見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

新たな空也上人像/遊行寺の什宝(遊行寺宝物館)

2010-02-22 22:35:17 | 行ったもの(美術館・見仏)
遊行寺宝物館 特別展『遊行寺の什宝-伝えられた仏教美術の優品-』(平成22年1月1日~2月15日)

 風邪をひく前の週末の話である。久しぶりに神奈川県藤沢市の時宗総本山、遊行寺(清浄光寺)に行ってきた。紅梅、白梅、さらに早咲きのサクラまでが咲きこぼれる境内。無人の本堂では、色彩鮮やかな『大涅槃図』を公開中。

 宝物館の2階では、かの有名な『後醍醐天皇御像』(南北朝時代)が公開されていた。肖像の上部には、左から「春日大明神」「天照皇大神」「八幡大菩薩」という三神の名号を書いた長方形の別紙が貼り付けられている。解説によれば、これは「三社託宣」(→参考:西野神社)の思想に基づき、室町時代になって貼られたものと推測されているそうだ。ところが、同図の模本(江戸時代)では、なぜか「春日大明神」と「八幡大菩薩」が左右入れ違っている。理由は「調査中」だそうだが、ちょっと気になる。この模本は、今回初めて展示されたものだそうだ。

 古い絵画資料には、熊野信仰にかかわるものが多いように見受けた。熊野って、さまざまなバリエーションの"遊行する信仰者"を包み込む聖地だったのかな…なんてことを漠然と思った。『熊野垂迹西国三十三観音像』(室町時代)は、最上段に熊野三神を表わす三貴人を描き、その下に三十三観音像を配した珍しいもの。でも、第一番那智山(青岸渡寺)、第三番の粉河寺はともかく、第二番の寺号は「清見寺」と読める。これは静岡県静岡市の清見寺(清見興国禅寺)のことだろうか? 謎が尽きないなあ。

 最後に入口に戻り、初公開の『木造空也上人立像』にあらためて向き合う。遊行寺什宝の調査によって新たに発見され、解体修復のあと、展示に至ったものだ。京都・六波羅蜜寺の空也上人像と同様に、半開きの口からは、南無阿弥陀仏の六字を表す六体の仏像がハリガネにつながって浮かんでいる。六波羅蜜寺の御像(康勝作)が座高117cmなのに比べると、こちらは48cmだから、かなり寸詰まりな印象。しかし、小さいながらも玉眼。眉間や額のしわが目立ち、苦痛に顔を歪ませているようで、怖いような、その分、滑稽な表情をしている。鹿杖、鹿皮の帯(足の部分を体の前で結ぶ)、金鼓、撞木などのアイテムはそっくりだった。

 Wikiによれば、空也の彫像は、六波羅蜜寺のほか、月輪寺(京都市)、浄土寺(松山市)、荘厳寺(近江八幡市)所蔵が代表的であるそうだ。関東地方では初の発見だったりするのだろうか。まとめて比べてみてみたいなあと思った。

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ミュージアムの存在意義/芸術の生まれる場(木下直之)

2010-02-20 23:28:44 | 読んだもの(書籍)
○木下直之編『芸術の生まれる場』(未来を拓く人文・社会科学16) 東信堂 2009.3

 画家がアトリエで絵を描き上げても、それは「芸術」にはならない。芸術の誕生には、それに立ち会う人が必要である、と著者は考える。制作者には、少々納得のいかない定義かもしれない。主に鑑賞者である私は、なるほど、と思う。ミュージアムは、不特定多数の人々に開かれ、見ることに特化した展示施設であるという点で、特徴的な「芸術の生まれる場」である。

 本書には、ミュージアム論を中心に、文化ホールや劇場、文化政策論を交えながら、多数の書き手による、比較的短い文章(10ページくらい)が並んでいる。もっと短いコラムも数編。何かのプロジェクトの研究成果らしいが、何だか分らなかった。書店が付けてくれたカバーをぺろっと剥いでみて、帯の上に「日本学術振興会 人社プロジェクトの成果」という文字を見つけた。平成15年度から20年度まで行われた「人文・社会科学振興プロジェクト研究事業」のことであるそうだ。

 面白いと思った小ネタをいくつか挙げよう。西洋には「ミュージアム」という基礎概念があって、その一部に「ミュージアム・オブ・アート/アート・ミュージアム=美術館」がある。ただし、西洋でいう「アート」とは彼らの(ヨーロッパ諸国の)美術のことであり、非西洋圏の「アート」は博物館標本と境を接している。だから、日本や東洋美術の所蔵を主とする東京国立博物館は「アート・ミュージアム」を名乗らない(名乗れない)のか? それはちょっと、西洋人の顔色をうかがいすぎじゃない? 日本は、明治5年(1872)に国立博物館をつくっておきながら、最初の国立劇場の開館が昭和41年(1966)と極端に遅い。この美術偏重>演劇軽視の傾向は、去年の「事業仕分け」にも影響していなかったかなあ。

 最も興味深かったのは、金子啓明氏、小林真理氏、木下直之氏による鼎談。2008年11月21日、東大の文化資源学研究室にてとあるから、非公開で行われたものだろうか。同年の春から夏にかけて、東博に79万6千人を集めた『国宝 薬師寺展』が話題となっている。当初の入場者予想は40万人だったそうだ。「最初は、NHKの事業局から薬師寺の展覧会についての相談がありました」という金子啓明氏の証言を丹念に読んでいくと、特別展の企画って(一例だろうけど)こんなふうに決まっていくのか、ということが、"プロジェクトX"みたいに分かって面白い。

 「(仏像には)いろいろな見方があってよいのだと思いますよ」「博物館で一生懸命お像を見た人は、いずれもみんな御像と関係が結ばれた」「博物館にはそういう役割があってよいのだと思います」というのは金子氏の言葉。木下直之氏は「私はへそ曲がりですから、薬師寺展会場でこれこそ日本を代表するすばらしい彫刻だと示されると、逆にこの場でお経の一つぐらいは上げて、この仏像を伝えてきた人たちとつながりたいなと思い」、その体験をきっかけに般若心経を覚え、いまは毎朝写経をされているそうだ。この鼎談の半年後、『国宝 阿修羅展』の入場者数(東京会場)が94万人を超えるわけだが…木下先生は阿修羅像の前で般若心経をを唱えられたのだろうか。

 国立博物館が独立行政法人化して以来の「試行錯誤」も率直に語られていて、非常に興味深い。一時期「営業開発部」を置いたが、また戻したとか、「衛視(ガードマン)」が「お客様サービス係」という名称になったとか。なりふり構わない奮闘ぶりは、いさぎよくて見事だと思う。そもそも博物館は、民間でも経営できる可能性がある(80万人も集めちゃうんだし)。しかし、だから民間に任せるという発想ではなくて「国の方針として、国民生活に国立博物館・美術館が必要であるという政策判断をするのが(文部科学大臣として)先決ではないでしょうか」という金子氏の言葉に全面的に賛成したい。

 各章末の読書案内も読み得感あり。
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風邪を引いたらしい

2010-02-17 21:12:38 | 日常生活
月曜から風邪を引いたらしい。職場に出勤はしているものの、帰ると布団にくるまって震えていた。熱のせいで。

もうほとんどいいのだが、めったにないことなので、いい機会と思って、ブログの更新もサボってだらけている。また近々復活します。



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春節元旦、新年好!(横浜中華街)

2010-02-14 22:09:28 | なごみ写真帖
昨日(2/13)は旧暦2009年の大晦日、そして、今日2/14は旧暦2010年の元旦である。こんなにうまく週末に重なることは、めったにないので、ぜひ中華街でのカウントダウンに参加してみたいと思っていた。

ところが、3日前くらいに旅行情報サイトを覗いたら、中華街周辺の格安ホテルはどこも満室。カプセルホテルと超高級ホテルしか残っていない。しかたないので、カウントダウンはあきらめ、今日は朝から初詣に行ってきた。

関帝廟は、10:00の開門から、中国人ばかり(若い女性多し)が列を作っていた。私は、この春、人事異動の節目を控えている(はず)なので、けっこう真剣に開運祈願する。関羽にも、意に反して曹操に囚われた不遇時代があったはずだし…。



続いて、天后廟(媽祖廟)。こちらは日本人の観光客のほうが多い。媽祖像は、巡行用のお神輿に載せられていて、この下をくぐると厄落としになるという。



では、今年は、いい1年になりますように。
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楽しみも悲しみも/近代数寄者の名茶会三十選(熊倉功夫)

2010-02-13 15:38:30 | 読んだもの(書籍)
○熊倉功夫編『近代数寄者の名茶会三十選』 淡交社 2004.12

 茶の湯といえば、女性のたしなみ、というのが、最近までの私の理解だった。実業家(茶人)の興した美術館をまわるようになって、むかしは男性の趣味だったんだなあ、と分かってきたが、彼らについても「女性的」なイメージが抜けなかった。それが、昨年暮れ、根津美術館の『根津青山の茶の湯』展で、根津嘉一郎(青山=せいざん)が、信楽の大壺を口を欠いて花を活けた「壺割り茶会」のエピソードを知って、呆気にとられた。これはすごい、詳しいことが知りたい、と思って、いろいろ探しているうちに、本書を見つけたのである。

 本書は、明治43年(1910)から昭和13年(1938)に至る、三十の名茶会を紹介したものだ。それぞれ冒頭に、編者の熊倉功夫さんによる短い解説がつき、あとは当時の「茶会記」の文章がそのまま採録されている。「茶会記」というのは、文字どおり、茶会の記録(ルポルタージュ)である。戦前は、筆の立つ茶人が、自分の茶会や招かれた茶会のルポルタージュを新聞などに連載し、それを楽しみにしている読者層がいた。本書に最も多く収録された高橋箒庵(そうあん)は、代表的な茶会記ライターのひとりである(→参考:起業事始)。

 収録されているのは、明治40年代の茶会が4件、大正年間が17件、昭和年間が8件である。「近代数寄者(すきしゃ)の精神」というものが、最ものびのびと発展を遂げたのは大正年間と言っていいだろう。ちなみに、明治以来、文語体(~なり、べし)を使ってきた高橋箒庵の茶会記が、言文一致体(であった、思われた)に替わるのは大正年間の途中で、国語史的にも面白いと思った。

 「壺割り茶会」の裏話は無類に面白い。無傷の壺を割ったほうがいいと根津青山に進言したのは箒庵で、壺割りを命じられた川部太郎と八田円斎は、主人の帰宅を待たず仕事に取りかかったが、気が変わって帰ってきた根津はひどく機嫌を損じたそうだ(当日、益田鈍翁に褒めちぎられて悦に入る)。これは、近代茶人が、情熱的に芸術を愛し、単なるコレクターでなく、新たな芸術の創造者を以て任じていたこを示す逸話である。また、益田鈍翁の茶会で、水指のフタを割ってしまった岩崎謙庵が、おわびのために開いた「長恨茶会」、同じく岩崎謙庵が、口禍事件のあとで「物いえば唇寒し秋の風」の芭蕉の書状を掛けておこなった茶会などは、気の置けない仲間どうし、無邪気な交流に興ずるオジサンたちの姿が微笑ましい。

 しかし、最も心に残るのは、死者を弔うために行われた茶会の記録である。乃木大将を追悼して、元軍医総監・石黒忠悳(况翁、このひとも茶人だったのか!)では、敵弾二個を寄せ合わせた茶入や、况翁自ら旅順で買い求めた赤茶碗が用いられた。原三渓が早世した嫡男の冥福を祈って催した蓮華飯供養会の、悲しみに満ちた清冽さ。掛け物は「源頼朝筆日課観音」とあるが、これは実朝筆のまちがいだろう。先だって三渓園の特別展で見たものだ。大坂の大道具商・戸田露朝を弔う追善茶会は、益田鈍翁邸で開かれ、京都・東京・名古屋の道具商が、希世の名物を持ち寄った壮観なもの。そもそも露朝の臨終の狂歌・狂句が「十露盤(そろばん)のたまにうまれし人の世につまり八八の六十四年」「大笑ひハッハ六十四出の旅」という大往生だから、座談もはずみ、人々の心に残る、雅味ある盛挙であったことだろう。最近、いくつかの葬儀に参列する機会があったのだが、型の決まった仏式の法要より、こういう追善茶会をやってもらえたらいいなあ。友人にたのんでおこうかしら。

 茶会記を読んで、学ぶところが多いのは、茶道具の描出である。私は展覧会ブログを書きながら、ほとんど画像を貼らないのは、「視覚的な美しさを言葉で表わす」苦心を、敢えて楽しむためなのであるが…。たとえば、住友家の井戸茶碗、銘「六地蔵」を描写して、「薄枇杷色に青釉(あおぐすり)のナダレ具合、さきに赤星家入札に出でたる井戸茶碗忘水に類似し、彼の比較的無景なのに引き替え、これは内外ともに青釉ナダレ麗しく、いわゆる椎茸高台にて、竹の節は見えざらねども、高台縁に土を見せて、その内カイラギすこぶる見事に、外部は轆轤目浅くめぐり、例の枇杷色ならびに青色混成の景色面白きこと言わん方なく、内部もまた青釉あり」云々。こうやって、近づき、遠ざかり、内から外から、また上から下から、多様な視点で描き出された茶碗の姿は、1枚の画像にはるかにまさる情報量を持っていると思う。精進しよう。
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おもてなし心横溢/懐石のうつわ(畠山記念館)

2010-02-11 23:53:38 | 行ったもの(美術館・見仏)
畠山記念館 冬季展 開館45周年記念『懐石のうつわ-向付と鉢を中心に-』(2010年1月23日~3月22日)

 私は「茶道」と言えば、お茶を立てて飲むことだと思っていたので、その前に供される「懐石(料理)」もお茶の一部であり、亭主の心遣いの見せどころであるということは、五島美術館の『向付(むこうづけ)』や根津美術館の『陶磁器ふたつの愉楽』など、最近の展覧会で、ようやく理解したところである。

 しかし、懐石のうつわだけで、そんなに面白い展覧会になるかなあ、と思っていたが、意外と面白かった。最初に目に入ったのは、チラシにもなっている『織部手鉢』。四角い手付鉢で、最も織部らしい、銹絵と緑釉の組み合わせの意匠である。写真の印象よりも大ぶりなうつわで、大胆で清新、現代人が創ったようなデザインだ。盛られた料理を取りあっているうちに、底の模様がだんだん見えてくる、という解説を読んで、なるほどと思った。モダンといえば、仁清の『水玉透鉢』もすごい。穴だらけなのである。中に盛るものは亭主の智恵の見せどころ、とはいうけれど…。

 乾山の『色絵絵替り土器皿』(~2/18展示)は、畠山記念館でも指折りの逸品だと思うが、畠山即翁が非常に大切にしていた品で、あるときは向付のうつわに使ったが、ずっと出しておくのも心配で、客が食べ終わるやさっと下げて代わりのうつわに交換したそうだ。今回の展覧会、このように実際に使用したときのエピソードや、料理を盛ってみた写真(美味そう~!)が添えられているのが、とても楽しい。ところで、私がこの乾山の色絵絵替り皿を使うなら、色のぶつからないものがいいと思うので、白一色の薯蕷饅頭か羽二重餅を選びたいと思う。どうかしら?

 その隣りには、畠山即翁の『来客日記』が展示されていた。茶会の記録帳である。横長の大幅帳みたいなスタイルで、茶色のインクで印刷された見出しの下に、日時・場所・来客者名・献立・道具などが墨筆で記入されている(→参考:石川県立美術館「美術館だより」第236号/2003)。展示箇所は、昭和26年1月7日の記録で、これを「可能な限り再現した」懐石のうつわが、通路を挟んだ大きい展示ケースに並んでいる。うーん、着想は面白いのだが、ちょっと分かりにくかった。墨書が判読しにくいのと、完全な再現にはなっていないためだ。「懐石 飯椀 真小丸」「向付 鯛こぶ〆 うつわ 祥瑞開扇(?)きせと皿 交互ニ」とあり、確かに再現展示は『真塗小丸懐石椀』に『黄瀬戸輪花平向付』。でも「焼物 まながつほ 福ノ字呉寿鉢 青赤二枚(?)」と読めたように思ったが、再現展示では『呉須赤絵金花鳥鉢』になっていた。このへん、該当のうつわは散逸しちゃったのかなあ。ちなみに、非常に興味深かった『来客日記』だが、1階ロビーに縮刷複製品が展示されていて、自由に手に取って見ることができる。実はミュージアムショップの売りものなのだ(35,000円)。ぱらぱらめくってみたら、益田孝とか田中親美とか、いろいろ有名人の名前が散見される。実は、最近、茶会記なるものを読み始めたところでもあり(感想はいずれまた)、非常に興味深かった。国会図書館のOPACやNACSIS Webcatを探してみたが、残念ながら、どこにも所蔵がなかった。買っておけよ~日本の図書館。

 さて、2階の展示室だが、私が今回の白眉だと思ったのは、いちばん奥の展示ケースの乾山作『色絵牡丹文四方皿』→同『銹絵染付絵替り四方向付』→楽道入作『柚子味噌皿』の3点の並び。『牡丹文四方皿』は、緑釉に黄の縁取り線で描かれた深紅の牡丹が重厚で見事。惜しむらくは、真上から覗き込みたいのに、展示台が高すぎて、それができないこと。隣りの『銹絵染付』は側面が見どころなので、ちょうどいいのだけど。磁州窯っぽくて、もっとモダン。それぞれに漢詩句(?)が書かれているのが気になる。その隣りの赤楽焼の『柚子味噌皿』は、一度見たら忘れられない、乱暴力というか、縄文力というか…道入(ノンコウ)って、こんな皿もつくるんだ、とびっくりした。

 絵画作品は2/20から展示替え。現在は、新春にふさわしく、おめでたい作品を揃えており、後半は、本格的な春を迎える作品に替わるようだ。こんなところにも、茶の湯の精神である「おもてなし」の心が生きているように思われて、最後に、1階ロビーの大きな木彫りの即翁像(平櫛田中作)に「今日はありがとうございました」と挨拶して帰りたくなる。
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NHK大河ドラマ『龍馬伝』序盤好調

2010-02-07 22:34:44 | 見たもの(Webサイト・TV)
NHK大河ドラマ『龍馬伝』第6回「松陰はどこだ?」

 今夜も『龍馬伝』を見た。私が大河ドラマの視聴習慣を持ったのは、2007年の『風林火山』が最初である。それ以前も、記憶に残っている作品は何本かあるけれど、大河に限らず、連続ドラマを見る習慣があまりないので、だいたい10回持たずに脱落してきた。『篤姫』『天地人』は、もっと早々に脱落した。

 今年の『龍馬伝』だが、個人的な感想は、第1回「うーん、まだよく分からん」→第2回「やっぱり今年も駄目か…」→第3回「お、持ち直した?」→第4回「これはいけるかも?!」→第5回「おもしろい!」→第6回「(前回より落ちるが)まあまあ」という推移をたどっている。今日の脚本はいまいちだったなあ、という回もあるが、魅力的な登場人物がどんどん増えてきたので、必ずどこかにキラリと光るシーンがあり、その一瞬に引きつけられて、また次回も見てしまう、という繰り返しになりそうだ。いちばん気に入っているのは香川照之の岩崎弥太郎と谷原章介の桂小五郎か。それと…いや、これ以上、固有名詞を挙げると収拾がつかなくなりそうだ。

 放送が終わると、他人のブログを読みにいったり、掲示板を覗きにいったりするのも楽しみのひとつ。私は幕末史にはあまり詳しくないので、探せば、いくらでも詳しい人の話を聞けるのは、本当にありがたいと思う(もちろん、真偽は自分で確かめなければならないが)。

 それにしても、『風林』『篤姫』『天地人』の3年間は、自分の好きな作品が世間に受け入れられず、個人的に受け付けない作品が高視聴率、という憂き目を見てきたので、『龍馬伝』の視聴率がいいのはフシギでしょうがない。私が変わったか、世間が変わったのか?

 今度、近いうちに、池之端の旧岩崎家住宅(弥太郎の長男・久弥が建てた)を見学してこようと思っている。いつでも行けると思って、一度も入ったことがないのである。静嘉堂文庫を設立した岩崎弥之助は弥太郎の弟だから、ドラマの岩崎一家の中にいるはずだ。あまり目立っていないけど。それから、しょっちゅう行っている京都でも、幕末維新史の史跡は意外と見ていないので、次回は、久しぶりに伏見を歩いてこようかと思っている。江戸博の次回特別展『龍馬伝』も、もちろん行く! でも「坂本龍馬オリジナルガラス板写真 3日間特別限定公開」って、きびしいなあ。
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遊牧民族の多様な文化/チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展(江戸東京博物館)

2010-02-06 23:57:50 | 行ったもの(美術館・見仏)
江戸東京博物館 特別展『チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展』(2010年2月2日~4月11日)

 いちおう、江戸博の公式サイトに上がっている説明は読んでいったのだが、いわく、「モンゴル帝国は、チンギス・ハーンが1206年に建国した騎馬遊牧国家です。13世紀に出現したチンギス・ハーンは、1800年間続いた多くの騎馬遊牧民族による戦争を終結させ、騎馬遊牧諸民族を統一し、モンゴル帝国を建国しました…」云々。これは、草原の英雄チンギス・ハーンの華麗なる遺産をどーんと集めた展覧会なのだな、と誰だって思うだろう。会場の外にも、内蒙古の博物館から運んできたらしい、巨大な馬上のチンギス・ハーン像が飾られていたし。

 ところが、会場に入ってみると、「第1部 戦国時代のモンゴル」では、チンギス・ハーン登場以前に興亡を繰り返した騎馬遊牧民族、東胡族・匈奴族・鮮卑族・突厥族・契丹族に関する資料が展示されていた。あれ?そういうコンセプトだったの? まあ、いいけど…。この「戦国時代」という呼称も、ちょっと分かりにくい。いちばん古い東胡族は「紀元前475年から1125年に興った」そうだから、中国史でいう「戦国時代」と重なるが、そういう意図ではなく、モンゴル帝国以前の”群雄割拠の時代”という意味で使っているらしい。モンゴル史では、こういう時代区分が定着しているのかしら。

 東胡族だけ、よく知らなかったので調べてみたが、中国東北部を拠点とした遊牧民で、東胡はツングースの転音だとする説もあるようだ。匈奴族・鮮卑族の装飾品は美しい。鮮卑族の、ハート型の薄板を何枚も取り付けた金飾りは、曖昧な記憶だけど、新羅や藤ノ木古墳の出土品との類似を感じさせる。おお~と思ったのは、突厥族の『浮き彫り臥鹿文銀皿』で、2009年の正倉院展で見た『金銀花盤』によく似ているのだ。前者は「臥鹿」で、後者は歩きかけた「見返り鹿」なのだが、角のかわりに頭上に頂いた蓮の花(レタスみたい)がそっくり。全体の装飾の精巧さは前者(突厥族)のほうが勝る。解説には「いずれも唐から与えられたもの」だろうとあったが、やっぱり、地続きの突厥のほうが、海上の小国日本より優遇されていた(脅威だった)のかなあ。鹿、熊、牛、馬など、身近な動物のかたちを模した装飾品や俑は、どれも愛らしくて、久しぶりに漢詩「敕勒歌」を思い出した(ググって探した→天蒼蒼、野茫茫、風吹草低見牛羊)。

 契丹族(遼)は、金庸の『天龍八部』でもおなじみで、親近感のある民族。1986年に内蒙古自治区の陳国公主墓から出土した黄金のマスク、銀鍍金冠、金花銀製靴などが展示されていた。展示物にもびっくりだが、出土したときの写真が生々しくて、圧巻。

 第2部、チンギス・ハーンとモンゴル帝国に関する展示は、かえって印象が薄かった。そもそも、あまり文物が残っていないんだろうなあ。『監国公主の印鑑』が、チンギス・ハーンの一族に関するほとんど唯一の同時代資料らしい。中国の博物館から借りてきたらしい、投石機や戦車の大規模な複製は、それなりに面白かった。テント式の『霊包』(これも複製展示)は「移動できる王陵」としてつくられたものだそうだ。内部の祭壇に酒瓶(?)が2本献じられていて、ラベルがチンギス・ハーンの肖像らしかったのが気になった。それから、景教(キリスト教)やイスラム教の文物がさりげなくあって、モンゴル帝国が多様な宗教を許容していたことが感じられた。

 第3部はモンゴル帝国以後、すなわち明清時代を扱うが、清朝と元朝(モンゴル)の連続性(→岡田英弘編『清朝とは何か』)には明確に触れていなかった。会場の最後に、モンゴルの代表的な楽器、馬頭琴の演奏が聴けるコーナーがあり、2002年版『射雕英雄伝』のテーマ曲がよみがえってきて、懐かしかった。

 余談。帰りがけ、出口で呼び止められて、アンケートへの協力を求められた。江戸東京博物館のほか、江戸東京たてもの園や写真美術館も管理している東京都歴史文化財団の調査だそうだ。時節柄、いろいろ見直しを求められているんだろうなあ。お察しします。でも「当館のライバルとなる施設はどこだと思いますか?」という設問には笑ってしまった。「うーん、(最近の)サントリー美術館」って答えたけど、いかがでしたでしょう? 都内で、比較的大きなハコで、「借りもの」イベントが多いため、企画に一貫性がなく、大規模展示をいろいろやっているわりに、館の「特徴」が印象に残らない、ってことを言いたかったんだけど。江戸博さんは、もうちょっと、自前の収集や研究にお金かけたほうがいいと思います、って言えばよかったかな。

展覧会公式サイト
展覧会公式ブログ「モンゴル日記~ぶらり草原の旅~」には、展示品の写真も多数掲載。
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元禄の金襴手、化政の染付/町人文化と伊万里焼展(戸栗美術館)

2010-02-05 00:06:13 | 行ったもの(美術館・見仏)
戸栗美術館 『町人文化と伊万里焼展-器からみる江戸の食-』(2010年1月5日~3月28日)

 江戸時代の町人たちの食文化を支えた伊万里焼を紹介。文化の大きな盛り上がりは2度あった。はじめが、貨幣経済が浸透して“豪商”と呼ばれる人々が台頭してきた元禄年間(17世紀末~18世紀初)。絢爛豪華な金襴手様式が、その食卓を彩った。ただし、金襴手のバリエーションには、金彩が少ないものや絵具の色数を減らしたもの、白い素地の部分が広いものもある。これらは、比較的安価で、町人たちが、経済力や使用目的に合わせて選ぶことができた器と思われる。『色絵獅子花文鉢』とか『獅子根菜鉢』とか、スッキリした印象で、私は、かえってこっちのほうがオシャレだと思う。

 町人が主人公となった化政年間(18世紀末~19世紀)は、外食が盛んになり、磁器の使用が庶民にまで広がると、粋を体現した青一色の染付が好まれるようになった。ただし、華やかな宴会の光景を描いた19世紀の浮世絵について、これは理想図であり、一般庶民の生活にこれほど磁器が普及していたわけではありません、と注記が付いていたのは面白いと思った。金銀財宝ならいざ知らず、部屋いっぱいに磁器のうつわがあったところで、それが「夢の生活」の表現だとは、ちょっと気づきにくい。絵画資料の読み込みは、よく注意しなければいけない。

 奈良茶碗と呼ばれる蓋つき茶碗は、奈良茶飯(→レシピ)を食べるのに使われた。『西鶴置土産』は、浅草寺門前に奈良茶飯の店があったことを記しているという。展示品の雨文の茶碗は、ご飯用とは信じられないほど小さかった。これなら馬琴の『兎園随筆』にあるという、大食い大会の54杯も可能かもしれない。会場に用意された展示解説シートを読んでみると、江戸の文学や絵画に描かれた食文化が分かって面白い。江戸のA級グルメといえば、会席料理を確立した料亭「八百善」を忘れてはならないが、別の展示室に、国会図書館の「貴重書データベース」から起こした「八百善組立絵」が展示してあった。実に楽しいので、お見逃しなく。

 また、この展覧会は「雨文」「白抜き」「地図」「網目」など、江戸時代に流行したいくつかの文様を取り上げているが、最も印象深いのは、江戸時代後半に大流行した「蛸唐草文」である。蛸唐草(たこからくさ)?と聞いて、はじめは何のことか、分からなかったが、実物を見てみれば、確かにこのペイズリーっぽい唐草文(※画像)、我が家にもあったなあ。日本発祥の文様なのか?と思ったが、中国宋時代の磁州窯の作品に古い例がみられるそうだ。ところどころに、虎を描いたうつわが配されているのは、やはり寅年の新春を意識しているのだろうか。あれ? そういえば、どうして、戸栗美術館のマークは虎なんだろう?
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柔構造の強み/明治維新1858-1881(坂野潤治、大野健一)

2010-02-04 00:42:48 | 読んだもの(書籍)
○坂野潤治、大野健一『明治維新1858-1881』(講談社現代新書) 講談社 2010.1

 本書は、「明治から戦前昭和にいたる我が国の民主化努力の成果と挫折を、通説に疑問を投げかけながら描き続けてきた政治史家」(坂野潤治氏)と「アジアやアフリカに頻繁に足を運びいままさに工業化せんともがいている途上国政府との政策対話に挑んでいる開発経済の実践家」(大野健一氏)の共同研究から生まれた。「まえがき」および第1部の冒頭、世代も専門も異なる2人の研究者が、どのような視点で明治維新を捉えようとしているかを読むうちに、これは私の待っていた本だ、という感じが強くなり、じわじわと喜びが湧いてきた。

 明治維新は、いうまでもなく「欧米列強が支配する19世紀の国際秩序に後発国日本が組み込まれるという国際統合過程」であった。後発国が欧米諸国にキャッチアップし、彼らから対等な取り扱いを受けるに至るというのは、現在まで、成就した国がきわめて少ない大事業である。そして、明治政府は、第二次大戦後の韓国、台湾、シンガポール、マレーシアなど、一人の独裁者あるいは単独政党が長期にわたって抑圧的な開発主義を貫徹した「開発独裁型」政権とは、全く異なる性格を持っていた。

 私が、うれしい興奮を覚えたのは、このへんの箇所だ。これは、明治維新を全面肯定する(俗流)司馬史観とは、似ているようで異なる。本書には他国・他地域への公平な目配りがある。「明治」は良かったが「昭和」は駄目とか、いや「明治」からずっと駄目とか、鏡に映った自分の姿を眺めて論評しているだけの、料簡の狭い歴史には、うんざりなのだ。「自虐史観」にしても、小島毅さんのいう(自己肯定的な)「自慰史観」にしても。

 本書は、第二次世界大戦後の東アジア型開発独裁政治を参照しつつ、明治維新のユニークさを、その「柔構造」に見出す。明治維新のリーダーたちは、「富国」「強兵」「公議(憲法)」「輿論(議会)」の四目標を共有し、優先順位を自由に入れ替え、状況に応じて合従連衡しながら(しかし適度な一体感を保ちつつ)長期的には複数の目標を達成することができた。具体的には、第二部(坂野)が、各藩の重要人物のエピソードに則して論じているが、薩摩藩の軍事テクノクラート伊地知正治が上下二院制の創設に関する意見書を藩首脳に送っていたり、薩摩藩の小松帯刀と幕臣の勝海舟が海軍力の強化について語り合っていたり、幕末って、おもしろい時代だったんだなあ、と思った。

 ただ、その「柔構造」を生み出した諸条件を論じた第三部(大野)は、ちょっと平板で物足りない感じがした。生産力の向上、全国市場の形成、教育の普及など、語るべきことはいろいろあるけど、「民間ナショナリズムという求心的な精神基盤」が、どうやって形成されたかが、私の最も知りたいところだ。気になる先行研究が多数引用されているのはありがたく、平石直昭氏の『日本政治思想史』(2001)が、日本の場合、もともと戦闘集団であった武士階級が、外国艦隊との衝突・敗北によって覚醒したのに対して、中国・朝鮮の文人政権は、軍事的敗北にあまりショックを受けなかったと論じているのは、首肯できるように思った。詳しい分析を読んでみたい。

 最後に本書の「まえがき」に戻るが、幕末維新期は、政治制度が整わないなかで、きわめて成熟した政策論争が行われた時代であったが、戦後、制度的には「完璧に近い」民主主義が実現したにもかかわらず、「近年の政策論争が幕末維新期のそれよりも高度であったか」というのは、けっこう辛辣な問いかけである。苦笑せざるを得ない。
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