見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

社会の均衡と安定/徳政令(早島大祐)

2019-05-29 00:06:16 | 読んだもの(書籍)
〇早島大祐『徳政令:なぜ借金は返さなければならないのか』(講談社現代新書) 講談社 2018.8

 徳政令というのは、債務破棄、すなわち借りたお金を「返さなくてよい」という法令である。小学生の頃、日本史を扱った学習マンガでその存在を知ったときは、現代人の常識とかけ離れた法令でびっくりした。しかし、私はあまり道徳的に潔癖ではなかったので、そういうことがあってもいいかも、と受け入れた。

 本書は、15世紀から16世紀に至る徳政の200年間の歴史を追うことにより、債務破棄が肯定的に見られていた中世の社会から、借金は返さなければならないという観念を共有する社会(近世→現代)が、どのように生まれてきたかを考える。

 まず15世紀初頭。正長元年(1428)近江の馬借が徳政を求めた騒動が醍醐に波及し(満済准后日記に記載あり)、大和、河内、播磨など畿内各国に広がった。大和国では、なかなか徳政令を出さない興福寺にしびれを切らした周辺部で自主的に独自の徳政令が出され、そのひとつは柳生・春日社の疱瘡地蔵の岩に碑文が刻まれている。中世社会というのは、一揆蜂起の緊急事態に限らず、「借りたお金は返すべし」という法と「返さなくてもよい」という法、公権力の法と在地社会の法が、同じ重さで併存できたのだという。なんだか想像しがたい社会だが面白い。

 正長元年の徳政一揆の拡大には、馬借や海民のネットワークが大きな役割を果たした。その背景には、農民ばかりでなく馬借も海民も債務超過に苦しめられていた社会状況がある。

 そもそも中世の金融業者は、13世紀以来「借上(かしあげ)」あるいは「土倉」と呼ばれてきた。彼らの本業は荘園の代官請負業で、金融は副業でしかなかった。またお金の貸し借りも基本的に親しい間柄で行われることのほうが多かった。ところが14世紀初頭には、人々の土倉への依存が進み、地域金融の崩壊から金融需要が都の土倉に集中し、祠堂銭金融という新たな資金運用が呼び覚まされるなど、さまざまな要因によって、都の土倉=債権者と、鄙の住人=債務者の間に過剰な不均衡が生まれていた。そのことが、バランスの回復を求める正長元年の徳政一揆につながったと見ることができる。

 次に嘉吉元年(1441)足利義教が赤松満祐に暗殺された嘉吉の乱の混乱に乗じて、徳政一揆蜂起が起きた。京都は一揆軍に封鎖され、室町幕府は初めての徳政令を発令した。これが「徳政の大法」「有名の法」として広く社会に認知されるようになったことは、中世の社会と法の関係上、大きな変化だったと言える。この背景には、足利義教が民事訴訟制度を整備したことで、訴訟が幕府法廷に集中し、幕府法の権威を高めた(寺社法の上という認識が広まった)ことも影響している。

 享徳3年(1454)またも徳政一揆が蜂起し、幕府は徳政令を発令する。この徳政令は「分一徳政令」と言って、借金を帳消しにする代わり「〇〇分の一」を幕府に収めよというもので、幕府の財政再建策でもあった。当初は分一銭の回収が進まなかったが、次第に組織・制度が整備された。また応仁の乱直前の文正元年(1466)の徳政令は、京都に集結した武士たちによる兵糧強奪を追認するものであった。こうなると、もはや誰のための徳政か分からない。著者は「徳政令の政策化」と述べている。

 さらには、頼母子講とか坂非人の葬送利権とか人身売買とか、よく分からないものも徳政令の対象となっている。もう苦笑するしかない。そして徳政令は忌避されるものとなり、徳政の脅威を一掃できる公権力、集権的な国家への待望が近世社会を招き寄せた。この最後の結論は、ちょっと飛躍があるようにも思われ、当否はよく分からない。

 とりあえず、2018年の大河ドラマ『おんな城主直虎』を見て以来、徳政令について知りたいと思っていた希望は満たされた。借りた金を返さなくてもいいという法令が、子供の頃、安直に考えたほどいいものではなく、社会にさまざまな害悪をもたらすことは分かった。一方で、利子を払い続けても続けても解放されない借金(たとえば奨学金ローンとか)で苦しんでいる人々のことを思うと「(一定の条件を満たした場合)借金を返さなくてもいい」制度があってもいい気がする。それから、強い公権力によって社会がスタティックに安定するのはいいことだが、やっぱり歪みは溜まっていくもので、どこかでバランスを回復する運動は必要なのではないか。
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中国の神仙・文人に親しむ/絵画のテーマ(根津美術館)

2019-05-27 22:18:27 | 読んだもの(書籍)
根津美術館 企画展『はじめての古美術鑑賞-絵画のテーマ-』(2019年5月25日~7月7日)

 2016年から始まった「はじめての古美術鑑賞」シリーズ。絵画、紙、漆と来て、今年は再び絵画に戻った。ただし2016年の第1回が「絵画の技法と表現」だったのに対して、今年は「絵画のテーマ」である。「絵画のテーマ」って、確かに古美術鑑賞の大事な点だが、展覧会の企画としてはつかみどころがなさすぎないか?と不安を感じながら見に行った。

 結局、いくつかのジャンルに分けて、代表例を示すかたちにしたようだ。イントロダクションとして『絵因果経』(鎌倉時代)と紺紙金字経(平安時代)の扉絵を挙げ、「物語絵の世界」「禅林の人物と中国の神仙たち」「中国の故事人物画」「自然絵のまなざし」のセクションを設ける。

 たとえば『源氏物語朝顔図』(土佐光起筆)については、庭で大きな雪玉をつくって遊ぶ童女たちを見つめるのは源氏と紫の上の夫婦であることを解説する。そうか、これは朝顔の巻で、源氏の横にいるのは紫の上だったか、というように、ふだんぼんやり眺めている絵画のテーマを把握することができるのはありがたい。まあ『一ノ谷・須磨・明石図』(高嵩谷筆)『那須与一図』(浮田一蕙筆)くらいは一般常識で分かるよね?と思うのだが、若い世代はどうなのだろう。この2点は個人蔵で、特に『那須与一図』は近代日本画みたいな場面の切り取り方がよかった。

 展覧会の大部分を占めていたのが、中国の歴史・神話上の人物の解説である。達磨や布袋、羅漢に始まり、梅と鶴を愛した林和靖、蓮を愛した周茂叔、瀑布を見る李白、驢馬に乗る杜甫などの逸話が分かりやすく解説されてた。なんだか中国文化史の基礎講座みたいだったが、展示の作品は中国絵画に限らず、日本の作品のほうが多かった。要するに日本の古美術は、かなりの部分が中国文化圏の中でつくられてきたのだと思う。栃木県立博物館からの出陳が数点あり、そのひとつ『達磨慧可対面図』(伝・狩野元信筆)は、慧可の衣の袖先がくるんくるん巻いているなど、両人とも現実離れしてSF的で面白かった。

 谷文晁の大作『赤壁図屏風』六曲一双もよかった。これまで根津美術館で見た記憶がないもの。左右に頂の見えない岩壁がそびえる。右隻は画面の奥に小さな満月が上り「前赤壁賦」の風景。左隻は鶴が低く飛び「後赤壁賦」の風景。どちらも岩壁の下を小さな舟が渡っていく。私はいちおう中国・湖北省の赤壁を見たことがあり、長江の雄大さをよく捉えていると思うが、谷文晁は中国の実景を知らないでこれを書いてるんだよなあ、と感慨深く思う。

 あとは、桑山玉洲のさりげない『墨竹図』、繊細で儚げな色彩の椿椿山の『四愛図』(菊、蓮、梅、蘭)もよかった。どちらも栃木県立博物館所蔵。なお、英文版の解説も詳しいので、海外からのお客様にはおすすめだと思う。牧谿猿を「Muqi gibbons」ということを覚えた。

 展示室5「茶席の書画-根津青山の茶会-」は、茶会記をもとに初代・根津嘉一郎(青山)の茶道具や美術品を展示しており、予想外な名品が出ていて驚いた。たとえば「夕陽茶会」は馬麟筆『夕陽山水図』(南宋時代)のお披露目茶会。『龍厳徳真墨蹟』(元時代)のお披露目には、利休好四方釜など、硬質でスタイリッシュな茶道具を揃えている。松花堂昭乗筆・沢庵宗彭賛『大津馬図』の場合は、まず大津絵『鬼ノ念仏図』を掛けて、『大津馬図』の登場を予想させるという演出。こういう文化的な実業人って、今いるのだろうか。展示室6「雨中の茶の湯」は唐銅風炉に蓮葉形釜が面白かった。

 展示室4「古代中国の青銅器」はめったに覗かないのだが、先日、中公新書の『周 - 理想化された古代王朝』を読んだこともあって、久しぶりに入ってみた。殷の青銅器と周および東周(春秋・戦国時代)の青銅器の違いを興味深く眺めた。
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写真による全著作解題/木下直之を全ぶ集めた(木下直之)

2019-05-23 23:20:26 | 読んだもの(書籍)
〇木下直之『木下直之を全ぶ集めた』 晶文社 2019.1

  今年2月、東陽町のギャラリーエークワッドで開催された展覧会『木下直之全集-近くても遠い場所へ-』を見に行った。会場には、木下先生の著作を年表ふうに並べたコーナーがあって、ふむふむ、これは読んだ、これも買った、とチェックしながら眺めていたら、最後の1冊だけ知らなかった。慌てて書店に走って購入したのが本書である(途中まで読んで、しばらく放っていた)。

 内容は、第1章から第11章ではなく「第1巻から第11巻」という表記になっており、各巻(各章)で著者がこれまでに刊行した書籍11点が紹介されている。ほぼ内容の要約になっているものもあれば、タイトルの由来や執筆の背景を語ったものもある。ポルノ写真の掲載をめぐる編集者との駆け引きと後日談も興味深い。もっとも、これらが書き下ろしの文章であるのか、旧著の要約なのかはよく分からない。

 各章は、4ページほどの文章のあとに写真を主としたページが続く。著者がそれぞれの著書に提供した写真であるようだ。近年の著書、たとえば『動物園巡礼』(東京大学出版会、2018)の写真はかなり見覚えがある。ギャラリーエークワッドの会場で目にした写真もあった。古いものだが『美術という見世物』(平凡社、1993)は、内容をほとんど忘れているのに、横浜のランドマークタワーに向かう井伊直弼の銅像の写真には強い印象があって、これは木下先生の本で見た、ということをはっきり覚えていた。

 『ハリボテの町』(朝日新聞社、1995)は読んだかどうか自信のない本だが、「駅前彫刻」と題した見覚えのある風景の写真が目に飛び込んできた。錦糸町駅前にある陰陽マークみたいな抽象彫刻。2年前、江東区民になって錦糸町に行くことが増えて、なじみになった。その隣りは著者の生家のあった浜松駅前。ただし比較的最近の写真である。私は、この数年、なぜか浜松に行く縁があって、この風景を覚えた。もし1995年の著者の本でこの写真に出会っていても、何の感慨も抱かなかっただろうと思うと不思議な感じがする。『写真画論』(岩波書店、1996)には、1995年の阪神淡路大震災の日、著者が撮影した写真が2点掲載されている。「瓦礫と化した多くの建物があっという間に片づけられてしまった」という証言には、なるほどなあと思う。

 『近くても遠い場所』(晶文社、2016)には東大の総合図書館前の広場の写真がある。かなり長い間、図書館の改修工事で一帯がフェンスに覆われていたから、本当に最近の写真だと思う。そして、気になる記述があったのでここに書き抜いておく。――広場の曼荼羅。東京大学本郷キャンパスの図書館前広場。1986年、広場の整備を手掛けた建築家大谷幸夫の構想。「曼荼羅」と名づけて、戦没学徒の慰霊の場にしようとした。実は、終戦まで図書館内には戦没者記念室が設けられていた。大学による慰霊の場は先代の図書館内にもあり、日露戦争の戦死者が祀られていた。戦後は、それらのすべてが大学から放り出された。そのひとり市川紀元二は銅像にまでなっていたが、構内に止まることを許されず、故郷の静岡県護国神社に引き取られて行った。東京大学が戦争の記憶に背を背けている。

 また別の箇所では「隣接する文学部三号館の壁に、彼ら(戦没学生)に捧げる言葉を刻む話もあったが実らなかった」ともいう。文学部三号館も建築家・大谷幸夫(おおたに さちお、1924-2013)の設計だそうだ。そして、ちょっと調べたら、このひとの建築作品、京都国際会館とか川崎の河原町団地とか、すごく私好みである。河原町団地は一度見に行ってみたい。いや、むしろ住んでみたい。

 本書の最終章(巻)「麦殿大明神ののんびりした一日」は、ギャラリーエークワッドに飾られていた麦殿大明神、すなわちポリバケツや湯タンポ、ジョウロ、ヤカン等々による「つくりもの」の誕生の一部始終。展覧会のウェブサイトに載っていた文章だが、ここに収録されて一安心。ちなみに、木下先生とギャラリースタッフが「部品」を買い集めに行った金沢文庫駅前の藤屋金物店は、私が金沢文庫(博物館)に行くときにいつも眺める風景の一部なのが嬉しい。
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出土文献から探る実像/周(佐藤信弥)

2019-05-21 23:29:39 | 読んだもの(書籍)

〇佐藤信弥『周 - 理想化された古代王朝』(中公新書) 中央公論新社 2016.9

 私は高校の世界史の先生から「かつて中国最古の王朝は周だった。それが、研究が進んで、今では殷王朝の実在が認められるようになった」と聞いた記憶がある。殷王朝については、遺跡や出土品に基づく考古学研究の蓄積があるおかげで、イメージがしやすい。それに比べると、逆に周王朝のほうが、孔子によって「理想の時代」と見なされたということ以外は、神話と伝説のベールに隠されて茫漠としている。本書は伝世文献(書物)を参考にしつつも、もっぱら金文(青銅器の銘文)や甲骨文や竹簡などの出土文献によって、周王朝の実像を再現したものである。キーワードは「祀」(祭祀儀礼、礼制)と「戎」(軍事)であることが冒頭に示される。

 周王朝の歴史は、西周期(紀元前1046-同771)と東周期(紀元前771-同256)に分かれ、本書はさらに西周期を前半・後半に区分する。西周前半期は創業の時代。周の人々は農耕民と非農耕民の2つのアイデンティティを持っていた。そして(伝世文献には描かれていないが)殷への服属と通婚によって、殷王室を支える上層貴族の一員でもあった。

 やがて天下分け目の戦いの末、周は殷に勝利して王朝交替を成し遂げる。周王は諸侯を封建し、大射礼などの「会堂型儀礼」と贈与(宝貝など)によって臣下と関係を結んだ。外部勢力と絶え間なく戦いが続いた時代でもあった。周王朝が、イメージしていたような平和文化国家ではなく「戦う王朝」であったことにちょっと驚く。

 西周後半期には「会堂型儀礼」に代わって、周王が臣下に官職や職務を命じる「冊命儀礼」が目立つようになる。酒器が消失して(ええ~)食器類や編鐘などの楽器類が出土品の中心となること、饕餮文から抽象的な幾何学文が主流になっていくことなど、モノに即した指摘が興味深い。そして第10代厲王(れいおう)は国人の反乱によって王位を追われ、二人の大臣による「共和」の政が行われた。この用語の意味には諸説あるらしいが、こんなに初出の古い言葉だとは知らなかった。厲王の子が、積極的な外征で中興の主とたたえられる宣王、しかしその子・幽王の代で西周は滅ぶ。

 諸侯は平王を擁立して都を移し、東周が成立するが、以後、歴史上は「春秋期」「戦国期」と称する。なお、西周期に周王朝に服属し、近衛兵を供給する役割を担っていた秦は、周の東遷に伴い、西周の故地に入り込んだことで、強く西周文化の影響を受けた。秦は周の文化を継承しつつ、天子たる周王に自らをなぞらえるようになった。周と秦に、このような文化の連続性があるとは考えたこともなかったので、非常に面白いと思った。ただし、春秋期に「天子」と号した諸侯は秦だけではなかったとのこと。一方、晋など中原の諸侯はなお西周の枠組みを尊重し、勤王の意志を打ち出していたというから、同時代の諸侯でも、考え方はさまざまだったのだろう。

 曾侯乙墓(湖北省)から出土した大規模な編鐘は、この時期(戦国期)のものだが、西周後半期の形式を模した礼器であるという。復古調の礼器を用いることが、諸侯や上級貴族のステイタスであったのだ。春秋期には、西周の歴史や文化に関する事柄のテキスト化やその普及も進んだ。テキスト(伝世文献)を読むときは、その成立の背景をよく考えないといけないということを感じた。

 興味深かったのは、鄭の簡公が晋の趙武(天命の子の趙武だ!)を饗応したとき、『詩経』から、恋人の帰りを待つ女性の心情を詠んだ詩を引いて、趙武に会えて嬉しいという挨拶としていること。本書は「恋愛詩をこのように読み替えるのは少々異様な印象を受ける」と述べているが、古代日本でも、恋歌を同様の挨拶に代えるという事例はあったと思う。あ~同じなんだなあという発見が嬉しかった。

 博物館や美術館で青銅器を見つけると、どこに注目すればいいのか、いつも戸惑っていたが、少し興味が湧いた気がする。特に台北故宮博物院の三大青銅器「散氏盤」「㝬鍾(宗周鐘)」「毛公鼎」について知ることができたのは嬉しい。次回、故宮博物院に行ったときは、じっくり見てくることにしたい。

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円覚寺派の展開も含めて/円覚寺の至宝(三井記念美術館)

2019-05-19 23:26:28 | 行ったもの(美術館・見仏)

三井記念美術館 大用国師二百年・釈宗演老師百年大遠諱記念特別展『円覚寺の至宝:鎌倉禅林の美』(2019年4月20日~6月23日)

 鎌倉・瑞鹿山円覚寺は、弘安5年(1282)鎌倉幕府第8代執権北条時宗により、中国から招聘した無学祖元(むがくそげん)を開山として創建された。本展は、大用(だいゆう)国師200年・釈宗演老師100年大遠諱を記念し、円覚寺と円覚寺派寺院の至宝110点が一堂に会する特別展である。

 第1室は、開山無学祖元の所用と伝えられる南宋、元時代の品々(「開山箪笥」に収められて一括保管されている)を特集。冒頭には「無学祖元」の木印(陽刻と陰刻)。払子、団扇、袈裟環、堆朱や堆黒の合子や盆など。品がよくて、高級感があって、趣味がよい。鎌倉禅林ってセレブな世界だったんだなあと思う。

 最初の大展示室(展示室4)は、仏像と仏画・墨蹟等が、ほどよく同居していた。鎌倉ゆかりで見覚えがあるが、必ずしも円覚寺所蔵でないものも混じっているのが面白かった。入口近くにいらした宝冠釈迦如来坐像(鎌倉時代)は白雲案所蔵。肩が細く、柔和で女性的な感じがした。入口の向かいの展示ケースには、右に蘭渓道隆坐像(建長寺)、左に無学祖元坐像(円覚寺)。そして、それぞれの左右に頂相の画幅と墨蹟を掛けている。『蘭渓道隆経行像』と『蘭渓道隆墨蹟(法語)』は円覚寺の宝物風入れや鎌倉国宝館で何度も見たもの(緑色の布を掛けた椅子に座っている頂相は後期)。木像は、やや硬く冷たい印象を受ける。

 隣りの無学祖元坐像は、全く記憶になったのだが、今回、強い印象を受けた。背をかがめ、ぐっと前のめりに身を乗り出した姿勢で正面を見据える。右手に握った払子の穂先が、左手を離れて跳ね上がっているのも、何か一瞬の動きを捉えたように見えて、熱い。その力の入り方、こういうボスについていきたいと思わせる。椅子の背もたれの横木には、右側に小さな龍、左側に二羽の鳩がとまっていて可愛い。私は無学祖元の『遺偈』(相国寺)も好きなのだが、これは4幅あって、1幅ずつ展示替えされている。図録を見て、3幅目から少し字が小さくなることを知った。

 おや、君も来ていたのか!と微笑んでしまったのは、横須賀・清雲寺の滝見観音菩薩遊戯坐像(南宋時代)。腹回りが太くて、足の開き方が堂々としていて、ヤクザの親分がすごんでいるみたいで好きなのだ。建長寺の『白衣観音図』(元代)は、肉付きの薄い平板な体と手足、体を斜めにひねった自由な遊戯坐ポーズ。青い長髪、白い衣はゆらゆらと広がり、水の中にいるかのようだ。円覚寺の大きな『被帽地蔵菩薩像』(高麗時代)も好き。数種類の赤色の使い分けがきれい。浄智寺の韋駄天立像、建長寺の伽藍神像はおなじみの顔だったが、寿福寺の小さな伽藍神像は知らなかった。中国の古装劇に出てきそうな、シュッとして若々しいイケメンである。

 最後の大展示室(展示室7)は、善光寺式の銅造阿弥陀三尊像や絹本著色『虚空蔵菩薩像』など、円覚寺の宝物風入れでおなじみの寺宝に加え、いつも国宝館でお会いする端正な地蔵菩薩坐像(浄智寺、顔の中心線に修復の跡がある)や夢想礎石坐像(瑞泉寺)もあった。それから「正宗寺」と記された、大きめの十一面観音坐像、釈迦如来坐像があって、どこにあるお寺だろう?と首をひねった。先に進んで分かったのは、茨城県常陸太田市にある寺院で、夢想国師を開山とする臨済宗寺院の流れを汲むのだという。雪村周継が出家した寺であることから、雪村の絵画もいくつか出ていた。

 なお、私は初めて同館の「ミュージアムパスポート」を購入してみた。5,000円で2019年度の展覧会を何度でも見ることができる上、同伴1名も無料になるというもの。出光美術館等も200円割引にあるというのだがらお得感が半端ない。特別展(1,300円)に4回来ればもとが取れる。今回の展示は来週から後期で、書画は展示替えもあるので、もう1回来てもよい。そして次の展覧会は、私の大好きな『日本の素朴絵』(監修・矢島新先生)なので、時間の許す限り足を運ぶつもりなのだ。楽しみ!!

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三島由紀夫「豊穣の海」のススメ(鎌倉文学館)+鎌倉散歩

2019-05-18 22:55:46 | 行ったもの(美術館・見仏)

鎌倉市鏑木清方記念美術館 特別展『清方と金鈴社の画家たち-吉川霊華・結城素明・平福百穂・松岡映丘-』(2019年4月18日~5月22日)

 鎌倉で気になる展覧会をやっているのでまわってきた。まずは久しぶりの鏑木清方記念美術館。「金鈴社」は、美術評論家の田口掬汀の呼びかけで、結城素明、鏑木清方、吉川霊華、平福百穂、松岡映丘の5人により結成された団体。Wikipeadiaの解説によると、自由で風通しのよい団体だったようで面白い。私は、ここに名前の挙がっている画家の作品が全体に好みなので見に行った。数は少ないが、吉川霊華の『観自在菩薩』、松岡映丘の白描『月』などを見ることができた。また、田口掬汀は日本美術学院という学校を興して美術の通信教育を行い、金鈴社の同人たちは分担して講義録を執筆した。鏑木清方の『新浮世絵講義』、吉川霊華の『歴史風俗画講義』など、貴重な古書も展示されていた。

 清方の代表作『朝涼』は、蓮田を背景に着物姿の少女を描いたもので、丸顔でお下げ髪の少女はちょっと広瀬すずに似ている。『曲亭馬琴』下絵の少女(長男の嫁・路か)も同じ系統の、意志の強そうな美少女。しかし『曲亭馬琴』は完成作より下絵のほうがよい。『日高川 道成寺』下絵は、横長の画面をあごまで水に浸かりながら泳ぎ渡る清姫の図。着物の裾から太くて長い蛇(龍)の尾が伸びており、胸のあたりまで蛇体化していそうな気がする。思いつめた表情の妖しい美しさ。私はこの完成作を知らないが、『人魚』を思い出した。清方の描く女性はバラエティに富んでいる。

 館内には清方の仕事場が再現されていた、その隅に古風な書箪笥があって、扉に書名を書き付けた和紙が貼ってあるのだが、「尊卑文脈」や「明治京都地図」などの参考書、「梅暦」などの人情本に混じって「石濤蘭竹画譜」(たぶん)の文字があったことが気になった。

鎌倉国宝館 特別展『知られざる円覚寺の至宝~古文書と羅漢図の世界~』(2019年4月27日~6月16日)

 2018年が釈宗演老師の百年遠忌、2019年が大用国師の二百年遠忌にあたることを記念し、いま円覚寺の仏像の多くは、東京の三井記念美術館に出陳されている。一方、国宝館のこの展示は、題名どおり古文書と羅漢図を中心としたもの。延慶元年(1308)円覚寺を定額寺とする太政官符が、明らかに他の院宣や綸旨とは形式が違っていて面白かった。翻刻がほしい。羅漢図は、金大受系の『十六羅漢図』(南北朝時代)から3件、張思恭筆『五百羅漢図』(元時代、1幅に10人の羅漢を描く)から3幅など。

鎌倉文学館 特別展『三島由紀夫「豊穣の海」のススメ』(2019年4月20日~7月7日)

 2019年が「豊穣の海」の第1作『春の雪』が刊行されてから50年にあたることを記念し、松枝侯爵家の別荘のモデルとされる鎌倉文学館が開催する特別展。興味深かった資料の1つは、1970年3月5日付けの恩師・清水文雄に宛てた手紙。内田百閒の文章を読んで「今更ながらその文章の立派さに感じ入りました。ひょっとすると鴎外以来随一の名文ではないでせうか」と述べている。お目が高い。

 また死の直前、机に置いてあったものを家人が投函したというドナルド・キーン氏宛ての手紙(消印は1970年11月26日、自決の翌日)を、たぶん私は初めて読んだ(コロンビア大学C.V.スター東亜図書館所蔵、写真パネル展示のみ)。自分は、キーン氏が冗談で名づけたとおり「魅死魔幽鬼夫」になりました、キーンさんの訓読は学問的に正確でした、と苦いユーモアを交えて死の決意を語り、貴方なら全て分かってくれるだろう、と信頼を述べる。「豊穣の海」の3、4巻の翻訳が無事に出版されるよう後事を託し、それによって「世界のどこからか、きっと小生というものを分かってくれる読者があらわれる」ことを願う。私はこの部分に創作者の思いを感じて泣けた。前段に「文士としてではなく武士として死にたかった」という文言もあるのだが、やっぱり彼は文士だったんじゃないかと思う。

 そして最後はキーンさんに向けて「何卒この上もお元気で、すばらしいご研究をたくさん発表してください」という心からの祝福が送られている。今年2月、96歳で亡くなられたキーンさん、三島はあの世で首を長くして待っていたかもしれない、と思った。

 庭園はバラが花盛り。

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1995年「東寺」特集と比較/雑誌・芸術新潮「オールアバウト東寺」

2019-05-17 22:39:19 | 読んだもの(書籍)

〇雑誌『芸術新潮』2019年5月号「特集・オールアバウト東寺」 新潮社 2019.5

 ずいぶん前にも『芸術新潮』の東寺特集を読んだ記憶がある。蔵書のほとんどは段ボール箱に入っていて、すぐに参照できないので、ネットで検索したらちゃんと出てきた。1995年7月号「弘法さんの秘密道場 『東寺』よ開け!」という特集だ。

 国立国会図書館のデジタルコレクションにも入っていて、著作権の保護期間中のため、画像は見ることができないが、目次が読めるのはありがたい。創建1200年記念『東寺国宝展』(1995年、京博。東博には巡回していない)に合わせた特集であることが分かる。「展覧会の見どころ」によれば、五大尊像、十二天像、真言七祖像など、今回の『国宝 東寺』展と共通する寺宝が出陳されていることが分かる。私は、もともと仏像好きで、東寺はお気に入り寺院だったのだが、『芸術新潮』1995年7月号(たぶん入手したのはもう少し後)には強い影響を受けた。焼損四天王の存在を知ったのもこの号のおかげだと思う。

 それに比べると、2019年5月号には感動がなかった。私が些末な知識を身に着けすぎて、純粋さを失ったせいかもしれない。しかし「ここは真言密教の根本道場」「忿怒ひしめく、明王&四天王」「五大菩薩のほほえみ」等の写真キャプションは、何も言っていないも同然で、プロの仕事と思えない。どうした芸術新潮編集部?と首をひねりたくなった。

 ちなみに1995年7月号では、金堂三尊のキャプション「悲劇の青年・豊臣秀頼の壮大な置き土産」が私は好きで、他にも「後醍醐天皇、足利尊氏、豊臣秀頼 多士済々のパトロンたちと東寺との関係を教えて下さい」「洛中洛外で合戦が繰り広げられたとき、東寺はどう乗り切ったのですか?」など、東寺の歴史に関する読みものが多かった。今号は、もちろん創建者・空海へのリスペクトはあるものの、いま目の前にある仏像や宝物の詳細な解説が中心になっていて、創建から今日までの「間の歴史」への関心が薄いように思う。ちなみに金堂三尊のキャプションは「桓武天皇のオーダー・メイド薬師三尊の朝」だ。桃山時代の再興像であることは小さな活字で注記されている。

 ただ主な仏像の様式や見どころの解説、曼荼羅の尊格の配置やエリアの解説は詳しい。後七日御修法における十二天の配置は、東博の会場パネルにはあったが、図録には収録されていない(みたい)でガッカリしていたので、大変ありがたく思った。

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帝釈天像のあしのうら/国宝東寺(東京国立博物館)

2019-05-15 23:07:07 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京国立博物館 特別展『国宝 東寺 - 空海と仏像曼荼羅』(2019年3月26日~6月2日)

 会期も後半だし、そろそろ空いているかと思っていったのだが甘かった。やっぱり混んでいた。特に入ってすぐの展示ケース前は渋滞していた。観智院伝来の『弘法大師像(剃髪大師)』(鎌倉時代、得度式で用いることからそう呼ぶ)は、摩滅してほとんど姿が見えないのに、大師の両眼だけはっきり分かるのが怖かった。椅子付きの小さな弘法大師坐像は江戸もの。

 『風信帖』の前に人が並ぶのは分かるが、私はむしろ『弘法大師御遺告(ごゆいごう)』を見ることができて嬉しかった。死の間際とはいえ、とても空海とは思えない、たどたどしい筆跡。現在の研究では、空海に仮託して制作されたものとされているが、こういう文字を欲した信仰が、生々しく感じられる資料である。

 反対側の展示ケースには真言七祖像。私が行ったときは龍猛(悪役レスラーみたいに逞しい)と善無畏のみ原品で、あとは大型の高精細写真パネルだった。こういう展示方法だと、七祖が揃った雰囲気が分かっていいと思う。

 続く一角には「御七日御修法」の空間が再現されていて、とても興味深かった。胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅を少し離して対面式に掛け、それぞれの前に修法壇を築く。胎蔵界曼荼羅の背後には十二天像を掛け、両曼荼羅の間には五大尊像を掛ける。会場は、できるだけ実際の修法の空間に近いかたちで、原品あるいは複製品を配置していた。大好きな十二天像を、複製混じりでもまとめて見られる眼福。展示ケースが薄くて、ぐっと近づいて細部までに見られたことも嬉しかった。このほか、妙に表情の人間くさい十二天面(7件、平安時代)や舞楽面(鎌倉時代)、白描仏画、文書、曼荼羅各種。珍しいところでは、ほっそりした裸体の武内宿禰坐像(着物を着せるもの、冠は作り付け)、ふくよかな女神坐像、獅子・狛犬は全て平安時代。以上が前半。

 後半は本格的に仏像三昧である。まず、東寺のスター兜跋毘沙門天立像。いつもより高い壇に載っているので、足もとの地天女と二鬼(尼藍婆・毘藍婆)が見やすく、鬼の横顔に見惚れる。いやもちろん毘沙門天もカッコいい。顔が小さく、足が長くてスタイルがよい。次に観智院の五大虚空蔵菩薩坐像(唐時代)。ほかに類例を思いつかない独特の風貌で、見る者を困惑させる。図録の解説によれば、江南地方の特色との類似が指摘されているそうだ。

 いよいよ最後は東寺講堂の仏像曼荼羅で、21躯のうち15躯が出陳されている。4躯(本尊の周囲の4如来)は江戸・天保年間の新造。仏像ファンの間で「美仏」として知られる帝釈天騎象像は、なんと写真撮影OK。

  この帝釈天像は、講堂の左端にいらっしゃるので、いつも向かって左側から拝見するのみだった。今回、会場で右側にまわってみて驚いたのは、足先の色っぽさ。垂らした左足(靴を履いておらず裸足!)の親指がピンと跳ね上がっている。象の頭に載せた右足のあしのうらは、ふっくら柔らかそうだ。仏師は足フェチだったのだろうかと、よからぬことを考えてしまった。

 動の持国天と静の増長天もよい。増長天の左足の下で、みごとな尻をこちらに向けている邪鬼の顔も見ることができた。人を小馬鹿にしたひげ面の笑顔で笑ってしまった。五大明王のうち4躯(中尊・不動明王を除く)も圧倒的によい。五菩薩のうち4躯(中尊・金剛波羅密多菩薩座像を除く)は創建当時のものと見られ、古風で、少しずつ異なる風貌が好ましい。次回からよく気を付けて拝観しよう。

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蘭州料理「ザムザムの泉」@西川口

2019-05-14 21:47:40 | 食べたもの(銘菓・名産)

噂を聞いて、一度は行ってみたいと思っていた「ザムザムの泉」に行って蘭州ラーメン(蘭州牛肉麺)を食べてきた。いやこれは美味しい。ほかの店の牛肉麺が食べられなくなるというのは分かる。

お店は西川口駅から5分くらいの住宅街の中。日曜日の昼過ぎで、あ!誰も並んでいない!と思ったら、私の前を歩いていた二人連れが店に入ったので、5分くらい待つことになった。カウンターに7席しかない小さなお店だが、お客が途切れない。

麺は細めの「三細」を注文。注文を聞いてからご主人が麺生地をこねて、麺を切ってくれる。ゆでるのは若い男男性の助手にまかせていた。

麺も美味いがスープが絶品。パクチー、ラー油よりもスープの旨味がまさる。これならパクチーが得意でない友だちも誘える。日本の一般的なラーメンに比べると小さめの器なので、味噌汁を飲むような感じでスープは全部飲める。

次回はごはんか味卵のセットにしよう~。また行きたい。

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愛と許しの物語/中華ドラマ『倚天屠龍記』(2019年版)

2019-05-13 23:32:30 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『倚天屠龍記』全50集(2019年、騰訊視頻)

 金庸作『倚天屠龍記』の映像化は、2009年の張紀中プロデュース版以来、10年ぶりらしい。2009年版は2012年くらいにネットで見た。世界遺産の武当山ロケをはじめ、映像は美しかったが、物語は分かりにくかった。その後に原作の翻訳も読んだが、やっぱり腑に落ちなかった。題名の影響で、天下の権力の帰趨を決める、倚天剣と屠龍刀の争奪戦が主題だと誤解してしまうのがいけないのだ。それは物語をまわすための仕掛けに過ぎず、実際のメインテーマは「愛」なのである。今回は、そう思って視聴を始めたので、違和感なく視聴を続けられた。

 本作の物語世界には、正派と邪教という厳格な対立があるように見えて、それを愛によって乗り超えるカップルが次々に登場する。正派・武当七侠のひとり張翠山は、邪教と恐れられる明教(マニ教)の一派・天鷹教の教主の娘・殷素素を愛し、明教の「金毛獅王」謝遜とともに氷火島に流れつく。そこで張翠山と殷素素の子として生まれた張無忌は、謝遜を義父と慕って育ち、本土に帰ったあとは、武当派の師父たちにも、天鷹教の祖父や伯父さんにも可愛がられる。

 また、武当派の殷梨亭は、峨眉派の女侠・紀曉芙と婚約していたが、紀曉芙は、邪教・明教の光明左使こと楊逍を愛し、姿を消す。紀曉芙がひとりで生み育てた女子には「不悔」という名前を付けていた。不悔は張無忌に探し出され、父・楊逍に引き取られる。その不悔が愛したのは、なんと父の恋敵だった殷梨亭。金花婆婆(紫衫龍王)と韓千葉(銀葉先生)の関係、悪の道に踏み込んだ周芷若を気遣い続ける宋青書にも「愛こそ全て」の形象が感じ取れる。そして、明教の教主として武林各派を糾合し、元に対する反乱軍を指揮する張無忌が、同志たちの疑惑や反対を押し切って、元(モンゴル)の郡主・趙敏を選ぶのは、物語の展開上、必然と言える。

 本作で私が一番好きな女性キャラは周芷若。師父の滅絶師太から「峨眉派の栄光を輝かせよ」という呪いをかけられ、手段を選ばない悪行に手を染める。しかし、謝遜に教えられて、最後は悔悟する。謝遜自身も、かつて暴虐と殺戮を繰り返し、多くの敵をつくった前非を悔い、仏門に入って安心を得る。周芷若を演じた祝緒丹という女優さんは、大きな目がチャームポイントで、可愛いだけかと思ったら、邪悪化した後がとても魅力的だった。滅絶師太(周海媚)がギスギスしたおばさんでなく、色っぽい中年美人なのも逆に現実味があってよかった。

 主役・張無忌の曾舜晞(ジョゼフ・ゼン)は、物分かりがよく真面目な好青年ぶりを好演。だが、2009年版の張無忌はもっとチャランポランだった気がする。本作は、お前がいいひと過ぎるから、いろいろ面倒なことが起きるんだよ!と叱りつけたくなることもあった。

 しかし何と言っても本作の収穫は、林雨申が演じた楊逍のイケメンぶり。髭なしの若い頃もいいし、髭ありの中年楊逍もよい。古装劇は初めての俳優さんだそうで、ぜひまた出てほしい。楊逍人気の影に隠れてしまったけど、光明右使・范遥を演じた宗峰岩も、いつもより若々しい役でよかった。他にもこの作品で新たに知った俳優さんが多数。また違う作品で会うのを楽しみにしている。

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