見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

尽きせぬ魅力・シルクロード/江戸東京博物館

2005-04-30 23:33:28 | 行ったもの(美術館・見仏)
○江戸東京博物館『新シルクロード展~幻の都 楼蘭から永遠の都 長安へ~』

http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/index.html

 連休初日は、近場で軽く遊んでおこうと思って出かけたら、つかまってしまった。シルクロードの遺品って、どうしてこんなに魅力的なんだろう。

 中国とかローマとかエジプトとか、強大な専制君主のもとで高度に洗練され、様式化された文明には、見慣れた安心感のようなものがある。一方、シルクロード(西域)の遺品は、記憶や様式の連続性を断ち切られて、どれもポツンと投げ出されたように現れる。そのため、かえって、個々のアイテムが強く印象に残るのだと思う。

 ニヤ遺跡出土の「霊獣文鳥形枕(れいじゅうもんとりがたまくら)」は、ギョーザのような形をした布製の枕だ。左右に伸びた長い房の片方に、鳥の目らしき丸い飾りが付いている。すぐに既視感がよみがえった。たぶん2002年に東京国立博物館で行われた『シルクロード―絹と黄金の道』展で見たのだと思う。

 「花卉文綴織袋(かきもんつづれおりぶくろ)」は初見だと思うが、とても印象的だった。ポシェットくらいの大きさの、小さな布袋である。地は褪めた青色で、真ん中をチロリアンテープのような小布が縦に飾っている。手提げの紐は赤の目立つ二色づかい。さらに袋のまわりを、さまざまな端切れが、八重の花びらのように華やかに縁取っている。

 解説に「現代の女子生徒が携帯電話に取り付けているいくつものストラップを連想させ、時代を超えた少女たちのお洒落心が伝わってくる」とあって、この謹厳な口調と、的確な比喩の取り合わせに、思わず微笑んでしまった。この解説、おいくつくらいの方が書いていらっしゃるのだろう。見識ある老先生が、若い弟子に「センセーこれって携帯のストラップみたいですよね」なんて示唆されて、つい書いてしまったとか。ちょっと想像を誘われる。

 西域の遺品には、死の匂いのするものが多い。今回も、木製のミイラ(何らかの理由で埋葬されるべき人物の遺体が手に入らなかったのではないか、と解説に言う)、ミイラの衣装、そして嬰児のミイラが展示されていた。嬰児のミイラは、赤い縁取りのある青のフェルト帽をかぶり、褐色の毛布にくるまれ、赤と青をねじった毛糸で丁寧に縛られていた。宗教上の理由に拠るのだろう、目と鼻は丹念に塞がれている。解説によれば、牛角製の杯と羊の乳房の皮を縫い合わせて作った哺乳器が一緒に埋葬されていたという。しばらく粛然として、かつて生命を持ち、死後もなお両親の変わらぬ愛情を注がれ続けた「物体」を眺めやった。

 男子ミイラ衣装は、袖の長い赤い衣、紫の袴、絹の靴下などから成り、顔を覆う白い塑造の面には、細い筆で眉、髭、閉じた目が描かれ、紅をさした唇は穏やかな笑みを浮かべているように見えた。

 唐突だし、不適当な連想かも知れないが、数日前に起きた列車事故のことを思い出した。テレビでは、連日、犠牲者とその家族の姿が報道されている。――死は悼むべきものだ。人間はこうやって、繰り返し、親しい人の死を悲しみ、悼んできた。それ以外に何ができるだろうか。そんなことをぼんやりと思った。

 一転して、中国ものでは、章懐太子墓の壁画「狩猟出行図」と韋貴妃墓壁画「献馬図」がすばらしい。さすがの洗練と力量を感じる。こういうのって、本場の中国に行っても、なかなか見られないんだよなあ。李憲墓出土の「拝跪文官俑」は類例を知らない珍品。小品「胡服女子俑」はきりりとした表情がカッコいい。
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記憶と忘却と/日露戦争史

2005-04-29 11:39:46 | 読んだもの(書籍)
○横手慎二『日露戦争史:20世紀最初の大国間戦争』(中公新書)中央公論新社 2005.4

 日露戦争と聞くと、すぐに司馬遼太郎の『坂の上の雲』を想いだす――これは本書の著者が、個人的事情として、「おわりに」の冒頭で告白していることである。たぶん、多くの日本人がうなづくに違いない。私もそうだ。

 しかしながら、本書は、そういう人にこそお勧めしたい1冊である。著者は外務省調査員としてモスクワの日本大使館に勤務したことがあり、ロシア近代史と地域研究、国際政治が専門である。したがって、本書は、日露戦争そのものよりも、戦争に至る前段階に紙数を割いている。また、日本よりもロシア側の事情(国内の政治対立、社会的緊張、そして外圧)の解析に重点をおいて記述につとめている。

 当時の国際情勢、東アジア情勢、その中で、日本を含む各国が、どのような利害関係を持ち、どのように熾烈な外交上のかけひきが行われていたかについても詳しい。武力衝突は、外交の延長上にある選択肢のひとつだったに過ぎない(それにしては、日露戦争の消耗は両国ともあまりに大きかったが)。「極東の海でまどろんでいた小さな島国が、あるとき、大国ロシアを倒して国際政治の舞台に踊り出ました」的な耳あたりのいいおとぎ話は、あまり鵜呑みにしないほうがいいと思う。

 日露戦争の結果は、両国の社会構造に多大な影響をもたらした。日本においては、日露戦争の勝利→軍部の政治力拡大、というのが、教科書的な理解だと思っていたけれど、むしろ、屈辱的な講和条件に反対する集会が、警察にも止められない焼き打ち事件に発展するなど、今日まで続く「大衆(ポピュリズム)の時代」の幕開け、という理解のほうが正しいのかも知れない。

 ロシアでは「恥ずべき敗北に陥ったのは、ロシアの人民でなく、専制である」と断言したレーニンによって共産党政権が樹立された。しかしながら、ロシア人民は決して日本への恩讐を忘れたわけではなく、1945年、第二次世界大戦の終結に際して、スターリンは「40年間、われわれ古い世代の者はこの日を待った」と述べたという。日本の敗戦を決定づけたソ連の参戦は、日露戦争の雪辱を期したものだったというわけだ。

 うーん。複雑。いまの日本にも「われわれはこの日を待った」と、いつか言いたい者たちがいるんだろうな。
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4月の海棠

2005-04-28 22:34:35 | なごみ写真帖
さて連休が始まる。今年は、めったにない大型連休だそうだ。
最近ようやくカレンダーを見て、なるほどと納得した。

だから、どうやって過ごすか、まだ何も考えていない。
まず美術館と博物館めぐり。このところ、同行者ありの旅行が続いたので、久しぶりに、ひとりで少し遠出してくるか。



「海棠や白粉に紅をあやまてる」 蕪村

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憧れの平家納経/東京芸大美術館

2005-04-27 00:10:12 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京芸術大学 大学美術館『厳島神社国宝展』

http://www.geidai.ac.jp/museum/news/news_ja.htm

 昨秋、立て続けに日本列島を襲った幾度目かの台風によって、厳島神社の社殿の一部が倒壊したのは、痛ましいニュースだった。台風一過の惨状を写真で見たときは、ただ呆然とした(毎日新聞動画ニュース 2004年9月15日)。さて、復興支援のための厳島神社国宝展が緊急企画されており、「平家納経が全巻公開されるらしい」という噂を聞いたのは、昨年暮れのことだった。

 えっまさか!ほんと? そのとき、私の脳裡には、豪華絢爛、精緻華麗な「平家納経」全33巻が、惜しげもなく全てを曝して繰り広げられる場面が湧き上がった。お大尽が呉服問屋で買い物するみたいなものだ。人生に二度はないかもしれない、この贅沢。ほとんど妄想に近い期待を寄せていたのだが、先行する奈良博での展示の詳細をよく読んだら、東京と関西で半分(17巻)ずつの展示であり、しかも奈良会場では5期に分けて常時5巻を展示します、って...おいおい、そんなの、ありかよ、と思った。

 ちなみに、各会場では「平家納経全33巻スタンプラリー」が行われていて、第1期+第2期のスタンプを集めると第3期の観覧料金は無料、さらに第4期までのスタンプを集めると第5期の観覧料金も無料になったらしいが、この特典を利用できた人は何人いただろうか。

 24日(日)は、憧れの平家納経は4巻しか出ていなかった。残念である。それでも、平家納経以外にも見るべきものはたくさんあった。厳島神社には、各時代の粋をきわめた工芸品が奉納され、伝世されている。舶来品も多い。中世の正倉院みたいなものだ。

 私はとりわけ、安徳天皇の遺愛品という伝承を持つ小ぶりな檜扇に惹かれた。茫洋と霞む野辺を背景に、小指の先ほどの小さな人物や車や牛馬が描かれている。パタパタと扇を折りたためば、人物のひとりひとりは板の間に隠れて、さびしい野辺の風景になってしまうだろう。そしてまた扇を開けば、にぎやかな野遊びの光景が戻ってくる...そんなふうに、幼い安徳天皇は遊んだのかもしれない。

 しかしながら、会場で最も印象深かったのは、昨年の台風の折の写真パネルだった。倒壊した左楽房の屋根が流れるのを防ごうとして、風雨の中、身の危険も省みず、必死で縄をかけている神職たちが写っていた。遠景には、上半身まで海に浸かった消防隊の人々の姿もあった。

 厳島神社の一日も早い復興を願ってやまない。また近いうちに、宮島に行ってみたいものだ。私は平家びいき(清盛びいき)なので、あそこに行くと、空間プロデューサーとしての清盛のセンスのよさを確認できて、たいへん嬉しいのである。平家の栄華は彼一代を頂点に終わってしまったが、この厳島神社の社殿と神宝類が、多くの人々に愛され、守り伝えられていることを思うと、清盛も以って瞑すべきであろう。

 ...隣の千畳閣もいいんだよね。
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萬福寺の梵唄/国立劇場

2005-04-26 06:36:44 | 行ったもの(美術館・見仏)
○国立劇場 声明公演『萬福寺の梵唄(ぼんばい)-黄檗・禅の声明-』

 久しぶりに声明を聴きにいった。国立劇場の声明公演を欠かさず聴きに行っていたのは、7、8年くらい前のことだ。その後、仕事が忙しくなったり、東京を離れたりして、なかなか機会が作れなかったが、これまで、東大寺修二会の声明や、藤沢・遊行寺の声明などを聴いている。

 実は、萬福寺の声明も始めてではない。前回、同じ国立劇場で公演があったのは1996、7年頃ではないかと思うのだが、この時期のデータはネットにないので確認できなかった。

 今回の公演は「第1部:巡照(じゅんしょう)~祝聖(しゅくしん)~朝課(ちょうか)-朝のおつとめ-」と「第2部:施食(スーシー)-施餓鬼(せがき)-」から成る。たぶん第1部は前回も同じだったと思う。ただ、前回は舞台上に巨大な魚梛(かいぱん=木彫りの魚)を吊るして、これを柄の長い木槌でコーンと叩くところから始まったように記憶しているのだが、今回はちょっと違った。(魚梛はロビーに展示されていた)

 おつとめは一編の音楽劇である。誰も曖昧な人語など喋らない。鉦の音、木魚のリズムによって、意思を伝え合うのだ。撥音の多い中国音(明音)は、耳で明るくスキップするように弾む。たとえば「無量光明」は「ウリャンカンミン」という具合。

 前回の第2部は、ジャカジャカ鳴り物の多い行進曲ふうで楽しかったが、今回は、お盆の先祖供養として行われる施餓鬼の法会が再現された。舞台中央には高い雛壇のような祭壇が築かれ、最上段に座った導師は、朗々と若々しい美声で経文や偈を唱いあげる。次々に密教の印を結んでみせる姿は、役者が見得を切るように華やかでうっとりする。中国音の経文の間に、ときどき短い「真言」のフレーズが混じって、まるでオペラのアリアとレスタティーボのようだ。さらに日本語(漢文読み下し)の願文も加わり、実にインターナショナルで自在な緩急を織りなしている。

 黄檗禅には、密教、道教、念仏など、さまざまな要素が入り混じっているという。しかし、不思議なことに融合の結果は、コテコテのごった煮にならず、むしろシンプルな高貴さを保っている。なるほど。明代の文化とはこういうものか。
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知性の衰退/戦後政治家暴言録

2005-04-25 00:08:22 | 読んだもの(書籍)
○保阪正康『戦後政治家暴言録』(中公新書ラクレ)中央公論新社 2005.4

 題名どおり、終戦直後から現在の小泉政権に至るまで、目立った政治家の暴言を取り上げて論じたもの。

 すでに歴史的に定着してしまった「暴言」について、あらためて正確な経緯とともに読んでみると興味深い。たとえば、私は吉田茂の「バカヤロー解散」を、小学生の頃、マンガ版『日本の歴史』(正確な書名は失念)で読んで覚えた。事態を単純化したマンガの中で、ワンマン宰相、吉田茂は壇上から大きな声で「バカヤロー」と怒鳴り、即座に野党議員は「解散だ!」と騒ぎ立っていた。

 しかし、実際には吉田の発言は着席したままのひとりごとのようなもので、しかも聞きとがめられてすぐ「私の発言は不穏当でありましたから、はっきり取消します」と陳謝している。このとき、吉田茂は75歳。若い社会党議員から「君」呼ばわりされたことに立腹したのではないか、という著者の指摘には、膝を打ってうなづけるものがある。

 また池田勇人の「貧乏人は麦を食え」という名(?)キャッチフレーズも、実際はもっと穏当で常識的な発言だったものを、反対派勢力と新聞記者が、巧妙にすりかえて作り上げたものであることが分かった。

 「暴言」の戦後年表を眺めていると、2つの感想が同時に浮かんでくる。ひとつは、政治家の暴言というのは、実に絶え間なく繰り返されてきたんだなあ、という感慨である。特に日本の戦争責任を曖昧にし、戦前の国家体制を肯定したいとする発言は、こんなにあったか、と、あらためて驚いてしまった。

 自分が殴ったことは忘れても、殴られたことは、なかなか忘れられないのが人間というものだ。多くの日本人は、村山首相の「謝罪」談話は覚えていても、これら政治家の暴言は「またか」で聞き流して忘れているから、「日本はきちんと謝罪したじゃないか」と思ってしまうが、近隣諸国からすれば、村山談話は忘れても、これら戦後の暴言のひとつひとつが忘れられていないのではないか、と思った。

 いまひとつ、日本の政治家の暴言の「質」は、21世紀に入った頃から、ガタガタに落ちているような気がする。その原因は、著者も指摘するとおり、政治家がテレビに大々的に露出するようになったことだ。テレビメディアは(視聴者も制作者も)感覚的な発言を歓迎する。その結果、その場限りの激情的な発言、ふまじめで軽い発言、知性のかけらもない発言がどんどん増え、我々はそれを「暴言」と意識することさえ忘れかけている。

 程度の低い政治家を野放しにしているのは、国民の責任である。とんでもないツケがまわってこないよう、最低限のチェックは怠らずにいたいと思う。
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桜と歌枕/山種美術館

2005-04-24 22:51:00 | 行ったもの(美術館・見仏)
○山種美術館『桜さくらサクラ・2005―大屏風も見参!―』

http://www.yamatane-museum.or.jp/

 同館の所蔵品の中から、桜をテーマにした作品を選んで展示する展覧会。実は2週間前、千鳥ヶ淵のお花見ついでに寄ってみようと思っていたのだが、千鳥ヶ淵の遊歩道と同様、こちらもすごい混雑だったので、あきらめて退散した。今週末は、さすがに桜は散ってしまったが、美術館のほうは、けっこう人が多かった。ふうん、日本画ファンて意外と多いんだな。

 私がいちばん気に入ったのは奥村土牛の2作品である。1つは『醍醐』(山種美術館のサイトに画像あり)。醍醐寺の枝垂れ桜を描いたものだが、桜の木が、杖をつき、少し衣を引きずる老女に見える。能楽に登場するような、あでやかな、神仙めいた老女である。

 もう1つは『吉野』。吉野山のなだらかな稜線が、桜がすみに見え隠れしている。そうね、『醍醐』が老女なら、こちらは若い娘の乳房のふくらみを思わせる山並みである。

 おもしろいと思うのは、この2作品、別に『しだれ桜』と『山桜』というタイトルであってもいいはずである。しかし、そこは『醍醐』『吉野』と名づけられることで、日本の古典的教養を共有する人には、さまざまな連想が一気に呼び覚まされ、眼前の作品に重層的なイメージが加わるのだ。数々の和歌、かの地を愛した文学者たち、戦乱と繁栄の歴史、そして伝説と歴史物語など。これぞ「歌枕」の魔力。あなどり難い。
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秘仏と国宝建築の旅(3)孝恩寺、願成寺

2005-04-23 21:56:22 | 行ったもの(美術館・見仏)
○孝恩寺(大阪府貝塚市)~慈眼院(泉佐野市)~日根神社、日根野天満宮(同)~願成寺(和歌山県海南市)~紀州東照宮、和歌浦天満宮(同)

 前夜は貝塚駅前のホテル泊まり。『大阪府の歴史散歩』を読んでいた同行人から、このあたりは寺内町(じないまち)と言って、寺を中心に形成された古い自治集落であると聞く。そこで、ちょっと遠回りをして、願泉寺(伽藍修復中)を眺めてから駅へ向かう。

 水間鉄道の終点、水間駅からバスに乗り継ぎ、「釘無堂(くぎなしどう)」で下りると孝恩寺だ。バス停の名前になっている観音堂は、秀吉の根来攻めのとき、周辺で唯一焼け残った貴重な国宝建築である。今日は法事が行われている様子だったが、奥様にお尋ねすると、「どうぞ、あとで中も御覧ください」とおっしゃって、まず、裏の収蔵庫に案内してくださった。

 収蔵庫に足を踏み入れた瞬間、ずらり並んだ仏像に圧倒される。いずれも平安初期の木造仏だ。都ぶりの美形が多く「整った荒々しさ」を感じる。朽ちたり壊れたりしているものは少ない。この収蔵庫は折れ曲がった造りになっているので、最初に一望できる仏像は半数だけである。後半にも同じくらいの仏像がお待ちになっていると分かったときは、嬉しさでめまいがしそうだった。18件(19体)が国の重要文化財に一括指定されている。小さな博物館なら、これだけで十分、特別展が開けるだろう。

 孝恩寺の仏像拝観は要予約である。電話で拝観をお願いしたとき、「できれば午前中に来ていただけませんか?」と言われて、最終的に、このスケジュールになった(和歌山と大阪を行ったり来たりしているのはそのためである)。何か法要でもあるのだろう、と思っていたら、収蔵庫を開けながら、奥様のいわく、「この収蔵庫、日が当たり過ぎると扉が膨張して開かなくなってしまうんです。だから午後の拝観はお断りしているんです」とのこと。貝塚市か大阪府、なんとかしてくれないかなあ。もともとお役所の工事だと言う。

 水間鉄道→南海線→JR関西空港線を乗り継いで、JR日根野駅からバスで慈眼院へ。ご案内いただいたのは、緑の木立と柔らかな苔に覆われた奥庭である。丸く刈り込まれたツツジの植え込みを挟んで、金堂(重要文化財)と多宝塔(国宝)が並んでいる。まるで箱庭のようだ。ご住職のお住まいには、庭に面した縁側が設けられ、庭の築山を見るように、国宝建築を眺めることができる。この贅沢、ちょっと羨ましい。

 このあたりは、中世の荘園「日根荘」として発達した土地である。往時をしのんで、日根神社、日根野天満宮を訪ねて歩く。

 それから和歌山県の海南市まで一気に南下。タクシーで願成寺に向かう。元旦と4月18日にのみ公開される秘仏のご本尊を拝するためである。本堂では法要が始まっていたが、案内を請うと、「観音堂の扉は開いているから、外からお参りしなさい。あれ以上は開かん」とのこと。細かい金網が邪魔になって内側がよく見えないので、顔を擦り付けるようにして覗き込む。すると、暗闇の中に浮かび出たのは、巨大な千手観音坐像である。息を呑んだ。威厳を形にしたような巨像である。脇侍も荘厳もなく、殺風景な木の壁を背にしているだけなのに、王者の風格がただよう。

 しばらく金網にしがみついていたが、タクシーを待たせていたので、そろそろ切り上げて、ご朱印を貰いにいった。すると、その間に観光バスの団体客が到着したらしい。同行人が目で招くので、観音堂に戻ってみると、正面の金網扉が開け放たれ、お客さんたちが狭い堂内に上がりこんでいる。なんだ、団体客には開けるのかー。ちょっと興覚めである。

 最近、こういう秘仏ツアー(男女とも高齢者が多い)によく遭遇するが、彼らの拝観態度には、はらはらすることが多い。立派なカメラをお持ちのおじいちゃんたちは、何の躊躇もなく仏像の写真を取りまくる。撮影禁止とはどこにも書いてないけど、信仰の対象なんだから、常識として遠慮すべきなんじゃないの?

 ともかく、これで2泊3日の秘仏と国宝建築の旅は終了。最終日は、とりわけ収穫が多く、楽しかった。ちょっと時間に余裕があったので、和歌山駅で途中下車し、和歌の浦を散策して、紀州東照宮と和歌浦天満宮(どちらも長い石段の上)に立ち寄って、帰路についた。

■釘無堂のバス停から孝恩寺を望む(門前に青いシートがかかっているところ)


■ようこそ貝塚へ(貝塚市のサイト):寺内町、孝恩寺
http://www.city.kaizuka.osaka.jp/kanko/index.htm

■泉佐野市観光協会:慈眼院、日根神社
http://www.city.izumisano.osaka.jp/section/kankou/kankoukyoukai/index.htm

(4月23日記)
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旅のおまけ:ローカル線二題

2005-04-22 23:39:37 | 行ったもの(美術館・見仏)
 和歌山エリアには、短いローカル線が多い。だいたい、JRや南海線の駅を起点に、あるものは海岸線へ、あるものは山間部に向けて市街地を走っている。

■紀州鉄道(個人サイト)
http://www.aikis.or.jp/~okada/ri/menu_ri.html

 紀州鉄道はJR御坊駅と市街地の間を結ぶ、全長わずか2.7キロの、日本一短い鉄道だそうだ。現在の終着駅、西御坊駅は、無理やり先頭に柵を設けているが、以前はもう少し先まで営業路線があった。廃線になった線路を追っていくと、日高川の河畔に、むかしの終着駅のホームが”遺跡”のように残っている。



■水間鉄道概要(個人サイト)
http://www.amayadori.org/suitetsu/about/

 大阪南部の南海本線貝塚駅と、水間観音のある水間を結ぶ水間鉄道。全長5.5キロ。東京の東急線の車両を使っているので、つり革に渋谷の「Bunkamura」とか「東横のれん街」の広告がそのまま残っている。ローカル鉄道ではよくあることなんだろうけど、微笑んでしまった。



 というわけで、貝塚から始まる旅の3日目に続く。
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秘仏と国宝建築の旅(2)観心寺、金剛寺

2005-04-21 23:12:15 | 行ったもの(美術館・見仏)
○紀三井寺(和歌山市)~観心寺(大阪府河内長野市)~金剛寺(同)~桜井神社(堺市)~大鳥神社(同)

 2日目は、駅前のホテルから、ぶらぶら歩いて紀三井寺に向かう。山の中腹に張り付いたようなお寺である。山門をくぐると、長い石段がまっすぐに伸び、はるか上の方で、葉桜の枝の間に消えている。さすが西国第二番の札所らしく、朝から参詣客が多い。南方なまりの中国語も聞こえてくる。

 ここは藤原時代の十一面観音(重要文化財)をはじめ、名品の仏像を数多く伝えているはずで、本堂のいちばん奥に、それらしいお姿が並んでいる。しかし、本堂内部に入れるのは、ご祈祷を受ける参拝者だけだ。しかもご本尊は秘仏である。お札やお守りを売っているおばちゃんに、「ご開帳ってあるんでしょうか?」と聞いてみたら、「50年に一度」だという。うーん。まだ十数年も先らしい。ただし、最近、建ったばかりの現代風の「宝塔」に、これから巨大な千手観音を安置する計画があるそうで、その記念法要の際は、たぶんご開帳をするだろう、との耳寄り情報を得た。秘仏ファンは、2006年秋を待て。

 いったん和歌山を後にして、大阪南部まで北上し、南海高野線の河内長野駅からバスで観心寺へ。毎年4月17、18日の両日のみ公開される秘仏・如意輪観音がお目当てである。実は私は以前にも一度来たことがある。閉門ぎりぎりにタクシーで飛び込み、参拝客も少なくなった夕暮れのお座敷で、匂い立つ美女のような観音に対面した。

 この日は日曜に重なったため、ものすごい人出だった。金堂で説明するお坊さんも「明日の月曜日に来ていただければ、これでもご開帳かと思うあんばいなんですが」と苦笑していた。しかし、まあ、この如意輪観音は、説明不要で一見の価値がある。観音様の前に余計なもの(花とか香炉とか)を置かないので、どんなに座敷が混んでいても、全身を拝見できるのはありがたいことだ。

 前回はご本尊の拝観だけでタイムアウトしてしまったが、今回は、建掛の塔(楠正成が建てかけて中断した三重塔)や後村上天皇陵、そして霊宝館もゆっくり見ることができた。地蔵菩薩、十一面観音など、平安時代の木造仏の名品が多い。山野の精霊のような、率直な力強さに満ちている。

 再び河内長野駅に戻り、今度はタクシーで金剛寺に向かう。南北両朝の天皇上皇にゆかりのお寺である。古美術ファンには、あの『日月山水図屏風』を持っているお寺、という紹介がいいかも知れない。

 金剛寺は四方を山に囲まれ、渓流沿いの細長い平地に、坊舎の列が続く。韓国のお寺のたたずまいに似ていると思った。『日月山水図』が韓国の伝統的な図様であることを考え合わせると興味深い。車を下りるとすぐ、本坊の大きな楼門があり、その内側に、多宝塔、金堂、食堂など、立派な堂宇が垣間見えたが、まず奥に進んで、宝物館+観蔵院(北朝の行在所)と摩尼院(南朝の行在所)から拝観することにした。摩尼院の案内をしてくれたのは「先生」と呼ばれる足の悪いおばあちゃんで、言葉の端々に、北朝に対するライバル心が感じられておもしろかった。

 さて、最後に本坊をゆっくり、と思っていたのだが、戻ってみると、楼門はぴたりと閉じられてしまっていた。えぇぇ~まだ4時半を過ぎたところなのに…。我が国最古の多宝塔は。二体の明王を従えた三尊形式の大日如来は。後村上天皇が政務を執った食堂は。同行者とともに、しばし呆然であった。また来るしかないか。

 予定のコースが早めに終わってしまったので、夕闇迫る和泉中央の桜井神社(割り拝殿が国宝)に寄り、鳳駅近傍の大鳥神社に寄ったときは、既に真っ暗。親切な警備員さん、ありがとうございました。そして貝塚のビジネスホテル泊。

■あやしい響きに心が躍る「秘仏拝観券」(観心寺)


■河内長野の四季:写真豊富
http://homepage3.nifty.com/knagano-shiki/

(4月21日記)
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