見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

2012秋@関西見仏の旅:六波羅蜜寺

2012-11-30 23:48:23 | 行ったもの(美術館・見仏)
■西国十七番 補陀洛山六波羅蜜寺(京都市東山区)

 三連休の最終日。前日、なんとか帰りの新幹線の席は確保できたが、13:00には京都を発たなければならない慌しさ。半日で大津市歴史博物館に行って、さらに六波羅蜜寺の本尊ご開帳にお参りすることができるだろうか?と、あれこれシミュレーションしてみた。案ずるより生むが易し。六波羅蜜寺は朝8時開門なので、とにかく早起きして出かければいいのである。

 今月初めに訪れた友人の話では、ご開帳人気か清盛人気か、たいへんな盛況だったというが、朝早い境内は、人もまばらで清々しかった。お堂に上がる前から、大きな十一面観音の立ち姿が目に入り、なつかしくて、嬉しかった。秘仏のご開帳は、お寺によっては、言葉は悪いがゴテゴテ飾り立てたり、ケチくさく幔幕を下ろして半分くらい姿を隠してしまうこともあるが、ここは、おおらかに扉を開けて、堂々たる体躯を朝の寒気に曝しているのが、気持ちよかった。

 六波羅蜜寺には何度も来ているが、この十一面観音立像を初めて拝したのは、12年前の辰年ご開帳だったと思う。あれから12年かー。当時、六波羅蜜寺に行こう!と色めきたった友人たちが、今も見仏仲間であることに感謝したい。

 納経所でご朱印をいただいているとき、赤い封筒に入った「散華」が目に入った。空也上人像と地蔵菩薩坐像(運慶作)と秘仏ご本尊十一面観世音菩薩立像の写真をプリントした三枚セットである。ええ~こんな商品、いや授与品、いつから始めたんだろう。「初めて作ってみたんですよ」とニコニコ笑う納経所のおじさん。「辰年ご開帳(~12/5)の間だけですか?」と聞いてみると、「どうかねえ」と首をかしげる。来年は開山1050年の記念の年に当たるので、その間は置いているかもしれないが不確実、とのこと。

 「こっちは確実に辰年ご開帳の間だけですよ」と教えられたのは、薄紫の紙に「淵龍」の二文字を大きく印刷したお札。実は、その前から、12年前のご開帳のとき「○○○龍」(文字数が定かでない)という特別なお札を見た記憶が、おぼろげによみがえっていたのだ。「五色ありまして、今年は紫です」というのを引き取って「前回は緑でしたよね!?」とお聞きすると、「そうそう、次回は白です」という話になった。「私、12年前にも来たんですよ~!」と勢い込んだが、緑のお札をいただいたかどうか、いただいたとしても、今どこにあるか、全く定かでない。しまった。納経所のおじさんも「うちは家族が始末しちゃったみたいでねぇ」と残念そうな口ぶり。



 こういうのは目につくところに飾っておくほうが失くさないんだろうな。次の12年後まで、毎日眺めて暮らそうかしら。

 ところで、なぜ「辰年ご開帳」かを調べてみたら、六波羅蜜寺の前の池に悪事を働く龍が棲んでいたのを、空也上人が改心させたことに由来するのだそうだ。京都には、あちこちに龍がいたんだな。神泉苑だけでなくて。

 そして、京阪電車で、最後の目的地、大津(別所)へ向かう。
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2012秋@関西見仏の旅:紀三井寺、粉河寺

2012-11-29 23:18:26 | 行ったもの(美術館・見仏)
■西国第二番 紀三井山金剛宝寺()(和歌山県和歌山市)

 12:00過ぎに和歌山県立博物館を出て、路線バスで紀三井寺に直行。長い石段を登っていると、境内に放送が流れた。大光明殿(文化財収蔵庫)特別公開のお知らせだった。事前にホームページを見て、2012年7月6日から12月21日まで、毎週金曜日に公開が行われているのは知っていたが、この日は土曜日にもかかわらず「特別に」公開するという。ただし、時間が決まっていて、次回は13:30から。うーん、このあと、粉河寺へも回りたかったので悩んだが、結局、境内の茶店で昼食代わりのお汁粉をすすりながら、しばし開扉を待つ。



 時間になると、拝観申し込み(400円)をした15人ほどが、本堂の奥に招き入れられた。前回、2008年のご開帳時もここに入った。中央の二つのお厨子の前には、両界曼荼羅(?)が懸っていた。今回、拝観できるのは、向かって左の毘沙門天立像と帝釈天立像、右の梵天立像と十一面観世音菩薩立像。毘沙門天がやや小ぶりで、あとの三体は等身大ほどである。帝釈天と梵天は、天部と伝えられるが、菩薩像の体裁。華やかな技巧を凝らし、彩色の跡も残る帝釈天像は、優秀な仏師の作と考えられる。一方の梵天立像は、「山の上のお堂にありそうな」素朴な、しかし威厳を感じさせる像容で「修行を積んだ高僧の作ではないか」というお坊さんの解説が面白かった。板光背を背負った右端の十一面観音は、肩が細く、女性的な印象。前回参詣時は、ここにいらっしゃらなかったんだな。三体が、いずれも左手に蓮のつぼみを持っているのが愛らしかった。

 20分ほど、座ってお坊さんの説明を聞いたあと、延命十句観音経(短いなーこれなら覚えられる)を唱えて結縁し、須弥壇の間近に近寄って、拝観を許していただいた。ちなみに次回の本尊ご開帳は、同寺開基1250年の平成32年(2020)らしい。

■西国第三番 風猛山粉河寺(和歌山県紀の川市)

 紀三井寺→和歌山駅乗換え→粉河へ。あまり人影もなく、わびしい駅前だった。前二回は、奥の十禅律院にも寄ったことを思い出したが、この日は粉河寺でご朱印だけいただいて帰る。

 さて、新大阪への行き方を検索すると、橋本で南海急行に乗り換えよ、と出るので、これに従う。「妙寺」という駅のホームに「丹生都比売神社(天野社)」への案内があって、ハッとした。迫る夕闇の中、南側に横たわる山並みを見て、そうか、あのあたりが高野山か、と感慨にふける。峰々が集まって、大地からはっきり立ち上がる「山の塊」を作っているところは、この夏、訪ねた廬山にも似て、なんとなく大陸的な風景だった。
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2012秋@関西見仏の旅:高野山麓 祈りのかたち(和歌山県立博物館)

2012-11-28 23:58:11 | 行ったもの(美術館・見仏)
和歌山県立博物館 特別展『高野山麓 祈りのかたち』(2012年10月20日~12月2日)

 三連休の中日。朝早めに姫路を立って→(JR新快速)→大阪/梅田→(御堂筋線)→なんば→(南海 特急サザン)→和歌山市駅に10時過ぎに到着。瀬戸内海~大阪湾に沿って半弧を描くような経路。車窓の風景を見ながら、古代や中世の歴史に思いをめぐらすのが楽しい。

 さて、この展覧会は、高野山上の宗教活動を支えてきた「山麓に住む人々」の暮らしと信仰に焦点を当て、山上と山下が密接に関わり合い築きあげた重層的な信仰の歴史を紹介するもの。

 第1室、想像以上におびただしい数の仏像に驚くが、心を落ち着けて、始めから見ていく。まず、高野山の開創と関連の深い慈尊院、丹生都比売神社(天野社)を取り上げる。慈尊院の秘仏本尊・弥勒仏坐像の写真パネルをなつかしく見上げる。私は2005年のご開帳のとき貰ったポスターを、今でも自室のクローゼットの内側に貼ってある(日焼けしないように)。私の念持仏みたいなものだ。同院所蔵の仏画『弥勒菩薩像』(平安時代)は、本尊ご開帳時に見たのだろうか。記憶はない。剥落の激しい仏画だが、童画のような愛らしさがある。江戸時代の白描絵巻『高祖大師秘密縁起』もかわいい。『狩場明神像』と言い、紀州といえば(?)イヌなんだなー。

 『弘法大師御手印縁起写』には、非常に素朴な水彩画タッチで描かれた高野山の寺域図が示されている。以下、この地図を再掲しつつ、高野山の南西(堂鳴海山)、北西(感応山)、南東(日光山の日光社)に伝来した仏像を見ていく。その数、20件(50体)以上(たぶん)。平安仏がほとんどで、古いなーと感嘆する。厚い信仰の対象であったがために、稚拙な補修を施されているものもあるが、それは仕方ない。法福寺の二十五菩薩像は、南国ふうのバティックをまとって、踊っているみたいで可愛い。大福寺の天部形立像は、京都の仁和寺や清涼寺、広隆寺の四天王像とも比肩し得る、と解説にあったけど、確かに、顔立ちもプロポーションも、破綻のない造形だった。いま図録を見ると138.9cmとあるが、もっと大きい印象を受けた。

 第2室は、山麓の村々の祭礼で用いられた仮面や芸能装束を展示する。重箱の蓋みたいに平たい獅子頭2件に笑ってしまったが、所蔵者の丹生官符神社は慈尊院の隣りにある神社で、確かここにも参詣した。三脚つきの鉄湯釜があったけど、「湯起請」に使った記録はないのかな…。鎌倉時代の田地売券とか、意外と読みやすいカタカナ書きなので、じっと見入ってしまった。実は、仏像より工芸より、こういう地味な文字資料が好きなのである。

 第3室、あらためて、中世~近世の山上の教団組織+それを支えた山麓の人々という、重層的な祈りのかたちを確認する。再び多数の仏像、神像、紺紙金泥曼荼羅、仏画、高僧像などに荘厳された空間。林ヶ峰観音寺の菩薩形坐像の、3D立体コピーによる「さわれるレプリカ」いいなあ。視覚障害者のための試みだというが、私も手に持って、なでなでしてみた。いちばん好きなのは、妙楽寺の小さな観音菩薩立像。迷いのない、はっきりした彫り。童子のような微笑を浮かべつつ、くびれた腰に大人の色気も感じられる。三谷薬師堂伝来の女神坐像が「鋳造神像の木型」ではないか、という指摘には驚かされた。日本にも鋳造神像ってあったのか? 思い浮かばないのだけれど…。

 最後は、明治初年の神仏分離、いわゆる廃仏毀釈が及ぼした影響を紹介する。比較的狭い地域の中で、別の安置場所に移動することで残された仏像もあれば、参考写真だけだったが、石川県珠洲市(能登半島!)まで移された仏像も確認されている。

 全体を通して「初公開」資料の多いことが強く印象に残り、開催に至るまで、関係者が準備にかけられた時間と労力は如何ばかりだろう、と思った。また、所蔵者の寺院と博物館の間に十分な信頼関係がなければ、実現しない企画だろうな、とも思った。会期は今週末(~12/2)まで。少しでも多くの人の目に触れることを願いたい。
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2012秋@関西見仏の旅:浄土寺

2012-11-27 22:45:24 | 行ったもの(美術館・見仏)
■極楽山浄土寺(小野市浄谷町)

 鶴林寺の拝観を終わって、加古川駅まで徒歩で戻った。これなら浄土寺の拝観に間に合うかもしれない、と思うと、自然と急ぎ足になった。14:40頃、JR加古川駅発→粟生(あお)駅で神戸電鉄に乗り換え、15:15頃、小野駅に着いた。適当なバスがないことは事前調査済みで、タクシーを使うつもりだったが、車窓の田園風景を見ながら、果たしてタクシーが捕まるか、激しく不安になっていた。幸い小野駅は、通り過ぎてきた他の駅に比べれば市街地の中で、駅前にタクシーが並んでいた。

 「浄土寺まで、いくら位ですか?」と聞くと、口数の少ない運転手さんが「1590円くらい」とつぶやくように教えてくれた。そして、実際、その金額で着いた。駐車場の先に、瓦屋根を乗せた白い塀が見える。丸くせり出した塀に沿って回り込むと、上りの石段があり、塀に囲われた一区画が、小高い台地であることが分かった。そして、その台地の上に、写真で見覚えのある阿弥陀堂が建っていた。建っていたというより、平たい砂地に、誰かがちょこんと載せたような風情だった。



 ちょうど団体客が来ているらしく、靴脱ぎ場に20~30人くらいの靴があって、たじろぐ。しかし、拝観時間は16時までのはずだから、たじろいでいる暇はない、と思って、小さな扉から中に入る。

 暗い。残念ながら曇り空で、低い格子戸からは、ほとんど光が入ってこないのだ。中央の巨大な阿弥陀三尊像以外は、見事に何もない、ガランとした空間である。朱塗りの天井の梁(はり)には、白く塗った錫杖彫(しゃくじょうぼり)の装飾が施されており、これが薄暗がりの中で、四方八方に放たれる「後光」を感じさせる。目が慣れてくると、三尊の整った顔立ち(鼻が高いなあ)が、少し見えてきた。

 堂内には照明設備が全くない。入口に座っていた受付のおばさんは「国宝建築ですからね」とおっしゃっていた。国宝でも照明があっていけないことはないと思うが、このままのほうが断然いいと思う。おばさんの話では、いちばんいいのは、やはり夏の夕方。後ろの窓から入った西日が床板に反射して、下から三尊のお顔を照らすのだという。うわー、見たい! 真冬は南の窓から夕日が差し込む時期もあって、それもまたいいというお話だった。でも寒いだろうな。当然、暖房もないわけで。

 三尊像は、それぞれマイカーならぬマイ円盤みたいな小さな雲に乗っている。後ろにまわると、雲の端が、ピンと跳ねたシッポのように表現されているのが可愛かった。

 中を拝観できるのはこの浄土堂だけだが、ほかにも境内には、薬師堂、開山堂、八幡神社など、古様の建造物が立ち並んでおり、しばらくうろうろして、名残を惜しみながら去った。

 行きの道が、比較的平坦で、分かりやすかったので、駅まで歩こうと決めた。迷わず、ひたすらまっすぐ歩いていくと、市街地に出る。小野駅まで約1時間。ただ、最後の突き当たりで左に曲がるべきところを、間違えて逆に曲がってしまったので、少し時間をロスしてしまった。

 この日の宿泊先の姫路までの行き方を検索してみると、粟生経由でなく、逆方向の新開地(神戸市内)へ向かうほうが早い、と出る。え~うそ~と思うが、粟生・加古川方面に戻ると、乗り継ぎで1時間くらい待つことになりそう。それも辛かろう、と思い、新開地から山陽電鉄で姫路、という長旅をしてみた。たまたま、帰ってから、神戸電鉄の「鵯越~鈴蘭台」が『日本の鉄道 車窓絶景100選』に取り上げられている名所であることを発見。しかし、もう暗くて、窓の外は全く見えなかった。またいつか明るい時間に、車窓風景のために乗ってみたい。
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2012秋@関西見仏の旅:鶴林寺

2012-11-25 23:58:27 | 行ったもの(美術館・見仏)
刀田山鶴林寺(加古川市加古川町) 国宝太子堂再建900年記念『鶴林寺新宝物館開館記念特別展』(2012年10月6日~11月25日)

 私は関東の人間だが、鶴林寺の名前を知ったのはずいぶん前だ。新潮社「とんぼの本」シリーズに『国宝』(1993年刊、改訂増補2005年)という1冊がある。同書の原型は、雑誌「芸術新潮」1990年1月号で、 栗田勇氏が「国宝わが心の旅-加古川あたり-」という文章を寄稿している。たぶん90年代半ばにこの文章を読んで、加古川、行きたい、と思ったのに、あれからもう20年近くがむなしく過ぎてしまった。

 この秋、加古川の鶴林寺では、新宝物館の開館にあわせて、60年に一度しかご開帳されない本堂秘仏を特別開帳するという。直前まで、抱えている仕事が気になるとか、いろいろ迷ったけど、ご縁を信じて、出かけることにした。

 三連休の初日。朝、東京を出て、昼頃、加古川の鶴林寺に着いた。住宅の続く市街地の中だが、周囲の緑地は公園として整備されている。小雨に濡れた紅葉が鮮やか。広い境内には、桧皮葺や瓦葺の堂宇が立ち並ぶ。

 

 まず本堂へ。内陣に入り、秘仏の本尊薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、持国天、多聞天を拝観。金箔のまぶしいご本尊は、額が狭く、頬が丸々とふくらんで健康そうな面差し(チラシに小さな写真あり)。日光・月光も、顔が大きくずんぐりした体形。ここでご朱印をいただき、特設の渡り廊下を渡って、隣りの太子堂へ。二方向の蔀戸(?)を開けて、内陣がよく見えるようにしてあった。釈迦三尊像は模造で、本物は宝物館に安置されている。壁や柱に壁画が見つかっているらしいので、目を凝らしてみたが「肉眼では見えませんよー」と案内のおじさん。宝物館に行くと、壁画を復元した太子堂須弥壇に、本物の釈迦三尊像が展示されている。

 新築の美術館は、境内の伽藍とマッチしていて感じがよかった。いろいろ面白かったが、いちばん好きなのは「あいたた観音」と呼ばれる銅造聖観音立像(奈良時代)。私は、一乗寺(加西市)の金銅仏も好きなのだが、この一帯、古い半島文化とのつながりが深いんじゃないかと思う。復元された須弥壇板絵にも、人物の服装など、半島文化との近さが感じられた。同寺は、聖徳太子が高麗僧・恵便(えべん)のために建立したという伝承にも納得できるものがある。

 しかし、そもそもこの美術館が作られたのは、2002年に同寺の高麗仏画「阿弥陀三尊像」が盗難にあったことがきっかけであり、いま美術館に展示されている複製写真の箇所に詳しい事情は掲載していなかった(同寺のホームページも同じ)けれど、韓国人窃盗犯によって国外に持ち出されたらしい、と聞くと胸が痛む。参考に、比較的、中立な報道かなと思われる「東亜日報」の記事を貼っておく。→日本(に?)奪われた高麗仏画の「数奇な帰郷」韓国で窃盗男起訴(2004/10/13)

 詳細な説明があって、楽しませてもらった「絹本著色聖徳太子絵伝」8幅のうち6幅も、2002年に盗まれ、2003年に発見されて、修復されたものだという。困ったものだ。しかし、こうやって美術館ができると、保管収蔵の効能以上に、社会的に存在が認知されることによって、盗まれにくくなるんじゃないかしら。そうあってほしい。

 なお、境内の反対側の新薬師堂には、大きな薬師三尊像と十二神将像を安置。これは本堂の薬師如来が秘仏であるため、江戸時代の医師・津田三碩が建立したもの。そう思って見ると、確かに秘仏三尊によく似ている。鶴林寺美術館のページに載っている「薬師三尊像」は、新薬師堂の三尊の写真である。

(11/26追記) 高麗仏画の帰趨について、「東亜日報」は「正常な品物と思って古書画取引業者から適切な価格で購入した場合、民法上『善意の取得』に該当し、所有権が保護される」と結んでいる。その通りだ。これに関連して思い出されるのは、以前、MIHOミュージアムの菩薩立像が、中国で盗まれたものと判明した一件である。同館はこれを中国に「譲渡」することとし(「善意の取得」だから「返還」ではない)、そのかわり、中国側が同館に多くの仏像を貸し出して「山東省の仏教美術にかかわる展覧会」を共同で開催することに同意した。こういう平和的な解決ができないものかなあ…。
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絵描きは絵描き/月岡芳年(太田記念美術館)

2012-11-21 23:49:44 | 行ったもの(美術館・見仏)
浮世絵太田記念美術館 特別展『没後120年記念 月岡芳年』(2012年10月2日~11月25日)

 月岡芳年(1839-1892)は、ずいぶん昔から好きな画家のひとりだ。たぶん大学生の頃、歌川国芳を覚えたのと同じ頃に、名前を覚えたと思う。いま、太田記念美術館のサイトのトップページを飾っている『芳流閣両雄動』は、最も早い時期に好きになった作品のひとつだ。縦長の画面を効果的に使って、犬塚信乃と犬飼見八の出会い(決闘)の一瞬を描いている。ぐいと体をひねった見八のカッコよさにほれぼれした。

 『奥州安達がはらひとつ家の図』を代表作とする無惨絵の描き手であることも、なんとなく知識としては知っていたが、「血まみれ芳年」と言われた血みどろ絵を、これだけまとめて見たのは、初めてではないかと思う。新聞錦絵のイメージが強かったが、歌舞伎狂言や歴史上の人物を題材にした作品が多いことを初めて認識した。同時に、近世の歌舞伎(および浄瑠璃)って、血みどろ芝居が多いんだなあ、と思った。泰平の世の中だとこうなるのだろうか。

 山口晃さんは著書『ヘンな日本美術史』の中で、芳年は途中から、劇的に上手くなる、と述べていたので、今回、作品の描かれた年代に注意しながら眺めてみた。素人目には、慶応年間の血みどろ絵など、じゅうぶん上手いように見える。だが、明治初期の新聞錦絵は、確かに私から見ても、残念な作品が多い。その理由は、やっぱり、慣れ親しんだ浮世絵の作画法を離れて、新しい人体の描き方を模索していたためではないかと思う。

 それが、明治10年代の後半くらいから(山口さんは明治7、8年頃から、という)俄然、ポーズが決まり始める。冒頭に挙げた『芳流閣両雄動』も明治18年(1885)の作で、54歳で没した芳年にとっては、晩年の作だ。この画を含め、明治18~22年(1885~89)に、芳年は竪(たて)二枚続の作品をシリーズで刊行している。無残絵あり、武者絵ありで、テーマにもテイストにも全く統一感がないのに、傑作揃いなのがすごい。

 その中の一枚『袴垂保輔鬼童丸術競図』(明治20年)は、完成形の錦絵もいいのだが、肉筆の下絵がまた、ヨダレが出るほどいい…。この写真版を、図録の裏表紙に用いた気持ちはよく分かる。横長三枚続の『曽我時致乗裸馬駆大磯』の下絵も魅力的だった。描く快楽に身をまかせている芳年の幸福感と高揚感が伝わってくる感じだ。この頃まで、芳年の描く人物は、縦長とか横長とか、わざと窮屈な空間に閉じ込められて、身をよじることで、生命力や躍動感を噴出させている感がある。

 それが、さらに最晩年の作品になると、むしろピタリと静謐な「止め」のポーズなのに、いわくいいがたい色気があふれている。『岩倉の宗玄 尾上梅幸』とか『市川三升 毛剃九右衛門』(明治23年/1890)とか、好きだなー。

 芳年の美人画(女性画)というのも、あまり意識したことがなかったが、利発そうで愛らしい。神話などに題材を取った歴史画、同時代の西南戦争に取材したシリーズなど、芳年のさまざまな面を知ることができて、面白かった。山口さんの本に出ていた『当世西優妓 桐野利秋』は見ることができるかと思ったが、なかった。まだまだ私の見てない名品がたくさんあるんだろうな…という思いを新たにした。
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クリスマスリース2012

2012-11-20 21:03:21 | なごみ写真帖
今年も、いつもの花屋さんで購入。
しかし11月のうちに購入するなんて…初めてのことじゃないかしら。



店先に並び始めたのを見て、パッと買ってしまった。
「早く買ったほうが長く楽しめますよ」とお店の方。そうですよね。

冬眠を宣言するリスの巣穴の飾りみたいだと思った。

昨年(2011年)のリース
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こういう地図が欲しかった/東京凸凹地形案内(今尾恵介監修)

2012-11-19 23:53:12 | 読んだもの(書籍)
○今尾恵介監修『5mメッシュ・デジタル標高地形図で歩く 東京凸凹地形案内』(別冊太陽 太陽の地図帖_016) 平凡社 2012.11

 町歩きが好きなので、地図はいろいろ使ってきた。今の地図帳は知らないが、私が子どもの頃からなじんだ地図は、山間・森林地帯は、標高線にしたがって薄い緑から濃い緑に塗り分けられているのに、都市部(人口密集地帯)はベタッとピンクか何かで塗りつぶされ、高低差を無視しているのが常だった。いまどきの携帯やパソコンで見る都市部の詳細地図も、その点はあまり変わらないように思う。

 しかし、複雑な高低差を抱え込んだ都市は、たくさんある。東京もそのひとつだ。私の場合、東京の地形に対する関心は、町歩きの実体験に発するが、もっと俯瞰的な「東京の地形」が詳しく知りたい、と思ったのは、中沢新一『アースダイバー』(講談社、2005)の影響によるところが大きい。これは、本書に収録されている、今尾恵介氏と石川初氏の対談で、石川氏が指摘しているとおりである。

 本書が使用している「5mメッシュ・デジタル標高地形図」とは、国土地理院が航空レーザ測量によって作成した「1:25,000デジタル標高地形図」のことである。国の地図取扱書店等で入手可能なほか、リンク先で、一例(皇居付近拡大図)が見られる。本書は、この地図をもとに、「目黒、五反田、品川」「六本木、麻布」「渋谷」など、地形の面白さを実感できる12エリアを写真つきルポで詳しく紹介している。

 標高差の書き込まれていない、のっぺりした地図を見ている限り、なぜ東京の道はこんなに複雑に入り組んでいるのか(なぜ京都のような碁盤の目にならなかったのか)ずっと理由が分からなかったが、標高地図を見ると、たちどころに疑問が氷解する。当たり前だが、道は標高差に従って作られるのだ。

 たとえば「神田、御茶ノ水、本郷」を見ると、微妙に蛇行しながら、つかず離れず並行する三本の道、不忍通り(東京メトロ千代田線)は、上野台地と本郷台地の間の低地を抜けていく。本郷通り(東京メトロ南北線)は本郷台地の上を南北に伸び、春日通り(都営三田線)は本郷台地の西側の低地に沿っていることが分かって、納得する。

 品川の「御殿山」とか五反田の「池田山」が、なるほど「山」だったんだなとか、渋谷が見事なほどに「谷」であることも、地形図を見て実感した。逆に、私は東京下町育ちなのだが、隅田川より東の東京には、地形と呼べるものがない(!)ことも分かった。標高0~-1メートルか、それ以下なのだ。確かに、子どもの頃は自転車で不自由なくどこまででも行けたのに、東京西部に引っ越して、坂の多さに閉口した体験がある。

 雑誌「別冊太陽」のサブカテゴリーらしいが、B5判で薄くて軽い仕上がりなのは、持ち運びの便宜を考慮しているのだろう。でも、寝転がって、眺めているだけでも、十分楽しい1冊である。
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プライバシーとコミュニティ/団地の空間政治学(原武史)

2012-11-17 23:19:19 | 読んだもの(書籍)
○原武史『団地の空間政治学』(NHKブックス) NHK出版 2012.9

 『レッドアローとスターハウス』(新潮社、2012.9)を購入して読んでいる最中に本書を見つけて、え?どういうこと?と混乱してしまった。あまりにも似通ったテーマで、立て続けに本を出さないで頂きたい…というのは、読者の勝手な立腹である。

 両作品の記述は、著者も認めているとおり、かなり重なる部分がある。だが、『レッドアローとスターハウス』は、西武沿線の政治思想史に重点を置く。ひばりが丘団地、滝山団地で幼少年時代を過ごした著者が、あえて自身の生活史をまじえて、エッセイふうに語っているところもある。それに比べると、本書では、著者自身は遠景に引いて、内容に立ち入らない。また、取り上げられている地域も、大阪、東京多摩、千葉と広範囲にわたる。本書のほうが、一般向けの学術教養書(選書)という媒体を意識した記述になっていると思う。

 本書は、高度成長期にあたる1950年代後半から70年代前半にかけての政治思想を、団地という空間から考察する試みである、と著者は述べている。登場する団地は、まず、1956年に建設が始まり、58年から入居が始まった大阪の香里団地。自治会、婦人会に続いて、香里ヶ丘文化会議が旗揚げされ、メンバーには、多田道太郎や樋口謹一など、京大関係者が名を連ねた。同団地のある枚方市から京阪線の急行に乗れば、京大に近い三条まで34分で行けたのである。へえーなるほど。文化会議と言っても、実質は、政治と民主主義に高い関心を持ち、保育所問題や交通問題に取り組む市民活動体だった。

 東京では、1958年、中央線の豊田駅北口に多摩平団地が完成した。ん~多摩平団地住まいの友人っていたかな…。下町育ちの私には遠すぎて、縁の薄い団地だ。ここでも、自治会とともに「多摩平声なき声の会」という無党派の市民の会が生まれた。同会は、やがて政治的主張を鮮明に掲げる「多摩平平和の会」に転換し、同団地は、徐々に革新政党の地盤となっていく。

 同じ頃、西武池袋線沿線に住む知識人の間でも、無党派の「むさし野線市民の会」が結成された。が、1959年に竣工したひばりヶ丘団地の住人だった不破哲三は、独自に「ひばりヶ丘民主主義を守る会」を立ち上げる。同団地では、こうした共産党系の市民団体に遅れて、ようやく自治会がつくられるが、後々まで共産党、社会党の影響力が強かった。

 千葉県の新京成電鉄沿線には、1960年から61年にかけて、常盤平団地と高根台団地という二つの大規模団地が建てられた。常盤平団地には上田耕一郎という共産党きっての理論家が住みながら自治会を主導できず、党勢を拡大できなかったのに対し、高根台団地では、新日本婦人の会がいち早く自治会に進出し、住民運動をリードした。

 団地は、それまでの日本家屋と異なり、プライバシーが守られた居住空間として、若い夫婦世帯に歓迎されたが、60年代までの団地は、同時に活発な自治会やコミュニティ活動の場でもあった。しかし、70年代にはどの団地でも「私」の生活を優先する個人主義が台頭し、自治会活動は不活発になる。新たに造成されたニュータウンは、初めから「共通の場」づくりを放棄していた。90年代以降は、団地ばかりでなく、ニュータウンでも住民の高齢化と少子化が進んだが、その中で、現在も魅力を失っていない例外的な団地がいくつかある。ひとつは、60年代の自治会の歩みが本書に詳述されている常盤平団地で、「老人が安心して暮らせる団地」として入居者が殺到しているともいう。また、高根台団地やひばりヶ丘団地でも、コミュニティの再生を目指す試みが始まっている。

 というわけで、50年代後半~60年代の自治会や居住地組織の多様な活動は、70年代以降の「私生活主義」を経て、再び脚光を浴びようとしている、というのがまとめになるのだろう。しかし、どうなのかなあ。シェアハウスなど、より開かれた居住空間を好む若者層が出現しているというのは、そうかもしれない。また、現在の高齢者層は、学生運動や市民活動の経験を有する世代だから、退職後に再びコミュニティに帰っていくことに、あまり抵抗感がないのかもしれない。だが、私は、がっつり「私生活主義」の世代なので、時間や空間を共有する生活って…どうしてもストレスにしか感じられない。まあ、これからどうなるか分からないけれど。

 本書を読んで、非常に印象に残ったのは、高度成長期(工業社会日本)において専業主婦たちが、地域で果たした政治的役割の大きさである。これは、もっと評価されるべきものではないかと思った。しかし、70年代以降、次第に進む女性の社会進出、専業主婦の減少は、地域活動の停滞をもたらす主要因となったように見える。政府は、企業の女性活用がまだ足りないと考えているようだが(実際そうなんだけど)、地域に誰も残らないようになっていいのか、とも思った。
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体感する中世/武家の古都・鎌倉(金沢文庫、神奈川県立歴史博物館)

2012-11-17 10:45:56 | 行ったもの(美術館・見仏)
○世界遺産登録推進 3館連携特別展『武家の古都・鎌倉』

神奈川県立金沢文庫 『鎌倉興隆-金沢文庫とその時代-』(2012年10月13日~12月2日)

 世界遺産への登録を目指す「武家の古都・鎌倉」を共通テーマに掲げ、神奈川県立歴史博物館、神奈川県立金沢文庫、鎌倉国宝館による三館連携特別展が開催されている。まずは、金沢文庫から訪ねてみた。

 展示室に入って、ああ、久しぶりに金沢文庫らしい企画だな、と思った。仏像や仏画もいいけど、こういう歴史資料をじっくり読み込む展示も嫌いじゃない。文書だけが並んでいるわけではなくて、俗人の肖像画、彫像、工芸、仏像・仏具など、古道具屋の店先かと思うほど、バラエティに富んでいる。『一遍聖絵』は、山口晃さんが著書『ヘンな日本美術史』に、絹本は”白”がいのち、と書いていたのを思い出しながら眺めた。称名寺所蔵の古幡残闕、玉簾(ガラス棒を綴じ糸で編み結んだもの)、玉華鬘(水晶玉を刺し連ねたもの)など、あまりこの文庫でも見たことのないお宝が並んでいた。

 文書では、鎌倉時代の「日本図」(ただし西半分のみ)が面白かった。日本の周囲を、蛇体らしきものがぐるりと囲んでいる。ただし、対馬と隠岐島はその外側にある。戦国時代の「日本図」(千葉・妙本寺所蔵)はもっと素朴。中世には、知識人でもこの程度の世界認識だったんだから、固有の領土とか言ってもしょうがない、と思うのに…。

 称名寺聖教(金沢文庫古文書)には、元朝の太祖テムジンからの国書や高麗からの国書の写しも残されていて、当時の「アジアの中の日本」をめぐる想像が刺激される。一方には、美しい青磁、宋版漢籍が伝えた知識と思想、世界とつながるということは、善美なものも流入するけど、脅威や災厄も避けられないということなんだな、と思う。図録(後述)の写真はあまり大きくないが、印刷がいいので、これらの文書の本文を、ゆっくり手もとで読むことができるのは、とてもありがたい。

 文書類は、ほとんどゴミみたいな切れ端からも、いろいろ重要なことが分かるとか、権門僧侶の堕落を諷刺した『天狗草紙絵巻』の詞書が、それと分からないような表題で収蔵されている、というのも面白かった。展示室の外のケースにあった「金沢文庫印」の紹介では、こんなに種類があるのか、と驚く。古文書の価値をあげるために作られた偽物もあると知って、苦笑。

神奈川県立歴史博物館 『再発見!鎌倉の中世』(2012年10月6日~12月2日)

 引き続き、横浜に移動。チラシには「掘り出された中世都市鎌倉」のサブタイトルがついているとおり、出土文化財が多い。完璧な姿のまま、大切に尊ばれて、人々の手を渡ってきた伝世品の武具や磁器に比べると、赤さびた鎧の小札、刀装具、磁器や漆皿の断片、さらには折烏帽子(!)、下駄、箸など、生々しすぎて、悲鳴をあげたくなるものもある。材木座遺跡出土の人骨(東京大学総合研究博物館所蔵)も展示されているので、覚悟をして出かけたほうがいい。いや、噂に聞いたことがあるだけのものを見ることができて、貴重な機会だったと思うけど…。

 めずらしいところでは、歴博の『前九年合戦絵詞』が出ている。それから、あ、これ称名寺の青磁だ、と思うものや、鎌倉国宝館でよく見る境内絵図がこっちに来ているのを見つけた。逆に金沢文庫には、県立歴史博物館所蔵の北条時頼像が出ていた。見慣れた作品でも、場所が変わり、一緒に並ぶものが替わると、なんだか新鮮な感じがする。

 また、三上次男氏、赤星直忠氏、八幡義生氏、沢寿郎氏など個人名とともに展示された出土遺物、古写真群が大量にあった。いずれも鎌倉の文化財研究と文化財保護に力を尽くされた方々で、赤星直忠氏、八幡義生氏の出土遺物コレクションは、県立歴史博物館が保管しているという。それ以上に感銘を受けたのは、両氏の調査資料で、丁寧な筆跡、内容の綿密さもさることながら、書籍の外箱やデパートの包装紙で補強された手作りノートの外観を眺めていると、研究者人生の醍醐味がしみじみ伝わってくるように思った。

 私は短期間だけ逗子市に住んだことがあるのだが、あらためて航空写真や地形図で眺める鎌倉、明治から戦後の宅地開発に至る古写真も面白かった。昭和8年以降の「勝長寿院跡」の写真を見て、今年、源義朝と鎌田正清の供養塔を探しに行ったことを思い出した。こんなのんびりした田園風景は跡形もないが、山に囲まれた谷戸のかたちや曲がりくねった細い道は、今も面影が残っているように思う。

 かなり厚い図録は、3館連携で1冊。歴史博物館で購入。鎌倉国宝館はまた後日の予定だったが、図録を見たら、かなり珍しい作品が出ている。鎌倉だけでなく、京都・奈良・静岡・愛知などの寺院からの出品も。点数の多さにハッとして、国宝館のホームページを見に行ったら、前後期×1~3期という煩瑣な展示替えが組み込まれていて、すでに展示が終わっているものも多かった。がーん。この展示替えって、ありがたいんだか何だか。

※参考:武家の古都・鎌倉-世界遺産登録を目指して
神奈川県・横浜市・鎌倉市・逗子市の「世界遺産登録推進委員会」が運営するサイト(らしい)。2013年6~7月頃、第37回ユネスコ世界遺産委員会において登録可否の決議が行われる予定とある。切通の写真を見ていたら、また鎌倉のあちこちを歩きたくなった。
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