見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

毛沢東の時代/社会主義への挑戦(久保亨)

2011-01-30 23:24:31 | 読んだもの(書籍)
○久保亨『社会主義への挑戦:1945-1971』(岩波新書:シリーズ中国近現代史4) 岩波書店 2011.1

 第4巻は、1945年の抗日戦争勝利から1971年まで。巻の後半は、いよいよ私にとっても同時代史となる。1971年というのは、やや唐突に感じられる区切りだが、文革路線の行き詰まりのもと、対外戦略の大転換(西側諸国との関係改善)が徐々に図られ、1971年10月、中国が国際連合への復帰を果たしたことをもって、本書は終わっている。

 本書はシリーズ全6巻の中で、いちばん読んでいてつらい巻であり、いちばん分かりにくい巻ではないかと思う。以下、おおまかな流れを追ってみよう。
 
 1945年の戦争終結と同時に「抗日」という大義名分が失われ、激しい政治抗争が始まる。当面は、毛沢東と蒋介石のトップ会談によって国民党の優位が確認されたが、国民党政府は、経済政策の破綻によって民衆の信任を失い、外交面もアメリカの東アジア政策の方針転換(日本の復興優先)によって行き詰まった。軍事的勝利を背景に地域政権の樹立を続けてきた共産党は、1949年10月、中華人民共和国の成立を宣言した。…この戦後の4年間って、日本では語られることが少ないが、思想文化界は非常な活況を呈し、47年憲法と呼ばれるきわめて民主的な憲法も制定されているのだそうだ。知らなかった。あと、人民共和国の成立とアメリカの政策転換の先後関係も、私は逆に認識していた。

 「人民共和国は当初から社会主義をめざしたわけではない」という指摘にも、え?と思った。当初、掲げられた目標は、諸党派の連合による新民主主義であった。しかし、冷戦の拡大、台湾海峡の緊張、朝鮮戦争に伴う経済的負担などを受けて、52~53年、共産党政権は社会主義化の早期強行へと大きく舵を切る。目的は経済発展(急速な工業化の推進)と軍事力の強化だった。

 以後、百花斉放・百家争鳴(56~57年)→反右派闘争(57年)→大躍進政策(58~60年)→その修正(市場経済の一部復活)→文化大革命(65年暮れ~66年)→その収束期(67年~)と、中国の社会主義は、ジグザグの試行錯誤を繰り返す。根本には、急進的な社会主義に挑戦しようとする毛沢東と、比較的穏健な社会主義化をめざそうとした党内の多数派との闘争があり、さらに背景として、東西冷戦の厳しい国際条件と、大国ソ連とも歩調を同じくできない新興国中国の事情があった。本書は、共産党内の人間ドラマを描くことには筆を抑え、むしろ当時の中国を取り巻く国際情勢(インドとの国境紛争、東南アジア諸国との関係悪化、およびそれらの改善努力)について、詳しく語ろうと努めている。

 小さな挿図ではあるけれど、文革や大躍進当時の写真(老照片)が多数掲載されているのも興味深い。また、本書の叙述のところどころ、著者が多くの原資料に実際に接していることが分かって、感慨深く思った。まだ十分なものではないけれど、近年、多くの史料が利用できるようになり、「ようやくこの時代についてある程度の実感を込めて描き出せるようになった」という著者の「あとがき」が印象的だった。同時代を正しく描き出すというのは、実はとても難しいことなのだと思う。

 なお、本書はマクロな視点の中国現代史を学ぶには適しているが、ミクロな、つまり人々の生活レベルの中国現代史を理解するのに、いちばんいいテキストは映画だと思う。本書にも、映画『芙蓉鎮』が取り上げられている。
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市民講座・関西中国書画コレクションと京都大学(東京会場)

2011-01-29 23:35:52 | 行ったもの2(講演・公演)
○京都大学東京オフィス 市民講座『関西中国書画コレクションと京都大学』(2011年1月29日)

 辛亥革命(1911年)から100年目に当たる2011年、関西の9つの美術館・博物館で「関西中国書画コレクション展」が開催される。京都大学文学研究科は、この機会に合わせて全6回の市民講座を開催。全6回シリーズの3回目は東京会場で、3つの講演が行われた。あまりにも面白かったので、後学のため、少し詳しくメモを取っておきたい(関係者の方、ご寛恕ください)。

■関西中国書画コレクションと京都学派(講師・曽布川寛)

 「関西中国書画コレクション研究会」は、主に関西の、特徴ある中国書画コレクションを所蔵する美術館の「若い人たち」が中心となって立ち上げた研究会で、今回のコレクション展(後述)が初めてのイベントである。

 関西中国書画コレクションには、(一)宋元明清(全時代)の書画にわたる:(1)上野コレクション(京博)、(2)阿部コレクション(大阪市美)、(3)山本コレクション(澄懐堂美)、(4)黒川コレクション(黒川古文化研)、(5)藤井コレクション(有隣館)、(ニ)宋元明清絵画:(6)住友コレクション(泉屋博古館)、(7)大和文華館コレクション(同館)、(三)明清書画:(8)住友寛一コレクション(泉屋博古館)、(9)橋本コレクション(東京・松濤美)[→参考]、(四)近現代書画(阿片戦争以後):(10)須磨コレクション(京博、近年受贈)[上田秋成展の併設展で見た→京博のページ]、(11)観峰館コレクション(同館)、(12)林宗毅コレクション(久保惣)がある。

 最も網羅的なコレクション(1)~(5)は、いずれも大正初年から昭和にかけて、辛亥革命後の中国で、書画の名品が市場に出たものを日本が引き受けるかたちで形成された。リーダーとなったのが、京都学派(京都帝国大学文科の中国学研究者たち)、とりわけ、内藤湖南(1866-1934)。さらに、政治家・犬養木堂、美術商・原田庄左衛門(博文堂初代)など学術・政財界の連携のもと、組織的に蒐集された。

 湖南は、明治43年(1910)北京に赴き、端方(たんぽう、古書画の収蔵家)邸でコレクションを実見。また大正6年(1917)にも北京の京師書画展覧会で完顔景賢らのコレクションを実見。この体験により、日本の古渡りの絵画と本場の名品の落差を発見して「我が国人に中国書画に対する正しい鑑賞眼を開かさしめること」を目指したという。

■上野コレクションと内藤湖南(講師・西上実)

 上記、湖南の呼びかけに最初に反応したのが上野理一(有竹斎、1848-1919)だった。上野は村山龍平とともに雑誌「国華」を発刊したことでも知られ、茶の湯、日本美術にも造詣が深かったが、晩年の10年は中国書画の蒐集に集中する。しかし、上野コレクションは、中国古画の大物には欠け、明清に偏っている。それは、湖南の最初の訪中後の報告(京大構内で原寸大写真による展覧会を開いているらしい。雑誌「国華」250号に記事)には反応したが、2度目の訪中後の助言を受ける機会はなかったのではないか、という。

 なお、「国華」250号、257号の記事によれば、明治43年(1910)には、東京帝大からも瀧精一が北京に趣き、京大から派遣されていた5人と合流して、端方コレクションを訪ねているのだそうだ。

 中国絵画には、北宗(ほくしゅう)=職業画人の画/南宗(なんしゅう)=文人画という分類があり、前者は士大夫の学ぶべきものでないと見なされている。日本にある古渡りの宋元画は、ほとんどが南宋以降のもの(小画面の院体画、北宗画の一)であり(※逆にこの時期のものは中国にあまり残っていない)北宋の作品はあまり伝来していない。また、湖南によれば、日本では「一種の地方色のある」浙派(これも北宗画の一)などが喜ばれてきた(ということで、浙派の作品の一例をスライドで見せてくれたが、あ~なるほど日本人好みだ、と思った。ベタッと墨を刷いたような岩の表現とか、雪舟を思い出した)。こうした粗放な表現は、品がないといわれて、特に明末以降は貶められるようになった。ところが、日本の中国理解は明までで固定し、清代における変化が伝わっていなかった。

■内藤湖南の書画論(講師・宇佐美文理)

 中国の伝統的な芸術理論は、技術を超えた「何か」を尊重する。「何か」とは「気象」「気韻」など、作者の内面、人格など個人に帰せられることが多い。これに対して、湖南は技術を超えたものを「趣味」と表現する。趣味は歴史的に形成され、発展していくものと考えられる。この点に、歴史家・湖南の独創性がある。趣味(ものの見方)だけでは絵画にならないから、表現技術が必要となる。しかし、あえて技術を極限まで削ぎ落とし、趣味だけが残るような状態こそ理想と湖南は考えていた。

 湖南は趣味(洗練)に欠けるものを「じじむさい」と呼んで嫌った。講師によれば「じじむさい」は京ことばなので「名古屋出身の僕には、そのニュアンスがなかなか掴めない」とおっしゃっていた。そうなのか。私は東京生まれだけど、この言葉、知ってはいたが…。辞書に書いてある意味と京都生まれの奥様の説明は、どうも違う、というのが面白かった。北派の書(北魏時代の碑文に見られる金石文の書体)は「じじむさい」って、一刀両断の批評だなw。

 最後に短い質疑応答の中で、湖南は、宋よりも清朝初期の(一見つまらない)絵画に価値をおいていた、という発言(曽布川先生?)があったこと、それと、湖南は、中国書画の正統中の正統、すなわち清朝宮廷コレクション(台湾故宮博物院に伝わる)を見る機会がなかったことが惜しまれる、という指摘も興味深かった。

 宇佐美先生は、中国の伝統には「人為に対する抵抗」がある、という表現をなさったけれど、どうなんでしょう。私は、昨年、東文研の公開講座で菅豊先生がおっしゃった「中国人は、日本人ほどに、あるがままの自然を好まない」という見解のほうに共感するんだけど…。

※さて、肝腎の「関西中国書画コレクション展」については、ネットの上にあまり情報が流れていないようなので、パンフレットの内容をテキストに起こしておく。(→正確な情報は各館に確認してください!)

・京都国立博物館 上野コレクション寄贈50周年記念『筆墨精神-中国書画の世界-』(1月8日~2月20日)
・京都国立博物館 『中国近代絵画(仮称)』(2012年1月7日~2月26日)

・澄懐堂美術館 『中国書画名品展Ⅴ』(2月27日~6月5日)
・澄懐堂美術館 『祝賀と祥瑞(仮称)』(9月11日~12月11日)

・黒川古文化研究所 名品展『中国書画-受け継がれる伝統美-』(4月16日~5月15日)
・黒川古文化研究所 『中国の花鳥画-彩りに込めた思い-』(10月15日~11月13日)

・藤井斉成会有隣館 『指定文化財等 中国書画特別展』(5月1日、15日)
・藤井斉成会有隣館 『指定文化財等 中国書画特別展』(11月6日、20日)

・観峰館 『没後百年 銭慧安展(仮称)』(4月16日~6月19日)
・観峰館 『生誕百年 原田観峰が蒐集した中国書画展』(6月25日~8月28日)
・観峰館 『中国近代書画コレクション展』(9月3日~12月11日)

・和泉市久保惣記念美術館 『中国近代絵画-定静堂コレクションの名品-』(6月11日~7月31日)

・大阪市立美術館 『中国書画Ⅰ-館蔵・寄託の優品(仮称)』(9月17日~10月16日)
・大阪市立美術館 『中国書画Ⅱ-阿部コレクション(仮称)』(10月20日~11月23日)
・大阪市立美術館 『中国拓本-師古斎コレクション(仮称)』(2012年1月7日~2月26日)

・泉屋博古館 『住友コレクションの中国絵画』(9月3日~10月23日)

・大和文華館 『中国美術コレクション展』(11月19日~12月25日)

※さらに、中国書画が一部展示される展覧会として、

・大和文華館 開館50周年記念名品展Ⅲ『大和文華館の中国・朝鮮美術』(2月19日~3月27日)
・泉屋博古館 『書斎の美術-明清の玉・硝子・金工を中心に-』(3月12日~6月26日)
・和泉市久保惣記念美術館 常設展(12月10日~2012年1月31日)

今年も西国札所めぐり的な関西詣でのリピートになりそう…。いちばん行きにくいのは藤井斉成会有隣館かな。第1、第3日曜日しか開かないので、さすがの私も訪ねたことがない。でも、いい機会なので、必ず行ってみたい。

蛇足。パンフレット表紙の内藤湖南先生の写真がすごくいい。好きだわ、この笑顔。
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日本橋三越本店・天女(まごころ)像

2011-01-28 22:30:59 | なごみ写真帖
薩摩焼の『歴代沈壽官展』を見に行ったついでに。

本館の吹き抜け中央ホールにそびえたつ天女(まごころ)像。昭和35年(1960)、佐藤玄々(朝山)作。

東京育ちの私には、ものごころついた頃からのなじみの像だ。下町住人だった我が家にとって、「デパートに行く」といえば日本橋の三越か高島屋で、私は子供心に、この巨大な像が「あるほう」と「ないほう」で区別していた。

ずっと陶磁器かと思っていたら、木彫なのだ。









同店では、この巨大彫刻の存在感が圧倒的だが、実は、天井のステンドグラスなど、まわりの建築意匠もなかなか凝っている。建物はルネッサンス様式で、6年をかけて昭和10年(1935)完成。大阪の大丸心斎橋店(ヴォリーズ建築)が、大正11年~昭和8年(1933)竣工だから、ちょうど同じ頃である。

※参考:日本橋三越本店の歴史再発見(三越)…天女像全体像はこちらで。
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温かい白/歴代沈壽官展(日本橋三越本店)

2011-01-27 23:57:11 | 行ったもの(美術館・見仏)
○日本橋三越本店 パリ・三越エトワール帰国記念 薩摩焼 桃山から現代へ『歴代沈壽官展』(2011年1月19日~31日)

 16世紀後半、朝鮮半島から連行された陶工たちが生み出した薩摩焼。その伝統を守り伝える沈寿官(沈壽官)家を紹介する展覧会。私は「薩摩焼」という耳慣れない名前を、かつて年下の友人から教わった。「どんな焼きもの?」と聞くと、「え、金ピカでゴテゴテした焼きものですよ」とつまらなそうに彼は答えた。この説明は、あながち間違いではない。慶応3年(1867)のパリ万博に出品された薩摩焼は、高い評価をもって迎えられた。以後、海外輸出ブームに乗ってつくられた「金ピカでゴテゴテ」の薩摩焼は、今でも「SATSUMA」で画像検索をかけると(オレンジのSATSUMAに混じって)ネットの上で見ることができる。

 その後、私は京都・相国寺の承天閣美術館で、実際の薩摩焼を見る機会があった。繊細な白い肌、品のある色絵付けは、「金ピカ、ゴテゴテ」の先入観から遥かに隔たっていて、意外だった。

 薩摩焼には、白薩摩(藩主向けの御用窯)と黒薩摩(大衆用の日用雑器)がある。本展で紹介されている作品は、ほとんどが白薩摩である。その「白」の美しいこと! 柿右衛門のつるりとした乳白色とは違う。何か近いものを探すなら、ざらざらした卵の殻の白ではないかと思う。温かみのある「ざらざら感」を生んでいるのは、貫入と呼ばれる細かいひびわれである。

 司馬遼太郎が『故郷忘じがたく候』の中に書いていたが、当時の日本人にとって「白いうつわ」というのが、どれだけ驚くべき技術だったか、いまの私たちには想像困難なところがある。展示の冒頭に、17世紀初頭、初代沈当吉が焼いた『伝火計手(ひばかりで)』という白薩摩茶碗が飾られていた。朝鮮の陶土・釉薬を用いて、日本の窯で焼いたといわれる茶碗で、日本で借りたのは「火ばかり」なので、この名前がある。造型は素朴だが、荒削りな白い肌の美しさは何ともいえない。

 人間技とは思えない透かし彫り、華麗な色絵付け、日常風景をとらえた愛らしい色絵付けなど、見どころは多々あるのだが、全ては、この白の美しさを活かすための工夫なのではないかと思った。あと、人形(ひとがた)のひねりものは、繊細な表情が、なんとも言えず、いいなあ。
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ロイヤルファミリーの人間ドラマ/肖像画で読み解くイギリス王室の物語(君塚直隆)

2011-01-26 23:49:33 | 読んだもの(書籍)
○君塚直隆『肖像画で読み解くイギリス王室の物語』(光文社新書) 光文社 2010.9

 本書は、12点の国王・女王の肖像画を取り上げ、イギリス王室500年(テューダー王朝~)の歴史をたどる読みもの。序章では、11世紀のノルマン征服(コンクウエスト)からバラ戦争までが短く紹介されている。

 最初に登場するのが、15世紀後半のヘンリ七世。弱小国イングランドの王として、強力な同盟者を必要としたヘンリ七世は、息子および自身(再婚)の嫁探しに奔走する。オーストリアの○○家の○○王女とか、スペイン国王○○の娘とか、慣れないカタカナ人名が洪水のように登場して慌てる。ヨーロッパの王室史は「一国史」ってありえないんだなあ。ヘンリ七世の息子が、巨漢で有名なヘンリ八世、その娘でイングランド史上初の女王・メアリ一世を挟み、エリザベス一世の時代へ。スペイン艦隊を破り、大英帝国の基礎を築くとともに、君主と議会との相談によって国の重要事項を決定していくという慣例をつくったのも彼女であるという。

 こんなふうに西洋史に疎い私でも多少は知っている名前が続くところもあれば、あまり印象のない名前が延々と続くところもある。しかし、何も知らない国王でも、カラー図版の肖像画を見ると、このひとは好きになれそうとか、このひとはちょっと駄目とか、無責任な直感が働いて、文章を読む助けになる。華麗な衣装に身を包み、家族との幸せな姿を描かれたチャールズ一世が、のちに清教徒革命で公開処刑された国王であることを知ると、感慨深く、肖像画に見入ってしまった。

 面白いのは18世紀、イギリスの植民地政策は「有益なる怠慢」と呼ばれる(いい言葉だ!)のんびりしたものだったが、理想に燃える勤勉な「愛国王」ジョージ三世は、強引な新税を押しつけ、挙句、アメリカの独立を招いてしままった。生真面目な国王は精神に不調をきたし、その摂政(リージェント)になったのがジョージ四世。不肖のドラ息子だが、美術館や文芸協会のパトロンとして、果たした役割は大きかった。イギリス王室史には、約束事の「繰り返し」があって、真面目な国王の次は派手好きな放蕩息子、と決まっているように思う。

 19世紀はヴィクトリア女王の時代だが、より興味深いのは、女王没後の20世紀初頭。ヨーロッパ諸国の王室のほとんどが、イギリスと閨閥関係で結ばれている。ロシアのニコライ二世の妻アレクサンドラはヴィクトリア女王の孫で、「ニッキー」と「アリッキー」の夫妻は、「バーティおじさん」ことイギリス国王エドワード七世と、毎年のように親交を温めていた。『坂の上の雲』を見てるけど、こういう特殊な紐帯をもつ「ヨーロッパ列強」の間に、日本が割って入るのは、いくら経済力を伸長させ、近代的な外交かけひきを学んでもムリだったんじゃないか、としみじみ思った。

 20世紀、「いとこたちの戦争」と呼ばれた第一世界大戦によって、ヨーロッパの多くの王室が姿を消したが、イギリス王室はしぶとく生き残った。2010年7月、ニューヨークの国連総会に出席したエリザベス二世女王は「私が以前ここに参りましたのは、1957年のことであったと記憶いたしております」とスピーチしたという。いやーすごい。まさに「現代国際政治の生き証人」である。著者は、よく言われる「君臨すれども統治せず」を「神話」と評しているけれど(おお!)、女王は今日でも「統治者」の自覚のもと、執務に精励されているのだろうか。

 本書には、イギリス王室をモデルにした映画も多数紹介されている。私は現女王を描いた『クイーン』くらいしか見たことがないけれど、『英国万歳!』や『至上の恋』も見てみたくなった。と思っていたら、今年のアカデミー賞最多ノミネートは、ジョージ六世を描いた『英国王のスピーチ』だそうだ。苦労の多い生涯だったジョージ六世については、本書にも言及がある。少し滑稽で、かつ、どこまでも気高い人間ドラマを提供し続けるロイヤルファミリーに敬意を表したい。
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東国の風/運慶-中世密教と鎌倉幕府-(金沢文庫)

2011-01-25 23:36:58 | 行ったもの(美術館・見仏)
神奈川県立金沢文庫 80年特別展『運慶-中世密教と鎌倉幕府-』(2011年1月21日~3月6日)

 昨年から楽しみに待っていた展覧会のひとつ。さっそく行っちゃえ~と思って見てきた。日本全国、運慶作と称されている仏像はきわめて多いが、信頼できる史料等から運慶の真作と確認されている作品は意外と少ない(Wiki)。その数少ない運慶の仏像を一堂に会し、「中世密教」と鎌倉幕府の関係から、運慶作品の制作背景の秘密に迫る展覧会、だという。「一堂に会し」と言っても、東大寺・南大門の金剛力士像は来てませんが。

 1階展示室に入ると、元代の大きな青磁香炉。鎌倉後期~末期に称名寺に施入されたものだという。それから金沢貞顕の釼阿宛て書状。裏が仏像の図像集の摺りものじゃないかと思われ、気になる。隣りは、おお、国宝『文選集注』じゃないか。参考展示にも力が入っている。特別展に展示されることの多い海岸尼寺旧本尊の十一面観音像も、このたびは1階にひかえめに鎮座。

 さて、2階である。上がっていくと、すぐ目に入るのが、奈良・円成寺の、若々しい大日如来坐像。まあ、ようこそ東国においでくださいました! 会場ではガラス越しとはいえ、かなり間近に寄って拝見することができ、像の重量感を感じることができる。斜めから見ると、腰の左右はくびれているが、意外と正面のお腹がぽっこりしている。でも、興福寺・阿修羅像の向こうを張るくらいの美形だと思う(私の趣味)。東博あたりの特別展なら、背景に青や赤の強い色彩を配し、スポットライトでスタア感を煽るところだろうが、ここは凝った演出をしていないので、全体が見やすく、ありがたかった。

 先に仏像だけ紹介してしまうと、栃木・光得寺の厨子&大日如来像。東博の常設展にも長いこと出ていたが、むしろ佐賀まで見に行った『運慶流』展の印象が強い。黄金の風合いの違いに注目。それから、愛知・滝山寺の帝釈天像。ここも3回くらい行ったなあ。やさしいおばちゃんに宝物館を開けてもらったりして。別ケースに滝山寺諸尊の装身金具(の残欠)が展示されていて、瑞雲の美しさに見とれる。仏師の工房は、こうした金具専門の工人も抱えていたのだろうか。

 伊豆の願成就院からは五輪塔形の銘札。むかし、東京から1日がかりで行った。三浦半島の浄楽寺もなつかしい。ここは桜の頃がいいのよね。毘沙門天像、不動明王像は、どちらも横顔がよい。特に不動明王は、左右非対称の歪んだ、恐ろしい表情なのだが、ひそかに右横から拝すると、あっと驚くカッコよさである。やっぱり運慶の仏像には、東国の風が似合う。そして、金沢文庫保管の大威徳明王像。ここまでは、全て見た記憶があった。

 最後に、神奈川・瀬戸神社の舞楽面が2点。見たことがあってもよさそうだが、記憶になくて、魅了された。確かに運慶の――慶派の顔である。特に陵王面の額に、エイリアンのように四肢をふんばってまたがった龍の、小さな筋肉の盛り上がり具合が、興福寺の天燈鬼を彷彿とさせる。抜頭面の裏面には「右依夢想…運慶法師自彫刻」の朱漆の銘文(後銘)がある。瀬戸神社? あ、金沢八景のダイエーに行くときによく通った神社か。

 仏像以上に興味深かったのは、「称名寺聖教教(しょうぎょう)」と呼ばれる文書・典籍の中から抜き出された運慶関係文書の数々。膨大な文書群から、よくぞ抜き出したものだ! たとえば「東寺講堂仁王経道場指図」には、現在の東寺講堂そのままの諸像の配置が記録されている。いま管理人小屋のある隅が「勅使座」だったのか、なんて分かるのも面白い。講堂諸像の修理関係の史料は、よく修理したなあ…と感心するものもあるが、ひどい虫損のままの文書もある。貴重な史料だと思うので、なんとか手当てしてやってほしい。
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異能の人/140年前の江戸城を撮った男 横山松三郎(江戸東京博物館)

2011-01-24 23:21:50 | 行ったもの(美術館・見仏)
江戸東京博物館 企画展『140年前の江戸城を撮った男 横山松三郎』(2011年1月18日~2011年3月6日)

 看板の特別展よりも、私が楽しみにしていたのはこっち。幕末から明治にかけて活躍した写真家、横山松三郎(1838-1884)を紹介する企画展である。私が彼の作品を初めて見たのは、たぶん東博16室(歴史資料)で2006年6月27日~8月20日に行われた特集陳列『日本の博物学シリーズ・日本の城郭』だと思う。私は、このシリーズ、ほぼ欠かさず見に行っているのだが、レポートは忘れてしまうことも多い。にもかかわらず、確認できたのは、東博が当時の紹介ページを残しておいてくれたおかげ。嬉しいっ!

 上記のページにも掲載されている、明治4年(1871)撮影の『旧江戸城写真帖』にはびっくりした。まるで化け物屋敷のような荒廃ぶりである。ただ、このときは、撮影を実現させた蜷川式胤の名前だけ印象に残って(さすが、文化官僚としていい仕事するなあと思って)、撮影者・横山松三郎の名前は記憶に残らなかったような気がする。

 横山の名前に再び出会ったのは、神奈川県立近代美術館(葉山)で行われた『画家の眼差し、レンズの眼』展。ここで初めて、横山ら初期の写真家が、同時に洋画家でもあったことを知る。「目に見えたものを残す(再現する)」アート(技術/芸術)という点で、写真と洋画に大きな懸隔はなかった。

 それにしても不思議な人物だ。だいたい、択捉(えとろふ)生まれって…そんな僻地に生まれて、のちには箱館に移住したにしても、どうやって当時の最先端技術に触れ得たのか、と思って、年譜を読んでみると、安政6年(1859)に箱館は開港してるのか。京都や大阪より、かえって世界に近かったんだな。にしても、文久4年/元治元年(1864)には上海に渡航して、欧米の洋画・写真を見聞している。なんつー行動力。当時、新しい日本の政治体制の実現のために命をなげうつ人々もいたが、こんなふうに、自分の学びたい「技術」を求めて、ひょいと海を飛び越えていく若者もいたのだ。

 展示作品は、まず人物像。横山が自分の興味で撮っているのか、当時の写真にしては形式ばっていなくて、被写体の表情がやわらかい。セルフポートレートはかなりオシャレ。自分のスタジオ風景を残しているのも面白い。明治2、3年の日光撮影時も、撮影隊の仕事の様子を写真に残している。岩の上で意気揚々と帽子を振る横山の姿が微笑ましい。写真機指物師と題した、ちょんまげ姿の職人を写した写真もあって、彼の写真術に対する愛着を感じさせる。

 江戸城撮影では、360度のパノラマ撮影も試みている。のちに気球に乗ってみたり、サイアノタイプ(青写真、日光写真)、カーボン印画、ゴム印画など、さまざまな技法を試し、最後は「写真油絵」という、ほとんど反則みたいな超絶技巧の技を生み出す。これって、日本画や中国絵画でいう「裏彩色」だと思った。

 展示品は、国立博物館蔵と江戸東京博物館蔵に加えて、個人蔵の比率も高い。最後の雑誌『方寸』(明治41年5月)に掲載された追悼記事は、ものに構わなかった横山の人となりを伝えていて面白いので、ぜひ足をとめてお読みください。
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女たち、男たち/「江~姫たちの戦国~」展(江戸東京博物館)

2011-01-24 00:16:26 | 行ったもの(美術館・見仏)
江戸東京博物館 特別展『江~姫たちの戦国~』(2011年1月2日~2月20日)

 後述の企画展が見たくて飛んで行ったのだが、ついでなので、特別展も見ておくことにした。2011年NHK大河ドラマ『江』にちなんだ展覧会である。ドラマのほうは、初回で早くも脱落してしまったが、展示は展示として楽しめるだろうと思って会場に入った。

 冒頭に、初(常高院)に宛てた江の消息。気取った散らし書きでなくて、素直で読みやすい筆跡だと思った。岐阜の栄昌院に伝わったというので、なぜ岐阜?と思ったら、もとは7人の侍女たちが常高院の墓所を守って小浜に庵を結び、栄昌院と称していたが、明治になって、よんどころない事情で岐阜に移ったそうだ(→小浜の常高寺ホームページ)。累代にわたって、ひっそりと女主人の位牌を守り続けた尼僧たちと、それを根底から覆しかけた明治維新の社会の激変を思うと、いろいろと感慨深い。

 教科書などで見たことのある、『浅井長政夫人(お市)肖像』(重文、~1/23展示)は、桃山時代の作とは信じがたいほど色あざやか。面長できりりとした目鼻立ちが、やっぱり信長の肖像に似ている(ちなみに、パネル展示だけだったが、妹のお犬も面長)。上衣は純白、腰に巻いているのは、打ち掛け型の小袖らしい。Wikiに、桃山時代の小袖は「南蛮貿易によるキリシタン文化の影響も受け、特に紅を多用した大胆で派手な柄・色使いの物が多い」という。なるほど。どうも時代劇ドラマが描くこの時代の女性は、ピンクだの萌黄色だの可愛い系に走って、こういう衣装を再現してくれないなあ。同幅は高野山持明院の所蔵(ふだんは霊宝館寄託)。次に高野山に行くときは、ここの宿坊も候補にしよう。

 展示後半では、江と秀忠の子女たちが紹介されていた。彼らの運命も多彩である。千姫(天樹院)、三代将軍家光、後水尾天皇に入内した東福門院和子。娘が入内したと知って、江に源氏物語の明石の上のイメージを重ねてしまった。でも後水尾天皇って女性関係が派手で、おしのびで遊郭にまで出かけたというから、母も娘も悩ましかっただろう。大坂夏の陣の悲劇のヒロイン・千姫は、その後70歳まで存命したとか、秀頼の怨霊に悩まされた彼女のために怨霊鎮めを行った尼僧の慶光院周清とか、当時の女性にもさまざまな生涯があって、誰が幸せで誰が不幸だったかは、ひとくちに言えないことを感じた。

 さりげなく展示されている史料だが、小浜市教育委員会所蔵の『山中橘内書状』(天正20年=1592年5月18日)は面白すぎる!! 山中橘内(長俊)は秀吉の右筆。→「若狭小浜のデジタル文化財」のサイトに「組屋家文書」として紹介されている、たぶんこれだと思う。内容は「秀吉のアジア支配構想」というべきものであって、北京に後陽成天皇を移すこと、北政所も北京に呼び寄せること(とあったと思う。田中裕子の西太后を想像してしまった)、日本との窓口は寧波とすること、朝鮮攻めの諸将は中国の西寄りに領地を得させ、さらに天竺攻めの機会を窺うこと、等々が書かれていた。誇大妄想と言われるけど、けっこう綿密な構想があったんだなあ、ということに驚いた。無責任だけど、面白い。誰か、この構想が実現するという設定で、SF歴史小説を書いてくれないかなあ…。

 もうひとつの企画展『140年前の江戸城を撮った男 横山松三郎』については、稿をあらためて。
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ポジティブに、過剰を求めず/今日もていねいに。(松浦弥太郎)

2011-01-23 00:26:44 | 読んだもの(書籍)
○松浦弥太郎『今日もていねいに。:暮らしのなかの工夫と発見ノート』 PHPエディターズ・グループ 2008.12

 ふだんこの種の本が並んでいる棚には、ほとんど近づかない私が、ふと本書を手に取って、たまたま開いたページに「たかだか百歩」という短文が載っていた。「百歩譲って」という言葉があるが、たかだか百歩くらい、いつでも譲れる。「僕は心の根底に、戦わないというルールを設けました」と書いてあった。

 この種の(と、括ってしまうのは乱暴だが)ライフスタイル本の主流は、楽をして幸せになるための指南書だと思っている。到達目標は、端的に「美貌」や「お金」だったり、「快適な生活」あるいは「ビジネス上の成功」や「成長」だったりもするけれど、要するに他人より少ない労苦で、他人より多くのものを得るにはどうしたらいいか、という競争原理が見え隠れするので、ふだん私はあまり近づかないのだ。

 ところが、「戦わないというルールを設けました」と静かに語る著者が気になって、その日は棚に戻した本書を、翌日、結局買いに行ってしまった。まわりに並んだ著者の本を斜め読みして、松浦弥太郎さんが、ブックストアCOW BOOKSの店長であり、2006年から雑誌『暮しの手帖』の編集長をつとめていることを知った。

 『暮しの手帖』は懐かしい雑誌だ。小学生の頃から、母の本棚に並んでいたバックナンバーをよく読みふけった。商品テストが面白かったのと、「すてきなあなたに」や「エプロンメモ」などのエッセイが好きだった。著者が編集長になって、同誌のリニューアルを手がけてから、「『暮しの手帖』が変わってしまった」「私の好きな『暮しの手帖』を返してください」などの抗議の手紙が何通も届いたというが(やれやれ)、私は著者のエッセイに、むかしの『暮しの手帖』の「ある部分」とよく似た雰囲気を感じた。それは、何を食べるか、何を着るかなど、生活に密着した具体的な「ヒント」を通じて、よりよい人生の実現を望む態度である。誰かを出し抜くためでもなく、将来の成功のためでもなく、ただ「今日もていねいに」。

 これは私にはできないなあ、とお手上げの箇所(静かなしぐさ、手足をいつくしむ)もあるけれど、共感できたのは「自分の使い道」それから「自分のデザイン」「心地よいリズム」。著者はいつも自分を観察することから始める。流行や他人にわずらわされない。思考はポジティブに、しかし過剰を求めない。

 あと、日ごろから「選ぶ訓練」をしておくと、直感や想像力が鍛えられ、巨大な古書店で膨大な古本の山を見ても「この大きな景色のあそこに宝が埋まっている」と瞬間的に分かるし、本を読んでいても、全体の中から自分に必要な言葉がパッと見つかるという。これは分かるな。私の本書との出会いが、まさにそんな感じだったから。
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建物公開+朝香宮のグランドツアー(東京都庭園美術館)

2011-01-21 23:55:43 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京都庭園美術館 建物公開『朝香宮のグランドツアー』(2010年12月11日~2011年1月16日)

 旧朝香宮邸と呼ばれる東京都庭園美術館に、この前、来たのはいつだっただろう。記憶をたどってみると、もう20年近くも前のことではないかと思う。今回は、この邸宅の主人だった朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう)に光をあてる展覧会で、建物公開も同時に行われる。1階の主要部分は写真撮影もOKというのがうれしい。で、最後の週末になってしまったが、行ってきた。

 まず、1階のアール・デコ様式を堪能したあと、展示会場となる2階へ。朝香宮鳩彦王(1887-1981)は、陸軍大学校を卒業後、1922年(大正11年)フランスに留学する。会場には、当時のゴツい革製トランクがいくつも積まれていた(海外ブランド品じゃないのね?)。すでに明治天皇皇女允子(のぶこ)内親王と結婚し、2人の息子、2人の娘のいた鳩彦王は、船旅の途中から、まめに絵葉書(写真やイラスト)を送っている。ただし、裏書は「上海カラ、ゴキゲンヨウ」みたいな1行だけだったりする。

 留学中、義兄の北白川宮成久王の運転する自動車が交通事故を起こし、成久王は死去、同乗していた鳩彦王は重傷を負った。事故車の一部(ラジエーターグリル)が残っていることに驚く(→”当館蔵”だそうだ)。しかし、何が幸いするか分からないもので、鳩彦王の看病のため渡仏した允子妃とともに、夫妻は、1925年のパリ万国博覧会を観覧する機会にめぐまれ、このことが、のちにアール・デコ様式の朝香宮邸を生むきっかけとなったと言われている。

 パリ万博(1925年)の絵葉書もたくさん残っていて面白かった。アール・デコ博の異名もある博覧会だが、実は「古代エジプトなど古典古代の芸術、欧州各国の植民地となったアジア・アフリカ地域の装飾、アステカの芸術、日本の装飾文化など」多様な様式が無秩序(!?)にひしめく博覧会だったことが窺えた。

 帰国後、アール・デコ様式の新宮邸を建設するのに尽力したの允子妃だという。写真の肖像からは、健康的で快活な知性が感じられる。それなのに、竣工のわずか1年後、42歳で急逝というのは若すぎる。一方の鳩彦王は、激動の昭和を生き抜いて、1981年、93歳で死去。この世とあの世に別れ別れの長い晩年のことを知って、二人一緒の写真を見ると、あらためて感慨深い。

 邸内の写真はフォトチャンネルにあげてみました。
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