見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

2014年12月@東京歳末:天才陶工 仁阿弥道八(サントリー美術館)他

2014-12-31 13:18:24 | 行ったもの(美術館・見仏)
山種美術館 特別展 没後15年記念『東山魁夷と日本の四季』(2014年11月22日~2015年2月1日)

 暮れも押し迫った12月28日(日)の東京で、まだ開いている美術館をピックアップして巡った。東山魁夷にはあまりよい印象がない。中学だか高校だかの国語の教科書の扉絵に魁夷の作品が載っていて、いかにも女性好みの叙情的な色彩、文学趣味が鼻について、好きになれなかった。まあでも行ってみたら、岳父の川崎小虎や、師にあたる川合玉堂、結城素明など、ほかの画家の作品もいろいろ見られて面白かった。

 見どころのひとつは大作『満ち来る潮』。昭和43年に皇居宮殿が新築されるにあたり、複数の日本画家が装飾壁画を制作した。山種美術館の初代館長・山崎種二は、広く一般の人々も宮殿内の壁画を知ることができるようにと、同趣の作品制作を依頼し、その結果、東山魁夷、上村松篁、橋本明治、山口蓬春、安田靫彦らの作品が同館コレクションとなった。

 魁夷の作品『朝明けの潮』は、写真説明によると、ときどきテレビに映る宮殿内の大広間(謁見などのセレモニーに使われる)の大きな階段の上にあるようだ。金銀に輝く海原に、激しい波濤に洗われながら、確固とした存在感を見せる岩礁を描く。琳派や狩野派の作品を思わせる伝統的な画題でもあり、弓なりに細長く連なる岩礁が日本列島の姿にも思われる。

渋谷区立松濤美術館 『天神万華鏡~常盤山文庫所蔵 天神コレクションより~』(2014年12月9日~2015年1月25日)

 昭和18年、鎌倉に実業家・菅原通済により創設された常盤山文庫のコレクションから天神に関係する絵画・版画などを出陳。同趣旨の展覧会はいくつか見たことがあるが、やはりこれだけ集まると興味深い。天神・菅原道真の姿は、実にさまざまな画家に描かれている。禅宗や黄檗宗の僧侶、狩野派、土佐派、琳派の画家たち、遠く中国寧波の画工たちにも。

 「渡唐天神」の図が、初期は道服に足袋という和漢折衷スタイルであったものが、中国で日本人向けの土産物として描かれるようになると、さすがに珍妙すぎるということで、沓を履くようになったというのは面白かった。それから、天神につきものの植物といえば梅だと思っていたが、古い作品では松と梅、もしくは松だけを描いた作品も多かった。

 2階は「菅原伝授手習鑑」を題材とする浮世絵が主。また「月影館コレクション」より、梅を題材にした中国の水墨画展も併設。

サントリー美術館 『天才陶工 仁阿弥道八』(2014年12月20日~2015年3月1日)

 仁阿弥道八(にんなみどうはち、1783-1855)は、京都の陶工・高橋道八家の二代目にあたり、清水五条坂を拠点に活躍した京焼の名工。知っているのは名前くらいで、あまり具体的な印象はなかったが、とりあえず展覧会に行ってみた。

 前半(4階、第1展示室)では、その「鋭い観察力と卓越した技量」を、数々の「写し」によって紹介。要するにコピー作品である。朝鮮の伊羅保茶碗の写し、青磁象嵌の写し、中国景徳鎮ふう祥瑞茶碗の写し、南蛮芋頭水指の写しなど。展示方法が面白くて、それぞれ「本物」と仁阿弥の「写し」を並べているのだが、素人には見分けがつかない。私の好きな楽茶碗も、道入の黒茶碗(銘・山里)と仁阿弥の「写し」の前で、すっかり混乱してしまった。

 「利休七種写黒茶碗」は、楽家初代・長次郎作の茶碗のうち、千利休が名作と見立てた茶碗(黒楽茶碗3種、赤楽茶碗4種)の「完コピ」である。すごい!欲しい! 調べたら、黒茶碗の「大黒」「東陽坊」(ともに個人蔵)と赤茶碗「早船」(畠山記念館蔵)しか現存していないのだな。もっとよく鑑賞してくればよかった。
  
 仁阿弥道八の作家性が発揮された作品としては、雪竹絵文の鉢が好きだ。紫陽花文の鉢もモダンで愛らしかった。このセクションでは、実際に使うなら、どんな料理を盛るかを一生懸命考えていた。色彩鮮やかな桜楓文の鉢には、大根とか蕪とか白い野菜がいいかな。雪竹絵文の鉢には、絵に逆らって、熱々の焼き物なんかどうだろう、など。

 後半(3階)は、置物、手焙、炉蓋など、おおぶりの「彫塑的作品」が大集合。とても楽しい。ポスターや公式サイトのアイコンになっている寿星(寿老人)立像や黒猫の手焙、実物を見ると、こんなに大きかったのか!とあらためて驚く。『色絵兎置物』(ボストン美術館蔵)は、色彩も動きも最小限に抑えた表現にもかかわらず、可愛い~と立ち止まる女性多し。『黒楽銀彩猫手焙』は、目を細め、肩をすくめるような猫の似姿で、火種を入れる蓋が背中についている。猫は背中を触られることが好きでないので、背中を触ろうとすると、こんな表情を見せる、という解説を読んで、きっと猫好きな学芸員さんだな、と微笑ましかった。
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2014年12月@東京歳末:祈りの道へ(多摩美大美術館)

2014-12-30 19:53:04 | 行ったもの(美術館・見仏)
多摩美術大学美術館 四国霊場開創1200年記念『祈りの道へ-四国遍路と土佐のほとけ-』(2014年11月22日~2015年1月18日)

 年末年始に東京に帰省するにあたり、行ける展覧会を探してみたら、同展は12月28日から1月6日まで休止だという。え! 27日(土)の昼過ぎ、羽田着の便を予約してあったので、多摩センターに直行。なんとか年内最終日に参観することができた。

 噂には聞いていたけれど、予想以上のクオリティ。1階2室、2階2室の計4つの展示室で構成されている。1階は考古出土品(瓦、須恵器、銅矛など)と近世以降の納経帳や納札が主で、その中に、ポツポツと仏画、仏像が混じっている。仏像は破損(というか風化)の進んだものもあるが、こんな状態でも信仰の対象になっているのだと思うと、かえって敬虔な気持ちが湧き上がる。ほかに遺跡やお遍路風景、仏像の写真が多数パネルで展示されていた。

 特に仏像の写真パネルが素晴らしかった。漆黒を背景に、本来の木肌をあらわにしつつある古仏たち。自然に還ろうとする造型と、まだ匠の意思を伝える目鼻立ちの深いのみ跡。印象的だったのは、笹野大日堂の大日如来坐像。運慶工房の系統だが、表情にあまり厳しさがなく、健やかで穏やかな笑みを感じさせる。定福寺の地蔵菩薩像は、ちょっと意地悪そうでもある、近寄りがたい不気味な表情で、ぞくぞくする。竹林寺の獅子(初代)は無人の蓮華座(光背つき)を背中に乗せ、例の満面の笑みを見せていた。撮影者の大屋孝雄さんの紹介に『観じる民芸』という書名を見つけて、あ!とのけぞった。尾久彰三さんの著書『観じる民藝』を読んで、本文以上に写真に感銘を受けたことを思い出したのだ。

 2階にあがると、2室とも仏像が中心となる。1階の写真パネルで印象的だった笹野大日堂の大日如来坐像も、定福寺の地蔵菩薩像(6躯)も、実物が来ていらっしゃるではないか! びっくり! あと歓喜寺の如来形坐像もよかった。左肩先を大きく欠いているのだが、欠損を欠損と感じさせない充実した魅力がある。何か半身を異次元に置いているような感覚である。

 個人的には、この秋、高知まで見に行った『空海の足音 四国へんろ展』より満足度が高かったかもしれない。四国で何度か見た、ヘタウマっぽい『高祖大師秘密縁起』も複数巻をじっくり見ることができて嬉しかった。
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2014クリスマスケーキ

2014-12-24 20:27:32 | 北海道生活
北海道ならではのお店のケーキが食べたい!

昨年もそう思って、デパ地下に買いに行ったら、大混雑で買い物ができなかった。そこで、今年は23日に早々と買ってきたのが、小樽の洋菓子屋さん「LeTAO(ルタオ)」のケーキ。



サイズは小ぶり、お値段高めだったけど、美味しかった。

ちなみに、今日の札幌は終日雪。仕事から帰る頃、外はこんなだった。





でも室内は、灯油ストーブのおかげで今夜も暖かい。年末帰省まで、あと2日。
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鎮魂をめぐる民俗的思考/ゴジラとナウシカ(赤坂憲雄)

2014-12-22 23:54:47 | 読んだもの(書籍)
○赤坂憲雄『ゴジラとナウシカ』 イースト・プレス 2014.8

 東日本大震災のとき、著者はしばらく言葉を失って「地下の書斎に籠って、ただパソコンの画面に目を凝らしつづけ」ていた。私は近年の著者を、山形県にある東北芸術工科大学の教員と記憶していたが、2011年1月に退職して東京に戻っていたのだそうだ。著者はパソコンの画面で『ゴジラ』とアニメ版『ナウシカ』を観た。そこから、思索の彷徨が始まる。

 まず、1954年封切りの『ゴジラ』第一作について。海底に潜んでいた太古の怪獣ゴジラが水爆実験により目を覚まし、東京を襲撃して、破壊の限りを尽くす。あらゆる生物を液化する薬品兵器オキシジェン・デストロイヤーを発明した科学者・芹沢博士は、自らの生命を犠牲にし、ゴジラとともに海に消えていく。

 ううむ、こんな話だったのか。実は、私は『ゴジラ』を全編きちんと観たことがない。太古の怪獣が水爆実験で目を覚ますという設定に、アメリカのビキニ環礁での水爆実験と第五福竜丸の被爆、さらには広島・長崎への原爆投下の記憶が影響しているという解説は、何度も聞いたことがある。ゴジラは第二次世界大戦で南の海に死んでいった兵士たちの霊魂(英霊)であるから、皇居に踏み込むことができない、という説も。

 しかし、物語の最後にゴジラを倒す(鎮める)のが、ひとりの科学者の自己犠牲であるということは、よく認識していなかった。また、ゴジラは、東京に現れる前、日本の辺境(らしい)大戸島に上陸する。島には「呉爾羅」という恐ろしい怪物(神)の伝説が伝わっていた。昔は長い時化(しけ)が続くと、若い娘を生贄として沖に流した、と島の老人は語る。なんだこの、記憶以前の記憶をゆさぶるような、甘美な前奏曲は…。科学万能時代のSF怪獣映画だと思っていた『ゴジラ』が、あまりに深く民俗的想像力に根差していることを知って、私は慌ててしまった。

 さらに著者は、柳田国男の「物言ふ魚」という論考に収められた二つの津波伝承をごろりと投げ出す。海の彼方からやってくる神。捧げられる犠牲。辺境から現れる荒ぶる存在を鎮め、向こうの世界に送り返すことは、日本人の心性の土台と結び付いている。修羅能もそのひとつ。だから、多くの作家や芸術家、三島由紀夫や岡本太郎が、怪獣映画に魅せられたのではないか。これは、俳優・佐野史郎氏との対談にて。

 それにしても『モスラ』の原作が、中村真一郎、福永武彦、堀田善衛だというのも知らなかったなあ。『ゴジラ』に比べて論じられる機会の少ない『モスラ』のあらすじについて、詳しい紹介があるのも本書の読みどころである。著者は、モスラ/ゴジラに、母性原理(女性原理ではない)/男性原理が絡み合い、補完し合う光景を見る。双子(原作では四ツ子)の小美人に斎き祀られるモスラに対して、ゴジラの孤独は深い。「それは祀られることを忘却されることで、荒ぶる『猛き獣』と化した海の神なのである」。 

 さらに「犠牲」と「技術」をめぐる問題は、宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』を経て『風の谷のナウシカ』につながる。やや安直な解決しか示し得なかった映画版『ナウシカ』を避けて、著者は漫画版『ナウシカ』に宮崎駿が込めた思いを執拗に追っていく。

 私は、1980年代、「異人」「排除」「境界」等をめぐる著者の論考の愛読者であった。『王と天皇』(筑摩書房、1988年)で、著者が『ナウシカ』を引きながら、ハタモノ(生贄)としての天皇を論じたことも、鮮やかに記憶している。こっそり言っておくと、本書を読んで、あの頃の赤坂さんが戻ってきたようで嬉しかった。

 なお、著者は佐野史郎氏との対談の中で「東北の被災地ではいま、死者の幽霊に出会ったなど怪談がたくさん語られています」と発言している。それはそうだろう、あれだけの災害だもの。けれども、まだマスコミに載せて語ることは許されていないんだろうな。何しろ著者が震災直後に文芸誌のために書いた短文も、『ゴジラ』『ナウシカ』など、アニメや怪獣映画にことよせた震災論であったため、「不謹慎」のそしりを受けて、掲載までひと悶着あったという。しかし、生者と死者の和解のためには、怪談や芸能など、民俗的思考の力を借りる必要がたぶんある。『遠野物語』には、明治29年の三陸大津波を背景とする印象的な怪談が収録されているが、東日本大震災も、同じような文芸を残すことができるだろうか。
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人類の夢と希望を担って/NASA(佐藤靖)

2014-12-20 22:24:00 | 読んだもの(書籍)
○佐藤靖『NASA:宇宙開発の60年』(中公新書) 中央公論新社 2014.6

 米国航空宇宙局(NASA, National Aeronautics and Space Administration)は1958年に発足した。その背景には、米ソの宇宙開発競争があった。1957年のスプートニク・ショックを受けて、米国は宇宙開発体制の構築に乗り出し、最終的に、航空諮問委員会(NACA)を改編し、NASAを設置することを決める。さらに軍や大学から組織・人材の提供を受け、実際の事業単位となる各センターが傘下に整備された。本書は、アポロ計画、スペースシャトル計画、国際宇宙ステーション計画という、三つの大規模な有人宇宙飛行計画を取り上げ、次いで、無人探査や宇宙科学分野の取り組みについても補足的に述べる。

 私は、上記三つの有人宇宙飛行計画がもたらした興奮を共有しながら育ってきた世代である。1969年のアポロ11号の月面着陸の夜、小学生だった私は、両親と一緒に空の月を見上げていた。スペースシャトルは、1986年の痛ましい事故の記憶が鮮烈だが、打ち上げや帰還成功の様子はテレビで何度も見た。国際宇宙ステーションは、冷戦終結を印象づけた米ソの協力が印象深い。昭和の子どもだった私にとって、「NASA」という文字は、科学技術が切り拓く未来を表す眩しいシンボルだった(だから、思わず本書を手に取ってしまったわけだ)。しかし、近年、日本の新聞やマスコミに「NASA」の文字が躍ることは、1970~80年代に比べると、はるかに減ってしまったような気がする。

 本書には、半世紀にわたるNASAの輝かしい歩みの影に、幾多の危機や失敗があったことが描かれており、その評価や対応が興味深い。アポロ計画では1967年、地上試験中に宇宙船内部で火災が発生し、3人の宇宙飛行士が脱出できずに死亡してしまう。このとき、NASAの最高責任者であるウエッブ長官は、ジョンソン大統領を説得し、事故調査をNASA内部で行うことを受け入れさせた。仮に外部調査委員会を受け入れていれば、その対応に多大の時間と労力をとられ、速やかな態勢立て直しができなかっただろうと、本書は評価する。ううむ、しかしこれはこの時代のNASAだからできたことかもしれない。

 1986年には、スペースシャトル、チャレンジャー号の空中分解事故が起きた。実は、アポロ計画終了後、NASAの組織基盤は急速に弱体化していたという。全体の予算規模は1966年をピークにその後4年間で5割減少(すさまじい!)、人員は1967年をピークに5年間で2割減少した。NASAはもともとスペースシャトルの開発費用に100~150億ドルかかると見込んでいたが、財政部局はせいぜい50~60億ドルしか確保できないという回答だった。それでもNASAは、シャトルの基本設計をあらゆる角度から再検討し、厳しいコスト制約下で実現に取り組んだ(泣ける)。

 しかし、事故は起きてしまった。原因究明にあたった委員会(ロジャーズ委員会)の報告書は、チャレンジャー号事故が「政治と技術とが関わり合うなかで発生した惨事である」ことを指摘している。当日はフロリダ州としては異例の寒さで、事故原因となった部品(Oリング)は低温環境下で機能不全を起こす可能性が懸念されていたにもかかわらず、打ち上げが強行された。背景には、NASAが議会や国民に対して、シャトルを高い頻度で打ち上げ「費用対効果」を実現すると約束していた事情がある。NASAはつねにスケジュール遵守の圧力にさらされていた。各センターや契約会社のスタッフは、何よりも「納期の遵守と費用の節減」により成功報酬を受けることができる仕組みになっており、逆に、ミッションにおいて重大でない不具合が生じた場合の罰則はなかった。「このような契約条件下では、さまざまな問題に対応するために時間とコストをかける意欲は抑えられてしまう」という指摘に、赤線を引いておこうかと思った。いま、日本の企業や公的セクターで起きている多くの問題の根本原因は、これなんじゃないかと思う。

 また、ジェット推進研究所(JPL)は、カリフォルニア工科大学の一部でもある。大学特有の個人主義的な組織文化は、NASA本部との間にしばしば摩擦を引き起こした。1960年代のレンジャー計画(無人探査機による月面突入)の相次ぐ失敗を調査した委員会は、その背景にJPLの「異常なまでの独立心の誇示」を指摘し、民間企業で普及している管理方法の導入を求めている。しかし、NASAのウェッブ長官は「それほど強硬に組織改革の断行を迫ったわけではな」く、配慮を示しながら変化を見守った。ここも大事だなあ。事故や失敗の原因には向きあい、取り除かなくてはいけないが、多様性を否定する組織は本当に強くなれないと思う。

 終章によれば、近年のNASAは、コスト削減の圧力、費用対効果と説明責任の重視の結果、集権化と官僚化が進んでいるという。いやな話だ。宇宙開発分野の象徴的な政治力は過去のものとなり、人類の未来を切り拓く科学技術分野としての見通しにも以前の輝きがなくなった現在、NASAは明瞭なミッションを失い、長期的な方向性も定まらない。それでもなお、180億ドル程度の巨額の予算を与えられているのは、多くの人々が(国境を超えて)「NASAに人類の夢を見、NASAに輝かしい組織であり続けてほしいと願っているからではないだろうか」と本書はいう。昭和の子どもであった私も、まさにそのひとりである。
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2014札幌・初吹雪続き

2014-12-19 21:22:59 | 北海道生活
「北海道は数年に一度の暴風雪」と伝えられた今週。ひどく荒れたのは道東やオホーツク沿岸部で、札幌は別の国のように静かだった。気温の上昇で、シャーベット状になった雪道は歩きにくかったが、今朝はふかふかの新雪で、道が平らになった。







師走の粉雪を踏みしめて、出勤。

忘年会シリーズはようやく一段落。やれやれ。

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2014札幌・初吹雪

2014-12-16 20:37:01 | 北海道生活
12月に入って気温が下がり、だんだん道が凍り始めたものの、衆議院選挙の12/14(日)まで、雪は少なかった。

そうしたら12/15(月)は、しんしんしんしんと一日中、律儀に雪が降り続いた。一晩明けたら、朝はこんな感じ。







最後の写真は、有形文化財の清華亭である。前日の夜は、なぜか遅くまで灯りがともっていて、美しかった。ふだんは消えているのに。


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サル・人・ゴリラ/「サル化」する人間社会(山極寿一)

2014-12-16 00:06:20 | 読んだもの(書籍)
○山極寿一『「サル化」する人間社会』(知のトレッキング叢書) 集英社インターナショナル 2014.7

 「サル化」の意味には注釈がいる。著者は、1978年からアフリカ各地でゴリラの野外研究に従事してきた。性行動や社会行動において、人はゴリラとサルの中間にあると著者は考えている。にもかかわらず、現在の人間社会は、次第にサル社会に近づいているのではないか、というのが著者の危惧である。

 少し本書を離れるが、私は、高校時代、今西錦司や伊谷純一郎、河合雅雄の本を読んで「サル学」に憧れ、京大に入って霊長類研究所で学びたいと、一時期、本気で考えていた。サルに名前をつけて個体識別するという「ジャパニーズ・メソッド」も面白かったし、ゴリラとチンパンジーの研究に多大な成果をもたらした、二人の女性科学者の存在も魅力的だった。山極寿一さんの名前を知ったのは、もう少し後だったと思うが、1991年刊行の立花隆『サル学の現在』に1章が設けられていたことは、強く印象に残っている。

 今年の夏、思わぬところで山極先生の名前を聞くことになった。10月から京都大学の学長になることが決まったというのだ。あの「ゴリラ研究」の山極先生が!と思うと、さすが京大と妙に感心し、嬉しかった。というわけで、久しぶりに読んでみたサル学(霊長類学)の本。

 冒頭では、著者がゴリラを研究するようになった理由と経緯が語られる。ゴリラの群れを「人づけ」(餌を用いず、ひたすら対象の行動を追う)しようとして、リーダーのシルバーバック(白銀の背中を持った、成熟したオス)に襲われた経験、なんとか群れに受け入れられた後、木の洞で雨宿りしていると、一匹のコドモオスが入ってきて、著者の膝の上ですやすや眠ってしまった話は、むかし、別の本でも読んだような気がした。

 このときのコドモオスのタイタスと、著者は2008年に26年ぶりの再会を果たす。はじめは著者を認識しなかったタイタスが、次第に記憶を取り戻し、表情や行動が変わっていく様子は感動的だ。著者の記述は、科学者らしい冷静さを踏み外さないが、行間には童話のような明るさと暖かさがあふれている。私が「サル学」の魅力に取りつかれたのはこういうところだ。

 「人づけ」の話でいうと、著者は、はじめ屋久島のサルの「人づけ」に挑戦し、山の中を傷だらけになりながら、サルになったつもりで駆けめぐり、サルのやることは全て一通り経験してみた。ずいぶん努力してサルになりきってみたが、最後に思ったのは「俺はサルにはなれないんだ」ということだった、という。私は爆笑してしまった。最近の文科省が必死で旗を振る「社会や産業界のニーズに応える研究」からは、見事にハズレまくった研究だ。こういう学長を戴く京大は素敵である。

 しかし、さらに読み進んでいくと「俺はサルにはなれない」という感慨には、もう少し深い意味があったことが分かる。著者はいう。サルは人間に心を開いてくれない。サルが人間に馴れ、警戒を解くことはあっても、それは人間を「無視」することでしかない。しかし、ゴリラには人間を受け入れる能力がある。観察者がゴリラの真似をしていて、間違った行動をすると、「違う、そうじゃない」ということを視線や行動で教えてくれる。「すみません」と謝って、教わったとおりに行動すると、どんどんゴリラと仲良くなっていけるのだ。

 サルは人間の気持ちを忖度しないが、ゴリラは人間の気持ちを読む名人だという。これは知能の差ではなく、サルは厳密なヒエラルキーのある社会に生きているので、立場の優劣で行動を決める。それに対して、ゴリラは優劣のない社会で暮らしているので、相手が何をしたいのか、自分が何を望まれているのかを読み取り、状況に即して行動を考える。ここまで読むと、「サル化する人間社会」というのが何を危惧しているかも、だいたい予想がつくのではないだろうか。

 著者は、サル社会とゴリラ社会、その中間にある人間社会の起源を、オスとメスの生殖活動と関係づけて説明していく。また、人間の祖先が生き残るために取った戦略(子育て、食物の獲得、分配)、その結果としての脳の発達、社会性の進化など、素人には検証のしようがない推論が続くが、一気に読むのは面白かった。

 人間社会は、社会(群れ)の中に「家族」という集団を持つ点に特徴がある。もし家族が崩壊してしまったら、人間社会はサル社会にそっくりになってしまうのではないか。サルは群れの中で序列を作り、全員でルールに従うことで、個体の利益を最大化している。サルが群れているのは、そのほうが得だからにすぎず、サルは群れから離れれば、その集団に対する愛情を示すことはない。ここは、経済性や効率性を優先する現代社会に対する厳しい批判になっていると思う。私は、「家族」のありかたは伝統的な規範に縛られなくていいと思うけれど、「家族」がもたらす安定は、とても重要なものだと思う。ひとりで生きる人間は、競争や序列を原理とする社会集団において、疲弊しやすい。

 中学生でも読める平易な文章だが、内容は深い。そして、むかしも思ったけど、やっぱり私は霊長類の中では、ゴリラがいちばん好きだなあ。
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多様な真実/帝国の慰安婦(朴裕河)

2014-12-14 03:22:11 | 読んだもの(書籍)
○朴裕河(パク・ユハ)『帝国の慰安婦:植民地支配と記憶の闘い』 朝日新聞出版 2014.11

 慰安婦問題にはずっと関心を持ってきた。私は、韓国側からの告発に対して、理性的かつ倫理的な応答に値する活動を支持してきたが、どうも深入りすると面倒くさそうな問題だなという忌避感もあった。本書を読むことで、ずいぶんいろいろなことが整理できたような気がする。

 はじめに著者は、「慰安婦問題」が発生する以前(1970年代)の文献から、朝鮮人慰安婦の証言を拾い出す。そこには、悲惨ではあるが、多様で、生き生きした(≒生々しい)慰安婦たちの姿がある。彼女たちは、必ずしも兵士の性欲処理のためだけに動員されたわけではない。「長い駐屯生活で同じ慰安婦と暮らしていると、女房みたいになってしまう」という元兵士の証言。戦闘から帰還する兵士を、着物にエプロン姿で「ゴクロウサマデシタ」と迎え、洗濯や看護にも従事し、時にはのどかに花を摘み、馬に乗せてもらい、運動会を楽しんだ思い出。著者は、国家が慰安婦に強いた最も重要な役割は、兵士を「擬似家族」として見守り、彼らを死地に送り出すことだったと説く。前述のような「地獄の中の平和」は、例外的な記憶であるだろうが、それを無視することは慰安婦の実像を歪めてしまう。

 朝鮮人慰安婦の多くは、業者に誘われたり騙されたりして故郷を離れた。慰安婦の巨大な需要を作り出し、不法な募集行為を黙認した日本軍に責任がないとは言えないが、募集に加担した民間人の責任を無視することはできない。そして、のちに慰安婦と混同される挺身隊(女子勤労挺身隊)が、女学生を対象としていたのに対し、慰安婦になった(された)のが、学校教育も受けられない、貧しい家の少女たちだったことは記憶されるべきだ。彼女たちは、男性中心の共同体(根強い家父長制)からはじき出され、最も過酷な境遇に身を落とした。

 そういう運命を背負った女性たちだったからこそ、同じように国家に身体(生命)を捧げるために動員された日本人兵士たちに、同情や憐憫を感じることもあったようだ。また、大日本帝国の中で「二番目の日本人」だった朝鮮人慰安婦は、戦場で強姦される中国人女性や、下働きのインドネシア人とは明らかに異なる位相にいた。

 「朝鮮人慰安婦」を正しく歴史の中に位置づけるには、こうした記憶の多様性、問題の複雑性を、丁寧に読み込んでいく必要がある。その過程では、できれば忘れたい、汚辱に満ちた過去にも向き合わなければならない。このことは、日本国民だけでなく(むしろ日本以上に)韓国にもあてはまる。

 けれでも、残念ながら現実は、そのように向かっていない。本書によれば、韓国の元慰安婦支援団体の中心となっている挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)は、世界各国の人権運動家を巻き込んで、日本政府に謝罪と賠償求めることに力を注いできた。しかし「日本の応答を引き出せるのは、ほかの国を集めての『圧迫』ではなく、日本と向き合うことによってである」と著者はいう。これ、日本を北朝鮮に置き換えても通りそうな一文で、苦笑してしまった。

 挺対協のよく知られた活動のひとつが、慰安婦少女像を建立する運動である。ソウルの日本大使館前に設置されたとか、日本の自称「愛国」団体が激しく反発して撤去を求めたとか聞くと、ただ眉をひそめるしかないと思っていたが、本書を読むと、慰安婦「少女」像=日本軍を告発する民族の娘というのが、そもそも冒頭で紹介したような、現実の慰安婦の証言を踏まえたものでないことが分かる。少女像は、学生らしい(処女らしい)無垢で端正なイメージに造形されているが、慰安婦の平均年齢は25歳で、日本の兵士たちより「お姉さん」だった。また、少女像はチマチョゴリを着ているが、実際の慰安婦は、日本の着物を着て、日本女性の代替となって日本軍に協力した。つまり、少女像が朝鮮人慰安婦を表していないこと、支援者の活動の中心に朝鮮人慰安婦がいないことを、著者は厳しく批判している。

 よくもこれだけ勇気ある批判を、自国の歴史に投げかけることができたものだ。実は本書は、韓国国内の慰安婦支援団体から、出版差し止めの訴えを受けている。と言って、韓国の元慰安婦支援団体と激しく対立している日本の愛国団体が喜ぶ内容でもない。どちらにしても、現実の多様性を認めず、「記憶」を一元的に支配したい人々、帝国/植民地という関係が、支配する側とされた側(協力した側)双方の地域に残した不名誉を忘却したい人々からは、激しく拒絶されるだろう。そこが本書の価値である。

 また、90年代の日本政府による謝罪と補償の取り組みについても、詳しい検証が掲載されていて、勉強になった。日本の政治家と官僚に、まだ気骨や道義心というものがあったギリギリの時代だったということが感じられた、その成果は多方面から「不徹底」という批判にさらされ、アジアの国々と深い信頼関係を築くという「村山談話」の志は、未完のままに引き継がれている。「善意や徹底性は、それ自体が目的化すると必ずしも良い結果を引き出さない」という著者の言葉を、日本人も韓国人も心に留めておきたいものである。
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「政治的平等」から「社会経済的平等」へ/〈階級〉の日本近代史(坂野潤治)

2014-12-09 23:57:03 | 読んだもの(書籍)
○坂野潤治『〈階級〉の日本近代史:政治的平等と社会的不平等』(講談社選書メチエ) 講談社 2014.11

 事前情報をつかんでいなかった坂野潤治先生の新刊を、書店で見つけてびっくり。新刊であることを確かめ、すぐ購入して、一気に読んでしまった。本書の考察の対象となる時代は、明治維新(1868)から盧溝橋事件(1937)まで。すでに著者が、何冊かの旧著で分析してきた時代である。

 はじめに「明治維新」とは何か。Wikiにいう「江戸幕府に対する倒幕運動から、明治政府による天皇親政体制の転換とそれに伴う一連の改革」というのが一般的な認識だろう。著者は明治維新を、下級武士たちによる一大社会革命と考える。これによって、まず「士(藩主、諸大名)」の特権が廃止された。

 続く「自由民権運動」の時代の主役となったのは、没落士族と農村地主だった。特に農村地主の発言力は大きく、1874年の「民撰議院設置建白書」から、民党(自由党・改進党)として衆議院を支配し、1900年に立憲政友会として政権の一部を担うに至る。農村地主を支持母体とする民党は、「地租軽減」を掲げざるを得なかった。地租軽減(減税)には「政費節減」(小さな政府)が必要である。一方、政府と与党は「富国強兵」(大きな政府)を望んでいた。この対立に解決をもたらしたのは、日清戦争(1894-95)の勝利で、多額の賠償金を獲得することにより、政府は「富国強兵」の財源を手にすることができた。さらに戦後景気で米価が高騰し、農村地主の収入が跳ね上がったため、黙っていても地租(固定税)負担は大幅軽減となった。ううむ、なんとなく2014年12月現在の経済状況がデジャブのように重なる。

 坂野先生いわく「成熟した先進国ならば、これだけ農村地主が優遇されれば、小作法案でも議会に提出して、下層農民の生活改善をはかるであろう」。「今はまずデフレからの脱却につとめ、『分配』の問題はその後で考えるという人が、後になって本当に『分配』のことを考えるだろうか」。

 その後、政治は安定し、有権者の納税資格は引き下げられたが、有権者の大半が農村地主であることに変わりはなかった。1905年(日比谷焼打ち事件)に始まる都市民衆の時代が、1925年の男子普通選挙法成立によって実現するまで20年を要している。これ、あらためて驚くなあ。関東大震災が1923年。最近の朝ドラ「ごちそうさん」や「花子とアン」は、この頃の都市に暮らす人々を明るく軽やかに描いていたが、彼らにまだ選挙権は無かったのだ。「士」の次は「農」。「工、商」はまだまだ。

 1928年、初の男子普通選挙が行われ、有権者数は約300万人から約1200万人に拡大。約310万人の労働者、約150万人の小作農、さらに約340万人の都市中間層が新たに選挙権を得た。普通選挙の提唱者である吉野作造は、「民本主義」について論じ、経済上の格差は民本主義の趣旨に反すること、普通選挙という「政治的平等」は、社会経済的格差を是正する手段であることを述べており、憲政会の幹事長(横山勝太郎)も同様の認識を示していた。

 一方、憲政会の幹部には、普通選挙制は「政治的平等」に限ったものであり、社会経済的格差の是正が議会の使命と考えない者もいた。また、選挙権を得た小作農や労働者も、大半が政友会や民政党などの既成政党に投票し、社会主義政党に投票する者はきわめて少なかった。それでも12年後の1937年4月の総選挙では、社会大衆党の大躍進が見られた。

 1937年7月に勃発した盧溝橋事件は、日中全面戦争に発展し、太平洋戦争に至る。近年の研究は、戦時下の「総動員体制」が「社会的平等(格差是正)」に果たした役割の大きさを強調する傾向にある。しかし、著者は決然として、総力戦(戦争)が「平等」をもたらしたという見解を拒否する。その理由は、1944年末から1945年初めにかけて、著者が経験した空襲の連続にあるという。こうした学術的著作に、著者の個人的体験が記されるのは異例のことだ。若い読者は失笑するかもしれないが、私はその真剣さを重く受け止めた。

 戦争及び独裁の下で、社会経済的格差が縮小したことは事実である。私たちは「同時に起こったことには、必然的な因果関係があると思いがち」であり、「格差」がひどくなると「戦争」や「独裁」を求めたくなる。しかし、明治維新以来、「士」→「農」→「商」→「工」の順に広がってきたデモクラシーは、日中戦争直前、ついに社会の下層まで届いていたのである。それを「総力戦」のおかげ、「国家総動員法」のおかげ、無条件降伏のおかげと思い込むのは、単なる目の錯覚に過ぎない。この厳しい断言に、私は政治学者の責任と矜持を感じた。

 山口二郎先生との対談『歴史を繰り返すな』と併読すると、著者が私たちに語りたかったことは、より明瞭である。「歴史に学ぶ」とはどういうことか、現在の政治状況の見方を、過去の歴史からどのように借りてくるべきか、よく分かる本である。
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