〇磯田道史『感染症の日本史』(文春新書) 文藝春秋 2020.9
雑誌『文芸春秋』2020年5~10月号に連載された同名のエッセイに、書き下ろしその他の原稿を加え、再構成したものだという。新型コロナウイルス感染症の脅威にさらされたこの一年、「歴史学が世の中に何ができるか」という著者の強い危機意識から本書は生まれた。感染症の対策には、医学だけでなく、政策や経済、社会、日々の生活、心のケア、文化など「総合的な知性」からの発想が必要である。こうした問題には、失敗体験も含めて、歴史を振り返ることが威力を発揮する。
本書が取り上げる事例は、必ずしも時系列ではない。第1章では海を越えて日本にやってきた感染症を取り上げる。幕末のペリー艦隊から感染が広がったコレラ。明治初年の牛疫。大正年間のスペイン風邪。結局、「日本を守る」というとき、「仮想敵」が日本に軍事侵攻してくる確率よりパンデミックで国民の命が奪われる確率のほうがはるかに高いのだから、政治はこの現実を直視し、新しい「国防」を構想する必要があると著者は説く。
第2章では「実在した可能性がある最初の天皇」崇神天皇の時代に疫病の記録があること、聖武天皇の天平時代が天然痘の大流行期であったことなどの古例や民俗事例を紹介。江戸後期になると、ようやく人々の思考が合理化する。橋本伯寿という医学者は、隔離や消毒・自粛(遠慮)を重視し、免疫獲得の概念も理解していた。江戸医学おそるべし。しかし大正期のスペイン風邪対策は、江戸の医学よりむしろ杜撰だったという指摘も忘れてはならない。
第3章は江戸の流行性感冒について馬琴の随筆をはじめ、多数の記録を紹介。非常に興味深いのは、岩国藩のように、徹底した隔離(遠慮)政策によって歴代藩主の感染ゼロを達成した藩もあれば、米沢藩の上杉鷹山のように「遠慮に及ばず」と臣下に命じ、行政機能の維持を優先した例もあること。鷹山の国民(藩の領民)支援策の行き届いていること、さすがである。
第4章は麻疹(はしか)について。今でこそ麻疹のワクチンが普及して感染者が激減しているが、実は麻疹こそ代表的な「横綱級」の感染症なのだという。知らなかった。『栄花物語』や『多聞院日記』にも記録があるのだな。
第5~8章はスペイン風邪について。京都の女学生の日記、『原敬日記』、皇室の実録、文学者の日記など多様な記録を取り上げる。『大正天皇実録』は『明治天皇紀』や『昭和天皇実録』に比べて病気や健康状態に関する記述が少ないという指摘は興味深い。スペイン風邪を題材にした志賀直哉の小説『流行感冒』はむかし読んだ。直哉と親交のあった野尻抱影氏の随筆で、私は初めて「スペイン風邪」という言葉を覚えたのではなかったかな。宮沢賢治の妹・トシがスペイン風邪に罹患したことは知らなかった。幸い治癒したものの、翌年、結核で永眠する。
最後の第9章は、ちょっと毛色の変わった一編。古文書や歴史学の研究者である著者が、なぜこれほどまでに感染症の歴史にかかわったかが語られている。岡山の高校生だった著者は、地元の岡山大学の図書館を訪ねる。ところが「高校生の利用は許可していない」と言われ、落胆していると「見学ならいいですよ」と中に入れてもらった。歴史学の書架で、どうにも気になる1冊の本を見つけ、見学だから本に触ってはいけないと葛藤しながら、そっと書架から取って中を開けてみる。それが、のちに恩師となる速水融氏の著書との出会いだったというのだ。
速水融氏といえば『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』の著者である。この本、4月頃から大型書店の目立つところに飾られていて、読もうかどうしようか、ずっと迷っていたのだが、本書を読んですぐ決心して買ってきた。たぶん新年最初の読書になると思う。やはり歴史研究から学ぶことは、驚くほど多い。
東京都の新型コロナ新規感染者数が1,337人を記録した大晦日に。来年は安全な日常が少しでも戻りますように。