見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

画像もすごいが文字もすごい/公開講演会・画像史料の語る日本史

2018-01-30 23:16:30 | 行ったもの2(講演・公演)
東京大学史料編纂所画像史料解析センター 創立20周年記念公開講演会『画像史料の語る日本史』(1月27日13:00~17:00、弥生講堂一条ホール)

 画像史料解析センターの講演会があるという情報が、SNSで流れてきた。東大史料偏差所の史料展覧会には、なるべく行くようにしているのだが、附属施設である画像史料解析センターの公開イベントは、私の記憶にない。参加無料、事前申込み不要だというので、とりあえず行ってみた。40分ずつの4つの講演が組まれていた。

(1)須田牧子:「倭寇図巻」研究の現在

 最初の講演は、むかしから気になっている『倭寇図巻』について。史料編纂所が購入した時は「明仇(=明の仇英)十洲台湾奏凱図」という題箋がついていたが、辻善之助が「倭寇図巻」と命名した。不明な点が多かったが、2010年、赤外線撮影によって新たな文字が見つかったことで研究が進展した。同じ頃、中国国家博物館の『抗倭図巻』の存在が明らかになり、やはり赤外線撮影によって文字が判明する。また、『文徴明画平倭図記』という書物から『平倭図巻』(現存せず)の詳しい図様が分かり、『抗倭図巻』とよく似ていることが分かった。しかし、3つの図巻が直接の模倣関係にあったとは考えられず、明代後期につくられた多数の蘇州片(模本)の一部と考えられる。

 以上は、2014年刊行の『描かれた倭寇:「倭寇図巻」と「抗倭図巻」』にも述べられていることだが、だいぶ内容を忘れていたので、あらためて面白かった。歴史研究が、絵画史の「蘇州片」という視点を入れることで、新たな展開を見せるのが興味深い。蘇州片に多い主題として「清明上河図」や「武陵源図(桃花源図)」があるが、実は『倭寇図巻』にはそれらと共通するモチーフ(平和の象徴である桃樹など)が見られる、という指摘は刺激的だった(※ネット検索したら、板倉聖哲先生の『蘇州片と「倭寇図巻」「抗倭図巻」』という論文あり)

 あと講師のレジュメの最後にある「倭寇図を消費し、倭寇小説を読み倭寇演劇を享受する明清の社会相をどうとらえるか」という一文が気になる。倭寇演劇なんてものがあったのか。

(2)金子拓:長篠の戦い-いかに描かれたか/いかに描くか-

 『長篠合戦図屏風』は、犬山白帝文庫所蔵の成瀬本が最も有名だが、これとは別に東博本『長篠合戦図屏風』(下絵)は、近年ようやく認知されたものだという。私はこの屏風を、2016年の山梨県立博物館『武田二十四将』展で初めて見た記憶がある。講師は、東博本が成瀬本の構図を基本的に継承しながら、人物・馬の多さ、特に武田側の軍勢が多く描かれ、真田隊の活躍が描かれること、徳川家康の存在を馬印のみで表し、姿を直接描かないことなどに注目する。現在、史料編纂所では、彩色を加えた東博本の復元模写を作成中で、2020年度には完成させ、なんらかのかたちで公開したいとのこと。楽しみである。

(3)杉本史子:世界と空間を描く―江戸時代、表現する人々-

 日本地図にかかわった人々を世代別に考察する。まず、初めて本格的な日本地図を作成した伊能忠敬。通称は三郎右衛門、または勘解由。儒学を学ぶ上で林大学頭から忠敬という名をもらったが、伊能忠敬とは名乗らなかっただろうというのに驚かされた。日本全国を測量してまわるのに「御用」を称することができたのは大きな便宜だが、費用の大部分は自弁だったというのも驚くべきこと。あと、忠敬以前の測量は内陸の田畑を測るものだったが、忠敬は「海際測量」に徹した。それは対外的に日本の姿を明らかにする必要があったためである。

 次世代の開成所の学者・技術者たちは伊能図をもとに「官板実測日本地図」を作成した。将軍慶喜はこの地図をパリ万博で展示し、各国に贈呈し、日本の国土の姿を広めた。彼らの営為を引き継ぐのが、明治以降の近代海図である。史料編纂所の赤門書庫には、国内でも珍しい19世紀の海図が多数発見されている。

(4)保谷徹:古写真ガラス原板にみる幕末・明治の日本

 明治時代にオーストリアから来日した写真家ヴィルヘルム・ブルガーとその弟子ミヒャエル・ブルガーのガラス原板コレクションの調査を2010年から開始。超高精細カメラで撮影し、画像を拡大すると、遠景や細部にさまざまな情報が隠れていることが発見できた。ガラス原板の解像度(情報量)はすごいと聞いていたけど、拡大画像を見せられてよく分かった。地平線上の小さな建物や壁の落書も発見することができる。しかし、なんといっても文字が写っていると、撮影場所や時代が、たちまち判明する。やっぱり画像もすごいが文字の情報量はすごいと最後に思った。明治初頭の写真には、鶴岡八幡宮の仏塔など、神仏習合の様子が多数、残っているのも興味深かった。

 想定より来客数が多かったのか、配布資料が足りなくなっていたり、時間が押して質疑応答がカットになったり、全体に講演者が一般向けに喋り慣れていなかったり(保谷先生は上手かった)、運営に不慣れな点が目立ったが、まあ面白い話を聴けたので、よかったことにしておこう。
コメント

御室の宝蔵+地方仏の至福/仁和寺と御室派のみほとけ(東京国立博物館)

2018-01-29 23:28:02 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館 特別展『仁和寺と御室派のみほとけ-天平と真言密教の名宝-』(2018年1月16日~3月11日)

 仁和寺の寺宝と、仁和寺を総本山とする御室派寺院が所蔵する名宝の数々を一堂に集めた特別展。葛井寺の秘仏・千手観音菩薩坐像のお出ましは後期(2/14-)だが、その前に前期展示を見るために行ってきた。覚悟していたよりは人が少なくて、ゆっくり見ることができた(昨年の運慶展や国宝展に比べれば)。

 冒頭は、文書資料を中心に仁和寺の初期の歴史を紹介する。重要人物は、開基である宇多天皇(867-931)と、後白河法皇の第二皇子で第六世仁和寺門跡の守覚法親王(1150-1202)。守覚法親王の肖像は初めて見た気がするが、四角い顔、はっきりした眉が意志的で、なんとなく後白河院を思い出させる。親王は、弟・高倉天皇の中宮である平徳子の御産に際し、孔雀経法を修して安産祈願を行った。これに感謝を述べる高倉天皇の書簡と、守覚法親王の返信が伝わっている。高倉天皇の書簡は宸筆としては唯一のもの。図録の解説に「独特の書風」と評されていたが、どこかはかなげな感じがする。歴代天皇の宸筆が並んでいるのも見ものである。

 空海の『三十帖冊子』は入唐中の写経ノートで、全て枡形本っぽい小型の冊子で、細密な文字がびっしり書きつけられていた。当たり前だが空海は、漢文でなく中国語で読み書きしていたのだろうな。一部は別人の筆で、橘逸勢と推定されるものもある。図録に、守覚法親王が東寺から借覧し、仁和寺のものになったとあって苦笑した。いや、返せよ。

 続いて「修法の世界」と題して、仏画・仏具など。大好きな『孔雀明王像』(北宋時代)が来ていて嬉しい! 展示ケースが薄いので、かなり接近して鑑賞することができる。ただ照明が明るすぎて不安だった。照明がガラスに映り込むのもよくない。なお図録に「仁和寺と孔雀」というコラムが設けられていて、大宰府から仁和寺に持ち込まれた生きた孔雀が、鳥羽院、崇徳院、藤原頼長などに回覧された話が出ていて興味深い。

 各時代の素晴らしい仏画がたくさん出ていたが、大阪・金剛寺の『尊勝曼荼羅』は、降三世明王・大日如来・不動明王の三尊が描かれていて、ああ、京博と奈良博においでだったあの三尊だ、とすぐに分かった。金剛寺の『五秘密像』はあやしい図像だなあ。仁和寺の『荼吉尼天像』(室町時代)は正面向きの巨大な白狐(?)が恐ろしい。『別尊雑記』など、美しい白描をたくさん見ることができたのも眼福。そして京博の『十二天像』から、前期は「梵天」「地天」が出ていた。これもケースが薄いので作品に肉薄することができ、見えにくい手先や目もと、あるいは瓔珞や衣の花模様まで、はっきり確認することができた。ちなみに東寺の十二天像は、宇多天皇ゆかりの仁和寺円堂の壁画をもとに描かれたものである。

 「御室の宝蔵」のお蔵出しはさらに続く。数々の医書、『方丈記』の最古写本(京都・大福光寺所蔵)。神秘的な『僧形八幡神影向図』も好きな絵画である。『信西古楽図』(室町時代)は楽しい~。『彦火々出見尊絵』(江戸時代写)もなぜ?と思ったら、後白河院が蓮華王院宝蔵に集めた絵巻物一部は、その後、仁和寺に移管されていたらしい。

 さて後半は、がっつり仏像ワールドである。はじめに仁和寺の江戸復興にかかわった覚深法親王(1588-1648)を紹介したあと、仁和寺観音堂の再現コーナーに入る。写真撮影可。千手観音・降三世明王・不動明王・二十八部衆・風神・雷神像(全て江戸時代)がわちゃわちゃ並んだ充実感に目がとまるが、個人的には、むしろ壁画の再現度がスゴイと思った。須弥壇の背景には僧形・俗人・天部など、さまざまな参拝者が集合している(たぶん)。その裏側は、上段が六観音、下段は六道図が描かれていた。周囲の壁の上段には三十二観音、下段はよく分からないが霊験譚みたいだった。図録には全て図版・解説が収録されていてありがたい。

 次に金剛寺の五智如来。これは正面だけでなく横顔もよいので、回りながら確かめてほしい。仁和寺の阿弥陀如来坐像と両脇侍立像は、ふだん霊宝館にいらっしゃるものかな。たまに訪ねると、うっとり見とれる仏様である。福井・明通寺の降三世明王立像と深沙大将立像はその巨大さを強調するライティングがよかった。なお、降三世明王は絶対、後ろに回り込んで、見上げてみるべき。香川・屋島寺の千手観音菩薩坐像は初めて見た。猪首で腕が太く、力強い。源平の戦いを見てきたのであれば感慨深い。徳島・雲辺寺の千手観音菩薩坐像は、逆に腕が細くたよりなげで、衆生の祈りを聞き届けるというよりは、自ら祈るような表情をしている。胎内に墨書名あり。

 最後を飾るのが、福井・中山寺の馬頭観音菩薩坐像なのだが、露出展示でなく、展示ケースに入っているのが残念。まあその分、ギリギリまで近づくことができるので、三面の左右の面も玉眼で、豊かな表情をしていることや、頭上の白馬が前脚を折っていること、衣や蓮弁に残る彩色などを、よく眺めることができた。ではまた後期に!
コメント

十字軍運動と都市の修行者/剣と清貧のヨーロッパ(佐藤彰一)

2018-01-28 23:53:54 | 読んだもの(書籍)
〇佐藤彰一『剣と清貧のヨーロッパ:中世の騎士修道会と托鉢修道会』(中公新書) 中央公論新社 2017.12

 西洋史には詳しくない私だが、著者の名前を見て、これは面白いに違いないと思った。修道院の起源を論じた『禁欲のヨーロッパ』(中公新書 2014)を読んで、とても面白かったので。本書は前作の続編と言っていいだろう。俗世間を離れ、自らの心の内を見つめる場として成立した修道院。だが、その伝統から大きく離れた修道会が12世紀に登場した。騎士修道会と托鉢修道会である。

 騎士修道会は、異教徒に対する征服戦争(十字軍運動)の中で生まれた。本書には、テンプル騎士修道会、ホスピタル騎士修道会、ドイツ騎士修道会、サンチャゴ騎士修道会などが紹介されている。私は「修道会」と「騎士修道会」と「騎士」の区別がほとんどついていなかったのだが、これらは本来、別のものである。中世の社会は「祈る者」「戦う者」「働く者」の三つの身分で構成されていると考えらえていた。10世紀末から11世紀にかけて、領主間の武力紛争が社大きな混乱と疲弊をもたらしたため、教会人たちは騎士を「平和運動」に取り込み、一定の規律に従わせることで、その暴力性を馴致しようとした。ここに厳しい戒律と作法に従う武力集団「騎士修道会」が成立する。

 ローマ教皇は騎士修道会に大きな特権を与えることで、彼らを従属下においた。これは異教徒との戦争における重要性もさることながら、むしろヨーロッパ内部において、司教権力から切り離し、教会改革や社会改革を実現する手段として活用する側面があったという。生臭い話だが、大きくなりすぎた権力が直属の集団(武力を含む)を必要とすることは分かる。

 興味深いのは、騎士修道会が、交易や国際金融への関与(前線で軍事資金を調達するため)、所領経営(農業と牧畜、特に軍馬の飼育)など、ヨーロッパの経済活動において大きな役割を果たしていたことだ。騎士修道会の有能なメンバーは各国の世俗権力のために、特に財政面で奉仕したという。タイトルの「清貧」とずいぶん違うじゃないか、と苦笑したが、それは別の話。また、著者は「騎士修道会がもたらしたもの」のひとつとして「聖戦」思想の胚胎と形成をあげる。この思想は、イスラーム教徒の「ジハード」と一対の概念となり、今日にも重たい影響を与えている。

 次に托鉢修道会について。初期の修道院は、人里離れた「荒野」につくられ、農業生産を行いながら祈りの生活を行った。これに対し、聖フランチェスコ修道会、ドミニコ修道会などの托鉢修道会は、個人の財産だけでなく、共同財産も放棄し、生活の糧は全て喜捨に依存した。彼らが拠点としたのは、13世紀に大きく成長した都市であった。これは、日本でも山の寺院で修行する僧と、市の聖がいたことの類推で理解できる。

 アッシジの聖フランチェスコについて、私は本書ではじめて多くを知ることができた。「絶対的無所有」という彼の思想の革新性も少し分かった。社会的上昇を大罪とみなすがゆえに、その手段となり得る「学識」に対しても不信感をあらわにする。高価な書物は、清貧と無所有の原理と対立するというのである。また「平和」を熱心に説いたことも当時の人々を驚かせた。著者は、若き日のフランチェスコが騎士に憧れ、平和の担い手としての「騎士道精神」に親しんでいたことが行動の源泉にあるのではないかと推測する。

 聖フランチェスコ修道会が、詩的感性とラジカルな行動規範で今なお人々を惹きつけるのに比べると、ドミニコ修道会は分が悪い、と著者は書いている。しかし苦しむ人々へのドミニクスの同情と共感、行動する強い意志はやはり並大抵のものではない。まあ聖フランチェスコが空海なら、ドミニクスは最澄タイプかな、と思いながら読んだ。

 最後に、13世紀後半からベギン派と呼ばれる女性の新しい回心者の形態が出現する。彼女たちは、修道誓願を行わず、自発的に貞潔と清貧の生活に入り、都市の中で、主に托鉢修道会の修道院の近くの小さな一軒家かベギン館(会館)に定着した。比較的裕福な中間層以上の女性が多かったというが、女性の生き方の選択肢として興味深いと思った。
コメント

中華ドラマ『軍師聯盟之虎嘯龍吟』、看完了

2018-01-27 23:54:03 | 見たもの(Webサイト・TV)
〇『軍師聯盟之虎嘯龍吟』全44集(2017年、東陽盟将威影視他)

 2017年6-7月に放映された『大軍師司馬懿之軍師聯盟』の第2部である。第1部に熱狂したファンの間で「第2部は秋」「いや遅れるらしい」などの推測が飛び交ったが、結局、2017年12月7日から、放映ではなくネット配信が始まり、私は少し遅れて年末から見始めた。期待をはるかに超えて、忘れられない一作になった。

 第2部は、郷里に隠棲していた司馬懿を曹丕が呼び戻すところから始まる。病に倒れた曹丕は、司馬懿、曹真ら四人を皇太子・曹叡の輔臣(補佐)に任じて死す。え~初回で死んじゃうの!?と驚いたが、曹丕という後ろ盾を失うことで、司馬懿にとって本当の戦いが幕を開けるのだ。新帝・曹叡は暴虐をほしいままにし、曹真は司馬懿の排斥を企む。そんな中、司馬懿は息子の司馬師・司馬昭を引き連れて、諸葛孔明率いる蜀漢軍と戦い、戦いを通じて互いを知己と感じるようになる。孔明の死が第22回。長年、司馬懿のライバルであった曹真も、戦いの中で没する。

 孔明の死で蜀漢との戦いが収束すると、曹叡の関心は再び内廷に向かい、讒言を信じて郭皇后(郭照)に死を賜る。しかし、その曹叡も病に侵され、幼い曹芳を皇太子に立て、曹爽(曹真の息子)と司馬懿を輔臣に任ずる。曹爽は、この機に司馬懿を殺そうと宮中に兵を潜ませるが、司馬懿の気迫に押されて手が下せない。曹叡は司馬懿の背中に負われて息を引きとる。これが第27回。曹爽は魏の朝廷を牛耳り、再び司馬懿の命を狙うが、司馬懿は幼帝・曹芳を抱きかかえて、間一髪、死地を逃れる。司馬家の人々(司馬師の嫁の夏侯徽、その兄の夏侯玄も)が一丸となり、連携プレーで司馬懿を救出するのが第31回。やっぱり司馬家はいいなあと安堵したものの、そんな幸せはこれが最後だった。

 司馬懿は、来たるべき危機に備え、ひそかに死士(決死の兵)を養うことを、信頼する長男・司馬師だけに命じる。血気盛んな次男・昭と柏夫人を母とする倫はこれを嗅ぎつけ、父親への不信感をつのらせる。一方、司馬師の妻・夏侯徽は心配のあまり、夫の秘密を探り、死士の隠れ里を発見する。あとをつけてきた司馬昭は、激情にかられて彼女を殺してしまい、司馬倫はその罪を長兄の司馬師に着せる。司馬家の平和は、内側からじわじわ壊れていくのだ。

 愛妻・張春華の死後、司馬懿はすっかり耄碌したふりをしていたが、ついに決起し、死士の一団を率いて洛陽を掌握し、曹爽らを三族皆殺しの刑とする(高平陵の変)。その後も容赦なく敵対者を粛清していく息子たちと、それを是認する司馬懿の態度を見て、絶望した柏夫人は死を選び、魏の忠臣たろうとする弟の司馬孚も去っていく。

 息子・司馬昭の行動に不信を抱いた司馬懿は、夏侯徽の死の真相を知り、昭の処罰を兄の司馬師に任せる。しかし、司馬師は弟を殺すことができない。生涯の大半を「他人の刀」として過ごした司馬懿は、最晩年、自ら「刀を執る者」になろうとしたが「もはや刀は我が手になかった」とつぶやく。心猿意馬と名づけていたペットの亀を放し、湖のほとりで静かに生涯を終える。

 第2部の出演者について、王洛勇の諸葛孔明は、涼やかで苦労人らしくて、とてもよかった。本作の監督・張永新が「(歴史上の人物を)神格化、妖魔化はしたくない。普通の人として描きたい」と語っている映像を見たが、その狙いどおりの孔明だった。孔明を一途に支える姜維(白海涛)もよかった。武勇の人・姜維のイメージをだいぶ修正した。曹爽(杜奕衡)はもっと切れ者のライバルに描くのかと思っていたら、残忍だが単純で、人のよさが見え隠れする役柄で、その分、処刑シーンは哀れだった。曹叡役の劉歓は怪演と言ってよいだろう。気持ち悪くて怖かった。まだ若い役者さんで、写真を探すと笑顔はかわいいんだなあ。曹叡に仕える太監の辟邪(創作人物)役の張天陽はイケメンさん。かなり悪魔的な役柄だが、それでも最後に人間味を見せる。

 司馬師(肖順堯)、司馬昭(檀健次)の兄弟を演じた二人は、MIC男団という音楽ユニットのメンバーだそうだ。へえ~。どちらも難しい役をよく演じていた。特に司馬師役の肖順堯は、背が高くて見栄えがするので、また古装劇に出てほしい。最終回の直前、弟に刃を向ける覚悟で登場したときは、冷たい殺気をまとい、ぞくぞくするほどカッコよかった。日本の大河ドラマ『平清盛』でAAAの西島隆弘くんが平頼盛役を演じたことを思い出した。

 あと司馬孚おじさん(王東)。司馬家の人々が次々に闇落ちしていく中で、最後まで良心の人だった(史実もそうだったらしい)。郭皇后(郭照)が投獄された際「一緒にいる(陪着你)」と言って背中を向けて牢の前に座り込む姿に泣けた。最後の最後に司馬懿から「郭照もお前と結婚していれば幸せだったろう」なんて、第1部の始めの頃を思い出す会話を聞かされてつらかった。第2部の終盤は、自然と第1部のあれやこれやを思い出すシーンが多く、歳月の隔たりを感じ、繰り返すものや帰ってこないものをしみじみ懐かしんだ。

 劇伴音楽がすごく好きだったことも書いておきたい。神思者(S.E.N.S.)と言って、日本のユニットなのだそうだ。それからYouTubeでは本作のメイキング映像を何本か見ることができる。張永新監督や、司馬懿を演じ、かつプロデューサーでもある呉秀波が、撮影の合間に三国志あるいはこのドラマの登場人物について熱く語り、ほかの出演者(特に若手俳優)が耳を傾けている様子など、現場の雰囲気が垣間見える。どうか第1部とともに、早く日本で放映されますように!
コメント

今年はイヌ年/2018博物館に初もうで(東京国立博物館)+常設展

2018-01-24 22:04:33 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館 特集展示『博物館に初もうで 犬と迎える新年』(2018年1月2日~1月28日)

 今年も博物館詣では、この展示から始まった。それにしても、年々お客さんが増えている感じがする。今年の干支・イヌは世界中で古くから人に愛されてきた動物なので、犬にちなむ美術品や考古資料を探すのに苦労は要らないだろうと思った。円山応挙の『朝顔狗子図杉戸』は、当然あるよなと思っていたら、やっぱりあった。私の好みは、狩野常信が李迪の原画を模写したもの。毛並みがよくて賢そうな犬。英一蝶の『子犬図』も可愛かった。礒田湖龍斎というよく知らない画家の『水仙に群狗』では、ぎゅうぎゅうに体を寄せ合う子犬たちが、どれも愛嬌のある顔をしている。東洋の絵画に描かれる犬は、だいたい丸顔でコロコロした愛玩犬系統である。

 凝っていたのは中国絵画で、伝・夏珪筆『山水図』など、見たことのある大きな作品が掛けられており、どこかに犬が描かれているというのだが、はじめ全く分からなかった。「あれじゃない?」「あそこか!」とお客さんどうしの話題になっていた。立体では、中国・後漢の緑釉犬。この子は耳が折れ、尻尾がくるりと巻いて、小さいなりに野生を感じさせる。19世紀、ドイツ・ドレスデン製の『犬形置物』は、耳の垂れたビーグル犬だろうか。東博には意外な所蔵品だと思ったら、ライプツィヒ民族学博物館からの寄贈品だった。

 そのほかの常設展示室にも「新春特別公開」の名品がところどころに混じっていた。私のイチ推しは、間違いなく本館2室(国宝室)の『釈迦金棺出現図』である。昨年は、京博の国宝展の会場で久しぶりに見たが、正月の東博のほうが落ち着いて見ることができた。東博・公式サイトの説明も熱が入っていて、長い。「本図は、もと、京都の天台宗長法寺(ちょうほうじ)に伝来し、第二次大戦後に、電力王とも最後の茶人とも評された松永安左エ門(まつながやすざもん)氏が入手し、財団法人松永記念館の所有を経て、氏の没後、国に寄贈されました。現在、京都国立博物館で所蔵の本図は、その貴重さ故に館外に出されることは滅多にありません。この機会に是非じっくりとご堪能ください」 とのこと。1月28日まで展示なので、もう一回見てくるかも。

 伝・狩野元信筆『楼閣山水図屏風』も、昨年の展覧会を思い出しながら眺める。本館7室(屏風と襖絵)に出ていた亜欧堂田善の『浅間山図屏風』は、晴れやかな気持ちになって、新年にふさわしく感じた。

 東洋館(アジアギャラリー)8室(中国絵画)では『呉昌碩とその時代-苦鉄没後90年-』(2018年1月2日~3月4日)を開催中。いまいち魅力がよく分からないが、「八大山人に学んだ」とか「石濤に学んだ」という習作時代の作品は、なるほどと思うところがあって興味深かった。3室(西域の美術)は一時的に(?)展示スペースを拡張したように見えて、ホータンやトヨク(吐峪溝)など、シルクロードの出土品がたくさん出ており、一回だけ行ったシルクロード旅行を思い出して、懐かしかった。

 今年も東博には足繁く通いたいと思っているが、3月中旬で切れる「パスポート」の対策を、本気で何とかしなくては…。
コメント

初夢はカラフルに/色絵 Japan CUTE !(出光美術館)

2018-01-22 18:52:43 | 行ったもの(美術館・見仏)
出光美術館 『色絵 Japan CUTE !』(2018年1月12日~3月25日)

 新春にぴったりの、明るく華やかな展覧会。柿右衛門、鍋島、古九谷、京焼など、江戸時代に花開いたカラフルなやきものと同時代の屏風や調度品など180点余りを紹介する。会場に入ってすぐ目に入るのは、赤、青、緑、金の主張の取り合わせが祝祭ムードを盛り上げる変形皿『色絵熨斗破魔弓文皿』。記憶にないな、と思ったら、サントリー美術館の所蔵品だった。本展は、他にも数点、サントリー美術館からの出品がある。

 第1室で面白かったのは、壁際の長い展示ケースに、季節の絵柄を並べた構成。「春」は梅に鶯、椿、桜、「夏」は藤、蓮、牡丹、薔薇、石楠花、「秋」の冒頭は糸巻で七夕を寓意する。勅撰和歌集の四季の部を思い出して楽しかった。時代や産地でまとめていないので、古伊万里の隣りに古清水があったり、鍋島の次は古九谷だったりのコラボレーションも新鮮でよかった。「冬」がなかったのは残念。

 次に古九谷と「ファッション」とのかかわり。江戸時代初期(17世紀)に登場する古九谷は、独特の色味と大胆な図柄が特徴で、私の大好きなやきものである。そもそも私がやきものに興味を持った発端が古九谷だった。古九谷の大胆な図柄は、同時代に流行した寛文小袖と類似性が高いことを、寛文小袖の雛型本『新撰御ひいなかた』を参考に紹介する。まあ同じ時代の空気をまとっているので不思議はないが、それほど強調することかな?という気もする。あと私は、色数が限定的で、だからこそ個性的で魅力的な古九谷を「色絵」の範疇に入れて考えたことがなかったので、その点にはやや違和感を持った。

 「文学」とのかかわりには、乾山の色絵皿が多数並んだ。百人一首や月次詠に取材したセットものの絵皿が楽しい。特に皿の表に花鳥や風景の絵だけを描き、裏に和歌を記したタイプのものが、謎解きっぽくて。おしゃれで面白い。『色絵能絵長角皿』は能楽の演目について、表に絵、裏に詞章を記す。「安宅」「道成寺」など、演目の内容とつかず離れずの画題なのが巧いと思う。

 後半の冒頭は「Japan CUTE、世界を駆ける」と題して、日本の色絵が世界の陶磁器に与えた影響(及びその逆)を紹介する。柿右衛門の『色絵梅粟鶉文皿』に描かれた二羽の鶉が、イギリスのチェルシー窯やウースター窯、ドイツのマイセン窯、オランダのデルフト窯などに展開していく様子が楽しい。妙にキリッとした鶉もいれば、トボけた鶉もいる。この変化と成長(?)の様子は、2008年の出光美術館の展覧会『陶磁の東西交流』でも見せてもらったもの。それ以来、久しぶりでまとめて見ることができて、嬉しかった。逆バージョンが古伊万里の『色絵ケンタウロス文大皿』なのだが、何度見ても可笑しい。原形と違っているからダメなのではなく、それぞれの国の人々の求めるイメージが盛り込まれていく過程を、肯定的に捉えたいと思う。

 このほかにも本展には、色もかたちも楽しいやきものがたくさん出品されている。私は古清水の『色絵松竹梅文硯屏』とか『色絵桜藤花文鶴首徳利』が大好き。仁清の『色絵梅花文四方香炉』(蓋にウサギが載っている)もいい。仁清は小さな『色絵鶴香合』も好き。こうしたCUTEなやきものを愛したのは女性だったのか、男性だったのか。どうも後者のような感じがする。日本男児がかわいいもの好き。

 また、本展は、江戸時代のやきものの中に、板谷波山、富本憲吉など、近代の陶芸家の作品がさりげなく混じっているのが面白い。小山冨士夫の『紅毛茶碗』シリーズいいなあ。青とレモンイエローの横縞柄でさわやか。昭和40年代の作品だという。それから、図録には収録されていないが、やきものとやきもの以外の調度品、蒔絵の盆や硯箱、鼓胴などを一緒に並べて、図柄の共通性を示す工夫もあった。屏風は狩野長信筆『桜・桃・海棠図屏風』が前期展示。三本の花木に、左から白の一重、ピンクの八重、白の八重の花が咲いている。私は桜、海棠、桃だと思ったんだけど違うみたい。花の同定が難しい。『誰が袖図屏風』は前後期で右隻・左隻の展示替え。類例はいろいろあるけど、出光の「誰が袖」は、色が鮮やかでボリューム感があって、抜群に華やかである。
コメント

近年の新知見を踏まえて/運慶(金沢文庫)

2018-01-20 23:54:47 | 行ったもの(美術館・見仏)
神奈川県立金沢文庫 特別展『運慶-鎌倉幕府と霊験伝説-』(2018年1月13日~3月11日)

 昨年の東京国立博物館の大規模な『運慶』展も記憶に新しく、『芸術新潮』の特集「オールアバウト運慶」に詳しい解説を寄稿されていた瀬谷貴之さんが主任学芸員をつとめる金沢文庫の企画なので、わくわくしながら行ってきた。本展は運慶と鎌倉幕府との関係や、運慶仏が霊験あらたかなものとして信仰されたことに注目して、彫刻・文書等、40件余りを展示する。

 まず1階から、あまり見たことのない小さな仏像が並んでいて目を引いた。ミニチュア感あふれる『厨子入薬師如来坐像及び両脇侍立像・十二神将立像・四天王立像』は、横浜・宝生寺所蔵だが、明治維新まで鶴岡八幡宮の社宝だった。厨子が15センチ程度で、十二神将は3~4センチくらいだが「覚園寺や鎌倉国宝館(旧辻薬師堂)と同じ形式)と言われれば、確かに似ている感じがする。『金剛力士立像(東寺南大門様※焼失)』2躯(江戸時代)と『四天王立像(大仏殿様)』4躯(南北朝時代)もなるほど、それらしいと思ったが、「個人蔵」にちょっと驚く。

 2階の展示室の入口に、さまざまな十二神将の像容(図版)の比較表が貼ってあって、見覚えがあると思ったら、2010年の鎌倉国宝館特別展『薬師如来と十二神将』からの引用だった。今回、横須賀・曹源寺の十二神将像を展示するにあたっては、後補である頭部の十二支にとらわれず、本来の像名・配列を復元したという説明がついていた。その十二神将の展示ケースには、さらに詳しい解説があって、他より少し背が高く、卓抜な作風を示す巳神像は、巳年生まれの頼朝にちなむのではないかと述べられていた。曹源寺の十二神将像は、東博の常設展示に出ていることが多いのだが、最近、巳神像をセンターに据え、それを他の像が取り巻くように配置されていたことがあって、アイドルグループじゃあるまいし、と苦笑した記憶があるのだが、あれは意外と正しかったのかもしれない。

 滝山寺の梵天立像は白い肌がなまめかしく、美しかった。四面四臂だが腕はあまり目立たない。左右の面は正面と同じくらい大きく、頭上にやや小さい面を戴く。白いお顔の存在感が妖しい。背面から見ることもできるので、三つの首が合わさったような不思議なうなじに目が釘付けになってしまった。宝冠や瓔珞は取り外して別のケースに展示されており、永福寺出土の金具類との類似が指摘されていた。並べてみると、確かに似ている。

 栃木・光得寺の厨子入大日如来坐像は本体のみ。厨子と蓮華座はおいでになっていなかった。そして、忘れてはならない称名寺光明院の大威徳明王像。これは展示室外の参考展示に、像内納入品を発見した当時(2007年)の写真があって、運慶の名前があった千手陀羅尼の巻紙を開いていく過程など、立ち会った人々の興奮が想像できて、感慨深かった。

 静岡・修善寺の大日如来坐像は慶派仏師のひとり実慶の作だという。初めて見たが、これはよい。円城寺の大日如来を彷彿とさせる。少し見上げる感じにすると、さらにいい(床に座りたかった)。それから、瀬谷貴之さんが『芸術新潮』の特集でも盛んに推していた瀬戸神社の舞楽面。抜頭面と陵王面が出ていたが、これも素晴らしい。陵王面は、小さなエイリアンのような龍が面の上に踏ん張っている。筋肉質の両手両足が力づよい。上から見ても横から見てもいいのだが、やはり少し下から見上げる角度が、一番迫力があると思う。

 あと光触寺の阿弥陀如来三尊(頬焼阿弥陀)と縁起絵巻も当然出ていた。展示替えは少しだけあるもよう。図録はこれからしっかり読むが、冒頭の瀬谷貴之さんの総論を拾い読みしただけで、面白くてたまらない。
コメント

通説を覆す/兼好法師(小川剛生)

2018-01-19 22:49:46 | 読んだもの(書籍)
〇小川剛生『兼好法師:徒然草に記されなかった真実』(中公新書) 中央公論新社 2017.11

 『徒然草』はあまり好きな古典ではなく、兼好法師にも関心はなかったのだが、本書の評判が高いので読んでみた。なるほど、これは面白い著作である。『徒然草』の著者・兼好法師は、吉田流卜部氏に生まれ、村上源氏一門である堀川家の家司となり、堀川家を外戚とする後二条天皇の六位蔵人に抜擢され、五位の左兵衛佐に昇り、鎌倉幕府・室町幕府の要人と交流したというのが、だいたいの通説らしい。私は、詳しい閲歴は知らなかったが、本名は卜部兼好で、江戸時代以降、吉田兼好とも称されたというは、文学史で習った覚えがある。

 ところが、著者はこの出自と経歴を「まったく信用できない」と断じ、真実を明らかにしていく。その手腕は小気味よいばかりだ。はじめに勅撰和歌集の作者表記のルールを根拠に、兼好は仮に朝廷に出仕した経験があっても、六位で終わったと考える。通説のように蔵人・左兵衛佐のような官に昇り五位に叙されていたら、遁世しても必ず俗名で表記されたはず(例:鴨長明)という説明は説得力がある。

 兼好は若年の一時期、卜部氏を名乗ったこと、大中臣氏との縁などから、著者はそのルーツを伊勢に求める。鎌倉後期に伊勢国守護職を独占したのが金沢流北条氏で、兼好は鎌倉に下って、北条貞顕の周辺で活動することになる。ここで登場するのが、金沢文庫古文書に存する「うらへのかねよし」が登場する氏名未詳書状である。

 著者の読解によれば、差出人は兼好の母(京都在住か)で、鎌倉に住む娘(兼好の姉?)に宛てて、故・御父(兼好の父)の仏事を、四郎太郎=うらべのかねよしの名前で行うよう、依頼したものだという。びっくりした。私は、この書状を見たことがある。昨年、金沢文庫の特別展『国宝 金沢文庫展』に出ていて、「うらべのかねよし」の名前がとても印象深かったのだ。氏名未詳の女性って誰だろう?と思ったが、そうか、そういう事情だったのか。そして、兼好の亡父の仏事は、剱阿を導師として称名寺で行われた。ええ~称名寺には何度も行っているのに、兼好法師ゆかりの地だとは一度も意識したことがなかった。この頃、兼好は三十歳近くなっても任官せず、姉の庇護の下で無為の生活を送っていたのではないかという推定も面白い。

 その後、貞顕が六波羅探題着任に従い、兼好も京都に定住する。貞顕の娘が堀川家に迎えられたことにより、兼好と堀川家にも関係が生じたと考えられるが、早くから堀川家との縁があり、後二条天皇に親しく伝えたという通説に著者は否定的である。六位蔵人であったのは考え難く、著者は兼好と検非違使庁とのかかわりや「滝口」であったという伝承に注意を促している。

 最後に歌人としての兼好について。兼好は二条為世門下の四天王と称された。その晩年の姿を伝えるのは、かなり変わった自撰家集である。「歌数は定めない」「部立は設けない」という、いわば「行き当たりばったり宣言」の下に編纂されている。にもかかわらず、家集全体に一貫した個性と周到な配慮が感じられるという。これは読んでみたくなった。

 本書が売れた最大の理由は、帯のキャッチコピー「今から五百年前、『吉田兼好』は捏造された」ではないかと思う。「捏造」という強い表現。しかし、ここまで読んで分かることは、兼好自身が自分の経歴を捏造したわけではないのだ。犯人は最終章で明かされる。唯一宗源神道を創設した吉田兼倶(1435-1511)が、次々に文書記録を偽造し、各時代の著名人が吉田流の門弟であったと言い始めたのである。なんてヤツ…。被害にあったのは、藤原定家ら新古今歌人、宗教家の日蓮、慈遍など。加えて、当時、『徒然草』の再発見によって知名度を高めていた兼好法師も、その被害に遭ってしまった。「互いに血縁関係のない人物を組み合わせ、兼倶が庶流の系図を捏造した」というのだから、手口は単純かつ大胆であある。

 歴史学、文献学の面白さを存分に味わえるとともに、通説を否定するには、確実な材料と論理的な考証が必要である(遊び半分で論破はできない)ことも実感できた。金沢文庫は、ぜひまた、あの書状を展示してほしい。兼好法師展をやってくれないかな。
コメント

古地図で見る北京と蘇州/中国の都市空間を読む(高村雅彦)

2018-01-18 23:17:40 | 読んだもの(書籍)
〇高村雅彦『中国の都市空間を読む』(世界史リブレット8) 山川出版社 2000.3

 正月に旅先で読む本が切れたので、飛び込みの本屋で購入したもの。都城から小さな町にいたるまで、さまざまなレベルの中国の都市を取り上げ、その都市空間がいかなる過程を経て形成されてきたのかを考える。写真、図版(白黒だけど)が豊富で、眺めているだけでも楽しい1冊である。

 まず北京については、1750年のまちの様子を伝える『乾隆京城全図』という地図があるそうだ(東洋文庫等所蔵)。この地図には、都市形態、街区形態にとどまらず、街区内の敷地割り、一棟一棟の建物や階数まで分かるようになっている。すごい~。図版を見ると、もちろん抽象化はされているが、間口方向の柱間ごとに線が引かれているので、ちゃんと建物の大きさが分かる(間数に応じた家屋税を徴収するためと推定されている)。一階建てと二階建ても描き分けられており、道路沿いには二階建ての長屋風店舗が並んでいたことが分かる。これは楽しい。デジタル化して遊ばせてほしい! そして、この古地図と現在(2000年当時か)の地図を比較してみると、18世紀の街区形態、敷地境界、ところによっては建築の構成まで、ほとんどが現状に重なるという。

 北京は整然とした内城と迷路のような外城から成る。前者には満州族などの官吏が住み、後者は漢族を中心とした商工民や芸人、遊女が住む文化と享楽の世界だった。内城は「西貴東富」と称され、西側には貴族が多く住み、東側には裕福な官吏や商人が多かった。なるほど、なるほど。知っている北京の地理を思い浮かべて納得する。庶民の住んだ外城には、寺や廟の跡が今もたくさん残っている。寺廟は、道が二股に分かれる「ちまた」に置かれやすいというのは、なんとなく記憶に一致する感じがした。

 面白かったのは、17世紀後半から18世紀後半、商業活動が活発になると、商品の販売や接客が、狭い店舗から次第に道路にはみ出し、「侵街」が起こる。たびたびの撤去令にもかかわらず、道路の不法占拠が常態化し、前門街の広い御成道は、細い三本道に分割されてしまう。同じことは江南や東アジアのさまざまな都市で起きていたというが、日本でもあるのだろうか。

 次に蘇州は、中心道路を護龍街と言い、一匹の龍によって護られているという伝説がある。北の北寺塔を尾、南の府学を首、東南の双塔を角に見立てる。7世紀末以降、蘇州の西側は呉県、東側は長州県の統治となる。西の呉県のほうが早くから都市化が進み、橋の数も多かった。明代になると、西の城外には大きな商業地がつくられ、一方、東の長州県には通勤労働者の機織り工などが多かった。小規模な庭園が多く点在する西側と異なり、土地に余裕のあった東側には、明代中期から拙政園のような大きな庭園が築かれるようになる。なるほど! こういう歴史(しかも長い)を知って歩くと、中国の街はさらに魅力が増すだろうな。

 蘇州には、南宋時代の1229年につくられた『平江図』という地図があり、当時の住宅地は四方を水路で囲われ、南側に道路を通すかたちであったことが分かる。その後、明末には西の呉県で水路の埋め立てが進んだが、19世紀末には再び水路がよみがえる。19世紀末の蘇州が13世紀と同じ住宅地のありかたを選んだというのは、非常に興味深い。

 このほか、小都市として、山西省の平遥、福建省の厦門、江南の水郷の鎮、比較材料として、バンコク、ジャカルタについても簡単な記述がある。著者は本書のはじめに「急激な経済成長による近年の中国の都市開発には、過去の蓄積を無視するものが多いが、21世紀には必ず反省の時期が訪れるであろう」と述べている。これは当たっているようもあり、外れているようでもある。21世紀に入る頃から急に増えてきた、観光客を喜ばせるために古色をつけた「明清街」は、果たして反省の結果と言えるのか。本当の古い街並みは、いま、どの程度残っているのだろう。久しぶりに中国の地方都市に旅行してみたくなった。
コメント

海を渡る二人の英雄/義経伝説と為朝伝説(原田信男)

2018-01-17 22:43:18 | 読んだもの(書籍)
〇原田信男『義経伝説と為朝伝説:日本史の北と南』(岩波新書) 岩波書店 2017.12

 『平治物語』や『平家物語』に名前を残す源義経と『保元物語』で知られる源為朝。著者はかつて、ある地名辞典の編集に携わったとき、義経伝説が北海道・東北に多いのに対し、為朝伝説が伊豆を除けば九州に集中し沖縄に及んでいることに気づいた。二つの英雄伝説の成長と変容は、「日本の中央政権が列島の北と南を自らの領域として覆いつくしていく歴史過程」と見事にシンクロしているという。

 まず義経について。日本の中央政権がアイヌ民族を蝦夷(えぞ)として意識し始めたのは12世紀頃である。義経伝説が北海道と結びつくのは中世後期で、室町期(14-15世紀)に成立した御伽草子『御曹子島渡』では、義経は蝦夷地に赴き「かねひら大王」が有する「大日の法」という兵法書を手に入れて、平家を滅ぼしたと語られている。16世紀に和人の蝦夷地進出が本格化すると、おそらく口承文芸を通じて義経伝説がアイヌの人々に入り込み、近世には、アイヌの英雄神オキクルミを義経と、相棒のサユマンクルを弁慶と同一視することが観察されている。ただし、これには和人の願望を反映したものと著者は解説している。

 近世に入ると、平家打倒のために兵法書を盗むという御伽草子の語りが変じて、衣川で自害したはずの義経が、生きのびて蝦夷地に渡る物語に転化する。18世紀になると、義経が蝦夷から金(女真)に渡って活躍したという説が唱えられ、清の祖となったという説も現れる。最終形態ともいうべき義経=ジンギスカン説の初見が、シーボルトの『日本』(1852年執筆)だということは初めて知った。

 明治以降、北海道開拓にあたっては義経伝説が強く意識された。札幌-小樽(手宮)を走った蒸気機関車に、義経、弁慶、静などの名前がつけられたのはその一例である。義経=ジンギスカン説は大衆に好まれ、大陸進出を肯定する雰囲気の醸成に利用された。冷静な反駁を加えた史学者に対しては、逆に「国家の名誉も不名誉も眼中に置かぬ」態度という批判が展開されていたりする。歴史学は国家の名誉のためにあるんじゃないのだが。

 次に為朝について。『保元物語』に見える為朝の舅「アワの平四郎忠景」は薩摩の阿多忠景と考えられている。おそらく忠景の周辺にあって、南西諸島で活動した商人的な武士たちが、為朝の物語を島々に語り伝えたのではないかと著者は推測する。これは初めて知る話で面白かった。沖縄では15世紀に琉球王国が成立し、為朝伝説はおそらく奄美を経て沖縄に伝わった。薩摩の琉球侵攻(1609年)において、為朝伝説は侵攻の正当化と兵士の鼓舞に利用されたが、まだ為朝を中山王朝の祖とするには至っていない。

 その後、琉球王府の政治改革にあたった向象賢(1617-1676)は日琉同祖論を唱え、史書『中山世鑑』を編纂して、為朝中山王祖説を叙述した。一方、向象賢の政治路線を引き継いだ蔡温(1682-1762)は『中山世譜』において為朝に関する記述を簡素化し、日本の影響を取り除こうとした。蔡温! 2011年にNHKドラマ『テンペスト』にハマって、沖縄の歴史をいろいろ調べたときに出会った名前である。懐かしい。

 18世紀の江戸では琉球ブームが起き、滝沢馬琴の『椿説弓張月』が爆発的な人気を博した。義経渡海伝説が広まるにあたっても通俗軍記『異本義経記』とか近松門左衛門の人形浄瑠璃『源義経将棊経(みなもとのよしつねしょうぎきょう)』が大きな役割を果たしたそうで、エンタテインメントの力は軽視できない。私自身も、子どもの頃に「少年少女文学全集」で読んだ『椿説弓張月』がいまだに大好きで、忘れられないのである。その後、幕末の琉球処分つまり琉球を日本に帰属させる過程においても、為朝伝説は根拠のひとつに用いられた。なお「為朝伝説に関しては、義経伝説と違って歴史学界でも、明治期にはすでに史実と考えられていた」という記述にはびっくりである。

 18世紀後半の知識人たち(新井白石、水戸光圀など)は、義経・為朝伝説を文学的虚構としてではなく、日本型華夷思想と現実世界をつなぐ蝶番と考えていたように思う。その理解は、近代の皇国史観へと流れ込んでいく。しかし私は、義経伝説も為朝伝説も、魅力的な英雄の短かすぎる生涯を惜しんだ人々が、空想と愛情を寄せ集めて描いた壮大なファンタジーだと思っている。ファンタジーにもかかわらず、北海道に義経神社があったり、沖縄に為朝上陸の碑があったりするのは、それはそれでいいのである。虚実皮膜の間を楽しむのが人生の醍醐味なのだから。

 上記に書き漏らしたが、アイヌの首長シャクシャインが義経の子孫だという説があるのは面白かった。また義経=清祖説の根拠として、清国の家々の門に義経と弁慶の画像が貼られている(漂流者の見聞か)というのは、門神と呼ばれる秦叔宝(秦瓊)と尉遅敬徳(尉遅恭)だろう。まあ秦叔宝のほうがイケメン(義経)で、色の黒い尉遅敬徳のほうがこわもて(弁慶)というイメージはあるけど。
コメント