見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

シーラカンスモナカ@仙台銘菓

2023-10-31 14:12:39 | 食べたもの(銘菓・名産)

月曜は日帰り仕事で仙台に行ってきた。

用務先には12時に行けばいいことになっていたので、これは「シーラカンスモナカ」を購入するチャンスだと思った。羽生結弦さんが織田信成さんに贈ったことが発端で話題になったスイーツである。今年6月、アイスショーFaOI(ファンタジー・オン・アイス)宮城公演で仙台に来たときは、仙台駅の特設売り場も長蛇の列で購入をあきらめざるを得ず、オンラインショップも「Sold Out」状態が長く続いていた。

メゾンシーラカンス」本店は11時開店だというので、10時半過ぎに新幹線で仙台駅に着けばちょうどいい、と思っていたら甘かった。行ってみると、小さなお店の前にはすでに開店待ちの列。平日だというのに…。店員のお姉さんは、周囲のマンションや駐車場の邪魔にならないよう、慣れた様子でにこやかに列を捌いていらした。

40分くらい並んで、簡易箱6個セットを購入。ケーキやマカロン、バインミー(!)やクロワッサンにも心惹かれたけれど、次回のお楽しみにする。

用務先には、なんとか間に合うことができた。

さて、実食。他の人が語るのを何度も聞いてきたけれど、あんこの甘さとバターの塩辛さが溶け合って美味。想像していたよりもバターの味が強くて、あんこは控えめな脇役という感じ。サイズは小さめだが、ケーキ1個のような満足感がある。

今日はコーヒーでいただきました。ホットミルクにもいいかも。

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2023円覚寺「洪鐘弁天大祭」

2023-10-29 23:22:25 | 行ったもの(美術館・見仏)

〇円覚寺 洪鐘弁天大祭(2023年10月29日、9:30~12:00)

 鎌倉で約60年ぶりの開催となった洪鐘(おおがね)祭を見てきた。「庚子の年に行われる」と書いてある資料も多いが、前回は1965年(乙巳)、その前は1901年(辛丑)だから厳密ではない。今回も2020年(庚子)に予定されていたようだが、新型コロナの影響もあり、2023年(癸卯)の今年、58年ぶりの開催となった。まあ、細かいことはいいのである。

 東京は朝から雨が降ったり止んだりで、家を出る意欲を失いかけたのだが、絶対、次を見る機会はまわってこないと思って出かけた。9時過ぎに北鎌倉駅に着くと、まあまあの人出。円覚寺の反対側のバス通りに出ると「左右に分かれてお進みください~」と誘導される。貰ったリーフレットには、行列は9:30に建長寺を出発すると書いてあったので、建長寺方面に少し歩き、JRの踏切の手前あたりで待つことにした。

 やがて先頭を切ってやってきたのは「八雲神社」の幕を張り、神職を載せたトラック。五色の旗や宝物(?)を載せたトラックがこれに続いた。

そして洪鐘(おおがね)。私は本物が巡行するのかと思ったら、これはハリボテだった。最上段の龍頭に照明が仕込んであって、龍の目が光るのがご愛敬。

円覚寺の管長さまだと思う。そのあとに白い狩衣の神職の方が続いていたのは、江島神社の宮司さんらしい。神仏習合形態のお祭りは、古さが感じられてよい。

お神輿は徒歩で来て、踏切を渡った先に待機していた担ぎ手が加わる。北鎌倉・山ノ内の八雲神社のお神輿で、毎年7月の第2土曜日から3日間、例大祭(鎌倉大町まつり)で「神輿ぶり」が行われているという。私は鎌倉の隣りの逗子市に住んだこともあるのだが、これは全く知らなかった。

そのあと、囃子方を載せたトラックが数台通過していったあとは何も来ない。え、これで終わり?と、周りの人たちも狐につままれた顔をしている。

 質問を受けた警備員の方が説明しているのを聞くと、このあと、北鎌倉駅前を通過し、小袋谷交差点から折り返して来るときは、ほかのグループと合流して行列が大きくなるのだという。なるほど。半信半疑ながら、北鎌倉駅の西側(大船寄り)へ行ってみると、東側(建長寺寄り)よりも見物人が多い。沿道に隙間を見つけてなんとか潜り込む。

 やがて11:00に小袋谷交差点を出発した行列が戻ってきた。ちなみにこのお祭りでは「パレード」と呼ぶのが公式の用語らしい。先頭は触れ太鼓。木遣りや纏いや五色の旗が続く。渋い。

江の島囃子。三味線やチャルメラなど珍しい楽器を使うお囃子で、前回の洪鐘祭には参加していないので、約120年ぶりとのこと。先頭のおじさん二人が右手にチャルメラを持っていたのだが、吹いてくれなかった。残念。

次いでやってきたのが面掛行列。私は坂ノ下の御霊神社の面掛行列かと思ったら、かつては山ノ内でも行われており、山ノ内八雲神社に天保年間作の行道面が伝わっている。伝来品のほうは、むかし神奈川歴博の特別展『鎌倉ゆかりの芸能と儀礼』で見ていた。

この行列で使われていたのは、新しく作られたものらしく、のっぺりして逆に怖かった。

最後は、稚児行列・お母さんやお父さんに抱かれた赤ちゃん行列(釣鐘型の毛糸の帽子がかわいい)・ちびっこ武者行列など、子供たちが多数登場。引かれていく洪鐘も心なしか、うれしそう。

この釣鐘型(?)ドレスもかわいかったー。

子供たちの心に楽しいお祭りの印象が残って、また60年後につながるといいなあ。

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土御門家の物語/陰陽師とは何者か(国立歴史民俗博物館)

2023-10-26 22:05:26 | 行ったもの(美術館・見仏)

国立歴史民俗博物館 企画展示『陰陽師とは何者か-うらない、まじない、こよみをつくる-』(2023年10月3日~12月10日)

 間違いなく面白い展示だったが、情報量が多すぎて、ちょっと私の頭が追いついていないので、これから展示図録(これがまた文字が多い)をしっかり読もうと思っている。本展示は、あまり知られていない陰陽道の歴史とそこから生み出されてきた文化をさまざまな角度からとりあげて考える。陰陽師の役割は、時代とともに多様に展開していった。本展第2部は、その中でも特に「暦の製作と配布」に着目する。

 まず前半、古代日本において、中国から伝わった占いの術をもとにして陰陽道が誕生する。律令制度の下で陰陽師は陰陽寮に属する官人であったが、中国や朝鮮のように天文台としては発展せず、むしろ呪禁師の業務と統合され、占いと呪術・祭祀を主とする陰陽道が生まれる。平安時代の貴族社会に陰陽師を欠くことはできない。そう、やっぱり陰陽師と聞いて思い浮かぶのは、賀茂保憲(917-977)と安倍晴明(921-1005)である。保憲が天文博士のとき、晴明は天文得業生となっており、大学教授と大学院生の関係だね!という説明があってナルホドと思ったが、図録の解説を読むと、二人の師弟関係には、いろいろ疑わしい点があるようだ。

 鎌倉幕府の成立とともに安倍氏の傍流から鎌倉陰陽師が生まれる。室町時代には、室町殿に仕える陰陽師の中から、安倍氏系統の土御門家、賀茂氏系統の勘解由小路家が陰陽道宗家として確立する。しかし応仁・文明の乱で京都が荒廃すると、土御門家は若狭国名田庄(現・福井県おおい町)に疎開する。おおい町! 以前、秘仏バスツアーに行ったところじゃないか!と思ったけど、調べたら、私が訪ねたお寺は海岸寄りで、土御門家(安倍家)の墓所や暦会館はかなり内陸にあるようだった。いつか行ってみたい。

 近世には、土御門家は京都の公家社会に復帰し、天和3年(1683)幕府・朝廷から陰陽道支配権を認められる。このへん、ライバル・幸徳井家との争論とか、土御門泰福が渋川春海と親交を結び、保科正之ら幕閣の支援を得たことなど、人間ドラマとして興味深い。京都の土御門家屋敷に関する資料がいろいろ出ていたのも嬉しかった。春に國學院大學博物館で見た『土御門家がみた宇宙(そら)』の展示を思い出していた。

 先を急いで第2部につなげてしまうと、近世末期には幕府天文方が暦の編纂を担っていたが、慶応4年(1868)王政復古の大号令が発せられると、土御門家は朝廷が暦を掌る体制に戻すことを進言し、編暦・頒暦の権限を得る。しかし政府の方針転換により、明治3年(1870)には天社神道廃止令(陰陽師の禁止令!)が出されて全国の陰陽師への支配権を失い、次いで暦に関する全ての権限を失う。明治6年、太陽暦への改暦が行われ、明治15年には太政官布達によって、官暦は伊勢神宮から頒布されることになった。ううむ、土御門家、悔しかっただろうなあ…と同情し、神宮暦というのが、復古でも何でもない「創られた伝統」であることを知る。暦に皇室関連の祝祭日が掲載されるようになったのも改暦以後で、「天長節、紀元節などといふわけもわからぬ日を祝ふ」(開化問答)という困惑の声も聞かれた。一方、禁じられた暦注の入った「お化け暦」(足がつかない)や、取締り対象外の一枚摺りの暦が多数流通したというから、我が国の庶民も「上に政策あれば、下に対策あり」のしたたかさを持っていたようである。また、日本の「官暦」は、いわゆる外地(朝鮮、台湾、満州など)にも頒布されたと聞くと、やはり暦は支配の象徴だったのだな、とあらためて納得した。

 展示では「吉川家文書」という注記を持つ資料が目立った。これは、近世奈良町の暦師・陰陽師であった吉川家に旧蔵された文書・典籍の一括資料だという(奈良暦師吉川家文書)。奈良町には、今も陰陽町(地元では「いんぎょまち」と読まれる由)という地名が残るのだな。今度、行ってみなければ。

 渋川春海作の『天文図・世界図屏風』(個人蔵、大阪歴史博物館寄託)は初めて見たのではないかと思う。人の身の丈ほどもある屏風に大きな天球図(星図)が描かれていて迫力があった。おおい町教育委員会が所蔵する「たばこ盆」は、不要になった暦の版木を再利用したもの。火鉢やたばこ盆の用材とされることが多かったというが、墨色の板に漢数字が並んでいるところがムダにカッコよくて、ちょっと欲しい。

 『泣不動縁起絵巻』の祈祷の場面をもとにした、安倍晴明・式神・異形の外道たちの立体模型(等身大くらいの大きさ)は、初めて見たのは20年くらい前だと思うが、いろいろな展示で使い回されており、何度見て楽しい。お得な制作だったのではないかと思う。

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聖地の見どころ巡回/京都・南山城の仏像(東京国立博物館)

2023-10-23 21:09:13 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京国立博物館・本館特別5室 浄瑠璃寺九体阿弥陀修理完成記念・特別展『京都・南山城の仏像』(2023年9月16日~11月12日)

 この夏、奈良博で開催されていた『聖地 南山城』の一部巡回展というところだろうか。奈良博では、仏画や考古資料もあわせて143件が30を超える寺社(たぶん。いま関連MAPで数えた)から集結していたが、東京は11の寺社から18件の出陳のみで、ちょっと寂しい。とはいえ、見逃すのも惜しいと思って出かけた。

 会場は、これまでにも聖林寺の十一面観音や櫟野寺の大観音をお迎えした特別5室。会場に入るとすぐ、シャープな造形の小ぶりな観音像が目に入る。海住山寺の十一面観音菩薩立像だ。海住山寺には1、2回しか行ったことがないが、この観音像に記憶があるのは、ふだん奈良博に寄託されているためだと思う。横から見ると、腰を大きく前に突き出し、軽く左にひねって、右膝を浮かせかけている。流れるような動きは、インドの踊り子さんみたいだ。

 左側の壁沿いには、それぞれ古風な薬師如来や普賢菩薩が並んでいた。その中に、あまり記憶にない仏様がいらして、近寄ってみたら浄瑠璃寺の、ふだん池の向こうの三重塔に安置されている薬師如来坐像だった。金色の身体に赤い衣をまとい、右手に薬壺を載せている。額には、水晶だろうか、碁石のような白毫が取り付けられていた。

 会場奥の中央には阿弥陀如来坐像。向かって左に多聞天立像、右に広目天立像。全て浄瑠璃寺からおいでになっている。阿弥陀如来は、豊頬線のはっきりした肉付きのよいお顔で、板光背には水玉のような円形の模様が配されている。奈良博の画像で見ると「9体のその1」という仏様らしい。多聞天と広目天は、わりとよく東博で見たことがある。鎧の裾にしずくのような小さな鈴が並んでいるのと、三輪並んだひなぎくみたいな飾りを額に装着しているのが愛らしい。

 阿弥陀如来と向き合う位置には、見上げるような十一面観音菩薩立像がいらした。禅定寺の十一面観音で、像高は3メートル近い。全体に整った造りだが、お顔は仏像らしくなくて、人間臭さを感じた。

 会場の右側の列で気になったのは、牛頭天王坐像(松尾神社)。本人は前後左右四面の顔を持ち、頭には牛の首(?)を被っている。夏に奈良博で見ているはずなのだが、見るものが多すぎて印象に残っていなかった。禅定寺の文殊菩薩騎獅像が来ていたのも嬉しかった。耳がなくて(寝かせているのか?)坊主みたいな獅子なのだ。横から見ると、大きな口を開け、お尻を引いて後ろ脚を突っ張り、興奮したわんこみたいなポーズである。禅定寺、やっぱり一度は現地に行ってみたい。また寿宝寺の千手観音菩薩立像と金剛夜叉明王、降三世明王が来ていたのも嬉しかった。限られたスペースに合わせて、さすが納得できる厳選された出品だと思う。緑と白をベースにした簡素な会場のデザインも好ましかった。

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熱血少年マンガと見せかけて/中華ドラマ『虎鶴妖師録』

2023-10-22 22:15:05 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『虎鶴妖師録』全36集(愛奇藝、2023年)

 試しに見てみたら面白くて、けっこうハマってしまった。原作は中国の少年マンガだという。調べたら2013年に始まり現在も連載中(雑誌ではなくネットで)というから長い。はじめ物語がどこに着地するのかよく分からなかったり、やたら登場人物が多いのも、そういう事情を知っていると納得できる。「熱血少年マンガ」というのが売り文句だが、実は登場人物がどんどん死んでいく冷血無比の展開で、かなりつらい。しかしどの登場人物も大事に扱われていて、それぞれ見せ場があるのは好ましかった。

 500年前、海の彼方の大陸に「妖」(異類のものたち)が現れ、人々に災いを為していた。伝説によれば、正義の士である祁無極が巔峰谷に住む妖帝を斬り殺したが、妖帝の血が死の海・冥海を生み出した。以来、伏龍国は海岸に聖なる赤珠を祀り、冥海による浸食を食い止めていたが、あるとき、その赤珠のひとつが破壊されてしまう。

 伏龍国の妖師(妖と戦い、人々を守る戦士)祁暁軒は、新しい赤珠を求める旅に派遣される。その途中で出会ったのは、こそ泥稼業の孤児の虎子と、長槍の使い手で男装女子の趙馨彤。虎子は誤って赤珠を吞み込んでしまう。その赤珠を取り出すため、祁暁軒らは一眉仙子という女流の仙術使いを訪ねる。無事に赤珠は取り出したものの、虎子の母親は九尾の虎妖であり、彼の体には虎妖の尾一本が埋め込まれていることが分かる。一眉は、妖尾の暴走を鎮めるため、虎子に金剛橛(金剛杵)を授ける。

 伏龍国にやってきた虎子と趙馨彤は、国御妖師の選抜試験を受けることになり、千羽国から来た王羽千など、受験生たちと親交を深める。しかし最終試験で合格を勝ち取りかけた虎子を、冷酷に突き落としたのは祁暁軒だった。実は、祁家には500年前からある呪いがかけられていた。祁家の子女は1つの身体に2つの元神(人格)を持って生まれ、成長の過程でどちらかを選ばなければならなかった。現在の暁軒(乾)はもうひとりの自分(炎)を封印していたが、なぜか炎がよみがえり、逆に乾を別の世界に封印したのである。裏で糸を引いていたのは一眉だった。

 一眉は炎を連れて冥海を渡り、巔峰谷に飛ぶ。虎子、趙馨彤、王羽千らは、暁軒の身体を取り戻し、荒れ狂う冥海を鎮めるため、伏龍国・千羽国・巨輪国の勇士たちとともに巔峰谷に渡る。そして、祁家の始祖である祁無極そのひとに会い、虎子の母の白虎にも会って、500年前のできごとの真実を知る。

 【ネタバレ】を簡単に書いておくと、祁無極には無双という脚の悪い弟がいた。二人は仲のよい兄弟だったが、兄に裏切られたと誤解した無双は祁無極の身体を乗っ取って妖帝となり、祁家の子孫に「双生元神」の呪いをかける。しかし暁軒の身体を得た炎は、乾が苦しみながら生きていたことを知り、自らの存在を葬って身体を乾に返す。この自己犠牲によって呪いは消え去る。一眉は、妖帝・祁無極(無双)に強いられて、炎を巔峰谷に連れてきたのだが、彼女の正体は、夜箜鳴という女子が可愛がっていた布人形だった。巔峰谷に眠る亡き主人にただ一目会うために、一眉は多くの悪事と殺生を繰り返していたのである。

 本作では、いちおう虎子と馨彤は両想いカップルで、暁軒は序盤で花妖の牡丹姑娘と淡い思いを寄せ合う。だが強く印象に残るのは、一眉から夜箜鳴への一途な思慕や、祁無極・無双の骨がらみの兄弟愛である。他にも主従・親子・同志の間の、愛情・嫉妬・報復・許しなど、涙を誘う熱い関係がたくさん描かれていて、よくも悪くも人間世界を動かすのはこういう感情なんだな、と思った。

 戦いを終えて、序盤で憎らしかった成済年(劉耀元)が、巨輪国の女戦士を嫁に迎えて幸せになったのはちょっと嬉しかった。烏里丹がかつての仇敵を弔う姿には泣けた。虎子の蒋龍と趙馨彤の王玉雯は別の作品で知っていた俳優さんだが、どちらもよかった。蒋龍くん、今時の中国ドラマで求められるイケメン路線ではないのだけれど、そこが好き。祁暁軒の張凌赫と王羽千の陳宥維はこの作品で覚えた。張凌赫くん、ホワイト乾とブラック炎を丁寧に演じ分けていて、二人(一人二役)の対決シーンも引き込まれた。陳宥維くんは声がいいね。一眉仙子を演じた何藍逗さんは、幼げな丸顔にぼんやりした目鼻立ちで、キラキラした美人ではないのだけれど、布人形が生命を得たという設定に納得感があり、激しい立ち回りもカッコよかった。

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2023年10月見仏旅行:東大寺「良弁僧正1250年御遠忌」

2023-10-21 19:10:50 | 行ったもの(美術館・見仏)

 東近江・北近江で週末を過ごしたあとは東京に戻る予定だったが、勤務先から、急遽、月・火は大阪に出張を命じられた。月曜の用務は夕方からだが、13時からオンライン会議の予定がある。それでも関西に居残れば、半日は自由行動ができると思ったので、日曜は奈良に宿泊した。目的は、東大寺開山良弁僧正1250年遠忌を記念して行われている秘仏・国宝特別開扉である。

■法華堂(三月堂)秘仏 国宝・法華堂執金剛神立像特別開扉(2023年10月14日~10月16日)

 平日の朝に東大寺境内を歩くのは久しぶりで、さすがに人が少なくて気持ちよかった。法華堂の礼堂(外陣)に入ると、右手の隅に案内の方がいて「こちらへどうぞ」と、いつもは通れない須弥壇の裏側に通してくれる。むかし12月16日の開扉日に拝観に来たときと同様である。お厨子が高い位置にあるので、正面には階段上の見仏台(?)が設けられていた。混んでいると周りを気にして譲り合わなければならないが、空いていたので、好きなだけじっくり眺めることができた。目線を右に向けると、突き当りのお堂の隅には、東京藝術大学の執金剛神立像復元プロジェクトチームによる彩色の模刻像(※写真あり)が据えられている。その色彩を目で記憶しては、お厨子の中の執金剛神立像に重ね合わせたりしてみた。執金剛神の武器は金剛杵だが、ちょうど見ていた中国ドラマ『虎鶴妖師録』に金剛杵(金剛橛)を武器にする少年が出てくるので、なんだか執金剛神にも親しみを感じてしまった。

■二月堂

 せっかく来たので二月堂でもご朱印を貰っていく。一人で窓口に座っていたおじさんが「はい、ちょっとお願い」というと、奥から女性が出てきて「南無観」を書いてくれた。私は高校生の頃から、もう何十年も東大寺に来ているが、おそらく二月堂で女性の方にご朱印を書いてもらったのは初めてだと思った。そのことを申し上げたら、おじさんが「去年の暮れからです。少し変えなければいけないと思って、女性にもシフトに入ってもらうことにしたんですよ」とのこと。へええ、まあいいことだと思う。

■戒壇堂(戒壇院)国宝・戒壇堂四天王立像拝観再開(2023年10月1日~)

 2020年7月から耐震対策と保存修理に伴う工事のため閉堂していた戒壇堂が拝観を再開し、東大寺ミュージアムに預けられていた四天王像も、もとの位置にお戻りになった。3年間、早かったなあという印象である。スーツ姿の男性二人連れが来ていて「ここの板は半分くらい替えた」とか「敷石の下に太い竹の根っこが通っていてね」と話していて、工事にかかわった業者さんらしかった。この日は大仏殿で法要が予定されていたので、来賓としていらしていたのではないかと思う。

■東大寺ミュージアム 特別展示・東大寺開山良弁僧正1250年御遠忌記念『良弁僧正と東大寺』(2023年10月1日~12月21日)

 四天王像がいなくなった東大寺ミュージアムには、実忠和尚坐像がいらしていた。ふだんは開山堂に良弁僧正坐像と背中合わせに安置されており、開山忌の12月16日だけ公開されるものだ。ちなみに隣りに写真パネルの置いてあった良弁僧正坐像は、10月28日~11月19日まで法華堂で公開が予定されている。この二人の師弟関係には、いろいろ興味と妄想が湧いている。

 戒壇院を出て東大寺ミュージアムに向かおうとしていたとき、南大門の方角から雅楽の音色が流れてきて、大仏殿に向かって華やかな行列が進んでいた。先導の僧侶に続いては、胡蝶と迦陵頻伽! 同行するお姉さん、古装ドラマの男装キャラみたいでカッコいい。

楽人の先頭を行く二人。右方(緑色の衣裳)が腰につけているのは鞨鼓か。左方(オレンジ系の衣裳)は上から叩く形式の小太鼓? どちらも撥を持っている。

管楽器の人々。

後ろ姿もステキ。

そして裹頭(かとう)をつけた法師の一団が来たので、笑ってしまった。悪そうだな~。

こちらは、現在の東大寺別当・橋村公英氏だろうか(間違っていたらすみません)。

最後に輿に担がれて進んで行かれた方はどなただろう。

ニコニコ生放送で法要の様子がアーカイブ配信されているので、時間があったら見てみようと思う。

 こうして月曜午前も充実の見仏タイムを過ごしたあと、大坂・日本橋のレンタルブースで職場のオンライン会議に参加(もちろんPC持参)。夕方から梅田で用務を果たし、火曜も終日仕事をして帰京した。

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2023年10月見仏旅行:高月「観音の里ふるさとまつり」

2023-10-20 23:52:33 | 行ったもの(美術館・見仏)

 滋賀県長浜市北部の高月地域で行われる「観音の里ふるさとまつり」(10月15日)に行ってきた。以前の記録を探ったら、2010年に参加していた。当時は8月の開催だったのだな。前回は(若かったので)巡回バスを利用したが、今回は周遊バスツアーで楽をすることにした。Bコースは「長浜450年祭特別コース~戦火を乗り越えた仏さま~」で、私と友人は最後列の座席に着席した。定刻の9:30に出発。ガイドは、お年を召されたおじいちゃんだったが、写真撮影の可否確認とか、拝観ツアーの勘どころをよく分かっていて、安心できた。

■浄光寺(高月町落川)

 素木のお厨子、錦の垂れ幕に半ば隠れるようにして、小さな十一面観音さまがいらっしゃる。お顔は人肌のような胡粉の彩色で、眉・目・髭を描き、唇も赤く塗ってある。なんとも親しみやすいお姿。

■高月観音堂(大円寺)(高月町高月)

 十一面千手観音。戦乱の昔に兵火からのがれて岩上に立たれたとされ、火災から村人を守る「火除けの観音さま」として信仰されている。お厨子の前に黒漆塗の大きな前卓が置かれており、案内の方が「右から見るお顔、左から見るお顔、正面のお顔、そして机の表面に映るお顔、どれも印象が違います」と嬉しそうに解説してくれた。このおまつり、どのお寺・お堂を訪ねても、住民の方々が、我が集落の観音さまを誇らしげに紹介してくれるのが好き。

■渡岸寺観音堂(向源寺)(高月町渡岸寺)、高月観音の里歴史民俗資料館

 渡岸寺観音堂は、周遊バスツアーとは別料金になっていたが、高月まで来てここの観音さまに会わずに帰るわけにはいかないので、もちろん拝観を申し込む。何もかも完璧すぎる十一面観音で、しばし時間を忘れてしまう。歴史民俗資料館は駆け足で参観。渡岸寺の門前は、門前市で賑わっていた。

■安楽寺釈迦堂(尾山釈迦堂)(高月町尾山)

 己高山のふもと、白山神社の鳥居をくぐった先のお堂(収蔵庫)に大日如来と釈迦如来を安置する。半丈六といわれる大きな坐像。今回訪ねたお寺は、ほぼ全て神社と隣り合わせで、神仏習合の信仰のかたちが色濃く感じられた。また「観音の里」のイメージが強い高月だが、観音以外の古仏の存在を知ることができたのもよかった。

福島屋(西浅井町大浦)

 けっこう長くバスに乗り、賤ケ岳の下のトンネルを抜け、琵琶湖の最北端を通って、大浦地区にあるこちらのお店で昼食。味にも量にも大満足。普通のランチもやっているようなので、いつかまた来てみたいけど、車でないと無理だろうなあ。奥琵琶湖に来たのは初めてで、車窓の風景も珍しかった。

 昼食後、琵琶湖岸を散策していたら、急な雨に降られてしまったが、傘を携帯していたので事なきを得る。天候の変わりやすさは日本海側の雰囲気。

■黒山石仏群(西浅井町黒山)

 東光院というお寺の境内に、いつの頃からか、多くの石塔・石仏が集められており「黒山石仏群」と呼ばれている。整然と並んだ石仏には赤い前掛けが掛けられていて、守り伝える集落の人たちの優しさを感じた。

 また、これとは別に、少し離れたところの道端には「二体地蔵磨崖仏」と呼ばれる岩(高さ1mくらい)が残されている。いつ、誰が作ったものかは全く分かっていない、とガイドさんはおっしゃっていたけれど、ネットで調べたら「嘉元二年」(1304)の銘が彫られているそうだ。

■安念寺(木之本町黒田)

 「いも観音」と呼ばれる破損・老朽化した仏さまを私が初めて拝見したのは、2012年の長浜城歴史博物館の展示らしい。それから何度も、芸大美術館でも東京長浜観音堂でも拝見しているのだが、ついに初めて現地を訪ねることができて感無量だった。観音堂は、けっこう長い石段を登った山の中腹にあり、2020年に住民有志によるクラウドファンディング(私は終わってから知った)を実施して、修復したものである。あらためて当時の新聞記事を読んだら、未指定文化財のため補助金の対象外で、修理費(約150万円)は10戸の村人がすべて負担しなければならなかったそうだ。仏像ファンの間では、こんなに有名で、愛されている文化財なのに、10戸で守っていかなければならないのはつらいなあ。

 いも観音さんを浮かべたという余呉川は少し離れたところにあって、次のお寺に向かう途中に川岸を通った。春は桜並木が見事だという。

■大澤寺(木之本町黒田大沢)

 本尊は十一面千手観音だが、脇手も合掌手も身体も比べて異様に細く短くて、不思議なバランスである。しかし豪華な光背と宝冠が逆に目立つので、全体としては美しい。半円形の眉、豊かな頬と顎の肉づきが平安美人の印象である。

■赤後寺(高月町唐川)

 のどかな家並みを抜けて、山を背後にしたお堂を見上げたとき、ああ、ここには来たことがある!という記憶がはっきりよみがえった。黒一色のお厨子には、向かって左に千手観音立像、右に菩薩立像と呼ばれる2体の仏さまが並んでいる。どちらも重量感にあふれた、飾り気のないお姿。特に千手観音立像は、わずか10本ほどの腕しか残っておらず、その全てが手首から先を失った状態なのに、痛々しさよりも、この世のものならぬ迫力を感じる。けれど住民たちは、こんな状態を余所の人々に見せては仏さまが可哀想だと思って、昭和40年代まで秘仏にしてきたのだという。その心根も尊いと思う。 

■西野薬師堂・正妙寺(高月町西野)

 西野薬師堂も下り立った瞬間、ああ、来たことがある、と感じた。ちなみに2010年の記事には「西野薬師観音堂」の名前で記している。古風で静謐な十一面観音と薬師如来、その左右にちょっと個性的な十二神将2体を安置する。

 境内にはもう1つお堂があって、もとは西野集落の北、山の中腹に祀られていた正妙寺の千手千足観音像が、2017年1月から安置されている。立派なお堂(以前のお堂に比べれば十分広い)に移ることができてよかったねえ。

■冷水寺(高月町宇根)

 わりと最近(2023年2月)、東京長浜観音堂で冷水寺の観音さまを拝見したので、あの観音さまに会えると思っていたら、小さなお堂にいらしたのは、記憶と違うお姿だった。お祀りされているのは、厳しめの表情をした黒いお姿の十一面観音坐像。東京で出開帳された鞘仏(内部に旧本尊を収める)とは異なる仏さまである。出開帳の際に、いろいろ調べて存在を知った「冷水寺胎内仏資料館」も参観することができて嬉しかった。「5、6人しか入れないので、みなさん交代で」と案内されるような小さな資料館。参道では、お茶とお菓子のふるまいをいただいた。ありがとうございました。

 そして高月駅に戻り、予定の16:10より少し早めの解散。駅前の露店がもう終わっていたのが残念だったが、ご朱印も久々にたくさんいただけて、充実した1日だった。

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2023年10月見仏旅行:石馬寺、瓦屋禅寺

2023-10-18 22:35:03 | 行ったもの(美術館・見仏)

 10月15日(日)は、滋賀県・長浜市の「観音の里ふるさとまつり」の周遊バスツアーに参加してきた。その前日は、彦根あるいは近江八幡で遊ぶか、久しぶりに竹生島に渡ってみようかなど、いろいろ考えていたのだが、滋賀県エリアで石馬寺と瓦屋禅寺、2つのお寺のご開帳があることを知って、見仏に全振りすることに決めた。

石馬寺(東近江市五個荘)

 仏法興隆を祈る道場を求めていた聖徳太子の馬が、この地で石になったという伝説を持つ石馬寺。聖徳太子1400年御遠忌を記念して、今年の春と秋、それぞれ2週間ほど、本尊(十一面千手観世音菩薩)と脇侍2体(毘沙門天、地蔵菩薩)のご開帳が行われている。私は、確か石馬寺には一度行ったことがあると記憶しているのだが、このブログでは記事が見つからなかった。もしかすると、もう20年以上前の話かもしれない。

 土曜の朝、東京を立ち、米原で乗り換えて能登川駅へ。駅前から八日市駅行きの路線バスに乗ると、10分足らずで石馬寺の停留所に着く。私のほかにも数組、ご開帳に向かう男女が下車した。

 バス停から少し戻った方向に手作りの看板。示された方向に歩いていくと、お揃いの蛍光グリーンのTシャツを着たおじさんたちが車の誘導に立っていた。

 やがて大門址の石碑を過ぎると、緑の木立に覆われた長い石段が続いている。傾斜はさほど急ではなかったが、頂上かと思うとさらに続く長い石段で、あとで調べたら300段とも400段とも言われていた。庫裏にあがって拝観受付をして、スリッパで渡り廊下を伝って宝物殿へ。写真の奥が宝物殿、手前は本堂である。

 宝物殿は、入口の左右に閻魔大王と司録・司命の二神が向き合っていた。鎌倉時代の作。正面中央には大きな阿弥陀如来坐像(平安時代、以下も同じ)。四方にテーブルクロスを垂らしたような四角い台座に載っているのが珍しかった。本尊と同じく台座も黒漆にまだらに金箔が残っていて、もとは台座まで金色に輝いていたことが想像できた。左右には2体の十一面観世音菩薩立像。向かって右は、やや腰をひねったポーズに動きがある。衣に渦文あり。左は垂髪でストンとまっすぐに立つ。さらに右側には、十一面観音の横に多聞天像、その外側に増長天像。左側は、持国天像が2体、外側の像がやや大きい。

 また右手前には大威徳天明王牛上像(お寺のパンフレットの表記だが、こんな呼び方をするのか?)。この牛が、むくっと起き上がりかけて(片足を前に出している)、左斜め横を睨んでいるところがカッコいい。宝物館の入口をくぐると、大威徳明王の姿は壁の影になって見えないのに、この水牛と目が合う配置になっていて、ドキッとする。左手間には、痩せさらばえてなお威圧感のある役行者の腰掛像と前鬼・後鬼像(鎌倉時代)。非常に密度の高い宝物館だった。

 いったん外へ出て、渡り廊下の先の本堂へ。小さな出入口の外に、グリーンのTシャツのお兄さんが立っていて「いま中が満員なので、ちょっと待ってください」と声をかけられた。お話を聞くと、宝物館の仏像はいつでも拝観できるが、こちらの本堂のお厨子の仏様は、住職一代に一回のご開帳と定められているとのこと。先代の住職は開けなかったので、今回は70年ぶりに当たるのだそうだ。「いろいろ、しがらみがあったんでしょうね。しが、だけに」と飄々とおっしゃっていた。近隣の檀家のみなさんがお手伝いをしているが、僕は愛知県なので、僕だけ違います、とも。しかし歴史や仏像には詳しい方らしく、本堂に入ると、住職に代わっていろいろ説明もしてくれた。

 本堂の中央には高い須弥壇があり、立派なお厨子が載っていた。開いた扉には不動明王と聖徳太子が描かれている。中には、向かって右から、毘沙門天、千手観音、地蔵菩薩の3体。小さくてよく見えないので、お厨子の前に置かれたカラー写真で像容を確認する。千手観音は厚みのある蓮華座の上にお立ちになっている。千手観音ではあるけれど、脇手はほとんど失われた状態だった。

瓦屋禅寺(東近江市建部瓦屋寺町)

 石馬寺のバス停まで戻って、同じ路線バスで八日市駅へ。意外と賑やかな駅前だったので、ショッピングセンター内のパン屋で軽い昼食。駅の反対側の林道を歩いて瓦屋禅寺へ向かうことにした。お寺のホームページには「徒歩にて20分」と書いてあったのだが、Googleマップで確認すると「40分」と出る。ちょっと嫌な予感がしたものの、登山道の登り口へ向かう。

 すると、さっき私を追い越した黒いワゴン車が、少し先で停まっている。不審に思いながら行き過ぎようとしたところ、車中の女性に「あの」と声をかけられた。「お寺に行かれるんですか?」「はい」と答えると「乗っていきませんか」とのこと。ええ、マジか。びっくりしたが、お言葉に甘えることにした。女性は檀家さんで、お寺に届けものがあるという。私が乗り込むと「歩くとけっこうあるんですよ…ひとりで歩くにはちょっと寂しい道だし」とホッとしたようにおっしゃる。確かに車に乗っていても勾配を感じる急坂で、とても20分では歩けない距離だった。ちなみに帰りは歩いたのだが、下り坂でも30分かかったし、目の前をイノシシの群れ(4、5頭)が横断していくのを見たときは、ちょっと怖くなった。

 女性ドライバーの方とは駐車場の前でお別れしたあと、参道の脇の石段を上がってきたおじさんに「あれ?!」と声をかけられた。「バスで一緒だったよね」と。石馬寺から近江八幡駅に向かうバスで一緒で、途中の「瓦屋寺口」というバス停で下りていったご夫婦の旦那さんだった。そのバス停は気になったのだが、私は瓦屋禅寺のホームページにあった林道のほうを選んだのである。バス停からのルートは約1000段の石段で、こっちが「表参道」と言われているらしい。汗だくでお疲れのおじさんに「ほかの道もあるの?」と聞かれて「八日市駅からも登りですけど、舗装道路でした」と答える。まあ…私は他人の車で山上まで連れてきてもらってしまったわけだが。これも観音様のお導きだろう。

 

 瓦屋禅寺も聖徳太子創建の伝承を持ち、四天王寺建立の際、山中の土を用いて瓦を焼かせたことが名前の由来となっている。本堂に秘仏として安置される十一面千手千眼観世音菩薩は、10月1日から12月3日まで、50年ぶりにご開帳されている。同寺の「特別大開帳」のホームページに載っているお写真は、故意か偶然か縦横の縮尺が歪んでいて、像容がよく分からないのだが、本物はたいへん美しかった。像の高さは160cmで、想像していたよりもずっと大きかった。脇手は、いったん全て肩から下に向かい、肘から先が扇のように上下に広がっている。羽ばたく鳥の姿(またはコウモリ?)のようでもある。細やかな細工の光背と蓮台は全面的に金色だったが、お厨子の中で上品に輝いていた。お顔は唇の赤が印象的だった。

 屋根付きの廊下でつながった地蔵堂には、摩滅が進んでぼんやりした印象の地蔵菩薩を安置し、観音応化身を描いた33枚の板絵が飾られていた。このほか、経堂や鐘楼も拝観した。庫裏でご朱印をお願いしようと思ったが、ご住職はご祈祷で忙しそうだったので、書き置きのご朱印をいただいた。

 そして帰りは徒歩で林道を下り、八日市駅から近江鉄道に乗った。この日は「ガチャフェス」というイベントで、100円でオレンジのリストバンド型乗車券を購入すると全線乗り放題になるという。近江(滋賀)に来ると、なぜかいいことが続く。米原で荷物をピックアップして、長浜で友人と落ち合い、美味しいお酒と夕食を楽しんだことは既に書いた。翌日の「観音の里ふるさとまつり」レポートはあらためて。

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滋賀県・長浜で旅の夕食呑み

2023-10-15 21:05:12 | 食べたもの(銘菓・名産)

この週末は滋賀県・長浜とその周辺のご開帳寺院をまわる見仏旅行に来ている。土曜の夜は長浜で友人と落ち合って、「美味多彩 蔵家」というお店で夕食にした。

旅行でいらしているならぜひ、と勧めてもらった「たびびとさん」セット。滋賀の名物をちょっとずつ味わうことができる。

日本酒は、滋賀県の地酒もあり、ほかの県の銘柄もあって多彩だった。

3銘柄を少しずつ楽しめる「利き酒セット」を2回、計6種類楽しむ。竹にパンダ柄のぐい呑みが可愛かった。

いろいろ食べて、最後は手巻き寿司で〆め。

ネットで見つけて、飛び込みで入ったお店だったけど、とてもよかった。またいつか、来られるといいな。

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多彩な個性/足柄の仏像(神奈川県立歴博)

2023-10-13 23:48:26 | 行ったもの(美術館・見仏)

神奈川県立歴史博物館 特別展『足柄の仏像』(2023年10月7日~11月26日)

 足柄地域(神奈川県西部、西湘)に伝わる、国指定重要文化財の彫刻3件4躯、県指定重要文化財の彫刻13件28躯を含む約80件の仏像・神像・肖像彫刻・仮面を一堂に公開する特別展。なかなか拝観に行けない仏像・神像を実見できる貴重な機会なので、さっそく見てきた。同館が、神奈川県の彫刻を地域別に紹介する展示としては、2020年の「相模川流域のみほとけ」に続くものだという。前回も「相模川流域」と言われてピンと来なかったように、実は今回も「足柄地域」がよく分からなくて、会場の半分くらい進んだところで地図を見つけて、小田原市・南足柄市・中井町・大井町・松田町・山北町・開成町・箱根町・真鶴町・湯河原町の2市8町にわたる地域であることを確認した。「足柄山」の印象が強いが、地域としては海岸部から山間部までが含まれる。

 入ってすぐに大きな毘沙門天立像(南足柄市・朝日観音堂)が待っていた。地天女に支えられる兜跋毘沙門天の様式。室町時代の模古作と評価されてきたが、本展の事前調査で平安後期の11世紀の作と考えられるようになったという。左腕の肘から先が上下逆に取り付けられているのではないかと不審に思った。

 展示室に入ると、万巻(満願)上人坐像(箱根神社)。平安時代9世紀と見做され、足柄地域では最も有名な像のひとつ。険しい眉根に見覚えがあった。袖に隠した左手を頭上に持ち上げた、小さな女神立像(箱根神社)も記憶にあった。初見だと思うが、美しさに見とれたのは、箱根町・興福院の普賢菩薩坐像。高い髷が宋風の趣き。同じ興福院には、向かって右側を四割くらい削られた状態の菩薩像頭部も伝わっている。破壊による欠落が、かえって端正な美しさを引き立てているようでもある。

 朝日観音堂の毘沙門天立像(入口ホール展示のものとは別、平安時代10~11世紀)は、猪首、膨らんだ頬、横に開いた鼻、あつい唇など、東国の力強い農民兵のようだ。南足柄氏・保福寺の十一面観音菩薩立像は、衣文や顔立ちの彫りが浅くシンプルな造形。摩滅によって木材の中に消えていきそうな表情に惹かれる。大磯町・六所神社の男神立像・女神立像は、人間くさい独特の表情が、木像というより陶俑を思わせる。特に地域的特徴というものはなくて、それぞれ個性に富んだ仏像・神像が並んでいた。

 後半は鎌倉・室町から江戸時代へ。ここでは、異様に頭でっかちでずんぐりした体形の十一面観音像(松田町・桜観音堂、室町時代)が印象的だった。もちろん都ぶりの整った阿弥陀如来立像や、よくできた清凉寺式の釈迦如来立像もあるのだけれど、ちょっと変わった、個性的な仏像・神像がつくられ続けているのが嬉しかった。

 図録解説によれば、本展には県内の市町村による彫刻悉皆調査で確認された仏像を多く展示しているという。そうなのだ。時間をかけた調査がなければこうした展示会は開催できないのである。同館の歴代の彫刻担当学芸員が県内の彫刻悉皆調査に参加してきたという短い記述を、しみじみ感謝をもって眺めた。

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