見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

異人のイメージ/夷酋列像(北海道博物館)

2015-10-29 22:28:05 | 行ったもの(美術館・見仏)
北海道博物館 開館記念特別展『夷酋列像 蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界』(2015年9月5日~11月8日)

 今年8月、初めて北海道博物館を訪ねたときに、この展覧会の開催を知った。江戸後期の画人、蠣崎波響(かきざき はきょう、1764-1826)が12人のアイヌの首長を描いた『夷酋列像』は、きわめて美麗で特異な作品である。しかし、国内で見られるのは模写のみで、原本は海外(フランスのブザンソン美術考古博物館)にあるということは、なんとなく認識していた。本展では、蠣崎波響筆のブザンソン美術考古博物館所蔵本と国内各地の諸本を一堂に集めるという。

 これは見逃すわけには行かない!と思って、会期中の自分のスケジュール帳を眺め、ここなら行ける、という週末に、羽田-札幌(新千歳)往復をさっと予約してしまった。土曜の夕方に東京を発ち、札幌の観光は1日のみ。午前中に植物園をちょっと散歩したが、基本的にはこの展覧会だけ見られれば満足、という週末旅行だった。

 さて、2度目の北海道博物館。特別展目当てのお客さんが予想外に多く、チケットを買うためにカウンターに列ができていた。会場の特別室も大賑わいである。原本『夷酋列像』は、そんなに大きい作品ではないので、近寄って見られないのではないかと心配したが、それは杞憂だった。はじめに粉本(模写)や関係資料が少し出ていて、そのあと、展示室にしつらえた壁面に、額に入った『夷酋列像』が1点ずつ掛けてあった。展示ケース越しでないので、かなり至近距離で、舐めるように見ることができる。嬉しい。松前藩の家老、松前広長による「序」が2枚。そのあとに11枚のアイヌ像。本来は12枚あったことが粉本から分かるが、ブザンソン美術考古博物館には11人分しか伝わっていない。そして、同博物館に入った経緯は全く不明で、1984年に「発見」されたのだそうだ。

 色彩は非常に鮮やかで、描写は細密である。保存状態もよい。いずれも(黒髪と白髪のちがいはあるが)蓬髪、長い髯。靴を履いているものといないものがいるが、剥き出しの脛や足の甲は毛深い。はっきりした眉は一文字につながっており、鼻も頬骨も高い。普通の日本人の肖像に比べて、顔が小さく手足が長く描かれているので、異様な長身に見える。それから(会場の解説にあったが)三白眼が強調されている感じがする。龍や吉祥文を散らした中国服(清朝の官服)を着ているイメージが強かったが、それ以外に、西洋風(ロシア?)のコートを羽織っていたり、いわゆるアイヌ模様の衣だったり、それらが重層していたりする。

 まず原本と模写をめぐる物語が面白い。模写がどんな人によって作られ、どこに伝わったか。平戸の松浦家は距離的にはるかに離れているようで、異国への強い関心から納得がいく。松代藩の真田家には、白河藩主・松平定信を介して伝わったようだ。水戸藩の副本を熊本藩の細川斉茲が借用模写したというのは(記録があるのかな?)「現存確認できず」の状態だそうだ。永青文庫から出てこないかな。

 波響は、1791年(寛政3年)『夷酋列像』を携えて上洛し、京都で高山彦九郎や皆川淇園や大典と交友する。大典って伊藤若冲の師である相国寺の大典和尚か~。また『夷酋列像』制作以前に、大坂の木村蒹葭堂のもとも訪れている。現代人が考えるより、意外とフットワークが軽いのだ。

 さらに面白いのは、同時代のさまざまな絵画、南蘋画や南蛮画が展示されており、なるほど似てるな~と思う部分がある。もっと単純に、青龍刀をひっさげた関羽図とか中国画の神仙図は、確実にイメージの源泉と思われる。私は伝統的な羅漢図も入れてもいいと思う。波響もいろいろな絵を勉強した人で、墨画の南蛮騎士の図(西洋の銅版画の写しか)が11図も残っているのには驚いた。

 後半では、『夷酋列像』に描かれた衣服や装飾品の実物を見ることができる。中国服に陣羽織に朝鮮毛綴の敷き物、アザラシ皮の靴、ラッコの毛皮。弓矢、刀剣。アイヌの人々が儀式の祭具として珍重した鍬形も。さすが北海道博物館と思ったら、平戸の松浦史料館が蝦夷弓・蝦夷矢を持っていたりするのも面白かった。

 実は出発当日の朝、ネット上で「夷酋列像展は大阪の民博にも巡回する」という情報を見つけた。え!なんと。北海道博物館で案内のおじさんに「巡回あるんですか?」と聞いたら、チラシを持ってきてくれて、国立歴史民俗博物館(千葉):2015年12月15日~2016年2月7日、国立民族学博物館:2016年2月25日~5月10日という予定を教えてくれた。ホームページに載せてほしかったなあ。でもまあ、これは北海道で見るべき展示でしょ、と負け惜しみでなく言っておく。帰りの飛行機がなぜか欠航になって、振替便まで2時間半待たされたけど、それでも行ってみて満足。
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知られざる古代文明/黄金伝説展(国立西洋美術館)

2015-10-26 22:45:42 | 行ったもの(美術館・見仏)
国立西洋美術館 『黄金伝説展:古代地中海世界の秘宝』(2015年10月16日~2016年1月11日)

 東京国立博物館の帰り、半端に時間が余っていたので入ってみたら、面白かった。私はあまり西洋史に詳しくないので、知らないことにいろいろ驚いた。プロローグは、黄金が人々の憧れと欲望の対象だったことを象徴する神話「金の羊毛」に取材した絵画が並んでいる。イアーソーンとアルゴー号の物語。ギュスターヴ・モローの『イアーソン』(隣りに王女メディアが立っている)が出ていてびっくりした。オルセー美術館から出品(東京展のみ)。ラファエル前派のハーバード・ドレイパーの『金の羊毛』もよかった。金の羊毛を奪って逃げるアルゴー号の船上を描いていて、追っ手を海に突き落とそうとしているのはメディア。ブラッドフォード美術館から。

 次に「世界最古の金」として紹介されているのは、ブルガリアのヴァルナ遺跡からの発掘品。1972年、大量の金の副葬品を納めた墓地が発見され、エジプトの最古のピラミッドよりも遙か以前、今から6000年以上前に作られた世界最古の金製品であることが判明した。え?なんですって? 自分の習った世界史の常識をくつがえされて動揺する。会場では、発見時の墓地の様子が、骸骨のイミテーションとともに再現されている。大きめのコインくらいの円形の金具(しかし貨幣ではないらしい)が遺体のまわりに点々と散らばっていた。

 それから古代ギリシャ。ギリシャ文明といえば、大理石彫刻の「白」を思い浮かべてしまうが、当時は極彩色だったというのは、よく知られた話。しかし、こんなに豊富に黄金の装飾品が使われていたことは、イメージの外にあった。植物や昆虫をかたどったデザインが繊細で愛らしく、琳派ふうだなと思ったものもある。首飾りや耳飾りには、赤や緑や紫の宝石がよく残っていて、黄金と互いを引き立てあっている。見ていた女の子たちが「ブルガリみたいだね~」と言うのを聞いて納得。東博の『アート・オブ・ブルガリ』展と、あわせて鑑賞すると面白いかもしれない。なお、展示品は、紀元前16世紀から紀元前1世紀まで、かなり年代の幅が広い。ひとくちに古代ギリシャといっても、いろいろ社会の変化があったはずだが、とぼんやり思う。

 次はトラキア。展示の点数は少なめだが、重要なセクションである。1925年、ブルガリアで発見された「ヴァルチトラン遺宝」は、大ぶりな器、杯、蓋、柄杓などで、紀元前14世紀後半~紀元前13世紀初頭の遺物と考えられている。最初に掘り出した農民の兄弟は、一番大きな器を豚の餌箱にしてみたら、豚が舐めつくした後に黄金色が現れたのだそうだ。黄金の総重量は12kgを超える。形は比較的シンプルで、素朴な幾何学模様が施されている。ただ、三連のアーモンド型の器を細い管でつないだ容器(液体を混ぜるためのもの?)は異彩を放っている。もうひとつ「パナギュリシテ遺宝」は、時代が新しい(紀元前4~3世紀)だけあって、リュトンなど、かなり精巧な細工。

 トラキア人は、古代の東ヨーロッパ(バルカン半島南東部)に住んでいた民族である。文字を持たなかったため、詳しいことが分からないのだが、「紀元前12世紀頃から東南ヨーロッパで頭角をあらわし、前6世紀頃から社会に発展、強力な部族、王により統合されていったらしい」という説明をネットで見つけた。では、同じブルガリアから出土した「世界最古の金」は?と思って、さらに調べてみたら、前5000年紀の「ヴァルナ文化」はトラキアに先立つ別の文化で、前3000年からトラキア人の民族形成が始まるという。2008~2009年に『古代トラキアの秘宝 よみがえる黄金文明』という展覧会が開催されているが、北海道近美、広島県美、静岡県美、福岡市博は分かるとして、東京の会場は大丸デパートだったらしい。残念、見てない!

 最後にエトルリアと古代ローマ。エトルリア文明の芸術レベルの高さは認識していたが、あらためてすごい。何のためにこんな精緻な細工品をこしらえたのかと思う。なお、古代ローマの装飾品の一部は「カステラーニ・コレクション」からの出品。カステラーニ家はイタリアの老舗ジュエリーブランドで、古代ジュエリーを蒐集、復刻して「考古学ジュエリー」を販売した。東洋ふうに言うなら彷古品である。これはジュエリーに興味のない私でも、ちょっと欲しい。

 ヨーロッパの古代文明はギリシャ、ローマだけではないんだな、と再認識した。
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中国書画精華(東京国立博物館)+常設展

2015-10-25 22:37:55 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館・東洋館8室『中国書画精華-日本における受容と発展-』(2015年9月8日~11月29日)

 久しぶりに東博に行ってきた。せっかく関東に戻ってきたのに、今年度は『鳥獣戯画』(←京都で見た)『クレオパトラ』『ブルガリ』と、特別展をパスしている。今回のお目当ては、東洋館の恒例企画『中国書画』(10月27日~展示替えあり)。伝・馬遠筆『寒江独釣図』とか伝・石恪筆『二祖調心図』(トラがかわいい)など、見慣れた東博コレクションの名品もあれば、おや?と思う作品もあった。『祖師図』(元代)はリストを見ると東博のものなんだな。顔は比較的丁寧に書くけど、衣を風になびかせた体はあっさりした減筆であらわす。東福寺の『維摩図』(元代)は、衣の模様や寝台の装飾が緻密に描き込まれている。衣の端から覗く痩せさらばえた手足、しかし鋭い眼光。 病を押して文殊菩薩と問答する維摩居士の姿は、中国士大夫の自画像だというのが納得できる。

 伝・夏珪筆『山水図』二幅も東博コレクションなのか。あまり記憶になかった。「夏珪 山水図」で画像検索しても出てこない作品。李唐の『秋冬山水図』(大徳寺高桐院)を思い出したんだけど、あとで画像を確認したら、ぜんぜん似てなかった。雪舟の師として知られる李在の『山水図』も面白いな。明代にしては古風な印象。でも屹立する岩山の横に、存在感のある建築(寺院?)が描かれているのが、妙に人間くさい。

 書では、私の好きな八大山人の『行書臨河序軸』(蘭亭序)を久しぶりに見た。 文人の書斎を模した展示ケースに、蔵書印をたくさん押した『韓集挙正』(韓愈の詩文集を校勘したもの)の冊子は開いてある。重要文化財・大倉集古館所蔵。前回(8月)も思ったが、改修休館中の大倉集古館の収蔵品が、東博のあちこちに紛れ込んでいるのが、まちがい(?)探しみたいで面白い。東洋館の1階には、何喰わぬ顔で、銅雀台出土の伝来を持つ獅子の石像(大倉集古館所蔵)が鎮座している。

 東洋館では『東洋の白磁-白をもとめ、白を生かす』(2015年8月18日~12月23日)と『不孤斎が愛した小さな器-茶入・振出・香合』(2015年8月18日~12月23日)もいい。中国、朝鮮、日本だけでなくて、ベトナムにも白いうつわがあるのだなあ。

 本館(日本美術)では、国宝室に神護寺の『山水屏風』(2015年10月6日~11月3日)が来ている。人も家も動物も小さくて、のどかすぎて、どう鑑賞したらいいのか分からないけど…いろいろと往時を想像して、テンションが上がる。屏風といえば、7室(屏風と襖絵)の現在のセレクション(2015年9月15日~10月25日)も好きだ。亜欧堂田善の写実的な『浅間山図屏風』に対して、装飾的な金屏風の『網代に葡萄図屏風』と椿椿山筆『蘭竹図屏風』。 後の2点は大倉美術館所蔵なんだけど、こういう大きな展示室に置くと収まりがいい気がする。

 ちょっと驚いたのは、3室(仏教の美術)(2015年9月15日~10月25日)の冒頭に、めずらしく愛染明王坐像が展示されていたこと。解説に「内山永久寺旧蔵」とあり、截金・彩色が美しく、青いガラス(石?)を連ねた瓔珞が赤い身体に映える。記憶にひっかかるものがあって、いま探してみたら、2010年春に展示されていた愛染明王らしい。ただ、前回は、台座の蓮華を覆うように垂れ下がった瓔珞が印象的だったのだが、今回はそれがなかった(なぜか)ので、別物のような気もしたのである。でも、久しぶりによい仏様を見せてもらった。
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家飲みビール

2015-10-23 21:00:42 | 日常生活
明日から札幌へ1泊旅行。なのに帰り道のデパートで、北海道限定のサッポロクラシック缶が安売りされているのを見て、思わず買ってしまった。



銘柄にこだわるようなビールの飲み方はしていなかったのだが、2年間の札幌生活から関東に戻ってきたら、どこのビールを飲んでも美味しくない。たまたま北海道物産展で見つけたクラシックビールを飲んで、これだ!と納得した。全く味が違うのである。もう他のビールはビールだと思って飲めないなあ。

幸い関東地方でも気をつけていると、物産展やアンテナショップで手に入る。常備しておかなければ。
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ある「平凡」/生きて帰ってきた男(小熊英二)

2015-10-22 22:09:13 | 読んだもの(書籍)
○小熊英二『生きて帰ってきた男:ある日本兵の戦争と戦後』(岩波新書) 岩波書店 2015.6

 暇つぶしのつもりで読み始めたら、どんどん夢中になってしまった。万人に勧められるかどうか分からないが、私はこういう本が大好きなのである。思い入れの希薄なノンフィクションの文体で、しかし内容は並みの小説以上の波乱に富んでいて、先の展開が全く予想できない。本書は、一人のシベリア抑留者がたどった軌跡から、戦前・戦中・戦後の生活模様を描いている。主人公は著者の父親である小熊謙二(1925-)。ここまでが表紙カバーの紹介文から得られる情報である。

 謙二は、北海道常呂郡佐呂間村(現・常呂町)に生まれた。小熊家は新潟県の素封家だったが、祖父の代に零落し、謙二の父の雄次は、札幌、網走を経て、佐呂間に流れついた。同地で出会った片山芳江と結婚し、男児が三人、女児が三人生まれたが、芳江が結核で病死したことから、子供たちは、東京にいる祖父母(芳江の両親)のもとに送り出された。祖父の片山伊七は、高円寺で零細な菓子屋や天ぷら屋を営みながら、謙二らを育てた。やがて早実中学を卒業し、富士通信機で働いていた謙二は、1944(昭和19)年11月、入営する(19歳)。

 副題が「ある日本兵の戦争と戦後」だから、すぐに軍隊の話になるかと思いきや、戦前の北海道と東京の生活描写が淡々と続く。「あとがき」で著者も言及しているが、謙二氏の記憶は非常に細密で、しかも客観的である。まるで記録フィルムを見るように、戦前の暮らしが鮮明に立ち現れてくる。(私はよく知らないが)ドラマや小説に描かれるのは、もう少し裕福な「月給取り」の家庭が多くて、このような零細商店や職人の姿が詳しく描かれることは珍しいのではないか。

 入営した謙二は、満洲の寧安近郊に送られたが、本格的な訓練もなくて「ぶらぶら」していた。8月9日、ソ連軍の侵攻で状況は一変する。敗戦を知り、捕虜としてシベリアへ移送される。以後、チタ(※ウランバートルの北東部あたり)の収容所で三年間を過ごし、帰国できたのは1948(昭和23)年8月のことだった。実は、私の大学時代の恩師(故人)もシベリア抑留体験者だった。興に乗ると酒の席でシベリアの話をしてくれることがあって、収容所の外に集団で連れ出され、銃殺かガス室かと覚悟したら、シラミ駆除のための公衆浴場行きだったという「オチ」が十八番だった。本書に全く同じ話が出てきたので懐かしかった。しかし、こんな笑えるエピソードは数えるほどで、収容所生活は苦難の連続である。生活環境は「まるで原始時代」で、仲間が死んでも悲しむ余裕さえなくなってしまう。私の恩師が決して語らなかった体験はいかばかりだったろう、と少しぞっとしている。

 帰国後の謙二は、職業を転々としながら必死に生きていく。25歳で結核の診断を受け、30歳まで療養所で過ごす。退所しても、格別な技能も職歴もなく、30過ぎて三畳一間に妹とひとつ布団で寝るような生活だった。しかし、1950年代末、スポーツや文具を外商で販売する会社に誘われ、高度成長の恩恵を受けて、少しずつ生活が好転する。結婚し、英二(著者)が生まれ、鉄筋コンクリートの家を新築して移り住む(43歳)。まもなく高度成長にも陰りが生じ、勤務先の倒産や家族の不幸にも見舞われるが、おおむね安定した生活が続く。

 ここまで読みながら、いろいろなことを考えた。戦後の謙二の生活は、軍隊や収容所の体験をきれいサッパリ忘れたように見える。過去を振り返ってなどいたら、今を生き抜くことができない状態だったのだと思う。しかし見方を変えれば、技能や知識を身につけるはずの年代を戦争で棒に振ってしまったから、40歳近くまで安定した生活を手に入れられなかったとも言える。私は高度成長以前の日本をかすかに記憶している世代だが、「月給取り」の家庭に育ったので、生活は安定していた。でも記憶の底を探ってみると、そうだ、日本は貧しかったし、大人が必死で働いていた、ということを久しぶりに思い出した(子供は呑気だったかも)。

 さて、還暦を越えた謙二の人生には驚くべき展開が待っている。1988(昭和63)年、ソ連抑留者に対して日本政府が国債10万円の「慰労金」を出すことになった。当初「意地でもいらない」と思っていた謙二だが、同じ収容所にいた朝鮮系の中国人(当時は日本兵)に恩給や慰労金の請求権がないことを知り、自分が受け取った10万円の半額を送った。その後、1996(平成8)年に朝鮮人の元シベリア抑留者たちが日本政府に訴訟を起こすことになり、謙二は、求められるままに共同原告となることを引き受け、自分で書いた陳述書を読み上げた。驚いた。どんな小説家なら、こんな筋書きを構想できるだろうか。くるりと「戦後」に場面転換したはずの舞台に、再び「戦争」の記憶が登場するなんて。訴訟の妥当性や日本政府の主張については、それぞれ本書を読んで考えてもらいたい。

 最後に89歳になった謙二氏の言葉がいくつか収録されている。原発事故について。排外的な罵言の横行について。失われた労働のモラルについて。いずれも胸にひびく内容だった。こういう人の生涯を知ることができて幸せに思う。
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カウンターと法整備/ヘイトスピーチとたたかう!(有田芳生)

2015-10-20 00:03:03 | 読んだもの(書籍)
○有田芳生『ヘイトスピーチとたたかう!:日本版排外主義批判』 岩波書店 2013.9

 振り返って、そうか2013年(2年前)だったか、と思った。著者が、作家の柳美里さんのツイッターによって、東京・新大久保で韓国・朝鮮人を標的にしたヘイトデモが行われていることを知ったのが、2013年2月。それからわずか7ヶ月後に本書は刊行された。

 ただし、もう少し古い話もレポートされている。過激なヘイトデモの中心勢力である在特会(在日特権を許さない市民の会)は2007年設立。著者は、2011年6月「すべての拉致被害者を救出するぞ!国民大行進」のデモで、在特会に出会っている。「朝鮮人を東京湾に叩き込め」などのシュプレヒコールを上げる集団に、横田夫妻が困惑し、「救う会の活動が誤解されるから、すぐにやめさせてください」と救う会の関係者に抗議したことが記されている。

 在特会は、2009年にフィリピン家族の不法滞在問題からリアルなデモ活動を始め、同年に京都朝鮮第一初級学校「威力業務妨害」事件、2010年に徳島県教組「威力業務妨害」事件等を起こしている。私はすでに安田浩一氏の『ネットと愛国』で会員たちの不思議な素顔に触れているが、本書のほうが淡々と彼らの主張や行動、起こした事件などをまとめており、この問題を初めて考える人には読みやすい資料である。

 2013年2月には、ヘイトデモに対するカウンター勢力が登場する。私は「カウンター勢力」の種類や登場の経緯について、よく知らなかったので、本書は参考になった。在特会はデモの前後に「お散歩」と称して少人数で新大久保界隈の路地を練り歩き、韓流ショップの店員を罵り、買い物に来ている日本人を怒鳴りつけることを通例としていた。これを阻止するため、ツイッターの呼びかけで集まったのが「レイシストをしばき隊」で、以後「プラカ隊」「お知らせ隊」「ダンマク隊」などが発生した。こうした個人を単位とした自然発生的な運動のかたちは、現在につながっていると思う。

 国会議員である著者は、この国のヘイトスピーチが、拉致問題解決の障害であるばかりでなく、大きな社会問題であるという認識に至り、2013年3月「排外・人種侮蔑デモに抗議する国会議員集会」を開催する。これをきっかけにマスコミ報道も始まる。同時に著者に対する執拗な攻撃も始まった。今でもネット上では、著者の発言に攻撃が続いているが、有田さんタフだなあ。もう馬鹿馬鹿しくて気にならなくなっているんだろうか。

 日本は国連の定めた「自由権規約」と「人種差別撤廃条約」に加入している。法令には守るべき順位があって、憲法>条約>国内の法令の順だという(おお、知らなかった)。「人種差別撤廃条約」に加入している日本は、人種差別の廃止に努力しなければならず、必要があれば、国内法を整備しなければならない。にもかかわらず「憲法が保障する表現の自由に抵触する恐れがある」ことを理由に日本政府は法整備を留保し、2013年に至っても、外務省の官僚は「留保を付した当時と比べて、現時点においても大きく状況が変わっているとは認識していない」(≒規制が必要な差別は存在しない)と答弁しているのだ。諸外国の法整備状況など、より詳しい解説は本書を参照してほしい。

 ネット右翼の闇よりも、政府の公式見解が抱える闇のほうが深いような気がする。普通に考えて、おかしいだろう。具体的に「○○小学校を襲撃する」と発言すれば逮捕されるのに、「韓国人を殺せ」と叫ぶことは(不特定多数が対象だから)規制されない。しかし、現にコリアンタウンに住んでいる韓国人・朝鮮人の目の前で、その発言がされているのである。人権(人格権)の侵害でなくて何か、と思う。

 安保法制に揺れた先の国会で、著者の推進するヘイトスピーチ禁止法案(人種差別撤廃施策推進法案)は採決が見送られたが、なんとか継続審議に残った。この国の法制度が、より一層、人権に配慮したものになることを私は望んでいる。
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お花畑の反撃/超・反知性主義入門(小田嶋隆)

2015-10-18 22:08:46 | 読んだもの(書籍)
○小田嶋隆『超・反知性主義入門』 日経BP社 2015.9

 日経ビジネスオンラインの連載コラム「小田嶋隆のア・ピース・オブ・警句」からピックアップしたもの。テーマ別に編集し直してあるが、ざっと見直したところ、2013年5月の記事がいちばん古いようだ。わずか2年半の間なのに、すっかり忘れた「時の話題」もあって、そうかーそんなこともあったなあ、と感慨にふける。

 「芝エビと称して、バナメイエビを使用していた」食品偽装問題なんで、もうきれいさっぱり忘れていた。しかし、著者のコラムが上手いのは、この事件から、別にエビの分類と呼称問題を論じるのではなくて(それも書き様によっては面白いかもしれないが)、われわれ日本人が「『いま現にそうである』ことに対して、疑いを持たないように強く動機づけられている」ことを論点にしていることだ。だから、事件自体は忘れられても、文章の面白さは残る。

 同じように、甲子園出場校の女子マネージャーが2年間で2万個のおにぎりを握った話とか、号泣議員のネタ動画とか、あったね~で片付く話もある。もうちょっと深刻な事件ととしては、ISIL(イスラム国)による日本人殺害があり、日本社会のところどころで間歇的に噴き出している民族差別や人権抑圧に対しても言及している。私は「人権はフルスペックで当たり前」とか「われら一般人の幸福は(略)お花畑の中でしか育たない」などの著者の物言いに共感する。また、教育や文部科学行政について、たびたび批判的に論じていることにも同様だ。

 なお、タイトルの「反知性主義」は、最近にわかに注目を集めている言葉で、著者は、もともと「反知性主義」を念頭において、これらのコラムを書いてきたわけではない、と「まえがき」で述べている。このへんは編集者の(売るための)ご都合主義かな、と思う。しかし、小田嶋氏のコラムには「反知性」的な人物や事件が取り上げられることが多いので、このタイトルは、怪我の功名的に合っていると思う。

 巻末には『反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)の著作で注目を集めている森本あんり氏(ICU副学長)との対談が付いていて、やりすぎじゃない?と思ったら、小田嶋さんと森本さんは小中高の12年間、同じ学校で過ごした友人なのだそうだ。「あんりは」「オダジマは」という呼び合いで進む対談は、非常に面白かった。小田嶋さんがアル中から立ち直った話は初めて知った。それから、森本氏の『反知性主義』が、権威と結びついた知を疑う態度を指すものであり、パリサイ人を批判したイエスを出発点にしている、というのを読んで、俄然この本を読みたくなった。

 森本氏が、アメリカは若い国だから、キリスト教に限らず宗教的な理念形成の力が必要だった、と語ったのに対して、では日本人にとっての宗教は?(会社教がなくなった今)という話になり、案外、日本国憲法なんじゃないか、と二人が同意するのも面白かった。
 
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秋の風物詩:川越祭り2015

2015-10-18 20:20:36 | 行ったもの(美術館・見仏)
2年間、札幌で暮らしている間、関東に戻ったら…と指をくわえていた行事がいくつかある。今週はそのひとつ、川越祭りを見に行ってきた。もともと埼玉県で暮らしていた時期に覚えたもので、2007年、2008年、2010年、2012年と出かけている。公式サイトによると今年の参加山車は13台。ちょっと少なめな感じがする。

そして、私は、おキツネさま(天狐)が好きなのだが、今年はキツネの乗っている山車に遭うことが少なくて寂しかった。おかめ、ひょっとこ、獅子舞が多かった気がする。そのかわり、道端に設けられた舞台(居囃子)で舞うキツネを見た。↓堤崎流の鴨田囃子連による。



次も道端の会所らしきところで見たもの。狐の面と、赤い髪のものすごい面(衣装つき)が飾ってあった。猩々か?と思ったけど違うみたい。「神剣幽助」「小鍛冶」という筆文字の貼り紙がしてあった。神楽の面と衣装なのだろうか。





再び居囃子で巡り合ったおキツネさま。羅陵王の山車の会所で、今年は参加しないので、羅陵王の人形も隣に飾られていた。王蔵流の中台囃子連中(※ホームページあり)。王蔵流は、「それまでの古囃子に比べてテンポが速く、笛・太鼓・鉦・舞のあらゆる伎芸は細やかさを増すことになった。切れ味は鋭く、しかも重苦しい感じのない軽妙なところが特徴」と紹介されている。



はじめはキツネの舞いに魅せられて立ち止まったのだが、だんだんお囃子に聞き惚れて、目が、というより耳が離せなくなってしまった。特に緩急自在の笛が素晴らしい。手ぬぐいをかぶった、丸顔に眼鏡のお兄さん、プロではないんだろうけど…ふだん何をしている方なんだろう。すごいなあ。



くっついて歩いていたのは、幸町の小狐丸(小鍛冶)の山車。ただし人形は載っていなかった。堤崎流の幸町囃子会。笛よりも鉦と太鼓が目立つ。いろいろな土地のお祭りを思い出しながら、やっぱり江戸のお囃子はテンポが速いように感じた。

追記。翌日(今日)は、東京美術倶楽部の『2015東美アートフェア』に行ってきた。今年は特別展(3年に1度)ではないので、規模は小さめ。ギラギラした感じの外国人バイヤーも見かけなかった。茶道具や陶磁器は安定の品揃えだったけど、書画はあまり驚くものはなかった。でも久隅守景の絵とかあってうれしかったな。実は美術館や博物館の外にも、たくさんの美術品が存在するのである。
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祭祀のことば/「昭和天皇実録」を読む(原武史)

2015-10-15 23:17:54 | 読んだもの(書籍)
○原武史『「昭和天皇実録」を読む』(岩波新書) 岩波書店 2015.9

 昭和天皇の事蹟・言動を記録した「昭和天皇実録」は、24年間かけて編纂され、天皇皇后両陛下に奉呈された後、2015年3月に公刊された。出版元は東京書籍であるとか、在位中だけでなく、明治34年(1901)の生誕から崩御、葬儀、陵墓の登録までが記録されていることは、本書の冒頭に記されている。貴重な歴史資料であることは間違いないが、本編だけで60巻となると、気軽に購入して読んでみるわけには行かない。まずは本書で、注目ポイントだけ教えてもらおうと思った。

 本書は、年代順に「実録」を読んでいく。幼少期(明治時代)については、昭和天皇が、保母や乳母を含め「女」の存在感が大きい環境で育ったことを指摘する。大正期には、立太子礼、成年式を終える。伝統的な宮中祭祀への参加が求められるようになる一方で、訪欧し、ローマ法王に面会し、「和風」と「洋風」の間で揺れ動く。即位とともに明らかになってくるのは実母(皇太后)との確執である。このへんは同じ著者の『皇后考』や『松本清張の「遺言」:『神々の乱心』を読み解く』を思い出しながら読む。特に新しい発見はなく、旧説を裏書きするような記述が続く。

 興味深かったのは、祭祀や参拝の「御告文(ごこうもん)」がそのまま収録されていることだ。関東大震災からの帝都復興完成式典で、二・二六事件に際して、日中戦争(支那事変)に関して、昭和天皇は皇祖皇宗に申し述べる。「~と恐み恐みも白す」が決まり言葉。

 1941年12月8日、太平洋戦争の開戦にあたっては、一方に臣民に向けた「詔書」がある。これも文語体で、難しい漢字熟語が並び、とっつきにくいものだが、翌日、宮中三殿で奏された「御告文」は、いっそう居心地が悪い。私は日本の古代神話や歌謡が好きなので、こういう古代的な文体が近代政治の中で生きていることに気味悪さを感じる。「海に陸に空に射向かふ敵等を速に伐平らげ」云々とある。その後も、1942年12月には伊勢神宮に参拝して必勝を祈り、終戦間近の1945年7月末には、宇佐神宮と香椎神宮に勅使を使わし、相変わらず「有らむ限りを傾竭して敵国を撃破り事向けしめむ」と激しい言葉で祈っている。ただし著者は、戦争継続を願っていた主体は、天皇ではなく皇太后ではないかと考えている。ポツダム宣言受諾の「聖断」から戦後にかけて、天皇は皇太后を軽井沢に疎開させることで、なんとか政治から遠ざけようと画策していたようだ。

 戦後の天皇について、戦争責任はなく、したがって退位を考えたこともない、というスタンスを「実録」はとっている。この意味は、「実録」もひとつの政治的立場から編纂された資料であるということだろう。今ではあまり語られないが、戦後の天皇は、カトリックに強く接近した時期があり、退位のかわりに改宗という責任の取り方を考えていたのではないか、と著者は推測している。そんなことがあり得るのか?と驚くが、篤く仏教を信仰した天皇もいたのだから、カトリック教徒の天皇がいてもいいのかもしれない。

 本書を読む限り、戦後の天皇の事蹟は、戦前ほど詳しくなく、社会的・歴史的に重要な事件があったときも、特に記述がないという解説が目立つ。政治的な天皇の地位が変わったこともあるが、関係者が存命のため、いろいろ差しさわりがあって、収録を控えた資料もあるのではないか。戦後編の公刊は、もう少し待ってもよかったのかもしれない。

 いつか「平成天皇実録」も公刊されるのだろうけど、今上天皇がどのような言葉で、皇祖皇宗に対し、日本のあるべき姿を祈っているのかはとても興味がある。
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やさしい風景/久隅守景(サントリー美術館)

2015-10-14 23:32:38 | 行ったもの(美術館・見仏)
サントリー美術館 『逆境の絵師 久隅守景 親しきものへのまなざし』(2015年10月10日~11月29日)

 楽しみにしていた展覧会なので、さっそく出かけた。朝早かったこともあって、館内はすいていた。久隅守景(くすみもりかげ、17世紀)の知名度ってどのくらいなのだろう? 実は私も作品といえば、国宝『納涼図屏風』しか思い浮かばないのであるが。出陳品数は、展示替えや参考作品(守景の子供たちの作品)を含めて90件弱。大きな屏風や襖絵が多いこともあって、数は少なめである。そのこともあって、ゆっくり気持ちよく鑑賞できた。

 冒頭には、狩野探幽に入門し、画家としてのスタートを切った守景の比較的若い頃の作品が並ぶ。気に入ったのは、知恩院小方丈の『四季山水図襖』。中国の風景のつもりなんだろうけど、遠景の山が、お椀を伏せたようにモコモコと優しく丸っこくて、中国の山水に見えない。ちょっと朝鮮の水墨山水画っぽいだろうか。

 いま図録を見ていると、きっちり中国絵画(≒狩野派)らしい作品もある一方で、どこか変な作品もある。水辺の四阿(というか掘っ立て小屋)の下に座って湖面を眺めている人の姿。遠景の山が茫洋とした余白に溶け込んでいるあたりが日本人好みだと思う。墨のにじみを楽しむような『夏山水図』、(前期は見られなかったけど)『柳山水図』も同様の趣き。

 人物画では、神奈川県津久井の光明寺(※鎌倉ではない)に『十六羅漢図』16幅が伝わっていることを初めて知った。中国絵画のお手本に従っているのだろうが、人間的で生き生きした姿に描かれている。動物がかわいい。展示替えがあるので、最終週(たぶん)に行く人はスズメに注目!

 そして、守景が繰り返し描いた「四季耕作図」の世界。いいなあ、本当に心がなごむ。基本的には中国の農村を描いているのだが、あまり異国を感じない。田植え、稲刈り、脱穀。私は都会育ちで、ほとんど農業を知らないのだが、中国の田舎を旅行して、昔ながらに刈穂を叩いて脱穀したり、空に放り投げてもみ殻を飛ばすところを見たことを思い出す。足踏み式の臼や振りつるべなどの農機具が描かれていることも、絵画史料として面白い。人間たちの営みとつかず離れずの牛や馬、犬やニワトリの姿もある。

 国宝『納涼図屏風』は、加賀滞在時に制作されたと推定される守景晩年の作。風船みたいに重さを感じさせない瓢箪が好き。画僧の古澗明誉にも『夕顔棚納涼図』という水墨画があることを知った。これも飄逸で味のある作品。この時代、男も女も半裸で夕涼みするのが当たり前の風景だったのだな(蚊には悩まなかったのだろうか)。

 後半(階下)の展示室では、動物・植物など、多様な作品を紹介。差し色を効果的に使った花鳥画が可愛かった。輪郭線を用いず、やわらかに仕上げている。人物画は『鴨長明図』が印象的だったが、後期のほうがバラエティ豊かで充実していそうだなあ。静岡県立美術館蔵『蘭亭曲水図屏風』は、次から次へと杯が流れていて、とても詩をつくっている暇がなさそうで笑ってしまった。

 最後に、守景の息子・彦十郎と娘・清原雪信の作品を展示。雪信は狩野派らしい手練れだが、彦十郎の『鷹猫図屏風』(佐渡市立佐渡博物館)が印象に残った。同門の絵師との諍いがもとで佐渡へ島流しになったというエキセントリックな彦十郎らしさが匂い立っている。全体を通して「個人蔵」の作品をたくさん見ることができたのは、貴重な機会だった。
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