○角岡伸彦『はじめての問題』(文春新書) 文藝春秋 2005.11
東京育ちの私は、問題というのを実感したことがない。たまに関西に遊びに行くと「差別はやめよう」みたいな標語が街に大きく貼り出してあって、ああ、そんな問題があったなあ、と思い出すくらいだ。
ところが、先日読んだ『近代国家の出発』(中公文庫)の中に、八王子郊外にあった被差別の話が出てきた。民として生まれた山上卓樹(作太郎)は、キリスト教に入信して人間の自覚に達し、村に教会堂を建設した。その聖瑪利亜(サンタマリア)教会堂は、今も元八王子に残っているという。これは、ちょっとしたショックだった。
というわけで、書店でこの本を見つけ、ふらふらと手に取って、読み始めてしまった。すると、北海道・東北および(なぜか)石川県を除く都道府県には、地区(これは官庁用語で被差別のこと)が存在するのだそうだ。そして、私が奇妙に感じたのは、「誰が民か?」という問いに対して、血縁よりも地縁で判断する、と答えた人が多かったことだ。つまり、(地区)に住んでいる者、で生まれた者、に本籍地を持つ者などは「民」と判断されるのである。
これは、都市部以外では住民の定着性が高いこと、転出入する場合も、親戚がいるとか同じ職業集団がいるとか、何らかの同質性があって、行き先を選んでいること、地区は地価や物価が安く、貧困層が集まりやすいことなどを背景としているのだろう。
2002年まで実施されていた同和対策関連事業では(一部の地域を除き)、元来の民と転入者とを区別せず、さまざまな「特典」が与えられていた。本書の著者は出身者であるが、失業保険を貰いに行ったら、通常は3ヶ月給付のところ、8ヶ月貰えることが分かり、しかも民であることの証明も求められなかったので、「こんないい加減でええんかいな」と思った体験を記している。
地価や物価が安い上に、そんな優遇措置まであるのなら、私も地区に住居を移してみようかしら、と思わないでもなかった。しかし、今なお厳しい社会的差別も行われている。いちばん切実なのは、結婚と就職に関する差別である。差別をする側には、「民はどこかが我々と違っている」という思い込みがある。それが「どこ」なのかは、本人も分かっていない。しかし、民との結婚は、「血」を汚す行為であり、「家」を裏切ることである。「普通」の人のすることではない。
馬鹿馬鹿しい。だが、論理的に論破できない思い込みだからこそ、払拭するのは困難なのだと思う。初めに「普通」でありたい願望があり、それゆえ「どこか違っている人々」が招来されるのだ。先だって読んだ速水敏彦さんの『他人を見下す若者たち』(講談社現代新書 2006.2)は、自分を「オンリーワン」と見なしたがる若者の悪弊を論じていた。「普通」でありたい、汚れた者・異質な者と指差されたくないという気持ちは、逆向きのようでいて、実は同じ根を持つ病理なのではないかと思う。
就職問題については、究極の就職差別とも言うべき麻生太郎の発言を、いま一度思い出しておきたい。本書にも引用されている『野中広務:差別と権力』(講談社 2004.6)の1シーンは、読んだとき、衝撃的だった。
なお、私は著者に倣って「」を使っているが、この言葉、マスコミではデリケートな扱いらしい。ただし「被差別」に言い換えればOKである(変なの)。余談だが、最近、台湾では「Blog」を「部落格」と表記する。本書の著者ならおもしろがって「民部落格」を始めてくれそうだが。
東京育ちの私は、問題というのを実感したことがない。たまに関西に遊びに行くと「差別はやめよう」みたいな標語が街に大きく貼り出してあって、ああ、そんな問題があったなあ、と思い出すくらいだ。
ところが、先日読んだ『近代国家の出発』(中公文庫)の中に、八王子郊外にあった被差別の話が出てきた。民として生まれた山上卓樹(作太郎)は、キリスト教に入信して人間の自覚に達し、村に教会堂を建設した。その聖瑪利亜(サンタマリア)教会堂は、今も元八王子に残っているという。これは、ちょっとしたショックだった。
というわけで、書店でこの本を見つけ、ふらふらと手に取って、読み始めてしまった。すると、北海道・東北および(なぜか)石川県を除く都道府県には、地区(これは官庁用語で被差別のこと)が存在するのだそうだ。そして、私が奇妙に感じたのは、「誰が民か?」という問いに対して、血縁よりも地縁で判断する、と答えた人が多かったことだ。つまり、(地区)に住んでいる者、で生まれた者、に本籍地を持つ者などは「民」と判断されるのである。
これは、都市部以外では住民の定着性が高いこと、転出入する場合も、親戚がいるとか同じ職業集団がいるとか、何らかの同質性があって、行き先を選んでいること、地区は地価や物価が安く、貧困層が集まりやすいことなどを背景としているのだろう。
2002年まで実施されていた同和対策関連事業では(一部の地域を除き)、元来の民と転入者とを区別せず、さまざまな「特典」が与えられていた。本書の著者は出身者であるが、失業保険を貰いに行ったら、通常は3ヶ月給付のところ、8ヶ月貰えることが分かり、しかも民であることの証明も求められなかったので、「こんないい加減でええんかいな」と思った体験を記している。
地価や物価が安い上に、そんな優遇措置まであるのなら、私も地区に住居を移してみようかしら、と思わないでもなかった。しかし、今なお厳しい社会的差別も行われている。いちばん切実なのは、結婚と就職に関する差別である。差別をする側には、「民はどこかが我々と違っている」という思い込みがある。それが「どこ」なのかは、本人も分かっていない。しかし、民との結婚は、「血」を汚す行為であり、「家」を裏切ることである。「普通」の人のすることではない。
馬鹿馬鹿しい。だが、論理的に論破できない思い込みだからこそ、払拭するのは困難なのだと思う。初めに「普通」でありたい願望があり、それゆえ「どこか違っている人々」が招来されるのだ。先だって読んだ速水敏彦さんの『他人を見下す若者たち』(講談社現代新書 2006.2)は、自分を「オンリーワン」と見なしたがる若者の悪弊を論じていた。「普通」でありたい、汚れた者・異質な者と指差されたくないという気持ちは、逆向きのようでいて、実は同じ根を持つ病理なのではないかと思う。
就職問題については、究極の就職差別とも言うべき麻生太郎の発言を、いま一度思い出しておきたい。本書にも引用されている『野中広務:差別と権力』(講談社 2004.6)の1シーンは、読んだとき、衝撃的だった。
なお、私は著者に倣って「」を使っているが、この言葉、マスコミではデリケートな扱いらしい。ただし「被差別」に言い換えればOKである(変なの)。余談だが、最近、台湾では「Blog」を「部落格」と表記する。本書の著者ならおもしろがって「民部落格」を始めてくれそうだが。