〇雑誌『芸術新潮』2019年2月号「特集・正統なんてぶっ飛ばせ!/奇想の日本美術史」 新潮社 2019.2
江戸絵画のイメージを変えたロングセラー・辻惟雄氏の『奇想の系譜』(1970年刊)から半世紀。同書の内容をそのまま展示に移した『奇想の系譜展:江戸絵画ミラクルワールド』(東京都美術館)も開催中。表紙は同展で2/19から公開される、岩佐又兵衛の新出作品『妖怪退治屏風』。うう、いいなあ。早くホンモノが見たい。
ただし、本誌のターゲットは江戸絵画に留まらない。ページをめくると、縄文土器や密教仏画や甲斐庄楠音のデロリ系の舞妓、ゆるい系の『かるかや』『つきしま(築島物語絵巻)』なども登場する。山下裕二先生監修の下、江戸絵画以外にも視野を広げた「縄文から現代まで奇想天外ニッポン美術史」の特集なのだ。
とはいえ、やはり中心は江戸絵画で、岩佐又兵衛、狩野山雪、白隠慧鶴、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、鈴木其一、歌川国芳は、項目立てしてページを割いている。各人のキャッチコピーを『奇想の系譜展』と比べてみるのも一興。山雪の「逸脱する文化エリート」とか鈴木其一の「盛り過ぎ琳派」とか、本誌のほうが少し意地が悪いが、にやりとする面白さがある。芦雪の「あっぱれ芸人魂」と国芳の「男前グラフィック」も好き。
辻惟雄先生が、奇想の画家たちとの出会い・かかわりを語ったエッセイも面白かった。「若い研究者は問題意識をもって、自分がおもしろいと思う研究対象を選んでほしいですね。自分の言葉で、工夫して一生懸命に伝えていけば、人の見方も次第に変わり、忘れられかけていた作品が蘇ることがあるんです」というのは、胸に響く言葉。監修の山下先生は「『奇想の系譜』は、以後の研究者に決定的な影響を与えた」と書いていらっしゃるが、影響を受けたのは研究者に留まらない。フツーの日本人、フツーの美術ファンの日本美術の見方を大きく変えた半世紀ではないかと思う。
しかし、山下先生がどのくらい関わっているのか分からないが、本誌「奇想の美術史年譜」(P24)には不満を述べたい。この年譜には「奇想出現度」が折れ線グラフで表されている。縄文時代は中程度に高く、弥生・古墳・飛鳥・奈良時代と順調に下落し、平安・鎌倉・室町前期は最低水準。室町後期からぐんぐん上昇し、江戸時代の初めに最高水準に達すると幕末まで安定。近代は20世紀以降、急激に下落するが、戦後は盛り返して現在は縄文時代並み。え~これは解せない。江戸時代に奇想出現度が爆上がりするのは、単に美術が大量生産の時代に入り、(時代が近いから)大量に残っているだけではないのか。それと、まさに『奇想の系譜』の影響で、我々が江戸美術に奇想を見出す訓練をされてしまったためだと思う。弥生時代に「農耕生活が始まったことで計画性、他者との調和をとろうとする意識が高まり、奇想度が下がる」というのも、ただの俗論に聞こえる。
そもそも何が奇想かの定義は難しい。本誌は「異様、奇天烈、意味不明」「やりすぎ、凝り過ぎ」「かわいい」「怖い、気持ち悪い」「アニミズム的」「キッチュ」「イノセント」「役に立たない、負け組」という「奇想8ヵ条」を掲げている。「奇想」が帯びる特性として、この8要素を挙げることに異論はないが、この幾つかを満たす作品が必ず「奇想」に該当するかといえば違う気がする。本誌では、神護寺の薬師如来立像や式部輝忠の『四季山水図屏風』など、え?と首をかしげたくなる作品も「奇想」の例にされているが、ちょっと幅を広げすぎではないか…。
その一方、よくぞ取り上げてくれた!と感謝したくなったものも多数ある。美術作品だけでなく、三朝の投入堂や会津のさざえ堂が取り上げられて嬉しい。幕末絵師の葛飾応為や狩野一信と並んで安田雷州が、それも代表作の『赤穂義士報讐図』が載っているのもたいへん嬉しい。原田直次郎、山本芳翠、牧島如鳩は、やっぱり外せないよね~。鏑木清方の『妖魚』も。このへんは私の考える「奇想」の核心とピタリ合う。あと、大好きな佐藤玄々の『天女像』を1ページ写真で大々的に取り上げてくれただけでなく、3/6~3/12に日本橋三越本店で同作品を囲む佐藤玄々展が開催されるという重要な情報を得ることができた。奇想の核心とは何か。たぶん人によって感じ方は違うと思う。いろいろ考えながら楽しめる特集である。

ただし、本誌のターゲットは江戸絵画に留まらない。ページをめくると、縄文土器や密教仏画や甲斐庄楠音のデロリ系の舞妓、ゆるい系の『かるかや』『つきしま(築島物語絵巻)』なども登場する。山下裕二先生監修の下、江戸絵画以外にも視野を広げた「縄文から現代まで奇想天外ニッポン美術史」の特集なのだ。
とはいえ、やはり中心は江戸絵画で、岩佐又兵衛、狩野山雪、白隠慧鶴、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、鈴木其一、歌川国芳は、項目立てしてページを割いている。各人のキャッチコピーを『奇想の系譜展』と比べてみるのも一興。山雪の「逸脱する文化エリート」とか鈴木其一の「盛り過ぎ琳派」とか、本誌のほうが少し意地が悪いが、にやりとする面白さがある。芦雪の「あっぱれ芸人魂」と国芳の「男前グラフィック」も好き。
辻惟雄先生が、奇想の画家たちとの出会い・かかわりを語ったエッセイも面白かった。「若い研究者は問題意識をもって、自分がおもしろいと思う研究対象を選んでほしいですね。自分の言葉で、工夫して一生懸命に伝えていけば、人の見方も次第に変わり、忘れられかけていた作品が蘇ることがあるんです」というのは、胸に響く言葉。監修の山下先生は「『奇想の系譜』は、以後の研究者に決定的な影響を与えた」と書いていらっしゃるが、影響を受けたのは研究者に留まらない。フツーの日本人、フツーの美術ファンの日本美術の見方を大きく変えた半世紀ではないかと思う。
しかし、山下先生がどのくらい関わっているのか分からないが、本誌「奇想の美術史年譜」(P24)には不満を述べたい。この年譜には「奇想出現度」が折れ線グラフで表されている。縄文時代は中程度に高く、弥生・古墳・飛鳥・奈良時代と順調に下落し、平安・鎌倉・室町前期は最低水準。室町後期からぐんぐん上昇し、江戸時代の初めに最高水準に達すると幕末まで安定。近代は20世紀以降、急激に下落するが、戦後は盛り返して現在は縄文時代並み。え~これは解せない。江戸時代に奇想出現度が爆上がりするのは、単に美術が大量生産の時代に入り、(時代が近いから)大量に残っているだけではないのか。それと、まさに『奇想の系譜』の影響で、我々が江戸美術に奇想を見出す訓練をされてしまったためだと思う。弥生時代に「農耕生活が始まったことで計画性、他者との調和をとろうとする意識が高まり、奇想度が下がる」というのも、ただの俗論に聞こえる。
そもそも何が奇想かの定義は難しい。本誌は「異様、奇天烈、意味不明」「やりすぎ、凝り過ぎ」「かわいい」「怖い、気持ち悪い」「アニミズム的」「キッチュ」「イノセント」「役に立たない、負け組」という「奇想8ヵ条」を掲げている。「奇想」が帯びる特性として、この8要素を挙げることに異論はないが、この幾つかを満たす作品が必ず「奇想」に該当するかといえば違う気がする。本誌では、神護寺の薬師如来立像や式部輝忠の『四季山水図屏風』など、え?と首をかしげたくなる作品も「奇想」の例にされているが、ちょっと幅を広げすぎではないか…。
その一方、よくぞ取り上げてくれた!と感謝したくなったものも多数ある。美術作品だけでなく、三朝の投入堂や会津のさざえ堂が取り上げられて嬉しい。幕末絵師の葛飾応為や狩野一信と並んで安田雷州が、それも代表作の『赤穂義士報讐図』が載っているのもたいへん嬉しい。原田直次郎、山本芳翠、牧島如鳩は、やっぱり外せないよね~。鏑木清方の『妖魚』も。このへんは私の考える「奇想」の核心とピタリ合う。あと、大好きな佐藤玄々の『天女像』を1ページ写真で大々的に取り上げてくれただけでなく、3/6~3/12に日本橋三越本店で同作品を囲む佐藤玄々展が開催されるという重要な情報を得ることができた。奇想の核心とは何か。たぶん人によって感じ方は違うと思う。いろいろ考えながら楽しめる特集である。