見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

鹿、鹿、鹿/美しきアジアの玉手箱(サントリー美術館)

2009-07-31 21:07:23 | 行ったもの(美術館・見仏)
サントリー美術館 『美しきアジアの玉手箱―シアトル美術館所蔵 日本・東洋美術名品展』(2009年7月25日~9月6日)

 シアトル美術館が所蔵する日本および東洋美術コレクションの優品約100件による展覧会。同美術館は、地質学者にして美術コレクターであったリチャード・E・フラー博士(1897-1976)のコレクションを基礎に設立されたという。この人物、知らないなあ。

 第1室・日本美術で最初に注目したのは、鎌倉時代の行道面(八部衆、龍面)。「力強い造形は肥後定慶に近い」という解説に膝を打った。確かに、この造形は”運慶流”だ。解説に「東寺の七面と一具(セット)」とあったので、東寺の七面って、どんなのだっけ?と思ったら、2009年春期特別公開のページに、夜叉・阿修羅・迦楼羅の写真が載っていた(東寺の公式サイトは、いつリニューアルされたんだろう)。

 この展覧会は、作品の「出所」がよく調べられていることに感心した。めずらしい線刻馬頭観音塼(レンガ)の図様が、空海将来品の最古の転写本『高尾曼荼羅』(神護寺所蔵)と「細部に至るまで一致する」なんていうのも興味深い。『駿牛図』は「名牛の似絵」で、黒牛が1頭だけ描かれているが、もとは何頭かを並べて描いた長巻だったろうという。今年の正月に東博で見た『駿牛図巻断簡』も黒牛だった。美しさに息を呑んだのは石山切の断簡。苦笑したのは『出山釈迦図』。13世紀後半(早い!)の「水墨画」って、大真面目に解説してあったけど、確かにモチーフはそうなんだけど、これは悪戯描きじゃないのか…。

 さて、階段を下りたところに、本展の見もの、本阿弥光悦書・俵屋宗達画の『鹿下絵和歌巻』が広げられている。サントリー、山種、五島など、各地の美術館と個人が所蔵する断簡も併せて展示し、切断前の姿を偲ぼうという意図だ。たいへんありがたい企画だと思う。展示箇所は、どうやら「秋の夕暮れ」を結句とする三首の和歌で始まっていた。「心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ (西行)」「見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ(定家)」「たへてやは思ひありともいかがせん むぐらの宿の秋の夕暮れ(雅経)」。いわゆる三夕の歌かと思ったら、最後の雅経の歌は違うんだな。こっちを「三夕」とする異説はなかったのかしら?(→参考

 ずらり並んだ鹿、鹿、鹿は、意外と1頭ずつ個性があってかわいい。よく見ると、現実にはありえないようなポーズをしているのもいる。この長巻を見ながら、私の頭の中では、ドラマ『鹿男あおによし』の、テンポのいいテーマソングが鳴りっぱなしだった。誰か同じことを考えた人はいないだろうか。

 第2室は、中国・朝鮮・東南アジアの美術。ただし、元・楊筆『墨梅図』には、田安徳川家の旧蔵印が押されていたりしたので、中国・朝鮮美術といっても、どこで収集したものかは分からない。一押しは、唐時代の団華文五花形皿。金銀の両遣いが贅沢で、こんなもの見たことない!と書こうとしたら、ネットで画像を見つけてしまった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オトナの読みもの/老子の毒、荘子の非常識(大野出)

2009-07-30 23:55:24 | 読んだもの(書籍)
○大野出『老子の毒、荘子の非常識』 風媒社 2009.3

 三井記念美術館の『道教の美術』を見てきた名残りで、読んでしまった。本書は、中日新聞に連載された名著紹介コラムをまとめたものである。「老子」「荘子」から1行程度の断章を挙げ、200字程度の解説や感想を付している。あまりに短すぎて、これで「老子」「荘子」を読んだとはとても言えないが、私は、高校生の頃に全編を読んでいるので、遠い記憶がよみがえるようで、懐かしかった。

 著者は「おわりに」に「いつの時代も、老荘は若者に人気があるらしい」と書いているが、そうなのかなあ。私は、若い頃は儒学のほうが好きで、老荘は、損して得を取ろうというような老獪さが嫌いだった(どうも江戸っ子の性分には合わない)。ところが、今回、断章を読んでいると、しみじみ心に響くものがある。老子の「大直は屈むが如し。大巧は拙きが如し」なんていいなあ。「企(つまだ)つ者は立たず、跨ぐ者は行かず」とかね。そうかと思えば「下士は道を聞けば大いに之を笑う」のあとに「笑わざれば、以って道と為すに足らず」(俗物に笑われるくらいでなければ「道」とは言えない)なんて、きらりと刃のような皮肉が混じっていたりする。あらためて、読み返してみようかな。

 荘子は楽しい。「北冥に魚有り、其の名を鯤(こん)と為す」なんていうのは、構えて聴く必要はない。奇想天外な法螺話の始まりだと思って、わくわくしながら聞けばいい。「鯤の大いさ、其の幾千里なるかを知らず」なんて、ありえないけど面白かったら、腹を抱えて笑えばいいのだ。

 ひとつ意外だったのは「伯楽」の逸話。「千里の馬は常にあれども、伯楽は常にはあらず」というのは「韓非子」が出典で、「伯楽」は、名馬=優秀な人材を見抜く人のことをいう。しかし「荘子」に登場する伯楽は、「我は善く馬を治む」と自称して、あれこれ馬に無理を強いたあげく、「而して馬の死する者、已に過半なり」という結果をもたらす。これは最悪である。こういう”自称伯楽”、今の世の中にも、いっぱいいるんじゃなかろうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神も仏も/牧島如鳩展(三鷹市美術ギャラリー)

2009-07-29 13:47:42 | 行ったもの(美術館・見仏)
三鷹市美術ギャラリー 『牧島如鳩展-神と仏の場所-』(2009年7月25日~8月23日)

 牧島如鳩(まきしまにょきゅう、1892-1975)という画家を、どう説明すればいいのだろう。ハリストス正教の聖職者としてイコン(キリスト教の神や聖人像)を描くかたわら、仏画も手がけ、のちには両者を融合させた特異な宗教画を描いた。昨年秋、この展覧会が足利市立美術館で始まったとき、これが日本人の絵か、と疑うような印象鮮烈なポスターを見て、強い関心を抱いたが、結局、見逃してしまった。それが、嬉しいことに、足利→北海道をまわって、首都圏に巡回してきたのである。

 如鳩は、16才でお茶の水のニコライ堂の神学校に入学し、山下りん(1857-1939)にイコン制作を学んだ(この女性画家の名前も、私には初耳)。初期の如鳩で私が好きな作品は、左右一対の『祈祷の天使』(修善寺ハリストス正教会所蔵)。特に目新しい点はないのだが、心なしか東洋的な天使の表情が慕わしく、背景の青空がすばらしく美しい。この頃から仏画(正統的な観音像など)の制作も行っている。

 イコンと仏画が明らかに混じり始めるのは、戦後の小名浜(福島県)滞在時代である。木炭で描かれた『立ち涅槃』を見て、私は息を呑んだ。悲嘆にくれる弟子たちを尻目に、すっくと立ち上がった釈迦如来は、どう見ても「復活のキリスト」である。そして『一人だに亡ぶを許さず』。これも木炭画で、キリスト教の最後の審判を描いたものだ。伝統的な西洋絵画では、神の裁きの峻厳さを際立たせるため、永遠の生命を与えられた者と地獄へ墜ちる者を対照的に描くことが多いが、如鳩のキリストは、全ての死者にあまねく手を差し伸べている。しかもその姿は異形の六臂で、左右の細い柱が錫杖のようにも見える。これは不空羂索観世音だ、と私は思った。心念不空の索をもってあらゆる衆生をもれなく救済する=「一人だに亡ぶを許さず」という強い決意。キリストの本質は、裁くことではない、一人残らず救うことだ、と如鳩は信じたのだと思う。

 しかし、もっと衝撃的だったのは、小名浜港の大漁祈願のために描かれたという『魚籃観音像』。港町の人々は、この絵の完成を祝って、幌なしトラックに絵を載せて練り歩いたとか、今でも小名浜漁業共同組合長室の壁に飾られ続けているとか、およそ「近代美術」離れした逸話はさておき、宝冠を戴く観音の威厳に満ちた表情。それに比べて、はだけた胸の丸い乳房、黒っぽい腰布から透ける白い下半身は、恐ろしいほど妖艶(この色っぽさは、どんな写真を見ても再現できていない!)。周囲には、悦ばしげに群れ集う天使や天女、童子たち。はるか眼下に、正確に描き出された小名浜港の鳥瞰図も興味深い。

 晩年の如鳩は、文京区の願行寺(→ここ?)に庵を結び、禅僧・中川宋淵と親しく交流した。如鳩70歳のとき「宋淵老師より一打を受け」”鳥”が飛び去り、以後「如九」と名乗る。この頃に制作されたのが『極楽鳥』(絹本油彩、衝立)。これもまた、空前絶後の作品である。如鳩というひとりの人物の中で、キリスト教と仏教が核融合を起こした結果としか言いようがない。けれどもその青空は、若き日の如鳩が『祈祷の天使』の背景に用いたスカイブルーに似ているような気もする。青空に溶けていくような小さな鳩(?)の姿は、前景で必死に羽ばたいている(ように見える)極楽鳥の姿は、それぞれ何を意味するのだろう。

 如九の没後、彼の友人たちは、禅寺の禅行寺で、前例のないハリストス正教式の葬儀を執り行ったという。この実人生の「いい話」と、目の前の極楽鳥の美しさと、どっちに感激しているのか、自分でもよく分からないうちに、私は少し涙ぐんでしまった。鑑賞とか愛玩という言葉で表せない、人間と美術の関係について考えることのできる展覧会である。

7/30付記。このあと、禅林寺に足を延ばして、森鴎外と太宰治のお墓に参ってきた。こちらは黄檗宗なのね。駅前のギャラリーから徒歩10分。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゴーギャン展と騎龍観音(東京国立近代美術館)

2009-07-28 00:09:09 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立近代美術館『ゴーギャン展』(2009年7月3日~9月23日)

 今より西洋絵画への関心が高かった頃、ゴーギャンは私の好きな画家だった。画面に色の塊をぶつけるような、鮮やかな色彩、明確なフォルムが、私の好みだったのと、南洋への憧れに共感するところが大きかったのである。

 本展には、『ノアノア』連作版画約20点を含め、50点余りが展示されている。前半(タヒチ移住前)から、『洗濯する女たち、アルル』や『海辺に立つブルターニュの少女たち』など、画集で見たことのある作品が並ぶ。私は『水浴の女たち』(松方コレクション)の画面に特徴的な、ゴーギャンの緑がかったブルーが好きだ。ブルターニュ時代から投入されるオレンジがかった赤茶色(やがてタヒチの女性たちの肉体を彩る)の引き立て役のようなブルーである。

 タヒチで描かれた『かぐわしき大地』は、画集で何度も見ていたはずなのに、これが楽園のイブを意味した作品だということは、全く忘れていた。赤い翼を広げて飛びかかるトカゲは蛇なのか。それにしても、描かれた女性は、妙にリアルに不機嫌な表情をしている。同じポーズで立たされ続けたモデルの不機嫌をそのまま描いたのか、それとも、未来永劫、人類の堕落の責任を取らされる、神話のイブの不機嫌なのか…。 

 そして、日本初公開の『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』(1897-98年)であるが、あ、意外と小さいんだ、というのが第一印象だった。ビデオやパネルで丁寧な解説がされているので、部分部分をゆっくり見ていくと面白い。鳥や小動物がずいぶんいるのだな。登場人物が全て女性であることに、私は初めて気づいた。修道女のようにすっぽり長衣にくるまった女性から、全く裸体の女性まで、さまざまである。メランコリックなブルーに浸食された褐色の肉体は、熟れたマンゴーのような黄金色に輝いている。少し「引き」で見たほうが、画面の奥行きが分かりやすい。

 ゴーギャンは1901年にタヒチからマルキーズ諸島に移住し、そこで生涯を終えた。最後の展示室に集められた最晩年の作品はどれも好きだ。何でもない風景画『路上の馬』の空を流れる雲、『浅瀬』の、木立の間に見え隠れする海岸の大浪(これは「蒼ざめた馬」に先導される若者を描いた象徴的な作品である)、そして最期の年に描かれた『女性と白馬』(1903年)は、確かに「歴然とした老い」を感じさせるが、それでも明るい色彩は、息づくような美しさを放っている。ゴーギャン55歳。若いなあ。ルノワールやピカソみたいに長生きしたら、もう一化けしていたかもしれないのに…。

 このあと、所蔵作品展(常設展)の『近代日本の美術』も見てきた。お目当ては、先日も書いたとおり、原田直次郎の『騎龍観音』である。ものすごく近寄ってもOKの展示法に、ちょっとびっくりする。額縁に卍マークがあしらわれていることも新たな発見(護国寺所蔵だし)。 この作品、龍の顔が可愛らしすぎるのだが、それを見ないようにすると、なかなかの迫力である。雲海を掻き分け、激しく身をくねらす龍。それを平然と御する観音には、畏るべき超越性が感じられる。近世までの観音像は、女性の慈愛を表現することが多いが、この観音は、間違いなく男性的だ。そして、野蛮と文明の結合したような超越性の立像は、突飛なようだが、さっきまで見ていたゴーギャンの女性像に、どこか似ているように思った。恐ろしい龍の背中を踏みしめる、裸足の指の逞しさが似ているのだろうか。

※ゴーギャン展公式サイト
http://www.gauguin2009.jp/
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マスメディアの敗北/2011年 新聞・テレビ消滅(佐々木俊尚)

2009-07-27 00:05:23 | 読んだもの(書籍)
○佐々木俊尚『2011年 新聞・テレビ消滅』(文春新書) 文藝春秋 2009.7

 2009年春、アメリカを代表する高級紙であるニューヨーク・タイムズが破綻の一歩手前に追い込まれている、というニュースが流れた(→ダイヤモンド・オンライン 2009/03/12記事)。要するに新聞が売れなくなり、広告収入が激減してしまったのである。「アメリカのメディア業界で起きたことはつねに三年後に日本でも起きる」。それゆえ、日本の「新聞消滅元年」は2011年になるだろう、と著者は予測する。

 こう聞いても、もはや特に衝撃的ではない。むしろ、2011年まで持つのかしら?と首を傾げたくなる。テレビもまた、アメリカの後を追うように、CM市場が縮小に転じ、急激な凋落が始まっている。2011年の完全地デジ化と情報通信法の施行は、この流れを決定的にするだろう、と著者はいう。

 新聞・テレビに共通する構造変化は「メディアのプラットフォーム化」である。新聞であれば「コンテンツ=新聞記事/コンテナ=新聞紙面/コンベヤ=販売店」、テレビであれば「コンテンツ=番組/コンテナ=テレビ/コンベヤ=電波(地上波)」というのが従来モデルだった。そして、どちらも新聞社やテレビ局が「垂直統合」的にメディアの三層を支配し、第一面を飾るトップニュースは何か、ゴールデンタイムに見るべき番組は何か、ということを決定してきた。しかし、コンベヤ=インターネットの台頭により、新聞記事のコンテナがYahoo!ニュースやGoogleに、テレビ番組のコンテナがYouTubeやニコニコ動画(違法だけど)に変わってくると、新聞社やテレビ局は、読者や視聴者に対して、従来のような決定権を行使できなくなってきた。

 細かい情報としては、日本の新聞社の中では日経新聞がいちばん時代に敏感な対応を取っているとか、アメリカのテレビはとっくに垂直統合を崩し、コンテンツ制作は他社(具体的にはハリウッド)が請け負っている(中国もそうだな。韓国は?)など、興味深く読んだ。凸版印刷が提供する「ちらしポータルサービス“Shufoo!(しゅふー)”」の存在も初めて知った。すごいな、この発想。あと、アメリカには、NBCやディズニーが参加し、千以上のテレビ番組や四百本以上の映画が無料で視聴できる「Hulu(フールー)」という動画サイトもあるという(残念ながら米国内アクセスのみ)。

 とにかく、マスメディアの時代は終わり、古いメディアは姿を消していく。そして、次世代のメディアは、まだ姿を明らかにしていない。いま行われている挑戦の大半は、おそらく失敗するだろう、と著者は冷徹に言い放つ。しかし、死屍累々の中から、きっと新しいメディアが育ってくるはずである。

 これはネタバレに類するが、「あとがき」を読んで、私は、著者が新聞社において12年間にわたって事件記者をつとめた人物であることを初めて知った。90年代の新聞社は、嫉妬と憎しみと競争心が渦巻き「殺伐として本当にひどい場所だったけれども」「自分のいま立っているこの場所は、世界の中心だと信じることができた」――そんな時代を肌身で知る著者であればこそ、本書において、マスメディア産業の頑迷固陋ぶりを厳しく糾弾し、誇りと悲しみを抱えながら、その敗北を宣告することができるのかもしれない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美食と政治/中国料理の迷宮(勝見洋一)

2009-07-26 00:25:40 | 読んだもの(書籍)
○勝見洋一『中国料理の迷宮』(朝日文庫) 朝日新聞出版 2009.7

 いやあ、面白かった。著者の名前は初めて見る。どこかで噂を聞いたわけでもない。ちょうど読むものが切れているから、と軽い気持ちで買ってみた。そうしたら、大当たり。こういう「出会い」があるから、リアル書店を歩くのは楽しい。本書は、料理を通して中国の歴史を語ったもの。話題は、いくつもの王朝をまたぎ、皇帝たちの中国と、著者が体験した現代を自由自在に行き戻りする。

 宋の時代には、まだ中国料理に炒め物はなかったそうだ。元の時代、モンゴルをはじめとする北方のエスニック料理が北京に入り込み、運河の開通により、南方からさまざまな産物が運ばれてきた。明代には、中国人全員が箸を使って食事をするようになった。清代、北京の料理は百花繚乱の様を呈する。家常菜は充実し、多様な料理店、茶館、小吃などが発達する(この章、空腹で読んでいるとお腹が鳴りそう)。しかし、女真族の清王朝は、海産物には神経質だった。康熙帝はフカヒレを食さず、グルメの乾隆帝(鳥と鴨が好きだった)は宴席には出しても自らは食さなかった。それを覆したのは西太后だという。

 というような古い話を、見てきたように語る話術も見事だが、やはり本書の眼目は、著者が実際に見聞した近現代史である。著者がはじめて中国を訪れたのは文化大革命の真っ最中だった。町の食堂には、共通する不味い味=文革味が流れ、高級料理店では、料理を作らない「天才的」少年料理人が指揮を取っていた。にもかかわらず、共産党要人に招待された食事会には、最高級のご馳走が並んでいた。著者は、全編、淡々とした態度で書き流しているが、頭がくらくらするようなエピソードだらけである。文革によって、いくつもの有名店が「革命的」に店名を変えさせられ、紅衛兵によって貴重な文化財を燃やされ、客は全く寄り付かなくなった。そんな中で、「この味の根を絶やすな」と料理人を励まし続けたのは周恩来だったという。

 文革が終わって、82年には外国人の一人歩きが許され、84年には個人経営の飲食店が許可される。次第に人々が明るい表情を取り戻していく北京の町を、つぶさに体験した記録も興味深い。著者が撮影した数枚の写真が掲載されているが、もっと見たい。私が最初に北京を訪ねたのも80年代前半だった。中国の過酷な近現代史など何も知らず、能天気な学生だったなあ…。実体験に基づく回想は、さらに天安門事件の夜、香港返還の日の北京に及ぶ。

 後になって、本書が2000年度のサントリー学芸賞(社会・風俗部門)を受賞していることを知った。なるほど、これはいいセレクションだ。同賞は、近年、研究者の受賞が続いていて、ちょっと「学術」に偏り過ぎているのではないかと思う。本書のような、趣味と人生と学術的態度が、絶妙に入り混じった著作こそ「学芸」の名にふさわしいのではないだろうか。

※サントリー学芸賞:勝見洋一『中国料理の迷宮』評/奥本大三郎
http://www.suntory.co.jp/sfnd/gakugei/sha_fu0044.html
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近代の人材育成を担う/大学の誕生(下)(天野郁夫)

2009-07-25 21:45:00 | 読んだもの(書籍)
○天野郁夫『大学の誕生(下)大学への挑戦』(中公文書) 中央公論新社 2009.6

 唯一無二の「帝国大学」vs 多様な専門学校群というのが、本書上巻で論じられた明治30年代までの状況だった。下巻では、「帝国大学」による学術の独占体制に対して、さまざまな挑戦者が現れる。

 第一は、明治30年(1897)に創設された京都帝国大学。しかし、研究者の供給機関が東京帝大しかない状態で、教員集団の形成は困難を極める(なるほどね)。それでも、京都帝大は、東京帝大とは異なる教育システム(科目制)を導入し、官僚志向の強い東京帝大に対して、「民」セクターに多くの卒業生を送り込んでいく。現在に至る両大学の学風の違いが見て取れて興味深い。

 さらに、官公立の専門学校の間に「大学昇格運動」の機運が高まり、大学の「名称」を獲得するところが現れる。具体的には、札幌農学校、東京高等商業学校、大阪府立大阪医学校などである。同様に、私立セクターの雄であった慶応も大学部を発足させ、東京専門学校も早稲田大学に改称、「事実としての大学」の体制を整えていく。けれども、これらの動きは、「大学令」の公布に、はるかに先立つものだ。上巻の明治前期もそうだったが、明治後期に至っても、日本の教育システムは、社会の需要に応じた既成事実が先行し、制度がよたよたとそれを追いかけているようなところがある。まあ、官僚主導の社会より、こっちのほうが健全なのかもしれない。

 明治36年(1903)、「専門学校令」の発令により、各種の専門学校に法的根拠が与えられた。同時に、専門学校として設置認可を受けるための厳しい条件が示されたため、私立セクターには、廃校に追い込まれるもの(済生舎)や、各種学校に留まるもの(東京物理学校)もあった。しかし、この淘汰を乗り越えた私立セクターは、高等教育機関として整備が図られ、興盛の時代を迎える。

 著者は、近代化にかかわった高等教育機関の役割を、まず「官」セクター(行政官僚)の人材育成を帝国大学が担い、次いで「公」的な性格の強い専門職(医師・法曹・教育・産業技術)を主に官公立の専門学校+補完するかたちで私立専門学校がつとめ、さらにその外側に展開する多様な「私」的人材需要を私学が担った、とまとめている。これは非常に分かりやすい。ただし、当初は、近代化を達成するための合理的な棲み分けだったものが、やがて、システムの硬直化・序列化を招いたことも否めないだろう。

 大正7年(1918)、「大学令」が公布され、ようやく近代日本に単科大学や私立大学の存在が認められることになった。しかし、迂闊な私は初めて気づいたのだが、「大学令」は、帝国大学以外の「大学」の設置根拠なのだ。帝国大学は、大学令の適用を受けながらも、「大学」は別の、特権的地位を保持し続けた。世界的な学問の高度化に伍していく高等教育機関が必要と認められたからである。

 この「帝国大学」の問題は、現代にも通じると思った。国内では「ひとり勝ち」と揶揄される東京大学ではあるが、世界水準では、まだまだ予算も人材も足りないらしい。資本を集中投下して、高度なエリート大学を1校だけ育てるか、広く薄く予算を撒いて、平均値の底上げを図るべきか、どっちなんだろう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夢に続く道/聖地寧波(奈良国立博物館)

2009-07-23 23:41:38 | 行ったもの(美術館・見仏)
奈良国立博物館 特別展『聖地寧波―日本仏教1300年の源流~すべてはここからやって来た~』(2009年7月18日~年8月30日)

 古来、日中交流の窓口であった港湾都市・寧波(ニンポー)には、むかしから関心があったが、初めて訪ねることができたのは、2007年のこと。ただし諸事情あって、天童寺や阿育王寺を観光できなかったことは、返す返すも悔やまれる。勤め人はつらいのだ。でも普陀山も行ったし、天台山も行った、という日本人は(僧職でなければ)あまり多くないと思う。

 すっかり頭の中を中華モードにして会場に飛び込んだが、冒頭を飾るのは、国内所蔵の名品。赤い唇が慕わしい兵庫・一乗寺の最澄像(平安時代)、初めて見る岐阜・長瀧寺の善財童子立像(図録解説によれば、南宋時代→ということは、中国で造られ、請来されたということか!)など。博多遺跡出土の銅銭にパスパ文字を見つけたときは、昨日(京博:シルクロード 文字を辿って)の続きみたいで興奮した。

 京都・清凉寺の釈迦如来立像(北宋時代)は、何度か拝観にうかがっているが、こんなふうに至近距離で、多様な角度から眺めるのは初めて。先細りのしなやかな指先が印象的だった(仏像の特徴とされる曼網相=水かきがない!)。宋代は、貴族文化から庶民文化への交替期として捉えられるのが常だが、「庶民」といっても、この如来像から感じられるのは、特権的で、洗練された都市住民の趣味である。

 中国・浙江省博物館からは、多数の優品が出陳されている。私の一押しは、杭州雷峰塔の地下から出土した銅製鍍金の釈迦如来坐像。蓮華座を支えるのは、両手両足(?)を左右に跳ね上げ、体をくるくるとねじった1匹の龍。この楽しい造形、どこかで見たような気もするが、定かではない。杭州も行ったんだけどな…。銀製の阿育王塔は、四面の仏伝図の精巧さにため息が出る(→写真:中国語サイト。10月から、台湾でも展示されるらしい)。

 しかし、この展覧会のために中国から請来した文物は意外と少ない。このあと、宋元の仏画の名品が続くが、いずれも日本国内に伝来したものだ。陸信忠筆『仏涅槃図』(奈良博所蔵)が初めて(?)見られて嬉しかった。クリスマスツリーのような沙羅双樹といい、踊る2人の胡人といい、どこか楽しい涅槃図である。

 西新館に移って冒頭の展示室に、楊貴妃観音がいらっしゃった。泉涌寺では、ほぼ正面から拝観することしかできないが、少し斜めから拝すると、高い鼻梁、切れ長の目、豊かな頬のラインが強調されて美しい。背の丸め具合、うつむき加減も絶妙。あと、やっぱり長い指の美しさが際立つ。大きな扇形の宝冠の後ろには、孔雀の羽根のような飾りが、波打つようにたなびいていることに初めて気づいた。この飾りは、なぜか、図録やチラシの写真には反映されていない(と思う)。その向かいに「よう来たな、ワレ」とでも言いたげに片足踏み下げで座しているのが、神奈川・清雲寺の観音菩薩像(滝見観音)。逗子在住の頃に見に行ったな~。思わぬ再会に嬉しくなってしまった。

 続く展示室では、京都・大徳寺の五百羅漢図を一挙公開(82幅+江戸寛永本6幅+米国里帰り本2幅、ただし展示替あり)。これは楽しい。1点ずつ「仙人の来訪」とか「猿の供養」とか「裁縫」「剃髪」「食事の支度」など、簡単なタイトルが加えられているおかげで、ずいぶん分かりやすいと思う。見たような図柄もあるけれど、五百羅漢図のテーマって、だいたい、どのセットでも同じなのだろうか? めったにない公開ということで、コピーを抱えた研究者の姿もあり。

 続くセクションは、水陸会(中国の亡魂供養の法会)で使われる”諸尊降臨”の図様を集めており、面白かった。このへんは、かなり道教に近接していると思う。図録を見ていたら、滋賀・宝厳寺(竹生島)所蔵の『北斗九星像』(8/11~展示)が掲載されていて、これって『道教の美術』大阪会場(9/15~)でも展示が予定されているものである。さて、どっちに見に行こうかな。

 それにしても、寧波を通り過ぎた多数の人々が紹介されているのに、「天童山第一座」雪舟がいないじゃないかよーと思っていたら、最後にようやく国宝『破墨山水図』が掲げられていた(後期は『慧可断臂図』になるのかな)。雪舟が寧波を描いた画巻の摸本『唐山勝景画稿』は、肩の力の抜け具合が私好み。会場ゲートには、この画巻風景が引き伸ばされて飾られており、あたかも銭湯の富士山のように、どこか懐かしい「聖地」に人々を誘っている。

 

※展示館(新館)前のハスの花は、『寧波』展のデコレーションの一部みたいだった。地下レストランのいつものメニューもお誂え向き。最後に、こどもガイドブック「寧波虎の巻」は、国立博物館と思えないセンスのよさ。内容も濃い。図録に添えて、おすすめ。

■参考:にんぷろ:H17~21年度 文部科学省特定領域研究「東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成-寧波を焦点とする学際的創生-」
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/maritime/
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

行き交う民族/シルクロード 文字を辿って(京都国立博物館)

2009-07-22 23:12:55 | 行ったもの(美術館・見仏)
京都国立博物館 特別展覧会『シルクロード 文字を辿って-ロシア探検隊収集の文物-』(2009年7月14日~9月6日)

 日曜の午後、肌を刺すような強い日差しを避けて、博物館に逃げ込んだ。本展は、ロシア科学アカデミー東洋写本研究所が所蔵する西域出土資料の展覧会。時代は4世紀から12世紀にわたり、漢文・西夏語・コータン語・トハラ語・ソグド語など、コータン・クチャ・カラシャール・トルファン・敦煌・カラホトで発見された資料を中心に、優品約150件を展示する。と聞いて、西域(→地図)好きの私は、おお!と心が躍ったのだが、たぶん一般的には地味に感じられる企画だろう。

 展示構成は出土地別となっていて、最初がコータン(ホータン)。昨今、何かと物騒な新疆ウイグル自治区の南西部に位置する。私は、10年以上前に1度だけ、旅行会社のツアーに乗って、新疆地区を訪ねたことがある。タクラマカン沙漠縦断バスツアーは、過酷だったけど楽しかったなあ…。さて、ホータン地区の展示資料は、貝葉形の紙本墨書が多く、ウサギの糞みたいな、コロコロしたサンスクリット文字が目立つ。文字はサンスクリットでも、言語は「サンスクリット」であったり、「コータン・サカ語」であったりする。古いものは1-2世紀、新しいものは7-9世紀の文書。于闐(うてん)国と呼ばれた仏教王国の時代に重なるようだ。

 次のクチャ・カラシャール・トルファンは、いずれも西域北道に位置するオアシス都市。クチャ語(文字はブラーフミー文字)、ソグド語(マニ文字)、ウイグル語(ウイグル文字→横書も縦書もある)、さらに漢文、サンスクリット、それらの混在文書など、今も昔も民族と文化の交差路であることを感じさせた。敦煌はやはり漢文が主。しかし、きちんと整った経典や行政文書ばかりでなく、手習いや心覚えの抜書きなど、生身の人間の存在を感じさせる資料が多くて、面白かった。

 最後がカラホト。定番シルクロードを少し外れた内蒙古自治区に位置する。私がいちばん見たかった西夏文字文献がぞろぞろと展示されていて、いたく感激した。日本はもちろん、中国でも、こんな多数の西夏文字を目にするのは初めてのことだ。しかも、西夏文字バージョンの『論語』『孫子兵法』『貞観政要』などが存在することに驚く。そこには、民族の自尊と、文化の交流・融合の2つの側面が見て取れるような気がした。

 なお、この難しい展覧会を子ども向けに解説したリーフレット「シルクロードの文字を探検しよう!」は労作。大人も、これを読むと理解が深まる。また、関連特集展示「中国の写本と版本」も優品多数。京都の寺院が所蔵するものが多くて、私のような関東人には、とても珍しかった。

 18時の閉館放送に促されて、外に出ようとしたら、バケツの底が抜けたような土砂降り。先ごろ、南門スペースにオープンしたインフォメーションセンター(18:15まで)で、小降りになるのを待つ。限定品に弱い私は、旅の途中だというのに、京都国立博物館限定グリコ「お菓子詰め合わせセット」(税込840円)を買ってしまう。それぞれ異なる絵葉書1枚がおまけに入っているので、好きな箱を選び取るシステム。あとで開けてみたら、私の選んだものには三彩馬の絵葉書が入っていた。できすぎ(笑)。

↓ネタバレですが、中身はこんな感じ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都学「前衛都市・モダニズムの京都」1895-1930(京都近代美術館)

2009-07-21 23:59:31 | 行ったもの(美術館・見仏)
京都近代美術館 京都新聞創刊130年記念『京都学「前衛都市・モダニズムの京都」1895-1930』(2009年6月9日~7月20日)

 3連休の中日、津和野を後に、京都に移動する。本展は、1895(明治28)年、平安遷都1100年を記念して、ここ京都近代美術館のある岡崎で開催された「第四回内国勧業博覧会」を起点とし、「近代の京都」の多様な文化を再考するもの。会期終了直前に、なんとか間に合った。

 最初のセクション「明治モダニズム都市・京都」は、まず、1885(明治18)年に着工した琵琶湖疏水工事に注目する。この工事を克明に写し取った、京都洋画壇の先駆者が田村宗立(そうりゅう)だった。誰それ?と思ったが(肖像画は北大路欣也似)、作品『越後海岩図屏風』や『山僧怪力』を見て思い出した。2006年、東京国立近代美術館の『揺らぐ近代-日本画と洋画のはざまに』で見たものである。この前日、津和野でも、原田直次郎の名前に出会って、同じ展覧会を思い出していたので、ちょっとした奇縁に感じた。

 本展には、上記以外にも、山内愚僊の愛らしい油彩画屏風『薔薇と犬』や、浅井忠の洒脱な水墨画『パリ婦人散歩図』などが出ていて、確かに「洋画と日本画のはざま」という問題について、あらためて考えさせられるところがあった。

 続くセクションでは「第四回内国勧業博覧会」を取り上げる。そうかー。東京人の私には、内国勧業博覧会といえば「上野」のイメージが強固だが、それは第1~3回までのこと。第4回は京都、第5回は大阪で行われた。そして、京都博覧会の象徴として建立されたのが、今に残る平安神宮である。現場事務所の責任者として、共同設計と工事監督に従事したのは、当時まだ大学院生だった伊東忠太。ええ、そうだったのか! 本展の調査の過程で発見されたという(じゃ、初公開かな?)色鮮やかな大判図面(平安神宮所蔵)が多数、展示されていて興味深かった。

 私は、平安神宮を忠太の作品として意識したことは一度もなかった。一見するとノーマルな和風建築で、全然忠太っぽくないのである。しかし、今回、図面を見ていて、ひっかかったのは、太極殿の左右にそびえる蒼龍楼と白虎楼。どちらも、一層の屋根の中央に高い二層の楼閣を乗せ、その四方に小さな楼閣を乗せる(写真→個人HP)。なんか変だ。日本の建築にこんな様式があったかしら。その謎は、翌日の奈良博『寧波』展で解けた。インドの影響を受けたという「阿育王塔」の造形がそっくりだったのだ。やっぱり、伊東忠太は忠太である。

 後半は、陶磁器・染織・七宝などの工芸品を紹介。重要人物のひとりが、もと大学南校のお雇い外国人、ゴットフリート・ワグネル。美麗な工芸品に混じって展示された、当時の「舎密局(せいみきょく)」の看板が目を引いた。簡素な木板に墨書の看板で、文字は消えかかっていた。さらに昭和以降の京都モダニズムは、建築・出版・広告・映画など、多様なメディアに進出していく。

 感銘深かったのは、島津源蔵の率いた島津製作所はもちろん現役だし、上野伊三郎が設計を担当したスター食堂はスター株式会社として現存しており、浅井忠や武田伍一が教鞭を取った京都高等工芸学校が京都工芸繊維大学になるなど、モダニズムの京都は、何らかのかたちで、今日の京都につながりを残していると分かったことである。何よりも、京都近代美術館の窓の前にそびえる平安神宮の大鳥居がその好例を示している。

 同時開催『無声時代ソビエト映画ポスター展』も大迫力で楽しめる。ソビエトって、なんて素敵な時代だったんだろう、と妙な誤解をしてしまいそうだ。こちらは8月23日まで。
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする