○国立劇場 平成26年9月文楽公演(2014年9月22日)
・第2部(16:00~)『近江源氏先陣館(おうみげんじせんじんやかた)・和田兵衛上使の段/盛綱陣屋の段』『日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)・渡し場の段』
飛び石連休の谷間が、なぜか千秋楽に当たっていた。まず、久しぶりの『近江源氏先陣館』。これは思い出深い演目である。高校生のとき、鑑賞教室で見せられた『塩原多助一代記』があまりにつまらなかったので、もう二度と見ない、と思っていた文楽公演に、大学の友人から誘われた。日本文学を学びに来ている留学生が文楽を見たがっている、というのが発端だった。しぶしぶ着いていったのが、この『近江源氏先陣館』で、あれ?思いのほかに面白い、と素直に考えをあらためた。その結果が、30年後の今日に至っているのである。
近江源氏はすなわち佐々木氏。鎌倉方(北条時政)と京方(源頼家)に分かれて戦うことになった佐々木盛綱と高綱の兄弟。盛綱の陣屋に高綱の首級が届けられ、首実検にかけられる。直前の戦いで、盛綱のもとに生け捕られていた高綱一子・小四郎は、父の首級を見ると、悲しみのあまり、後を追って切腹をはかるが、実はそれは、偽首を本物と思わせるための、命を賭けた謀りごとだった。こう書くと、封建社会のグロテスクな孝行譚みたいだが、観客を唸らせるドンデン返しの連続で、トリッキーな智謀比べにカラッとした明るい印象が残る。盛綱、高綱のモデルが、真田信之、幸村兄弟だという解説を読んで、あらためて納得。そして和田兵衛が後藤又兵衛なのか、なるほど。
盛綱、高綱の母・微妙(みみょう)が非常に重要な役どころ。久しぶりに文雀さんの活躍を見ることができて、嬉しかった。熱演がオモテに出すぎる中堅世代に比べて、相変わらずひょうひょうと無表情なところが好きだ。
『日高川入相花』も、以前、一度くらい見ていると思うのだが、こんな派手な芝居だとは記憶していなかった。ストーリーは至極単純なのだが、清姫の変身ぶりがすごい。大胆無類。『道成寺縁起絵巻』に、半ば蛇身に変身しかかった姿で、荒波を掻き分け、川を這い渡っていく清姫の図があるが、その図柄のままである。うう、怖い。でも、不思議な爽快感がある。
・第3部(19:00~)〔新作文楽〕『不破留寿之太夫(ふぁるすのたいふ)』
シェイクスピアの「ヘンリー四世」「ウィンザーの陽気な女房たち」に基づく新作文楽。鶴澤清治=監修・作曲、河合祥一郎=脚本、石井みつる=装置・美術。見る前から、いろいろ噂は聞いていたが、幕が開いたとたん、その斬新な舞台美術に引き込まれてしまった。文楽の舞台は、手前も奥も「水平線」の積み重ねがお約束だが、あえて「半円弧」を取り込んだ背景が、何よりも新鮮だった。
登場人物の人形も新作。ファルスタッフ、いや不破留寿之太夫、いい感じに脂ぎったおじさんに仕上がっていた。衣装がまた、無国籍で素敵。遣っていたのは桐竹勘十郎さん。脚本は、耳で聴いて分かる文章と語りを目指したということで、敢えての字幕なし。確かに、チャリ場ふうの、テンポのいい対話がずっと続くので、字幕は要らなかった。会場には自然な笑いが繰り返し湧いていた。外国人のお客さんも食い入るように舞台を見ていたので、海外公演の一演目にしてもいいと思う。
ここまで伝統文楽を離れてしまうと、これは文楽じゃない、と感じるファンもあるだろうが、私は、鶴澤清治さんの「僕は現代のお客さんに喜んでいただけるものを一つでも多く作りたい。『こういうのも面白いね』と、お客さんの選択肢の中に加えていただけたら幸いですね」という言葉に感銘を受けた。技芸員の皆さんが「これも文楽だ」というなら、信じてついていく。2009年に見た『天変斯止嵐后晴(てんぺすとあらしのちはれ)』も面白かったし、2010年には、三島由紀夫の新作戯曲による『鰯売恋曳網(いわしうりこいのひきあみ)』も見た。つくづく文楽って、果敢に攻める芸術だなあ、と思っている。
中途半端に反戦思想っぽいセリフが入るところが気に入らない、という感想も読んだ。このへんは、シェイクスピアの原作に忠実なのか、文楽にするときに付け加えたのか、原作を読んでいない私は何も言わないことにしたい。ただ、石母田正さんが「平家物語」について、一見、無常観や宿命観に基づくように見せながら、この作者は、人間の営みが面白くてたまらないのである、と喝破していることを忘れないようにしたい。シェイクスピアも(この作品も)、最後に分別くさい教訓がついているからといって、それが作者の最も言いたかったことと考える必要はないと思う。
そして私は、オペラではヴェルディが大好きなのだが、不勉強にも「ファルスタッフ」を全曲聴いたことがないのである。まだまだ未開拓の分野があるなあ。長生きしないと。
・第2部(16:00~)『近江源氏先陣館(おうみげんじせんじんやかた)・和田兵衛上使の段/盛綱陣屋の段』『日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)・渡し場の段』
飛び石連休の谷間が、なぜか千秋楽に当たっていた。まず、久しぶりの『近江源氏先陣館』。これは思い出深い演目である。高校生のとき、鑑賞教室で見せられた『塩原多助一代記』があまりにつまらなかったので、もう二度と見ない、と思っていた文楽公演に、大学の友人から誘われた。日本文学を学びに来ている留学生が文楽を見たがっている、というのが発端だった。しぶしぶ着いていったのが、この『近江源氏先陣館』で、あれ?思いのほかに面白い、と素直に考えをあらためた。その結果が、30年後の今日に至っているのである。
近江源氏はすなわち佐々木氏。鎌倉方(北条時政)と京方(源頼家)に分かれて戦うことになった佐々木盛綱と高綱の兄弟。盛綱の陣屋に高綱の首級が届けられ、首実検にかけられる。直前の戦いで、盛綱のもとに生け捕られていた高綱一子・小四郎は、父の首級を見ると、悲しみのあまり、後を追って切腹をはかるが、実はそれは、偽首を本物と思わせるための、命を賭けた謀りごとだった。こう書くと、封建社会のグロテスクな孝行譚みたいだが、観客を唸らせるドンデン返しの連続で、トリッキーな智謀比べにカラッとした明るい印象が残る。盛綱、高綱のモデルが、真田信之、幸村兄弟だという解説を読んで、あらためて納得。そして和田兵衛が後藤又兵衛なのか、なるほど。
盛綱、高綱の母・微妙(みみょう)が非常に重要な役どころ。久しぶりに文雀さんの活躍を見ることができて、嬉しかった。熱演がオモテに出すぎる中堅世代に比べて、相変わらずひょうひょうと無表情なところが好きだ。
『日高川入相花』も、以前、一度くらい見ていると思うのだが、こんな派手な芝居だとは記憶していなかった。ストーリーは至極単純なのだが、清姫の変身ぶりがすごい。大胆無類。『道成寺縁起絵巻』に、半ば蛇身に変身しかかった姿で、荒波を掻き分け、川を這い渡っていく清姫の図があるが、その図柄のままである。うう、怖い。でも、不思議な爽快感がある。
・第3部(19:00~)〔新作文楽〕『不破留寿之太夫(ふぁるすのたいふ)』
シェイクスピアの「ヘンリー四世」「ウィンザーの陽気な女房たち」に基づく新作文楽。鶴澤清治=監修・作曲、河合祥一郎=脚本、石井みつる=装置・美術。見る前から、いろいろ噂は聞いていたが、幕が開いたとたん、その斬新な舞台美術に引き込まれてしまった。文楽の舞台は、手前も奥も「水平線」の積み重ねがお約束だが、あえて「半円弧」を取り込んだ背景が、何よりも新鮮だった。
登場人物の人形も新作。ファルスタッフ、いや不破留寿之太夫、いい感じに脂ぎったおじさんに仕上がっていた。衣装がまた、無国籍で素敵。遣っていたのは桐竹勘十郎さん。脚本は、耳で聴いて分かる文章と語りを目指したということで、敢えての字幕なし。確かに、チャリ場ふうの、テンポのいい対話がずっと続くので、字幕は要らなかった。会場には自然な笑いが繰り返し湧いていた。外国人のお客さんも食い入るように舞台を見ていたので、海外公演の一演目にしてもいいと思う。
ここまで伝統文楽を離れてしまうと、これは文楽じゃない、と感じるファンもあるだろうが、私は、鶴澤清治さんの「僕は現代のお客さんに喜んでいただけるものを一つでも多く作りたい。『こういうのも面白いね』と、お客さんの選択肢の中に加えていただけたら幸いですね」という言葉に感銘を受けた。技芸員の皆さんが「これも文楽だ」というなら、信じてついていく。2009年に見た『天変斯止嵐后晴(てんぺすとあらしのちはれ)』も面白かったし、2010年には、三島由紀夫の新作戯曲による『鰯売恋曳網(いわしうりこいのひきあみ)』も見た。つくづく文楽って、果敢に攻める芸術だなあ、と思っている。
中途半端に反戦思想っぽいセリフが入るところが気に入らない、という感想も読んだ。このへんは、シェイクスピアの原作に忠実なのか、文楽にするときに付け加えたのか、原作を読んでいない私は何も言わないことにしたい。ただ、石母田正さんが「平家物語」について、一見、無常観や宿命観に基づくように見せながら、この作者は、人間の営みが面白くてたまらないのである、と喝破していることを忘れないようにしたい。シェイクスピアも(この作品も)、最後に分別くさい教訓がついているからといって、それが作者の最も言いたかったことと考える必要はないと思う。
そして私は、オペラではヴェルディが大好きなのだが、不勉強にも「ファルスタッフ」を全曲聴いたことがないのである。まだまだ未開拓の分野があるなあ。長生きしないと。