見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

2015年夏:行ったもの拾遺(関西&東京)

2015-07-29 22:50:22 | 行ったもの(美術館・見仏)
京都国立博物館 名品ギャラリー(2015年7月25日)

 まだ書いていなかった展覧会のレポートをまとめて。先週末は、奈良博のあとで京博にも寄った。特別展のはざまで、常設展のみだったが問題なし。中世絵画は『個性の画家・雪村』(2015年7月7日~8月9日)で、鯉にまたがる『琴高仙人・群仙図』、龍の頭に乗った『呂洞賓図』など水墨画の名品だけでなく、え?こんな絵も描いていたの?と驚く、彩色の草花、中国ふうの官女図など、バラエティ豊かだった。近世絵画『龍虎-仏法の守護神-』(2015年7月7日~8月9日)には、建仁寺の巨大な『雲龍図』(海北友松筆)が登場。3階のギャラリーからも目を引く。1階では、奈良博の『白鳳』展にあわせてか、小金銅仏の小特集(2015年6月30日~9月13日)。岡寺の菩薩半跏像は、なぜ奈良博に出陳されなかったんだろうと思ったが、時代は「奈良」で、少し新しいのだな。京都・大興寺の木造十二神将立像(巳神と午神、鎌倉時代)もよかった。現場では自信がなかったけど、2013年春の非公開文化財特別公開で拝観したことがあるのを、いま確認。

京都国際マンガミュージアム 企画展『マンガと戦争展 6つの視点と3人の原画から』(2015年6月6日~9月6日)

 これは今月初めにショートステイの関西旅行をしたとき、見に行ったもの。しかし、思った以上に衝撃が強くて、感想が言葉にならなかった。もはや古典というべき戦争マンガ、中沢啓治『はだしのゲン』や水木しげる『総員玉砕せよ!』、雑誌連載時に読んでいた松本零士『音速雷撃隊』など、なつかしい作品に加え、新しい三人の作家、おざわゆき、今日マチ子、こうの史代を紹介する。いずれも作品の一部がパネルで展示されており、じっくり読み込んでしまう。戦後日本の思想と「文学」を語る上でも、これらマンガの到達点と影響って、無視できないんじゃないかな、と感じた。

渋谷区松濤美術館 『麗しき(うるわしき)日々への想い-北京藝術博物館所蔵名品展-』(2015年6月9日~7月26日)

 北京市内の古刹万寿寺にある北京藝術博物館の所蔵品から、明清時代の宮廷で用いられた染織・金工・陶磁器などの工芸品などを展示。西太后自筆の書画もあり、全体に女性好みの品が多かった。北京もしばらく行っていないなあ。

出光美術館 『没後180年 田能村竹田』(2015年6月20日~8月2日)

 幕末の文人画を代表する田能村竹田(1777-1835)の特集展示。以前の私は「奇想」の江戸絵画には引かれても、穏やかな風景に理想の境地を見出す「文人画」には、全く興味を感じなかった。それが不思議なもので(年齢のせい?)最近、文人画や南画と言われる作品を見ると、妙に気持ちが落ち着くようになってきた。連日の猛暑と緊張を要する仕事が続いて、ややバテ気味だったところ、本展は、ほどよい疲労回復の薬となった。中国絵画の伝統に忠実な竹田の作品は、山水画でも、必ずその中に小さく人物を配する。本展では、作品ごとに、人物の描かれた部分を引き伸ばしたパネル(シール)を添えるという展示方法が取られていて、とても面白かった。本場中国の山水図や、池大雅や与謝蕪村、浦上玉堂らの作品もあわせて展示。でも、あわせて見ると、やっぱり大雅や蕪村のほうが上手いなあ、と感じてしまう。
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奈良のうどん+京都のデザート

2015-07-28 21:01:12 | 食べたもの(銘菓・名産)
週末の関西見仏歩き。京都在住の友人に、めずらしいお店を教えてもらった。

奈良博のあとは、もちいどのセンター街の入口にある「麺闘庵(めんとうあん)」で遅い昼食。
巾着きつねうどんは、おあげの巾着の中に細めのうどんが入っている。



京都に戻って、京博の常設展を見たあと、神宮丸太町の台湾カフェ「微風台南」でひとやすみ。
仙草ゼリー・あずき・タピオカ・芋圓・豆花など、冷たい美味の盛り合わせにかき氷がかかっていた。



注文を取りにきたお姉さんが、あまり日本語を喋れなくて、思わず中国語で意思疎通してしまった。
ゆるくてレトロな内装が、いい雰囲気。クーラーが効いていなくて蒸し暑かったが、次は気候のいい時期に、軽いごはんを食べに来たい。
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仏像好きの至福/白鳳(奈良国立博物館)

2015-07-28 01:23:15 | 行ったもの(美術館・見仏)
奈良国立博物館 開館120年記念特別展『白鳳-花ひらく仏教美術-』(2015年7月18日~9月23日)

 「白鳳」は7世紀の半ばから8世紀初頭(平城京遷都まで)を指す。文化史や美術史ではなじみの時代区分だが、年号としては、寺社縁起や地方誌に多数散見されるにもかかわらず、日本書紀に見えないため、歴史学では使わないことが多い。今回の展示図録の凡例にも「今日の国立博物館では時代の表記に『白鳳時代』を用いず、政治史の時代区分にのっとり『飛鳥時代後期』あるいは『飛鳥時代後期(白鳳期)』と表記しているが、この展覧会では『白鳳時代』を用いることとする」と、わざわざ断り書きしてある。

 「白鳳」と聞いて、私が最初に思い浮かべるのは薬師寺の諸仏である。薬師寺は好んで「白鳳伽藍」をキャッチコピーに使っていたような気がする。一方で、東博の法隆寺宝物館にあるような小さな金銅仏は「飛鳥時代」という整理をしていて、白鳳仏というイメージがあまりなかった。今回の展覧会は、大きさも容姿もさまざまな白鳳仏が全国から大集結していて、この時代の文化の広がりと多彩さを感じることができる。リストによれば、展示品総数は148件とあるが、半数以上は仏像(塑像片や押出仏を含む)じゃないかな。

 冒頭には、東博でよく見る中国・唐時代の十一面観音菩薩立像(多武峰伝来、木造)。頭部が大きく童子形のプロポーションなのに彫りの深い顔立ち、大きな瓔珞や耳飾など、エキゾチックな雰囲気を持つ。白鳳時代の始めに将来されたと推定されることから、本展の冒頭を飾っているようだ。ただ、私は白鳳文化には、大陸よりも朝鮮半島との近縁性を強く感じた。

 それから典型的な、小さな金銅仏が並ぶ。お腹の前に両手で宝珠を抱いた観音立像。お椀を伏せたような台座に座す半跏思惟像。法隆寺献納宝物の菩薩半跏像(丙寅銘)は、縦に細長い風貌が印象的だった。面長の顔面は途中で折れているように感じる。大阪・野中寺の半跏像にも久しぶりに再会できた。

 山田寺跡から出土した瓦、塼仏などに続いて、興福寺の山田寺仏頭の写真パネルに「展示期間 8月18日~27日」とあるのを見つける。え、仏頭もここに持ってきちゃうわけ? 驚きながら、展示室の角を曲がって、第二ゾーンが視界に入り、陸続とつらなる金銅仏の列に、さらに驚く。解説に「表情が山田寺仏頭に似る」とあったのは、吉野・桜本坊の如来坐像。確かに顔の表情は厳しいのだが、ロココ調のロングドレスのようなたっぷりした着衣が愛らしい。パンチパーマでドレスを着ている大阪のおばちゃんみたい。これは以前、大阪市博の『山の神仏(かみほとけ)』で見ている。

 兵庫・鶴林寺の観音菩薩立像は、正面から見ると顔が左右に肥大気味で、首が太く、細すぎる腰、小さすぎる手など、あまりにもアンバランス。しかし、そのアンバランスが魅力的なのだ。側面から見ると、一転して整ったシルエットになる。鶴林寺には2012年に訪ねていて、いちばん気に入った「あいたた観音」というのが、この仏像らしい。兵庫・一乗寺の観音菩薩立像もいらしていたが、これは秘仏ご本尊ではなくて、宝物館にいらしたほうだろう(2009年に拝観の記録あり)。大分・柞原八幡宮の如来立像はシンプルな造形で、ポーズが仏像らしくないのも可愛い。2014年の福岡市『九州仏』展で気に入ったもの。

 奈良・正暦寺の伝薬師如来倚像や東京・深大寺の釈迦如来倚像は、おお~来てる、と感心したが、展示室の中央に薬師寺の聖観音が立っていらしたのにはびっくりした。正直なところ、東博が所蔵する、明治時代の模作ではないかと思って近づいたら「国宝」の文字が目に入った。ホンモノ!! こんな至近距離から、しかも360度の周囲から拝観させていただくのは久しぶりである。どの角度もいいが、私は後ろ姿の完璧な気品が好き。明朗で若々しい白鳳彫刻の魅力を代表する仏像だと思う。

 京都から来てくれた本日の連れと「薬師寺、これを出陳しちゃっていいんですかね」「この夏、薬師寺に行く人かわいそうよね」と言い合って進むと、視界を区切られた会場の一角に何やら巨大なものの気配が。薬師寺金堂の月光菩薩だった。これには絶句…。金堂の薬師三尊像は、金色の光背を背景に「黒さ」が印象に残るが、この会場では控えめな照明のせいで、なんとも言えない微妙な色味に見える。濡れたような、呼吸をしているような銅の色。奈良博の仏像の見せ方は超絶すごい。

 これでようやく東新館が終了。西新館に移っても金銅仏の列が絶えない。遠目に会場の様子を一瞥した瞬間、あの子だ!と思ったのは、兵庫・一乗寺のあまりにも頭部の大きい(吉田戦車ふうシルエットの)観音菩薩立像。2008年、ここ奈良博の『西国三十三所』展で衝撃の出会いをして以来、大好きな仏像である。その隣りにあった大阪・観心寺の菩薩半跏像もちびまる子ちゃんふうに頭部が大きくて可愛い。今年1月、京博の『島根鰐淵寺の名宝』で見た金銅仏に再会できたのも嬉しかった。鳥取の大山寺にも白鳳仏があるのだなあ。

 法隆寺からは、当然、たくさんの仏像と工芸品が出陳されている。著名な夢違観音も。法輪寺の伝虚空蔵菩薩立像(法隆寺伝来)は、この時期にはめずらしい木造。ポスターのビジュアルに使うには地味な容姿だが、企画者としては「推し」の仏像なんだろうな、と思う。橘夫人念持仏は、阿弥陀三尊像、台(蓮池)及び後屏、厨子の3つのパーツに分けて展示されていた。敷台の蓮池がなくて、三本の蓮がにょっきり立ち上がった図はシュールだったが、工芸の巧みを隅々まで味わうには、この展示方法でよかったのかもしれない。当麻寺の持国天立像(脱活乾漆造)は、用心棒ふうにものかげに佇んでいた。リアルな髭の表現に感心する。

 西新館後半は、法隆寺献納宝物の龍首水瓶から。周囲に天馬が描かれている。押出仏や塑像片など、小さめの展示物が多数ある中で、異彩を放っていたのは、愛知県岡崎市・真福寺の仏頭(塑像)。両耳から後頭部を欠き、ほぼ顔面しか残っていない。ふかふかの枕に慎重に寝かされていたが、全長50センチ近く、存在感があり過ぎる。

 以上、いくらでもレポートは書けるが、このくらいで止めておく。図録は内容の充実度とは裏腹に、物理的に軽量化されていて、ありがたかった。いちおう主催に読売新聞社が入っているが、秋の正倉院展のような派手なプロモーションはおこなっていない。関東地方にいると、全く情報が入ってこない状態である。ポスターも手作りっぽいし、専用ウェブサイトもないし。集客活動よりも「博物館が主体的に、とにかくやりたい企画に全力注入したということなんじゃない?」というのが、私と連れの感想だった。仏像好きにとっては、たぶん10年に一度クラスの至福の展覧会。見逃して後悔することのないよう、強くおすすめしたい。
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2015祇園祭・後祭

2015-07-26 17:24:03 | 行ったもの(美術館・見仏)
7月24日(金)所用のため京都に出張することになった。少し早めに到着して、祇園祭・後祭(あとまつり)の山鉾巡行が、四条烏丸に終着するところを見物。

山鉾巡行を二回に分けるのは、本来の祇園祭の姿に戻したもので、2014年から始まった。17日の前祭(さきまつり)で23基の山鉾が巡行した後、24日の後祭(あとまつり)では10基の山鉾が巡行する。

「くじ取らず」で後祭の巡行の1番目に行く橋弁慶山に続くのは北観音山↓。装飾品が中国風で、私の好きな山だ。



役行者山↓は、法螺貝を吹き鳴らして修験者一行が先導する。白黒の縦縞の半被が派手。



八幡山、鈴鹿山に続いて、南観音山↓。後ろに青々とした柳?の枝を垂らしている。北観音山もそうだった。



鯉山(異国風のタペストリーを飾る)、黒主山、浄妙山が過ぎると、いよいよ、最後に大船鉾。実は昨年、150年ぶりに復興される大船鉾が見たくて、小雨の中、鉾建て(組立て)の様子を見に行った。今年は、完成された雄姿を見ることができて、大満足である。



目の前にせり出して来たときは、一瞬、自分が洛中洛外図屏風の中にいるような気持ちになった。



最近、四条通りの歩道が拡張されたことは、観光客にとってはありがたい。車道が狭くなって、京都市民は迷惑しているらしいが。あと、少なからぬお店が入口を開けて、店内の冷気を歩道に流してくれているのは、大変ありがたかった(中国の街みたいだと思った)。
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映画は映画/『ジョン・ラーベ』大上映会

2015-07-23 23:23:10 | 見たもの(Webサイト・TV)
○フローリアン・ガレンベルガー監督・脚本『ジョン・ラーベ ~南京のシンドラー~

 見たいと思っていた映画の自主上映会に行ってきた。情報をキャッチしたのは6月の初めで、すぐに予約のメールを入れた。それで安心していたのに、当日、一ツ橋の日本教育会館に行ってみたら、開場時間(13:00)を過ぎたばかりというのに、大勢の人が道路に列を作っていた。会場であるホール(800名収容)はもう満席状態で、関係者用にキープされていた最前列の2列を開放してくれたので、なんとか最前列に座れた。それでも座れなかった人は、別室の第二会場に案内されていた。

 ドイツ人ジョン・ラーベ(1882-1950)は、シーメンス社の社員として中国に駐在中、1937年12月、日本軍による南京攻略戦に遭遇し、南京安全区国際委員会の委員長となって、民間人の保護に努めた。後年、その日記が発見・出版されて、事蹟が知られるようになった。映画はラーベの日記を大幅に脚色したものと言われている。2009年に制作され、同年のドイツ映画賞で7部門中4部門の賞を受賞した。

 私は、わりと早い時期にこの映画の評判を聞いて、見たいと思っていたのだが、日本では配給の見通しがないと聞いて落胆していた。2014年春頃から、主に首都圏で単発の自主上映会が企画されるようになった。北海道・札幌の住人だった私は、歯噛みしながらそれらの情報をチェックしていた。そして、この春、本州に戻ってきて、ようやく念願の上映会に参加することができたのだ。

 作品は、まあ、こういう表現は妥当でないかもしれないが、観客を飽きさせない戦争映画だった。次々と波状的に襲ってくるスリルと恐怖。空からの爆撃、愛する者を守るための別れ、物資の不足、仲間との対立、狂気のような大量殺戮、女性に忍び寄る暴力など、戦争状態の非人間的な側面が、手をかえ品をかえて描かれる。ドイツ映画賞の美術賞・衣装賞を取っただけのことはあって、画面は美しい。当時の中国における欧米人コミュニティの華やかさもちらりと見せてくれるし、灰色の石垣、灰色の服を着た人々の伝統中国の風景、さらには、ところどころに血しぶきの跡が残る廃墟の光景さえも、絵画のような趣きがある。

 主人公は、特別な博愛主義者や理想主義者ではなく、ひょんなことから面倒な委員長にかつがれてしまった、妻を愛する平凡な会社員として描かれている。彼とともに南京安全区を守った他の欧米人たちも同様で、感情移入がしやすい。日本軍人役としては、香川照之、井浦新(ARATA)、柄本明、杉本哲太が出演している。このキャスティングも、私がこの作品を見たいと思った一因だった。朝香宮鳩彦王役の香川照之は、表情にも声色にも感情を出さない演技に徹していたように思う。柄本明(松井石根大将)、杉本哲太(中島今朝吾中将)は、期待したほど見せ場がなかった。いちばん美味しい(?)役は、創作人物であろう小瀬少佐を演ずる井浦新で、言葉に出せない内心の苦悶や葛藤を、繊細な演技で表現していた。安全区国際委員会の欧米人たちに、重要な情報をそっと漏らす場面もある。

 今回の主催者は「7・20『ジョン・ラーベ』大上映会実行委員会」を名乗っているが、いくつかの労働組合の協力を得ていたようで、それらしい雰囲気の観客が多かった。冒頭、関係者の挨拶では、日本の戦争責任を否定する勢力に対する異議が表明され、威勢のいい拍手で応える観客もいたが、うーん、個人的には興ざめな感じがした。私は、この映画、「娯楽」として鑑賞したかったのである。「娯楽」であるから、史実と異なる創作が混じっていても、いちいちとがめだてる必要は感じない。ひとつの作品として、うまく処理されていれば、それでいいのだ。

 上映実行委員会のFacebookによれば、直前まで席の半数くらいは売れ残っていたようだが、7/15の朝日新聞が記事に取り上げたことで、当日は1200人くらいがつめかけ、第二会場にも入れなかった200人はお帰りいただいたそうである。大反響だったということで、実行委員会は嬉しそうだが、正直なところ、鑑賞に集中できる環境ではなかった。作品に対するリスペクトがあるなら、もう少し運営に配慮があってほしかったと思う。今後、見に行く人は、上映会の規模と主体を選んだ方がいいと思うな。
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小栗判官絵巻を見逃すな!/絵巻を愉しむ(三の丸尚蔵館)

2015-07-21 23:14:52 | 行ったもの(美術館・見仏)
三の丸尚蔵館 第69回展覧会『絵巻を愉しむ-《をくり》絵巻を中心に』(2015年7月4日~8月30日)

 皇室のお宝を展示する三の丸尚蔵館で、絵巻の展覧会があると知って行って来た。小さな会場なので作品数は少ないが、貴重な名品揃いで眼福だった。まず冒頭は『彦火々出見尊絵巻』(江戸時代、17世紀)。「海幸山幸神話」と言って、いまの若者は分かるのかな? 私は子どもの頃、児童書版で読んだ記憶があるけれど。

 絵巻の原本は、12世紀末に後白河院の命によって制作され、若狭国小浜の新八幡宮に伝わり、いつの頃か明通寺に移された。その後、酒井忠勝が徳川家光に献上した記録の後、行方不明になったという。明通寺にも同時期の模本があり、展示品は「明通寺本を模写し直したもの」ではないかという(図録解説)。色彩は鮮やかで、その分、やや平板な感じがするが、人物や景物の形態に乱れがなく、丁寧な模写だと思う。龍王宮の女官たちの髪形や服装がみんな見事に唐風。尊(みこと)が失くした釣針を探す、龍王宮の下っ端たち(半裸、ざんばら髪で鬼のよう)の動きが生き生きしていて、いかにもこの時期(12世紀末)の絵巻らしい。少し位が上なのか、変な動物(亀?麒麟?)に騎乗している者もいる。

 『酒伝童子絵巻』(江戸時代、17世紀)は、頼光らが出立の準備をしている第1巻と、まさに酒伝童子の首が飛んで、頼光の兜に食らいついている第4巻が開いていた。画面の上下を贅沢に覆った金泥の雲が豪華。酒伝童子惨殺シーンでも黒雲の中に輝く雷光が金粉・金泥で表されていて、暗い会場で見ると、妖しく輝く。『若蘭絵巻』は、本展では唯一、中国・明時代(16世紀、絹本)の絵巻。詞書はなく、冒頭に璇璣図(せんきず)と呼ばれる回文詩が書きつけられている(これは図録解説で知った)。絵画としては巧みで美しいが、日本の絵巻に比べると、動きや感情表現が少ないなあ、と思う。

 『絵師草紙』(鎌倉時代、14世紀)は、今回の展示品では、とびぬけて古いもの。あ、皇室の所蔵品だから、国宝とか重要文化財じゃなかったんだ、とあらためて納得。絵ヅラが地味なので、立ち止まって眺める観客が少なかったが、当時の人々の暮らしが分かって面白い。ボロ家に暮らす絵師だが、調度棚には、赤黒に塗り分けた器や、青磁(?)の水注みたいなものも見える。寝そべった子供たちがお絵かき(模写?)して遊んでいる図も。

 そして真打ちが『をくり(小栗判官絵巻)』全15巻(江戸時代、17世紀)。岩佐又兵衛とその工房で制作されたものと考えられている。展示は第1巻、小栗誕生の場面。第8巻、照手姫の見た不吉な夢。死装束の小栗が馬の背に反対に乗り、北へ向かっていく。前後を取り囲む僧侶の大集団が圧倒的。第11巻、閻魔大王が小栗を現世に送り返す図。藤沢上人への言伝てを小栗に与える場面と、裸の小栗を従え、虚空を杖で一打ちし、咆哮する場面が開いている。巨大な閻魔大王、カッコいい! 第13巻は、餓鬼阿弥と名づけられた亡者同然の小栗が、土車に乗せられ、熊野に向かう。こんか坂(不詳)で置き去りにされるも、通りがかりの山伏たちが背負って湯の峯温泉に連れていく(また山伏たちがカッコいい!) 7日目に目が開き、14日目に耳が、21日目に口が、そして49日目に 小栗は蘇生する。蘇生してもあまり美男子でないところがよい。

 いま調べたら、2009年の東博『皇室の名宝』で公開されたのも、巻1、11、13だった。今回、展示替えしてくれるのかなあ。図録および会場には他の巻の写真も掲げてある。この絵巻、「大小」の感覚が全くリアリズムでないのがすごく面白い。閻魔大王だけでなく、小栗を見初める(そうだったのか!)深泥池の大蛇(龍)や、荒馬・鬼鹿毛の異様なデカさ。「強さ」は視覚的に「大きさ」で表される。少年マンガの約束事みたいだ。それからモブ(集団)シーンの迫力。巻7の小栗を乗せて疾駆する鬼鹿毛と驚く侍たちの場面は、劇画かアニメーションか。ホンモノが見たいい~。

 本絵巻は、明治28年(1895)日清戦争の折に広島大本営において、池田家当主長準が明治天皇に披露し、後に献上したものであるそうだ(展示図録)。後学のため、ここにメモ。本展の図録は、写真も多く(質と量がほどよい)解説も親切で、お買い得だった。『住吉物語絵巻』(室町時代、16世紀)の展示は8/1(土)から展示とあったと思う。来月、もう一回行きたい。
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古代ローマ貴族の言い分/奴隷のしつけ方(ジェリー・トナー)

2015-07-20 10:13:24 | 読んだもの(書籍)
○マルクス・シドニウス・ファルクス著;ジェリー・トナー解説;橘明美訳『奴隷のしつけ方』 太田出版 2015.6

 何世代も前から多くの奴隷を所有してきた古代ローマ貴族のひとりマルクス・シドニウス・ファルクスが、北方の不毛な属州で教師をしている(=英国ケンブリッジ大学の古典学研究者)ジェリー・トナーの協力を得て、奴隷の扱い方について、未開の民にも分かるように書いた著書。という体裁になっている。

 マルクスは古代ローマ人であるから、社会に奴隷が存在するのは当たり前のことだと思っている。「現代でいえば車を持ったり猫を飼ったりすることと大差ありませんでした」とトナー博士は解説している。奴隷には田舎の農場で働かせる場合と、家内の雑用を任せる場合があった。洗濯、掃除、買い物、給仕、少し学があれば、子どもの家庭教師や主人の手紙の朗読・代筆、帳簿の管理も行った。美少年を侍らすこともあった(エジプト人がよかったらしい)。ステータスを誇るのため、必要以上に多くの奴隷を所有する場合もあって、客人の名前を呼ぶ仕事だけに従事する奴隷もいたそうだ。

 主人を守ることも奴隷の役割だった。主人の身に危険が及んだときは、身を挺して主人を助けなければならない。戦乱や、賊に襲われて主人が命を落としたのに、後に生き残った奴隷は、法によって処刑されることになっている。そうは言っても、奴隷の「忠誠心」を得るためには、主人にも心構えが要る。つねに威儀を失わず、公正に振舞い、いい振る舞いにはきちんと報いること。罰することは必要だが、残忍になってはいけない。「主人とは、学んでなるものだ」「主人であることは一つの技能だ」とマルクスは言う。古代ローマでは、家長の管理下にある自由人と奴隷の全体を「ファミリア」と呼んだ。

 このへんを読んでいると、古代ローマの「奴隷」というのが、その言葉の(日本的な?)イメージほどには「市民」と隔絶していなかったように思えてきた。現代の経営者と労働者(被雇用者)の関係にも似ているのではないか。まあ日本の経営者と労働者の標準的な関係が、あまりにも近代化されていないから、こう感じてしまうのだけど。

 だが、古代ローマ人が奴隷を本質的に劣った存在と見ていたことや、気まぐれで奴隷に与えていた体罰(目をつぶしたり、手足を折ったり)や、嫌疑をかけられたときの拷問の記述を読むと、さすがにこれは古代の習慣だと思い直した。一方で、近世以前の地主と小作人の関係とか、貴族と家人あるいは武士の関係はこんなものかもしれない、と思ったりもした。

 それから、奴隷は生得的に市民と異なるとされながら、「解放奴隷」という制度があったことも、忘れがちな視点。ローマは多くの奴隷を解放し、市民社会に取り込んでいった。中には、大きな権力と莫大な富を手に入れたり、学者や作家として業績を残した解放奴隷もいる。解放奴隷が野心に取りつかれるのはよくあること、という記述を読んで、ちょっと中国の宦官制度を思い出した。

 古代ローマをよく知らない私にとって、非常に面白かったは「奴隷の楽しみ」の章に見られるサトゥルナリア祭の記述。12月17日に始まり、何日間も続く熱狂的などんちゃん騒ぎ。祭りの間は階級がなくなり、価値観が逆転し、ふだんはいい行いとされるものがそうでなくなり、下品で、冒涜的な振る舞いが良しとされる。奴隷たちは籤引きで王を選び、選ばれた者は王冠をかぶり、次々におかしな命令を出す。祭りの最後の儀式で王が殺される(象徴的に)と全てが終わる。これは、文化人類学や民族学でしばしば言及される「冬至の祭り」のこと。「王殺し」というモチーフは、80年代に少し流行った。丸谷才一さんの『忠臣藏とは何か』とか、萩尾望都の『偽王』がなつかしい。

 この「価値観の逆転」や「王殺し」は、哲学的に深遠な意味をもたせて語られることが多いと思っていたが(私の読んできた本がそうだった)、著者がわりと平明に「祭りをきっかけに、緊張がほぐれることで反目や内輪もめが解決する」「ルールのない社会の混沌を体験することで、序列や規範の大切さを再認識する」等、その効能を解説しているのが興味深かった。こういう楽しい本を書いてくれる学者先生は大好きである。
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クーラー取付工事完了(ようやく)

2015-07-19 23:48:51 | 日常生活
18日(土)に、ようやく宿舎にクーラー(エアコン)が付いた。

札幌では2年間、宿舎は冷房なしで問題なく暮らしていたのである。うそみたい…同じ日本と思えない。

4月に引っ越してきて、ああ、クーラーを買わなければ、と思いながら、7月に入っても涼しい日が続いていたので、油断していた。先週末、慌てて家電量販店に行って、購入し、工事を予約してきたものの、1週間が辛かった。扇風機が止まると寝ていられなくて、寝不足。一度はあやうく遅刻しかけた。



これでやっと人心地。慌てて買いにいったので、つい価格帯の比較検討もせず、妙にデカい、高性能機種を買ってしまった。が、長時間つけていても寒くならないし、音も静かなので、投資に見合う性能だと思っている。

ほんと幸せ。
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2015年上半期のテレビドラマあれこれ

2015-07-17 22:07:34 | 見たもの(Webサイト・TV)
 そう言えば最近、テレビドラマのことを何も書いていなかった。もともとあまりテレビを見る方ではない上に、4月からBSが見られない環境に逆戻りしてしまったが、なんとなく面白いドラマを嗅ぎ分けて、つねに1作くらいのペースで見ている。

■TBSテレビ60周年特別企画『天皇の料理番』(2015年4月26日~7月12日、全12回)

 宮内省大膳職司厨長(料理長)を務めた秋山徳蔵(ドラマでは篤蔵)を描いた、杉森久英の同名小説が原作。私の同世代は、1980年に放映された堺正章バージョンを懐かしみ、比較している人が多かったが、私は旧作を全く見ていないので、ストーリーが全く分からず、新鮮な気持ちで楽しめた。

 脚本が『JIN-仁-』『ごちそうさん』の森下佳子さんだと聞いたときから、面白くないはずがないと思っていたけど、期待以上だった。何も特別なことのない日常の描写から感動を呼び起こすところ、逆に本当に「涙と感動」が作れそうな絶好のシーンを脱臼させて、泣き笑いさせるところ、相変わらず心憎いほど巧い。平易な言葉なのに心に染み入る名セリフがいくつもあった。主演の佐藤健をはじめ、黒木華、鈴木亮平、みんな巧かったなあ。脚本の素晴らしさが役者魂に火をつけるんだと思う。脇役のひとりひとりまで、ドラマに描かれていない人生の厚みを感じさせるような人物造形だった。

 そして、特筆しておきたいのは、放映から7日間(次の回が始まるまで)公式サイトで無料配信がされていたこと。私は全12回のうち2回くらい、本放送を見損ねて、この無料配信のお世話になった。もしこのサービスがなかったら、途中で見るのを止めていたかもしれないし、視聴を続けたとしても、見逃し回の不満と心残りを引きずっていたと思う。無料配信があるにもかかわらず(否、だからこそ)終盤の視聴率はどんどん上がった。ぜひ、こうしたサービスを拡大してほしいと思う。

■NHK土曜ドラマ『64(ロクヨン)』(2015年4月18日~5月16日、全5回)

 横山秀夫原作。昭和64年(1989)D県警管内で少女の誘拐殺人事件が起きた。時は過ぎ、時効間近の平成14年(2002)、再び新たな誘拐事件が発生し、二つの事件は意外なかたちで収斂していく。ミステリーファンには評価の高い、有名な作品らしいが、私は全く知らなかったので、やはり新鮮な衝撃を受けた。個人的には脚本の大森寿美男さんが好きなので、長編を破綻なくまとめた(しかも緊張感を持って)脚本をホメたいのだが、音楽も映像も演出もカッコよくて、脚本が目立たなかったのは仕方あるまい。特に音楽(『あまちゃん』の大友良英さん!)は、日本のドラマだと思えないくらいカッコよかった。俳優陣もよかった。ほとんどオジサンばかりだったけど。そして、やはり主演のピエール瀧は群を抜いていた。

 しかし、この作品は残念ながら視聴率は取れなかった。1時間、緊張の連続を強いるドラマって、受けないんだな。でも少数の視聴者に長く熱狂的に語り継がれるドラマだと思う。

■フジテレビ『デート~恋とはどんなものかしら』(2015年1月19日~3月23日)

 古沢良太脚本によるオリジナル作品。数々の恋愛ドラマの名作を生んだ「月9」枠のドラマである。私が「月9」ドラマを見るなんて、一生ないだろうと思っていたが、ツイッターのTLにやたらと高評価が流れてくる。確か、初回~2回くらいまでは有料オンデマンドで見て、面白かったので、オンタイム視聴に切り替えた。年度末に異動と引っ越しを加えた多忙の中で、時間をやりくりして最終回まで見続けた。恋愛力ゼロの理系エリート公務員女子(杏)とニートでオタクの文学青年崩れ(長谷川博己)のドタバタ恋愛ドラマ。かつて「月9」が得意とした、お洒落でトレンディな恋愛ドラマのパロディのようでいて、実は王道の恋愛ドラマだった。最後は素敵なハッピーエンドで、自分の生きている世界が明るく見える感じがした。

 以上、どれも終了して、ますます記憶の中で輝くドラマ。いまは、先週、初回を視聴した『ど根性カエル』が気になっている。これらと並んで、記憶に残る作品になるかどうか。
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ファシズムよりも恐ろしいもの/反知性主義とファシズム(佐藤優、斎藤環)

2015-07-16 23:28:42 | 読んだもの(書籍)
○佐藤優、斎藤環『反知性主義とファシズム』 金曜日 2015.5

 雑誌『週刊金曜日』をベースに企画された対談らしいが、誌面に掲載されたものかどうかはよく分からなかった。佐藤優、斎藤環の両氏は、タイプはかなり違うが、さまざまな媒体で活躍する人気の論客。私もいくつかの著作は読んできている。そして、私もおふたりと同世代なので、「おわりに」に佐藤優氏が挙げている「鉄人28号、宇宙少年ソラン、W3(ワンダースリー)、ひょっこりひょうたん島」等々、子どもの頃見たテレビ番組も共通しているし、社会的な流行、事件、日本の景気の浮き沈みなど、対談の背景として参照される事柄には、感覚を共有する点が多い。

 その一方、本書に取り上げられている三つのテーマ「AKB」「村上春樹」「ジブリアニメ」は、日本の現代社会を語る上で重要なキーワードであるにもかかわらず、私は、全く関心がない事項なのだ。本書を読み始めてからこんなことをいうのも変だが、議論の前提がサッパリ分からなくて、本当に頭を抱えてしまった。でも、そこを手探りで読んでいくのは、なかなかスリリングで楽しかった。

 「AKB」の章では、濱野智史『前田敦子はキリストを超えた:〈宗教〉としてのAKB48』(これも読んでいない)を題材にアプローチする。まあファン心理を〈宗教〉に喩えるのは、よくある着想だ。佐藤氏の「AKBが世界宗教になって出て行こうとしても宗教が間に合っているところには浸透しないでしょう」とか「AKB信者になるハードルって、民青と同じくらい」(斎藤氏いわく、ももクロは革マル派?)とか、しれっと真面目な批評を返しているのが面白かった。

 第二章は、村上春樹の最新長編小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を取り上げる(読んでない)。初期作品にあったジョークや、冗談めかした比喩が減ってきている、という指摘が気になった。私は、あの文体があまり好きではなかったので、そう聞いて、読んでみたくなった。あと、村上春樹が河合隼雄に入れ込んでいるというのは初めて聞く話で、同じ業界(精神科医)の斎藤氏が、それを訝っているのが面白かった。

 第三章は、ジブリの長編アニメ『風立ちぬ』(見てない)を素材に、両氏の見解が対立。(実はプロペラ機マニアの)佐藤優氏は、堀越二郎を批判し、かつ宮崎駿作品が持つファシズムとの親和性を厳しく追及する。斎藤氏は擁護的。佐藤氏が、宮崎駿には官僚と似た体質がある、と言って、斎藤氏が驚く箇所があるが、これは斎藤氏のイメージするのが、私も含めて一般庶民が遭遇することの多い下級官僚であるのに対し、佐藤氏が、上級職の「企画外とか破天荒を装う官僚」を知っているからだろう。『風立ちぬ』がもたらす「じわっとした感動」は、ファシズムにつながるストレートな高揚感より、実は始末が悪いという見解にも同意。考えてみると、私は、ジブリアニメを1作も見たことがない(テレビ放映ですら)という、かなり珍しい人間なのだが、自分が何を受け付けないのか、佐藤優氏の分析でよく分かった気がした。

 最終章では、この対談が、日本社会におけるファシズムの萌芽をめぐる論考だったことが明らかになる。佐藤氏は、日本には(教科書的な意味での)ファシズムは来ないだろう、という。そこには、さまざまな安全弁(オタクとか、ヤンキーとか)がある。しかし、安心してはいけない。ファシズムのかたちを取らないファシズム、ファシズムよりも恐ろしいものが生まれる状況を警戒しなければならない。昨日今日の国会のニュースを見ながら、その言葉の意味を噛みしめている。
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