示す媒体として真価を問われるのはこれからである」。その意気やよし。確かに「ことば」の使いかたでは、テレビはインターネットメディアに比べて、一日の長があると思う。頑張れ。
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まぶしい日本語/国民のコトバ(高橋源一郎)

2013-04-07 22:41:12 | 読んだもの(書籍)
○高橋源一郎『国民のコトバ』 毎日新聞社 2013.3

 小説家である著者は、よく考えてみると、書いてる時間より読んでいる時間のほうがずっと長く、書くより読む方が大好きだという。ずっと日本語を使い、日本語を読み続けてきたわたし(著者)は「ある日、自分が常軌を逸して、このことばが好きだということに」気づく。分かる分かる。私も、著者同様の「読むこと」好きだ。実は、この1週間、職場異動+引っ越しで、ほとんど「活字を読む」時間がなくて、気が狂いそうだった。歓迎会の嵐はありがたいのだが、2時間くらい他人と喋って酒を飲んでいると、ああ、活字が読みたい、という気持ちが、じわじわ腹の底から湧いてきて、抑えることができない。

 そして、一般に読書家とか活字中毒というと、小説好きとイコールのように考えられがちだが、読む楽しみは、別に小説に限らない。日本語で書かれた「おもしろいもの」はたくさんある、という著者の意見に、私は大いに共感した。

 では、具体的におもしろい読みものとは、どんなものか。本書を立ち読みしたときは、「漢な」ことば(ギャル男系と一線を画す、メンズファッション誌「Mens' KNUCKLE」を読む)、「VERYな」ことば(30代前半の高収入既婚女性をターゲットにした雑誌「VERY」を読む)、「人工頭脳な」ことば(iPhoneに搭載されたSiriを体験する)など、単純に笑える章が目について、思わず買ってしまった。

 しかし、本書には、けっこう心を打たれる日本語も紹介されている。「ケセンな」ことばという一章は、大船渡市出身の医師、山浦玄嗣(やまうら はるつぐ)さんによる『イエスの言葉 ケセン語訳』を紹介したものだ。私はこの本を見かけたとき、また東北ブームに乗ったくだらない企画を…と思って、中を見ようともしなかったが、本書の引用を読んで、完全に考えを改めた。ケセン語ふうに言えば「心ォ切り換ァで」というところだ。聖書には「悔い改めて福音を信じなさい」という一節があるが、山浦さんによれば、原典のギリシャ語の動詞「メタノエオー」は「考えを切り換える」の意味で、日本語の「悔いる」とは、ニュアンスが異なるという。ケセン語訳聖書とは、単に表面の言葉を、おもしろおかしい気仙沼方言に置き換えたものではなく、山浦さんの聖書研究の成果が生かされているのだ。

 「クロウドな」ことばも、最初の「?」な印象を裏切って、どんどん引き込まれ、ついには泣かされてしまった。俳優・真木蔵人のエッセイの紹介。もちろん原本の文章がいいのだが、著者の紹介もうまい。注目すべき箇所を太字ゴチックにしてあるのだが、目のつけどころが、いちいちツボにはまる。さすが作家だと思う。

 あと「(石坂)洋次郎な」ことば、「相田みつをな」ことば、「こどもな」ことば、と並べてみると、著者の志向する「おもしろい=美しい日本語」というのが、まぶしく純粋なことばであることが見えてくる。「棒立ちな」ことば(現代短歌)、「幻聴妄想な」ことば(「こころの病」をもつ人たちのことば)も同じだ。どの章にも、私は笑いながら、同時に深い感銘を受けた。実際に呼んでみてほしいので、詳しいことはあえて書かない。

 巻末に「おまけ」として設けられた「(日本の)政治家の文章」。そのスカスカした貧しさは、上記の対極に当たるものだ。悲しくなったら、オビの裏側に記されたコピーで口直しをしよう。「あなたが誰かを好きになったとしたら、それはたぶん、その人の中に住んでいる、この国のことばが好きになったのですよ。ほんとに。」
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秘書と事務職員/工学部ヒラノ教授と4人の秘書たち(今野浩)

2013-04-03 23:58:10 | 読んだもの(書籍)
○今野浩『工学部ヒラノ教授と4人の秘書たち』 技術評論社 2012.11

 新年度を迎えて、個人的な職業生活上の変化についても書かなければならないのだが、とりあえず年度末に読んだものの整理から。本書は、工学部の語り部をもって任じる著者の、『工学部ヒラノ教授』『工学部ヒラノ教授の事件ファイル』に続く3作目である。わくわくと本を開けたら、「まえがき」に記憶のある文章が載っていて、目を疑った。『工学部ヒラノ教授』について、私がこのブログに書いた感想を引用してくださっていたのである。「文系の大学教授や評論家諸氏の賛辞は、まことに有り難かった。しかし、それ以上にうれしかったのは、大学に勤める事務職員諸氏の言葉である」とのお言葉とともに。

 その一方で「面白く読ませていただいたが、工学部教授を支援する事務職員について、何も触れられていないのは残念だ」とボヤいていた事務職員氏もいたという。そこで、大いに反省した著者は、「教員と事務職員の共闘物語」を書くことを思い立ったという次第。

 しかし、この説明には、やや戸惑うところがあった。著者が「まえがき」に述べているとおり、国立大学の事務職員は三つのグループに分かれる。第一は、文科省本省から出向してくる「進駐軍」スタッフ(資質はともかく、ポジションはエリート)。第二は、中級・初級公務員試験をパスしたあと、大学が採用する職員。そして、第三は、派遣職員や種々雑多なパートタイム職員。本書に登場する「教授秘書」というのは、主にこの第三の類型に属する。

 第二の類型に属する「典型的」大学事務職員の私から見ると、彼女たちを「事務職員」にカテゴライズすることには、やや違和感がある。むかし(平成の初め頃)私が事務職員をしていた某大工学部でも、何人かの教授は秘書を使っていた。そして、正規雇用の大学事務職員と、パートタイム教授秘書の間には、大きなカルチャーギャップがあるように感じていた。これは男性には分かりにくいかもしれないが、女性で職業に大学事務職員(公務員)を選ぶのは、一生働き続けたい志向を持つ人、もしくは働かざるを得ない状況の人で、地味でコツコツ堅実なタイプが多数派だと思う。

 それに対して、教授のポケットマネーで雇われている秘書は、本書に登場する「六本木秘書」嬢のように、育ちのいいお嬢さんが多くて、フルタイムで心身をすり減らして働く必要はないのだが、安心できる職場で社会勉強(と、あわよくば結婚相手探し)のために週3~4日の勤務を希望するケースが多い。

 しかしまた、こういうパートタイム秘書には、時として「典型的」事務職員が及びもつかないような、献身的で、気が利いて、馬力があって、頭の回転の速い超優秀な人材がいることも確かだ。私は本書を読みながら、実際に大学という職場で出会った何人かの秘書さんを懐かしく思い出した。

 本書には、海外留学時代の見聞を含め、何名かの秘書が登場するが、著者の教育研究生活を20年以上にわたって支え続けたのは「ミセスK」なる方である。本書には、ミセスKが働き続けなければならなくなった家庭の事情が、かなり詳しく書かれている。一方、妻の難病に悩んでいた著者に、介護施設への入居をすすめたのは、ミセスKだという。お互いのプライベートな事情を分かち合える、大人の信頼関係を私はうらやましいと思った。本書の読みどころは、長い職業生活を通じて、中高年の男女二人の間に築かれた友情&信頼物語ではないかと思う。

 いま、国立大学の正規の事務職員は、数年単位で職場を異動していく。それには、もちろんいい面もあるのだが、教員との間に、こういう絆は生まれにくいと思う。その点では、国立大学の教員生活の長かった著者が、私立の中央大学に移って「中大の事務職員には、愛校心に燃える優秀な人が多かった」と見ていることも、やや胸の痛む指摘だった。
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