見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

米の適正価格維持に挑む/大坂堂島米市場(高槻泰郎)

2018-08-30 23:30:02 | 読んだもの(書籍)
〇高槻泰郎『大坂堂島米市場(こめいちば):江戸幕府vs市場経済』(講談社現代新書) 講談社 2018.7

 私は歴史は好きだが、経済は苦手だ。だから、こういう経済史の本を見ると、分からなかったらどうしよう…とかなり躊躇する。それでもパラパラ中をめくって、何とか行けそうだと判断して読み始めた。

 江戸時代の諸大名は、年貢を米で徴収し、それを大坂に運んで現金に換えていた。大坂の米市は、豪商・淀屋辰五郎の店先に商人が集まり、自然発生的に始まったものと考えられている。ごく初期の段階(17世紀半ば)から、現金・商品ではなく手形で売買が行われた。米手形は実際に在庫されている米の量以上に発行することが可能で、諸大名が将来の収入を引き当てにして資金調達をする金融市場としても機能していた。その後、米手形(代銀の一部を支払った証書)に代わって、米切手(代銀を完納した証書)が盛んに取引されるようになった。

 米と米切手の流れを具体的に追ってみよう。絵画資料『久留米藩蔵屋敷図屏風』(大阪歴史博物館に寄託)によれば、水運で大坂に運ばれてきた米俵は、検査、選別を経て蔵入りとなる。次に米仲買人による入札・売却が進められ、落札から10日以内に代銀を払うと米切手が発行された。ここまでは、商品と証券がセットになっているので私にも分かる。米切手と引き換えに直ちに米を受け取ることもできたが、多くの米切手は転売された。その転売市場が堂島米市場である。だから堂島米市場に米俵の影はない。いや、米切手さえ見えないのだという。

 堂島米市場の主な取引には「正米(しょうまい)商い」と「帳合米(ちょうあいまい)商い」がある。正米商いは、現代でいうスポット市場で(私は分からなくて調べた)現金・現物(=米切手)の決済が原則だった。一方、帳合米商いは、現代でいう先物取引で、帳簿上で売りと買いを相殺する仕組みである。取引を始める時点で、現金も米切手も持っている必要がなく、売りと買いの価格差(差金)のみを授受することで完了する。少ない元手で参加することができるため、より多くの参加者を引き付けることができた。ううむ、経済オンチには難しいが、素朴な実体経済から遥かに進んだ金融市場であったことは分かる。江戸時代の商人たちと諸藩の財政を預かる武士たちが、こんな取引にしのぎを削っていたとは驚くばかり。

 また、米切手には蔵屋敷が水火之難に遭ったときは蔵米への引き換えを拒めること(災害時の免責)が記載されていたとか、大坂の米価は飛脚や旗・伝書鳩等によって素早く全国に伝達されていたことや、取引終了の時刻が近づくと。火縄に火をつける習慣があったことなど、面白い話がたくさん載っている。なお、火縄に点火されてから消えるまでの間に1件も約定がなされない場合は、その日の取引を全て無効にする取りきめがあった。相場が上昇しすぎたり下落しすぎたとき、健全な価格形成を守る機能であったという。へええ賢い。

 また、帳合米商いの取引の対象を立物米と言い、諸大名は立物米に選ばれようと競い合った。しかし、明治維新後、全国各地で産米品質が悪化したのは、品質プレミアム(高品質の商品を生産することで得られる利得)が農民のものではなく、大名のものだったことを示しているという考察は興味深い。

 帳合米商いのように実物と結びつかない取引を「不実の商い」「天下御免の大博打」と呼んで批判する学者もいたが、江戸幕府は、当初、基本的に黙認の姿勢をとった。しかし「開発の17世紀」が終わり、18世紀(享保年間)に入ると、米供給量の増大に対して人口成長に歯止めがかかり、米価が他の物価に比べて相対的に下落傾向になった。米を換金して財政支出を賄っていた江戸幕府や諸大名にとって、米価の下落は歳入の目減りを意味した。そこで、江戸幕府は、米価を上げる(望ましい水準に調整する)ことに様々な努力を払った。なるほど。私は今の政府が「物価上昇」を目標とするのが腑に落ちないくらいの経済オンチだが、この説明はよく分かる。

 18世紀中後期(田沼意次の時代)、財政悪化に悩んだ一部の大名は安易に米切手の発行を増やし、空米(からまい)切手問題から取り付け騒ぎが発生する。そこで幕府は宝暦11年(1761)に「空米切手停止令」を発した。これで在庫米量以上の米切手が根絶されたわけではないが、米切手と蔵米の交換が滞ったときは、この法令が「原則」としての効果が発揮する。

 さらに幕府は、市場に出回る「危ない米切手」を回収してしまおうと考え、大坂の豪商・鴻池屋と加島屋に資金提供を依頼する。これは断られるが、かたちを変えた政策として、蔵米との交換が滞った米切手は公金で買い上げることを公布するに至った。これも政府が明確にコミットする(約束する)ことの波及効果をねらったものと言える。法令や政策というのは、100%達成されなくても一定の意味があるということを、面白く理解した。江戸幕府、なかなかしたたかである。このほかにも、手を変え品を変え、米の適正価格維持に取り組んでおり、江戸幕府が市場経済に疎いという評価は、少なくとも18世紀以降には当てはまらない、という著者の表明は非常に納得できた。
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2018年8月@関西:京博・明治古都館特別公開、他

2018-08-28 22:28:30 | 行ったもの(美術館・見仏)
■京都国立博物館・明治古都館特別公開(2018年8月25日)

 大和文華館と奈良博を見たあと、もう少し奈良でゆっくりしたかったのだが、ちょうどこの「明治古都館特別公開」というイベントがあると分かったので京都にトンボ返りした。公開は16時~17時の間で、15時半から「平成知新館グランドロビーにて整理券を配布」という告知だったので、遅れないよう急いだ。そうしたら「整理券の配布はありません。直接現地においでください」の貼り紙。まあそりゃ、そんなに物好きはつめかけないよな、と苦笑。空いた30分間は館内のカフェで一服した。

 公開は、入ってすぐのエントランスホール(展覧会の物販をやっていたところ)とその奥の大きな中央ホールの2部屋。それぞれ京博の職員の方がパネルなどを使って、建築の様式や沿革について解説してくれた。



 いろんな展覧会の記憶がよみがえって懐かしい。『鳥獣戯画』もこのホールで見たし、仏像もたくさん見た。設計は奈良博本館や東博表慶館と同じで片山東熊。ギリシア風の列柱など古典主義を感じさせる。



 その一方、この椅子はアールデコ様式で昭和初期の遺産なのだそうだ。



 両翼の展示室は非公開。扉の隙間からちらりと見えた室内は、展示ケースが片づけられ、ガランとしていた。



 職員の方は、早くこの建物の公開を再開したいと思っているが、なかなか許可が下りないと悔しそうに話していた。「みなさん、菅官房長官に手紙を書いてください」とも。



 公開が終わった夕暮れの明治古都館。この建物は、季節と天候でさまざまに表情が変わる。夕日に染まる赤レンガは、私の好きな風景のひとつ。

■特集展示『百萬遍知恩寺の名宝』(2018年8月7日~9月9日)

 展示は常設展示と特集展示の混合。2階は全てこの特集展示だった。法然上人を開祖とする百万遍知恩寺に伝わる寺宝の数々を展示。仏像や工芸もあるが、文書と絵画が大半である。高麗版や明版の経文(木版印刷)もおもしろかった。絵画では高麗時代の『阿弥陀三尊像』、鎌倉時代の『十体阿弥陀象』が印象的だった。顔輝筆『蝦蟇鉄拐図』双福も好きな作品。

■特集展示『謎とき美術!最初の一歩』(2018年7月21日~9月2日)

 1階の奥の展示室で開催されていた特集展示。単庵智伝筆『龍虎図屏風』のような名品がさりげなく出ている。「お子さまや海外からお越しの方など、初めて日本美術にふれる方におすすめ」がコンセプトで、簡単なクイズが多言語で用意してあり、中国語の「龍虎」の説明などを読むとけっこう面白かった。
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2018年8月@関西:大和文華館の中国・朝鮮絵画+糸のみほとけ再訪

2018-08-27 23:33:14 | 行ったもの(美術館・見仏)
大和文華館 『大和文華館の中国・朝鮮絵画』(2018年8月24日~9月30日)

 週末、奈良・京都・滋賀を駆け足で。まず大和文華館が自ら「当館が世界に誇る」と公言する中国・朝鮮絵画コレクション展を参観。細かいことはチェックしていなかったけれど、満足間違いなしと思って見にきた。

 冒頭には李迪筆『雪中帰牧図』双福(南宋)と伝・趙令穣筆『秋塘図』(北宋)。どちらも同じくらいの小画面の水墨淡彩。『秋塘図』はちょっとメルヘンっぽく愛らしい風景画。あとは元代の絵画が数点で、明清代が中心なのだが、最近、明清絵画が好きになっているので、逆に嬉しい。朝鮮絵画はまとめて並べているところもあれば、中国絵画の間にふっと混ざっていることもあった。

 『文姫帰漢図巻』は第1拍から第4拍まで。絵が先にあり、それに対応する文言が後につく。匈奴として描かれているのは遼(契丹)の風俗。でも、つばの部分に白い毛皮を巻いたような三角帽子は、2017年版ドラマ『射鵰英雄伝』の金の風俗を思い出す。砂漠の場面に、雪(霜)をかぶったような赤と青の樹木が描かれていて「遼の絵画における樹木表現との近似が指摘される」とあったけれど、私は『春日権現験記絵』を思い出した。

 高其佩筆『閑屋秋思図』は初見ではないかもしれないが、印象に残った。指頭画の創始者と言われており、この作品も指頭画である。強い情念のこもった感じが長沢芦雪に似ている。張宏筆『越中真景図冊』は極端な遠近法など、西洋絵画の影響を受けているとあったかな。子供が風景に感じるような、素直な驚きや喜びが感じられて大好きな図冊。淡彩も美しい。方士庶筆『山水図冊』は精緻で繊細なモノクロ画。全12図のところ10図も見せてもらえてうれしい。エッシャーみたいに幻想的(奇想的?)だけど、ああ黄山の風景だなと分かるところもある。楊晋筆『山水図冊』は明るい淡彩で、日本人にはいちばん親しみやすい。そう、池大雅に似ている。

 ほかにも朝鮮絵画の『布袋図』を見ては隣りに光琳の『布袋図』(どれでも)を並べたいと思い、仇英の美人図を見ては鈴木晴信を思い浮かべた。やっぱり、中国・朝鮮絵画と日本絵画は、大きく括ればひとつの文化圏なのだと思う。『台湾征討図巻』もあり『聴松図巻』もあり、『太平山水図集』(谷文晁の奥書)あり蘇州版画あり。あ~以前の展覧会で見た見た、と思い出して嬉しくなる作品がたくさんあった。伝・朗世寧筆『閻相師像』も大好きな作品。乾隆帝の御代、こんな武人が闊歩していたのだろうかと想像を誘われる。

 元代の『六道図』(マニ教絵画)が久しぶりに出ていたのには驚いた。2011年に同館の『信仰と絵画』展で初めて見て、2012年に龍谷ミュージアムの『仏教の来た道』展で見て以来ではないかしら。板枠に嵌めたような絹本著色の絵画で、画面は縦に5分割されている。最上段が天上界、次段は広めの区画で教祖の図。次が人間界、その下が審判、最下段が地獄。教祖は白衣(袖口・襟元は赤)で両胸と両膝の外側に四角い書き判(セグメンタム)があることから教祖マニと分かる。胸のセグメンタムは、拡大写真でなんとか確認できたが、膝のものは分からなかった、なお向かって右隣には白衣の人物、左隣には赤衣の人物が座し、前にもう二人従者がいる。

 実は、東博・東洋館の中国絵画展示室で開催されていた『中国の絵画 宗教絵画の広がり』(2018年7月31日~8月26日)という特集展示を、先週、滑り込みで見に行って、個人蔵の『マニ説話画』(元~明時代・14世紀)を見てきたばかりだったのである。これは、白い衣に赤い袖口のマニと信者たちが小さく描かれていた。

 いや楽しかった。眼福だった。図録がつくられてないのは残念だったけど、コレクション展なので仕方ないだろう。

奈良国立博物館 修理完成記念特別展『糸のみほとけ-国宝 綴織當麻曼荼羅と繡仏-』(2018年7月14日~8月26日)

 前期に続き、再訪問。展示替えは多くないのだが、前回は前半(古代)でテンションを上げ過ぎて、後半、集中力が途切れてしまったので、今回は後半に重点を置いて参観した。江戸ものの繍仏はたいへん豪華で手が込んでいて、糸の発色もよくて美しい。そして、絹糸は光の当たり方で印象(輝き)が変わること、展示室でそれを体感するには、正面だけでなく、斜めから見るのがいいことを発見した。また、繍仏は表装もに刺繍を用いていることが多く、これって図録に収録されているだろうか?と心配したが、帰ってから確認したら、ちゃんと載っていた。

 会場では、白い髭のおじいさんと二人の尼さんが、中国語で話しながら、當麻曼荼羅を熱心に見ていた。ありがたいことである。それから、私は初めて「奈良博プレミアムカード」の「特別展は2回まで無料」という権利を行使してみたのだが、これはいいかもしれない。秋の正倉院展も2回来たいなー。
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北海道旅行2018夏・写真帖

2018-08-24 22:24:30 | 北海道生活
お盆の北海道旅行から。

朝の中島公園を散歩。豊平館は明治政府機関が建てた唯一のホテルで、明治天皇の北海道巡幸にも使われた。こんなにきれいだったかしら?と思って調べたら、2012年より4年間の改修を経て2016年6月に新装開館していた。私が札幌に住んでいた2013-2014年には閉まっていたのだな。道理で記憶に薄いはず。



北海道立文学館の『無言館』展については感想を書いたけれど、ロビーのミニ展示も興味深かった。第二次世界大戦時の伝単(戦意喪失をねらった宣伝ビラ)のコレクション。



中島公園の日本庭園を歩いていて、面白いことに気づいた。北海道では、本州のモミジを見ることが少ない。目につくのは、切れ込みの浅い、丸みを帯びた葉のカエデである。ところが、ここにはモミジがあった。さすが日本庭園!と思ったら、ちょうど道の左右から、モミジとカエデの枝が重なり合っている地点を見つけた。秋に来て、紅葉のちがいを見てみたい。



札幌に来たら食べたかったもの。赤れんがテラスの「布袋」でマーボー麺とザンギ。マーボー麺は辛くないというより、むしろ甘い。ザンギ3個だと食べ過ぎるので、ザンギ2個+エビスビールのセットにマーボー麺ハーフを注文。



翌日も赤れんがテラスに来て「蕎麦HIKARI」でそばとミニ豚丼のセット。札幌に住んでいたとき、なかなか美味しい蕎麦屋が見つからなくて苦労したのがウソのように、ここは美味い。北海道に来たら外せない豚丼も味わえて、ビールは サッポロクラシックだし、至福。



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驚きの洗練と多様性/縄文(東京国立博物館)

2018-08-23 23:30:40 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館 特別展『縄文-1万年の美の鼓動』(2018年7月3日~9月2日)

 「縄文の美」をテーマに、縄文時代草創期から晩期まで、日本列島の多様な地域で育まれた優品を一堂に集め、その形に込められた人びとの技や思いに迫り、約1万年にわたる美の移り変わりを紹介する展覧会。「みどころ」を読むと、とにかく「美」という言葉が繰り返し使われていて、考古資料としてではなく美術品として眺める態度を強く求められている気がした。

 最初の部屋「暮らしの美」は大混雑で、壁際の展示ケースは人の頭越しにしか見られなかった。本展は、縄文時代を前1万1000年から前400年までの約1万年と定義する(図録所載の年表による)。草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6区分は、先日読んだ山田康弘『つくられた縄文時代』と一致していた。最も古い草創期につくられた土器のひとつ(青森県出土)は、隆起線文といって、口縁に平行な細い縞模様が、上から下まで土器の側面にきれいに並んでいた。縄文ポシェット(中期・青森県)は、樹皮を網代編みに編んでつくったも意外な出土品で面白かった。透かし彫りの耳飾(晩期・群馬県)は精緻で洗練された造形で、縄文時代のイメージを完全に裏切られた。

 次室「美のうねり」には多数の土器。露出展示で壇上に並んだ火焰型土器・王冠型土器の数々(計12点・新潟県)は抜群の迫力。2017年の国学院大学博物館『火焔型土器のデザインと機能』で覚えたことを思い出しながら見た。火焰型土器より少しシンプルだが、流水のように変幻自在な線文で飾られた大型の深鉢形土器も見応えあり(山梨・安道寺遺跡出土、山梨・殿林遺跡出土、群馬・道訓前遺跡出土など)。幾何学文のパッチワークを嵌めたような長筒形の深鉢(長野・藤内遺跡)もカッコよかった。これらは「縄文」は全く使われていないか、目立たない地文として使われている程度である。一方、素朴で細かな「縄文」を全体にまとった片口付深鉢形土器(埼玉・上福岡貝塚、前期)は、赤みがかった土の色も華やかで、愛らしかった。

 また、このセクションには、後期・晩期の東日本で発掘された土器をまとめた展示ケースがあった。人の手になじむくらいの小ぶりな器が多く、土瓶や香炉や高坏などを思わせる多様な形をとり、飽きの来ない、ほどよい装飾が施されている。なんと完成度の高い美意識か。次室は、中国、パキスタン、イラク、エジプトなど、世界各地の古代文明の土器。ここまでが前半。

 後半の最初の部屋は「縄文美の最たるもの」と題して、国宝6件を一括展示。火焔型土器1件と土偶5件である。国宝土偶5件は、昨年、京博の『国宝』展で初めて見て、かなり衝撃を受けた。今回は、あらためて前後左右からじっくり眺める。土が違うのか焼きが違うのか、それぞれ個性的な色合いなのが面白い。私は火焔型土器のビスケットのような土色が好き。この部屋はかなり広くて圧迫感がなく、ありがたかった。日本人は横一列の展示ケースだと順番を守ろうとして滞留しがちなので、こういう単立ケースの展示を増やしてほしい。

 説明パネルの出土年を確認して、5件の国宝土偶を頭の中で並べてみると、中空土偶(北海道函館市、1975年)→縄文のビーナス(長野、1986年)→合掌土偶(青森、1989年)→縄文の女神(山形、1992年)→仮面の女神(長野、2000年)となった。私が小学生のときに発見されていたものはひとつもないことを確認して、ちょっと感慨深かった。歴史像は変わるものだなあ。

 そういえば、私が土偶と聞いて最初に思い浮かべる遮光器土偶(青森)がない?と思ったら、次室にあった。これは国宝指定を受けていないのだ。そして、発掘年が1886年(明治19年)というのに驚いた。これはまた古い…。そのほか、実に多種多様な土偶、人面付土器、人形装飾付土器、動物形の土製品が全国から集結していて面白かった。土偶は中期・後期・晩期のものが圧倒的に多い。

 本展では各展示品のキャプションパネルに、出土した都道府県のかたちが付いており(文字よりも遠目でパッと分かるのでたいへんよかった)、地域性を意識しながら見ていたが、九州が少ない気がした。あとでリストを確認したら、沖縄1件(石板)、鹿児島1件(土器)、福岡1件(装身具)のみ。たまたま、この展覧会がそうなのか、それとも九州地方に縄文土偶の発掘例はない(少ない)のだろうか? 逆に、こういう日本の歴史に関連する展覧会ではいつも影の薄い北海道に存在感があってうれしかった。

 最後に縄文土器を愛した人々として「民藝」の柳宗悦や濱田庄司、川端康成、岡本太郎などが紹介されていた。あと、もうひとつ記録しておきたいのは、後半の会場にさりげなく置かれた、縄文人の小さなフィギュアの数々。「1089ブログ」で紹介されているが、長野県北相木村教育委員会・学芸員の藤森英二さんの作だそうだ。

※おみやげは「遮光器土偶」飴(バニラ味)


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戦後が求めた新しい日本史/つくられた縄文時代(山田康弘)

2018-08-21 21:41:59 | 読んだもの(書籍)
〇山田康弘『つくられた縄文時代:日本文化の原像を探る』(新潮選書) 新潮社 2015.11

 この夏、「縄文」がブームらしい。東博では特別展『縄文』が開催されている。しかし、ブームは疑ってみたほうがいいので、東博に行く前に縄文についての知識を整理しておきたいと思って、本書を選んだ。

 縄文時代とは、日本の歴史において大体1万6500年ほど前から2400年ほど前の、主に狩猟・採集・漁撈をなりわいとしていた時期を言う。縄文時代や弥生時代という言葉が学会で認知されたのは1960年代初めで、一般に使用されるようになったのは、さらに10年ほど経ってからだという。では、1960年生まれの私は「縄文時代や弥生時代という言葉」を小学校で学んだ最初の世代にあたるのかもしれない。

 縄文時代と弥生時代は、世界史的には新石器時代に相当する。日本における石器時代の存在を明らかにしたのは、明治時代に来日したモースで、大森貝塚で出土した土器の形式から「縄文式土器」という用語が生まれた。当時は、石器時代の日本列島には先住民がおり、のちに日本人の直接的な祖先によって北方へ追いやられたと考える研究者が多く、シーボルトは石器時代人=アイヌ説を唱えたが、モースは石器時代人=プレ・アイヌ(アイヌよりさらに前の先住民)説を主張した。

 戦後は、1947年に始まった登呂遺跡の調査によって「弥生式文化」の研究が進み、1951年頃から時代区分として「縄文式時代・弥生式時代」さらに「縄文時代・弥生時代」という言葉が使われ始める。一方で1949年に岩宿遺跡の調査により、日本に先土器文化(旧石器文化)が存在したことが明らかになり、先土器文化→縄文式文化→弥生式文化→古墳文化という変遷が描かれるようになった。著者は、戦後の日本が独立国家としての歩みを開始したことと、「新しい日本の歴史」の叙述の開始、そして日本独自の歴史区分が積極的に採用されたことは、当然ながらリンクしていたと述べる。納得のいく指摘である。

 1960年代の縄文時代のイメージは「(弥生時代と比較して)貧しく、それゆえに平等な社会」というものだった。うん、確かに私が最初に教わったのもそのようなイメージだったと思う。ところが、70年代から80年代にかけて発掘調査が進むと、予想外に豊かで安定した生活を営む狩猟採集民の姿が浮かび上がり、90年代から2000年代になると、分配の不公平や社会の階層化が議論されるようになる。これらは純粋な研究の進展というより、現代日本の世相の変化を反映したものと考えられる。やっぱり「一国史」だと、こういう影響を避けきれないのではないだろうか。

 縄文時代は、新石器時代に相当するにもかかわらず、農耕や牧畜を行っていないという点で、人類史上非常にユニークな文化である。旧石器時代の日本は冷涼だったが、次第に温暖化が進んでドングリなどを食べるようになり、アク抜きのための土器が必要になった(土器の出現=縄文時代の始まり)というのが、従来の学説だった。ところが、日本における土器の出現はおよそ1万6500年前で、まだ最終氷期の最中であることが分かってきた。そこで、土器の出現ではなく、土器の一般化、あるいは縄文時代的な生業・居住形態の確立を以て縄文時代の開始と考える説もあるそうだ。しかし、縄文土器の出現から縄文時代らしい生活の成立までは5000年の差があると聞くと、ずいぶんふわっとした時代区分だなあと思う。一方、縄文時代の終わり=弥生時代の始まりは、水田耕作の開始で区分されるが、これも2500年前とも3000年前とも言われていてはっきりしない。弥生時代の存続期間は600~700年程度と考えられているので、500年の差は決して小さくないのだ。

 縄文文化の空間的な広がりは、現在の日本国と厳密には一致しないが、日本の国土内に収まっている。また、縄文人の形質的特性(顔つき、体つき)は世界的に見てユニークで、他地域との混血や大規模な人的流入はなかったと考えられている。ただし、大陸の諸文化と全く無関係だったとも言えない。このへんは、まだ探求の余地を残しているのが現状のようだ。

 次に定住・人口密度・社会複雑化から縄文時代の社会を考える。3つのキーワードは互いに関連しており、定住が進展すると人口数(人口密度)が増え、様々な社会問題(安全と清潔の確保、不和の解消)が生じてくるので、それを解決するために社会システムや精神文化が発展する。ただし実態としては、様々な地域差があるというのが面白かった。最後に著者の研究テーマである縄文時代の死生観についても、多様かつ複雑な葬法があり、円環的死生観と系譜的死生観が共存していたことを示す。このように一つの文化の中に「多様性」を見出すのも、もしかしたら、今という時代の反映なのかもしれない。
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高精細写真パネルで細部まで/春日権現験記絵(三の丸尚蔵館)

2018-08-20 22:49:20 | 行ったもの(美術館・見仏)
三の丸尚蔵館 第81回展覧会『春日権現験記絵-甦った鎌倉絵巻の名品-』(修理完成記念)(2018年8月18日~10月21日)

 鎌倉時代の絵巻の名品『春日権現験記絵』は春日大社の重宝として伝わり、江戸後期に何らかの事情で鷹司家の所有となった後、明治初期に皇室に献納されて御物となったもの。三の丸尚蔵館が平成16年度(2004)から13カ年をかけて行った本格的な保存修理がこのたび終了し、お披露目となった。ただ、すでに今春の奈良博『国宝 春日大社のすべて』展や、昨年の東博『春日大社 千年の至宝』にも出品されていたし、それ以前の2009~2010年頃の記録を調べても、ときどきこの絵巻は目にしている。たぶん全20巻を段階的に修理してきたためだと思う。現在、本展で見られる巻・場面は以下のとおり。

・巻2:第1段(白河上皇の春日社参)
・巻3:第3段、第4段(春日大社の神官を罰したため、藤原忠実が病となる)
・巻8:第7段(関東に下向した僧のもとに春日明神が示現)
・巻16:第1段(解脱上人貞慶のもとに春日明神が示現)
・巻15:第3段(斎宮の夢に示現した春日明神が、春日八講を志す僧を助けるよう告げる)、第4段(喘息に悩む僧の夢に神鹿が現れる)
・巻19:第1-4段(神鏡の盗難)

 巻2は、社頭に集まった廷臣たち(文官、武官)、武者、僧侶など大勢の登場人物が、衣装も表情も個性的に描き分けられていて、華やかで楽しい。巻8と巻15には、束帯姿の春日明神が描かれる。巻8では、松の木の枝に浮かぶように立ち、長い下襲の裾を、ほぼ地面と平行にたなびかせている。必ず、顔が隠れるように描くのがお約束。しかし当時の人々の立場になってみれば、同時代人と同じ服装で神が示現するのが面白い。巻8では、僧侶に対して「汝は私のもとを離れたが、私は汝を見捨てない」と告げるのだ。なんというイケメン。

 巻15、第4段は同じ画面に2回描かれた鹿が可愛かった。特に僧侶がカーテン(垂れ布)をめくって、鹿と顔を見合わせている場面が微笑ましい。なお、会場には、別の場面に描かれた鹿の群れを拡大した写真パネルがあって、鹿の表情(目の向き)を描き分けているのがすごいと思った。

 そして巻19は、波乱万丈で大好きな巻。大和国の悪党たちが春日大社に乱入し、本社と若宮の神鏡14面を盗み出してしまう。そのあとに霜(雪?)の降りた春日山。場面変わって、武装した(興福寺の)衆徒たちが悪党どもに攻め入って、鏡3面を取り戻す。血潮は控えめだが、よく見ると膝から下を斬り落とされた者もいる。あと、彼らの手にしている武器は、弓でなければ。刃が長く柄の短い長刀で、太刀(だよね?)は佩いているけど、抜いている者がひとりもいない。ここで奪還された神鏡は円形である。次に虹をたよりに尋ねあてたお堂で3面、また瑞光をたよりに1面を探し当てる。この2場面では神鏡の形態は不明。さらにあるお堂で本尊の下(本尊を持ち上げている)から神鏡5面を見つけた。この5面は卓上に並べられており、五葉の花形をしている。

 お客さんはそれなりに多かったが、外国人観光客が多くて、そんなに作品に執着していないので、隙間をぬって、じっくり見ることができる。図録も充実していて、高精細カラーで全画面を収録した上、実にいいところをアップで掲載してくれている。巻14:第6段の火事で焼け残った真っ白な家(漆喰塗りなのだろうか)の図は初めて認識した。巻7の後ろ足で頭を掻くぶち犬の図、ちゃんと蚤が描き込まれているとは! 「春日の神鹿」などのコラムも面白かった。また、絵巻の軸首や、収納箱の金具など、さりげなく埋め込まれた藤の意匠も美しかった。

 ホームページでは展示替え情報が分かりにくいのだが、会場で貰ったパンフレットによれば「9月18日または21日で入れ替え」になるらしい。後期も必ず行く。なお、三の丸尚蔵館の作品紹介ページに「巻2 白河院の春日行幸」とあるのだが…それは違うと思う。

※補記:後期レポートはこちら
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松浦武四郎(北海道博物館)+札幌、小樽

2018-08-19 22:06:54 | 行ったもの(美術館・見仏)
北海道立文学館 特別展『戦没画学生慰霊美術館「無言館」展-手ばなさなかった絵筆、いのちの軌跡-』(2018年7月7日~9月9日)

 北海道の休日(先週)に行ったもの。長野県上田市にある無言館は、戦没画学生の遺作や遺品を収蔵する美術館である。これまで行ったことはないのだが、たまたま旅先の北海道立文学館で、この特別展が開かれていたので行ってみた。出陳作品は約200点。ただし、遺品の写真や絵葉書などもあるので、絵画・彫刻作品はこれより少ない。しかし想像していたよりも完成度の高い作品が多くて楽しめた。

 兵隊にとられる前、しゃれたファッションで自由を謳歌していた頃の写真や、芸術家らしい、自意識の強そうな肖像画などがあったことが、いわゆる戦争画よりもショックだった。印象的だった作品のひとつは清水正道『婦人像』で、断髪で浴衣姿の若い女性が少し姿勢を崩して座っている。作者は芸術家らしいシャイな性格で、応召を誰にも知らせず、いつの間にかいなくなってしまい、この1点だけが遺ったという。作者紹介には、判明している限り「〇〇にて戦死」という結末が添えられているのだが、「戦病死」の数が多いことが傷ましかった。

北海道博物館 第4回特別展『幕末維新を生きた旅の巨人 松浦武四郎-見る、集める、伝える-』(2018年6月30日~8月26日)

 伊勢国(現・三重県松阪市)に生まれ、幕末期に蝦夷地(北海道)を6回踏査してアイヌ民族の生活状況などを克明に記録し、「北海道の名付け親」として知られる松浦武四郎(1818-1888)の生涯を紹介する特別展。武四郎といえば、2013年に東京の静嘉堂文庫美術館で『幕末の北方探検家 松浦武四郎』という展覧会が開かれている。当時、私は札幌に住んでいたが、東京へ遠征して見に行った。これは、静嘉堂が所蔵する武四郎旧蔵考古遺物コレクションの展示を主としたもので、面白かったが、私の関心からはやや外れていた。

 本展は、会場に入ったとたん、ずらり並んだ文書の数々に圧倒された。武四郎自筆の書簡、フィールドノート(野帳)の数々。携帯に便利な小型のメモ帳に細かい字でびっしり書き付けたものもあれば、ページの上下を線で分けて、上(やや狭い)にスケッチ、下に文章を記載する形式にしたものもある。原本は1箇所しか開くことができないので、布バナーに全頁の写真図版(小さいけど)をプリントアウトして掲示してあり、ありがたかった。しかしこのひとのスケッチ、空間把握が抜群に上手い。珍しいモノや風俗を描いたスケッチは味があって楽しい。武四郎は、蝦夷地の内陸にも入り、国後島、択捉島、さらにサハリンのシツカ(敷香、ボロナイスク)まで行っているんだなあ。

 幕府の御雇を辞したあとは「多気志楼主人」を称して精力的な出版活動を行った。蝦夷地内の各地域の産品・地勢の特徴を記したもの、よく使う蝦夷語(アイヌ語)の便覧など。携帯と一覧性に優れた一枚物に表形式でまとめてある。色刷りで楽しみながら学べる双六や『蝦夷漫画』もあり。

 北海道の命名に関しては『道名之儀取調候書付[控]』という資料が出ていた。新政府に対して武四郎が提案したのは「日高見道」「北加伊道」「海北道」「海島道」「東北道」「千島道」の6案。「北加伊道」の「加伊」は「アイヌ民族もしくはアイヌ民族の暮らす土地を意味する古いアイヌ語」と武四郎が考えていたという。これを以て「北海道の名付け親」というのはちょっと微妙。だが、蝦夷地とアイヌの人々に深い共感を持った人物であったことは間違いない。明治新政府の蝦夷地政策に失望した武四郎は、開拓使官員の職を辞してしまう。

 晩年の武四郎について、北野天満宮に大神鏡を奉納したことは知っていたが、上野東照宮、太宰府天満宮、大阪天満宮、金峯山寺にも同様に日本地図等を刻んだ大神鏡を奉納している。天神信仰に凝っていたようなのも面白い。最後に大首飾りと『武四郎涅槃図』に描かれた古物の数々。残念ながら『涅槃図』のほんものは来ていなかった。

小樽文学館 企画展『怪奇幻想文学館 古典から現代文学・都市伝説まで』(2018年8月4日~9月7日)+企画展『小樽に残した文豪の足跡』(2018年8月4日~10月28日)

 前者は、日本近世から現代に至るまで庶民の読物、芸能、文学、美術に描かれ、民俗学でも研究調査されたさまざまな怪異、幻想を紹介する。「日本三大怪談」(初めて知った)の四谷怪談・皿屋敷・牡丹燈籠に加え、近代の文豪が創作した怪談など。作品の一部がパネルで紹介されているのだが、三遊亭圓朝の『百物語』(自殺したお坊さんの霊の話)は、文字を追っているだけで、耳に語り声が聞こえるような気がした。さすがだ。山東京伝の『怪談模模夢字彙(かいだんももんじい)』(パロディ怪談)には笑ってしまった。

 後者はゲーム「文豪とアルケミスト」(文アル)とのコラボ企画。ゲームの公式サイトを見ると49人の文豪が登録されているが、小樽ゆかりの8人が等身大のキャラクターパネルで登場。古い酒場ふうの飾りつけも雰囲気があってよかった。当分あのままだといいな。
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初訪問・夏の旭山動物園(北海道旭川市)

2018-08-17 22:38:49 | 北海道生活
旭川市 旭山動物園

今週は月火が職場の一斉休業で、土日とあわせて四連休だった。どこかへ行こうと思い立ったのは先月で、京都?九州?台湾?と旅行先を考えたのだが、連日の猛暑に負けて2泊3日で北海道を選んだ。

土曜日は、ゆっくり昼頃、東京を立って札幌入り。日曜は札幌周辺で観光。月曜は博物館や美術館が休みなので、念願の旭山動物園を訪ねることにした。札幌に住んでいた時、何度か本気で計画を立てたのに、悪天候やJR北海道の車両故障で実現しなかったのである。札幌から特急で旭川へ。旭川駅前から路線バスに乗る。夏休みということで、1台目のバスに乗り切れないくらいお客さんが多かった。

旭山動物園の入園券は5種類くらい?の絵替わりで、どれに当たるか分からないのがスリリング。私はオオカミだった。



はじめに人気のペンギン館へ。長い列ができていたが、パネルによる説明が充実していて、けっこう楽しい。ペンギンの生態、体のつくり、種による違いなど、じっくり読んだ。ペンギンの中国語表記も覚えた。



そして水槽の中を颯爽と泳ぐペンギン。



アザラシ館では、もぐもぐタイムを見学した。ただの給餌タイムではなく、飼育員のお姉さんが、アザラシの生態についていろいろな説明をしてくれた。1頭だけ性格の図々しい子がいて、陸に這い上がり、バケツに顔を突っ込んで、お姉さんを慌てさせていた。他の仲間は水中で待っているのに。



シンリンオオカミは草むらに寝転んで、警戒するような薄目で人間を見ていた。



エゾシカ。奈良公園に生息するニホンジカの亜種なので、見た目はほとんど変わらない。本州のシカより体は大きめ。このほか、エゾリス、エゾタヌキ、キタキツネなど、北海道の動物をまとめて見られるのもよい。ハシブトガラス、ハシボソガラスも飼育されていた。さすがカラスの王国・北海道!



園内には、しゃれたサインや壁画がたくさんあって楽しかった。みんな飼育員さんの手作りだろうか?









自分の食事はすっかり忘れて約2時間。札幌-新千歳経由で、その日のうちに帰京したが、もっと時間が欲しかった。

次回はきっと冬季にくるぞー!!
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人間尊重の経営/戦争体験と経営者(立石泰則)

2018-08-16 21:40:30 | 読んだもの(書籍)
〇立石泰則『戦争体験と経営者』(岩波新書) 岩波書店 2018.7

 著者は企業取材を始めて四十年になるというジャーナリスト。大手企業のトップから中小企業の創業者まで一千人を超える経営者の取材を通して、彼らには「戦争体験」の有無が決定的な影響を及ぼしていると感じるようになった。はじめに紹介するのは、西武の堤清二氏(1927-2013)とダイエーの中内功氏(1922-2005)である。

 「西のダイエー、東の西武」と呼び称された二人の経営者は、全く対照的な生まれ育ちである。堤清二は西武グループの総帥・堤康次郎の二男として生まれた「お坊ちゃん」。兵役を避けるため、嫌いな理系の勉強をしていたが、二十歳直前に終戦を迎えた。その後、西武百貨店に入社し、文化戦略で百貨店のイメージを一新する。流通を中心に、観光、ホテル経営など事業を多角化し、「生活総合産業」を標榜する「セゾングループ」をつくり上げた。1970-80年代の「西武文化」を知る私には、なつかしい話ばかりだ。

 中内功は大阪で小さな薬局を営む父のもとに生まれた。一兵卒として満州に派遣され、戦争末期のフィリピンに転戦し、ルソン島で飢餓と負傷、暗闇と「人肉食い」の噂に怯えながら敗走を続けた。復員後、父の薬局に身を寄せた中内は、医薬品や食料品を扱う「主婦の店ダイエー」を開店し、徹底した安売りで全国各地へ出店攻勢をかける。東京育ちの私は、残念ながら、この頃のダイエーになじみは薄い。

 堤清二については辻井喬(堤清二の筆名)と上野千鶴子の『ポスト消費社会のゆくえ』(文春新書、2008)を、中内功については佐野眞一の『カリスマ:中内功とダイエーの「戦後」』(新潮文庫、2001)を読んでいたので、それほど新しい情報はなかったが、2017年2月に閉店した西武デパート筑波店が堤清二の発案だったというのを、元つくば住民として感慨深く読んだ。また、阪神淡路大震災でダイエーが果たした役割は、何度聞いても感動を通り越して鳥肌が立つ。中内の持論「スーパーはライフライン」というのが、単なるお題目でなく、命を賭けた覚悟だったことが分かる。「被災者のために灯りを消すな」「商品が揃わなくても店の灯りだけは点灯し続けろ」という号令が、「暗闇は人間に絶望感をもたらす」という戦争体験に基づくものだという説明には、ただただ唸った。

 私が本書を読んでよかったと思ったのは、むしろ後半である。私の知らなかった二人の経営者が登場する。一人目は家電量販店ケーズデンキの創業者・加藤馨(1917-2016)。神奈川県の農家に生まれた加藤は、満州で暗号班長となり、通信隊員としてラバウルに赴く。戦後はラジオの修理を手がける電気屋を開業し、明朗会計と親身なサービスが喜ばれて、個人商店から株式会社へと成長した。面白いのは「がんばらない経営」という理念で、社員にはノルマを課さず、ペナルティを課さず、普通に働けば定年までに財産ができる会社を目指したという。業界トップになることよりも長く続く経営。いいなあ、こういう考え方。著者は加藤を「個人の尊厳と自由意思をどこまでも尊重した経営」という言葉で称えている。

 次にワコール創業者の塚本幸一(1920-1998)。塚本は仙台の繊維卸商の家に生まれ、商人になることを志して、母の郷里・近江八幡の八幡商業に進学した。ここでのちに自分を支える二人の同級生、川口郁雄と中村伊一に出会う。二十歳で入営した塚本は、悪名高いインパール作戦に従軍し、壮絶な敗走を生きのびて復員。婦人アクセサリーを扱う「和江商事」(後のワコール)を立ち上げるが、慣れ親しんだ繊維製品を扱いたいと考え、婦人洋装下着の販売に商売替えする。塚本は「女性が生きることは美しくありたいという願いそのもの」と考えており、その願いを叶えることが塚本のビジネスの理念だった。ワコールは順調に業績を伸ばしたが、60年代初め、労使関係がこじれてストライキ寸前となった。塚本は、あるべき労使関係を考え抜いて「四つのビジョン」を提示する。この中には「遅刻早退私用外出のすべてを社員の自主精神に委ね、これを給料とも人事考課とも結びつけない」「労働組合の正式な文書による要求はこれを100パーセント自動的に受け入れる」という、驚くべき項目がある。さすがに読んでポカンとしてしまった。そして、塚本はこれを実践に移し、経営危機を乗り越えて「相互信頼の経営」をワコールの社是とするに至った。

 ちなみに塚本にインスピレーションを与えたのは出光佐三で、出光興産には定年制も出勤簿もタイムカードもなく、人間尊重の経営を実践してきたという。これらは、おとぎ話にしか見えない。今の会社組織にこんな経営をリバイバルさせることを、私は断じて許したくない。しかし、戦争の悲惨さや理不尽さを体験した世代の何人かは、戦後、人間の喜びを実感できる社会や個人の尊重される組織を、本気でつくろうとしたのではないか、その志だけは覚えておきたいと思った。
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