見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

いのちを見せる/動物園巡礼(木下直之)

2018-12-15 23:41:53 | 読んだもの(書籍)
〇木下直之『動物園巡礼』 東京大学出版会 2018.11

 何の前情報もなく書店でめぐり合ったので、ええー木下先生、今度は動物園か、と目を白黒させながら購入して大事に持ち帰った。そもそも巡礼の発端をさかのぼると、2004年に文学部で開講した「上野細見」という講義で、学生たちを上野動物園に連れていったことがあるそうだ。その後、2009年には大学院人文社会系研究科で講義「近代日本の文化政策-動物園とは何か」を開催し、東大出版会の『UP』誌に2011年から2017年まで連載していた「動物園巡礼」が本書のもとになっている。

 本書に登場する「巡礼先」は、日本動物園水族館協会(JAZA)加盟の動物園だけでなく、協会に加盟していない小さな動物園や歴史の彼方に消えてしまった動物園の跡も数多く含まれる。本書に教えられたことはたくさんあるが、ひとつは動物園の動物は意外と移動しているということだ。オラウータンのミミは、密輸入されて神戸・北野異人館街で保護されたあと、神戸、豊橋、福岡、再び神戸、天王寺、再び福岡の動物園を転々とした。沖縄生まれのカバの楽平は、別府、丸亀、大牟田の遊園地を移り歩き、その後の行方は杳として知れない。古い話では、戦後、インドのネール首相から贈られたゾウのインディラは札幌、旭川、函館まで巡回した。さらに遡れば、明治22年の憲法発布式には、大阪の興行師が所有するゾウのキー坊が参加したが、大阪に戻る途中、東海道横田川(野洲川のことか?)に架かる橋を踏み抜き、怪我が悪化して死んでしまったそうだ。

 動物園の動物といえば、狭い檻の中で一生を終わるイメージで、本書は、それを簡単に不幸と言えるのかという問題提起がされているが、人間の都合であちこち連れまわされる動物たちは、やっぱり可哀想だと思う。井の頭動物園のゾウのはな子はストレスで人間を二人殺してしまい、鎖につながれてゾウ舎に閉じ込められた。飼育員との間に信頼関係を築き、完全に体を回復するまで八年を要したという。東山動物園の飼育員浅井力三は、三頭の若いゴリラの飼育に奮闘するが、神経質なゴリラは、飛行機の爆音、バキュームカーの振動、落雷、人間の侵入等、怯えるとすぐに下痢をし、食欲を失った。やっぱり、動物園暮らしは、動物にとって苦痛が大きいんじゃないかなあと思う。

 動物のストレスを緩和する努力は続けられてきた。本書には上野動物園の「おサル電車」に関する章があって、私にはなつかしかった。は1948年に開通したおサル電車は大人気を博し、1972年には不忍池畔の西園に移動して、車両も大型化する。しかし、翌年秋に「動物の保護及び管理に関する法律」が制定されたことから1974年に廃止される。本書には、開通当初の小さな電車(幼児しか乗れない)と、サルの訓練に努力した飼育員の松尾清一の写真が載っている。私は大型化したおサル電車の記憶しかないのだが、松尾は、人間の都合で車両が大型化し、サルは運転席につながれるだけになってしまったこと、それを虐待と名指されたことに怒りを表明している。

 私が子どもだった頃は、このほかにも動物園や遊園地に動物のショーはつきものだったが、今ではすっかり影をひそめ、代わって動物の本来の姿を見せる「行動展示」が主流となっている。しかし水族館では、相変わらずイルカやアシカのショーが行われているというのは興味深い指摘である。

 それから、同じ展示施設である博物館や美術館と、動物園は何が違うのかという問題も興味深かった。明治政府は博物館の付属施設として、動物園(動物学園 Zoological Garden)の導入を進めた。しかし戦後、戦争で疲弊した市民を楽しませる娯楽施設の役割を期待されたことに加え、動物園は公園管理部局の所管になることが多く、教育施設からは遠ざかってしまった。しかし、昨年行われた京都国立博物館と京都水族館の連携企画『京博すいぞくかん』を思い出してみると、今後、博物館・美術館と動物園・水族館の連携には大きな可能性がある。

 また、最終章には「日本一地味、されど最先端」をうたい文句にし、地元の動物を中心に展示する富山市ファミリーパークが紹介されている。近年、テレビやネットを通じて、珍しい動物の生態を映像レベルで見ることが容易になった反面、身近な動物に触れる機会が極端に減ってしまったことを考えると、こうした取組みには確かに先進性があると思う。
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クリスマスリース2018

2018-12-11 22:03:50 | なごみ写真帖
今年もこの季節になったので、いつもの花屋さんで購入したクリスマスリースをドアに飾る。

あまりクリスマスらしくないピンクのリース。よく見ると唐辛子が混じっているのだ。



引っ越していないのに、昨年とドアの色が違うのは、昨年末、アパートの大家さんが塗り直しをしてくれたため。

そして昨年のリースは捨てる機会を逸して、まだ取ってあるので、ドアの内側に飾ってある。

少しずつ、年末気分。
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東博の常設展・善無畏像(国宝室)と斉白石(東洋館)

2018-12-10 23:32:39 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館 本館2室(国宝室)兵庫・一乗寺蔵『善無畏像』(2018年11月27日~12月9日)

 『善無畏像』の展示がこの週末までだったと気づいて、慌てて見に行った。国宝室の展示は、だいたい1箇月交替なのだが、この作品に限っては、週末を2回しか挟まない短期間だった。見逃さないでよかった。私の大好きな絵画なのである。深々と頭を垂れた横顔、合掌する大きな手、波打つ赤い衣、そして椅子の下に無造作に脱ぎ捨てられた沓(くつ)へと視線を上下させてしまうので、縦長の印象が残るが、意外と横幅がある画面だなと思った。左隅の小さな毘沙門天像には、おや、そういえばいたな、という感じ。それにしてもこの絵は本当に好き。私が年を取って、展覧会や寺社詣でに出かけられなくなったら、(複製でもいいから)この絵を部屋の壁に掛けて、ずっと眺めて暮らしたい。祈りの対象である神仏の姿より、この祈る老僧の姿を見ていたい。そう思っている。

■東洋館8室 日中平和友好条約締結40周年記念 特別企画『中国近代絵画の巨匠 斉白石』(2018年10月30日~12月25日)

 続いて東洋館へ。北京画院の所蔵品を通じて、中国近代絵画の巨匠・斉白石(せいはくせき、1864-1957)の人と芸術を紹介する展覧会。前期にも来ているので、これが2回目の参観である。「1089ブログ」に京博研究員の呉孟晋さんが「日本の近代でいえば、日本画壇を牽引した横山大観の知名度に、繊細な画風で孤高を貫いた熊谷守一の芸術をあわせたような存在」と書いているのは言い得て妙。私は、むかし京博の常設展を見に行くのが好きで(現在の平成知新館の位置に平常展示館があった頃)その中国絵画コーナーで、いつの間にか斉白石の名前を覚えた。若冲とか芦雪の大胆でスタイリッシュな描写に通じるところがあって、すぐ好きになってしまった。

 こんなにまとめて作品を見るのは初めてのことで、とても嬉しい。展示資料は、印章、画筆、筆洗なども含め126点。絵画は80点くらい。やっぱり「花木」と「鳥獣」がいいかなあ。墨画にわずかな色彩を加えたものが好き。斉白石は、徐渭、石濤、八大山人、呉昌碩などの影響を受けて画風を確立したというが、本展を見ていると、八大山人への敬慕が尋常でない。私も八大山人好きでは人後に落ちないので、推しが一緒の白石先生には強い親近感を感じた。これとか、



これとか、



これとか、めちゃくちゃ分かる!!



これは白石先生独自の作。薄墨で描いたリス、紫の淡彩を施した葡萄が美しい。



 余談ながら、解説に「白石は」とあると、この間まで見ていたドラマ『那年花開月正圓』の影響で「白石(バイシー)」という中国音で読んでしまう自分に苦笑してしまった。
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個人コレクションの奥深さ/顕われた神々(金沢文庫)

2018-12-09 22:10:26 | 行ったもの(美術館・見仏)
神奈川県立金沢文庫 特別展『顕われた神々-中世の霊場と唱導-』(2018年月11月16日~2019年1月14日)

 予想以上にあやしくて(褒めてる)すごい展覧会だった。国宝・称名寺聖教に含まれる唱導資料(儀礼や説教の台本)と関連する美術作品によって、伊勢神宮や春日大社、八幡宮など様々な神々のすがたをを紹介する。主催者である金沢文庫の立場からは唱導資料を主としているが、見る者としては、やはり仏画や仏像に関心が向く。

 まず1階の展示室に入ったところに3躯の仏像・神像。烏帽子姿で指貫の上で袈裟をまとった銅造の男神像が伊豆山権現立像(伊豆山神社)であるのはすぐ分かった。近年(2016年頃)の保存修理で錆が除去され、面目を一新したそうだ。確かに私が2006年にこの像を見たときの記録には「表情も分からないほどの緑青に覆われ」と書いている。

 隣りに素地仕上げの十一面観音像(平安時代、小田原文化財団)。丸顔で目が一文字のように細く、唇がぽってり厚い。頭上は高く盛り上がり、十一面は全く彫刻を施さず、ただ卵形の物体が並んでいて、南国の植物のようだ。膝下と足のつけねあたりにU字形の天衣が二重にかかっている。しばらく眺めて、今回のポスターになっている仏像だと気づいた。本像は神像=本地仏として造立された可能性が高く、白山社の本地仏と考えるのも一案であるとのこと。その関連か、隣りには銅造の男神像(個人蔵、美濃の長滝白山神社伝来)も並んでいた。山岳信仰関係の神体に銅造のものが多く見られるのは、仏像を意識したためと考えられる。逆に本地仏は木造の神像と同様、素地仕上げや衣文の省略が見られるというのが、とても面白い。

 2階に上がると、所狭しと並んだ仏画・仏像。『伊勢参詣曼荼羅』2幅(小田原文化財団、室町~桃山時代)はかなり古風でのどかな素朴絵ふうでよい。外宮の側に金色の日輪、内宮の側に胡粉を塗った月輪(?)が描かれる。春日宮曼荼羅、鹿曼荼羅、富士参詣曼荼羅など。あまり見た記憶のない「個人蔵」が多くて、ドキドキする。

 大将軍神社ふうの男神坐像、腹の前でだらりと拱手した男神立像(つぶれた烏帽子が印象的)、左手に弓を握り、どんぐり眼で正面を凝視する随神坐像(体つきが自然でリアル)が全て「個人蔵」なのにも驚いた。以上は全て平安時代で、素地仕上げの神像である。鮮やかな彩色の残る、男神1と女神2の三神坐像、美豆良(みずら)頭の童子形の(八幡)若宮坐像は鎌倉時代。これらも個人蔵。あと、八幡神(僧形)と仲津姫命の正面像をそれぞれ描いた1対の華鬘(南北朝時代)も面白かった。こんなものがあるのか。図録の解説に「薬師寺八幡宮で所用されたものが巷間に伝わったのかもしれない」という。現在は個人蔵。

 いや別に、これらが全てひとりの「個人」に帰すわけではないのかもしれないが…美術館や博物館が所蔵しているのって、美術品全体のほんの一部なんだな、ということを実感した。金沢文庫は2016年にも、『称名寺聖教・金沢文庫文書』の国宝指定を記念して「普段あまり見る機会の少ない個人蔵の神像や仏像、仏画などの仏教美術作品」を紹介する展覧会を開催してくれているし、こういう活動はとても嬉しい。

 仏画は、茨城・妙安寺の『春日赤童子像』(室町時代)、茨城・千妙寺の『騎馬護法童子像』(鎌倉時代)、伊山文庫の『雨宝童子像』(室町時代)、神奈川・正念寺の『熊野権現影向図』(室町時代)なども面白かった。南北朝時代の『大黒天像』は、大股で歩む大黒天がかついだ袋の円の中に八臂弁財天と十五童子を描く。隅の方に白狐に乗った荼枳尼天もいるという、何だか分からない図像で南北朝らしい。現地では大黒天の姿が見えにくかったが図録で把握。

 どうしても仏画と仏像に目を奪われてしまうが、唱導資料の文書もかなり興味深いものが出ていた。今では忘れられた信仰と伝承の面白さ。天竺月氏国の島が飛来してきて富士山になったとか、諏訪明神は天竺から渡来したとか、『大神宮本縁』によれば、イザナギとイザナミが天玉鉾を下ろして五角の嶋を見出すと「一面六臂赤色咲怒之王」が登場して金輪王と名乗り、国土を譲られたとか。『日本得名』によれば、伊勢の二見浦の海底には「大日本国」という銘の入った金札があるという。こういう混沌とした中世の神話世界、好きだ。記紀神話もいいけど、日本人は記紀神話だけで生きてきたわけじゃないのよねえ。
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過ぎ行く時を愛しむ/中華ドラマ『那年花開月正圓』

2018-12-06 22:03:42 | 見たもの(Webサイト・TV)
〇『那年花開月正圓』全74集(2017年、華娯楽投資集団股份有限公司)

 中華圏での高評価を聞いていたところに、今年8月からチャンネル銀河が放映を始め(邦題:月に咲く花の如く)、日本の視聴者の間でも話題になっていることが分かった。これは見たほうがいいなと思ってネットで原版の視聴を始め、日本放映の最終回に少し遅れて、完走することができた。

 時代は清朝末期。陝西省涇陽(現在の咸陽市)に実在した呉氏のファミリー・ヒストリーを基にしている。孤児の周瑩は、養父の周老四とともに大道芸と詐欺で気ままに各地を渡り歩いていた。涇陽に至った周老四は、周瑩を商家の沈家に下働きとして売り、時期が来たら二人で逃げ出す計画を立てる。ところが沈家の次男・星移は周瑩を見初めてしまう。全くその気のない周瑩は、沈家を逃げ出し、呉家東院の若旦那・呉聘に助けられる。

 呉家は沈家のライバルでもある大商家。呉家東院では商人を志す若者たちのために私塾を開いていた。講義を立ち聞きして、商売に興味を抱く周瑩。その溌剌とした姿に呉聘は惹かれていく。呉家東院の当主・呉蔚文は周瑩の才能を認めつつ、商売には「誠信」が必要であることを厳しく教え込む。この序盤では「あさが来た」みたいな女商人の成功物語になるのかなと思っていたら、もっとどす黒い陰謀が渦巻き、善人も悪人もどんどん死に、推理・復讐・冒険活劇、剣撃あり、ビジネスバトルあり、波乱万丈の展開が待っていた。もちろん笑いとロマンスも。

 あるとき、軍に納品した薬材の偽造疑惑に端を発し、呉聘が暴漢に襲われ、意識不明となる。占いによれば、酉の刻に婚礼を挙げれば助かるというので、呉聘の許嫁・胡詠梅に使者が差し向けられるが、父の胡志存は呉家の将来に不安を感じて娘の嫁入りを許さない。花嫁が来ないと分かって落胆する呉家の人々。思わず周瑩が「我来!」と名乗りをあげてしまう。そして奇跡的に意識を取り戻した呉聘。周瑩は呉家東院の「少奶奶」(若奥様)になるが、礼儀も教養も知らないため、呉家の人々とさまざまな軋轢を起こす。沈星移は周瑩の奪還を諦めず、沈星移の父・沈四海は、貝勒爺(実在の皇族・載漪)に仕える杜明礼によって次第に悪の道に落ちていく。

 やがて呉聘の急死(毒殺)、呉蔚文の逮捕と獄死という不幸が呉家を襲う。災いをもたらす「災星」呼ばわりをされる周瑩。お腹にやどっていた呉聘の遺児を流産し、命も奪われかけるが、養父・周老四と沈星移に救われ、呉家の再建に乗り出す。以後、時には販路を求めて迪化(ウルムチ)まで旅をし、機械式の織布局を立ち上げ、上海で西洋人との取引を勝ち取り、呉家の繁栄を確かなものにする。さらに夫・呉聘を殺害し、義父・呉蔚文を誣告した真犯人も突き止める。一方、沈家のわがまま次男坊だった星移も少しずつ成長していく。上海に出て商売を覚え、新しい文明を知り、「変法」と「革命」に関心を抱く。変わらないのは周瑩への思い。周瑩もそんな星移に惹かれているのに、なかなか二人は一緒になれない。敢えて書かないが、最後の最後まで結末が読めず、わくわくハラハラし続けた。

 登場する男性が次々に周瑩に惚れてしまうのだが、それをご都合主義に感じさせない魅力が周瑩(孫儷)の造形にあった。最初の夫・呉聘(何潤東)は、いかにも大家の若旦那らしい、おおらかでまっすぐで温かな人柄。呉家の人々に殺されかけた周瑩が、思い出の呉家を離れることができず、その再建に奮闘する気持ちは分かる。沈星移(陳曉)は、変化していくキャラクターが面白い。そのほかにも、ウルムチで出会った西域人の大富豪・図爾丹(トゥーアルダン)(高聖遠)は真正面から周瑩にプロポーズする。呉家東院の管家(番頭)となる王世均(李沢鋒)は、思慕の情を抑えて周瑩に忠誠を尽くす。涇陽の県令として登場し、陝西巡撫まで出世する趙白石(任重)も、万事型破りの周瑩に次第に惹かれていく。はじめはみんな子供のように好き嫌いの感情に動かされるのだが、ストーリーの進展とともに、それぞれが自立した大人として、相手を思いやれる関係に変わっていくのが味わい深かった。

 もうひとり、印象的だった男性キャラは、杜明礼(俞灝明)。沈四海に悪どい商売をさせて利益の上前をはね、ボスの貝勒爺に献上して、地位の保全に腐心している。小心で貪欲。その一方、呉聘の許嫁だった胡詠梅に、純な恋心を抱き続ける。人並みの幸せを望めない境遇であるがゆえに、ひたすら金銭に執着する姿は、心を許した相棒の査坤(李藝科)とともに哀れを誘った。

 以上には、私の知っている俳優さんがひとりもいないのだが、周老四役の劉佩琦さんは、どこかで見たことがあると思ったら、映画『北京ヴァイオリン』(原題:和你在一起)のお父さんだった。本作でも、大ぼら吹きで手癖も悪いが、どこか憎めない父親を演じている。ウルムチで西域人に化けて、あやしい中国語をあやつる姿には大爆笑。沈四海役の謝君豪さんが『三国機密』の曹操だったことも、調べるまで気づかなかった。

 終盤、義和団事件の影響で北京から西安に落ちのびた西太后と光緒帝が、涇陽の呉家東院に滞在するエピソードがある。御前に召された周瑩は「父祖の伝統も大切だが、西洋の文物も悪くない」と述べて不興を買ってしまうが、涇陽からの去り際、西太后は周瑩に暖かい言葉をかける。確か、その後の西太后は、積極的に西洋文明を取り入れるようになったはずで、うまい史実の取り入れ方だなと思った。

 なお、中国語の原題はストレートに訳しにくいが、英文の副題「Nothing Gold Can Stay」はきれいな訳だと思う。アメリカの詩人ロバート・フロストの詩の一節で、美しいもの(善きもの)は儚い、という意味らしい。大切な人に何度も先立たれながら、短い生涯を生きた周瑩を見事に象徴している。
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2018年12月:湯島で歳末フレンチ

2018-12-05 23:30:05 | 食べたもの(銘菓・名産)
むかしの職場の友人たちと集まって、湯島のフレンチレストラン「コーダリー」で食事。

先日、国立近現代建築資料館を訪ねるとき、近くのレストランを探していて、偶然見つけたお店。あのときは、ゆっくりできそうになかったので、あきらめて再訪を期してよかった。ランチとはいえ、慌ただしく過ごしたら損をするお店だった。













住宅街にひっそりたたずむ隠れ家みたいなレストラン。味もよく、目にも楽しいお料理の数々。久しぶりに贅沢な時間を過ごした。また行きたいなあ…。

今日は仕事のメールも見ないで寝る。
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見逃せない古筆/東西数寄者の審美眼(五島美術館)

2018-12-03 22:44:46 | 行ったもの(美術館・見仏)
五島美術館 特別展『東西数寄者の審美眼-阪急・小林一三と東急・五島慶太のコレクション』(2018年10月20日~12月9日)

 阪急電鉄の創業者小林一三(逸翁、1873-1957)と、東急グループの基礎を築いた五島慶太(古経楼、1882-1959)が蒐集した美術品約100点を紹介する展覧会。9月に大阪・池田の逸翁美術館でも見てきたのだが、東京・五島美術館にも来てみた。はじめに五島慶太から小林一三宛ての書簡が2点あって、東京人ではやや知名度の低い小林一三という人物を紹介するかたちになっている。

 前半で妍を競うのは、五彩蓮華文呼継茶碗(銘:家光公)(逸翁美術館)と鼠志野茶碗(銘:峯紅葉)(五島美術館)。二人それぞれのコレクションを象徴する逸品として、ポスターのビジュアルにも取り上げられている。大坂でも見たが、五島美術館のほうが展示位置が低いため、自然と茶碗の中を覗き込むかたちになり、違う姿を見ることができて面白かった。前者は、継ぎ目にたっぷり垂らし込まれた金泥が贅沢でいい感じ。「呼継」とは、異なる器を継ぎ合わせる技法だというのを初めて知って驚く。「峯紅葉」は、茶碗の内側にも模様が描かれていることに初めて気づいた。

 壁まわりの展示ケースには、絵画(平安・鎌倉絵画→江戸絵画)、古経、古筆、墨蹟を並べ、中央の低い展示ケースには陶芸を並べていた。絵画は『佐竹本三十六歌仙絵』の藤原高光(逸翁)と清原元輔(五島)に再会。多武峯少将高光はさすがのダンディぶり(前回も同じことを書いた)。下襲の裾の裏側が少し見えている。芦雪の『降雪狗児図』は東京まで来てくれてありがとう!

 古筆は、大阪会場で見られなかった継色紙を見ることができて感激。五島の「めづらしき」は何度か見たことがあるが、逸翁の「あまつかぜ」は、初見かもしれない。私がこの作品に惚れたのは『芸術新潮』2006年2月号「特集・古今和歌集1100年 ひらがなの謎を解く」だと思うので、12年間、恋焦がれてきたのである。もちろん文化遺産オンラインなどのデータベースで画像を見ることはできるのだが、今回、この作品の表具がとてもオシャレであることを知った。継色紙は、2枚の方形の料紙を並べたかたちをしているが、右側のほうが少し茶色が濃い。そしてこれに合わせたように中回しに茶色の市松模様が使われている。上下の一文字も焦げ茶で、たいへん品がよい。

 ヘンな表現だが、石山切が惜しげもなくガンガン並んでいるのもすごかった。逸翁・五島両館の石山切(伊勢集1、伊勢集2)のほか、逸翁美術館所蔵の手鑑『谷水帖』は、石山切(貫之集1、伊勢集3)が開けてあった。私は伝・定頼筆「烏丸切」も好き。墨蹟が五島ものばかりなのは大阪会場と同じ。

 展示室2は、漆芸・染織に加え、逸翁の茶会(昭和22/1947年11月1日)と古経楼の茶会(昭和25/1950年5月1日)が再現されていた。前者には五島慶太が招かれており、後者には小林一三に加え、畠山即翁や松永耳庵が招かれている。最後に二人の年表を眺めて、逸翁は翌日の茶会の準備中に発作で倒れ、急逝したことを知る。宝塚の音楽葬で送られたというのは、創設者だから当然だけど、心温まる話だ。1957年1月に亡くなったあと、同年10月に逸翁美術館が開館。美術館を見ることがなかったのは残念である。五島慶太の場合は、五島美術館の起工式には列席しているが、やはり開館を見ることなく亡くなっている。心残りだったかもしれないが、素晴らしいコレクションを残してくれてありがとう。
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伝世の名品と出土資料/新・桃山の茶陶(根津美術館)

2018-12-02 23:01:22 | 行ったもの(美術館・見仏)
根津美術館 特別展『新・桃山の茶陶』(2018年10月20日~12月16日)

 和物茶陶ならではの魅力に溢れた「桃山の茶陶」の特別展。「新」を冠するのは、同館が平成元年(1989)にも桃山の茶陶を紹介する展覧会を開催した経験があることを踏まえ、本展では、その後およそ30年間の研究の進展を取り入れ、最新の桃山の茶陶の世界を紹介するためである。30年前の桃山の茶陶展はさすがに見ていない。当時の私は、まだ陶磁器に全く興味がなかった。

 本展は始まりから名品が並ぶ。冒頭には徳川美術館の白天目。黒土の素朴な茶碗に白い釉薬(正確には灰釉が白く発色したもの)をてろりと掛けまわし、金の覆輪を嵌める。腰から高台にかけては素地が見える。貫入多め。釉薬のたまりが緑色を呈しているのも見どころ。ほのぼのと自然で愛らしい姿。次に黒っぽい備前の水指と花生。和物茶陶の中では備前の使用は最も早いそうだ。それから、信楽、黒楽茶碗、黄瀬戸、奥高麗…。

 黄瀬戸の立鼓花入(銘:旅枕)(和泉市久保惣美術館)は珍しい形で面白かった。所蔵者を見ていると、藤田美術館、MOA美術館など各地の名品が集合している中に「個人蔵」がけっこう混じっているのが気になる。茶陶の世界は奥深い。そして国宝の志野茶碗(銘:卯花墻)も来ていた。

 展示室の奥に進むと、何やら見慣れない展示ケースがある。魚の水槽みたいに天井が開いたケースで、仕切られた各区画にみっしり陶器や陶器片が並べられている。これらは京都市内各地の発掘調査で見つかったものだ。特に注目すべきは京都文化博物館の東側一帯で、天正・慶長・元和の頃(16世紀末~17世紀初め)「京都三条瀬戸物屋町」(瀬戸物はやきもの全般を言う)が成立していたことが分かっている。展示は「弁慶石町」「中之町」「下白山町」「福長町」「油屋町」という発掘地点ごとに出土資料を並べている。面白いのは、それぞれ明らかに個性があること。年代の違い、仕入れ先(?)や販路の違いもあるのだろうが、店主の好みのようにも見える。たとえば「中之町」は比較的織部が多く、色もかたちも多様で、柔軟でモダンな感じがするが、「下白山町」は、伊賀・信楽・備前など、武骨で歪みを強調した造形のものが多い。それぞれの店主の顔が想像すると面白い。

 また、古田織部の京屋敷跡である「四坊堀川町」の出土資料も展示されている。織部桐文角皿は、大いに肩の力の抜けた(あまり織部らしくない)うつわ。なぜか石製の永楽通宝模倣品があったのが気になった。こうした発掘調査は、住宅や商業ビルの建設・増築に際して、少しずつ進められているらしい。気を長く持って、その成果が蓄積されていくのを待ちたい。

 後半は、織部、志野、高取、絵唐津など。志野はだんだん好きになって来た。梅文向付がとても可愛かった。10口あって、手描きの絵が少しずつ違う。露草のような草の葉のまわりに五弁の小花を自由に散らしてあるのだが、そもそもほんとに梅文なの?と微笑ましくなる文様。これ個人蔵なんだなあ。いいなあ。鼠志野も好き。織部は黒が好きだ。特にほぼ無地の織部黒茶碗(ひん曲がった沓茶碗)が気に入った。楽茶碗の黒とはまた異なる魅力の黒。でも、やっぱり私は絵唐津がいい。芦文徳利(根津美術館)、松樹文大皿(個人蔵)など伝世品は少なめだったが、出土資料の中に絵唐津らしいものがたくさんあって満足した。

 展示室5は手鑑。展示室6は「茶人の正月 開炉」で、なるべく桃山茶陶を避けて構成しているように思えたが、私の考えすぎだろうか。
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おいしいもので満腹に/給食の歴史(藤原辰史)

2018-12-01 00:23:54 | 読んだもの(書籍)
〇藤原辰史『給食の歴史』(岩波新書) 岩波書店 2018.11

 偏食の激しかった私は給食が嫌いだった。小学校高学年のとき、校舎改修のため給食を中止になったことと、給食のない私立中学に通えたのは幸いだった。もし給食が続いていたら、学校生活の記憶は最悪で、私はかなり歪んだ性格になっていたと思う。それはさておき、本書は世界の給食史を概観したあと、日本の給食史を、萌芽期・占領期・発展期・行革期に分けて記述していく。

 萌芽期(19世紀後半から敗戦まで)。日本近代の給食は、就学者を貧困層にも拡大しようとする国家制度が整えられていく中で生まれた。通説では、1889年、山形県鶴岡町で仏教系の私立忠愛小学校の取組みは最初と言われている。地方自治体による本格的な学校給食が始まるのは1919年の東京府で、その最大の功労者は、栄養学の父・佐伯矩(ただす)だった。東京府は栄養素がバランスよく配合されたパンを使った。同じ頃、牛乳の給食を始めようという動きもあった。弁当持参や民間委託に対する批判、災害や飢饉における給食の重要性、貧困児童に与える「スティグマ」の回避などの諸問題が、この時期、すでに出揃っている。

 次に占領期(敗戦後から1952年まで)。1945年8月に戦争は終わっても、食糧危機と子どもたちの飢えは続いた。各地の教師たちが、政府の施策を待たず、自発的な給食に取り組んだ。これは初めて聞く話。教師たちが、農家から野菜をもらってきたり、野草や山菜を集めたり、学校でパンを焼いたりしていたなんて。やがてGHQ公衆衛生福祉局のサムス局長と文部省・厚生省の官僚たちの尽力によって、戦後の給食制度が始動する。まずは有名なララ(LARA)物資。「輸入食糧物資感謝の歌」に「学校給食感謝の歌」、「ララ」を詠み込んだ良子皇后の御歌まであるのか。敗戦国・日本の疲弊ぶり、外国(端的にはアメリカ)の好意によって、なんとか生きのびた瀕死の重病人だったことをあらためて知る。

 しかしもちろん、アメリカにはアメリカの思惑があった。「白米だけを食し、他の食物はあまり食べないという国民のそれまで食習慣」を変えることで、アメリカの余剰農農作物や余剰乳製品を日本に売り込む地ならしをする戦略である。サムスが「熱狂的なミルク主義者」だったというのが可笑しい。

 GHQの置土産は、発展期(占領後から1970年代まで)に効果を発揮する。学校給食は廃止の危機を乗り越え、1954年に学校給食法が成立し、1957年全国学校給食会連合会(全給連)が結成され、制度化が達成された。アメリカは、1952~53年に小麦の記録的な大豊作に見舞われ、余剰農作物を西側陣営への食糧援助に投入することにする。米の不作に悩んでいた日本にとって、安価は食糧が入手できるのは喜ばしいことでもあった。しかしこの結果、日本国内で麦の市場開拓とともに米食批判の勢いが増したというのは、原因と結果が逆立ちしているようで、わけわからないけど面白い。

 1960年代以降、国民1人あたりのコメ消費量が大幅に下がり、小麦の消費量は微増している。また1960年の安保条約改定によって貿易の自由化が開始されると、脱脂粉乳の輸入が急増する(ええ!)。占領期以来の給食で小麦や乳製品になじんだ子どもたちが、60年代から本格的に消費行動を始めたのではないかという推理が興味深い。また、この時代でも貧しい農村には欠食児童が存在し、地域の保護者や教師たちの懸命の努力によって給食が実行されていた。都市部では給食の味つけや栄養価が問題にある一方、僻地では完全給食の実施が先決だった。

 いよいよ最後の行革期(1970年代から現在)。新自由主義と行革の嵐が吹き荒れる中、給食の民間委託やセンター方式、調理員のパートタイム化が進んだ。これに対して、批判や反発、さまざまな運動が生まれたにもこの時期である。現在では、地域の食材を利用した地産地消給食など、多様で充実した給食が試みられている。同時に子どもの貧困は深刻化しており、「飢えをしのぐ」ための給食の重要性は変わっていない。「満腹」を求めることと「おいしいもの」を求めることは決して矛盾しない。「子どもたちの生存をおいしい食事で確保する」ことこそ給食の使命と言えるだろう。給食を「まずい」「貧しい」としか思ったことのない私には、夢のようで、少し甘酸っぱい結論である。
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建築物で知る台湾/台湾へ行こう!(藤田賀久)

2018-11-28 23:55:54 | 読んだもの(書籍)
〇藤田賀久『台湾へ行こう!:見えてくる日本と見えなかった台湾』(スタディーツアーガイド 1) えにし書房 2018.10

 今年も年末に台湾へ行く計画を立てている。2泊3日のショートツアーだから、見られるものは限られているのだが、そろそろガイドブックでも買おうと思っていて、この本を見つけた。豊富なカラー写真と、一般の観光ガイドでは見たことのない珍しい建物・史跡の数々が気になって購入を決めた。

 実際に読んでみたら、冒頭に「台湾の至る所に残る『過去の日本』に気づけば、日本と台湾の深い結びつきに足を止めたくなります」という一節がある。私は、過去の日本と台湾の深い結びつきを見つけることが、いつも嬉しく懐かしいとは思わない。時には胸の痛みを感じさせるものもある。それから台湾の魅力も、日本との結びつきが全てだとは思わない。基本は中華文化圏だし、原住民文化もあるし、南島文化圏の一部とも捉えられるし、台湾にはいろいろな顔がある。そのように理解した上で、台湾に残る「日本の痕跡」に私は興味を持つ。

 本書は、台北・台中・台南・嘉義・高雄に金門島まで、台湾全土にわたって、日本統治時代と関係する建築物を紹介する。現在の中華民国総統府が旧・台湾総督府であるなど、台北の官庁街に日本統治時代の建築物が集まっているのはよく知られたところ。全く知らなかったのは、たとえば国立中正紀念堂の裏手から大安森林公園までのエリアに、和風建築が多く残っていること。リノベートされた和風レストランや和風喫茶店もあるそうだ。ほかにも西門街の近くには、西本願寺派台湾別院があった場所に日本風の鐘楼が再建されているとか、MRT剣潭駅の近くに圓山水神社の碑と石灯籠が残っているとか、興味深い。

 もっとすごいのは桃園神社で、台湾で唯一社殿が残っている。写真を見ると、日本のどこかの風景にしか見えない。「台湾に残る神社の足跡」には、九份の金瓜石黄金神社(行っていない)や台南の林百貨店の屋上にある末廣社(ここは行った)などが紹介されている。まあしかし、旧統治時代の神社については、荒廃するにせよ復元されるにせよ、現地の人たちに任せてそっとしておくのがいいんじゃないかと思う。

 なお本書には、日本統治とあまり関係のない建築物も混じって紹介されている。台北でいえば、清代の街並みである剥皮寮(ポーピーリャオ)。まあ台湾全土が日本統治時代を経験しているので、この剥皮寮も日本統治とまるで無関係とは言えないのであるが。台南の鄭成功祖廟や安平のゼーランディア城、高雄の鳳山旧城の説明も詳しい。近代の史跡では、桃園に蒋介石・経国父子の眠る両蒋文化園区がある。かつては台湾中に蒋介石像が建てられていたが、次第に嫌われるようになった彫像が各地から集められ、現在219体が展示されているという。これ、木下直之先生はご存じだろうか? ぜひルポを書いてもらいたい。
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