見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

体制批判する右翼/日本主義と東京大学(井上義和)

2008-07-31 22:30:17 | 読んだもの(書籍)
○井上義和『日本主義と東京大学:昭和期学生思想運動の系譜』(パルマケイア叢書23) 柏書房 2008.7

 1ヶ月ほど前、紀伊国屋書店の新宿セミナーを聴きに行った。佐藤優氏と竹内洋氏による、『いま、あらためて<日本主義>を問う-蓑田胸喜的なるものと現代-』と題したトークイベントである。会場ロビーに設けられた、関連図書の販売コーナーを冷やかしていて、本書が目に留まった。初めて見る本だったので、いつ出たんだろう、と思ったら、まだ発行日前の新刊だった。すぐに購入してしまった。

 「日本主義」という言葉は、「民族主義」や「国家主義」ほど明確な概念が定着していない(Wikiにも項目がない)ようだが、本書では、1930年代及びその前後、日本国内を席巻した、反近代主義的イデオロギーをいう。おおよそ「右翼思想」としてイメージされるものに等しい。もう少し、著者の言葉を借りて敷衍すれば、具体的・現実的な問題の対処にあたり、「日本歴史や日本思想史に素材を求め国体論的な観点から編集された知・情・意のセット」すなわち「日本主義的教養」から、価値判断や論理展開を引き出そうとする態度のことである。

 日本主義は、キリスト教やマルクス主義と異なり、唯一無二の解釈権を主張する教会や党が存在しなかったため、さまざまな思想的立場が並存可能だった。――という、冒頭の著者の指摘を読んでも、私は、ふーん?と思っただけだった。このことの重要性は、本書を最後まで読み通したとき、初めて実感される仕掛けになっている。

 昭和13年(1938)、東京帝国大学法学部の小田村寅二郎という学生が、矢部貞治教授の政治学の期末試験で、答案の代わりに詳細な質問状を提出した。講義の内容が西欧的な民主主義に偏り、日本の国体との関係が明らかでない、という批判である。これを発端に、矢部と小田村の間で、手紙による議論が交わされ、矢部が譲歩したかたちで決着する。

 その後、小田村が法学部の現状批判と改革提言を雑誌に発表したことから、事件は大きくなり、小田村は無期停学処分を受ける(小田村事件)。田中耕太郎法学部長らは、小田村の背後に、原理日本の蓑田胸喜、あるいは経済学部の土方成美などの示唆を疑った。しかし、それは根拠のない陰謀史観であって、このとき「蓑田的なるもの=日本主義」は、全く独立に、同時的に噴出していたのである。

 その後、小田村は、さまざまな学生運動団体を立ち上げ(東大精神科学研究会→東大文化科学研究会→日本学生協会→精神科学研究所)、日本主義(右翼)的な学生思想運動は全国に展開する。しかし、これらの運動は、近衛内閣の新体制運動(1940~)のもと、当局の「危険視」するところとなり、検挙・解散を命じられる。え?戦時体制下で「右翼」学生運動が危険視?というのは、頭の単純な人間には、理解を超えた事態である。しかし、本当のことだ。

 ここで著者は、昭和10年代の政治過程において、「革新右翼」と「観念右翼」の対立が顕在化していたことを指摘する。この対比表(175頁)があまりにも面白かったので、そのまま書き抜いておきたい。

革新右翼観念右翼
国家改造
高度国防国家
解釈改憲
指導者原理
統制経済
親ソ・親独
世界史的な使命
国体明徴
国民精神総動員
護憲(不磨の大典)
臣道実践
資本制擁護
反共・反独裁
日本史的な道統
陸軍統制派
革新官僚
無産政党
国家社会主義者
陸軍皇道派
財界
既成政党(現状維持派)
自由主義者

 この表を眺めていると、いろんなことが分かってくる。高度国防国家の建設を目指した近衛内閣の新体制運動=大政翼賛会の側には、革新官僚とともに、無産政党や国家社会主義者が集結している。これに対して、「日本ファシズム」の批判勢力となり得たのは、伝統的な観念右翼のグループだったのである。この現象を、本書とは逆に「左翼」の側から記述したのが、坂野潤治氏の『昭和史の決定的瞬間』ではないかと思う。同書を読んだときも、戦時体制目前に社会大衆党が議席を増やしていることを奇異に感じたが、それは、左翼/右翼という戦後常識的な対立軸に、目を塞がれてしまうせいだと分かってきた。

 小田村の盟友、田所廣泰は、軍の強力な指導による政治体制を、「幕府」の再来という言葉で非難している。なるほど、昭和10年代の軍の暴走は、幕府化の兆候だったのか。1930年代を考える上で、非常に示唆の多い1冊である。なお余談であるが、小田村寅二郎や日本学生協会の著作って、本拠であった東大の図書館に、意外と入っていないんだなあ、ということを確認してしまった。なぜ?
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明治の文士たち/思い出す人々(内田魯庵)

2008-07-28 23:59:09 | 読んだもの(書籍)
○内田魯庵『思い出す人々』(岩波文庫) 岩波書店 1994.2

 内田魯庵の文章は、品があって、博識で、江戸っ子らしくさばさばしていて、私の性に合う。けれども、もっと読みたいのに、なかなか手頃な本がない。と思っていたら、「2008年夏 岩波文庫/一括重版」というオビつきで、平積みになっていた本書を見つけた。

 本書は、大正5年(1916)刊行の『きのふけふ』を、大正14年(1925)に再編集・改題して刊行したもので、昭和4年(1929)に死去した魯庵の「最後の大仕事」だった。その内容は、著者と親交のあった人々(いずれも著者より先に死んでしまった)を回想によって描いた人物スケッチ集である。硯友社同人をはじめ、鴎外、漱石など文学者が多いが、政治家の島田沼南、アナーキストの大杉栄(著者の近所に住んでいた)など意外な人物も登場する。どの人物も、小説以上に(?!)生き生きと自由に動き回っていて、読み物として面白い。紅野敏郎氏の「リテラリ・ポートレイト」というのは、巧い表現である。

 冒頭の二葉亭四迷については、筑摩書房の『明治の文学』と重なるので略すと、まず印象的なのは、言文一致体の先駆者として知られる山田美妙。著者は、美妙の早熟と多才を賞賛しつつも、「一事の完成に全力を注がなかった」側面を断罪する。その結果、一時はもてはやされた新文体も、やがて世間に飽きられてしまった。臨終の枕頭に残された「黴の生えたシュークリーム」は、千万言よりも雄弁に、落魄の境涯を物語る。「こういう悲惨な運命を速(まね)いたのは畢竟美妙自身の罪であったが(略)日本の新文体の創始者に対して天才の一失を寛容しなかった社会は実に残忍である」という著者の結びは、作家・美妙と世間に対して、等分に批判的である。

 一方、印象が大きく好転したのは、尾崎紅葉。『金色夜叉』『二人比丘尼色懺悔』『多情多恨』など作品のイメージから、脂ぎった中年のオジサンをイメージしていたのだが、本書に描かれた紅葉は、若々しく、さばけた勉強家である(紅葉って35歳で亡くなっているのか!)。 胃癌を病み、余命三ヶ月と診断された紅葉が、丸善にあらわれて、著者(丸善の顧問だった)に「『ブリタニカ』を予約に来たんだが、品物がないっていうから『センチェリー』にした」と告げる場面がある。欲しいと思うものは頭のハッキリしているうちに見ておきたい、そうでないと「字引に執念が残ってお化けに出るなんぞは男が廃らァナ!」と笑う。死期の迫るのを知ってなお大辞典を買おうという知識欲、あるいは作家としての向上心。紅葉は「決してただの才人ではなかった」と著者は結ぶ。

 もうひとつ、書き留めておきたいのは、伊井公侯(伊藤博文公爵・井上馨侯爵)が主導した、明治の欧化政策に対する批評。「欧化熱と山田美妙」の冒頭は、鹿鳴館時代の欧化熱の滑稽を、余すところなく愉快に描いている。けれども、著者は、「上滑りの文明開化」をわけ知りに冷笑したりしない。欧化の大洪水があってこそ、不毛の瘠せ土に文明の苗木が成長することができたのだ。欧化熱の喜劇は「極めて尊い滑稽であった」という。この「尊い滑稽」という言葉、明治という時代を考えるうえで、的確な表現ではないかと、しみじみ思った。
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虚々実々/御書物同心日記(出久根達郎)

2008-07-27 23:59:01 | 読んだもの(書籍)
○出久根達郎『御書物同心日記』(講談社文庫) 講談社 2002.12

 最近、藤實久美子さんの『江戸の武家名鑑』を読んで、『御書物方日記』の存在を知った。いや、国立公文書館の展示会などで見ていると思うのだが、きちんと認識したのは初めてである。徳川将軍家の蔵書・紅葉山文庫の管理責任者・書物奉行(複数名おかれた)の業務引継ぎ日誌である。宝永3年(1706)から安政4年(1857)まで、150年にわたっているというから、すごい。

 『御書物方日記』のことを、いろいろ調べているうち、検索に引っかかってきたのが本書である。こんな時代小説が書かれているとは(しかも文庫化・シリーズ化しているとは)寡聞にして全く知らなかった。主人公・東雲丈太郎は御家人の三男坊だったが、大の本好き。そこを見込まれて、書物方同心・東雲栄蔵の養子となり、養父の跡目を継いで、紅葉山の御書物会所に出仕することになった。爾後、丈太郎のまわりで起こる、書物と御文庫、同心仲間をめぐる怪事件(?)の数々を、短編仕立てであらわした作品である。

 怪事件といっても、巷間に流れ出た稀覯本の写本とか、重複本の払い下げにからむ古本屋の談合とか、読書人に本の暗誦を所望する謎の宿主とか、いたって平和な内容である。悪人らしい悪人が登場するわけでもなく、丈太郎が快刀乱麻に謎を解決するわけでもない。ただ、ぼんやりと平凡な日常が過ぎていくだけなのだが、本好きの機微を知る読者なら、ああ、こういうこと、時代が違ってもあるよな、と微笑みたくなるようなエピソードばかりである。

 さらに、江戸の書物事情に興味のある読者なら、作者の描き出す、見てきたような「御文庫」の有り様に、わくわくと胸を躍らすことだろう(私だけか?)。御書物会所には21人の同心がいて、10人/11人が1日交替で出勤していたとか、書庫に入るには名札を預けて書物奉行から鍵を借りたとか(このとき、鍵に付いたこよりを開いて割印を押し、帳簿に署名をするなど、実に手続きが細かい!)、蔵の前には2人の番人がいたとか、宿直室は5つあったとか、出勤すると仕事用の袴に着替えたとか(本を扱うと汚れるから)、そんなディティールに私はいちいち唸ってしまった。

 けれど巻末の附記を読んで、あっと思った。作品中には「紅葉山御文庫」なる蔵印のことを書いたけれど、実際には文庫所蔵の本には印が押されていない。「従って蔵書印は、筆者の創作である」とのこと。ええ~!そんな重要な「フィクション」に気づかず読み飛ばしてしまったのは、恥ずかしい限りであるが、Wikipediaを見たら「『紅葉山文庫』の名称は明治時代以降に用いられたもので(現存する蔵書印も明治以降に押印されたもの)」とある。うーむ、見たいな(私、見てるかな?)明治以降の「紅葉山文庫」蔵書印。

 もちろん、これは小説なのだから、フィクションを混じえても非難には当たらない。しかし、そうなると、私が妙に感心して受け取っていた御文庫の描写も、どこまで「真実」か疑わしいことになる。御文庫の曝書(御風干)の雑作業に携わった「黒鍬の者」というのも、ちょっと調べてみたら「黒鍬(くろくわ)」ってアヤシイ集団で、ほんとなのかなあ、と少し用心する気持ちになった。小説は小説として楽しみながら、同時に史実とフィクションを混同しない、疑り深さも大切だと思う。

 なお、本書の時代設定は、吉宗の治世を「むかし」と呼んでいることから、宝暦年間くらいかな?と思ったが、もう少し下るようだ。江戸随一の古本屋の老舗は、寛永10年(1633)から「実に二百年余の営業を続けている」とあるから、天保年間(1830~1844)くらいだろう。
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愛をめぐる闘争/漱石:母に愛されなかった子(三浦雄士)

2008-07-26 23:23:53 | 読んだもの(書籍)
○三浦雄士『漱石:母に愛されなかった子』(岩波新書) 岩波書店 2008.4

 漱石は「母に愛されなかった子」だった。むろん、真実、そうだったかどうかは分からない。ただ、少なくとも漱石はそう思っていた。母の愛を疑っていた。そのことをテーマに、生涯、作品を書き続けた。

 『坊っちゃん』の主人公は、母親に「おまえのようなものの顔は見たくない」と言われて、じゃあ、消えてやるよとばかりに、親類の家に泊りに行く。その間に、母親は死んでしまう。この「じゃあ、消えてやるよ」という「構え」は、漱石の小説の主人公たちに、ずっと共通するものだ。相手の立場に回り込んで「自分は愛されていない、必要とされていない」と憶断し(相手の愛を否定し)、「じゃあ、消えてやるよ」と宣告する。愛の対象は、母親から恋人や妻に移っているけれど、「心の構え」は同じことである。

 「じゃあ、消えてやるよ」というのは、捨てられる前に、こっちが相手を捨ててやろうとすることだ。だから、一見、受動的に見えて、実は能動的、むしろ攻撃的でさえある。それゆえ、小説の主人公たちは、時には手ひどい報復を(彼を愛する女性たちから、あるいは社会から)受ける。『三四郎』しかり、『それから』『門』しかり。初期三部作の主題は、愛されていること(あるいは愛していること)に気づかない罪だといえる。

 ああ、この表現はとても分かりやすいな。私が高校の授業で漱石を習ったときは、近代人の「自我」とか「エゴイズム」とか、教養主義的な(つまり辛気臭い)言葉で説明されたように記憶するのだが、これだけ時代を超えて読み継がれる国民的大作家のテーマが「愛」以外であるわけがない。

 漱石は、この自分自身の「心の癖」と、それが周囲の人々に及ぼす影響を、冷徹に観察し、分析し、描き続けた。本書は、漱石の作品を、1作1作、年代順に追いながら、「母に愛されなかった子」あるいは、愛をめぐる闘争のテーマが、どのように深化していったかを検証していく。漱石がすごいのは、(完全な)失敗作というのがなくて、着実に「階段を上がるように」小説の水準が上がっていくことだ。最後の『明暗』では、モーツァルトやヴェルディ後期の三重唱、四重唱に匹敵する会話劇を創り上げている。

 ただ、漱石の小説があまりに面白すぎるので、本書を読んでも、小説の梗概ばかりが印象鮮烈に残って、筆者の論旨はあまり明確に残らなかったのである。漱石を論ずる難しさを感じてしまった。
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完璧無比/明治の七宝(泉屋博古館分館)

2008-07-24 23:39:37 | 行ったもの(美術館・見仏)
○泉屋博古館分館 夏季特別展『近代工芸の華 明治の七宝-世界を魅了した技と美』

http://www.sen-oku.or.jp/tokyo/index.html

 雑誌『美術手帖』に触発されて、先日、京都にある並河靖之七宝記念館を見てきた。けれども、清水三年坂美術館の『帝室技芸員・並河靖之展』を見られなかったことを残念に思っていたら、なんと同美術館のコレクションを中心とした明治の七宝展が、東京の泉屋博古館分館で始まっているではないか。なんだか、「七宝ブーム」が「来てる」のかしら。

 そもそも七宝とは、金属製の下地の上に釉薬を乗せたものを高温で焼成し、ガラス様あるいはエナメル様の美しい彩色を施す工芸品。日本では、尾張藩士・梶常吉が、古書とオランダ舶載品(中国製品)を参考に、天保4年(1833)独学で完成させたものが、近代七宝の始まりといわれる。へえ~愛知県に「七宝町」という地名があることも、「尾張七宝」と呼ばれる郷土工芸があることも、私は会場のパネルで初めて知った。

 尾張七宝には、小品もあるが、驚くほど巨大な花瓶もある。その広大な表面を飾る、超絶技巧の細密な花鳥文。若冲の遺伝子を感じるなあ。完成度の高さは、清朝の(乾隆盛期の)磁器に匹敵するのではないかと思う。

 一方、2人の帝室技芸員、並河靖之(なみかわやすゆき)と涛川惣助(なみかわそうすけ)の作品は、小ぶりなものが多い。並河靖之は、有線七宝だから、小さな桜の花びら一枚一枚も、銀線で囲って釉薬を流しているんだよなあ。信じられない職人芸である。虫眼鏡で拡大しても、何らの瑕疵も見つけれない。涛川惣助は、釉薬を差したあと、植線を抜いてしまう無線七宝を完成させた。色をぼかしたり滲ませることで、写実的で平明な表現が可能になる。並河靖之の七宝は、ひとつでも持っていたら一生自慢ができると思うが、日々、生活の中で、使ってみたいのは涛川惣助の作品である。

 私は、並河の緑釉(明色~暗色まで何種類かある)が好きだが、一般には黒の美しさに特徴があるといわれる。並河は、明治11年(1978)東京のアーレンス商会で技術指導をしていたドイツ人化学者ワグネルの指導を受け、黒色釉を開発したそうだ。化学者のワグネル? どこかで聞いたような、と思ったら、大学南校(現在の東京大学)や東校(東京大学医学部)で教師をつとめたお雇い外国人のひとりである。日本の近代工芸は、ずいぶん彼のお世話になっているようだ。

 今、三の丸尚蔵館の『帝室技芸員と1900年パリ万国博覧会』展でも、並河・涛川(コンビ名みたい)の七宝が見られそうだ。そのうち行ってみよう。
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仏像ファン感激必至/六波羅蜜寺の仏像(東博)

2008-07-22 23:54:47 | 行ったもの(美術館・見仏)
■東京国立博物館・本館11室 特集陳列『六波羅蜜寺の仏像

 本館11室には、ふだん、館蔵品の仏像彫刻が展示されている。多少の展示替えはあるが、いわば登録選手団の中から、先発メンバーをやりくりするようなもので、この数年来、大きな変化を感じたことがない。それが、今回は、一室まるごと六波羅蜜寺から招来した仏像群に入れ替わってしまった。すごい。私の知る限り、初めての試みだと思う。

 六波羅蜜寺へは、もちろん何度も行っている。12年に1度、辰年にご開帳のご本尊、秘仏・十一面観音も2000年に拝観しているし、昨年の暮れは、念願だった空也踊躍念仏厳修(おどり念仏)を見てきた。いつ行っても素晴らしいのは、宝物館に収められた平安・鎌倉の彫刻群だ。余談ながら、東寺→三十三間堂→六波羅蜜寺というのが、私の東山見仏ゴールデンコースである。

 さて、会場入口で最初に相対するのは、平清盛像と伝える僧形坐像。鎌倉肖像彫刻の逸品である。これ、宝物館で見ると、うつむき加減の玉眼に凄みがあるのだが、今回の会場では、スポットライトの関係で、目や口の輪郭の丸みが強調され、笑っているように見える。印象の違いにびっくり。横から見ると、唇の厚さや下顎の長さが、『公家列影図』に描かれた清盛像に似ていなくもない? あと、胸のはだけかたがワイルドで、やっぱり武人だなあ、という感じがする。

 チラシやポスターにも使われている地蔵菩薩立像(平安時代)は、夢見るような面持ちが美しい。「軟派」の地蔵菩薩の代表格で、私の大好きな仏像である。繊細な唐草文の光背も、王朝貴族の美意識にふさわしい。解説パネルの拡大写真によって、華麗な彩色・截金を偲ぶこともできる。今昔物語は定朝作と伝えるが、もう少し早い時代の様式だそうだ。ちなみに同寺には、男ぶりのいい、運慶作の「硬派」な地蔵菩薩坐像も伝わるが、これは『対決』展に出品中。

 このほか、おおらかな四天王像(持国天・増長天)も好きだし、江戸の奪衣婆坐像もかわいい。伝運慶坐像・伝湛慶坐像は、やっぱり側面に回りこんでも造形に狂いがないと分かって感心した(頭の形がきれいなのは、写実なのか、理想化なのか?)。ところで、有名な空也上人像(口から六体の阿弥陀仏を吐き出す)はパネルに写真だけが掲げられ、「この像は六波羅蜜寺の象徴的な存在であるため、出品がかないませんでした」とある。当然とは言いながら、担当者の残念がる本音が現れているようで、微笑ましかった。

■東京国立博物館・本館12室 特集陳列『二体の大日如来像と運慶様(うんけいよう)の彫刻

 隣室に進んだら、ここもふだん(金工が主)と展示内容が違うので、うろたえてしまった。この夏は、2室続けて仏像の特集陳列を組んでいる。これがまたすごい! 伝浄瑠璃寺伝来の十二神将立像(巳神)は、小さいながらド迫力。足元に銀紙(アルミホイル?)をかぶせたミニパネルを置いて、反射光で玉眼と鎧の金箔の名残りを際立たせている工夫がいい。「二体の大日如来像」というのは、真如苑の大日如来像(先頃、ニューヨークのオークションで14億円で落札されたもの)と、栃木・光得寺の大日如来像である。両者を並べて見ると、実に細部まで相似形であることがよく分かる。

※参考:有鄰 No.439「新発見の大日如来像と運慶/山本勉」(2004/06/10)
http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_439/yurin4.html

 2室あわせて20体ほどのミニ特集だが、東京では、ちょっと信じられないほどの高レベル。仏像好きには、たぶん、春の薬師寺展よりも、奈良博の法隆寺金堂展よりも、満足度が高いと思われる。どちらも9月21日まで、平常展料金で楽しめるのだから、嬉しい。また行ってみようと思う。
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夏フェス開幕/対決 巨匠たちの日本美術(東博)

2008-07-21 23:09:27 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京国立博物館 特別展『対決-巨匠たちの日本美術』

http://www.tnm.go.jp/

 いや、すごい人だった。実は前日も平常展を見がてら、この展覧会の様子を探りに行ったのである。そうしたら、入場規制はしていないようなので、ふーん、最近の特別展ほどではないのかな、とタカをくくっていた。ところが、開館前、既に長い人の列が出来ていた。

 この展覧会は、中世から近代までの日本美術の巨匠24人を2人ずつ組み合わせ、12組の「対決」のかたちで紹介している。したがって、12のセクションは、どこから見ようと、比較的自由だ。大半の観客が流れ込んだ第1会場を避けて、第2会場から見始めたのは、我ながら正しい選択だったと思う。ただ、そのように観客を分散させるには、入口前に大きな会場MAPを掲げておくか、並んでいる観客に会場MAPを配るか(正倉院展方式)すべきだと思う。会場の誘導、手際悪すぎ。

 第2会場は「応挙vs蘆雪」で始まる。すぐに目に入ったのが、蘆雪の『虎図襖』。私は、この絵見たさに和歌山の無量寺まで行ったこともある。元気いっぱいの童心あふれる虎の姿に、はるばる東京までようこそ!と声をかけたくなる。裏面の工夫が見られないのが、ちょっと残念。大きな金地墨画の屏風があって、知らない作品なので、応挙?蘆雪?と首をかしげながら近づいたら、蘆雪だった。『海浜奇勝図屏風』と言って、米国メトロポリタン美術館の所蔵だ。現存する、蘆雪唯一の金地墨画だという。榊原悟さんのいう「即画」の妙が横溢している。漂うユーレイみたいな水際の立木。海上の洞門は、前足を踏み出した虎(無量寺の虎)に似ていて、今にも動き出しそうだ。

 「若冲vs蕭白」も第2会場だったので、空いているうちにゆっくり見られた。点描を用いた若冲の『石灯籠図屏風』は、これまで特に感心したことがなかったのだけど、今回のように照明を落とした会場で見ると、夕日を浴びた石灯籠が内側から輝くように見えて、非常に美しい屏風であることを発見した。蕭白は、代表作『群仙図屏風』に三重・朝田寺所蔵の『唐獅子図』双幅(これは名古屋市博物館で見た)という力の入ったセレクションで、文句なし。堪能した。

 第1会場に入り直したときは、たぶん午前中の人出のピーク。半分を見て分かったことは、12組の「対決」とは言いながら、展示作品のセレクションには、率直にいって差があるということ。そんな中で、「雪舟vs雪村」は、12組の中でも白眉の名品揃いだと思う(特に雪舟)。なのに、通行人みたいに流れていく人が多すぎて、ほとんどケースに近づけない。ちょっと頭にきた。『梅下寿老図』は、かつて東博の平常展で見て、印象深かったもの。雪舟らしからぬ彩色の人物図で、どこか意地悪そうな白髯の老翁と、もっと意地悪そうな鹿を描く。

 『慧可断臂図』、いいなあ。初めて見たとき、ひげ面の汚いおじさん2人の間に微妙な空気が漂っていて、キモチわるい絵だと思ったのがウソのようだ。慧可の切ない表情を見ていると、涙が出てくる。達磨の太い輪郭線は、涙で滲んでいるのではないかと思ったりした。『四季花鳥図屏風』は、もちろん存在は知っていたけれど、実物は初見かもしれない。右隻の棒立ちする鶴とか、左隻の白鷺の足掻き方が面白いと思った。でも、全体像を把握するには、会場内が混みすぎ。

 ぐるぐる回っているうち、第2会場もだいぶ混み始めた。ふと、初めは素通りした応挙の『保津川図屏風』の前に立ってみる。「水」を描いた名作の多い応挙の最晩年の作だという。なじみ深い、自然の情景だと思ったのに、見ていると、だんだん引き込まれていく。実直で平明に見えて、実は天才のひらめきを宿す応挙らしい。左隻の水流の中に、小さな鮎の姿を見つけたときは、嬉しくなってしまった。

 このほか、久しぶりに見ることができて感激だったのは、光琳の『白楽天図屏風』。逆に、等伯の『松林図屏風』や光悦の『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』は、東博や京博の平常展で見てるからいいや、と思ってスルー。池大雅の『楼閣山水図屏風』も、ついこの間、平常展に出てなかったっけ?と苦笑。こういうお宝揃いの「夏フェス」は、ありがたい点もあるが、あまり心に残らない展覧会だと思う。
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対決、出雲寺vs須原屋/江戸の武家名鑑(藤實久美子)

2008-07-20 23:44:35 | 読んだもの(書籍)
○藤實久美子『江戸の武家名鑑:武鑑と出版闘争』(歴史文化ライブラリー) 吉川弘文館 2008.6

 「武鑑」とは何か。大名家や旗本家について、系図・紋所・江戸上屋敷の場所・当主の名前・妻・家族・家臣・参勤交代の期日などなど、さまざまな情報を集めたダイレクトリー(総覧)である。著者の冒頭の言「武鑑は『プロ野球選手名鑑』に似ている」というのが、いちばん分かりやすいかも知れない。著者は、昭和59年(1984)、大学三年の夏、卒業論文の準備を進める中で、東大総合図書館の「鴎外文庫」(森鴎外の旧蔵書)に含まれる、多数の武艦コレクションに出会う。以来、全国各地の文庫や図書館が所蔵する武艦を渉猟して今日に至るという。

 実は、私も「鴎外文庫」の武艦コレクションには目を通したことがある。しかし、正直なところ、近世史の素人には、これがどういう意味を持つ資料なのか、サッパリ分からなかった。「武艦とは何か」を簡単明瞭に教えてくれる人物も周囲にいなかったし、今、ネットで「武艦」を検索してみても、その答えは見つからないようである。本書に出会って、ようやく長年の疑問が氷解したうように思う。

 最も古い武艦は、寛永20年(1643)刊行の『御大名衆御知行十万石迄』にさかのぼる。徳川体制初期、社会状況はまだ定まらず、日々の人事異動が繰り返される中で、大名たちは、幕府諸役人やほかの大名家と円滑な交渉を行うため、正確な人事情報を必要としたのである。同種の出版は『御紋づくし』『江戸鑑』などと書名を変え、収載情報やレイアウトも、試行錯誤を重ねて整えられていく。貞享2年(1685)松会板『本朝武艦』が、初めて「武艦」を用いた(松会(まつえ/しょうかい)は、江戸初期の出版人・松会三四郎のことか→参考論文/pdf)。以後、この「武艦」という書名は、幕末まで生き続ける。

 先を急いでしまうと、最後に出版された「武艦」は、慶応3年(1867)11月刊『袖玉武艦』で、国文学研究資料館蔵の同書には、同年10月14日の大政奉還を受けて「此後東都にて武艦出来申さず候事、是にて留め」という印象的な言葉が墨書してあるという。もっとも、その翌年、慶応4年=明治元年には『太政官御職明艦』や『官員録』が(武艦と同じ出版元から)ちゃんと出ているのだから、江戸の出版人もたくましいものだ。

 武艦の二大出版元といえば、須原屋と出雲寺である、ということくらいは知っていた。しかし、両者の明瞭な違いは、本書を読んで初めて知った。かたや京都の老舗・出雲寺は、元禄期に幕府の御用達町人(書物師)となり、幕府の書物方に属して紅葉山文庫の運営にもかかわるなど、半ば「官業」の扱いだったのに対し、江戸で創業した須原屋は、公儀に特別なパイプを持たない純粋な「民業」だった。本書は、宝暦年間から天保年間まで、ほぼ1世紀に渡る両者(もちろん当主は代替わりしていく)の争いが、スリリングな読みどころである。

 武艦については、版元の権利(持ち株)が、事項ごとに保護されていた。たとえば「長崎奉行・日光奉行・佐渡奉行の江戸出府の時期を干支で示すこと」はA者の持ち株であるとか、「江戸城の見付番衆の名前を記すこと」はB者の持ち株であるとかである。今日風にいえば、知的財産権の保護ということだろうが、びっくりするほど細かい。株を持たない版元が勝手にこれを模倣すると、訴訟沙汰になった。しかし、「官」の後ろ楯を持つ出雲寺のゴリ押しに、たびたび苦汁をなめる「民」の須原屋に、つい読みながら肩入れをしたくなる。

 ところで、武艦は「○○年」という年次を冠することが多いので、私は勝手に年次出版物だと思い込んでいた。そうしたら、書物師・出雲寺の場合、毎月、改訂版を幕府に上納することを求められている。実際には、多い年で年2回に留まるそうだが、急な人事異動があると、該当箇所だけ彫り直して(版木に埋め木をする)改訂版が刊行された。とすると、武艦って、一種の加除式資料みたいだなあ。それにしても、幕府の『書物方日記』(大日本近世史料所収)がきちんと残っているというのもすごい。公文書軽視のあらたまらぬ日本政府より、ずっと上等である。

■参考:一橋大学附属図書館 平成14年度企画展示『武家社会と江戸・大坂の経済-幸田成友とその史料- 』
http://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/k14/tenjihin_list.html
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リーダーの責任/広田弘毅(服部龍二)

2008-07-19 23:45:02 | 読んだもの(書籍)
○服部龍二『広田弘毅:「悲劇の宰相」の実像』(中公新書) 中央公論新社 2008.6

 「広田に対する日本人の印象は、城山三郎氏の小説『落日燃ゆ』によってつくられたといっても過言ではない」と、著者は「あとがき」で述べている。『落日燃ゆ』は1974年の作品だが、私は、今年の5月に読んだばかりだ。開戦の責任を背負い、家族への愛情を胸に、従容と死に赴く広田の姿には強く胸を打たれた。

 だが、城山の小説には事実誤認も多いという。本書は、小説によって固定化してしまった広田弘毅像の輪郭を(その小説の愛読者でもあった著者が)近年の研究成果と資料に基づき、実証的に描きなおそうという試みである。たとえば『落日燃ゆ』の「広田は玄洋社(国家主義的団体)の正式メンバーでない」という記述は、広田弘毅伝記刊行会編『広田弘毅』に依拠しているが、誤りだという。著者は、このことを、玄洋社記念館の館報『玄洋』などを用いて検証していく。

 涙腺のゆるい私は、小説『落日燃ゆ』を読みながら、通勤の車中で、たびたびハンカチのお世話になった。しかし、それはそれ。本書のように、きちんと典拠文献が示された記述のほうが、私は安心して読める。小説より、エッセイのほうが好きなゆえんである。

 広田は、欧米局でキャリアを積んだエリート外交官であると同時に「国士としての一面」を備えており、右翼(安岡正篤の国維会とか)や軍部とも積極的に交わっていたという。その根底にあるのは、アジア主義への傾倒であり、とりわけ「日中提携」の夢だった。なるほどね。論語を座右の書にした広田にとっては、当然の帰結だろう。外相時代、日中双方の公使館を大使館に昇格させたことは、広田の功績のひとつである。

 やがて、関東軍の「暴走」によって、傀儡国家の満州国が成立するに至る。広田は、満州国は独立国であるという「建て前」のもと、諸外国と交渉しなければならなくなる。中国はもちろん徹底的に反発するし、ソ連も簡単には受け入れない。たぶん広田自身も、日本国の「建て前」が破綻していることは百も承知で、それでもそこを鉄面皮に押し通し続けるのが、外交という「仕事」なのである。「外交官は、与えられた環境のなかで自国の立場を擁護し、国益を主張しなければならない。それができないようでは、外交官失格である」という著者の言葉を読みながら、これはオトナにならないと分からない理屈だなあとため息をついた。

 外交では、粘り強い一面を見せた広田だが、内政については、宰相時代(1936-1937)、第1次近衛内閣の外相時代(1937-1938)を通じて、見るべきところがない。著者の厳しい評言によれば「軍部に抵抗する姿勢が弱く、部下の掌握もできずにおり、そしてポピュリズムに流されがちであった」ということになろう。反対勢力に対する気配りと妥協が、結果的に傷口を広げていく。思い通りにいかない現実に、だんだん嫌気が差していったのかなあ。同じような傾向は、近衛文麿にも感じる。

 東京裁判において、広田は、「作為」によってではなく「不作為(構ずべき措置を講じなかったこと――とりわけ南京事件について)」すなわち「自己の義務に怠慢であった」ことを理由に死刑を宣告された。その判事団には、広田が善隣友好を願った中国、ソ連も含まれていた。指導的立場にある人間の責任とは重いものだな、と思う。

 以下、余談だが、雑誌『玄洋』(昭54.9~)は、国会図書館には入っているけれど、Webcatで探す限り、全国の大学図書館には入っていない。もったいない! 高い外国雑誌ばかり買わずに、こういう資料も収集しておいてほしい。

 5月に『落日燃ゆ』を読んで以来、次に福岡に行くことがあったら、玄洋社記念館に寄ってみようと思っていたのだが、なんと今年5月末日で休館になってしまったそうだ。資料の寄託を受けた福岡市博物館、散逸させないでね!!→西日本新聞の記事(2008年6月1日)

 また、『落日燃ゆ』によれば、上京した廣田弘毅が5人の学友と共に共同生活をしてた学寮「浩浩居」は、今も杉並区に残っているという。調べてみたら、私の実家から意外と近いところにあることが分かった。今度、探しに行ってみよう。
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炎暑関西行(5):祇園祭直前、京都市中散歩

2008-07-18 23:56:48 | 行ったもの(美術館・見仏)
先週の日曜日7/13、関西旅行の残りを駆け足で。

■並河靖之七宝記念館 春季特別展『七宝の雅』
 
http://www8.plala.or.jp/nayspo/

 今回、ぜひ訪ねてみたいと思っていたのがここ。先だって、雑誌『美術手帖』2008年6月号「京都アート探訪」で、山下裕二先生が「京都アートデート」に推奨していた美術館である。場所は、地下鉄東西線・東山駅から、白川沿いに少し北上したあたり。明治時代にタイムスリップしたような低い黒板塀のお屋敷に「並河靖之七宝記念館」の看板が掲げられている。靴のままどうぞ、と言われるままに入室するが、変な気持ち。

 並河靖之(1845-1927)の七宝作品を見るのは初めてのこと。その小ささが、ちょっと意外だった。あまりにデザインが精緻で繊細なので、柿右衛門の壺くらいあるのかなあと思っていたら、ほとんどが”てのひらサイズ”なのだ。実物を見ると、花鳥文様もさることながら、地色の美しさにため息が出る。思わず触りたく、いや(飴みたいで)舐めてみたくなる。

 清水三年坂美術館『帝室技芸員・並河靖之展』もあわせて見たかったのだが、祇園祭の準備が気になるので、今回は断念。京都中心部にとんぼ返りする。

■京都市中・山鉾めぐり

 地下鉄・御池駅で下りて、山鉾建ての多い室町通を南に下る。おおよそ「鉾」は既に組み上がっているが、「山」は基礎組みが始まったところ。まだ姿を現しているものは見当たらない。露店が立ち、屏風飾りの公開を始めた町家もある。準備と見物の人出に混じって、東を覗き西に折れしながら、うきうきと歩く。

 と、マンションの一角にひっそりと飾られた「布袋山」の提灯。いわゆる焼山(休み山)である。火災や戦乱のため、巡行に参加できなくなってしまった山鉾のことだ。布袋山は、天明の大火(1788年)で焼失したそうだが、200年以上経っても「廃止」ではなく「休み」と表現し続ける京都人って、いいなあ。
 
 

 びっくりしたのは、その隣りの駐車場に「此付近 南蛮寺跡」の石柱を発見したこと。織田信長の許可のもと、イエズス会が京都布教の拠点として建立した教会だ。『都の南蛮寺図』に描かれた3階建ての聖堂は、こんなところにあったのか。それじゃあ、イエズス会の宣教師たちも、当然、祇園祭の山鉾巡行を見たんだろうなあ、などと空想してみる。

 7、8年前、初めて祇園祭に来たときは、欲張って全ての山鉾を訪ね歩いた。今回も1つか2つは鉾に上がってみたいと思い、なんとなく四条通り南の鶏鉾を選ぶ。会所に飾られた懸装品には、16世紀ベルギー産の毛織物があった。私はすっかり忘れていたが、2006年の歴博の企画展『日本の神々と祭り』で、これを見ている。しかも、リンク先をたどってみたら、このタペストリーは、伊達正宗の家臣である支倉常長(はせくらつねなが)が、ローマ法王からの贈り物として日本に持ち帰ったものだという。先月、仙台市博物館に行ってきたことを思うと、私が今年の祇園祭に来合わせたのは、支倉常長の導きかもしれない。

 16世紀のタペストリー(しかも重要文化財)だと思うので、恐る恐る「あのう、写真を取ってもいいですか?」と聞いてみると、全く意に介さず「あ~どうぞ」。この鷹揚さも京都の魅力。



 もう1つ、函谷(かんこ)鉾にも上った。写真は、ゴブラン織りのタペストリーと17世紀李氏朝鮮時代の絨毯(図柄が朝鮮民画っぽい)。「重文 ゴブラン織り」の短冊が、よく見ると洗濯バサミで留めてあるのが微笑を誘われる。

 

 もっと見たかったけど、本年はこれまで。
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