見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

お伊勢参り2024:本居宣長記念館、石水博物館

2024-09-18 23:12:38 | 行ったもの(美術館・見仏)

 三連休はお伊勢参り旅行へ。初日は夕方、友人たちと落ち合う間ではひとりで観光。名古屋から近鉄週末フリーパスを使って松阪へ向かった。駅に下りると「ベルタウン」という不思議なかたちの商業施設が目についたが、人影は少なかった。観光ルートをたどって、松阪城跡にある本居宣長記念館へ。

本居宣長記念館 令和6年 秋の企画展『もののあはれを知る~宣長とひもとく「源氏物語」~』(2024年9月10日~12月8日)

 今年の大河ドラマにちなんだ『源氏物語』がテーマとは言いながら、展示品はほぼ文献資料で、華やかな絵画や服飾資料はないので、辛気臭いだろうなあと思ったが、意外と面白かった。『源氏』を読むには一語一語の意味を正しく理解すべき、というような提言があって、古典研究の基本的な方法論は、この頃から変わっていない気がした。読みたい本を求めてはるばる旅をしたり、用例を集めて言葉の来歴を探ったり、先生に学び、仲間と議論し、自分の論考をまとめるなど、現代の研究者の行動様式とあまり変わらない。

 私は30年くらい前にもこの施設に来たことがあるのだが、こんなに明るく、誰にでも分かりやすい展示だった記憶がない。調べたら、2017年にリニューアルされているので、展示の方針もいい意味で見直されたのではないかと思う。

 なお、記念館の隣りには、本居宣長旧宅が移築されている。2階の書斎が「鈴屋」だが、2階には上がれない。写真は、玄関の正月飾り(笑門飾り)。伊勢地方では一年中見ることができる。

■三井家発祥地(松阪市本町)

 三井家については、最近、おもしろい著作や展覧会のおかげで関心が増しているので、「遠祖」三井高安が住みつき、孫の高利が生まれ育った、ゆかりの地を訪ねてみた。松阪観光協会三井広報委員会のホームページを見ると、屋敷門や井戸が残っているようだが、無粋な板囲いをされていて、何も見えず。ガッカリ。

 これで松阪観光を切り上げ、久居へ移動。駅前からバスで石水博物館へ向かう。

石水博物館 洛東遺芳館所蔵名品展『京商人の美意識』(2024年9月14日~11月17日)

 同館は、江戸時代に伊勢商人の豪商であった川喜田家の旧蔵資料を中心とする博物館。久居駅から津駅方面行のバスに乗り「青谷口」で下車して、用水池をまわりこむように歩いていくと、全面ガラス張りのモダンな博物館に行きあたる。

 この日から始まった展覧会では、京都五条にある洛東遺芳館のコレクションを紹介する。洛東遺芳館は、京の豪商であった柏屋(柏原家)伝来の婚礼調度・絵画・浮世絵・工芸品・古書古文書等を所蔵する博物館だという。同じ商人どうし、しかも川喜多家と柏原家は親戚どうしということで貴重な作品をたくさん出陳してくれたのだそうだ。ちょうど学芸員の方のギャラリートークが行われており、楽しく拝聴した。応挙、呉春など、円山四条派の作品が多く、こうした写実的な絵画は伊勢商人に好まれた、という解説に納得した。また宋紫石の『猛虎図』6曲1双屏風が30余年前に板橋区立美術館に出陳して以来とのこと。2階展示室の川喜多半泥子の作品も面白かった。

 収蔵庫として使われている千歳文庫(非公開)は、もう少し近づけるのかと思ったら、本館の回廊から木立越しに眺めることしかできなかった。女性の職員の方が「冬は木の葉が落ちて、もう少し見やすいんですが…」と申し訳ながっていた。

■忠犬ハチ公像(久居駅前)

 最後は久居駅に戻って、忠犬ハチ公と飼い主の上野英三郎先生(久居市出身)の像を眺める。ハチ、先生と一緒で嬉しそうだね。

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お伊勢参り2024お酒と食べたもの

2024-09-16 20:49:12 | 食べたもの(銘菓・名産)

 三連休を使って、友人と二人で、三重県に住んでいる元の同僚に会いに行った。初日は夕方、久居駅で落ち合って、藤ヶ丘食堂へ。とり焼・とり鍋・から揚げのお店。地元の家族連れが次々にやってきて、焼き網のセットされたテーブルで、さっと食べて帰っていく。家庭料理の延長みたいな素朴な美味しさで大満足。

 2日目は3人でお伊勢参り。外宮、内宮を参拝した。お昼は伊勢市駅近くのまめやさんで、伊勢めひびうどんをいただいた。伊勢地方では、刻みめかぶをめひびというのだな。伊勢うどんは、さすが本格派。私は東京人だが、たまに食べたくなるのである。

 内宮参道の赤福本店でひとやすみして赤福をいただく。赤福氷も期待していたのだが、大混雑・大行列を見てあきらめた。

 今回は、久居グリーンホテルに2泊。「お茶漬け朝食」が売りで、初日は松阪牛入りしぐれ茶漬け、2日目は真鯛のごまだれ茶漬けを楽しむことができた。

 「呑み」は、おはらい町通りの森下酒店へ。三重の日本酒・地酒専門店「酒乃店もりした」の直営店とのこと。3種吞み比べセットが3種類あったので、3人でそれぞれ違うものを頼んで、9種類を呑み比べる。而今や作は言うまでもないが、私はスッキリした味わいの裏寒紅梅が気に入った。

 呑み比べの而今は「特別純米 火入」だったが、カウンター奥の冷蔵ケースには「純米大吟醸 名張」があって、「これを置いているお店はそうないですよ」と笑顔で語るマスター。これも出会いなので、少々奮発していただく。極上の美味。升はお土産にもらって帰ることができた。

 このあと伊勢市駅前に戻って、一月家という居酒屋で呑み続ける。地元民に愛される呑み屋・食べもの屋をめぐることができて、幸せなお伊勢観光だった。

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おいしい町歩き/東京の喫茶めし(ぴあMooK)

2024-09-12 21:59:50 | 読んだもの(書籍)

〇ぴあMooK『東京の喫茶めし』 ぴあ 2024.8

東京の喫茶の名店と名物メニュー、スパゲッティ、サンドイッチ、カレー、オムライス&オムソバ、モーニング、さらにスイーツは、パフェ、ホットケーキ、プリンアラモード、あんこ、コーヒーゼリー、クリームソーダなどを紹介する。全体にマホガニー色(深みのある赤)を基調とした写真ページが多いのは、取り上げられているお店の内装トーンがそうなのだろう。

 若い頃から喫茶店に行く習慣はほとんどなかった。大人になると、チェ-ン店のカフェが急速に普及してきたので、安いし入りやすいし、時間のかからないチェーン店ばかり利用していた。それが最近になって、その店にしかないメニューと雰囲気を求めて、レトロな喫茶店を訪ね歩く楽しさがだんだん分かってきた。

 と言っても、本書掲載のお店で、私が実際に訪ねたことがあるのは、本郷三丁目のルオー、上野の王城、神保町のトロワバグくらいかな。銀座ウェストと資生堂パーラーは大昔に行ったことがある。ここもあそこも行ってみたいお店がたくさん見つかって嬉しかった。

 本書は基本的に人の姿は写さない方針のようだが、例外的に店主の近影を掲載されているお店がいくつかある。流行り廃りに関係なく、お店を守ってきたおじさん、おじいさんという風情で、この方たちがお元気のうちにお店に行きたいなあと思った。ぼんやりしているうちになくなってしまうものが、東京にはとても多いのだ。

 巻末のインデックスで数えると、70軒弱が掲載されている。毎月1軒訪ね歩いたとしても5年はかかる、いや5年は楽しめると考えるとしよう。

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陶芸家の息子/昭和モダーン モザイクのいろどり(泉屋博古館)

2024-09-11 22:11:22 | 行ったもの(美術館・見仏)

泉屋博古館 特別展『昭和モダーン モザイクのいろどり 板谷梅樹の世界』(2024年8月31日~9月29日)

 昭和のモザイク、特に興味ないなあ…と思っていたが、本展が取り上げるモザイク作家・板谷梅樹(いたやうめき、1907-1963)が、陶芸家・板谷波山(いたやはざん、1872-1963)の息子であるという情報をネットで見て、興味が湧いて、見て来た。

 エントランスホールに展示されていたのは、縦長の巨大なモザイク壁画。遠景には三角形に立ちあがった富士山、雲海と山並み・森林を挟んで、清流が手前に向かって流れている。近代水道発祥の地・横浜市の依頼で制作され、日展に出品されたのち、横浜市水道局に納められた『三井用水(みいようすい)取入所風景』(1954年)という作品である。その後、1987年に近代水道100周年を記念して開館した横浜水道記念館の1階ロビ-に展示されていたが、2021年の同館閉館に伴い、板谷波山記念館に寄贈されたという。

 雪をいただく富士山の山肌は、色の違うパーツを並べて繊細に表現されており、印象派の絵画を思わせる。一方、岸辺の草木は、抽象的な形態にまるめられていて、琳派のデザインのようでもある。しかし昭和の人間としては、モザイク画の富士山を見たとたん、風呂屋の壁画を思い出して苦笑してしまった。

 展示室に入って、また大きな壁画があると思ったら、これは写真パネルだった。有楽町にあった日劇にあった壁画だという。あとで、講堂で放映されていた「さらば日劇(仮)」という短編動画を見たら、日劇は昭和8年(1933)竣工。1階玄関ホ-ルには、板谷梅樹のモザイク壁画「音楽」「平和」「戦争」「舞踊」4作品が設置された。古代ギリシャの壺絵ふうの人物群像で、華やかな色彩が使われている。戦争中は風船爆弾の工場に使われた(!)こともあったが、復活。しかし梅樹のモザイク壁画は、戦後の大衆路線に合わないと見做され、タイアップ商品の物販売場を設置するためにベニヤ板で覆われてしまった(Wikiによれば1958年)。

 1981年、施設の老朽化に伴う解体工事の際に、壁画が「発見」された。新ビル(有楽町マリオン)に移設する案もあったが、重量の問題等で実現せず、仮の保管場所だった東宝砧撮影所の閉鎖に伴い、2000年に廃棄された。うわああ…そんなのありか、と頭を抱えたが、どこかで権威を与えられた「芸術」ではない、一般の「装飾芸術」としてはやむをえない運命なのだろうか。

 わずかに小型の壁画3面が遺族に引き取られ、一部は渋谷の「染織工芸 むら田」にあるという。お店のホ-ムページに「祖父のモザイク」とあるので、梅樹のお孫さんのお店なのだろうか。そして場所を探したら、あ、山種美術館や國學院大學の近隣ではないか。今度、そっとお店の前まで行ってみよう。

 展示されている梅樹の作品は70件ほど。ほとんどが個人蔵である。壁画のような大作は、施設の老朽化とともに失われてしまうものが多いのだろう。煙草箱、飾り皿などは、次第に作者の名前を忘れられて、いわば「民藝」として残っていくのかなと思った。小さな面積で色とかたちを楽しむ、遊び心にあふれたブロ-チやペンダントヘッドには、時代を超えた魅力がある。帯留もおしゃれ。比較的大型の作品「きりん」は、首を下げたポーズが琳派の鹿みたいだと思った。

 梅樹のモザイクとあわせて、板谷波山の陶芸作品も展示されていた。波山は出光佐三だけでなく、住友春翠の支援も受けていたのだな。2011年、波山の田端旧宅からは、おびただしい陶片とともに、モザイクやステンドグラスの材料片も見つかっている。ブルーグリーンの材料片(色ガラス?)が展示されていて、美しかった。それにしても、父・波山と息子・梅樹が同じ1963年に没していることに気づいて、いま複雑な気持ちでいる。

※(参考)田端文士村記念館:『開館20周年記念誌』は、板谷波山と家族に関して詳しい。「学習院大学教授荒川正明先生の御助力で、波山の家の土台や陶片などは、郷里下館の有志や学生の皆さんが丁寧に発掘して、下館の波山記念館に納められました」という記述を見つけて唸る。荒川先生!出光美術館の学芸員だった方だ。

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ファンダムの可能性/実験の民主主義(宇野重規)

2024-09-08 21:23:51 | 読んだもの(書籍)

〇宇野重規;聞き手・若林恵『実験の民主主義:トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ』(中公新書) 中央公論新社 2023.10

 宇野先生の著書は『〈私〉時代のデモクラシー』『民主主義とは何か』などを読んできたので、だいたいどのような内容が展開するか、想像ができた。本書は、まず19世紀の大転換期を生きたフランスの貴族トクヴィルが、1831年にアメリカに旅行し、まさに民主主義がゼロから作られていく様子を目にして考えたことの検証から始まる。旧著『民主主義とは何か』でも紹介されていた論点である。

 トクヴィルは「平等化」が世界を覆うことになる趨勢にいちはやく気づいた。平等化は必然的に個人主義をもたらし、人々は孤立化する。そこで社会を解体から救う、もう一つのベクトルが「結社=アソシエーション」である。トクヴィルの見たアメリカの人々は、困ったことがあれば、個人が協力し合って解決する習慣を持っていた。このアソシエーションの習慣があれば、個人主義の負の趨勢には対抗できる。

 宇野先生はトクヴィルの結社論を「デモクラシーのなかにデモクラシーとは異質の原理を保持する要素を埋め込むことにあった」と解説する。これは理論としては魅力的だが、国や地域によって結社の伝統が異なるのでなかなか難しい。また、現代は、暴力的で人種差別的なアソシエーションが勢力を伸ばしているようにも感じられる。

 ここで聞き手の若林恵さんが、アニメやアイドルの「ファンダム」にも可能性と危険性が観察されることを挙げていて、面白かった。若林さんの名前は本書で初めて知ったのだが、編集者・音楽ジャーナリストであり、GDX(行政デジタル・トランスフォーメーション)にも関わっている方だという。宇野先生が歴史の側から読み解いた事項を、若林さんが現代のデジタル技術やゲーム・アニメの趨勢から解釈していく。この異文化交流が本書の醍醐味になっている。

 よい意味での「ファンダム」は、参加者が互いに助け合いながら学び合う空間であり、「政治=選挙=動員」ではない、民主主義の新たな実践を生み出す可能性がある。若林さんは、台湾のIT担当大臣オードリー・タンの言葉を紹介して、我々は「リテラシー」の時代から「コンピテンシー」の時代に移行しているのではないかと問う。「リテラシー」が思考・意志を中心とする「ルソー型の民主主義」であるとすれば、「コンピテンシー」は行動・実行を重視する「プラグマティズムの民主主義」である。

 この「プラグマティズム」の意味も、本書では何度も問い直され、彫琢される。デジタルコミュニティでは、旧来の「DIY: Do it yourself」ではなく「DIWO: Do it with Others」(他人と一緒にやる)が、すでに日常化している。アートの世界でも「天才的な個人に基づく芸術」というロマン主義的な神話が退潮し、「コラボレーション」に価値が見出されるようになっている。リテラシー重視の政治運動では、いちいち参加資格が問われたが、コンピテンシーに基づくデジタル民主主義は「何ができる?」から始まる。応援するだけでも、人の話を聞くだけもいいので「何もできない人はいない」。もちろん「それぞれ好きなことをやってみよう」を紡ぎ合わせていくのは難しいことで、多くの人が「面白い」と思うことは、数の暴力にさらわれる危険性もある。それでも、オンラインゲームやファンダムは、コラボレーションの練習装置になるのではないか、という指摘には、とても魅力を感じた。

 余談になるが、政党の話も面白かった。ヨーロッパの政党はクラブ的なもの(趣味的なつながり)から始まり、次第にイデオロギー化した。日本の場合は、イデオロギー的な政党が先に生まれ、むしろそれを中和するかたちでクラブ的な政党(政友会など)が生まれた。今でも保守政治家にはそういう文化が強いのではないか、と宇野先生。安倍晋三は、保守のボーイズクラブ的な感覚をポピュリスト的な手法にうまくつなげることのできた最後の政治家ではないか、とも。私が日本の保守政党に感じる不快感の源泉が分かったような気もした。

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神さまの乗りもの/神輿(國學院大學博物館)

2024-09-07 23:20:53 | 行ったもの(美術館・見仏)

國學院大學博物館 企画展『神輿-つながる人と人-』(2024年6月29日~9月16日)

 国学院大学が所蔵する祭礼を描いた屏風、絵巻、刷り物などから「神輿とは何か?」を紐解き、さらに「祭りの力」についても考える。絵画資料が多くて、視覚的におもしろかった。

 展示パネルによれば、神輿が歴史の舞台に登場するのは、天慶8年(945)志陀羅神などの神輿が摂津の国から移動したときのことだという。図録の解説はもう少し詳しくて、『続日本紀』によれば、天平勝宝元年(749)宇佐八幡宮の八幡神は東大寺の大仏建立を助けたいとの託宣を下し、約1ヶ月かけて平城京へ上京したが、神輿を使用したかどうかは明確でない。神輿の明確は記事は、『本朝世紀』天慶8年(945)7月28日の条になる。はじめは志陀羅神など3基の神輿と記されていたものが、自在天神(菅原道真公の霊)と八幡神という認識に変化していく。このへん、当時の社会背景(災害、感染症、内乱)や、名前の挙がっている神々の性格を考えると、とても興味深い。

 その後、天延2年(974)の祇園御霊会を早い例として、神輿で神々が移動する祭りのかたちが定着する。この前提として「古代において、神霊は『坐す』存在であり、八幡神ほか、特定の神々を除けば、原則として移動することはなかった」と説明されていたけど、そうかなあ。移動を繰り返して最終的に「坐す」に至る神々はけっこう多いように思う(伊勢神宮もそうだし)。

 展示資料では『付喪神絵詞』(江戸時代後期)が可愛かった。ネズミやウサギみたいな付喪神たちが、面を付けたり、獅子舞を演じたり、神輿を担いだりしている。歌川芳宗の錦絵『天王御祭礼之図』は、モブ(群衆)の表情にひとりひとり個性があって、細かく眺めると楽しい。

 この日は、行ってみたら「神輿を担ぐ!(学生神輿サークルによる実演と解説)」というイベントがあったので、参加してしまった。神輿サークル「若木睦(わかぎむつみ)」の学生さん4名による神輿トークで、この展示を担当した大東敬明先生が話を聞くかたちで進行した。典型的な「江戸前担ぎ」として紹介されていたのは、神田明神の神田祭、赤坂日枝神社の山王祭。神田祭では法被の下は上下とも黒が正式なのだそうだ。あれ?深川八幡祭りは白だな。季節が関係しているのか、それとも水をかぶるからか。

 本来、神輿は神様を乗り移らせ、巡行するものだが、靖国神社のみたままつりでは、英霊は社殿から動かないので、ただ賑やかな祭礼を見せて英霊を慰めるのが目的だという。品川の天王祭は「城南担ぎ」と言って、江戸前担ぎとは全く様子が異なる。神奈川県の湘南地方には「どっこい担ぎ」というのもあるそうだ。大東先生いわく、「どれが正しいんですか?」と聞かれることがあるが、その地域で長年受け継がれてきたものが正しいんです、という説明に同感である。

 須賀神社(栃木県小山市)祇園祭の神輿は「アンゴステンノ-」という不思議な掛け声をかけるそうで、大東先生の「南無牛頭天王」が訛ったものだろうという解説に深く納得した。おもしろいなあ。もっと各地の神輿を見たくなってきた。

 最後はフロアの椅子を片付けて、学生さんたちが実際に神輿を担いで見せてくれた。神輿好きらしいおじさんが飛び入り参加をしていたが、足の運びがかなり複雑で、素人がいきなり担げるものじゃないなあと思った。

(おまけ)最近、國學院大學博物館に行くときは、学食に寄ってランチをいただくことにしている。学外者も利用しやすくてありがたい。

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深川江戸資料館を訪ねる

2024-09-03 20:54:47 | 行ったもの(美術館・見仏)

深川江戸資料館(江東区白河)

 門前仲町の住民になって8年目、ようやくご近所・深川江戸資料館を見てきた(コロナ禍でなかなか機会がなかったのだ)。こじんまりした施設ではあるけれど、天保年間頃の深川佐賀町の町並みの「情景再現、生活再現展示」が見どころである。

 私が展示場に入ったときは夜の設定で、夜空に月が浮かんでいた。舂米屋の土蔵の隣り、長屋の屋根でぶち猫が眠っている。その下は三味線のお師匠さんの住まいという設定。

 八百屋の店先。青物だけでなく、卵やコンニャクも商う。

 棒手振りの住まい。深川らしく、桶の中には貝がゴロゴロ。私は子供の頃、夏休みになると、深川森下町の従兄弟の家(母親の実家)に泊まりにいくのが楽しみだったが、昭和40年代でも、朝早くアサリ売りが町を歩いていた。寝床で聞いた「ア~サリ~シ~ジミ~」という売り声を覚えている。

 蕎麦屋の屋台。稲荷寿司や天ぷらの屋台もあった。必要な食品・調理道具・食器などを効率よく収納できる構造になっていて、おもしろい。

 川岸の杭には、都鳥ことユリカモメ。赤い嘴と赤い脚が特徴である。

 狭いエリアに、船宿、火の見櫓、稲荷、共同井戸と便所など、見どころをうまくまとめていると思ったが、解説パネルを読んだら、実際に深川佐賀町(隅田川東岸、永代橋の北側)の絵図に基づいて再現されているのだそうだ。

 なお、同館は昭和61年(1986)開館とのこと。私は、昭和の終わりか平成のはじめに、三谷一馬氏の『江戸物売図絵』の展覧会を見に来たことがあり、展覧会も楽しかったが、この街並み展示も面白かったことを強く記憶している。30年ぶりに再訪できてうれしかった。次は何かイベントの時に来てみよう。

 1階には、江東区名誉区民でもある横綱大鵬を顕彰するコーナーがあった。私は大鵬を覚えている世代だが、それよりもこのひとは樺太(サハリン)の敷香町(ボロナイスク)の生まれで、現地の郷土博物館に関連展示があったことを思い出し、その距離感をしみじみ味わった。

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理想の推し活/高畠華宵が伝えてくれたこと(弥生美術館)

2024-09-01 20:51:42 | 行ったもの(美術館・見仏)

弥生美術館 開館40周年 生誕祭!『大正ロマン・昭和モダンのカリスマ絵師 高畠華宵が伝えてくれたこと』(2024年7月6日~9月22日)

 1階展示室では、大正末から昭和初期にかけ、絶大な人気を誇ったイラストレーター・高畠華宵(1888-1966)の作品を展示。私はさすがに華宵の人気をリアルに知る世代ではないのだが、2015年の『橘小夢展』を見に行ったとき、常設エリアの華宵に関する展示があまりに面白かったので松本品子編『高畠華宵』を買って帰り、ますますその魅力に引き込まれてしまった。

 華宵の描く少年・少女は、いずれも訴えるような三白眼が印象的で、現実離れした美形だが、肉体が生々しい実感を持っている。女性は、意外とむっちりした肉付きが魅力的。

このイラストは手塚治虫の『リボンの騎士』に影響を与えているんじゃないかと思った。

古代エジプトを舞台にした小説の挿絵も描いていて、1970年代の少女マンガのエジプトブームを思い出した。直接の影響関係はないかもしれないけど。

 華宵は鎌倉・稲村ケ崎一ノ谷(いちのやと)の自宅兼アトリエ「華宵御殿」に「弟子の美少年たち」ともに住んでいた(とパネルに書いてあってドキッとした)。彼らに特別にモデルをさせることはなく、ただ日常の様子をスケッチしていたという。夜になるとトルコ風のアーチのある寝室に籠ったそうで、これは写真をもとに会場内に再現された寝室の風景。

 生い立ちの紹介を読むと、幼い頃は女の子と人形遊びをしたり、一人遊びをすることを好む子供で、のちに「私自身の素質の中に、余りにも女性に似たものがある」とも語っている。しかし一方「女性を寄せ付けなかった」という証言もあり、唯一の例外が古賀三枝子さん(のちに弥生美術館館長)だった。複雑なジェンダーの持ち主という感じがする。

 2階展示室の物語は、華宵の存在がすっかり忘れられた1960年代から始まる。戦前、熱烈な華宵ファンだった弁護士・鹿野琢見(かの たくみ、1919-2009)は、華宵が明石市の老人ホームで暮らしていることを知り、書簡を交わし、華宵会(ファンダム!)を発足させ、華宵の復権のために奔走する。ついに弥生町の自宅に華宵を招き、1966年、華宵の最期を看取り、その後、華宵の遺族から著作権を譲渡される。そして鹿野の自宅を活用して、1984年に創設されたのが弥生美術館なのである(のちに竹久夢二美術館を併設)。

 いやもう「推し活」の究極の姿ではないかと思った。自分の満足のために起こした行動が晩年の「推し」の幸せを生み、さらに同じ「推し」を持つ仲間、あるいは未来の仲間のために美術館を建ててしまうのだから。

 40年前、雑誌の挿絵や漫画・イラストを正面切って取り上げる公設の美術館はほとんど無かった。1階展示室で、同館の過去の企画展のポスターを振り返るスライドが流れており、その功績の大きさをしみじみ実感した。

 なお、3階展示室では日本出版美術家連盟(JPAL)の作家展を開催中。見たかった『小松崎茂展』(2024年7月30日〜9月1日)を見ることができた。これはネットミームとしてもそこそこ有名な、攻めてくるイルカ。『なぜなに学習図鑑:なぜなに からだのふしぎ』掲載。

1980年に描かれた「宇宙コロニー」の図。

ふつうの町風景の写生画も出ていて興味深かった。

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夏はお化けと幽霊画/2024幽霊画展(全生庵)他

2024-08-31 21:09:24 | 行ったもの(美術館・見仏)

全生庵 『谷中圓朝まつり 幽霊画展』(2024年8月1日~8月31日)

 昨年は猛暑の盛りに出かけて消耗したので、今年はどうしようかと様子を見ていた。会期の最終日、じりじり近づく台風10号を控えて、東京は曇り空だったので、思い切って出かけてみたら、若い女性のグループをはじめ、ずいぶんお客さんが多かった。

 展示作品は、昨年と同じものもあれば、入れ替わっているものもある。鏑木清方の『幽霊図』は茶托に載った蓋つきの茶碗を差し出す女性。俯いているので髪型しか見えない。白い着物の袖口から淡いピンクの襦袢(?)が覗いている。この「顔を見せない女の幽霊」シリーズが私は大好き。渡辺省亭『幽女図』は、煙の立つ火鉢の向こうで背けた顔に袖を当てている。池田綾岡『皿屋敷』は、菊を描いた襖の陰に座って、袖で顔を隠す女性。そばには行灯。この行灯(あたりが暗闇であることを示す)と、襖や蚊帳(幽明の境?)は、幽霊画の大事な小道具であるように思う。鰭崎英朋の『蚊帳の前の幽霊』も蚊帳と行灯が舞台装置。両手を白い着物の中に隠し、棒立ちの女の幽霊の横顔が儚げで切ない。

 初めて見たように思ったのは、尾形月耕『数珠を持つ幽霊』。横向きの禿頭の男性が静かに俯き、額に三角巾(天冠)を付け、袖なし襦袢みたいな簡易な着物をまとって、数珠を手にしている。即興のスケッチのようだが、腰から下が描かれていないのが幽霊っぽい。

 伊藤晴雨は、恐ろしげな『怪談乳房榎図』もあったが、印象的だったのは「柳家小さん師匠寄贈」の注記のついた女性幽霊画シリーズ5点。牡丹燈籠、皿屋敷のお菊、姑獲鳥はすぐに分かったのだけど、奥女中か宮廷女房ふうの怖い顔の女性は紅葉狩の鬼女か? 御簾の下でガマの怪物と並んだ女性は滝夜叉姫かな? 姑獲鳥は赤子を抱えた女性の姿だが、肩に羽根が生えていてカッコいい。

 月岡芳年『宿場女郎図』を今年も見ることができたのは眼福。骨と皮だけの手(階段を掴む手と、水平に伸ばした手)が凄まじい。実際に宿場女のスケッチをもとに描いたという伝承があるそうで、現世に生きていた女性の姿なのだが、そのまま「幽霊画」になっている。なお、今年も髑髏の紙団扇をいただくことができ、髑髏のTシャツも買ってしまった。

太田記念美術館 『浮世絵お化け屋敷』(2024年8月3日~9月29日)

 前後期で全点展示替えと聞いたので、ひとまず前期(~9/1)を駆け込みで見て来た。なんだか初めて見る作品があるなと思ったら、前後期約170点の中には、新たに収蔵された初公開の作品38点が含まれているという。うれしい。

 前期の見ものは芳年『奥州安達がはらひとつ家の図』だろうか。逆さに吊り下げられた妊婦の、腹や乳房、さらに乳首の垂れさがり具合に現実味があって、血が一滴も流れていないのにぞっとするほど恐ろしい。しかし隣りにあった国芳『風流人形の内 一ツ家の図 祐天上人』は同じ惨劇の図を描いているのだが、安政3年、深川八幡宮で催された生人形の見世物の図という解説が付いていた。江戸の人々、何を考えているんだか。

 この「一ツ家」もそうだが、お化け・妖怪といえば、繰り返し描かれる画題がある。古くは戸隠山の鬼女、渡辺綱と土蜘蛛そして羅城門の鬼、源平の亡霊や怨霊など。東海道四谷怪談にしても、累の物語にしても、やっぱり物語の全体像を知っていると、絵画作品の解像度が上がる。本展には外国人のお客さんの姿も多かったが、もう少し英語の解説があるといいのに、と思った。

(メモ)国芳『百人一首之内 大納言経信』という作品は、源経信(※『難後拾遺』作者)が月夜に古歌を口ずさむと、外で漢詩を詠む声が聞こえ、見ると巨大な鬼が立っていた、というもの。鬼の口から洩れる「北斗星前横旅雁/南楼月下擣寒衣」という漢詩が気になって調べたら、これは和漢朗詠集に採録された劉元叔(伝未詳)の「妾薄命」で、この説話自体は『撰集抄』に載るという。これ、国芳が『撰集抄』を読んでいたのか、別のかたちで流布していたのか、どっちなんだろう。

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娯楽作で学ぶ現代史/映画・ソウルの春

2024-08-27 22:57:53 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇キム・ソンス監督『ソウルの春』(角川シネマ有楽町)

 話題の韓国映画を見てきた。1979年12月12日、全斗煥と同志の秘密組織ハナ会グループが、粛軍クーデター(12.12軍事反乱)によって政権を掌握する顚末を描く(登場人物の名前は微妙に変えてある)。

 チョン・ドゥグァン少将(全斗煥)は、10月に起きた朴正煕暗殺事件の捜査本部長として強大な権力を手中にしたが、陸軍参謀総長はこれを警戒し、信頼のおけるイ・テシン少将を首都警備司令官に任命するともに、ドゥグァンを首都ソウルから遠ざける人事を計画する。危機感を抱いたドゥグァンは、参謀総長の罪をでっちあげて部下に拉致させ、同時に大統領から参謀総長取り調べの承認を得ようとしたが、大統領は疑念を抱いて認可を与えない。進退きわまったドゥグァンは、大統領の判断を無視し、実力行使に突っ走っていく。

 ドゥグァンの周りに集まったハナ会メンバーの将校たち(年齢や階級はドゥグァンより上)は、事態が深刻化するにつれて、権力欲と保身を天秤にかけて右往左往する。ドゥグァン自身は最初から大望を抱いた英雄ではないが、さすがに肝が据わっており、抜群の判断力と瞬発力で危機を切り抜けていく姿は、憎たらしいが魅力的である。ドゥグァンの腹心(親友?)らしいが、傍らでおろおろしてるだけの小物のノ・テゴン少将、実は盧泰愚(ノ・テウ)がモデルと知って、あとで驚いた。

 しかし当人が小物か大物かに関係なく、軍において指導的な地位にあれば、軍事部隊を動かすことができる。上官の命令には絶対に従うのが軍隊というものだ。ドゥグァンはハナ会の将校たちを通じて、ソウル近傍に駐屯中の部隊にソウル進撃を命じる。一方、首都警備司令官のイ・テシンも、ハナ会の影響の及んでいない部隊に応援を要請する。強大な軍事力が首都の近傍に控えている怖さ(北の脅威に対する防備がリスクにもなっている)。あと、漢江が防御線になるソウルの地理をあらためて認識した。

 なんとか内戦を食い止め、ソウル市民の安全を守ろうとするイ・テシンだが、いちはやく米国大使館に逃げ込んだヘタレの国務部長官や、指揮権のヒエラルキーにこだわり、口先では俺がドゥグァンを説得するといきまく、無能な参謀次長の存在が反乱側を利することになり、万事休す。最後まで、単身でドゥグァンに詰め寄ろうとしたイ・テシンは反乱軍に取り押さえられる。高笑いするドゥグァン。数日後、大統領はあらためてドゥグァンに求められた書類にサインをするが、日付を書き添え「事後決裁だ」と言い添える。文人政治家の最後の抵抗は虚しいが、気持ちは分かる。「こうしてソウルの春は終わった」というナレーション。

 史実に基づいているので、結末がくつがえることはないと分かっていても、手に汗握る展開で、おもしろかった。ただ、ドゥグァン=悪、イ・テシン=善の対立が平板に過ぎる感じはした。後々まで振り返って「おもしろさ」を味わうには、もう少し善悪未分化の人物が描かれているほうが私の好みである。それでいうと『KCIA 南山の部長たち』の朴正煕には、そういう魅力があったが、本作の全斗煥は、わりと単純な悪役(しかも大悪人ではない)に振り切っている。これは作品の性格の差なのか、二人の政治家に対する、現在の韓国人の標準的な見方なのか、ちょっと気になる。

 なお、史実では、イ・テシンに当たる人物は張泰玩(チャン・テワン)というらしい。作中の名前は、民族英雄の李舜臣(イ・スンシン)に重ねているのだろう。ソウルの光化門広場に立つ巨大な李舜臣の銅像をイ・テシンが見上げるカットが一瞬だけある。

コメント (2)
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