見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

軍産学協働と研究者/近代日本一五〇年(山本義隆)

2018-02-28 23:20:37 | 読んだもの(書籍)
〇山本義隆『近代日本一五〇年:科学技術総力戦体制の破綻』(岩波新書) 岩波書店 2018.1

 明治元年(1868)から2018年まで近代日本の150年間を、科学技術史の観点から振り返る。著者のことだから苦言が多いだろうとは思ったが、予想どおり厳しかった。

 第1章は、幕末から維新直後まで。19世紀中期の欧米は、蒸気機関の実用化によるエネルギー革命の時代だった。日本人は、近代西欧文明の優越性を社会思想や政治思想ではなく科学技術、とりわけ軍事技術から学んだ。西欧においても、技術は科学理論に基づいて発展してきたわけではなく、18世紀末まで大学アカデミズムは技術と無縁だった。しかし19世紀に至り、科学は技術に接近した。日本が欧米に出会ったのは、まさにこの時期であったため、以後、日本の科学教育は、実用性に大きな比重をおくようになった。

 第2章は、明治初年。1870年に工部省が設置され、工部大学校は士族の中から技術士官を育成し、彼らの指導で欧米の科学技術を丸ごと移植することに邁進した。これは、職人層の内部から技術革新の担い手として生まれた英国の技術官僚とは大きく違っていた。国家の強力な指導、民衆の識字率の高さ、効果的な教育制度の形成など、さまざまな要因によって、日本は産業のきわめて早期の近代化(資本主義化)を達成したが、その背後には、製糸工場や紡績工場での女子労働者の苛酷な収奪や、足尾銅山鉱毒事件など農村共同体の無残な破壊があった。

 第3章は、帝国主義の時代。明治期の近代化が一段落すると、日本の科学技術や軍事技術は帝国主義的な意義を帯びていく。電信網、鉄道、さらには海洋調査、気象観測、応用物理学なども。帝国大学には、造船、造兵、火薬学科、遅れて航空学科も設けられた。軍と学は密接な協力関係にあった。日本の科学技術は当初から産業と軍事を支えており、日本の軍事力が対外侵略のためのものになっても学者は疑問もなく追随した。

 第4章は、総力戦体制の時代。最初の科学戦と言われる第一次世界大戦(1914-1918)によって、西欧諸国は、科学者が戦争に役立つことを知った。「国家による科学動員」という政策が生まれ、日本もその影響を受けた。この時期、多くの研究機関が創設され、技術官僚たちは軍人と目標を合流させていく。特に植民地では、軍および官僚機構と企業の緊密な連携が実践された。

 第5章、戦争が始まる。昭和初期は、日本の産業が一定の工業化を達成した時期でもあった。財界は、大学の研究が産業振興に寄与していない点を不満とし、これを改善するために「学術振興会」が設立された。科学は天然資源の不足など国家の課題を解決するオールマイティーと考えられ、科学技術に対する非現実的なまでの過大評価が寄せられた。大学における理工系の拡張、研究施設の充実、科研費の創設など、科学振興は科学動員と表裏一体となって推進された。

 第6章、そして戦後社会。終戦直後、敗北の理由として「科学の立ち遅れ」がさかんに語られた。これは、日本ができなかった原爆製造に米国が成功した、だから日本は負けた、という意味である。科学の立ち遅れの責任は政治や行政にあり、科学者は被害者とされた。その結果、科学者は戦争協力の反省もないまま、官僚と政治家のヘゲモニーによる「科学技術立国」の奔流に流されていく。各種の公害訴訟を経て、ようやく成長幻想の終焉に我々は立ち会っている。

 第7章は、日本の原子力開発の迷走を記述し、福島の原発事故が、エネルギー革命にはじまる日本の近代のひとつの終着点であることを明らかにする。明治以来、一貫して国家目的として語られてきた「国富」概念の根底的な転換に迫られている、というのが本書の最後のメッセージである。

 興味深かったのは、日本における「大学アカデミズム」の特色である。日本の大学は、西欧の場合と異なり、設立当初から産官軍と密接な関係を持っていたことがよく分かった(良し悪しは別として)。その一方、戦前にも財界から「大学の研究が産業の振興に寄与していない」と批判されていたのには苦笑してしまった。今日の大学批判と全く同じではないか。

 驚いたのは、戦後、日本学術会議が実施した研究者へのアンケートで「学問の自由がもっとも実現していたのはいつか」という質問に「戦争中」という回答が最も多かったという事実である。前述のように、戦時中、科学者は優遇されていたのだ。言論の自由がなかろうと、反知性主義が跋扈しようと、多くの研究者にとって、研究費が潤沢であること=学問の自由なのだ。衝撃だけど、この実感を責めることはできないと思う。

 いろいろな技術が、それぞれの時代に持っていた意味について、あらためて気づくことが多かった。海洋学や気象学が、軍事上の必要から発達したということは、あまり考えていなかった。電燈や蒸気機関の発明が紡績工場の苛酷な労働環境を生んだように、新しい技術は必ずしも人間の労働を楽にしないという指摘は強く記憶に残った。また、植民地における鉄道は、支配国の利益(商品・移民・軍隊の浸透、原料・食料の収奪)のために敷設されたもので、被支配国にとっては国民経済の形成を抑圧するものだったという解説もよく理解できた。
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読めなくても楽しめる/王羲之と日本の書(九州国立博物館)

2018-02-26 23:52:09 | 行ったもの(美術館・見仏)
九州国立博物館 テレビ西日本開局60周年記念 特別展『王羲之と日本の書』(2018年2月10日~4月8日)

 書聖・王羲之(303-361、異説あり)を「日本の書の母胎」として捉え、日本列島で千年以上にわたり伝え育まれてきた書の文化の真髄を、これぞという逸品を通して紹介する特別展。展示室では、大宰府ゆかりの菅原道真(渡唐天神像がモデル)と王義之そのひとがキャラ化されていて、要所要所で分かりやすく作品を解説していて楽しい。

 冒頭には王義之の書跡。と言っても真跡は伝わらないので、王義之にあこがれた人々が伝え残した摸本の数々である。三の丸尚蔵館の『葬乱帖』は17行もあって緩急の変化をじっくり味わうことができる。九博所蔵の『妹至帖』は2行しかないが、軽やかで優美。個人蔵(?)の『大報帖』には「小野道風朝臣」という江戸時代の極め札がついているのが面白い。『定武蘭亭序』は複数の拓本が出ていたが、やっぱり素人には「双鉤塡墨」の摸本のほうが親しみやすい。

 智永(隋)、孫過庭(唐)の書跡を挟んで、われらが日本の空海(774-835)登場。『聾瞽指帰』は24歳の作。墨付きは黒々として、文字は全て、やや縦長の方形に収まっている。一見端正なのに、ものすごいエネルギーの爆発を感じさせる。斜め隣りに『金剛般若経開題残巻』(奈良博所蔵)があって、こちらは全く異なる柔らかな書風。空海が留学中に、当時流行の「王羲之風」をかなり意識的に学んだことが感じられる。

 遣唐使たちが持ち帰った王羲之の書風は、平安時代の「三跡」小野道風・藤原佐理・藤原行成に受け継がれ、「和様の書」として発展していく。道風の『三体白氏詩巻』、佐理の『国申文帖』は眼福。行成は、和漢の名品を残す一方、『藤原行成筆敦康親王初覲関係文書』のように、官僚らしく正確性を第一とした、全く面白味のない書跡も残っている。執務に美意識は持ち込まないタイプだったようだ。

 この頃、平仮名が成立している。神楽歌の最古抄本である『神歌抄』(10-11世紀)には、連綿を使用しない、単体の文字を連ねた平仮名が見られ、国語資料として非常に面白かった。楷・行・草の中では、行書がいちばん平仮名と相性がいいという解説には納得した。楷書では個性がぶつかり過ぎるし、草書は仮名と区別がつきにくいのだという。

 そして『継色紙(こひしさに)』『升色紙(いまははや)』『寸松庵色紙(としふれば)』の揃い踏みにやられた。「王羲之と日本の書」と聞いて、まさかこんな、古筆の最高峰が拝めるとは!! 『継色紙』の解説で、各行の開始位置の高低が山並みのようにリズミカルで、しかも「『も』と『き』の位置が絶妙じゃな」とキャラ化した王羲之が解説していたので、王義之が仮名の書きぶりを解説するか?と可笑しかったけど、しみじみ眺めていると、そんなに可笑しくないように思えてきた。書の美はひとつかもしれない。『升色紙(いまははや)』の3行目と4行目の重なり方は、あざといくらい凄い。

 『高野切古今和歌集』(第1種)とか『元永本古今和歌集』とか『平家納経・法師品』とか、平安貴族の高い美意識をあらわす書跡と料紙が続く中で、ガツンと衝撃を受けたのが藤原忠通の書状である。解説に「筆力が強く、起筆に筆先の打込みが顕著」という。平安中期の優美な書とは完全に異質で、古代から中世(武士の世)への変化を強く感じさせる。この法性寺流からさらに柔和さを除いた書風が、九条良経に始まる後京極流である。また、平安末から鎌倉期には、禅僧たちが北宋・黄庭堅の書風を持ち込んだ。

 先を急いでしまうと、これを再びひっくり返し、繊細優美な平安中期の和様の書(世尊寺流)を復活させたのが伏見天皇である。中世は流派で括れない個性的な書跡が多数見られる。足利尊氏の『願文(この世は夢のごとくに候)』が出ていたのには、びっくりした。結びに至るほど文字が小さく、行の幅が狭くなっていく書の姿から、尊氏の不安定な心中が想像できる。母・上杉清子の『願文』も出ていた。花園天皇は「手が早い」ので薄墨を好んだという指摘も面白かった。右目が不自由だった伊達政宗の書状の解説も納得できた。

 江戸の書は、近衛信尹の『檜原図屏風』や光悦・宗達の『花卉鳥下絵新古今集和歌巻』など、個性と創意工夫にあふれた楽しい作品がたくさん。会場の最後に横長の四文字の額があって、はじめ何と書いてあるのか読めなかったが、魅力的な書だと思った。近づいてみたら、西郷隆盛の「敬天愛人」だった。ネットで検索すると、揮毫は何種類も残っているようだが、この書は抜群にいいと思う。

 なお、東博に長くおつとめだった島谷弘幸さんが、九博の館長になられていたことをいまさらながら知った。こういう展覧会を開催してくれるはずだ。図録の解説も分かりやすくて共感できた。書を楽しむには「読むという行為をいったん忘れることも一つの方法」というのは、まさにそのとおり。ちょうど冬季オリンピックが終わったばかりだが、私にとって書のスピードやバランスの美を感じるのは、フィギュアスケート観戦の楽しみによく似ている。
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長崎ランタンフェスティバル2018

2018-02-25 11:50:49 | 行ったもの(美術館・見仏)
長崎ランタンフェスティバルは、私の大好きなお祭り。とは言え、2009年と2010年に行ったきりで、ずいぶんご無沙汰していた。今年は九博の『王羲之と日本の書』とあわせて、週末1泊旅行で行ってきた。土曜は遅めの飛行機で羽田を出発し、長崎市内に到着したのは午後3時くらい。ふだんの旅行なら、もったいない初日の過ごし方だが、今回は夜が観光の本番である。

まず長崎駅から徒歩圏の長崎歴史文化博物館へ。特集展示で長崎の画人・唐絵目利の渡辺鶴洲(1778-1830)という人物を覚えた。少し歩いて聖福寺へ。南国ムードただよう境内は以前のままだったが、観光客をひとりも見なかった。管理人の姿もなく、まるで廃寺のようだったが、どこか明るく開放的な雰囲気で怖くない。私が諸国一見の僧だったら、このまま住みついてしまいたいくらい。



山門の裏にはニコニコした福々しい韋駄天さんがいらっしゃった。



長崎四福寺のうち、福済寺は少し入りにくい雰囲気なので門前を素通り(むかし参拝したことはある)。そろそろ夕方になってきたので、駅前で早めの夕食を済ませ、ランタンフェスティバルの会場エリアに向かう。市電で「孔子廟・中国歴代博物館」へ。残念ながら博物館は17時閉館で、孔子廟の庭だけが公開されていた。孔子の門弟たちの石像の並ぶ中でファッションショーを開催中。この混沌は中華っぽい。



ぶらぶら歩いて新地中華街わきの湊公園へ。中華街といえば、関帝を祀る祭壇のしつらえを忘れるわけにはいかない。ブタの頭がずらりと並ぶ。



このおじさんは仙人らしいが、髪も髭も眉も真っ白で『琅琊榜』の聶将軍を思い出した。



関羽と赤兎馬は群を抜くカッコよさ。ほかにも中国の歴史や伝説を題材にしたランタンが多数あって、自分が中華文化圏にいることを実感できる。



混雑する中華街を後にして、江戸時代の旧・唐人屋敷エリアへ。私がランタンフェスティバルでいちばん好きな会場である。



ここでは土神堂、天后堂、観音堂、福建会館天后堂の四堂をめぐるコースが設定されている。はじめの土神堂で「四堂巡り」の赤い蝋燭四本をいただくことができる(500円)。以前もやったのだが今回もやってみた。蝋燭が太くなったように感じたのは気のせい?



土神堂の裏道は、2009年と2010年に来たときは、串焼きや元宵だんごなどの露店が並んで賑やかだった。台湾の九份の坂道もこんな感じかなあと想像したものだ。それがなぜか今年はひっそりと静まりかえっていた。いや、趣きが深くていいのだけれど。



道が静かなおかげで珍しいものを発見した。土神堂の裏口のすぐ向いにある銭湯。営業しているのだろうか。



マンホールの蓋に五芒星のマーク。これは長崎全域がそうらしい。ネットで調べたら、一部地域では六芒星のマークが見られるとのこと。これは次回(いつになるか)チェックしたい。



さて中華街に戻り、「浜んまち会場」のアーケードを抜けて、崇福寺へ。チラホラとお客さんの姿は見えたが、境内は静まり返っていた。お堂には灯りがついていたので、韋駄天の像を。



続いて興福寺。門前には千里眼(緑)と順風耳(赤)のランタン。ここはお坊さんたちが境内にいて、拝観客の案内などをしていた。御朱印もいただけた。



この旗は、入港する船から見えるように媽祖堂の目印として上げたものと聞いたことがある。崇福寺でも上がっていたが、暗くてよく見えなかった。こちらはライトアップされており、嬉しかった。ちなみに大浦天主堂の近くで、巨大なクルーズ船が港に停泊しているのを見た。最近、中国からの観光客はクルーズ船を利用することが多いそうなので、媽祖様のご加護をお願いしたいところ。



このあとは眼鏡橋から中島川公園を経て、最後に中央公園会場へ。ちょうど「中国雑技」の最初のプログラム「変臉(変面)」が始まり、盛り上がっていた。ポップス調の「変面」のテーマソングがあることを初めて知って、面白かった。



最後は、孫文と梅屋庄吉のランタン。
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まだまだ続く/すずしろ日記 参(山口晃)

2018-02-22 23:21:39 | 読んだもの(書籍)
○山口晃『すゞしろ日記 参』 羽鳥書店 2018.2

 山口晃画伯の『すずしろ日記』第3巻。第2巻刊行から4年3か月。第3巻には、東京大学出版会のPR誌『UP』連載の101回(2013年8月号)から150回(2017年9月号)までと、その他の雑誌等に発表した各種のエッセー漫画が収められている。

 まず後者が第1部「すずしろ日記風」にまとめられていて、銀座の名店や画廊・銭湯・理容店などの探訪記、気になる展覧会めぐり(愛犬ポチがレポーター)、姫路城見学記、スター・ウォーズを語る(+ルーカス・フィルムを訪ねる)など、確かに興味深いのだが、あまり面白くない。あれ?私の待っていた「すずしろ日記」ってこんなのだっけ?とちょっと戸惑う。

 それが、第2部「UP版すずしろ日記」になったら、やっぱり面白い。第1部のエッセイは内容があり過ぎなのだ。「すずしろ日記」は、このゆるさ~コマが余ったり、落ちがなくても無問題なところが好き。なかには見事な落ちのある回もあって、何度も声を出して笑った。149回で画伯は自分の喋り方について「無駄に笑いを取りに行くところがある」(その結果、文章に起こすと意図が伝わらない)と反省していらっしゃるが、基本的にサービス精神旺盛なのだと思う。104回で、小林秀雄賞の受賞式で「志ん生の口マネで小林秀雄を読む芸」を披露したというのを想像して大笑いした。

 第1巻から思っているけど「カミさん」との関係性がとても素敵。愛犬ポチの登場シーンも多くて何より。群馬県桐生市の「ふるさと大使」さらに「芸術大使」をつとめていらっしゃるそうで、ふるさとネタも多いのも楽しかった。画伯が子供の頃から無上の楽しみにしていたという洋食屋の「芭蕉」、ネットで画像を探したら想像以上だった。桐生が岡公園の思い出は、都会でなく田舎でもない、ほどよく便利でのんびりした「地方都市」の一類型を思わせる。

 すごく共感したのは、東京モノレールのよさ。窓の景色もいいけど、車内の座席の配置が「計算と気まぐれが同居した様なしつらえ」というのが分かる! 私はまだ行ったことがないのだが、犬山の明治村いいんだなあ。大人ひとりで行ってもいいんだと分かって勇気づけられた気分。

 「UP版すずしろ日記」はコマ割り漫画エッセイが1ページで、隣りのページに解説のようなもの(執筆当時の状況)が活字と画伯の絵で添えられている。138回の画伯の添え書きに「『役に立たない』事がもたらす開放感/有用性が低ければ低い程良い/しがらみが無いと云う事だ/絵なんぞ更に進んで『有用・無用』の外に出てこそ正しい」とあって、いい言葉だと思った。

 連載開始からすでに干支がひとまわりしたと聞いて感慨深いが、ぜひ末永く続けてほしい。画伯とカミさんが仲良く年取っていく様子をずっと垣間見させていただきたい。心配は雑誌『UP』がなくってしまうことだが、そのときはネット媒体に移してでも。
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まぶしい白/熊谷守一 生きるよろこび(国立近代美術館)

2018-02-20 23:56:52 | 行ったもの(美術館・見仏)
国立近代美術館 企画展『没後40年 熊谷守一 生きるよろこび』(2017年12月1日~2018年3月21日)

 熊谷守一(くまがいもりかず、1880-1977)の名前を覚えたのはいつ頃だろう。明るい色彩と明確なかたちが特徴で、一度覚えたら、決して他の画家と紛れることのない個性的な作風である。花や虫、鳥など身近な生きものを描いた作品が多く、単純化された色とかたちは「童心」という言葉を思い出させる。

 しかし守一の人生には、貧困や家族の死などさまざまな辛く哀しい出来事があった。私は、たまたまつけたテレビでNHK日曜美術館の熊谷守一特集を見てしまったことがある。4歳で急逝した娘の死に顔を描いた『陽の死んだ日』という作品や、長女・萬の遺骨を抱いて次女・長男とともに帰る『ヤキバノカエリ』という作品があることをそのときに知った。

 だから本展では、悲しい作品に出会うことも覚悟はしていた。しかし初期の作品にはびっくりしたなあ。油絵具の劣化の問題もあるのだろうけど、画面が暗い。「光と影の問題」に関心を抱いていたというけれど、ほとんど影というか闇の中に、ぼんやるしたかたちがうごめいている。線路の傍らに横たわる女性を描いた『轢死』は、たぶん題がなければ何も分からなかったと思う。私は即座に漱石の『三四郎』を思い出していたので、解説パネルに同じことが書いてあったのは、ちょっと嬉しかった。このあとも守一は「横たわる女性像」にこだわりを持ち続ける。

 ちなみに展覧会のセクションは「闇の守一 1900-10年代」(→闇の守り人みたいで笑った)「守一を探す守一 1920-50年代」「守一になった守一 1960-70年代」と進む。ちょっと中間が長すぎる気もするが…。

 1920年代、守一は明るい色彩を獲得する。ぐいぐい絵具を塗り付けるような荒いタッチの作品を多く描いており、『陽の死んだ日』もその一例。1940年前後の風景画から、赤く太い輪郭線でかたちを大きく区切る様式が出現し、次第に色彩が整理されていく。ただし、いつも輪郭線があるわけではなく、いろいろ試行錯誤を繰り返しているのが面白い。そして、1956年に『ヤキバノカエリ』が描かれる。この作品で印象的なのは遺骨を包む白布と守一の顎髭の白だ。夕焼けのような、夕暮れのような曖昧な色彩の田舎道に二つの白が効いている。この前後にも「白」が印象的な作品がいくつかあった。『伸餅(のしもち)』のやわらかい白、『たまご』の硬質な白、『湖畔山羊』の白など、なんだかどれも美しかった。

 晩年の作品は、不思議なかたちと明るい色に満たされている。中年期の作品が、写実的な事物や風景が透けて見えるので、それを「単純化」したと言いたくなるのに比べると、もはやどこかに原形があるとは思えない。猫もウサギも草花も、描かれた色とかたちのままに存在している。

 守一のような作品は、複製印刷で見てもあまり変わらないだろうと思っていたのだが、近くで見ると、同一方向に刷毛目を揃えた丁寧な筆遣いがはっきり分かった。特に晩年の作品は気持ちがよかったので、ぜひ現物で味わってもらいたいと思う。
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渡邉肇氏の写真とともに/文楽のすゝめ(竹本織太夫)

2018-02-18 23:39:41 | 読んだもの(書籍)
〇竹本織太夫『文楽のすゝめ:An Encouragement of BUNRAKU』 実業之日本社 2018.1

 1月に大阪、2月に東京で襲名披露を行った、豊竹咲甫太夫あらため六代目竹本織太夫さんの本である。ペパーミントグリーン一色の表紙がオシャレ。紙質も軽くやわらかで、ちょっと古典芸能の本とは思えない。オビに小さく織太夫さんの写真(白黒)が入って「今最も注目される古典芸能の旗手」というコピーが入っている。分かる、分かる。

 いまさらなことを言うようだが、私はけっこう前から咲甫太夫さんのファンである(まだこの名前のほうがしっくりくる)。ブログを見ると2015年の正月公演について「ちょっと腹の立つくらいの(笑)美声」と書いている。文楽の太夫は美声だけでは駄目だとか、悪声のほうが味があっていいという批評を聞いたことがある。まあ一理あるけど、美声で語りに味があったら、さらにいいじゃんと思う。私は咲甫さんが床に上がると、名歌手の出演するオペラを聴くような気持ちで、客席に身を沈めてしまうのだ。眼福、口福ということばはあるけど、美声を全身に浴びる楽しみは、なんと表現したらいいのだろう。

 本書は、文楽の楽しみ方を初心者向けに多面的に紹介したもの。特に、大阪文楽劇場に足を運んで見てもらうことが想定されているので、大阪の観光・グルメ街歩き本にもなっている。まず、文楽(世話物)は江戸時代に起きた事件を基にした再現ドラマ、トレンディドラマであると説明し、近松門左衛門の作品を中心に「まず見てみよう、この10件」を挙げる。「曽根崎心中」「心中天網島」「女殺油地獄」「冥途の飛脚」「双蝶々曲輪日記」「新版歌祭文」「心中宵庚申」「夏祭浪花鑑」「桂川連理柵」「伊勢音頭恋寝刃」で、現代人が見ても面白いという点で、妥当なラインアップと言えるだろう。

 解説には舞台の上の文楽人形の写真が添えられており、生々しい表情が言葉を失うほど素晴らしい。「写真/渡邉肇」というキャプションを見つけて合点がいった。ずっと文楽を撮り続けている写真家さんである。表参道の『人間・人形 映写展』(2013年)やお茶の水の『人間浄瑠璃 写真展』(2014年)がよみがえってきた。織太夫さんの肖像写真も素敵。

 文楽の上演方法についての解説では、床本は、かつては専門家が書いたが、今は覚えるために太夫自身が手書きするのが主流になっているとか、三味線は、伝来当時、盲目の音楽家が弾く楽器だったことが原点にあるため、今も楽譜を見ないなどが新しい知識だった。いとうせいこうさんがコラムで近松の詞章について、字余り字足らずの変則的なリズムを投入してくるのは「一番にイイイ」「天満のオオオ」という感じで、太夫がどう演じるかを想像しながら書いていたからだと説明しているのには唸った。国文学でどう解説しているかは知らないけど、これは文字を声に乗せてみた人ならではの発言だと思う(いとうさんは織大夫さんに浄瑠璃を習っていたとか)。

 大阪の街歩きでは、大阪・ミナミで生まれ育った織太夫さんが愛する名店の紹介あり。黒門市場の伊吹珈琲店は、一度行ってみたいと思いながら機会を逸している。ぜひ次回こそ。日本橋の中華料理「三国亭」も行ってみたい。

 実際に織太夫さんが語ったことばを文章にしているのは4ページほどで、量は少ないが、いろいろ興味深かった。「咲甫太夫」という名前は、8歳のときから名乗っているのだな。「舞台を務めるうえで、物語の世界観を深く理解し、登場人物の複雑な心情や喜怒哀楽を”語り”で表現するためには、人生経験も必要ですよね。芸も人間性も磨くのが修行です」というのは教科書どおりとはいいながら、真剣で胸を打つお言葉。

 ご実家はずっと人形浄瑠璃にかかわってきた家系だが「家を継ぐのはすべて女性で、その旦那が文楽の太夫や三味線弾きでした」という説明が面白かった。「江戸の武家社会では男系で世襲しますが、大阪の商売人はその逆。たくましい女性たちが家を継ぎ、店ののれんを守るために、優秀な奉公人を婿にする実力主義」だという。江戸の武家社会だけで日本の伝統を考えてはいけない。

 それから、織太夫というのは、代々「全身全霊で命懸け」の芸風なのだそうだ。のれんを継いだ以上、織太夫の芸風を守らければならない。「もし自分の個性を出したければ、襲名せずにいればいいのです」というひとことが感銘深かった。のれんを受け継ぎ、先人の芸を学ぶことによって、たぶん「個性」だけでは到達できない高みに行こうとしているのだ。伝統芸能の修行ってそういうものなのだ、と感じた。
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婦人のたしなみ/ちりめん細工の今昔(たばこと塩の博物館)

2018-02-17 22:56:57 | 行ったもの(美術館・見仏)
たばこと塩の博物館 特別展『ちりめん細工の今昔』(2018年1月23日~4月8日)

 「たばこと塩の博物館」は、もと渋谷の公園通りにあったが、2013年9月に閉館し、2015年4月、現在の墨田区横川に移転して、リニューアルオープンした。公園通り時代には何度か行っていて、近世近代の生活風俗史や対外交流に関する企画展が面白かった記憶があるが、移転以後は、あまり食指の動く企画展がなくて、まだ行ってみる機会がなかった。今回はビジュアル的に面白そうだったので行ってみた。姫路市にある日本玩具博物館との共催で、第一部として江戸時代から明治・大正時代にかけての古作品を一堂に集め、ちりめん細工の歴史と文化を紹介し、第二部では、現代によみがえった平成のちりめん細工を展示する。

 ちりめん(縮緬)とは横糸に強い撚(よ)りをかけた生糸を用いることで表面に「しぼ」(凹凸)を出した絹織物。「一越(ひとこし)縮緬」「二越縮緬」「三越縮緬」などの種類があり、江戸から明治にかけて細工物には「ニ越縮緬」がよく使われた、という概説が冒頭にある。そういえば、京都で『大丹後展』を見たとき、初めて丹後ちりめんについて学んだことを思い出した。

 江戸時代後半になると、武家や商家などの裕福な家庭の女性たちが、ちりめんを使って小さな袋や人形、小箱などを作った。巾着袋は、寺院へ米や穀物を備えたり、親類知人に祝いの米を贈ったりするのに用いられたというのが興味深かった。いつ頃まで残っていた習俗なんだろう。米を贈答するのって、私は全く想像がつかなかった。浮世絵や歌舞伎役者の錦絵を「押絵」で表現した小箱や巾着は、プライベートな楽しみのために作ったものではないかと思う。スゲーと思ったのは『三十六歌仙の香箱揃い』。百人一首の絵札のように全て絵柄の異なるマッチ箱ほどの香箱が三十六種セットになっている。それから『御座船細工の懐中物』というのは、御座船を立体的にあらわしたものだが、たぶん畳むと煙草入れほどの平たい小袋になってしまうらしい。

 明治時代には、女学校の裁縫の教科書にちりめん細工が取り上げられている。まあ凝り性で器用な女学生もいれば、そうでない女学生もいたのだろうなあ。そのあと、子育てにかかわる細工物、祝い着の背紋飾りや守り袋が展示されていたが、当時、こうした小物類をつくれることは、家庭婦人の心得であったのだろうな。子供の身に着ける「守り袋」(書付などを入れておく)って、歌舞伎や文楽でしか見たことがなかったが、本当に普通に使っていたんだなと知る。簡素化したちりめん細工の迷子札もかわいい。

 後半は現代のちりめん細工。日本玩具博物館は、1980年代から古作品を復元する講座などを開設し、途絶えた手芸文化の復興に取り組んできたという。そうなのか。ちりめん細工のつるし飾りって、各地(福岡県柳川、伊豆稲取)に残っていると思っていたのだが、実はこれらも1990年代に「町おこし」として始まったのだそうだ。どんどん広まるといいと思う。私も元来、細工物は大好きなので、年をとったら、こういう手仕事に時間を費やしたい。

 ついでに常設展示も見てきた。「塩」の部と「たばこ」の部がある。「塩」の部は、以前の展示をあまりよく覚えていないのだが、ずいぶんあか抜けて現代風になった気がした。「たばこ」の部は、以前の記憶がよみがえる展示物がところどころにあって懐かしかった。昭和40年代くらいの煙草屋の店先を再現したコーナーがあって、庇の上に「業平たばこ店」という金属製のロゴ(近所の住所に合わせた店名)が見えるのだが、え?これ公園通り時代の館内にも有ったはず、と思った。以前の写真と見比べると、背景を障子戸にするなど、微妙に変化を加えているのが面白い。

 ほかにも、エントランスホールに、かつての博物館の模型があったり、見覚えのあるシンボルモニュメント(喫煙の像)が移設されていたのも懐かしかった。「喫煙の像」はタバコの葉(?)の冠と腰蓑をつけた上半身裸の偉丈夫が長い煙管で堂々と煙草を吸っている図。原型はスウェーデンのたばこ屋の看板だという。私は煙草を吸わないが、父親や大学の恩師など、喫煙者がまわりにいたので、煙草のパッケージや広告には、それなりの懐かしさを感じる。しかし、若い世代には、この感覚はどんどん薄れていくんじゃないかなと思った。
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丸善丸の内本店のブックカフェ

2018-02-16 22:14:56 | なごみ写真帖
最近、大きな本屋といえば、丸の内オアゾの丸善に行くことが多い。めぼしい新刊を買いさらったあとは、4階のM&C Cafe(エムシーカフェ)でティータイムを過ごす。窓際の席に陣取ると、JR東京駅を出入りするさまざまな電車を見下ろすこともできる。だが、休日はけっこう混んでいて、待たされたり、諦めて帰ることも多かった。

それが、昨年、3階の芸術・人文書売り場に新しく「Cafe1869 by MARUZEN」がオープンした。一時期、人文書売り場の書棚の一部を撤収していたので、何が起きるのかと思っていたら、カフェスペースができた。4階のカフェとコンセプトが異なり、書籍売り場とカフェの境目が曖昧なのが面白い。セルフサービス式で、4階よりカジュアル。そして、こちらも東京駅の眺めが楽しめる。

メニューはホットサンドとシフォンケーキが売りで、どちらも美味しかった。最近のお気に入りカフェである。



※丸善ジュンク堂書店:2017年10月30日 丸善 丸の内本店 3階にブックカフェ「Cafe1869 by MARUZEN」がオープン
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護立の選んだ唐三彩/細川家と中国陶磁(永青文庫)

2018-02-15 23:16:28 | 行ったもの(美術館・見仏)
永青文庫 早春展『細川家と中国陶磁-名品でたどる中国のやきもの-』(2018年2月10日~4月11日)

 興味のある展覧会だったので、始まって早々に見に行った。同館の設立者である細川護立は、大正末年のヨーロッパ旅行中から中国の古美術品を本格的に蒐集し始めた。また細川家は、三斎(忠興)以来、茶の湯に親しみ、「唐物」と呼ばれた中国の陶磁器を含む、優れた茶道具の数々を伝えている。その結果、永青文庫は、古く漢代から清代まで100点を超える中国陶磁を所蔵しているが、本格的な中国陶磁展を開催するのは、実に17年ぶりとのこと。私にとっては、たぶん初めての体験だと思う。

 会場は4階から。まず最も古い漢代の灰陶が2点。2番目が、SNSで写真を見てびっくりした『灰陶三人将棋盤』という珍品である。三方向から駒を進めることができるよう、将棋盤はY字型をしている。中心部には三角形の「海」があり、三方には「山」、その背後に「城」があり、「城」の背後に駒の並べ方が文字で示されている。いちばんよく見えた列は「車馬相士將士相馬車」だったと思う。あとの二方向は、少し文字が違っているように思えた。これ、とても面白かったので、図録代わりの雑誌「永青文庫」に何か解説が載っているだろうと期待したのに、写真すら載っていなかったのにはガッカリ。まだ分からないことが多くて何も書けないのかなあ。ほんとに漢代(前2-3世紀)の品なのかも疑っておこう。

 なお、ネットで「三人将棋」を検索すると、昭和初期に日本人が発明した「国際三人将棋」というのがヒットすることは初めて知った。囲碁に比べると、将棋の歴史は分からないことが多いようだ。

 灰陶加彩馬(北朝時代、6世紀)はシンプルで堂々とした造形。続いて、時代は唐代に飛び、三彩の名品が並ぶ。現代の工場でお土産用に量産されている唐三彩と違って、色味は決して多くないのに、品があって大胆で美しい。盤面全体を覆う小さな白い斑点が華やかな『三彩宝相華文三足盤』が一押し。緑釉が目立つ『三彩花文盤』も好き。唐三彩は、1904年に始まる卞洛鉄道工事等によって掘り起こされた唐代の墳墓から、初めて見つかったものだ。細川護立が唐三彩を褒めると「墓から出たものを飾るのはなんだか変ですよ」と言われたそうだが、「どこから出ようといいものはいい」という姿勢を貫いたという。三彩馬も三彩獅子も三彩女子も、護立の選択眼は確かにいい。

 次に宋代のやきもの。磁州窯もやはり20世紀の初めから注目を集めるようになった。『白釉黒花牡丹文瓶』は優美で風格のある名品だが、磁州窯としては少し整いすぎな感じがする。私は『白釉鉄絵瓢形水柱』が面白くて気に入った。縦縞柄の磁州窯はいくつか見たことがあるが、これは瓢箪形に横縞柄という珍しいものだった。定窯の『白磁長頸瓶』は故宮伝世品とのこと。硬質の白い肌に、展示ケースの白とオレンジの小さな照明が点々と反射して、仏菩薩の瓔珞のように見えた。あと、4階展示室の入口には、白い大理石の石仏(唐代)が常時置かれているのだが、今季の展示内容とマッチしていて、仏様も少し嬉しそうだった。

 3階展示室は明清のやきもの。五彩、青花、青磁など。悪趣味すれすれで面白かったのは『金琺瑯蓋付馬上杯』。『白磁明笛』は実用品だそうで、武侠ドラマに出てきそうだと思った。

 2階は茶道具としての中国陶磁。『油滴天目』(金代)は口径が大きくて、小どんぶりくらいあるのではないかと思った。ただし裾がきゅっと縮まっているので、量はそんなに入らなそうである。『黒釉油滴斑壺』の美しさには見とれた。黒釉の上にうっすらと載る銀色の油滴。この渋さ!! 『黄天目』と『黄天目(珠光天目)』という2つの茶碗もよかった。「黄」というほど明るい色合いではなく、黒釉が錆を吹いたような風情。黒楽茶碗を思わせて、大変よかった。
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新聞世論と大衆の共謀/戦前日本のポピュリズム(筒井清忠)

2018-02-14 23:45:27 | 読んだもの(書籍)
〇筒井清忠『戦前日本のポピュリズム:日米戦争への道』(中公新書) 中央公論新社 2018.1

 現代の政治状況の説明にしばしば用いられる「ポピュリズム」。しかし、要するに「大衆の人気に基づく政治」ということであれば、日本では戦前期にも経験があった。本書は、日本において初めてポピュリズム現象が登場した日比谷焼き打ち事件(1905年)から日米開戦(1941年)までの間にあらわれた「ポピュリズム」現象を順に紹介する。

 日比谷焼き打ちは有名な事件だから、だいたい知っているとおりだったが、日露戦争中にたびたび開かれた戦争祝捷会(多くは日比谷公園で)が群衆形成の重要な要因となったという指摘は興味深い。また漱石の『坊っちゃん』が日比谷焼き打ち事件の直後に書かれており、小説の中で坊っちゃんが生徒を祝捷会に引率し「利口な顔はあまり見当たらないが、数から云うとたしかに馬鹿に出来ない」という感慨を述べている。これは大衆の時代に対する、エリート漱石の感慨と見てよいだろう。

 続く大正期の大衆運動(対中強硬政策運動、普通選挙要求運動、排日移民法排撃運動)は、ナショナリズムと平等主義の二つに方向づけられる。大正末年、普通選挙を目前にして、朴烈(パクヨル)怪写真事件が起きた。大逆罪で起訴された朴烈に妻の金子文子が寄り添う獄中写真が東京市内各所に配布されたというもの。この写真は見たことがあるが、「政府が皇室をないがしろにした」という批判が沸き起こり、ついに若槻礼次郎内閣の総辞職に至ったというのは知らなかった。政策論争よりも1枚の写真。「天皇」の政治シンボルとしての絶大な有効性。昭和前期の政治は「劇場型政治」であり、超国家主義者たちは、ポピュリズムに関する明敏な洞察から、大衆の感情・意識を政治的に動員していく。恐ろしい。

 普通選挙時代に入り、田中義一内閣は、不戦条約「人民の名において」問題(1928年)、張作霖爆殺事件(1928年)を経て崩壊する。背景には、天皇シンボル型ポピュリズムとマスメディアの既成政党政治批判の結合がある。政党内閣は野党によって倒されるのが健全な議会政治であって、それ以外の力によって倒されるのは不健全な事態である、という指摘は忘れずに置こう。次いで浜口雄幸内閣では統帥権干犯問題(1930年)が起きる。ここでも著者は、新聞世論が喚起するポピュリズム/ポピュリズムに乗って「豹変」する新聞世論の危うさを指摘している。

 第二次若槻内閣において満州事変(1931年)が勃発する。事変前に軍縮を主張していた新聞世論は「大旋回」して戦争支持に傾き、政府の弱腰を非難することになる。「対外危機は大衆デモクラシー状況におけるポピュリストの最大の武器である」というのは、現代の政治状況を見ても、胸に刺さるくらい納得がいく。

 1933年には、五・一五事件(1932年)と血盟団事件(1932年)の裁判が開かれた。当時の新聞記報道の引用から、目を疑うような社会の実態を初めて知ることができた。被告たちは「義士」「忠臣」と称えられ、赤穂浪士や吉田松蔭に譬えられる。七万人の減刑歎願書とか、真剣さを示すため小指を切断して送って来る支援者とか、「昭和維新行進曲」というレコードが企画されたとか(発売禁止)、呆れてものが言えない。「『明治維新』という巨大な『革新』が国家の大衆的支持への正統性原理として組み入れられている限り、『革新的』ポピュリズムを否定できないのが近代日本の『正統的体制』であったとも言えよう」という箇所を、何度も繰り返して読んだ。21世紀になっても「明治維新」に浮かれている限り、この宿痾を逃れることは難しいと思う。

 国際連盟脱退事件(1933年)においては、内田康哉外相と松岡洋右全権も国民世論に動かされた。牧野伸顕内大臣のように、日本は近代の歴史が浅く、日本の世論がイギリスのように成熟していないことを認識している閣僚は少数派だった。帝人事件(1934年)、天皇機関説事件(1935年)を経て、近衛内閣と盧溝橋事件、日中戦争開始(1937年)に至る。近衛首相人気の上滑り感も、とんでもなく気持ちの悪いものだ。日米開戦(1941年)を選択したのは、近衛・松岡という二人のポピュリストである。ポピュリズムが外交と結びついたとき、どんな悲惨な結果を生むか、私たちは戦前の経験をもう一度、学びなおしたほうがいい。
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