見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

真説・張作霖政権/馬賊で見る「満州」(澁谷由里)

2007-11-29 23:45:49 | 読んだもの(書籍)
○澁谷由里『馬賊で見る「満州」:張作霖のあゆんだ道』(講談社新書メチエ) 講談社 2004.12

 浅田次郎『中原の虹』を読んで、俄然、張作霖という人物に興味を持った。「張張作霖爆殺事件」といえば、中学高校の教科書にも載る(たぶん)大事件である。私は、もっと子どもの頃、マンガの日本歴史シリーズで、この事件を読んだ記憶さえある。しかし、簡単に読める新書や選書で、張作霖を取り上げたものは、本書くらいしかないようだ。

 本書においても、張作霖という「個人」は、あまり明確なイメージで現れない。そもそも資料が乏しいのか、著者が関心を払っていないためか、よく分からないが、たぶん前者なのではないかと思う。

 本書には、小説『中原の虹』と共通する、さまざまな人物が登場する。中でも面目躍如なのが、張作霖の片腕といわれた民政家の王永江。私は、小説を読むまで全く名前を知らなくて、創作キャラか?と思ったくらいだが、実は、金融財政改革・警察制度の整備・鉄道建設・大学設置など、張作霖政権の堅実な実績を、一身に体現する人物であるらしい。彼については、小説よりも本書から学べることが多い。

 一方、好好閣下こと張景恵。小説(第4巻)では印象的な見せ場のある副頭目だが、のちに「満州国」の第2代国務総理となり、敗戦後は人民裁判で漢奸と断じられて、収容所内で病死したという、寂しい晩年が語られている。

 また、本書の冒頭には、1995年にNHKが行った張学良氏への長時間独占インタビューが紹介されている。そうか、張学良氏って、2001年までご存命だったのか! 小説『中原の虹』の読者の何割くらいが、この事実を認識しているだろう。(では、王者のしるし、龍玉は今どこに?)

 全体に散漫な印象の残る本書であるが、興味深く思ったのは、そもそも長江以南の漢族に、満州を「中国の一部」と思う感性は希薄だったという指摘である。しかし、漢族移民の子・張作霖および張学良政権が、日本の介入によって駆逐され、抗日戦争に突き進む中で、はじめて「回復すべき中国の一部」という意識が共有されるようになったのではないかという。

 トリビアをひとつ。満州では匪賊を「胡(鬍=ひげ)子」とも呼ぶ。昔、18人の兄弟が顔にひげを描いて変装し、金持ちを襲って貧乏人を助けた。彼らは「後の十八羅漢である」という(東北馬賊史)。羅漢は匪賊の別名なのか。だから映画「オーシャンズ11」の中国語題は「十一羅漢」だったのか!?

 もうひとつ。張作霖の周囲には、複数の日本人軍事顧問が差し向けられていた。張作霖政権を監視・傀儡化する目的だったと考えられるが、中には張作霖に本気で信頼かつ”寵愛”(→本書の表現)され、ついには日本軍部を離れてしまった町野武馬の例もある。なんだか戦国武将の主従関係みたいである(このひと会津人なんだな)。調べていたら、国会図書館に町野武馬の録音記録があるらしい。うわー貴重だなー。聴いてみたい。
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信濃路紀行:長野市立博物館、八幡社

2007-11-28 23:16:04 | 行ったもの(美術館・見仏)
○長野市立博物館 大河ドラマ「風林火山」特別企画展『体感!川中島の戦い2007』

 川中島古戦場(八幡原史跡公園)で、承前のイベント『川中島の戦い2007』を楽しんだあと、博物館に入った。イベント流れの観客で、館内は大混雑だった。

 展示はパネルや複製が中心で、「ここに来なければ見られない」という目玉はない。この点、大阪歴史博物館の特別展(12/3まで)のほうが、上杉神社の馬上杯をはじめ、歴史資料が多くて本格的である。だが、この長野市立博物館は、館内デザインが凝っていて、テーマパーク的な楽しさがある。単純な電気仕掛け(ランプの点滅)で「第四次川中島の戦い」を再現するジオラマの前も人だかりが絶えなかった。この企画展、目標入場者数は22万人だそうだ(大胆!)。夏までは観客の出足が鈍く、苦戦を強いられていたようだが、長野市長が「20万人を超えた」と挨拶していたし、この日(11/24)のイベント参加者だけで1万人以上というから、達成可能だろう。まずは、めでたい。

 ちなみに『風林火山関連ニュース』というブログ風のサイトには、2006年7月以来の記事が蓄積されている。同年7月4日、新潟県上越市の職員が長野市役所を訪れ、大河ドラマ『風林火山』が来年放映されるのを機に、山梨県甲府市を加えた3市で何らかのイベントの開催を考えていく方向で一致したことから始まり、プロジェクト委員会の立ち上げ、駅弁や日本酒の発売、キャンペーン用キャラクター作り、サイトの開設、風林火山検定など、さまざまな企画が実行に移される。中には、これは失敗だろ、と苦笑を誘われる試みもあるが、エンディングに向けて次第に盛り上がっていく様は、ブログ自体が一場のドラマを見るようで面白かった。

 それにつけても、長野県の『風林火山』関連サイトは出来がいい。特に「史跡めぐり」情報は、ドラマの放映終了後もぜひ残しておいてほしいと思う。

■歴史ロマンの旅・信州「風林火山」の舞台を訪ねて
http://www.furin-kazan.jp/index.html

■'07信州キャンペーン「信州・風林火山」
http://furin-kazan.jp/shinshu/

■長野市「信州・風林火山」特設サイト「川中島の戦い」
http://www.furin-kazan.jp/nagano/index.php

■大河ドラマ「風林火山」特別企画展『体感!川中島の戦い2007』
http://www.furin-kazan.jp/nagano/kikakuten/index.html
※開催地である長野市立博物館の公式サイトは公共施設らしく地味。なんという差!

 最後に、迫る夕闇を気にしながら、落ち葉に埋もれたような八幡社に寄った。社務所の小母さんにご朱印をお願いしながら、「今日はたいへんな人出でしたね」と話しかけたら、「はじまって以来ですわ」と苦笑されていた。さもありなん。

 今回は、埼玉県に引っ越してから初めての長野行きだったが、意外と近いことが分かった。我が家のドアから長野駅まで2時間である。鎌倉に行くのと変わらないじゃないか! 春になったら、また歩きに行こう。ブームが去って、少し静かになった信州もいいかもしれない。
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信濃路紀行:長野善光寺、山本勘助墓

2007-11-27 23:44:41 | 行ったもの(美術館・見仏)
○長野善光寺~金井山~柴阿弥陀堂~山本勘助墓~胴合橋

 11/24(土)は、朝から善光寺に参拝。本堂の周囲をまわって、松代藩真田家の供養塔群や、森永乳業寄贈の乳牛のオブジェ(善子さんと光子さん)を見つける。前回は前立本尊ご開帳の最中で混雑していたが、今日は人が少なく、百五十畳敷の本堂内陣が寒々しく感じられる。お戒壇巡り(ちゃんと”極楽の錠前”に触れた)のあと、宝物館を見学。NHKの『風林火山紀行』に出た”武田信玄と上杉謙信の位牌”が見たかったのである。銘によれば信玄の位牌は、嘉永5(1852)年に旧臣・藤井石見守の末裔が納めたもの、謙信の位牌も同時期か、と解説にあった。なんだーずいぶん新しいんだなあ。

 それから参道に出て、1本奥の通りにある世尊院に寄る。ご本尊は等身大の銅造釈迦涅槃像だ(善光寺公式サイトにお写真あり!)。厚く重ねたお布団の上に横たわったお姿は、不謹慎だが、気持ちよさげである。けれども、涅槃像の頭と足元には、なぜか毘沙門天と不動明王という物騒な取り合わせがかしこまっている。普通、涅槃像に取り合わせるなら、仏弟子の阿難と迦葉だろうに。このお寺には、摩利支天像もあり、イノシシの背に立ち乗りして弓を引く姿がカッコよかった。絵姿のお札をいただく(お札のイノシシは大狸みたいだったけど)。

 善光寺下から長野電鉄に乗車、松代の1つ手前の金井山で下りる。駅前から柴阿弥陀堂を経て、山本勘助の墓まで徒歩5分。「風林火山」の幟(のぼり)に従えば、迷うことはない。土手を越えた草ぼうぼうの河川敷に、いくぶん高い木を目印にした墓石が立っている。当節の人気を反映して、案内人や土産物屋のテントも立ち、ちょっとした流行神の風情があった。

 墓の由来については、長野市「信州・風林火山」特設サイトの説明が詳しい。生前の勘助そのひとを思わせるような流転の運命を辿っており、現在は、吉池家が墓守りをしている。イベント『川中島の戦い2007』に登場した内野聖陽さんが、ステージ上から「あっ、吉池さん」と嬉しそうに手を振って、あの墓を見たとき、勘助が、大地に生まれ、大地を這うように生きた人間であったことが実感できた、と語っていたのが印象的だった。

 更埴橋を渡って、川中島古戦場(八幡原史跡公園)まで歩く。太陽が高くなって、だいぶ空気が暖かくなった。千曲川の対岸にも、やはり高い土手(堤防道路)が築かれている。土手の内側の河川敷は、農地には使えても家は建てられないのだろう。地味豊かな黒土の畑、曲がりくねった畦道、葉の落ちた柿の木、畑を焼く白い煙。冬の桃源郷とでも呼びたい光景が広がっている。土手の外側は、近代的な舗装道路と住宅地なのに、不思議な対照である。

 大型飲食店のパーキングエリア内にある胴合橋は、「戦死した山本勘助の首と胴を合わせた」という血なまぐさい伝説の場所。観光バスで訪れるツアー客たちが、引きも切らずに立ち寄っていた。

 以下、もうちょっと続く。


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信濃路紀行:松代、真田宝物館と海津城

2007-11-26 23:03:37 | 行ったもの(美術館・見仏)
○真田宝物館 企画展示『川中島の戦いを科学する』第2期「伝承の中の川中島の戦い」

 松代は2度目である。前回は清水寺の千手観音菩薩立像(平安中期、重要文化財)の拝観を目的とする見仏ツアーだった。そのとき、真田宝物館も見ているはずだが、戦国時代に無関心だった私は、真田氏のことを、ほとんど何も知らなかったと思う。

 けれど、2005年に池波正太郎の『真田太平記』を読んだ。これは面白かった。世に真田氏のひいきが多いわけがよく分かった。さらに今年の大河ドラマ『風林火山』で、真田氏の実質的な初代である幸隆という人物を知り、海津城(松代城)が武田氏によって川中島合戦の備えとして築かれたことを知って、感慨深い再訪となった。

 松代藩は、元和8(1622)年、真田信之(昌幸の長男)を藩主に迎えて以来、幕末まで真田氏9代が領有した。ただし、7代幸専は彦根井伊藩からの婿養子であり、幸専の養女に迎えた婿養子が8代幸貫(松平定信の息子)である。そうかー真田氏って、ちゃんと幕末まで持続したんだなあと思っていたが、幸隆から始まる真田氏の血筋は切れているのだな。実は武家のお家相続って、こうやって養子や養女で繋いでいるところが多いのではないかしら。それをしないのは(近代の?)天皇家くらいか。

 当然、真田家には、多数の古文書が残っているわけだが、江戸中期まで、これを2つの文書箱に入れて、参勤交代のたび、江戸-松代間を持ち歩いていたというのにはびっくりした。1例として展示されていたのは、信玄の書状で、海津城に居た幸隆に、謙信が飯山に出陣するという噂を伝えたもの。なぜか信玄の署名と花押が切り取られているのが不審だったが、天保4年に作られた文書目録でも「御判切ぬき」云々と注記されていた。

 企画展のコーナーでは、川中島合戦図を多数見ることができて面白かった。千曲川の流れは今と違っていて、海津城はもっと川岸に接近していたようだ。ある合戦図には、比較的新しい由来書が付いていた。明治35年5月22日、川中島に行啓した皇太子(のちの大正天皇)のために、真田家門外不出の合戦図を写し、説明に用いた模本だという。どうやらこれが、同系統の合戦図が世に広まる機縁となったらしい。意外と伝統は新しく作られるものだ。

 古いものでは、文化13(1816)年の川中島絵図があった。千曲川の流域は今の姿に近いが、山本勘助塚のそばに諸角豊後守虎定の塚があって、今の伝承とは異なっている。また、幕末の松代藩家老・鎌原桐山(かんばらとうざん)の著『朝陽館漫筆』には、江戸時代半ばに勘助の墓を移転したときの顛末が記されているという。開かれた箇所に勘助の名前は見つからなかったが、飴色の壺とか骨片五枚とか(絵入り)、墓前に干菓子を供えたなどの記述があった。

 宝物館を出て、線路の反対側の海津城(松代城)に向かう。千曲川の河川敷を控え、はるばると視界の開けた気持ちのいい城址だ。ここ来たっけ?と記憶に自信がなかったが、Wikipediaを見ると、平成16(2004)年に太鼓門、堀、石垣、土塁などが復元されたとある。前回、松代に来たのは、善光寺ご開帳の平成15(2003)年だから、たぶん工事中だったのだろうと納得。

 それにしても11月の信州は寒い。正面の戸隠山はもう真っ白である。近くの空は青く晴れているのに、高山の真上だけは、魔物でも住んでいるかのように灰色の雲の笠に覆われている。まだ3時台というのに、風が冷たくなってきた。今日は明るいうちにバスの中から川中島を眺めることにし、松代を後にした。
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信濃路紀行:須坂、豪商の館・田中本家

2007-11-25 23:32:15 | 行ったもの(美術館・見仏)
○豪商の館・信州須坂 田中本家 企画展『コドモノ世界-ぼくの玩具、私の宝もの』

http://www.tanakahonke.org/

 週末、「風林火山」のイベントに合わせて、信州に行こうと思い立った。長野市周辺には、何度か行ったことがある。上田、小諸、別所温泉、松代、小布施にも行った。1ヵ所くらい新しい町を訪ねてみようと思い、須坂に立ち寄ることにした。

 いちおう「蔵の町」で売っているらしいが、駅の周辺を歩いてみた限りでは、あまり風情のある町並みは残っていない。ちょっと期待外れだな、と思いながら、上記の博物館に向かった。田中家は、江戸中期以降、代々須坂藩の御用達を勤めた豪商で、広壮な屋敷と庭園のほか、衣裳、漆器、陶磁器、文書などが豊富に残されている。陶磁器には文化財級の逸品もあるらしい。

 現在の企画展示は「大正から昭和にかけての玩具」だというので、あまり期待していなかったら、これが意外と面白かった。いちばん楽しいのは「大正~昭和の初め」のおもちゃ。色もデザインも無国籍で楽天的な明るさを感じさせる。とりわけ融通無碍なポーズをとるセルロイド人形のなまめかしさ。ブリキのおもちゃの、無駄をそぎ落としたモダンな造形。本物の技術を応用したアコーディオンもどきや活動写真もどきのおもちゃもあった。なお、欧米製品の模倣から出発し、のちには輸出用の玩具を作っていた日本アルプス社の水野工場は、今も上田市内に現存するらしい。

 展示品は、いずれも田中家の子どもたちが実際に遊んだもので、このほか、田中家の子どもたちの作文、通信簿、夏休みの絵日記(漢字や計算の練習帖と一体になっている)、お母さんの(?)手作りっぽい洋服やエプロンなどが一緒に展示されている。

 さらに彼ら(大正時代の子どもだった姉弟)より1代前に当たるのだろうか、明治生まれのお嬢さんの持ちものには、ガラスのおはじき、婚礼の着物、櫛・笄(こうがい)、洋風の化粧道具もあった。彼女は養子を迎えて、87歳までこの須坂の田中家に住んだという。そんな人生もあったんだなあ。でも、けっこう新しい文化や技術が入り込んでいる様子なので、「土地に縛られた一生」という暗さは感じられない。

 展示の最後には、ガンダムロボットやリカちゃん人形も。当代、あるいはそのお子さんたちの思い出の品だろう。ところどころに配された子どもたちのスナップ写真が展示品に生気を吹き込んでいるように思えた。
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信濃路紀行:信州・風林火山「川中島の戦い2007」

2007-11-24 23:55:37 | 行ったもの2(講演・公演)
○イベント 信州・風林火山「川中島の戦い2007」

http://www.furin-kazan.jp/nagano/2007/

 この秋、できれば長野に行きたいと思っていた。「風林火山」関連の史跡をめぐるためである。ようやく仕事が一段落して、1泊2日のミニ旅行に出かけたわけだが、とりあえず、今日、川中島古戦場で開かれた上記イベントのレポートから。

 今朝は善光寺に参拝したあと、長野電鉄で須坂経由~金井山に向かい、河川敷にある山本勘助の墓を訪ねる。千曲川にかかる更埴橋を徒歩で渡り、川中島古戦場へ。「再現!川中島の戦い」のイベントが始まるまで、まだ少し時間があったので、胴合橋や典厩寺まで行ってしまおうか、迷いながら土手の上を歩いていた。

 すると、激しい爆竹のような音が。野外ステージでは、真田鉄砲隊による演武(射撃)が始まっていた。土手の上からのんびり眺めているのは、このあと武者行列と「再現!川中島の戦い」に参加する皆さん(上杉方)。



 この土手(堤防道路)は、ステージの裏側になっているので、甲冑の着付けを終えた出演者の皆さんがうろうろしている姿が見えてしまう。白頭巾は謙信役。仲良く話し込んでいるのは信玄役らしい(兜はまだ被っていない)。



 定刻には野外ステージ(芝生広場)は大勢の観客に囲まれた。武田・上杉の武者行列(と言っても30人くらいずつ)が、それぞれ着陣。さて始まるのかな、と思ったら、「スペシャルゲスト、内野聖陽さんです」とのアナウンス。これにはびっくりした。このあと、トークショーがあることは知っていたが、まさかこの場面に登場とは。しかも、私の位置からは彼の姿が見えなかったのだが、マイクを通して流れてきたのが”勘助”の喋りなのである(かなり爺っぽい、終盤の勘助)。前の人と一瞬、位置を変わってもらい、カメラに収めたのが下の写真。

 内野さん、声聞いているだけでも楽しそうだったな~。「儂(わし)の前で勘助役を演じようとはいい度胸じゃ。あとでサインを頼むぞ」とか、軽妙な喋りで会場を沸かせ、和ませていた。このあと、トークショーでの若泉プロデューサーの話によれば、番組プロモーションのため、内野さんに勘助を演じてもらうのも、これが本当に最後になるだろう、とのこと。



 そのあとのトークショー(撮影禁止でした、ごめんなさい)。冒頭で、勘助の生涯を振り返るダイジェストフィルムが流れた。これは番組収録の打ち上げのとき、スタッフが内野さんのために編集したサプライズ・プレゼントのフィルムだそうだ。勘助の「最期」と取れる未放映シーンがあったため、会場どよめく。しかし、若泉プロデューサー(写真右端)の「このあとの内野さんが、またスゴいんです」という言葉を信じて、完全なネタバレではないと思いたい。


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明日から4連休・冬支度

2007-11-22 23:23:43 | 日常生活
久しぶりの連休。
そもそも、週末をきちんと休めるのはいつ以来だろう?

しかも「4連休」である。先週末、休日出勤した分を取り返しただけで、得はしていないのだが、気分的に嬉しい。

明日と明後日は、晩秋の信濃路へ。
帰ってからも、まだ東京で2日遊べる。幸せ~。

寒くなってきたので、炬燵を出した。カーテンも替えなきゃな。
乾燥肌防止に買ってみた唐辛子のジェル。


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ガッカリだらけ/東京からはじめよう(猪瀬直樹)

2007-11-20 22:45:49 | 読んだもの(書籍)
○猪瀬直樹『東京からはじめよう:国の再生をめぐる9つの対論』 ダイヤモンド社 2007.10

 猪瀬直樹の本は『ミカドの肖像』『土地の神話』の頃から読んできた。正攻法では理解しにくい政治経済に、独特の視点から切り込んでいくスタイルが面白いと思う。最近では『構造改革とはなにか:新篇日本国の研究』(2001.9)が面白かった。これを読むと、お役所、公団、公益法人の「官」製システムの末期的症状がひしひしと身に迫り、寒気を感じる。がんばれ構造改革!と、つい小泉内閣(当時)に肩入れしたくなる1冊である。

 けれど、次の『道路の権力』(2003.11)は、あまり面白くなかった。道路公団の民営化推進委員として、迷走する政策論議に関わった体験をドキュメンタリーふうに描いたもの。「臨場感あふれる」と言えば聞こえはいいが、所詮は田舎芝居のルポで「得るものは何もない」のである。うーん。猪瀬直樹、読者が何を求めているか、ちょっと間違っていないかい?という感じがした。
 
 そして本書。2007年6月から東京都副知事をつとめる著者が「産業再生」「雇用システム」「晩婚化・少子化」「地方の生き残り」などをテーマに9人のゲストと語り合った対談集であるが、あれれっ?と目を疑う箇所が多かった。

 いちばん目を剥いたのは「定年は70歳でよい」って。猪瀬さん、団塊世代がまだ役に立つと本気で思ってるんだなあ。悪いけど、直下の世代は必ずしもそうは思っていないのに。確かに、年金財政の破綻を避けるためには、働ける60代にはどんどん働いてもらうほうがいい。しかし、右肩上がり(もしくは現状維持)の賃金水準を期待されては困る。管理的ポストに居座られるのも困る。

 山田昌弘との対談で「女性の結婚観は変わっていない」というのにものけぞった。私は、たとえば橋本健二著『階級社会』にいう、「ダグラス=有沢の法則」(夫の所得が低くなるほど、妻の有業率が高くなる)が崩れ、夫の所得の高い世帯では正社員として働き続ける妻が増えているという点など、非常に重要な変化が起きていると思う。同様のトンデモ本、門倉貴史の『ワーキングプア』にリンクを張っておこう。こういう先入観で目の曇った団塊世代を一掃すれば、男も女も「ワーク・ライフ・バランス」を実現しやすくなると思うんだけどなあ。

 地方には豊かな自然、安全な食べものがある、というのもなんだかな。好きにしてくれ。私は高い家賃で狭い家屋に住んで、不健康なコンビニ食に依存しても、刺激の多い都会に住み続けたい。

 そんなガッカリだらけの本書で、唯一救いだったのは林良博氏(東大農学部教授、総合研究博物館長)との対談「ペットブームの背景にあるもの」。「ペットが子どもの数を上回る」という恐るべき社会の到来に、さすがに著者も呆然の体で、予断の用いようがないところが、却って新鮮で面白かった。
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複製される知/百学連環(印刷博物館)

2007-11-18 23:21:24 | 行ったもの(美術館・見仏)
○印刷博物館 【企画展示】雑協・書協創立50周年記念世界出版文化史展『百学連環-百科事典と博物図譜の饗宴』

http://www.printing-museum.org/

 古今東西の博物誌・博物図譜と百科事典を、印刷技術の変遷とともに紹介する展示会。博物誌・博物図譜は、挿絵が多いので、古書の中では比較的「見て面白い」資料である。したがって、類似の企画は各所で見尽くした感もある。

 本展特有の見どころがあるとすれば「古今東西」に嘘がないこと。印刷博物館の蔵書に加えて、特別協力の東京大学東洋文化研究所からは漢籍と珍しい西アジアの博物誌・百科事典、東京大学大学院理学系研究科附属植物園(小石川植物園)からは江戸の博物書が大量に出品されている。

 最初の部屋に入ると、左手に『ニュルンベルグ年代記』など西洋のインキュナブラが4点。おおーと胸のうちに感嘆の声を上げつつ、右手を振り返ると、『山海経』など漢籍の明版が数点。なんだー明版か(東文研、出し惜しみしたな)と、つい侮りがちな気分になる。漢籍で文句なしの「稀覯本」といえば、宋版か元版まで。明版となると、もう大量出版時代に入って「珍しくない」という印象があるのだ。しかし、よく考えてみると、明代は1368~1644年だから、インキュナブラ(15世紀活版印刷本)と、実は同時代の取り合わせなのである。東西の古書を向き合わせることで、浮かび上がるギャップが新鮮だった。

 次室は「百学連環」という語を創出した西周のノートを中央に、その周りを、さまざまな博物誌・博物譜・地理書・医学書等々が取り囲んでいる。最も興味深かったのは、オスマン期の世界地理書『世界観望の書』(1732年)。展示箇所には、手彩色の不恰好な日本地図が描かれている。解説によれば、版式は「活版、銅版」。テキスト部分は活字らしいが、見慣れないアラビア文字。いったいどこからどこまでが活字の1ブロックなのだか、皆目見当がつかない。嵯峨本みたいに、数文字が続きで1ブロックになっているのかしら?

 小休止の電子展示コーナーでは、「板目木版」「木口木版」(←この2つは微妙に違う)「石版」「銅版(エングレービング、エッチング)」の製作過程がビデオで紹介されていた。腐食剤を用いるエッチングが、工程的にはいちばん複雑であることはよく分かった。

 後半は、江戸の和本が中心。小石川植物園って、こんなにいい和本コレクションを持っているのか!とびっくり。『北越雪譜』や『江戸名所図絵』は、先日読んだ『続・和本入門』に出版までの経緯が語られていたのを思い出して、感慨深かった。「北越雪譜」は「越後国雪物語」として出してはどうか?とか、「雪志」より「雪譜」がいいとか、著者と出版者の間で、いろいろな攻防があったらしい。

 それにしても、日本の木版多色刷りの技術は優秀だなあ。もちろん西洋にはもっと高度な近代印刷術も生まれていたわけだが、とりあえず限定的な正確さで、視覚的な「概念図」を、狭い国土の住人に知らしめるには、低コストで小回りが利く木版印刷って、格好のメディアだったのではないかと思う。
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忘れられたニュース/錦絵の中の朝鮮と中国(姜徳相)

2007-11-17 23:55:51 | 読んだもの(書籍)
○姜徳相(カン・ドクサン)『カラー版 錦絵の中の朝鮮と中国:幕末・明治の日本人のまなざし』 岩波書店 2007.10

 書店で、やたらと派手な表紙が目についた。本書は、朝鮮近現代史を専門とする著者が自ら収集した、朝鮮・中国にかかわる錦絵130点余りを紹介したものである。総カラー図版で、いずれも「錦」の美称に恥じぬ、鮮やかな色彩、奇抜な構図に目を奪われる。

 著者は「日本の歴史は幕末・明治の天皇制国家の都合に合わせて作り変えられた」という視点に立ち、幕末から明治にかけて、原始新聞あるいは新聞の副読本として広く国民に享受された錦絵は、「歴史書き換え」の一翼を担ったものと考えている。

 私は上記のような見解を真っ向から否定するものではない。しかし、本書のように、目の眩むような美麗な錦絵が並んでしまうと、あまり固定的な立場での解説は、読む気がしなくなる。とにかく絵を眺めよう。すると、いろいろな感想が湧き上がってくる。

 幕末期、日本の朝鮮に対する優越意識は「神功皇后の三韓征伐」を主題とする錦絵によって醸成・流布されていった。この最も古い例は、1815~1830年(文化、文政、天保)頃、歌川国安の作だという。ちょうど、最後の朝鮮通信使(1811=文化8年、ただし対馬に差し止め)と入れ替わりというのが、よくできている。でも、直ちに対外ナショナリズムの高まりがあったわけではなくて、 エキゾチシズムの流行とか、古代の発見とか、武(荒事)の復興とか、よく知らないけど、いろいろな文化史的文脈で考えられるのではないかと思う。国芳は加藤清正の朝鮮侵攻図を描いているけれど、これ、絶対、海と軍船を描きたかったんだと思うなー。絵師って、そんなものだ。

 明治期以降の錦絵(新聞錦絵)は、時事性、速報性が重視されるようになる。とはいえ、政府高官が歌舞伎役者見立てになっていたりして、微笑ましいものもある。私は、壬午軍乱から閔妃暗殺に至る一連の朝鮮の政変(日本軍が絡む)を描いた新聞錦絵が、こんなに多数、日本国内にあるとは思わなかった。朝鮮の近代化って、朝鮮一国の問題ではなかったのだなあ、と感じた。それにしても描かれている日本軍の制服が、SF戦闘アニメも真っ青なくらい、カッコいい。(白、黒、赤って、実際こんなに目立つ配色だったのか?)

 日清・日露戦争の時代になると、構図や技法がぐんと洗練を極める。『朝鮮豊島沖海戦之図』は、炎上する軍船の火柱が夜の海に照り映え、あやしくも美しい。兵士の躍動感を表現するために、ストップモーションのような構図も多用される。日本の軍人(特に将校)は、朝鮮人や中国人に比べて、体格を大きく(心なしか西洋人ふうに)脚も長く、威厳ある表情で描かれている。馬上の戦闘図はサマになっているが、軍艦などは稚拙さを感じるものが多い。まだ近代兵器を描ける絵師が少なかったのだろう。

 なお、著者はこれら錦絵の収集を桜井義之氏に倣って始めたという。その桜井氏の朝鮮錦絵コレクションは、東京経済大学図書館・デジタルアーカイブで閲覧できる。もう少し拡大された画像があると、なおよかったのだけれど。
 
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