見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

文化人将軍の役割/天下泰平(江戸東京博物館)

2020-02-18 22:36:35 | 行ったもの(美術館・見仏)

江戸東京博物館 企画展『天下泰平~将軍と新しい文化の創造~』(2020年1月2日~2月16日)

 常設展示エリアで開催されていた本展は、德川宗家に伝来する歴代将軍の書画、幕府御用絵師狩野派が描いた絵画作品などを通して、江戸文化における将軍の果たした役割を考える企画。徳川記念財団の所蔵品が多数出ていた。

 企画趣旨に言う通り、多くの日本人は、徳川将軍と聞くと、天下泰平の世をもたらした文化人政治家を思い浮かべるだろう。ただし、それは三代家光以降で、さすがに初代家康には戦国武将のイメージが強いのではないか。ところが本展の冒頭には家康の一行書『花鳥風月』。筆の運びがゆっくりで、なよなよと柔らかなタッチ。家康は幼少期から書道が好きで、晩年には藤原定家の筆跡に傾倒して、熱心に臨模したそうだ。唐太宗の王羲之愛みたいだ。墨画『大黒天図』も晩年の作だろうか。巧まざるユーモアに頬がゆるむ。しかし素人の画技にしては巧い。ちょっと白隠を思わせる。

 家光は、出た!ピヨピヨ鳳凰! 私はこの子に会いに来たのである。隣りに伝・家光筆『架鷹図屏風』六曲一双が並んでいたが、こちらは巧すぎる。小浜藩主・酒井忠勝が敦賀の鷹絵師。二代橋本長兵衛に描かせたものに家光が筆を加えたという説明を読んで納得した。鷹のポーズや羽色、構図(止まり木を正面でなく斜めから描くなど)のバラエティがとても面白い。

 家光が夢に見た家康を狩野探幽に描かせた『東照大権現霊夢像』は、白い平服、黒い頭巾で膝を崩した座り方が人麻呂影供像を思わせる。紅葉山の稲荷社に掛けられていたという『紅葉山鎮座稲荷額』は、中央のキツネに乗った荼枳尼天に探幽の署名、左右の眷属のキツネに安信と常信の署名があるもの。

 五代綱吉は儒学を重んじ、自ら家臣に四書五経を講じた。コンパクトな『明版四書(綱吉御手持本)』と使いこまれた書袋は、別の展覧会でも見た記憶があった。生類憐みの令で知られる綱吉が、鳥や動物の絵を好んで描いていたことは初めて知った。『芦雁図』『練鵲図』かわいい。前期の『鶏図』を見逃したのは残念である。『桜花馬図』は、歴史も故実も関係なく、ただ桜と馬をいつくしむ気持ちが滲み出ていて好き。綱吉が新井白石に賜った『落雁仙鶴之図』対幅は、金雲の使い方が大胆で、現代絵画みたいな面白さがある。

 八代吉宗は広く学問を奨励した。中でも西洋天文学の推進は重要。前期展示の『五星臨時調測量御用手伝之者之儀ニ付達書』が見たかったな。十一代家斉は松平定信を老中首座に抜擢し、定信を中心に『集古十種』が編纂された。しかし定信の書跡がたくさん出ていたが、力強くクセの強いもので、人柄を彷彿とさせた。こういう字を書く人とは、あまり関わりたくない。

 最後に徳川宗家十六代当主の徳川家達(1863-1940)。貴族院議長をつとめ、いくつもの社会団体の長を歴任した。なんと1940年の東京オリンピック招致委員会会長、IOC委員、組織委員会会長もつとめており、当時の写真も展示されていた。

2/19補記。特別展『江戸ものづくり列伝-ニッポンの美は職人の技と心に宿る-』(2020年2月8日〜4月5日)も見た。「ものづくり」と聞いて、テクノロジー方面を予想していたのだが、やきもの、金工など工芸品が中心。明治前期に日本を訪れたヨーロッパ貴族バルディ伯爵の日本コレクション(ベニス東洋美術館所蔵)は、まあ面白かった。

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咒師の作法/声明公演・薬師寺の花会式(国立劇場)

2020-02-16 23:12:48 | 行ったもの2(講演・公演)

国立劇場 第57回声明公演 薬師寺国宝東塔大修理落慶記念『薬師寺の花会式:修二会薬師悔過法要』(2020年2月15日、13:00~)

 奈良・薬師寺の修二会薬師悔過法要(通称・花会式)は、毎年3月25日~31日に行われる。学生の頃、たまたま花会式期間中の薬師寺を訪ねた記憶はあるのだが、その後は縁がなく(何しろ年度末の1週間!)、声明が行われているという認識もなかった。東大寺の修二会は何度も聴聞しているのに、大きな違いである。

 舞台の幕が上がると、巨大な薬師三尊像(立体感など、かなり本物に似せた絵)と朱色の柱が立ち、金堂の雰囲気が再現されている。中央には礼盤(高座)、その左右に八の字型に4人ずつの席を置く。また、沓(くつ)音を響かせるためか、内陣をめぐって須弥壇の裏に消える四角形の板張り(?)の通路がしつらえられていた。2階の最前列の席だったのでよく見えた。

 はじめに薬師寺管主の加藤朝胤さんが登場して、薬師寺と花会式について20分ほどお話をされた。薬師悔過法要が今のようなかたちになったのは、堀河天皇の皇后さまの病気平癒を祈願し、平癒のお礼に宮中の女官たちが造花をお供えしたのが始まりであること。造花は薬草で染めているので、水に漬けて飲めば薬になること。造花と壇供(お供えの餅)は、法要が終わると参拝者に与えられるが、みんな壇供を好むのが「花より壇供(団子)」の由来であることなど。やっぱり薬師寺のお坊さんは話が巧い。

 解説のあと、いったん休憩が入り、開演した。幕が上がると全ての照明が消えて真っ暗闇になる。須弥壇の裏側から、堂童子頭(赤い袍)と白丁が本物の火を持って現れ、ろうそくに灯をともすと、舞台が再び明るくなった。続いて8人の練行衆が着座する。

 左列の上座から2番目の僧侶が礼壇に上り(時導師)、残りの7人との掛け合いで、供養文や称名悔過、礼仏懺悔などを唱える。管主が「大きな声でしっかり仏様に謝り、それからお願いごとをする」とおっしゃっていたとおり、かなり騒がしい場面もある。花会式を見た中学生が「花会式 坊主ワイワイ 鐘の音」という俳句をつくったというのも納得である。時導師は、礼盤に立ち上がり、大きく背中を反らせて天を仰ぎ、また小さく腰をかがめる動作を何度も繰り返すので、大変だなあと思った。散華行道、心経行道、牛王加持行道など、全員で内陣をめぐる場面もあり、高らかにひびく沓の音が心地よかった。薬師如来の宝号が「南無薬(なむやー)」なのを初めて知った。

 時導師が席に戻ると、入れ替わりに、左列の最も上座の僧侶が登壇した(大導師)。袈裟の色(黒い枠に黄色)を見て、最初に解説をした加藤管主であることに気づいた。以下の「大導師作法」は、いろいろ特徴的で面白かった。たとえば仏の三十二相を申し述べる詞章があり、字幕スクリーンを追っていたが、「舌相広長覆面相」でちょっと笑ってしまった。リズムをとるのにカスタネットのような小さな楽器(鈸)を使うのも楽しかった。

 この法要は、日本語(漢文読み下し調)の唱えごとが比較的多いと感じた。「神分(じんぶん)」は、この法要のために来臨影向している神々に功徳を回向するもので、日本国主天照大神のほか、道馬権現、大津聖霊、天満天神、法相擁護春日権現など、気になる神名が挙げられている。

 大導師作法がだいぶ進んだところで、右列の右端の僧侶が合図の音を立てて、須弥壇の裏にいる堂童子頭を呼び、右列2番目の僧侶の足元に草履(?)を用意させた。何が始まるのかと思ったら、字幕に「咒師作法」という表示が出た。え、咒師(しゅし)!? 急に緊張して見ていたら、それまで何の変わったところもなかったそのお坊さんが、厳かに陀羅尼を唱え、袖の中で印を結び(たぶん)、銅鈴を振り鳴らす。乾いた音色は、東大寺修二会の咒師鈴と同じだ。

 おもむろに立ち上がった咒師は、足音のしない履き物を履いて、速足で内陣の周りをまわり、諸尊を勧請する。「四天王勧請」では、大声で四天王を呼ばわり、その場でくるりと一回転して、次の場へ急いだ。「乱声」では、舞台が暗くなり、法螺貝が吹き鳴らされ、鉦や太鼓が激しく打ち鳴らされる。咒師は時計回りに須弥壇の裏に消えたと思ったら、上手側から現れたときは、額に日の丸をつけた三角帽子を目深に被り、両手に抜き身の剣を構える異様ないでたちだった。反射的に思い出したのは、『風の谷のナウシカ』の二刀流剣士のユパ様である。はじめは二本の剣を頭上で交差させ(持剣指天)、次は剣先を下げて膝の前で交差させ(持剣指地)、最後は互い違いに構えた状態(持剣指天地)で登場した。その後も印を結んだり、鈴を鳴らしたりしながら、何度も何度も内陣を巡った。そして乱声が止み、何事もなかったように咒師が席に戻ると、短い作法があって、全ての供養が終わった。

 面白かった。薬師寺の花会式を、これまで一度も聴聞しなかった不明を悔やんだ。私は刀剣に興味がないので気づかなかったが、2016年には薬師寺で『仏教と刀』『噂の刀』展が開催されており、咒師作法の写真を使ったポスターが、一部では話題になっていたらしい(参考:Internet Museum)。

参考:綴る奈良 Vol.4:薬師寺花会式/登大路ホテル(これもなかなかいい写真!)

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趣味から学問へ/古物を守り伝えた人々(国学院大学博物館)

2020-02-14 23:59:19 | 行ったもの(美術館・見仏)

国学院大学博物館 企画展『古物(たから)を守り伝えた人々-好古家たち Antiquarians-』(2020年1月25日~3月15日)

 近世から近代にかけて好古家と呼ばれた古物の研究・蒐集家に焦点を当て、彼らの果たした役割を明らかにする企画展。私は、むかしからこの手の人々に関心と親近感を抱いてきた。その上、本展のポスターに松浦武四郎の大首飾の写真があしらわれているのを見て、これは行こう!と思い立った。

 本展に登場する好古家は、江戸時代から幕末維新期へと、時代順に紹介されている。江戸時代は、木内石亭、藤貞幹、木村兼葭堂。奇石愛好家として知られる木内石亭の著書『雲根志』は、大学生の頃、澁澤龍彦先生の随筆で覚えた。藤貞幹は有職故実家として認識していたが、毀誉褒貶があって、おもしろい人物なのだな。国学院大学図書館所蔵の考古遺物スケッチ図巻『集古図』が展示されていた。木村兼葭堂旧蔵の馬形埴輪(頭部の断片のみ)は、関西大学博物館から出陳されていた。

 幕末維新期は、蜷川式胤、ハインリッヒ・フォン・シーボルト(医師シーボルトの次男)、柏木貨一郎。柏木の名前は、すぐに思い出せなかったが、『沙門地獄草紙』の旧蔵者である(香雪美術館で見た)。江戸幕府小普請方大工棟梁の職にあったが、維新後は古美術蒐集家となり、のちに博物館御用掛となる。ええ~飛鳥山渋沢邸の建築は、建築家としての柏木の作品なのか。明治5年、仁徳天皇大仙陵の前方部で石棺などが発見されたときの記録画(写)が展示されており、ジブリアニメかと思うような、不思議なデザインだった。

 さらに、神田孝平、本山彦一、根岸武香、根岸友山、田中芳男らが収集した石製品、石棒、玉類、埴輪などが展示されていた。考古遺物好きは多かったんだなあ。松浦武四郎は、大首飾に加えて、大小の勾玉10個をつけた短い首飾も。また、武四郎と特に関係のない『曲玉連飾図』という絵画資料が出ており、翡翠や水晶などを長く連ねて首飾りとすることが、近世の考古家たちに流行していた裏付けと説明されていた。面白い。ちょっと中華風な感じもする。

 最後に、黒川真頼、落合直澄、井上頼圀・頼文・頼壽は、皇典講究所および国学院大学の関係者。江戸時代に成立した「国学」は、趣味の好古家を生むと同時に、考証学問としての好古(文学・史学・考古学・民俗学など)に流れ込んでいく。本展には登場しないが、折口信夫もこの先にいるんだなと思った。

 最後に、国立博物館設立の機縁となった大学南校物産会(明治辛未物産会)の目録、錦絵など。私大の博物館でこうした資料を見たのは初めてで、珍しかった。

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彦根藩士たちの執念/井伊直弼と横浜(神奈川県立歴史博物館)

2020-02-12 23:32:53 | 行ったもの(美術館・見仏)

神奈川県立歴史博物館 特別展・掃部山銅像建立110年『井伊直弼と横浜』(2020年2月8日~3月22日)

 ちょっと変わった、マニアックな特別展だと思いながら、気になっていたので行ってきた。横浜市西区掃部山公園には、幕末の大老・井伊直弼の銅像が建っている。井伊直弼(1815-1860)は日米修好通商条約に調印し、日本の開国・近代化を断行したが、強権をもって反対勢力を弾圧したため、安政7年(1860)桜田門外で水戸浪士らに暗殺された。

 開国という選択は結果的に正しかったが、華やかな維新の志士たちに比べると、井伊直弼の評価や人気はパッとしない。私は東京育ちだが、近年まで横浜に彼の銅像があることを知らなかった。たぶん初めて認識したのは木下直之先生の『銅像時代』(岩波書店、2014)で、直弼の銅像建立を思い立った旧彦根藩士らが、上野公園、芝公園、靖国神社、日比谷公園等に願い出るが受け入れられず、執念で横浜に建立するまでが紹介されていた。『木下直之を全ぶ集めた』(晶文社、2019)にも、ランドマークタワーと向き合う衣冠束帯姿の直弼像の写真が収録されていて、時空がねじれたようなミスマッチ感に強い印象を持った。そうした「予習」の上で、私は本展を見に行ったのである。

 旧彦根藩士の間で井伊直弼の顕彰活動が動き始めたのは明治14年(1881)頃。中心となった相馬永胤(1850-1924)は、旧彦根藩士で専修大学創立者、横浜正金銀行頭取でもある。本展には、専修大学が所蔵する相馬永胤の日記(小さなメモ帳に細かいペン字でびっしり書いている)や手紙、写真などが多数出陳されていて興味深かった。

 相馬らは、はじめ上野公園内に記念碑を建設することを願い出たが許可されなかった。国立公文書館に残る太政官文書によれば、「公園の風致が乱される」ことが理由とされている。明治26年には、横浜の根岸村に遺勲碑を建てることを願い出たが、直弼の政治上の是非は「識者の非難」を免れないという理由で却下されている。いったん下された同時代の評価を覆すことは厳しいんだなあ、と感じる。

 横浜の私有地を候補に選定したあとも、藩閥政府の横槍やら反対派世論の圧迫やら、いろいろあったが、明治42年(1909)銅像除幕式が行われた。作者は藤田文蔵。同じく藤田が製作した1メートルほどの小型の井伊直弼銅像が世田谷の豪徳寺に伝わっている。古めかしい束帯姿だが、面貌は個性的で、重厚感がある。なお、銅像と敷地は横浜市に寄付されて、同市が永遠に維持保存することになった。

 これでめでたしめでたしなのかと思ったら、苦難は続く。大正12年の関東大震災で被災し、台座ごと向きがずれてしまった姿が写真に残っている。復旧はしたものの、昭和18年には金属供出のため撤去されてしまった。再建されたのは昭和29年(1954)のことである。よかった!

 現在の再建像を製作したのは鋳金家の慶寺丹長。試作品(?)として、小さな全身像の模型と、巨大な頭部像が残っている。首だけすぱりと斬り落としたような井伊直弼頭像にはびっくりして肝を冷やした。何しろ、死に方がアレだから。

 不在の時期もあったが、井伊直弼像が横浜のイメージ・シンボルとして定着したことは、横浜開港百周年(1958)の記念切手や崎陽軒の弁当の掛け紙(1970年代くらい)からもうかがえる。しかし、近年は、少しずつ忘れられているのではないかと思う。

 本展には、彦根城博物館や埋木舎から、井伊直弼の茶の湯や能狂言、和歌に関する資料も多く来ていた。このひと、元来は仕事より趣味に生きていたんだな、と思うと親しみが湧いた。実は来月、彦根を訪ねる計画を立てている。昨年も同じ時期に計画を立てていたのに果たせなかったリベンジである。直弼ゆかりの埋木舎もぜひ行ってみたい。掃部山の直弼に会いに行くのは、そのあとの予定。

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はみ出し者の世界/江南の発展(丸橋充拓)

2020-02-11 22:37:56 | 読んだもの(書籍)

〇丸橋充拓『江南の発展:南宋まで』(シリーズ中国の歴史 2)(岩波新書) 岩波書店 2020.1

 「シリーズ中国の歴史」第2巻も面白かった。新石器時代の長江流域の諸文化、稲作の始まりから書き起こし、最後は南宋の滅亡で終わるという、超絶遠大な射程にもかかわらず、まとまりがある。「江南」というひとつの文化圏が、長い歴史の中を脈々と生き続けている姿を見るように思った。そして江南は周辺の海域世界と、文化的にも経済的にも強いつながりを持っており、日本もその文化経済圏の一部であることを実感した。黄河流域の「古典中国」をイメージしながら、日本と中国が一衣帯水とか同文同種とか言われても、ちょっと首をかしげたくなるが、日本と江南世界には、まさにそういう関係が成り立つと思う。

 黄河流域と長江流域の南北関係史が本格的に幕を開けるのは、春秋戦国時代の楚、呉、越。特に楚は、中原王朝に対抗する勢力のシンボルと見なされるようになる。漢帝国の崩壊後、江南には孫呉政権が成立した。孫権は、海上を通じて遼東半島や朝鮮半島、さらに東南アジアからその先(ローマ帝国の商人も来朝)まで、視野の広い国際戦略を展開した。昨年の『三国志』展でも、そのような孫呉の姿が紹介されていた。そして、積極的な全方位外交は「江南立国の王道パターン」となる。

 中原が五胡十六国の混乱期を迎えると、江南には亡命政権の東晋が成立する。東晋南朝は、次第に統一王朝の再建をあきらめ、江南を中華の中心として、海域諸国に朝貢をよびかけ、新たな華夷秩序を創出しようとした。そうか、梁の元帝が編纂した『梁職貢図』には倭国使の図があるのか(ただし倭国は梁に朝貢していない)。西方の胡蜜檀国の使者が梁武帝を「日出処大国聖主」と呼んだ記述があるというのも気になるのでここにメモ。

 より重要なのは、日本の貴族たちが六朝貴族の典雅な世界に「心をわしづかみ」にされていたこと(この表現、とてもよい)。日本の「国風文化」と思われているもの、かなりのところは六朝貴族文化へのオマージュだと思う。

 前漢後期に台頭した豪族は、累代にわたって朝廷の高官を独占し、地域一円に影響力を広げ、南朝(六朝)の貴族へと成長していく。ただし彼らが西欧中世のような、自立した「領主」にならなかったことに著者は注意を促す。中国の「貴族」とは、上は国家権力に依存し、下は地域社会の輿論に支えられる「領主未満の中間層」なのである。このことは、終章で、なぜ中国は近代的な諸価値(議会制民主主義や法治主義)と不調和を起こすのか、という問いを考えるときに再び参照される。ここには「世襲的身分制の解体が戦国時代から始まった中国社会には、利害調整・合意形成の当事者となるべき法共同体(中間団体)が存在しなかった」という一文を引いておく。

 隋唐と江南について、特筆すべきは煬帝。煬帝の陵墓が2013年に発見されたことも初めて知った(私が2000年頃に見学した旧煬帝陵は誤りだったことになっているらしい)。唐太宗の王羲之偏愛も江南文化への憧れと言える。文化だけでなく、法制や礼制の面でも隋唐両朝は南朝の制度を取り入れた。

 唐滅亡後、五代十国の混乱を経て北宋が成立する。貴族の没落、科挙官僚の台頭、皇帝権の強化、私的土地所有を前提とした両税法の定着など「唐宋変革」と呼ばれる大変革が行われた。江南では塩湖対策など技術的発展に後押しされて農業生産が増大し、商品経済も大きく発展した。しかし金の軍事侵攻によって華北を失い、杭州を仮の首都とする南宋が成立する。

 金の朝廷の内紛もあり、有利な条件で和議を成立させた南宋は、名君・孝宗のもとで繁栄する。江南の開発は順調に進み、流通経済は活性化した。海外貿易の利益は貴重な収入源となり、海域諸国との間には、定期的に朝貢使節を送る「華夷秩序」が形成された。さらに金軍やモンゴル軍に対抗するため、強大な水軍(海軍)も編成された。正直、南宋がここまで積極的な対外政策を取っていたとは思わなかった。

 唐帝国の後半から宋代にかけて、著者はときどき日本の歴史を参照している。たとえば南宋の孝宗は平清盛や後白河院と同世代という具合。海を隔てた両国の同時代性が分かって大変よかった。人物では、南宋の孝宗を初めて認識した。同時代の金の世宗も名君だったというのが興味深い。王安石の新法の説明も詳しくて面白かった。「構成員による広く薄いコスト負担のもと、労働とそれに対する報酬をガラス張りにする」と聞いて、ものすごく現代的な発想だと思った。

 中国社会には、垂直的な一君万民の「国づくりの論理」に対し、水平的に人をつなぐ「幇(ほう)の関係」があるという整理には全く同意。そして東方や南方は「一君万民体制と相性の悪い人びと」の溜り場であったというのも、知っている歴史や文学作品を思い出すと、微笑みながら同意できる。

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出土品でたどる古代/出雲と大和(東京国立博物館)

2020-02-09 23:54:12 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京国立博物館 日本書紀成立1300年特別展『出雲と大和』(2020年1月15日~3月8日)

 2020年は「日本書紀」が編纂された養老4年(720)から1300年にあたる。まあそれはよいとして、本展の開催趣旨をあらためて読んでみたら、日本書記の国譲り神話において、出雲大社に鎮座するオオクニヌシは「幽」、天皇は大和の地において「顕」を司るとされていることにちなみ、「幽」と「顕」を象徴する出雲と大和、島根県と奈良県が東博と共同で展覧会を開催するのだという。なんだか、取ってつけたような開催理由だなと思った。むしろ日本書記より古事記のほうが、出雲とオオクニヌシに親和的なイメージがあるのだが、私の記憶違いだろうか?

 ともかく、上記のようなコンセプトなので、会場の冒頭には天理図書館所蔵の『日本書紀・乾元本』(鎌倉時代・巻子本)の該当箇所が広げてあった。このほか天理図書館からは『古事記・道果本』(南北朝時代)や『播磨国風土記』(平安時代・三条西家旧蔵本)も来ていて、さすがだった。

 はじめの会場は出雲を中心に。2000年に出雲大社境内で出土した『宇豆柱』と『心御柱』や巨大な出雲大社本殿の模型が来ていた。そのほか、出土品の勾玉、銅矛、須恵器もあったが、鎌倉時代の釘、室町時代の鎧、江戸時代の御簾などが混然としていて、ちょっと時代感覚が混乱した。

 次の部屋へ進むと、加茂岩倉遺跡出土の銅鐸、荒神谷遺跡出土の銅剣・銅矛・銅鐸などがびっしり並んでいて(数で圧倒される)ようやく「古代出雲」の空気に触れた気になる。両刃で中央に鎬(しのぎ)を持つ、細身で扁平な銅剣は、後世の日本刀とは異質な姿だが、中国古装ドラマではなじみの武器である。倚天剣を思い出しながら見ていた。

 後半は大和が中心。黒塚古墳から出土した三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡1面が全て来ていた。橿原考古学研究所附属博物館の特別展『黒塚古墳のすべて』で見たことを思い出し、さらにドラマ『鹿男あをによし』を思い出して、懐かしかった。三角縁神獣鏡は島根県でも出土していて、その1面は「景初三年」の年号を持つ舶載品であることから、卑弥呼に贈られた可能性が高いとされている。魏の宮廷では司馬懿が曹叡(明帝)に手を焼いていた頃だな、とまた中国ドラマを思い出したりする。

 大和地方の古墳は、それぞれ出土品に個性があって面白かった。石釧や車輪石など石製品の多い島の山古墳、巨大な野焼き焼成の埴輪を有する宮山古墳、準構造船部材(8メートルを超える大型船の一部)が出土した巣山古墳など。ヤマト王権は大陸との交流により、さまざまな文物や技術を導入した。

 五條市五條猫塚古墳出土の『蒙古鉢型眉庇付冑』(5世紀)には驚いた。ドラマ『三国機密』で使われていた冑にそっくり。ただし眉庇を付けたのは日本オリジナルだそうだ。石上神宮の七支刀、藤ノ木古墳出土の馬具などは、初めて見るものではないが、じっくり見ると新しい発見があった。藤ノ木古墳出土の『金銅装鞍金具』には、さまざまな動物や異形の怪物(鬼神?)が描かれているのだな。

 初めて存在を知ったのは、石上神宮で「日の御盾」と称されているという鉄盾2面。シンプルな長方形で、大人が身をかがめて後ろに隠れるに十分な大きさだ。全体に鉄鋲で補強されており、儀礼用ではなく実戦用に思える。これもよく中国ドラマで、盾を隙間なく組み合わせて、敵の飛び道具を避ける場面が出てくるヤツだ。

 最後は「仏の伝来と政(まつりごと)」と題し、大和・出雲の古仏が紹介されていた。島根からは鰐淵寺の観音菩薩立像2躯、萬福寺(大寺薬師)の四天王像など。記憶を掘り起こすと、島根県立石見美術館の『祈りの仏像-石見の地より-』や京博の特別展観『山陰の古刹・島根鰐淵寺の名宝』で見たものではあったが、再会できて嬉しかった。特に私は、生命感にあふれる萬福寺の四天王像(平安時代)が好き。大和からは、当麻寺の持国天立像が来ていた。悪そうな顔で、曹操のイメージである。石位寺の浮彫伝薬師三尊像は初めて見た。おにぎりみたいな三角形の石(やわらかそう)に倚像の薬師如来と立像の脇侍を刻む。屋内で保管されていたせいか、7-8世紀の作とは思えない明確な彫り。寺外で公開されるのは初めてだそうで、これを見るためだけでも、本展は行く価値がある。

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まだ地下にいる/映画・パラサイト 半地下の家族

2020-02-08 23:51:57 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇ボン・ジュノ監督『パラサイト 半地下の家族』(2019年)

 話題の映画を見てきた。なるべくネタバレは避けていたが、「怖い映画だ」という感想は聞いていたし、数種類あるポスターの一部には、横たわる死体(?)の足が映し込まれたデザインがあることも知った上で、不穏なストーリーを覚悟して見に行った。しかし怖かった。前半の、不可解で不合理だが、なんとか日常とつながった世界が、終盤で一気に崩壊して「別世界」に行ってしまう感じが怖かった。

 失業中のキム・ギテクと妻・息子・娘の四人家族は、半地下アパートに住み、わずかな内職収入をたよりに極貧生活をしていた。あるとき、息子ギウは、大学生の友人ミニョクから、自分が留学する間、パク家の家庭教師をつとめてくれないか、と頼まれる。学生証を偽造し、大学生になりすましたギウは、丘の上の豪邸に住むパク家を訪ね、若くて単純なパク夫人に気に入られ、女子高生ダヘの心もつかむ。

 パク家の幼い息子ダソンはインディアンごっこに夢中の悪戯っ子で、パク夫人を悩ませていた。絵の家庭教師を探していると聞いたギウは、知り合いの専門家を紹介すると言って、妹ギジョンを送り込む。さらにギジョンはパク氏の運転手として、父キム・ギテクを送り込む。こうして一家四人のうち三人が高収入の仕事を得ることに成功するが、唯一目障りなのは、長年パク家に仕えている家政婦だった。三人は計略をめぐらせ、ついに家政婦を追い出し、代わりにキム家の母チュンスクを送り込むことに成功する。

 パク家の四人がキャンプ旅行に出かけた晩、キム家の四人はパク家の豪邸で酒盛りをし、我が家のようにくつろいでいた。天候が悪化し、大雨の中、解雇された元の家政婦がインターホンに現れ「地下室の忘れ物をしたので取りにきた。入れてほしい」と哀願する。

 以下【ネタバレ】になるが、パク家の豪邸は、地下室のさらに下に隠し部屋(北朝鮮のミサイルに備えたシェルター)があり、そこに家政婦の夫が、借金取りから逃れて隠れ住んでいたのだ。はじめは低姿勢だった家政婦だが、キム家の四人がぐるであることに気づくと、パク家にばらすと騒いでキム家を追いつめ、キム家に代わって、パク家のリビングで堂々とくつろぐ。そこへ、大雨のため、予定を変更して帰宅するというパク夫人からの電話。進退窮まったキム家の四人は、力づくで家政婦とその夫を地下室へ押し込め、悪事の露見を回避する。チュンスクをパク家に残し、ずぶ濡れで我が家に戻ったギテクと子供たちは、半地下の家が屋根近くまで水に浸かり、家財の一切を失ったことを知る。

 翌日は天気も回復し、パク家の庭ではダソンの誕生日パーティが開かれることになった。招待に応じて集まっていくる上流人士たち。キム家の四人もその中に紛れていたが、ついに自力で地下室を脱出した家政婦の夫が刃物を持って現れ、復讐の惨劇が始まる。

 惨劇の直前、ギジョンはチュンスクのつくる料理を味見しながら「これを地下の二人にも持っていってあげよう」と話してたが、パク夫人が話に割り込んだため、実現しなかった。それから、鼻持ちならないエリートのパク社長は、キム・ギデクの「臭い」が我慢ならないと言いながら(これはギデクに聞かれてしまう)、別のところでは「一線を踏み越えない態度はとてもよい」と評価している。こうした好意が相手に伝わっていたら、惨劇は避けられたかもしれないのに、小さなボタンの掛け違えから、とてつもなく大きな不幸が起きるところに現実味があって、とても怖い。

 また、物語の序盤に、ギウが友人ミニョクから「富をもたらす」山水景石を貰うシーンがある。ここからキム家の幸運がスタートするのだが、惨劇の引きがねになるのもこの山水景石で、因果応報の昔話のような怖さもある。

 キム・ギテク役のソン・ガンホは、ひとつの役の中で、ユーモア、卑屈さ、狡猾さ、怒りなどの複雑な変化を表現している。映画『タクシー運転手』のときも思ったが、私の見た韓国映画(そんなに多くない)の八割方は彼の出演作品である。パク社長役のイ・ソンギュン(声がよい)、パク夫人役のチョ・ヨジュンは、本人に悪気はないが、庶民の反感を買うセレブ夫婦役にぴったり。

 結末では「実はまだ地下にいるのです」というつぶやきが胸に浮かんだ。つげ義春『李さん一家』の「実はまだ二階にいるのです」を思い出したのである(もう話の筋は忘れているにもかかわらず)。

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蘭州牛肉麺「思泊湖」@末広町

2020-02-03 22:21:35 | 食べたもの(銘菓・名産)

ずっと気になっていた神田末広町の「思泊湖」で蘭州牛肉麺を食べてきた。

麺はスタンダードな細麺にした。もちもち柔らかくて好み。ラー油は控えめ。パクチーは物足りなかったので、追加を頼んで正解だった。

このお店は、ほかにも牛肉焼きそばとか牛肉醤油煮込み麺とか、さまざまなメニューがある。中でも注目は陝西省のビャンビャン麺。まずは蘭州ラーメンにしたが、次回はビャンビャン麺を食べに行こう。マニアックなメニューにもかかわらず、気軽に入りやすい店構えなのもよかった。

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理事・副学長の回想/危機に立つ東大(石井洋二郎)

2020-02-02 21:21:07 | 読んだもの(書籍)

〇石井洋二郎『危機に立つ東大:入試制度改革をめぐる葛藤と迷走』(ちくま新書) 筑摩書房 2020.1

 東大の経営事情に特別な関心はないし、著者の名前も知らなかったが、たまたま貸してくれる人がいたので読んでみた。著者の専門はフランス文学で、東京大学大学院総合文化研究科(教養学部)に籍を置き、2015年から2019年まで五神真総長の下で理事・副学長をつとめた。

 本書には4つの大きなトピックが取り上げられている。その1は、濱田純一前総長の任期中に生じた「秋入学問題」。外国人留学生の受入れと東大生の留学を増やすため、大学の学事暦を国際標準に合わせようというものだ。著者によれば、この問題は30年以上前から政府の審議会等で議論されており、新しいアイディアではないという。東大では、2011年4月に秋入学検討のための懇談会が立ちあげられていたが、一般の教員は何も知らないまま、同年7月、新聞が「東大、秋入学へ」を報道するに至った。このニュースを見たことは覚えており、私はただの野次馬として、東大も思い切ったことをやるなあ、と感心したものだった。

 しかし、秋入学への移行だけで大学の国際化が進むわけではなく、合格から入学(授業開始)までのギャップタームのケアがなければ、学生は無駄に遊び暮らすのではないか等、著者が指摘する懸念はもっともである。最終的に秋入学構想は後退し、代わって「総合的教育改革」が議論されるようになった。

 以下は五神体制下で著者が理事・副学長として経験したトピックになる。その2、2015年6月のいわゆる「文系軽視」通知。これに対して著者は、文系/理系という二分法に疑問を呈し、科学知(自然科学・社会科学・人間科学)/人文知という学問分類を提唱している。

 その3「英語民間試験問題」について、2014年9月の有識者会議の報告書に始まる経緯を振り返る。ここで奇妙に感じられるのは、文科省以上に民間試験利用に積極的な(と見える)国立大学協会の動きである。東大は、2018年3月に入試担当理事が民間試験利用は「拙速」という表明をしたにもかかわらず、4月には、国立大学協会のガイドラインに従って民間試験を活用するという「方針転換」を発表する。本件は、本書の4つの事例の中で最も分かりにくかった。

 その4「国語記述式問題」。私は、このことについては政府の方針があまりに馬鹿馬鹿しくて、本気で情報収集し分析する気になれなかったが、2017-2018年に実施された記述式プレテストについて紅野謙介氏が『国語教育の危機』という著書で綿密な批判的分析を行っていることを知った。本書の「記述式」批判は、「人文知」を支える「言葉にたいする敬意」に基づく理念的なもので、共感はできるけれど、むしろ紅野先生の分析を読んでみたい。なお、その3とその4の問題が、昨年末、思わぬかたちの暫定的結論に至ったのは周知のとおりである。

 どの事例についても、著者の批判はたいへん真っ当だと思う。だが、著者が現状批判の鑑とする「あるべき大学(東大)の姿」が、私にはとても心もとない。「国の政策なのだから従うのが当然である」という諦念・思考停止を表明する人々が学内外(重要なのは学内)にいることに、著者は「驚かずにはいられなかった」というけれど、過去の大学はそうでなかったということ? そんな雰囲気はいつまであったのだろう?

 最後に著者は、大学の本来の使命は「思考を熟成させる静謐なゆとりの時間(スコレー)と、自由に言葉の飛び交う白熱した空間(フォーラム)を醸成し、可能な限り多くの人々に提供すること」だと述べている。東大の先生方、特に人文知にかかわる方々が、同様の理念を掲げ、実現に努力してこられたことを思い出す。一方で、年々貧しくなるこの国を、経済的に豊かにしなければ、医学や工学の金のかかる研究も、修学支援も実現できないことも明らかだ。稼げるタネがそこにあるなら、大学は、この国の未来のために稼がなければならないのだと思う。著者のいう「変わらぬ良識と矜持」「知的興奮と感動」だけでは、もはや学生を世に送り出し続けることはできないのではないか。

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意外な機能性/ひだ(文化学園服飾博物館)

2020-02-01 22:03:03 | 行ったもの(美術館・見仏)

文化学園服飾博物館 『ひだ-機能性とエレガンスー』(2019年12月20日~2020年2月14日)

 久しぶりに同館を訪ねた(日祝休館なので、なかなか行けていなかったのである)。本展は、世界各地の民族衣装やヨーロッパのドレスなど、ひだが作り出す機能性とエレガンスを紹介する。

 展示のはじめに「ひだの種類」の解説があって、ギャザー、シャーリング、スモッキング、プリーツ、タック、フリル、ドレープという名前が並んでいて、そうか、確かにあれもこれも「ひだ」だな、と妙に感心する。フリルとかプリーツとか、服飾的にはフェミニンなイメージで、自分が着るのは苦手に感じていたが、最初の展示室は「機能的なひだ」がテーマだった。

 華やかなイブニングドレスや可愛い民族衣装に混じって、男性用のデニムの上下を着せたマネキンがあって、え?どこにひだ?と思ったら、注目すべきはジャケットの袖付きの後ろ。アクションプリーツと呼ばれる折り込みによって、腕の動かしやすさを実現しているのだ。

 モンゴルのハラート(袍)は全体にゆったりと大きく、腰のあたりにタックを取って、スカート状の下衣をさらに広げている。馬の乗り降りがしやすいようにできているという説明に納得した。日本の袴(男性用・女性用)も韓国のチマ・チョゴリも、「動きやすさ」のためにひだを取り入れているのだな。

 中国の苗(ミャオ)族の女性の衣装、台湾のパイワン族の男性の衣装は、ひだの細かいプリーツスカートを用いていた。山岳地帯に暮らす民族は、険しい山道を歩くため、足や膝の動きを妨げないものを下半身にまとう。なるほど~。世界各地で男性がスカート(状のもの)を穿く理由が「機能性」にあることがやっと分かった。ギリシャのフスタネラという男性用民族衣装は、白のブラウスに白のミニプリーツスカート、紺のベストがとてもおしゃれだった。もっと日本でもスカートを穿く男性が増えればいいのに。たぶん見慣れてしまえば何ということもないと思う。

 昔の技術で細かいプリーツをどうやって作るのかは不思議だったが、板の上でひだを寄せながらしつけ糸で縫い、蒸して固定するそうだ。苗族のスカートは、卵白などを塗布してコーティングし、固く張りを持たせるという説明があった。

 続いて「寒い地域」「暑い地域」「昼夜の寒暖差が大きい地域(砂漠地帯など)」における、ひだの機能性。寒い地域では、暖かい空気を身体のまわりに溜めて逃がさないようにするために、ひだが用いられる。襟元や袖口は締めるのがポイント。布地の厚みも増すし、確かに暖かそうだと思った。一方、暑くて湿気のある地域では、ひだのある1枚布でゆるやかに身体を覆う。すると空気が通りやすく、入れ替えもしやすいのだそうだ。インドのサリーは、むかしシンガポール旅行でお土産に買って帰ったことがあるが、きれいなひだをつくって着るのは難しかったなあ。ドーティという腰布を巻き付けてパンツに見せるものも、不器用な私には穿ける気がしない。

 寒暖差の大きい地域では、空気を「溜める」「入れ替える」2つの機能を併せ持つ衣装が必要となる。布地をたっぷり使ったギャザーパンツが紹介されていたが、どうやって着る(穿く)のか、よく理解できなかった。

 もう1つの展示室は「魅せるひだ」。ひだを用いた衣装は、布をたくさん使うことで豊かさやステイタスをあらわす。男性の衣装としては、身体を大きく見せる効能もある。なるほど、日本の武士の正装である裃(特に肩衣)もそうだな、と思う。武家の女性用の火事頭巾が出ていて、ひだというより、丈の違う生地の重ね方が、ティアードスカートみたいで愛らしかった。

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